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「HUNTER×HUNTER」のドキドキ2択クイズと今後の展開について

 「HUNTER×HUNTER」の第1巻、ハンター試験会場に向かうゴンたち一行の前に立ちふさがる人々がいました。その道を通るためには、5秒以内にある問いに答えなければなりません。それは、ハンター試験における選別の一環であり、「ドキドキ2択クイズ」という名前がついていました。

 

「どちらか一方しか助けられないとき、母親を助けるか恋人を助けるか」

 

 その問いには単純な答えがありません。であるがゆえに答え方は様々でしょう。ある男は、クイズを出したのがお婆さんであることから、ウケが良さそうと考えて「母親」と即答し、その道を通ります。そしてレオリオは、どちらであろうと、自分のとって大切な誰かを犠牲にするようなものを選択させとするお婆さんに怒り、問いに答えずに殴りかかろうとします。クラピカはそんなレオリオを制止し、このような答えのない問いには「沈黙」こそが正しい答えであるという結論に至ります。

 お婆さんは、安易な答えを出さなかったゴン、クラピカ、レオリオの3人にハンターの資質があることを認め、目的地への道を通してくれました(ちなみに安易な答えを出した男は、通された道の先で魔物に襲われてしまったようです)。しかし、ゴンは道を通してくれたあとも考え続け、それでもやはり答えが出せないことを嘆きます。

 これはただのクイズであるかもしれません。でも、そんなシチュエーションに実際に遭遇してしまう可能性はあるはずです。両方を選ぶことができないという残酷な状況が、この先の人生で来ない保証は全くありません。これは試験の道程です。試験とは、ある目的に対して条件を満たす者を選ぶ工程です。であるならば、2択のクイズに安易な答えを出さないこと、そして、それが起こりうることに想像を広げることは、ハンターの資質にどう関わるというのでしょうか?

 このクイズはハンターハンターという物語の中で非常に重要な要素を示唆しているのではないかと僕は思っています。

 

(この先、現時点での最新である34巻のネタバレがあるのでご注意)

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 ハンターハンターは、ある種の選択の物語ではないかと思います。登場人物たちに、どちらか一方が正しいとは言いにくいAとBの2つの選択肢が存在する状況がもたらされ、多くの場合、そのAでもBでもない、その問いそのものをぶち壊すような答えCが掴みとられて実践されるという形式で進行します。

 ハンター試験の中では、多数決によって扉が開くゲームや、不自由な2択、残り時間を賭けるゲームなどの形式で、模式的に選択の構造が繰り返されました。そして、プロのハンターとして世界を冒険するようになったあとでは、これらの選択が実戦の中で実践されるようになります。

 例えば、小さな部屋に拘束され、目の前には扉と敵という状況があります。敵は強く正面から戦っても勝てる可能性は低いです。戦って逃げるか、戦わずに拘束され続けるか、その2択を迫られているように思うでしょう。しかし、ゴンが出した結論は違います。壁を蹴破り、扉以外の出口を作ることでそこから逃げます。どちらか一方を選ばなければならないようなシチュエーションで、そのどちらも選ばないということがまさに実践されます。

 

 「選択」とは何かというと、そのひとつの解釈は「誰かが誰かに提示するもの」でしょう。相手に対してAかBを迫るとき、問いを作成する立場ならば、相手がどちらを選んでも自分が有利になるものを考えるはずです。つまり、2択を迫るということは、本当はあるはずだった無数の選択肢を大幅に刈り取り、目の前には2つの道しかないように錯覚させるテクニックです。であるからこそ、選択肢を提示する権利を相手に認めた時点で、既に負けていることもしばしばです。

 最新の34巻で行われたヒソカvsクロロの戦いは、まさにそのようなシチュエーションでした。ヒソカはクロロに十分な準備の時間を与え、クロロは入念な準備をもとにヒソカの前に選択肢を提示します。自分が使っている能力が何であるかを特定するための沢山のヒントをばらまき、ヒソカにそれを類推させるための手がかりを与えます。ヒソカが、その選択肢を読み取ることで、クロロの状況を特定しようとします。つまり、その時点ですでに非常に不利な状況です。

 ヒソカは、クロロが喋ったことに嘘はないという前提での解釈を試みますが、嘘とは言っていなかったとしても曖昧な表現が混ざっています。暑いの反対は暑くないであって、寒いではないというような、論理の隙間を利用し、ヒソカの思考を誤誘導することで、罠がかけられています。思考の瞬発力に優れたヒソカは、クロロの言葉と目の前の光景から瞬時に正解に辿りつきますが、それはあくまで用意された正解であって、真実とは異なります。この戦いにおいてヒソカはクロロに敗れますが、それはつまり、クロロの用意した選択の中から正解を選ぼうとしてしまった時点で既に概ね負けていたのではないでしょうか?

 

 選択を提示するということは、それは用意された道です。ハンターの資質を、未知のものを追い求めること、未踏を舐ることとするならば、用意された正解のある問いに取り組む時点で、その資質に欠けると考えるしかありません。新しいことに取り組むとき、そこに誰かが用意してくれた正解はありません。なぜなら、誰かが用意してくれた時点でそれは新しくないからです。

 学生の勉強でもそうでしょう。学校が用意してくれた試験には、採点のための正解があります。それはその時点で取り組む学問が新しい道ではなく、今まで誰かが切り開いてくれた道を辿る行為でしかないからです。場合によっては出題者の意図を読むことが試験に合格するための最適解であるでしょう。しかし、それは新しいことに挑戦する上ではむしろ不利なことかもしれません。なぜなら、今まで誰もやったことがないことについては、出題者がおらず、読むべき意図がないからです。それまで手がかりになっていたものが、まるで役に立たない状況がやってくるからです。

 

 大学の研究では、このギャップがしばしば学生を苦しめます。それまで誰かが用意した答えがある問いを解いてきた経験から、自分の取り組むことになる研究の正解を、先生が既に知っていると誤解してしまったりするからです。立てた仮説が間違っていた分かることは、研究における重要な進捗ですが、ここを誤解し、立てられていた仮説こそが正解であって、その結果がでないことを悪いことのように考えてしまう人もいます。その考えは、出た実験結果をごまかし、仮説の立証に使えるような結果の捏造に手を染める道にも繋がります。

 研究には誰かが用意してくれた正解がないということ、もし誰かが仮説を用意してくれたとしても、それはあくまで仮説であって事実かどうかを確かめるには実験検証が必要であるということ。そのような考えに実感を伴って至るためには、それまでの誰かが用意してくれた正解がある道から、別の道への方向転換が必要で、学部の研究ではそれに躓く人もいて、修士でなんとかやりきれるようになり、博士ならようやく完全にやれるようになるというような、そういった難しいものではないでしょうか?

 それゆえ、学部の頃の成績が良かったからといって研究者として大成するとも限らず、学部の頃の成績が合格ギリギリであったのに研究者として大成するような人もいます。なぜなら未踏に取り組む資質は、試験では測りにくい分野だからです。

 

 ドキドキ2択クイズが示唆するのは、その2つからどちらかの選択を選ばなければならないと思考を狭窄してしまう時点で、未知のものに取り組むに適した感覚が乏しいということではないでしょうか?クラピカが、マフィアのノストラードファミリーに入るために受けた試験では、敵の姿を勝手に想像したせいで、その誤解から組織を危険にさらしてしまった男が処刑された姿が登場しました。想像するということは、その想像における正解を模索するということです。もしその想像が的外れであった場合、それまで手にあった正解はむしろ不正解かもしれません。相手が何であったとしても勝つということは、安易な正解を手に入れて安心しないということでもあるのです。

 

 さて、最新34巻では、カキン王国の王位継承のための戦いが始まります。このエピソードでは、クラピカに焦点が当たっているのではないかと僕は思っていて、なぜならカキンの第4王子ツェリードニヒは、猟奇的な人体収集家であり、クラピカが探し求めている仲間たちの目もその中に含まれているからです。ヒソカとの戦いを終えたクロロもその場にやってこようとしています。クロロは幻影旅団のリーダーであり、幻影旅団はクラピカの仲間たちを皆殺しにし、その美しい輝きをたたえた目を奪った張本人です。

 クラピカにとって因縁のある人々が同じ場所に集結しようとしてします。奪われた仲間たちの目の多くを取り返しつつあるクラピカは、その復讐と奪還を人生の糧としてきた経緯から、仮に目的を達したとして、その後、どう生きればいいかも見定まっていません。

 また、ハンターハンターのアニメ映画において配られた小冊子において、作者から「旅団もクラピカも全員死ぬ」という言葉が提示されています。それは人はいずれ死ぬということなのか、物語上でそこに至るということなのか解釈の幅はありますが、それが何らかの結論に至るのかこのエピソードではないでしょうか?

 

 ドキドキ2択クイズには、選択することの意味の他に、もうひとつの読み取り方があると思います。それはつまり「人の命に価値の差をつける」ということです。「母親」と「恋人」、あるいは「息子」と「娘」、どちらか一方しか助けられないということは、残りの一方を犠牲にするということです。これはどちらかに価値があり、どちらかに価値がないということを決断しなければいけない行為です。

 このクイズにおいてレオリオが怒ったのは、ここにポイントがあるのではないでしょうか?なぜならば、レオリオがハンターを目指した根本には、「命の価値に差がつけられた」ということがあるからです。レオリオは金のためにハンターを目指しました。それは、金がないために親友が死を迎えたからです。決して治らない病気ではなかったのに、金がないために治療を受けることができませんでした。だからレオリオは医者になろうと思いました。そうすれば、同じ病気で金がない人でも自分が助けてあげられると思ったからです。それは命の格差を埋める行為です。しかし、医者になるためにも多額の金が必要でした。金がないためにその道も阻まれてしまいます。金があるかないかだけで、命の価値に差がつけられてしまいます。誰かの命に価値があり、誰かの命に価値がない、その考えに一番憤っているのはレオリオでしょう。

 物語の冒頭でゴンは、その人を理解したければ、その人が何に対して怒るかを知るべきであると教えてもらったと言います。レオリオは命の格差に怒ります。何かの条件があるかないかだけで、人の命の価値に差がつけられています。許せるわけがないでしょう。「人の命は平等である」、それはきっとレオリオの生き方の根幹にあるものだからです。

 

 一方、カキンの第4王子ツェリードニヒ・ホイコーロは、その真逆に位置する男です。命には貴賤があり、人には価値のある存在と価値のない存在があるという認識を持っています。価値のある存在とは自分自身、価値のない存在とはそれ以外の全てです。ツェリードニヒは、自分の快楽のために、他人の命を消費します。王子と言う強権的な立場を利用し、まるで他人の命をぞんざいに扱えば扱うほどに自分の命の価値が上昇するとでも思うかのような行動をとります。ツェリードニヒは同じ立場の他の王子たちも無価値であると思っています。人は平等ではない。人の価値には差がある。そして価値ある命とは唯一自分自身である、という強大なエゴの権化である存在こそがツェリードニヒです。

