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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ちひろさん」について

 「ちひろさん」はエレガンスイブに連載中の安田弘之の漫画で、風俗嬢の漫画「ちひろ」の続編です。今3巻まで出ています。本作では、風俗嬢をやめ、海の見える町のお弁当屋さんで働くちひろの姿が描かれます。僕はこの漫画が非常に好きなので、その話を書きます。

 

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 この漫画の好きなところのひとつは、ちひろの生き方の心地良さです。自分が正しいと思ったことを、自分が感じるままに行うということ、たとえ、それが世間一般の価値観とは違っていたとしても、自分の価値観を守るということの大切さです。また、そこでは、価値観の違う他人に反発し、力のままにねじ伏せるというよりは、上手に手玉にとって、上手い具合に着地をさせるような方法をとります。ただ、ときには強い言葉で突き放すこともあるのですが。

 彼女は繊細な感性を持ちながら、強く生きる女性です。繊細なだけなら社会との軋轢の中で傷つくばかり、強いだけなら他人を傷つけても自分を押し通すばかりになるはずです。繊細かつ強くあるということは、言い換えれば「優しい」ということだと思います。そんな優しいちひろさんが、飄々と生きています。そして、そのような生き方は孤独と表裏一体です。

 自分らしくあるということは、他人らしくないということです。たまたま奇跡のように似たような感性の人間と出会うことがない限り、自分らしさを保つということは、概ね孤独と付き合うということになるのではないかと思います。そして、その孤独を愛せるかどうかではないかと思います。自分がひとりでいるということを愛せる人は、そういられますし、不安になる人は自分を曲げてでも他人と一緒にいることを選ぶでしょう。それはどちらが正しいということもないと思います。ただ、自分を曲げるのが辛いのに、他人と一緒にいようとすること、ひとりでいるのが辛いのに、ひとりでいるしかないということは悲しいでしょう。自分に合った生き方を選ぶということが重要なのではないかと思いました。

 

 1巻で好きなエピソードを2つ挙げます。
 ひとつは、ちひろの風俗嬢時代の後輩が訪ねてきたときのものです。彼女はちひろを尊敬し、ビジネスに誘います。元風俗嬢のふたりで世間を見返してやりましょうと持ちかけます。しかし、ちひろはそれを拒絶します。後輩は、ちひろを可哀想だと思い込んでいます。年齢から風俗嬢も続けられず、お弁当屋さんでもやるしかない可哀想なちひろ。世間から蔑まれているちひろ。そんな、ちひろと一緒に世間を見返してやろうと思い込んでいるのです。悪い娘ではないのです。でも、それはちひろのことを、ある決まった小さな枠に納めてしまっています。それは例えば、世間の常識というような枠組みです。風俗嬢だから蔑まれても仕方がない。そんな風俗嬢すら続けられなくなったのは可哀想に違いない。外部の価値観を自分の中に取り込み、いかにそれを見返すと思っていたとしても、そう思ってしまった時点で、その外部の勝手な常識を受け入れてしまっています。ちひろはもっと自由です。風俗業もお弁当屋さんも自分がよいと思って選んだ道です。世間が何を思ったとして、それ以上に自分が拘る何かがあるから自ら選んでいるのです。ちひろはそんな後輩を突き放したような言葉を発します。

 もうひとつは、学生の女の子とのお話です。彼女は真面目に学校に通い、成績も優秀、貧乏でもなく家族仲もよく、何不自由ない生活をしています。しかし、そんな中をたまらなく息苦しいと感じて過ごしています。女の子はちひろと出会います。ちひろはそんな女の子に何も聞きません。その女の子が何者であるのかを、ただ目を見るだけで判断します。それ以外の情報は、全部大して重要なものではないのです。女の子はそんなちひろに惹かれます。そして、何不自由がなくとも、自分はこれが息苦しいのだ、自分がそう思うことは、自分が思っているのだから正しいのだと思えるようになります。自分の外の価値観よりも、自分の中の価値観に向き合えるようになるのです。

 

