漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

最終回のない物語について

 物語には始まりがあって終わりがある場合が多いと思われますが、世の中には最終回を迎えず、終わらない物語もあります。例えば掲載誌が休刊して続きが載らなくなってしまったとか、作者が病気で描けなくなってしまったとか、作者が亡くなってしまったとか、予算がなくて続きが作れないとか、物語の途中で何故か急に載らなくなってしまったとか。様々な理由で終わらない物語が生まれます。始まりのない物語はありませんが、終わりのない物語はあります。なので、物語は終わった数よりも、始まった数の方が多いものだと思います。

 

 例えば、ある漫画家さんには、連載開始は読んだような気がするものの、どうにも最終回を読んでないような作品が色々あるような気がすることが多く、あれが終わってないのに新しいのが始まっている!と思って毎度びっくりしたりしていました。ただ、ちゃんと追っていくと、放り投げたわけではなく、ゆったりと同時に不定期に連載しつつ、徐々に終わらせていたりもするので、いずれ全部終わるのかもしれないなどと思いながら読んでいます。

 

 今連載形式であったり、続編へと繋がる謎を残し続けて進められている物語の多くは、まだ終わっていない物語です。今進められている物語の数だけ、終わっていない物語があり、それがどこかのタイミングでちゃんと終わるものもあるでしょうし、ちゃんと終わらないままに人目に触れなくなっていくものもあるでしょう。

 

 沢山の物語に接していると、どうしても終わらない物語に接することも増えます。あれはどうなったんだろう?と思いながら、その物語に対して頭の中に作った、続きを受け付ける窓口を開いたままにしています。終われば閉じてしまえるので、人によっては終わらない物語によってその窓口を開いたままにされてしまうのはストレスでしょう。でも、開きっぱなしにしているうちに、なんとなくその窓口の存在は薄くなってきてしまって、遂にはあったことすら思い出せなくなるようなものかもしれません。

 僕は続きが来ない物語について、割と慣れてきました。続きが来ないのではないかと思ったりしても、作者死亡などで続きがもう決してないことを知りながらも、窓口を開いたままにしています。別にそれで構わないのです。

 

 ゲームの「シェンムー」がとても好きなのですが、シェンムー2のラストでは、これからとんでもないことが起こりますよという感じの状態でエンドロールが流れます。そして、その後シェンムー3は発表されませんでした。おそらく商業的なコストとリターンの問題から、3を作ることの折り合いがつかなかったのではないかと想像しています。そういうことはよくあるので、あれで終わりということにして窓口をクローズしていてもよかったのですが、僕はなんとなく開けたままで、たまに続きこないかなと思っていました。

 すると、去年、急にシャンムー3の製作が発表されました。僕はとても喜んだので、シェンムー3のためにクラウドファンディングに300ドルほど投じることにしました。発売はまだ先ですが今はそのときを待っています。

 

 このように待っていれば再開されることもあります。「冒険王ビィト」も、作者の病気で連載が中断していましたが、先日再開しました。待っていれば良いこともあります。僕はまだ「バスタード」や「コータローまかりとおるL」や「黒鉄」や、そして、最近また休載に入ってしまった「ハンターハンター」のことを待っています。「ヘルシング」の外伝や「ガンマニア」の続きも待っています。他にもたくさん待っています。待つのはあまり苦ではありません。なぜなら、他にも楽しみにしていることも沢山あるからです。その隙間を埋めるものを沢山持っているので、再開しないことにあまりやきもきしません。それは少しさみしいことなのかもしれませんが。

 

 最近は、「物語が終わるということ」、そのものも、そんなに重要なことだとは思わなくなりました。今読んでいて面白ければそれでいいのです。今読んで面白く、次号を楽しみにして、次号を読んで面白い。それが続くのが物語の楽しみの基本となっていて、それがどのような結末を迎えるのかは、そんなに重要なことだとは思っていません。

 

 「シュトヘル」という漫画にこういう言葉がありました。「死に方は生き方を汚せない」。僕はこの言葉が本当に胸にきたので、何度も何度もその言葉が登場する回を読んだのですが。例えば、人が無意味で無残な死を遂げたところで、その事実はそこに至るまで彼らが生きてきたこと、その中で成してきたことを毀損するものではないということです。彼らが生き、そして成し遂げてきたこと、それまで引いてきた線が、最後の点でしかない死に方ひとつで台無しになるのだとしたら、人の生には価値がないことになってしまいます。