 幻影旅団のリーダーであるクロロもまた、命の価値を認めない男のひとりです。しかしながら、彼はツェリードニヒとは異なります。なぜならば、自分自身を含めて、命は平等に無価値であるというような思想を持っているからです。自分が人質になったときにも、自分を犠牲にして旅団を生かすという結論にすぐに至ります。旅団の生まれた土地である流星街は、人間の価値がとても低い場所でした。流星街の長老は人間を爆弾に変える能力を持っていました。長老は、流星街にあだなす存在に、住民を爆弾に変えて送り届けます。たった1件の出来事のために、30人以上の住民を爆弾に変えた自爆テロを引き起こしました。長老は人間の命に価値を認めていません。そしてクロロもそんな長老から盗んだ能力を携え、その考えに共感を示します。

 旅団は盗むために殺しも行います。殺すことに胸を痛ませることはありません。旅団のメンバーはなぜそうなのか?クロロはそのリーダーとして、自分がなぜそうであるのかを探求するような生き方をしています。

 

 彼らと対比して、クイズに「沈黙」を選んだクラピカは人間的です。この場合の「人間的」とは、「どちらかを選ぶということに迷いがある」ということです。それが例えばツェリードニヒやクロロならば、選ばされる2択はどちらも価値がない命として、迷いなくどちらかを選び取ることができるでしょう。クラピカは復讐のために冷徹な人間になろうとしても、その心の中には迷いがあります。ヨークシンシティでも旅団との戦いでは、「復讐」と「仲間の安全」を量りにかけ、仲間を選び取ってしまう迷いと優しさを持っていました。

 

 ツェリードニヒは人に命に格差があり、価値のある命と価値のない命があるという考えに疑いを持ちません。一方、クロロは人の命には平等に価値がないと思っています。そして、レオリオは人の命は平等で、全てに価値があるはずという考え方です。今後、クラピカはこの中で何かしらの結論に至るのでしょうか?

 ドキドキ2択クイズでは沈黙し、何も選ばなかったクラピカが、その後の残酷な現実の中で、来るべき「選ばざるを得ない状況」についに到達してしまうのかもしれません。それが苦しみを抱えて生きてきたクラピカにとって、何らかの安寧をもたらす結果に繋がることをただただ願ってやみません。

「シェンムー」と「龍が如く」の繋がりを妄想をしたけど特にそんなことはなかった話

 セガのゲーム機、ドリームキャストで発売された「シェンムー」がすごく好きで、学生時代に色々な遊び方をしながら4回通りはクリアしたと思います。シェンムーとは、格闘ゲームバーチャファイターをベースにしたRPG、として企画されたゲームで、中国人マフィアに父親を殺された主人公が、父が殺された謎とその仇の男を追って中国(まずは香港)に渡るというストーリーなのです。このゲームは章立ての物語として発表され、第一章として発売されたゲームは、昔の横須賀の町を舞台に、香港に渡るまでを描いたものでした。

 シェンムーの何がよかったかというと、いまひとつ上手く説明ができないのですが、僕はあのゲームの中で生活をしていたという気持ちがあります。本筋の物語として用意されていた目標もそこそこに、街を歩き回り人と会話し、バイトにせいをだして、ゲームセンターに入りびたったり、ガチャガチャを回したりして生活していたのです。僕はこのゲームを大学の部室でやっていることも多かったので、「いつもシェンムーをやっている人」と後輩に思われていたということもありました。

 何年か前のあるとき「そういえば学生時分はよくフォークリフトを運転したなあ」などと思い出したものの、それは実はシェンムーの中の体験であると、ワンテンポ遅れて気づいてしまうというようなことがありました。ゲームの中の話ですが、それは既に思い出なのです。あの夕暮れの公園で、ベンチに座っていたご老人に掌底重ねの技を教えてもらったのも、僕が現実に体験したことではなくシェンムーだったのです。

 

 シェンムーは香港から中国本土に渡るまでを描いたシェンムー2もやったのですが、こちらは1ほどはやり込まず、1回クリアしたぐらいでした。しかし、遂に正ヒロインが登場し、謎の一端が明らかになるというラストシーンの展開から、まさかその続きが出ないとは思わず、それからずーっと待っていたのです。

 シェンムー3の開発のためのクラウドファンディングが開始されるという報せを見た瞬間、僕はお金を出すという決断をしました。金額は少し考えましたが300ドルを投げ込みました。

 ただ、この金額は、僕の中では「新作のゲームを手に入れるための対価」ではないのです。僕はシェンムーを中古で980円で買ったので、あれだけ遊んだにも関わらず、ゲームの全体の売り上げには直接貢献しておらず、そして、売り上げに貢献しなかったゲームの続編が出ないことにずっと引っかかるものを抱えていたのでした。だから、その300ドルはこれまでの感謝と、このゲームが好きであるという自己表現の手段であったのです。浄財です。だから既に目的は完遂しています。さらにおまけにあの物語の続きが新作ゲームとして遊べるということなので、非常にお得な感じだなあと思いました(当初予定から発売の延期が発表されましたが、気長に待ちます)。

 

 さて3の開発が発表に至るまで、僕はシェンムーの続編をずっと待っていたのですが、モバゲータウンにおける「シェンムー街」のリリースや、中国で「シェンムーオンライン」が開発中であるという話を聞きつけ(立ち消えたようですが)、それがシェンムー3には続かなかったことでがっかりを繰り返していました。それだけに、3が発表されたときはとても嬉しくなってしまいました。

 しかし、僕は感情表現があまり得意ではないので、それに実際に大声を上げて喜ぶということは苦手で、できません。ただ、ネットの配信で見知らぬ外人がシェンムー3の発表に大声を上げて狂喜乱舞していた様子に、なんだか大変救われた気持ちになりました。僕は喜んだ顔も思うほどできず、嬉しい声も思うほどあげられませんが、こんなにも喜んでくれている人がいる。この人だけじゃなく、他にも沢山喜んでいる人がいるということをとても嬉しく思いました。クラウドファンディングのお金がみるみる集まって行く様子を、わがことのように喜んでリロードして確認をしました。本当に嬉しい気持ちになったんですよ。

 

 さてようやく本題ですが、シェンムー3が発表される前までの間、僕が抱えていた妄想があります。それは、シェンムーの単独続編の製作が難しいなら、同じセガから販売されている「龍が如く」シリーズが世界観としてどうにかして繋がってくれないかというものです。

 龍が如くシリーズは、歌舞伎町をモデルにした街を舞台に、ヤクザの抗争をモチーフにしたゲームです。僕はこちらもとても好きで、昨年末に発売された最新作である龍が如く6もクリアしました。6はシリーズ主人公の桐生一馬の物語としては最終章だったのです。とても面白かったのです。

 龍が如くシリーズには、シェンムーの遺伝子のようなものを感じています。まず街を作り込んで再現するということ、そしてそこに登場する日本人の普通の(そして奇妙な)老若男女との交流の中で、多くのストーリーを体験するということ。ゲーム内ゲームセンターの存在や、多人数を相手にした格闘アクションなど、シェンムーに存在したものを、膨らませたり簡素化したりして取捨選択し、そこに新たな要素も付加してより多くの人に届けるゲームとして再構成しているように思いました。

 龍が如くには、シェンムーの一章にあったような、町中の登場人物たちが時間や曜日に応じた生活パターンで独自に行動したり、家の中のタンスを隅々まで開けられるような、偏執的な作り込みはありません。それらは、当時としてはやり過ぎと言ってもいいほどの作り込みと思えるからです。しかしながら同時に、そのやり過ぎた作り込みこそが僕がシェンムーにとても心ひかれた部分でもあります。

 ゲームにおける大規模プロジェクトをマネジメントするための方法論からしてまだ手探りであっただろう時代に、数十億円の開発費をかけて偏執的な作り込みがされたゲームが誕生したこと自体を僕は素晴らしいことだと思っていて、それがあったという事実をとても愛しく思っているのです。

 そこから比較すると、龍が如くシリーズは良くも悪くも洗練されているように思います。どこに力を入れてどこに力を入れないかの取捨選択がきっちりされています。作り込みは必要な部分にのみ注力されていて、シリーズとして毎年のように新作が出るというきっちりとした製作の管理がされています。

 僕は龍が如くのストーリーが好きで、細部のばかばかしさが好きで、アクションゲーム部分が好きで、ミニゲームも好きで、ひたすらちまちまと色んなことを達成していくというゲームの構造が好きなので、毎年のようにその新作を遊んでいます。その一方、僕はシェンムーのことも少し思いだし、それがなくなってしまったことに胸を痛めていたのです。

 

 で、この龍が如くシェンムーの物語が繋がってくれさえすれば、シェンムーの続編を待望する僕の願望が叶えられるのではないかと考えていました。そして、僕はそこにいくつかの関連性を強引に見出していました。

 龍が如くの主人公である桐生一馬は背中には「応龍」の刺青が入っているのですが、応龍とは、中国の古代の王である黄帝とともに蚩尤と戦ったとされる龍です。そして、なんとシェンムーにおける敵役が属する組織の名前が蚩尤門というのです。蚩尤と戦うシェンムーの主人公、芭月涼黄帝になぞらえるならば、共に戦う桐生一馬はその仲間となります。この事実に気づいたとき、これは来たな!と思いました。

 

 そして、龍が如く0では、時系列が巻戻ってバブルの時代であり、それは時代的にシェンムーの一章と比較的近く、これはひょっとすればひょっとするのではないか?と思っていました。龍が如くシリーズには中国マフィアも出てきます。その流れの中でシェンムーにつながってくれーと思いましたが、結局そういうことはない感じでした(ただ、龍が如く0自体はめちゃ面白かったですが)。

 

 結局その妄想はてんで的外れであって、それとは別にシェンムー3が出ることになったので、もういいといえばいいのですが、ただ最新作の6には、中国マフィアと手を組んだ広島ヤクザの陽銘連合会が登場し、そこに巌見恒雄という男がいます。彼の背中に入った入れ墨で「白澤」なのです。白澤とは中国の妖怪で、この妖怪には伝説があるのです。黄帝に出会って知恵を授けたという伝説が。

 出ました!またしても黄帝です。蚩尤と戦う存在です。それはもしかしたら芭月涼のことなのではないでしょうか?これにより、龍が如くの物語の裏に芭月涼が実は存在している可能性を僕はまだ捨て切っていません。

 

 このように、彼らの背中の刺青には、シェンムーとの繋がりを強引に見出せそうなので、今後もシリーズとしては続くだろう龍が如くシェンムーが、なんらかの形で交錯するという期待を僕は持ち続けています。

 そのためにもシェンムー3がなんらかの成功を見せてくれるとよいのですが、今のところ僕にはその発売を座して待つしかないのです。

漫画のサイン本の入手関連

 漫画家さんのサインの入った本、たくさんは持っていないですけど、いくつか持っているのでその入手の話をします。

 

 僕が最初に入手したサイン本は、学生時代にこうの史代さんに書いて貰った「夕凪の街・桜の国」の単行本です。これは直接貰ったわけではなくて、当時所属していた漫研の卒業生で映画会社に勤めていた方を経由して貰ったものです。この経緯をもう少し具体的に書くと、僕がアクションに載った「夕凪の街」にすごく感じ入るところがあったので、単行本が出たときには即日買って、インターネットで「すごくよい漫画の単行本がでましたよ!」という話を書いていたら、その映画会社に勤めていた方の目に留まり、そのまま映画化の話が進んだということで、その関連でサイン本を頂くことができました。

