漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ねぇ、ママ」を読んで思ったこと関連

 池辺葵の「ねぇ、ママ」はエレガンスイブにたまに載っていた、母と子をテーマとした連作短編の物語です。この前、単行本が出て、電子書籍でも出ています。僕はこの漫画にすごく感じ入るところがあったので感想を書きますが、それはそうと、僕の感想からではなくまず最初は漫画を読んだ方がいいのでは…という気持ちが強いので、まずは買って読んでくださいよと思います。

 

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 さて、素直な皆さんは買って読んで頂けたということで続きを書きますが、池辺葵の漫画で描かれることが多いのは、なんとも言えない状況です。すごく曖昧な言葉を使いましたが、もうちょっと具体的に言うなら、人と人の関係性の中で、必ずしもどちらかが悪くどちらかが正しいとは言えない状況ではないかと思います。そんな状況において、人が何をどう感じているかということです。

 人間は主観で考えれば、物事を自分にとって都合よく捉えがちでしょう。仮に自分にとって悲観的な想像をしてしまいがちな人も、その悲観的な想像が自分にとって何らか都合がよいからしているのだと僕は思っています。主観は常に歪んでいるのです。

 例えばとても悲しい気持ちになった人がいたとして、その人にそう思わせた相手は悪い人なのでしょうか?あるいは、とても正しいことを言う人がいたとして、その正しさは本当に人を幸せにするものなのでしょうか?

 人の選択の裏には、その人の主観的な正しさがあるものだと思います。しかし、それは別の人の視点からすれば間違っていると捉えることもできるものです。なら、客観的な正しさとは何なのか?そんなものは実は存在しておらず、誰しもそんな幻に囚われているだけなのではないか、などということを考えてしまうのです。

 

 「ねぇ、ママ」に収録されている物語には、「間違っている」と分類できそうな人たちが出てきます。しかし、それらの人は単純に悪として断罪されているわけではありません。この単行本においてそれが特に色濃いのは「夕焼けカーニバル」と「カラスの鳴く夜にヤニクは」の2作です。そこのあるのは自分の都合で子を捨てる母親の姿です。

 

 僕はこれらのお話を個人的な体験との類似によってあまり冷静には読めないので、これは僕個人の特殊な思い入れなのかもしれません。僕は「子を捨てる親」の姿に、必ずしも間違ったものだけを見出してはいません。

 世の中には、そのような、子を捨てる親の姿を責める風潮はあるでしょう。そして、それを責めることも社会的な規範を考えれば間違ってはいないだろうとも思います。でも、そこになんだか割り切れないものがあるわけです。そんな自分の中で整理もついていない、肯定的なものなのか、否定的なものなのかも分からないその感情が、この物語の中で描かれている気がしていて、その感情はずっとあったはずなのに、気づいていなかったものに気づかされたような気持ちになります。

 

 「夕焼けカーニバル」では、親に捨てられた子供の姿が描かれます。その子、ワカちゃんはなんとその事実に気が付かず、机の上に残してくれたわずかなお金でパンを買い、毎日学校に通っています。ワカちゃんは自分が捨てられてしまったなんて少しも考えていません。母親の書き置きを読んで、母親に感謝して毎日100円のパンを買って、それだけで生きています。

 周囲の大人たちはなんとなく異変を察しつつも深入りできない状態で、ワカちゃんを見守っています。ワカちゃんの次の居場所を見つけてあげるのは、その見た目から魔女なんて呼ばれた、骨董屋を営むひとりのおばあさんです。厭世的で、家族を持とうとせず、ひとりで生きているおばあさんです。いや、彼女にも家族はいます。それは血のつながりではなく、生まれ育った孤児院の人々で、それは血のつながりが生んだ関係性ではありません。ワカちゃんは捨てられました。血のつながりのある実の親に捨てられました。果たしてそれは不幸なばかりのことでしょうか?

 

 ワカちゃんがひとり残された家に立ち入ったおばあさんが見たものは、子供のために買ったであろう沢山の本や、角にぶつかっても怪我をしないように補修された机、そして、沢山の服(おそらくは手作りの)です。その痕跡に、たったひとりで子供を育てようとした母親の姿が浮かびます。

「愛情がなかったわけじゃないさ」

 おばあさんはぽつりと呟きます。きっとそうでしょう。愛情がなかったわけじゃないでしょう。でも、疲れてしまったんじゃないでしょうか。それは悪でしょうか?悪かもしれません。でも、世の中こんなことばかりじゃないですか。辛い状態に追い込まれて逃げられず、逃げれば責められることが分かっている。どちらにしたって辛いばかりです。ついに母親の立場という荷を下ろしてしまった彼女には、他にどんな選択肢があったのでしょうか。