 さて、「自分とは何者か」を説明しようとするとき、それが自分ではなく、自分以外のものの説明になってしまうことがあるのではないでしょうか?何々という学校を出て、何々という会社に勤めていて、誰と結婚し、どんな子供がいるか。何と何が好きで、何と何が嫌いか。あるいは、誰か有名な人と知り合いであるということを最初の自己紹介で述べる人もたまにいます。それらは、その人自身ではないのに、その人は自分の自己紹介としてそれを言ってしまいます。では、もしそれと同じ条件を満たした他の誰かがいたとしたら、それはその人と同じ人なのでしょうか?そうでないのだとしたら自分とはいったいどこにあるのでしょうか?自分と向き合うことを避けてしまえば、どんどん自分以外が自分という存在を決めてしまうことになります。そうなったとき、自分の生きたいように生きるということは、他人に合わせて生きるということとどこが異なるのでしょうか?そして、それは、本当の自分の生きたい生き方と合っているのでしょうか?合っていないなら、それはとても辛い生き方なのではないでしょうか?

 

 世の中には正しい生き方があって、それとどのくらい違うかの減点法で、残った点数で幸福が決まるというような感じ方、あるいは、その正しい生き方をしさえすれば幸福であるに違いないというような考え方があるように思います。ちひろの生き方は、そうではない生き方もあるという視座を提供してくれます。

 「あなたは世間一般に見て、恵まれた条件を沢山持っているのだから幸せと感じなければならない」ということ、それを裏返して、「自分が幸せを感じられないのは、世間一般で共有された幸福の条件が満たされていないからだ」と考えてしまうこと、僕が思うに、それはとても辛い生活なのではないでしょうか?だってそれらは他人の価値観なのですから。自分が満たされていないことの理由を、他人の価値観に求めても、それは所詮他人の価値観ですから、それらが達成されたからといって満たされるとは限りません。そうなれば、また別の条件を求めるだけになってしまうのではないでしょうか?そして、それはまたしてもハズレかもしれないのです。

 誰が何と思ったっていい。自分が感じる自分の正しさに寄り添い、そして、その上で他人とも上手くやっていくことができれば、その飢えは満たされるのではないかと思うのです。他人と違うことは悪いことではない、でも、違うことで他人たちが「違う違う」と言ってきたりはします。そんな彼らとの接点を上手にいなしながら、自分の中の大切なものを守るような生き方をちひろはしているように感じました。

 それが僕が欲しかった言葉であり、欲しかった行動です。それはとても優しく、自分もそうありたいと思うのです。

 

 十年以上前に一度終わった「ちひろ」の物語が、今に再び「ちひろさん」として始まったのは意味があると思います。

 例えば、ネットに繋いでみれば、毎日のように「正しい言葉」が流れています。他人と接するときにはこうしなければならない、あるいは、こうするのは失礼だ。こういう状況ではこうするのが常識だ。この本の正しい感想はこうでなければならない。この言葉の正しい使い方はこうだ。などなどなどなど、それぞれちゃんと論拠のある正しい意見であったりすると思います。でも、それらを全部満たした行動をせざるを得ないとなると、それはとても窮屈な世の中です。他人の価値観に合わせて、それに反しないようにあらゆる行動が制限され、自分の意志が極小に収められてしまうような世の中です。真面目な人ほどそれに合わせてしまうでしょう。そして、それを辛く感じてしまうかもしれません。他人の正しさに自分の正しさが押しつぶされてしまうかもしれません。それを皆が互いにやってしまうことで、皆が皆、辛い辛いと思いながら日々を過ごさなければいけないかもしれません。

 自分にとって正しいことが何で、他人にとって正しいことが何で、それが矛盾するとして、その上で、それでも他人と上手くやっていく上ではどうすればいいのか?決まったルールを守っておけば免罪されるというのではなく、そもそもの部分に再び立ち戻ることが必要なのではないかと僕は最近思っています。

 そう思ってもいいんじゃないかと、ちひろさんの生き方に後押ししてもらっている気がするのです。

 

 ということで、正しいことに囚われ過ぎてしんどい人は、許されて楽になる感じがするので、レッツ読もう、「ちひろさん」。