 

 世の中どのような経緯でサイン本が貰えるか分かったものではありません。

 

 次に入手したのは、確か五十嵐大介さんのサイン本で、こちらはオーソドックスにサイン会に参加しました。僕は五十嵐大介さんの漫画がめちゃくちゃ好きで擦り切れるぐらいに読み返しており、単行本と画集の発売に合わせたサイン会があると聞きつけて、えいやと会場の本屋で買って参加権を得たという経緯です。

 しかしながら、サイン会ですが、基本的に行くのが気が進まないという気持ちがあります。なぜなら、僕は漫画家さんのことを全般非常に尊敬しているというか、好きな漫画を供給してくれる大変ありがたい存在と思っていて、少しでも不快な思いをさせてしまったらいけない、もしそうなってしまったら巨大ないたたまれなさに苛まれてしまうのではないかという恐怖があるからです。人間は失敗を禁じられたときに自然に振る舞うことができなくなり、おかげで珍奇な行動をとってしまったりします。

 実際、かなりキョドってしまった憶えがあり、なんでもっとちゃんとコミュニケーションをとれないのかという後悔がすごくあります。ただ、名前を書いてもらうときに、「いい名前ですね」と言ってもらったので、この日から僕の本名はいい名前ということになったので、とてもありがたい思い出でもあります。

 

 その次のサイン本は多分、安田弘之さんに書いてもらったものです。インターネットで漫画の感想を喋ったり書いていたということから始まった諸般の経緯によって接点ができたので、このチャンスを逃すな!と飲みに誘ってしまったのですが、そのときに「ちひろ」の単行本を持って行ったので、サインをしてもらいました(絵も描いてもらいました)(うれしい)。ただ、あまり保存環境のよくない大学の漫研の部室に置いていた本だったので、かなり日に焼けていて、ご本人に見せる機会があるなら、もっと丁寧に保存しておけばよかったなという後悔もあります。

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 人付き合いがあまりない生活をしているので、人とのつながりの多くはインターネットによってもたらされていて、インターネットはすごいなあと思っています。

 

 榎本よしたかさんともインターネット経由で知り合いました。ウェブ漫画として公開されていた「トコノクボ」の単行本が出たときに、いち早く買ったので、飲みに誘ってしまったとき(いや、誘ってもらったときだったかも)にカバンに忍ばせて、サインを書いてもらいました(やったね!)。

 ウェブの漫画だったものですが、紙の単行本になることで、こういうことをしてもらうことができるので、物理的なものとしてあることの強さがあります。

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 また、寺沢大介さんの原画展で、「将太の寿司」の原画を十数枚買いあさったところサイン会の参加資格を得たということもありました(確か5枚以上で資格が発生したと思います)。こちらは厳密にはサイン本ではなくサイン色紙なのですが、好きな絵も描いてもらえるということで、サイン会という概念には前述の理由で参加する気が進まないのですが、こんな機会は二度と訪れないのでは?あと僕は「将太の寿司」を人生のバイブル的に崇めているので、絵を描いてもらえるだなんてもうこの機会しかないのでは?と頑張って自分を説得し足を運びました。

 描いてもらったのは散々悩んだあげく「将太くんにもらったネクタイを締めている大和寿司の親方」の絵で、これは僕がめちゃくちゃ好きなエピソードなのですが、おずおずとそれを描いてほしいと伝えてみたところ、困惑させてしまい、また大和寿司親方を資料なしでいきなり描くのが難しそうということがありました。しかし、僕は「そんなこともあろうかと」と、原画展でその日に買った大和寿司の親方のエピソードの原画を出すという行動に出て、それを参考に無理を言って描いてもらうことに成功しました。とてもありがたく、嬉しい話です。自宅に家宝として飾ってあります。

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 また、直近で目の前で描いてもらったサイン本と言えば小林銅蟲さんです。「めしにしましょう」の1巻が出たときのイベントに参加したという経緯です。イベント会場で漫画に登場した肉料理(ローストポークとマッシュポテト)を食べられると聞いて、とても食べたかったので参加し、最後に参加者が列を作って流れ作業でサインを描いてもらうという感じになり、僕はねぎ姉さんの絵を描いてもらいました。流れ作業でどんどん進む感じだったので、機械的に希望を伝えるだけとなり、緊張し過ぎないで助かりました。

 

 また、都会に棲息していると、特定の書店であらかじめサインの入った単行本を売っている状態に遭遇することがあります。例えば、僕の家にあるイシデ電さんの「逆流主婦ワイフ」の単行本にはサインが入っているのですが(これめちゃいい漫画なんですよ)、そのサイン本を書店でたまたま見つけたので、欲しくなり、その前日に既に1冊買っていましたがもう1冊買ったということがあります。

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 そして昨日、池辺葵さんのサインの入った「ねぇ、ママ」の単行本が、下北沢のヴィレッジヴァンガードにあるという話を聞きつけたので、ほとんど行った記憶のない下北沢に行ってきました(もしかしたら東京に十年以上住んでいて初めて行ったかもです)。下北沢と言えば漫画「ホーリーランド」の舞台であり、カツアゲにあった神代ユウくんがヤンキーを殴り倒したことて、下北ヤンキー狩りボクサーなどと呼ばれ恐れられてしまったほどの土地。カツアゲが盛んという偏見があったので、オヤジ狩りなどにあいはしないかとどきどきしながら行きましたが、特にそういうことはありませんでしたし、無事サイン本も買えました。まだ残っていたので行けばあるかもしれません。

 こらえしょうがない人間なので、帰りの駅のホームでばりばり梱包のビニールを破ってサインと添えてある絵を見ましたが、非常に徳が高くありがたい絵が入っておりましたので、拝むような気持ちになりました。

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 サインの入った本、色んな入手の方法があります。絵を描いてもらえたりすると、それは僕だけが所有しているものであって、それを独占してしまっているので、本当に贅沢な気持ちになります。なので、手に入るなら欲しいという気持ちがありつつ、一方、尊敬して崇めてしまっている漫画家さんに人として直接対峙するには気おくれする気持ちがすごくあるので、その過程で色んな精神的なハードルを乗り越えていかなければなりません。

 サイン会の場合、意を決して参加すればサインが手に入るので嬉しくなりますし、参加しなければ変にキョドってトラウマる感じの体験を事前に回避できたのでよかったという気持ちになるので、どっちに転んでも得をするのでは?と思います。なので、サイン会などのイベントは非常によいものではないでしょうか。

 そういうものに参加できる可能性があるのは、田舎の山奥から街に降りてきてよかったことのひとつだなと思いました。

「ねぇ、ママ」を読んで思ったこと関連

 池辺葵の「ねぇ、ママ」はエレガンスイブにたまに載っていた、母と子をテーマとした連作短編の物語です。この前、単行本が出て、電子書籍でも出ています。僕はこの漫画にすごく感じ入るところがあったので感想を書きますが、それはそうと、僕の感想からではなくまず最初は漫画を読んだ方がいいのでは…という気持ちが強いので、まずは買って読んでくださいよと思います。

 

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 さて、素直な皆さんは買って読んで頂けたということで続きを書きますが、池辺葵の漫画で描かれることが多いのは、なんとも言えない状況です。すごく曖昧な言葉を使いましたが、もうちょっと具体的に言うなら、人と人の関係性の中で、必ずしもどちらかが悪くどちらかが正しいとは言えない状況ではないかと思います。そんな状況において、人が何をどう感じているかということです。

 人間は主観で考えれば、物事を自分にとって都合よく捉えがちでしょう。仮に自分にとって悲観的な想像をしてしまいがちな人も、その悲観的な想像が自分にとって何らか都合がよいからしているのだと僕は思っています。主観は常に歪んでいるのです。

 例えばとても悲しい気持ちになった人がいたとして、その人にそう思わせた相手は悪い人なのでしょうか?あるいは、とても正しいことを言う人がいたとして、その正しさは本当に人を幸せにするものなのでしょうか?

 人の選択の裏には、その人の主観的な正しさがあるものだと思います。しかし、それは別の人の視点からすれば間違っていると捉えることもできるものです。なら、客観的な正しさとは何なのか?そんなものは実は存在しておらず、誰しもそんな幻に囚われているだけなのではないか、などということを考えてしまうのです。

 

 「ねぇ、ママ」に収録されている物語には、「間違っている」と分類できそうな人たちが出てきます。しかし、それらの人は単純に悪として断罪されているわけではありません。この単行本においてそれが特に色濃いのは「夕焼けカーニバル」と「カラスの鳴く夜にヤニクは」の2作です。そこのあるのは自分の都合で子を捨てる母親の姿です。

 

 僕はこれらのお話を個人的な体験との類似によってあまり冷静には読めないので、これは僕個人の特殊な思い入れなのかもしれません。僕は「子を捨てる親」の姿に、必ずしも間違ったものだけを見出してはいません。

 世の中には、そのような、子を捨てる親の姿を責める風潮はあるでしょう。そして、それを責めることも社会的な規範を考えれば間違ってはいないだろうとも思います。でも、そこになんだか割り切れないものがあるわけです。そんな自分の中で整理もついていない、肯定的なものなのか、否定的なものなのかも分からないその感情が、この物語の中で描かれている気がしていて、その感情はずっとあったはずなのに、気づいていなかったものに気づかされたような気持ちになります。

 

 「夕焼けカーニバル」では、親に捨てられた子供の姿が描かれます。その子、ワカちゃんはなんとその事実に気が付かず、机の上に残してくれたわずかなお金でパンを買い、毎日学校に通っています。ワカちゃんは自分が捨てられてしまったなんて少しも考えていません。母親の書き置きを読んで、母親に感謝して毎日100円のパンを買って、それだけで生きています。

 周囲の大人たちはなんとなく異変を察しつつも深入りできない状態で、ワカちゃんを見守っています。ワカちゃんの次の居場所を見つけてあげるのは、その見た目から魔女なんて呼ばれた、骨董屋を営むひとりのおばあさんです。厭世的で、家族を持とうとせず、ひとりで生きているおばあさんです。いや、彼女にも家族はいます。それは血のつながりではなく、生まれ育った孤児院の人々で、それは血のつながりが生んだ関係性ではありません。ワカちゃんは捨てられました。血のつながりのある実の親に捨てられました。果たしてそれは不幸なばかりのことでしょうか?