 「いつも生が死の先を走る」、生あってこその死です。その物語の終わりがどうあったとしても、それまでの価値は失われません。そして、それが結末に辿りつかなかったとしても、そこまで読んできたことは無意味ではないと思います。最近はそういう気分で物語を読んでいます。

 

 終わる物語は、綺麗に閉じた物語で美しく、終わらない物語は、開いたままでいて自由です。大作RPGのラスボスの手前、クリアせずにやり込み要素を延々やり続けてしまい、ついにはクリアせずに終わるように、古本屋で読んだ本の最終巻だけ見つからず(最終巻は発行部数が少ないので)結末を知らぬまま長い時間を過ごしたり、毎回楽しみに見ていたアニメの最終話をうっかりなぜかそのときだけ見逃したりします(見逃し配信などがない時代)。それはそれで悪くなかったのではないかと思っています。自分の中では終わっていない物語の中では、登場人物たちは、まだ迎えるべき結末が不確定のままで、なんだかわからないまま漂っています。それも悪くないのです。結末を見てしまったとき、それが自分の中で終わったことで、失われてしまう何かもあるのではないかと思います。もちろん、得られるものはそれ以上にあるかもしれませんが。

 

 綺麗に終わったはずの物語が、何らかの事情で作られた続編によって、また開かれてしまうこともあります。前の物語の結末で、その後の「彼らは幸せになりましたとさ」と、めでたくめでたく終わっていたのに、新しい物語を描くためには、幸福な彼らだけを描くわけにはいかず、幸せになったはずの彼らが再び悲劇的な状況に追い込まれる姿を目にしてしまったりします。それを悲しく感じることがあります。しかし、彼らに再会できたことが嬉しくもあったりします。良いこともあれば、悪いこともあります。

 

 終わってもいいし、終わらなくてもいいです。一度終わった物語が、また再開してもいいですし、再開しなくでもいいです。僕はどちらでも楽しめる感じになっているからです。

 

 「極限脱出 9時間9人9の扉」、そして「極限脱出 善人シボウデス」の続編であり、完結編である「ZERO ESCAPE 刻のジレンマ」を昨日クリアしました。「善人シボウデス」のラストには、様々な謎が残っており、そこで明らかになる新たな謎もあり、続編の存在が示唆されていたのですが、なかなかその製作が発表されず何年も経ち、どうなんだろう?と思いながらもぼんやり待っていました。それが、先日発表され、発売され、そしてクリアしました。

 過去作に残っていた謎はほとんど解決され、クリア後に開放されたテキストでエピローグが描かれ、残ったものも解釈次第で納得できそうな感じです。彼らとそしてプレイする僕が至った結末にも納得しています。終わったなあと思い、満足感とともに、寂しくもなってしまいました。ただし、この物語は、あらゆる問題を解決した上での、完全なる幸福の頂点で物語が終わるわけではありません。彼らにはまだこの先にも立ち向かうべき困難が待ち受けている状態です。それが物語が閉じたように見えて、少し開いている感じで、その余韻が個人的になんだかよい塩梅だったと思うので、なんかそういうことを思ったということを書きたかったという話です。

 この先があってもいいですが、なくてもかまいません。そういうことを色んな物語について最近は思っています。

【世界初】レジプラをデコる【たぶん】

 この前の土曜日、秋葉原で開催していた「技術書典」というイベントに行ってきたのですが、そこで、レジプラと言う機械を買いました。レジプラとは同人誌即売会などで会計管理をするためのレジソリューションです。iPhone用のレジアプリは既に色々ありますが、こちらの商品の特徴は、iPhoneと連携する物理ボタンを備えたハードウェアが存在することです(ちなみにAndroidへの対応も検討しているそうです)。

 以下はレジプラのプロトタイプを用いたプロモーション用の動画です。


即売会向けレジアプリ『レジプラ』

 

 このレジプラは、TOKYO FLIP-FLOPが作った機械です。メンバーのひとりの斎藤公輔さんとは、何年か前にインターネットで何となく知り合いました。斎藤さんはご自身が作る色んな面白い本に加えて、エアコン配管トレーディングカードや、定礎シール、定礎せんべいなど、一風変わったグッズを作ってはコミケ文学フリマなど出展しており、そういった場では、ひとつの商品を複数買いしてもらうことも多いそうです。そのような状況では計算や在庫管理が大変なので、まず自分の役に立つ機械を作ろうとしたのがこのレジプラを作るきっかけになっているそうです。