 何かを悪と責め立て断罪するのは楽な話です。それは当事者ではない人にとっての楽な話です。辛さや悲しさは他人に押し付けて、自分のせいではないということを証明するための正義です。ああすればよかったのに、こうすればよかったのに、やるべきだったことを沢山賢しらに教えてくれるでしょう。それをするのが、自分ではないことほど、人は気軽に言ってのけるものです。世の中は、言えば単純だが、するのは困難なことばかりです。そして、それを続けることはもっともっと困難でしょう。

 

 あのおばあさんが家族を持とうとしないことは、意図的に選んだ生き方ではないかと思いました。彼女もまた捨てられた子供だったからです。親と子の繋がりというものに大した価値を見出していないのかもしれません。あるいは、それを自分が持つことが怖かったのかもしれません。

 子を捨てる親は悪いかと問われれば悪いと答えるしかないでしょう。自分がそうならない自信がなく、悪くなりたくない人は、初めから子を持とうとは思わないかもしれません。そこに、幸福な未来が想像できないのであれば、踏み出せば最後、何が起きても自己責任と突き放されるのであれば、無邪気に踏み出すには遠い一歩です。その辛さを知っていればなおのことでしょう。おばあさんは、そのまま歳をとったのかもしれません。

 しかし、ワカちゃんは、その捨てられた子は、親のことをちっとも恨んでいません。今は気づいていないだけで、将来恨むようになるのかもしれません。でも、孤児院に引き取られて行くそのときまで、一切濁らず、母親を好きなままでいるワカちゃんの姿に、厭世を気取っていたおばあさんがその胸の内を吐露します。

「お前はなんていとしい子だ」

 その言葉は、ワカちゃんの目の中に自分が失ってしまったものを見たからではないかと思いました。親を恨み、親子の関係性を拒絶して生きることは、何より親子という関係に囚われている生き方であるのかもしれません。無邪気な目線には、そんな胸の内に残ったわだかまりに目を向けさせる力があったのではないかと思いました。

 

 この物語を読むとき、僕はあのおばあさんであり、僕はあのワカちゃんでもあります。両方の気持ちが分かる気がします。ここから自分語りが始まりますが、母が僕を祖父母の家に預けていなくなったとき、僕はしばらく誰かが家に来るたびに玄関まで走って行っていたと聞きました。また別のとき、ひとりぼっちでずっと入院していたとき、ベッドを何度もこっそり抜け出しては両親が来ないかとエレベーターの前でずっと待っていたのだそうです。親が好きだったのでしょう。僕自身はそのことをおぼろげにしか憶えていませんが、祖母が何度も聞かせてくれました。しかし、ついに親が迎えに来てくれたとき、僕はもはや警戒してちっとも寄りつこうとしなかったのだそうです。

 それもあってか、小学生のときの僕はすっかり親もまた他人だと思っていました。それは嫌いということではなく、他人と接するように親と接していたということです。赤の他人が、住む場所や学費を出してくれているのと同じように、そんないわれもないのにそうしてくれているという、そういう種類の親への感謝の気持ちがありました。怒ったこともありません。親に無償の何かを期待をするという気持ちは幼少期に使い切ってしまっていたからです。それは別に恨んでいるということではないんです。食う物も寝る場所もあるだけで十分感謝するべきことだと心から思っていました。

 なので、子供の頃、「親が自分のために何かをしてくれない」と怒ることのできる人を羨ましく思う気持ちがありました。それは自分には決してできないことだからです。親だからといって子に何かを与える義務があるなんて、そんないわれはそもそもないだろうと感じてしまっているからです。

 

 書いていて、自分の中にまだ色々しこりは残っているのだなとは感じます。しかし、本当に恨み言はなく、そう育ったことも、今の自分の状態も気に入っているんですよ。

 

 「カラスの鳴く夜にヤニクは」もまた、親に捨てられた子のお話です。娼婦の母親に捨てられたヤニクを、ザザはたったひとりの家族だと思います。修道院の中で、血のつながりではなく、主への信仰によりつながった彼女たちにとって、親はもういなくなった存在です。ザザはヤニクを初めての家族と思い、一方ヤニクは自分を捨てた母のことを想います。ヤニクは自分を捨てたはずの母のことをまだ慕い続けているのです。そしてこの物語は、「夕焼けカーニバル」とは異なり、結婚して生活が安定した母がヤニクを迎えにくるところで終わります。そんなヤニクを見送るザザの姿で終わります。

 

 ザザには親の記憶はないのでしょう。修道院の中でヤニクだけがザザにとっての特別です。文字の覚えが悪く、仕事も上手くやれない、表情も乏しいヤニクに、ザザはお姉さんのようにかまい、はじめてできた家族だと言います。そして悲しいことに、ヤニクにとってはそうではありません。ザザの元を去るとき、つまり母親が迎えにきたとき、ヤニクは今まで見せたことのない笑顔を見せます。