 

 ワカちゃんがひとり残された家に立ち入ったおばあさんが見たものは、子供のために買ったであろう沢山の本や、角にぶつかっても怪我をしないように補修された机、そして、沢山の服(おそらくは手作りの)です。その痕跡に、たったひとりで子供を育てようとした母親の姿が浮かびます。

「愛情がなかったわけじゃないさ」

 おばあさんはぽつりと呟きます。きっとそうでしょう。愛情がなかったわけじゃないでしょう。でも、疲れてしまったんじゃないでしょうか。それは悪でしょうか?悪かもしれません。でも、世の中こんなことばかりじゃないですか。辛い状態に追い込まれて逃げられず、逃げれば責められることが分かっている。どちらにしたって辛いばかりです。ついに母親の立場という荷を下ろしてしまった彼女には、他にどんな選択肢があったのでしょうか。

 何かを悪と責め立て断罪するのは楽な話です。それは当事者ではない人にとっての楽な話です。辛さや悲しさは他人に押し付けて、自分のせいではないということを証明するための正義です。ああすればよかったのに、こうすればよかったのに、やるべきだったことを沢山賢しらに教えてくれるでしょう。それをするのが、自分ではないことほど、人は気軽に言ってのけるものです。世の中は、言えば単純だが、するのは困難なことばかりです。そして、それを続けることはもっともっと困難でしょう。

 

 あのおばあさんが家族を持とうとしないことは、意図的に選んだ生き方ではないかと思いました。彼女もまた捨てられた子供だったからです。親と子の繋がりというものに大した価値を見出していないのかもしれません。あるいは、それを自分が持つことが怖かったのかもしれません。

 子を捨てる親は悪いかと問われれば悪いと答えるしかないでしょう。自分がそうならない自信がなく、悪くなりたくない人は、初めから子を持とうとは思わないかもしれません。そこに、幸福な未来が想像できないのであれば、踏み出せば最後、何が起きても自己責任と突き放されるのであれば、無邪気に踏み出すには遠い一歩です。その辛さを知っていればなおのことでしょう。おばあさんは、そのまま歳をとったのかもしれません。

 しかし、ワカちゃんは、その捨てられた子は、親のことをちっとも恨んでいません。今は気づいていないだけで、将来恨むようになるのかもしれません。でも、孤児院に引き取られて行くそのときまで、一切濁らず、母親を好きなままでいるワカちゃんの姿に、厭世を気取っていたおばあさんがその胸の内を吐露します。

「お前はなんていとしい子だ」

 その言葉は、ワカちゃんの目の中に自分が失ってしまったものを見たからではないかと思いました。親を恨み、親子の関係性を拒絶して生きることは、何より親子という関係に囚われている生き方であるのかもしれません。無邪気な目線には、そんな胸の内に残ったわだかまりに目を向けさせる力があったのではないかと思いました。

 

 この物語を読むとき、僕はあのおばあさんであり、僕はあのワカちゃんでもあります。両方の気持ちが分かる気がします。ここから自分語りが始まりますが、母が僕を祖父母の家に預けていなくなったとき、僕はしばらく誰かが家に来るたびに玄関まで走って行っていたと聞きました。また別のとき、ひとりぼっちでずっと入院していたとき、ベッドを何度もこっそり抜け出しては両親が来ないかとエレベーターの前でずっと待っていたのだそうです。親が好きだったのでしょう。僕自身はそのことをおぼろげにしか憶えていませんが、祖母が何度も聞かせてくれました。しかし、ついに親が迎えに来てくれたとき、僕はもはや警戒してちっとも寄りつこうとしなかったのだそうです。

 それもあってか、小学生のときの僕はすっかり親もまた他人だと思っていました。それは嫌いということではなく、他人と接するように親と接していたということです。赤の他人が、住む場所や学費を出してくれているのと同じように、そんないわれもないのにそうしてくれているという、そういう種類の親への感謝の気持ちがありました。怒ったこともありません。親に無償の何かを期待をするという気持ちは幼少期に使い切ってしまっていたからです。それは別に恨んでいるということではないんです。食う物も寝る場所もあるだけで十分感謝するべきことだと心から思っていました。

 なので、子供の頃、「親が自分のために何かをしてくれない」と怒ることのできる人を羨ましく思う気持ちがありました。それは自分には決してできないことだからです。親だからといって子に何かを与える義務があるなんて、そんないわれはそもそもないだろうと感じてしまっているからです。

 

 書いていて、自分の中にまだ色々しこりは残っているのだなとは感じます。しかし、本当に恨み言はなく、そう育ったことも、今の自分の状態も気に入っているんですよ。

 

 「カラスの鳴く夜にヤニクは」もまた、親に捨てられた子のお話です。娼婦の母親に捨てられたヤニクを、ザザはたったひとりの家族だと思います。修道院の中で、血のつながりではなく、主への信仰によりつながった彼女たちにとって、親はもういなくなった存在です。ザザはヤニクを初めての家族と思い、一方ヤニクは自分を捨てた母のことを想います。ヤニクは自分を捨てたはずの母のことをまだ慕い続けているのです。そしてこの物語は、「夕焼けカーニバル」とは異なり、結婚して生活が安定した母がヤニクを迎えにくるところで終わります。そんなヤニクを見送るザザの姿で終わります。

 

 ザザには親の記憶はないのでしょう。修道院の中でヤニクだけがザザにとっての特別です。文字の覚えが悪く、仕事も上手くやれない、表情も乏しいヤニクに、ザザはお姉さんのようにかまい、はじめてできた家族だと言います。そして悲しいことに、ヤニクにとってはそうではありません。ザザの元を去るとき、つまり母親が迎えにきたとき、ヤニクは今まで見せたことのない笑顔を見せます。

 ヤニクにとっては母親が特別で、自分を捨てた身勝手な母でさえ慕う対象です。自分の都合で捨てた母なのに、都合がよくなればそれがなかったことであるかのように振る舞うのです。そんな母をヤニクはまだ慕うのです。

 ヤニクの笑顔で去っていく姿を見て、ザザは「よかった」と呟きます。このときの表情がすごいわけですよ。見ればわかるわけですよ。「よく」なんてないわけですよ。ザザは自分の家族を奪われたのですから。それもあんな身勝手な女に、ただ血がつながった母親だと言うだけで。そして、それをヤニクが嬉しく思っているということもまた理解してしまっているわけです。

 

 ザザは自分の中のどす黒い感情と、それを表に出すことが何も生まないという「正しさ」を分かっている賢い子です。そして、であるがゆえに悲しく哀れな子です。ザザは自分の気持ちよりも、ヤニクの気持ちを優先させます。なぜなら、ヤニクはザザにとってたったひとりの家族だからです。

 

 あの身勝手な母親とは自分は違うという正しさが、ザザを縛り、家族を失うことを受け入れさせます。自分の望みが不幸を招くと知ったとき、それでも望むことは罪でしょうか?あるいは、そこで我慢することは正しいのでしょうか?どちらにしたって完璧な正解はありません。正しさが人を救うとは限りません。間違ったことだって不幸を招くとは限りません。

 どうすればよかったと問われるとき、どうしようもなかったことだって山ほどあります。この物語の中で、ザザがたったひとりで受け止め、自分だけで処理しようとした感情の大きさを思います。それを読む自分の中に強く大きな感情があることを確認します。

 

 正しいことが正しいわけでもなく、間違っていることが間違っているわけでもないのが世の中なんじゃないかと思います。みんなが正しくても不幸は生まれうるし、間違いが残っているからといって幸福が訪れないわけではありません。正しさと間違いの交錯する曖昧な一点を池辺葵の漫画はするりと通過していきます。それは取りこぼされていることすら気づきにくいような場所です。

 

 唯一無二の正しさというものは、それにそぐわない残りの全てを間違ったものにしてしまいます。正しさは色んなものを傷つける可能性も高いんじゃないかと思います。もちろん間違いだってそのまま他人を傷つけます。誰しも幸福になりたいだろうに、その過程で別の誰かを不幸に落とし込むような言葉ばかりを選んでしまったりもします。

 悪者を見つけて、全て消し去った先に、清浄で正常な素晴らしい未来があるのだろうか?と思います。そこにあるのは、傷ついた人々の残骸だけなんじゃないだろうかと。

 

 僕は親に対してずっと他人行儀で、それは十分大人になった今でもそうです。頼られれば応えますが、こちらからは頼らずに生きたいと思っています。その意味で、本当に他人とあまり距離感が違わないのです。ワガママを言ったり、怒ったりもしません。そんなに距離が近くないからです。それは意思の力でそうしているわけではなく、そうなってしまうのでどうしようもないのです。

 でも、大学進学で実家を出る少し前に、珍しく母と2人で出かけて(大家族なので普段は他の兄弟の誰かがいる)、必要だろうからと作ってもらったスーツと、買ってもらった靴を、十何年経った今ではもう着ることはないのに、靴も履きつぶしてしまったのに、いまだに家に置いてあって捨てられないような可愛いところが僕にはあるわけですよ。

 具体的に書けば責められるところなんて無数にあった家庭で育ちましたけど、それを見ず知らずの他人に責められたとしたら、僕はきっと怒るのだと思います。それは僕の家族に対する侮辱だと思うからです。人間は完璧ではないですし、責めようと思えば責められるところはきっと無数にあります。その中で、そんなことがある上で、なんかいい感じにやっていくのが人生なわけじゃないですか。

 完璧でないことを責められるのだとしたら、世の中の全ての人はきっと何かしら罪を抱えています。あるいはそう思われないための嘘でもついていなければならないでしょう。ならば完璧じゃない中で、なんとかおっかなびっくりいい感じに生きていきたいじゃないですか。

 

 amazarashiは現代の人々が持ちやすい厭世観とその向き合い方を端的な言葉で歌うバンドだと思いますが、その「空っぽの空に潰される」という曲にこういう歌詞があります。

 「恒久的な欠落を 愛してこその幸福だ」

 

 世の中が、自分のいる場所が、完璧ではなくともその中で生きていくしかありません。そこにはは辛く悲しいこともありますが、決して不幸ばかりとは言えないのではないでしょうか?これがこの漫画の描きたかったことかは分かりません。ただ、読んでいて僕はそういうことを思ったわけなのです。

無線通信技術に学ぶ人間同士のコミュニケーション関連

はじめに

 「通信」とはざっくり言うと「ある情報をある所から別の所に送る」ということです。これを僕は人間同士のコミュニケーションでも同じだと思っていて、人間は自分の頭の中にある情報を、何らかの方法で他人の頭の中に伝えたりします。それらの情報は、例えば言語に置きかえられて、声を使うことで空気の振動として他人に伝えられ、伝えられた人は、鼓膜で感じ取った空気の振動を、言語として解釈することで受けとったりします。

 

(ここから一万字以上の文章なので、長い文章を読みたくない人はここでやめておけばいいのではないかと思います)

 

 人間同士のコミュニケーションにおいて、「自分は機械のように合理的な人間なので、多くの人が必要としているようなコミュニケーション術を必要としないのだ」というようなことを言う人がいるんじゃないかと思います(僕自身もあまり人間関係のコミュニケーションが得意ではないのでちょっと思っています)。でも、機械同士が情報を伝えあう通信のやり方を見ていると、機械はなんとも立派にコミュニケーションをしていて、そのやり方の中には色んな工夫が加えられていることが分かります。それによって、機械同士は情報を速く正確に効率よく伝えたりしているのです。僕は自分よりも機械の方がしっかりしたコミュニケーションをしていて偉いなあと思ったりしています。

 通信のやり方には色々な分類方法があると思いますが、大きくざっくりと分けてみると「ケーブルと使うやり方(有線通信)」と「ケーブルを使わないやり方(無線通信)」があります。人間同士がケーブルで繋がれているのは、母親の胎内にいるときぐらいなので、ここでは多くの人間がすなるという無線通信を、電波を使う機械同士がどのようにやっているかを確認することで、自分のコミュニケーションが機械様に比べていかに雑でいけていないかを確認するという話をすることにします。

 

 通信の大きな目的は情報を伝えることです。そこにはどのように伝えられるかという品質指標があるでしょう。人間同士のコミュニケーションと共通するという観点から、ざっと5つの指標を列挙してみました(適当な思いつきなのでこの5つで十分かはわかりません)。

 

  • 正確性:情報が誤解なく伝わっているかどうか?
  • 確実性:情報が相手に伝わったことが保証されているか?
  • 応答性:情報をタイムラグなしに相手に伝えることができているか?
  • 効率性:どれだけの情報を短時間に大量に伝えることができているか?
  • 社会性:情報を伝える上で共有のリソースを無駄に使っていないか?

