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「トコノクボ」について

 榎本よしたかの「トコノクボ」は作者の半生を綴った自伝のWeb漫画で、それが加筆修正のもと電子書籍Kindle)で「トコノクボ-とある絵描きの半生記-」として出版され、それがさらに加筆修正のもと先日、「トコノクボ-くじけない心の描き方-」として紙の文庫本で出版されました。それを買って、また読み直したので、読んで思ったことを書きます。

 

 

以下がWeb版です。

tokonokubo.blog.fc2.com

 

 本作は、絵で食べていくことを志した小学生の榎本よしたか氏が大人になり、様々な困難の中で、紆余曲折を経つつ、絵で食べていけるようになるまで(と、その後日談)を綴ったものですが、ここで描かれているのは、誰も先に歩んだことのない自分で切り開いた道であるように思います。

 「絵で食べていこうと思い、絵で食べていけるようになった」ということはある種のサクセスストーリーですが、ここにあるのは、サクセスストーリーという言葉から一般的に想像されるような道筋とは異なるものではないかと思います。なぜならば、サクセスストーリーと聞いてまず思い浮かべてしまうのは、想像力の問題から、既に切り開かれているような道になってしまいがちになるのではないかと思うからです。誰かが切り開いた道をなぞるということは、安心できる道を通るということです。なぜ安心できるかというと、その道を誰かが一度は通ったことがあるという実績があるからです。そして、それが何人もが通ったことのある道であればなお安心です。人は安全に成功したいがために、誰かが既に切り開いた道の上を歩く想像をしてしまうのではないでしょうか。

 ちなみに、僕も貧しく困った子供の頃から、ご飯を食べるのにはまるで困らないと思えるところまで、なんとか辿りつけたクチですが、そのために通った道は、当時の僕が想像した安心安全な道です。それがどんな道かというと、学校の勉強をして、借金をしつつも大学に進学し、専門性の高い知識と経験を手に入れて、それを元に仕事を得るというものです。これは言い換えれば、需要のある専門知識を、社会的な補助と確立された教育システムを通じて効率的に得る方法を利用したということで、これは確実性が高いわけです。なぜならば、その道を通った人が既に沢山いるからです。そのレールに乗ってしがみつき続けさえすれば、なんとかなると思っていましたし、事実なんとかなりました。だから今も生きていますし、生きているのはとても素晴らしいことですね。

 

 学校の勉強をするのが貧困から脱するのに楽な道なのは、その先に切り開かれている道が比較的太いことも大きいと思います。学校の勉強をちゃんとした100人がいたとしたら、即座に上手くマッチングできるかは別として最終的に90人は食べていけそうな感じがします。ただ、絵で食べていくというのは、志す人が100人いたとしても、10人も食べていけないかもしれません(数字はイメージなので適当です)。

 

 「絵で食べていく」ということの王道として想像するものといえば(それが実態と合っているかは別として)、何かの賞をとるとか、誰かに才能を見出されるとかそういう種類のサクセスストーリーではないかと思います。誰かに見出してもらうということを道として想像してしまうと、画力の研鑽は誰しも行うとして、誰かに選んでもらえるまで待ち続けるということになってしまうかもしれません。

 でも、本気でそれで食べていこうとするならば、少しでも確率を上げるために、自分で道を切り開くということが重要なのではないでしょうか。つまりは地道で自主的な営業活動ということです。自分を売り込み、自分には他人にはないものがあることをアピールし、それをもって次の仕事を勝ち取るということです。この漫画では、そういうことが描かれていると思います。偶然つかんだチャンスを手に、それを手放さないように、要望に応え続けること、大量に受注し、速くこなし、大量に制作するということ、そしてなにより、それを続けたということです。

 たまたま回ってきた法定画家の仕事から広がったテレビの仕事は、受注からの締切が早く、時間も不規則、大量にこなそうと思えば24時間体制で、対応し続けなければなりません。それを続けたということ、期待に応え続けたということが重要で、それは簡単にはできないことなのではないかと思います。

 