 ヤニクにとっては母親が特別で、自分を捨てた身勝手な母でさえ慕う対象です。自分の都合で捨てた母なのに、都合がよくなればそれがなかったことであるかのように振る舞うのです。そんな母をヤニクはまだ慕うのです。

 ヤニクの笑顔で去っていく姿を見て、ザザは「よかった」と呟きます。このときの表情がすごいわけですよ。見ればわかるわけですよ。「よく」なんてないわけですよ。ザザは自分の家族を奪われたのですから。それもあんな身勝手な女に、ただ血がつながった母親だと言うだけで。そして、それをヤニクが嬉しく思っているということもまた理解してしまっているわけです。

 

 ザザは自分の中のどす黒い感情と、それを表に出すことが何も生まないという「正しさ」を分かっている賢い子です。そして、であるがゆえに悲しく哀れな子です。ザザは自分の気持ちよりも、ヤニクの気持ちを優先させます。なぜなら、ヤニクはザザにとってたったひとりの家族だからです。

 

 あの身勝手な母親とは自分は違うという正しさが、ザザを縛り、家族を失うことを受け入れさせます。自分の望みが不幸を招くと知ったとき、それでも望むことは罪でしょうか?あるいは、そこで我慢することは正しいのでしょうか?どちらにしたって完璧な正解はありません。正しさが人を救うとは限りません。間違ったことだって不幸を招くとは限りません。

 どうすればよかったと問われるとき、どうしようもなかったことだって山ほどあります。この物語の中で、ザザがたったひとりで受け止め、自分だけで処理しようとした感情の大きさを思います。それを読む自分の中に強く大きな感情があることを確認します。

 

 正しいことが正しいわけでもなく、間違っていることが間違っているわけでもないのが世の中なんじゃないかと思います。みんなが正しくても不幸は生まれうるし、間違いが残っているからといって幸福が訪れないわけではありません。正しさと間違いの交錯する曖昧な一点を池辺葵の漫画はするりと通過していきます。それは取りこぼされていることすら気づきにくいような場所です。

 

 唯一無二の正しさというものは、それにそぐわない残りの全てを間違ったものにしてしまいます。正しさは色んなものを傷つける可能性も高いんじゃないかと思います。もちろん間違いだってそのまま他人を傷つけます。誰しも幸福になりたいだろうに、その過程で別の誰かを不幸に落とし込むような言葉ばかりを選んでしまったりもします。

 悪者を見つけて、全て消し去った先に、清浄で正常な素晴らしい未来があるのだろうか?と思います。そこにあるのは、傷ついた人々の残骸だけなんじゃないだろうかと。

 

 僕は親に対してずっと他人行儀で、それは十分大人になった今でもそうです。頼られれば応えますが、こちらからは頼らずに生きたいと思っています。その意味で、本当に他人とあまり距離感が違わないのです。ワガママを言ったり、怒ったりもしません。そんなに距離が近くないからです。それは意思の力でそうしているわけではなく、そうなってしまうのでどうしようもないのです。

 でも、大学進学で実家を出る少し前に、珍しく母と2人で出かけて(大家族なので普段は他の兄弟の誰かがいる)、必要だろうからと作ってもらったスーツと、買ってもらった靴を、十何年経った今ではもう着ることはないのに、靴も履きつぶしてしまったのに、いまだに家に置いてあって捨てられないような可愛いところが僕にはあるわけですよ。

 具体的に書けば責められるところなんて無数にあった家庭で育ちましたけど、それを見ず知らずの他人に責められたとしたら、僕はきっと怒るのだと思います。それは僕の家族に対する侮辱だと思うからです。人間は完璧ではないですし、責めようと思えば責められるところはきっと無数にあります。その中で、そんなことがある上で、なんかいい感じにやっていくのが人生なわけじゃないですか。

 完璧でないことを責められるのだとしたら、世の中の全ての人はきっと何かしら罪を抱えています。あるいはそう思われないための嘘でもついていなければならないでしょう。ならば完璧じゃない中で、なんとかおっかなびっくりいい感じに生きていきたいじゃないですか。

 

 amazarashiは現代の人々が持ちやすい厭世観とその向き合い方を端的な言葉で歌うバンドだと思いますが、その「空っぽの空に潰される」という曲にこういう歌詞があります。

 「恒久的な欠落を 愛してこその幸福だ」

 

 世の中が、自分のいる場所が、完璧ではなくともその中で生きていくしかありません。そこにはは辛く悲しいこともありますが、決して不幸ばかりとは言えないのではないでしょうか?これがこの漫画の描きたかったことかは分かりません。ただ、読んでいて僕はそういうことを思ったわけなのです。