 これらを満たすために、機械同士のコミュニケーションでは色んな工夫を取り入れたやり方を取り決めています。そのおかげで、情報を伝えるための機械に取り囲まれている我々現代の人間は、遠く地球の裏側にあるような情報でも迅速に大量に正確な情報を確実に安く手に入れることが出来ているのです。


正確性

 情報を正確に伝える手段には色々な方法があります。人間であれば自分の頭の中にある情報を他人に伝える際に言語を使うことが多いでしょう。これは機械でも同じで、情報を何らかの形式に変換して送っています。しかしながら、そのためには、送り手と受け手で情報を伝えるための事前取り決めをしておく必要があります。なぜなら、どのように情報が伝えられるかを共有しておかなければ、相手の言っていることを正確に解釈することができないからです。

 このような規定を通信ではプロトコルと呼んでいます。例えば、ネットを使っていればよく目にする「http」は、「hypertext transfer protcol」の略称なので、ハイパーテキストというものを送るために送り手と受け手で相互で守ることになっている取り決めのことを意味します。

 このようなプロトコルを策定する団体は沢山ありますが、インターネットにおいて代表的なものはIETF(internet engineering task force)です。このIETFという団体のサイトに行けば、あるプロトコルがどのように規定されているかの最新情報を確認することができます。

 

 一方、日本人である我々は、多くの場合、日本語によるコミュニケーションをしています。しかし、日本語はどこかの団体によって厳密に規定されているものではありません。これはつまり、ある言い回しなどを送り手と受け手が正確に共有できない可能性があることを意味します。

 そもそも言語には方言などの地域差や、働いている業界などの分野による言葉の解釈のしかたの違いがあり、しかも新しい言葉も日々どんどん生まれています。なので、それぞれの人は、同じ日本語に見えて厳密には違う言葉を喋っているという認識が必要でしょう。つまり、相手の話す言語の中から、自分の言語で理解できる部分を、なんとなくいい感じに解釈して通信をしているのです。この点において、人間のコミュニケーションは柔軟性と変化の速さでは機械に勝るものの、その引き換えとして機械よりも劣る正確性しか持ち得ないのです。

 であるがゆえに、人間同士のコミュニケーションに生まれる齟齬は、個人個人が良い感じに修正することで正しさを保証するしかありません。例えば、法律などでは書かれた言葉を正しく解釈するためには、難しい認定資格を必要とされています。それほど情報を厳密に伝えるということ、共通理解を得るということは難しいことであり、通常のコミュニケーションでは、自分と相手の認識齟齬により、自分の言ったことが相手に自分の意図通りに伝わっていない可能性を常に考える必要があると思います(ただし意図通り伝わっていなくても特段問題ないことも多いです)。

 自分が伝えようとしている情報が適切な言葉で表現できているか?と、その言葉は相手に問題なく解釈できるものか?ということは、正確なコミュニケーションを実現するために意識する必要があるポイントです。極端な話、日本語が分からない人に対して、日本語で伝えようとしても上手くいきようがないのですから。

 機械は自分が使うプロトコルを参照し、それを使うと宣言することで、送り手と受け手の認識齟齬をなくしています。人間だって、それをしなければ正確なコミュニケーションは難しいことは疑いようがありません。

 

確実性

 自分が発した言葉が、そもそも相手に聞こえているかどうか?という問題があります。機械同士の通信で言うならば、これを気にするのがUDPTCPというプロトコルの違いです。どこが違うかというと、UDPは送ったら送りっぱなしですが、TCPには届いたかどうかを確認する動作があるのです。確認があるTCPならば、ちゃんと届いてない場合に気づくことができるので、送り直すということができます。

 人間同士のよくないコミュニケーションはUDPになっていることも多いんじゃないでしょうか?言いっぱなしで相手に届いているかどうかを確認していないということです。なので、TCPのように自分が相手に喋ったことが、本当に相手に聞こえているかどうかを意識しないといけません。

 例えば、僕は地声が小さい感じの人類なので、「お疲れ様です」とか「おはようございます」とか「お先に失礼します」とかの言葉をちゃんと口にしてはいるのに、他の人には実際聞こえていないということが昔ありました。それでも、当時の僕はちゃんと挨拶をしているぞ!と思っていて、でも、挨拶を何のためにやっているかと考えれば、「言ったぞ」という個人の実感より、「ちゃんと相手に聞こえているか」ということの方が大事なはずです。ということにあるときやっと気づきました。

 これは僕が学生時代にやった学会発表のときのイケてなさなどとも通じる話で、何度も練習した発表原稿を間違いなく言うということばかりを考えていて、それが相手にちゃんと伝わっていたかまでは意識できるようなレベルですらなかったのです。

 中でも海外の学会での発表のときの記憶は最悪で、何十人もの人の前に立った時点で完全に喋ることが飛んでしまい、ひそかに確認できるようにしていた原稿をただただ読み上げるだけになってしまいました。でも、ちゃんと言うべきことは言ったぞ!という実感はあったものの、聞いている人の反応も見ていなかったですし、質疑応答もグダグダだったので、当初の自分がやったことを同じ分野の研究者の人たちにちゃんとアピールするということはまるでできていなかったように思います。

 別の海外の学会ではポスター発表もやったこともあるのですが、そっちは幸いまだましな記憶で、ポスター発表では目の前の人が納得するか呆れて去るかしないことには逃げられませんから、拙い英語ではありつつも相手に伝わっているかを意識することはできました。

 

 僕が思うに、人の言葉は思いのほか伝わっていない感じがします。喋っている中身ではなく、声自体がちゃんと耳に届いているかというレベルでです。繁華街やお店の中、通信環境の悪い電話なんかでは、相手の言っていることが上手く聞き取れないこともあります。こちらが言うことも聞き取ってもらえてないこともあります。

 その場合、TCPのように!と思って、向こうがちゃんと聞けているかを確認をしたり、こっちか聞き取れない倍はもう一度言って貰ったりするのですが、とにかく他がうるさくて、何度も聞き返す羽目になることもあります。そういうとき、面倒になって分かったふりをしてしまったりします。これが最悪で、本当は伝わっていないのに、伝わったふりをしてしまうことで、相手が誤認し、トラブルの種になってしまうかもしれません。

 自分が言ったことが相手にちゃんと伝わっているかを確認することはとても重要なことです。

 

 余談ですが、TCPでは送信者から受信者(SYNと呼ぶ)、受信者から送信者への確認(ACKと呼ぶ)、送信者から受信者への確認の確認(SYNACKと呼ぶ)という3回の事前確認作業を経て、相手とコミュニケーションが出来ていることを確認とする3ウェイハンドシェイクという仕組みを採用しています。

 学生時代に大阪いた際には、会話の中のフリ、ボケ、ツッコミのことを3ウェイハンドシェイクと呼んだりしていて、これが互いに出来る間柄ではコミュニケーションが上手くとれると認識していました。相手からの話題のフリをフリとして認識し、それに対応するボケを言うこと、そして、それがボケだと認識して、適切なツッコミを入れることは、比較的高度なコミュニケーションだと思っていて、これが上手くできる相手とは、言っていることが確実に誤解なく伝わっていると判断できて気楽に思えたのです。


応答性

 情報は一方的に伝えて終わりではなく、相手とのやりとりによる確認が必要な場合があります。例えばメールで予定の調整などを行う場合は、候補日を出したり、相手が答えたりと複数回のやり取りを経て最終決定がされ、それもまた最終的にメールで通知されたりします。相手にメールが届いてからこちらが返すまで、こちらがメールを受けてから相手に返すまでのようなタイムラグは、やり取りが多くなればなるほどに積算して、ある目的を達成するまでに長大な時間がかかってしまい、面倒くさくなったりしてしまいます。

 改善するための方法は大きく3つと考えます。(1)必要なやりとりの回数を減らすことと、(2)返信までの時間を短くすること、そして、(3)やりとりから順序性を排除することです。

 これらはそれぞれ通信技術にもあるもので、やりとりの回数を減らすためには、あらかじめやり方を規定しておくという前述のプロトコル的な解決方法があります。

 返信までの時間を短くするためには、フォーマットの規定やタイムアウト時間の設定が有効でしょう。フォーマットが決まっていれば、都度相手の書いた文章を解釈して適切な回答をするという面倒さが排除されます。

 タイムアウト時間と言うのは、相手がどれだけ返事をしなければ、催促をするかという設定値の話です。このタイムアウト時間は適切に設定しておくことが重要で、長すぎると、相手がなんらかの事情で回答できなかったり、情報が上手く伝わっていなかった場合に、待ち続けなければなりませんし、短すぎると、相手に短時間に何度も催促を送ってしまって、相手側を疲弊させたり非効率になってしまったりします。機械同士の通信のチューニングでも、状況に合わせたタイムアウト時間の適切な設定は注目すべきポイントです。

 最期のやりとりから順序性を排除するのは、そもそもそういうことをメールで一通ずつ送るような方法でやるなという話で、そのような交互に送りあう順序性があり、片方が何かをしなければ先に進まないようなやり方をしてしまうと、そこが止まったときに後々の全体の進み具合に影響が出てしまいます。なので、あらかじめ予定の空いている日を共有するなど、順番に確認しないで済む方法をとるというようなことをします。機械同士の通信でも、情報を伝える順序が制約にならないようなデータの送り方や集め方をしたりします。

 そもそも情報を小分けにして送受信するパケット通信では、一連の通信が同じネットワーク経路を通って送られることが必ずしも保証されていないなため、送った順に到着するとは限りません。なので、パケットを集めて元の情報を復元する際には、送られたときの順番を参考に受け取った側が正しい順序に並べ替えたりしています。

 

 もうひとつ別の観点で気にするべきなのは、通信のホップ数です。情報をやり取りする場合、直接やりとりする相手がこちらの求めている情報を持ってはいない場合があるのです。それまで受信者であった相手先が、今度は送信者として、別の人(上司など)に確認する必要がある場合、そしてさらに、その先がまた別の人(さらに上の上司など)に確認する必要があり場合、最初のリクエストは何人もの人を経由して(この経由する数をホップと呼んでいます)最終的に最初の質問を答えられる人に届くことになります。ここでいうホップは、1ホップごとに通信が発生しているので、そのやり取りの中で前述のような諸問題が関わってきますし、情報が伝達される過程で劣化する(中身が変わってしまう)場合もあります。