 様々な不運から、他人の借金を背負い込み、お金が必要になったよしたか氏は、「お金が必要ならばやるしかない」という決意のもとに、大量受注と大量製作を繰り返し、それをやってのけます。それは簡単な道ではなかったことだと思います。やり方を考えたとして、それを自分で実行し続けるということは普通はなかなかできないことだからです。少なくとも僕はろくにやってきませんでした。それが正攻法だと思ったことがあっても、できないだろうなと思ってやろうとせず、できそうなことを繋げてごまかすというような方法を使ってきました。なぜなら僕がなまけものだからです。

 普通はそんなものだと思うのです。何かの解決したい課題があったとして、それに対する何か良い方法を考えついたと思った人が沢山いたとしても、それを自分で実行するところまでいけることはまれです。一方、自分ではやらないのに、他人にやらそうとしているのはよく目にしますが。

 例えばダイエットは食べずに運動すれば普通は成功しますが、それを行動で実際にできる人は多数派ではありません。実際に行動をして自分の思い描いたことを実証してみせるということは困難なことです。

 

 この漫画で描かれているのは、それをやってのけたということ、そして、そのための方法は皆がまず想像したようなものには限らないんだよというような道を見せてくれるということだと思います。やる前に想像したようなレールに様々な理由から乗りそこねたとしても、まだ、いくらでもやれる方法はあるということです。それは簡単な道ではないかもしれませんし、その過程で幸運もあり、不運もあるしょうが、何かを目指すときに道はひとつとは限らないということです。それがまた新しい道となるならば、この漫画を読んだ人は、そのような道をもう少しだけ楽に歩むことが想像できるかもしれません。

 

 この漫画のひとまずの締めくくりの部分では、「これまでの点の経験がひとつの線のように繋がっている」というように回想されています。しかし、それは今から過去を振り返るから一本に見えるのではないかと思うのです。つまり、枝の先から木の幹を目指せば一本道に見えるということではないかと思っていて、そもそも幹から枝を目指していたときには多くの先が見えない分岐があったのではないでしょうか?

 一本の線になってしまえば、因果関係が既に明確ですから、外から語られるのは簡単です。今僕が書いているこの文章のように、こうだったのではと雑に簡単にまとめられてしまいます。そんな順序を踏めれば、自分だってできるはずだと思うこともあるかもしれません。他の何かとの共通点を見出して、ありがちな成功譚としてまとめられるかもしれません。でも、実際にやってきたことは、先の見えない中で多くの選択をしてきたということではないでしょうか。そして、ようやく今まで辿ってきた道を振り返れるところまで来たということだったのではないかと思いました。

 

 世の中には諦める理由は山ほど転がっています。諦めることは挫折であり辛いことですが、なぜ諦めるかというと、それが諦めないことよりも楽な選択だからでしょう。諦めないことの方が挫折することよりも辛いのだと思います。だから、頑張りたくない場合、諦める理由を便利に使うわけです。あるいは悲劇のように語るわけです。実際は楽な方の道に流されているだけであったことをごまかし、「やめた」を肯定的に認識するために。

 ただ、自分が目指す場所はどこで、そこに登っていきたいなら、何をすべきか、それが今まで誰もやったことがないことであっても、暗闇の中を前に進むことが、道を切り開くことなのではないかと思いました。ただ、それで失敗してしまう人もいるのでしょうが。というか、そっちの方が多いかもしれませんが。何度失敗したとしても、そこが終わりということはないのだと思います。くじけない限りは。

 

 持てるものを全て使ってなりふり構わず進んでいけば、いつかどこか望む場所に到達したとき、全ては意味があったことであると思えるかもしれません。そこに意味を見出すのはそれを成し遂げたときの自分なのだと思います。などと、読んでいてそんな感じのことを思ったりしたのでした。

 

 自分のことを棚に上げて偉そうなことを書いてしまいましたので、ごまかすために適当な駄洒落を書いておくと、「肉味噌の秘密をそっと憎みそう」というやつを考えて、これはドラゴンボールヤムチャが考えた「鼻くその秘密をそっと話(く)そう」というやつのパロディなのですが、この駄洒落!すごい面白いのでは!!??と思って考えたのに、今まで聞かせた人たちはみんな苦笑いをするばかりでちっともウケないので、僕もここでくじけてはいけないと思い、ウケるまでずっと言い続けようと決意を新たにするのでした。

 

完。