 ネットワークでは、何回もホップする必要がある場合には、その伝達経路が最短になるように計算したり、より容量の大きい経路に迂回したりするルーティングという仕組みがあったりします。また、必要な情報を、わざわざ大本にまで問い合わされなくても窓口にあらかじめコピーを置いておくキャッシュという仕組みもあったりします。

 人間がこのようなことをやるとするならば、必要な情報を誰が持っているかを予め明らかにし、その人に問い合わせられる最短のやり方を知っておく必要があるということになります。また、必要な情報を都度問い合わせて入手しなくていいように、予め情報を共有しておいたり、権限を委譲してもらったりしておくと速くなります。そういうことをしますが、人間の関わりあい方が、複雑で固定的になっている場合も多く、また、そもそも誰が必要な情報を持っているか分からないこともあります。

 何かの情報を伝えなければいけないときには、聞かれて初めて調べ始めるのではなく、予め色々調べておかないといけないという非常に面倒なことになります。なかなか完璧にはできないことです。でも、機械はちゃんとやっていたりするんですよね。

 

効率性

 コミュニケーションが情報を伝えることであるならば、どれだけ効率よく大量の情報を伝えられるか?という指標もあるでしょう。

 情報を速く伝えるにはいくつかの方法があります。ひとつは一定時間あたりにより多くの情報を詰め込むことです。電波で言えば高い周波数を使うことで実現できますが、これを人間に置きかえるなら早口で喋ることです。他には複数の伝達経路を使うこともできます。電波で言えば広い周波数帯域を使うこと、人間で言えば喋るだけでなく、同時にジェスチャーや絵などを使うことなどが挙げられるでしょうか。そして圧縮という方法もあります。どれだけ少ない記号で大きな情報を伝えられるかが重要視されるのです。

 機械であれば、速度の速い規格やそのための新しいハードウェアを採用するという方法がありますが、人間の耳と口のスペックは個体差はあれど固定的なので、基本的にはそういうことができません。人間はよりよく聞こえる耳や、よく喋れる口に交換できないのです。なので、それ以外の方法を使うことが現実的です。そのひとつが情報の圧縮だと思います。少ない記号で大きな情報を伝えられるのであれば、コミュニケーションの効率はアップします。

 例えば「象」という言葉がありますが、この言葉を見た瞬間に象という動物を思い出せたなら、圧縮は成功しています。なぜならば象という動物を知らない人がこの言葉を見た場合と比較して知っている人の頭の中には大量の象情報が広がっているからです。象を知らない人に言葉だけで象を説明することはとても難しくて面倒なことでしょう。

 情報伝達の効率は、情報の送り手と受け手が十分な共有情報を持っていることによって高まります。相手が専門知識を持っている人であれば、専門用語を駆使して短時間で正確な情報を伝えることができるでしょう。しかし、送り手と受け手に専門知識の持ち方に差がある場合、専門用語を使いつつ誤解のない言い方を考える必要があるため、冗長になりますし、冗長になると分量の時点で受け渡すのが難しくなったりします。まるで僕が今書いているこの文章のようですね。

 専門用語は、ある概念を理解しているもの同士ならば、非常に効率よく情報の受け渡しができるという圧縮の技術なのですが、その伸長のやり方を知らない人にとっては情報量のゼロとなる意味不明なものになります。なので、専門知識を持たない人に対しては平易な言葉で正確性と確実性を重要視し、専門知識を持っている人に対しては効率性を重要視するというような判断が必要になります。

 

 この辺に関する問題はいくつかあって、まずは専門知識を持つ人と持たない人が混在する場所の場合、どちらにフォーカスを当てた説明をするべきかを考える必要があります。また、世の中には分かっていないのに分かっているふりをする人がたまにいるということも問題です、その人に対して専門用語で説明すると、分かったようなふりをして実は分かっていないので、伝えた行為が無駄になってしまったりします。一方、そのような人に対して、誰でも分かるような平易な言葉を使えば、馬鹿にされていると感じるのか上手く聞いてもらえなかったりもするなんて可能性もあるので、このあたりのさじ加減はとても難しく感じています。

 学会なんかにいる「この分野は素人なのでよく分からないのですが」と発言の最初につける人も曲者で、本当に分かっていないから言っているのか、本当は知っているのに言っているのかを明確に区別つけられないと弱ってしまいますね。

 この辺りは機械でも同じで、実はある圧縮方式に対応しているのに、それを宣言せずに非圧縮でなければ受信できないふりをしていると、送る側からすれば非効率な非圧縮で送らざるを得ないので大変よくないことになります(ただし、圧縮と伸長には処理の時間がかかるので映像の生中継などのように遅延を最小化したいときには非圧縮の方が好ましいなんていうケースも世の中にはあります)。


社会性

 ここまでの話は、有線でも無線でも実はあまり関係ない共通する話だったのですが、ここは若干無線通信特有っぽい話をします。情報を通信するために必要な資源が、無線の場合は強い公共性を持つからです。人間のコミュニケーションでも多くの場合、公共のリソースを使って行われます。

 ケーブルを使った有線通信はケーブルの本数を増やせば、事実上無限に容量を増やすことができます。つまり、100本のケーブルがあれば1本のケーブルの100倍の通信ができるということです。しかし、無線の場合は違います。

 電磁波は空間を伝わるので、同じ空間で通信をする人にとっては全員がたった1本のケーブルを共有しているのと同じことです。情報は波の大きさに符号化されて伝えられるため、同じケーブル上に単純に同時に情報を流すと波が衝突して情報が壊れてしまいます。つまり無線の場合は、伝達に使われる空間が公共的なもの(多くの人々と分け隔てなく共有されるもの)とならざるを得ないので、誰かが好き勝手に使っていると、他の人の自由を阻害される可能性が高くなります。だからこそ、電波の利用は法律によって免許性となっているのです(一部例外もあります)。

 ここでは、無線機(携帯電話など)の側にも、電波の利用上問題ないと認可されたものが必要で、そのため、外国製の無線機を国内で使ったりすると違法になったりします。なぜならば日本と外国では使い方のルールが異なるからです。

 日本で電波利用の認可がとれていないスマホを使うと、ルール上は違法です。ただし、使用しているチップが共通であったり、少なくとも外国のルールには合致していたりして、実際の利用上は大きく問題になることは少ないでしょう。しかし、それはたまたま問題が起きないのであって、やろうと思えば周囲の人が通信を全然できなくなるようなことを引き起こすことも可能です。それを防ぐためにルールがあるのです。

 

 さて、人間のコミュニケーションも同じです。例えば人の声は空気を伝達し、空間に対して広がります。つまり、他の人たちの会話が聞こえないぐらいの大きな声で喋ると迷惑な行為となってしまいます。また、その情報を伝えたい人以外にも、その大きな声によって情報が伝わってしまうという弊害もあります。うっかり伝わった情報の中に秘密の情報があった場合、情報漏えいになってしまいますし、ネットを見れば、たまたま聞こえた周囲の会話を別の誰かにシェアしている人も沢山見つけることができますね。

 一方、それを気にして小さい声で喋り過ぎると、相手にも聞こえづらくなり、確実性が落ちてしまったりします。場所や目的に応じて適切な声の大きさを選ぶ必要があるということです。もちろん無線通信でも相手と確実な情報通信を行うために、電波の強さをコントロールしたりしています。

 

 さて、同じケーブル上に別々の複数の情報が乗ってしまったとき、衝突して情報が壊れてしまう場合があると言いましたが、それが物理的なケーブルの場合は衝突したことを検知もできます。しかしながら、それが無線であった場合は、3次元的に広がる電磁波は波なので反射した波などと任意のポイントで干渉しますし、上手く衝突せずに受信側に到達したかどうかを検知することができません。

 それを回避するための方法のひとつがCSMAです。CSMAにはCD(collision detection: 衝突検知)とCA(collision avoidance:衝突回避)があり、前述のように無線の場合はCDを使うことができないのでCAを使います。CSMAとはcarrier sense multiple accessの略で、ざっくり言うと周囲に電波を出している他の無線機がないかを受信機を使って判断しているのです。人間に置きかえるなら耳をすませて他に誰か喋っている人がいないかを判断しています。誰も喋っていなければ喋るチャンスですから、声を出しますが、会話でもあるように、沈黙が続いたあと、二人同時に喋り始めてしまうことがあります。これが通信で言うところの衝突にあたります。その場合、人間ならどちらが喋るかを譲り合って片方が続きを喋ると思いますが、機械はそうではありません。

 機械がどのように次の発信を行うタイミングを決めるかというとランダムな時間だけ待つということをします。そうすると複数台の機械がたまたま同じランダムな値を選んだとき以外であれば衝突しないということになるのです。それでも衝突した場合にはさらに長くランダム時間だけ待機するので、同じ空間の中に無線機が多く存在すればするほどに同じ電波帯域を利用した通信の効率性はどんどん落ちていく可能性が高くなります。

 これは人間で言えば、大人数の会議に置きかえることができるかもしれません。誰が喋るかの空気の読み合いになってしまい沈黙が訪れたり、延々と喋り続ける人がいて、他の人が喋る機会を得られなかったりするでしょう。同じ空間にいる人が、一度にひとりしか発言できないなら、会議に参加する人数が増えれば増えるほど、そこで得られる情報は減少します。会議で各メンバーの発言を多くしたいなら、人数を十分絞るべきという学びがここにあります。

 

 CSMA/CAは例えば無線LANで利用される方法ですが、あまり効率がよい方法とは言えません。これは無線LANは免許不要で利用できる電波帯域を利用しているため、全ての端末をコントロールすることができないからです。

 例えば、無線機が通信するタイミングを完全にコントロールできるなら、通信する時間のスケジュールを上手く調整することで衝突を回避できるという方法もあります。これはTDM(時分割多重)と呼ばれる手法です。

 これも会議に置きかえるなら、話す順番を事前に決めたり、その場で決めることができる司会が存在することで、喋る順番を割り当てていくことができ、全員の発言を促すことができるということになります。しかし、自分が割り当てられた時間以外に好き勝手喋る自由はありません。

 方法には向き不向きがあります。ここで紹介した以外にも、大人数の人間同士のコミュニケーションに応用できる様々な手法が、機械では採用されています。そして、それらの中から、今この場でどのような振る舞いが求められているかによって、適したコミュニケーションの方法を選ぶ必要があるのです。

 

まとめ

 さて、この文章は専門知識がなくても意味が分かるように書いたつもりなので、「正確性」についてある程度の配慮をしている一方、文章が長くなり「効率性」が落ちてしまっています。そして、ブログという場所は基本的に一方通行な情報伝達なので、「確実性」や「応答性」は全然ダメです。最後の「社会性」については、別に読んでも読まなくてもいい文章なので、毀損するようなものにはなっていないはずです。

 しかしながら、インターネットには書かれた文章が長いと分かると怒る人がいるので、念のため最初にこの文章は長いですよという注釈を最初の方に入れました。

 

 僕が今回書いた文章の意味はちゃんと伝わったでしょうか?上手く伝わる人がいるかもしれませんし、伝わらない人もいるかもしれません。人から人に何らかの情報を伝えるということは難しく、そこには沢山の工夫があります。機械は色々な工夫を取り入れていますが、元を正せば全て人間が考えたことです。我々人間も、機械を真似することで、そういう技術を獲得しながら、より上手く人に情報を伝えられるようになりたいものですね。

 おしまい。

ミュシャ展に絵を見に行った話

 始まってから何回か行こうとして六本木まで行くのがめんどくなってやめてたミュシャ展に、そろそろ終わると思ってあわててこの前の日曜に行ってきました。開催終了期日を翌日に控えた日曜日なので、完全に混雑が予想されましたが、朝の8時40分ぐらいに乃木坂駅国立新美術館に繋がる出入り口に行くと、9時頃には館内に通してもらい、9時半から繰り上げて開場(本来は10時開場)、そこからはほどなく入場できたので、意外と待つこともなく見ることができました(とはいえ、よく考えたら開館までの時間を含めて1時間以上は待っているので結構待っているのかもしれません)。

 

 入り口を入るなりスラヴ叙事詩という連作の大きな絵が沢山あって、めっちゃよかったです。進んでいくと見知った感じの小さめの絵もあって、下描きや修作などもあって、めっちゃよかったですし、総じてめっちゃよかったなあと思いました。

 

 オタクと言えばミュシャの絵が好きなことでお馴染みで、僕はオタクなので、ゆえにミュシャの絵が好きということが分かります。僕は漫画のオタクであって、美術に対する造詣は全然ないんですけど、ミュシャの絵は漫画っぽいなあと思うところがあってそこが好きなんじゃないかと思います。

 もちろん、ミュシャの絵は100年以上前の絵なので日本の漫画の隆盛よりもずっと昔のものですし、ミュシャに影響を受けた漫画家も沢山いると思うので、「ミュシャが漫画っぽいのではなく、漫画の絵の方がミュシャっぽいんだよ!」というと、そうなのかもしれません。ただ、直接的な影響というよりは、生態系における似た立場や環境にいる生物が、系統は異なっていても似たような形質を獲得する、収斂進化のようなものを感じたのです。

 その共通点とは、ここではつまり、「線に対するこだわり」ではないかと思いました。

 

 線によって絵を描くということは、鉛筆やクレヨンを持てばみんな当たり前にやることなので、当たり前に受け入れていると思いますけど、結構特殊なことだと思います。なぜならば、自然の中に線で構成されているものはあまりないからです。色と色の境界や、物が形作る光のさえぎりである輪郭などを概念としての線に落とし込み、場合によっては本物の形から崩してデフォルメすることで、物を描きます。それは写真のような直接的で具象的なものではなく、もっと間接的で抽象的なものです。

 抽象的であるということは、線で描かれた絵を見るとき、そこで描かれているものを理解するには、何かしらの解釈が必要だということです。

 つまり、線で描かれた絵が発しているメッセージとしては、「描いた対象そのもの自体」だけでなく、同時に「それがどのような種類の解釈を要求しているのか」ということもあるのではないでしょうか。対象を絵に変換するときに、どのような理屈によって線に落とし込んでいるかによってその絵を描いた人の流派というか、出自というか、これまで何を見て影響を受けてきたかのようなものを読み取ることができます。それはある種の圧縮アルゴリズムの提示とも考えることができるでしょう。そのような形式で圧縮されたものは、正しい手続きによって展開されなければなりません。

 つまり、線で描かれた絵は、その描き方によって、それを描いた人が属する部族と、それをどの部族に見せるために描いているかの情報も含んでいるように思うのです。

 

 なので、例えば1970年代の漫画の絵は、多くが1970年代の漫画の線で描かれているので、絵を見ると、1970年代の文法で描かれたような絵だなあと思うでしょう。そのような絵には、その時代の絵に慣れ親しんだ人しか読み取れない情報が込められているかもしれません。そして、そのような絵から古い時代性を読み取って拒否する人もいれば、むしろ今の絵よりも好きだと思う人もいるでしょう。

 今の時代でも、それらの時代の絵を先祖がえりのように描く人もいます。そこにはその線で描かねばならない何らかの文脈があるのではないでしょうか。つまり、線で描かれた絵というものは、何かしらそれを見る人に解釈を要求し、それゆえに見る人の種類を限定する要素を持ち得るということです。

 となれば例えば、オタクが好むような文法で描かれた絵があれば、それは描いた人がそのような文化に慣れ親しんでいるという表明でもあり、それを好むことは、自分もまたその文化に属しているという表明でもあります。オタクっぽい絵に対する拒否感を持つ人がいますが、それはつまり、そのような絵による表現の授受を行う行為は、そのような文化に属するということも意味するからだと思っていて、何らかの絵柄を好む好まないということはある種の社会的立場の主張のひとつでもあると僕は思っています。

 

 繰り返しになりますが、線を使って絵を描くということは、線ではない写真などの場合と異なり、その解釈に何らかの文脈を要求するものであり、ここに漫画とミュシャの絵を結び付けるものがあるのではないかと思いました。

 

 余談ですが、「線で描く」ということが、「どのような線を選択するかという文脈を要求する」ものであるのだとしたら、線を使わない絵であれば、文脈の要求がそれよりも少なく、普遍性を持ちやすい効果があるということになります。なので、線を使わない代表的な表現である写実的な絵画は、その時代性を感じにくく、対象が写真であった場合もまた同様でしょう。

 また、デフォルメしつつ線を使わない画風といえば、最近では「いらすとや」の絵などが線を極力排した絵で表現されています。もしかすると、だからこそ絵柄に対する拒否感を与えにくく、色々な場所で広く使われやすいのかなあとか適当なことを思ったりしました。

 

 さて、前述のようにミュシャは線で絵を描く人ではないかと思っていて、それは演劇の広告で世に出てきた人であることと不可分ではないのではないかと思いました。つまり、印刷技術の制約によって、カラーの絵を量産する技術がまだ限定的であった時代に練られた画法なのではないかということです。油絵のようなカラーのグラデーションをおいそれと使えない制約の中で生まれる技法は、白黒印刷を前提とした日本の漫画における技法と求められる要素が近い可能性があります。

 ただし、異なる点もあります。日本の漫画が最初からデフォルメされた絵を前提として発達していることとは異なり、ミュシャの絵は実在の役者を線で表現するというところから始まっています。なので、のらくろや初期の手塚治虫の漫画などとミュシャの絵を比べれば、さほど似ているとは思わないでしょう。

 しかしながら、漫画の画風が時代の流れに従って写実性を取り込み始めると状況が異なってきます。つまり、ミュシャは具象から抽象に向かう動きであり、漫画の絵は抽象から具象に向かう動きを見せていて、それらがぶつかる特異点のひとつがあの画風なのではないかと思いました。これはつまり、出自は違っていても、目的地が似ているために、似たような表現に到達したということです。

 もちろんこれはかなり乱暴な言い方で、「日本の漫画の絵」というものは多種多様な要素を含んでいるので、一概にこうと言えるものではありません。現代では写真をベースに絵を起こすことも一般的ですし、美術的なデッサンの方面から漫画にやってくる人たちも沢山います。このように、ミクロであれば異論は沢山思いつけますが、ざっくりとしたマクロな方向性の話として続きを書いています。

 

 共通するものが見て取れるからといって、日本の漫画でよく使われている線を使って抽象的に具象的なものを表現するという技法が、全てミュシャに由来するものであるとは思いません(無論影響を受けた人たちは数多くいるでしょうが)。しかしながら、それぞれの時代時代の日本の漫画家が試行錯誤して作り上げ、その読者であった人々が漫画家となることで、さらにそれをベースにして作り上げ、練り上げられてきたと思われる、現代の漫画の「線で絵を描く技法」のうちの多くのものが、おどろくべきことに100年以上前のミュシャの絵の中で沢山見つけることができたりします。なので、これ、ひょっとして「正解」なんじゃないですか?みんなが試行錯誤しているときに、実はずっと前にとっくに「正解」が提示されていたわけじゃないですか?とか思いました。

 ともあれ、そんな感じに、ミュシャの絵と漫画の絵が、なぜか同じ形質を獲得しているという様相が、面白いというか、ミュシャおじさんはたった一人で漫画の歴史を体現するのかよ!とびっくりしてしまったりするのです。ただし、僕が同時代の作家に詳しくないので、一人でそこに到達したのかどうかの部分は本当にそうか認識があやしく、もしかすると、昨今の日本の状況のように様々な試みと切磋琢磨があったのかもしれません(近い時期の線画による表現では、ロートレックも印象的です)。

 

 初期の広告用の絵とは異なり、テンペラや油彩で描かれたスラヴ叙事詩は線画ではありませんが、その画法の中に沢山の線を読み取ることができます。線は最終的に消えてしまっているものの(一部残っている部分もありますが)、その元に線があったことを想像できる絵作りになっているように感じました。

 それは例えば、大きな絵の中の小さな一角のみを切り取ってみたとき、そこにあるのが平面に見えたりするというところから推察できます。線画の場合、線の描かれていない領域は平面だからです。にもかかわらず、全体を見てみると立体として見て取ることができます。絵には奥行きがあり、そして浮き上がるように描かれたレイヤ構造もあります。

 線で区切られた領域は何も描いてないので平面なんですけど、線を重ねることで、平面の領域を細分化し、その疎密によって立体感を生み出すことができます(メビウスの画法にも通じるところがあり、こちらも漫画の絵に強く影響を与えていますね)。スラヴ叙事詩の絵では、なんかそういうことをしているように思いました。そんでもって、なんというかこう、空間を描いたというよりは、奥行きごとに描いたレイヤを何枚も重ねたような印象があって、手前、中央、奥というように大きく分類され、それぞれに別の解像度と立体感が設定されて描かれているようで、そのために必要な最小限の描き込みがされているという印象を持ちました。そして、もうひとつ印象的なのが、画面の中に黒ベタがないんですよね。

 僕とかの場合、絵を描くときに黒ベタを入れたくてたまらないんですけど、なぜなら、黒ベタは上手く形をとれないときにごまかす上ですごく便利なやり方だからです(上手な人はそういう使い方をしないと思いますが)。黒をベタっと画面に置いてみるとと、そこが落ちくぼんだように見えるので、簡単に画面に手前と奥を表現することができるのです。なので、立体感を演出したいときには、とにかく、その正確性は無視って暗くなりそうなところを塗りつぶしてしまったりします。その黒ベタはベタっと塗っているだけなのでディテールは一切ありませんが、周囲に細かくかいておくと見る人が勝手に見えないディテールを補って想像してくれるので便利です。でも、ミュシャの絵にはそういうところが一切ありません。陰となる部分にも丁寧に書かれた詳細があり、その情報をもって立体が表現されています。

 

 人間の目は明暗に非常に敏感にできているので、白いところと黒いところがあると、目の前にある光景の関係性を忖度して、むしろ誤解を深めてしまったりします。そのよい例が、以前デイリーポータルZであった、人が座っている手前に黒い丸のシートを置くと浮いているように見えるというやつなのですが、なんとなく黒いところを見て、これが影なんだなと思い込んで、これが影だと言うことは、その上に見える人は浮いているんだなというような解釈をしてしまいます。

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 それは錯覚なので、本当は間違っているって話なんですけど、でもそう見えるということが面白く、こういう細かい誤魔化し方を使って僕なんかは絵をちゃんとした形もとらず、影も計算せず、雑に描いているんですが、そのときに便利なアイテムである極端な白と黒を封じられたら、そういうごまかしができないわけで、ミュシャの絵はそんな感じに極端に白いところも黒いところもなしに描かれていて、すごいなあ、上手いなあと思いました。

 ただ、それは別にミュシャだけの特徴ではなく、ちゃんとした絵を描いている人ならできることだと思うので、ただただ僕がちゃんとしてないという事実が分かっただけかもしれません。

 

 そういえば、僕は中村明日美子の絵がすごく好きなのですが、中村明日美子も平面なのに立体で、奥行きをいくつかの平面に分けたレイヤ構造のようになっているのに、そのレイヤ同士が騙し絵みたいにぐんにょり繋がっているというような不思議な絵で、ミュシャとは画風は違いますけど、方法論には共通する部分があるんじゃないかなあと思ったりしました。

 

 線を使って絵を描くことで、写実とは異なる、解釈を求める絵が出来上がります。そして、そんな線を使って写実を取り入れた絵を描こうとすると、平面と立体を取り持つような不思議な絵が生まれると思います。

 それは、単純化と詳細化が作者の意図によってコントロールされている、見せたいところとそうでないところを区別した、「伝えるための絵」になっているのではないでしょうか。そして、線で描かれた絵はある種の暗号なので、それを解釈するための素養と言うか、共有すべき文脈があると思います。そんな中、現代の日本人は漫画の読者であることでそれを既に持っている人も多く、ミュシャの絵も十分に解釈して受け入れることができる能力が子供の頃から鍛えられているんじゃないかなと思ったりしました。

 

 絵を見ながら、こういうことをごちゃごちゃ思って、それが頭の中をごちゃごちゃ流れていったりしました。そんでもって、そのうち何にも考えずに、近くで一部をしげしげと見たり、離れて全体をぼんやり見たりして何時間も見続けていたんですけど、人が沢山いなければ、もっと長時間いれたなあという気持ちがあり、また、沢山の人が絵を見たくて美術館に来てるというのもよい光景だなあという気持ちなどがあり、とにかく会期ギリギリでも行ってよかったなあと思ったりしました。

 よかったよかった。

感情とそれを理性で制御すること関連

 少し前、身内が亡くなった。僕はその報せを受けてああそうなのかと思った。身近な人が死ぬのは初めてではないし、看取ったこともある。良くも悪くも最近ではそういうことに慣れてしまったような気がする。

 

 小学四年生のときにひい婆ちゃんが亡くなった。それは僕にとって物心ついてから初めて経験する身内の死だった。僕はとても悲しくて、その報せを聞いたあと、誰もいないところに移動してすごく泣いてしまった。その夜、お通夜に行って、なんだかとても黄色くなっていて、ぴくりとも動かなくなったひい婆ちゃんを見た。人の死とはこういうことなのかと思った。

 学校のクラスの朝の会で一分間スピーチの当番が回ってきたのが、たまたまその次の日だった(親の判断でお葬式には出ずに学校に行った)。そこで僕はひい婆ちゃんの話をしようとした。というか、そのことで頭がいっぱいだった。口に出すとまた泣きだしてしまいそうなのをこらえて、それを押し殺すように精一杯の作り笑顔で「昨日、ひい婆ちゃんが死にました…」と口を開いた。すると、当時の担任の先生の怒号が飛んだ。「人の死を笑いながら口にするとは何事だ!」。僕は強く叱責され、教室の前にひとりで立ちながら、堰を切ったように泣きだしてしまった。それがなんだかとても恥ずかしくて、また、自分の感情をこれっぽっちも分かりもしない担任にも腹が立って、色んな感情が頭の中を暴れてしまって、自分にはもうどうにもならなかった。

 今となれば、人の死についてへらへら笑いながら喋る子供に、先生が何かしら不安を抱くことは分からなくもない。

 

 当時の僕は感情がとても強く表に出る性格で、すぐに泣いたり、怒ったりしていたと思う。でも、感情を露わにすればするほどに周りの反応が引いていくのが分かるし、そんな自分がすごく嫌だったので、どんなことがあっても感情を押し込めるように努力をした。その甲斐あってか、中学生になる頃には、何があってもあまり動じないようになっていた。その頃からの僕しか知らない妹たちなんかは、いまだに僕が怒ったりして感情を露わにする光景を一度も見たことがないという。僕はそうなりたいと思っていたので、それは成功したということだ。

 

 感情をあまり表に出さない生活を続けていると、よいこともあるけど、悪いこともある。他人が僕にしてくれたことについて、僕が適切なリアクションをとらずに、全部吸い込むブラックホールのような態度をとってしまうようなことがあるからだ。それによって、相手をすごく弱らせてしまうことがある。言うなれば闇に向かってボールを投げて、それが何かにぶつかった音もなければ、返ってくる様子もないようなものだ。手ごたえが何もない。誰だってそんなことは続けられないだろう。

 誰かが何かをしてくれたときに、僕は心では嬉しいと思っているのだから、全力で喜んだりすればいいし、好きなものを見たときなんかには熱狂的に興奮してもいい。そして、嫌なことをされたと感じたなら怒ったりすればいいはずなのだけれど、自分で自分の感情につけた枷がそれを素直に表すことを許さない。

 僕に何かをしてくれる親切な人たちが、僕が喜んでいるのか悲しんでいるのか怒っているのかよくわからず、よくわからなくなるから嫌になってしまうと伝えてきたこともある。こういう経験を思うと、多分、素直に感情表現できた方が、人と上手くやっていくにはきっといいということなのだろう。そう思って、だから頑張ってそうしようとはするけれど、もはや上手くできない。素直な満面の笑顔ではなく、口元をニヤリとしただけのぎこちない笑顔になってしまったり、仮に怒ったとしても、それを抑制する機構が強すぎて、すごく淡々とした語り口調になってしまったりする。

 僕はこういう人間に育ってしまったし、感情は、強い理性の枷の下に押し込められているのだと思っていた。それが他人にとっては決して中身を露わに見せようとしない胡散臭い人間であるように見える理由になるだろうし、一方、他人との軋轢を生まず、淡々と日々を送るために上手く機能している部分もあるのだと思う。だから、そうであること自体は別に悪くないはずだ。今の生き方は僕が望んだことで、そこに他人に対する申し訳ない気持ちがあることを除いては、大した不満もない。

 

 今さら身内が死んだということぐらいで動じたりはしないだろうと思っていた。それはとても悲しいとは感じているけれど、僕はもうそれを淡々と受け止められてしまうだろうし、葬儀の準備や相続の手続きを淡々として、それで終わりだろうと思っていた。あの日連絡を受けて、その日のうちに仕事を休むための調整をし、次の日の夕方までに手元の仕事は大体上手く一区切りつけて、飛行機で地元に帰った。事務的で淡々とした行動だった。

 

 お通夜の席には既に地元の親戚が集まっていて、僕は数ヶ月前の休みに帰ったときぶりに故人と対面した。何も動じないつもりだったし、実際、いつものように大した感情表現もなく葬儀の準備に既に動いてくれていた人たちの手伝いに加わった。

 人は誰でもそのうち死ぬ。それは誰にでも起こることだから、それ自体は決して不幸なことではないと思う。そもそも今回は遠からず死ぬかもしれないことは分かっていたから、会うたびにもうこれで最後の会話かもしれないとしばらく前から思っていた。故人との関係性で思い残したことは特にない。過ごすべき時間は過ごしたし、喋るべきことは喋った。何も問題ない。大丈夫だ。2日だけ休んで色々済ませたら、その次の日には仕事に復帰しようなどとそこまでの手順を頭の中で作ったりしていた。

 でも、ピクリとも動かなくなった故人の姿を横に、亡くなったときの様子の話を身内としていたら、自分でもびっくりするぐらいの感情が急に押し寄せてきてしまい、めちゃくちゃ泣いてしまった。そこには、理性で制御しようなんて、思うことも馬鹿馬鹿しいぐらいの強い感情があって、それは故人との間にあった数十年間の出来事がたった数秒の間に全部まとめて押し寄せてくる走馬灯のような感覚だった。

 一旦堰を切ってしまったら、もう押しとどめておくことは不可能だった。少しの刺激があれば、ボロボロ泣いてしまう感じだった。口を開けば泣いてしまうから、頑張って黙って葬式の準備に集中した。

 

 1日経ったぐらいではどうにもならなかった。徒歩2分のお寺の境内に仮設の葬儀受付を作らせてもらい、故人の遺影を抱えて、参列者を出迎えた。その間、ずっと泣いていたと思う。普段、感情回路が死んでいるような僕が、ずっとそんな調子だったので、色んな人に心配をかけてしまった。それが申し訳なかったし、恥ずかしかったので、どうにか抑え込もうとしたけれど、完全に無理だったし、どうしようもなかった。結局、葬式が終わり、火葬場に向かう霊柩車の中でもずっと泣いていた。

 人が死んだこと自体がショックだったわけではないと思う。何らかの後悔があったわけでもないと思う。そんなこととはまるで関係ない、意味も分からない、喜怒哀楽のどれに分類すればいいのかも分からない強い感情だけがあった。色んな思い出やなんやらがぐちゃぐちゃに混ざった塊だった。その奔流を前にしては、理性は障子紙で津波を止めようとするぐらいの頼りない力しかなかった。

 

 まさか自分が、遺影を抱えながら泣きじゃくる人なんかになるとは思わないわけじゃないですか。でも、なるんだなと分かった。自分の持ち合わせているような理性みたいなものでは、強い感情を押し込めることなんて、どだい無理なことなんだという実感だけが強く残った。

 

 自分にとっては感情なんて大した力のないもので、どんなことがあってももう動じないぐらいの鉄の精神があって、どんな悲しいことがあっても、変わらず動けるような情の薄さが自分だと思っていた。けれど、それはただそう思い込んでいただけで、実際はそうではないと分かった。

 そんなふうに、どうしようもないことがあることが分かったので、これからはどうしようもないこともあると思って生きていくべきだなと今では思っている。ただ、だからといって、普段はやっぱり相変わらず、感情があるんだかないんだか、ボーッとしてへらへらと笑っていて、何があっても別に怒った態度も悲しんだ態度も見せずに、喜び方も悲しみ方もなんか他人に伝わるように出すことが下手くそで、そんな感じで生きている。でも、どこかの何かは決定的に切り替わってしまったような気がしている。

 

 人間の持ち合わせる強い感情的なものを実感したあとでは、それを理性で制御しようだなんておこがましいとは思わんかね?と、大自然の雄大さを目の前にしたちっぽけな人間の姿のようなものを思い浮かべる。何もないときには理性でなんでも思ったように制御できるような気持ちでいても、強い感情に決して抗えない状況というものはこの先きっとまたあるだろう。

 そう思って、最近は生きてる。