 ちなみに、斎藤さんは最近はデイリーポータルZでも、面白い記事をたくさん書いていますね。

portal.nifty.com

 

 本題と関係ないですが、スマホを買い替えたので定礎シールを背面に貼りました。レジプラの開発費は定礎シールの販売や、Web定礎、Web書道、Webおみくじなどのサービスの広告収入から捻出していると聞いているのでちょっと貢献してます。

 

 僕も近年、同人誌を作るという趣味を何となく始めており、年一回ぐらいのペースで何らかの即売会に参加しています。なので、自分でも使える機会はありそうかな?と思ったこともあり組み立てキットを買ってみました。5000円です(僕は技術書典限定の10%引きの4500円で買いましたが)。また、組み立て済み完成品は8000円とのことです。

 

 以下のサイトで通販で買えるはずです。

booth.pm

 

 レジプラの組み立ては、基板へのはんだづけと、ネジ止め、両面テープによる接着程度なので特に難しくはありません。はんだづけは人類は一度はやってみたことがあるでしょうし、はんだごては一般的にご家庭に一本はあるものだと思いますが、もし万が一、家にはんだごてがなく、はんだづけもしたことがないなら、組み立て済みの完成品の方を買った方がいいかもしれませんね。

 はんだづけのポイントはボタン5個×4箇所、逆流防止用ダイオード1個×2箇所、電源スイッチ1個×5箇所、電源ケーブル2本×1箇所の計29箇所です。ネジ止めは基板の4隅に足を止め、足の裏を両面テープで箱の底の貼りつければもう完成です。のんびりやっても1時間もかかりません。

 作るのはさほど難しくはありませんが、組み立てキットと完成品でそこそこ価格差があります。こちらの商品、現段階ではTOKYO FLIP-FLOPのメンバーが家内制手工業で作っているそうなので、組み立て済みの方に注文が偏ると今の体制では生産しきれないとのことで、キットの方を優先させたいという意味で、現時点ではこの価格としているそうです。

 

 レジプラの物理ボタンとiPhoneとの間の接続はBluetooth LEなので(koshianという技適認証済みモジュールを使っているそうです)、iPhoneBluetooth機能を有効にし、基板に書かれた認証用のシリアルをアプリに入力すれば、アプリ画面上の接続のボタンを押すだけで連携完了します。動作確認用LEDなどが特にないので、繋がってみるまで本当に動いているのかどきどきしましたが、大丈夫、ちゃんと動きました。

 以下が、僕が組み立てて起動してみたときの動画です。

 

 アプリはまだまだ今後も拡張されていきそうですが、もうAppStoreには登録されていて、ダウンロードして使うことができます。

 画面上に3つまでの商品を登録し、それぞれが物理ボタンに対応します。画面をフリックして切り替えれば、また別の3種類の商品を登録可能です。何時に何が何個売れたかの情報が残せるので、それを元に売り方を検討したりできます。Twitter連携の機能もあるようなので、今後のバージョンアップで簡単に在庫状況をつぶやけたりするようになるかもしれませんね。

 

 別に物理ボタンではなく、iPhoneのタッチパネルをタップするのでもいいじゃないか?という意見もあるでしょうが、ある商品を3個分タップしてOKボタンを押すみたいな操作をするとき、タッチパネルと物理ボタンの場合では、物理ボタンの方が操作におけるストレスが少ないように感じます。なぜなら、タッチパネルはどこでも押せるせいで、むしろどこを押さなければいけないかというところに気を遣ったり、クリック感がないため、操作の確実性を確認するのに気を遣ったりするからです。これらは少しの差異ですが、積もり積もるとかなり違う、というような印象です。

 

 さて、ここからが本題です。このレジプラの見た目の特徴的なところは、外観に桐箱を使っているところでしょう。桐箱が採用されたのは、金型を起こしたり、3Dプリンタで出力するのと比べ、安価に安定した品質のものが手に入り、加工がしやすいからということでの選択だと思います。

 ただし、これは結構ナイスな選択なのではないかと思っていて、なぜかというと、非常にシンプルな木箱なので、僕もこの箱をさらに気軽に加工してみようという気持ちになるからです。ということで、色を塗ったり金具をつけたりしてデコプラ(レジプラをデコることを意味する造語)をしてみました。

 

 そして、今のところの外観がこんな感じです。

 

 家に和のテイストのアクリルガッシュがあったので、ボタンの白と対比させるようにおめでたい赤で塗装し、ロゴや文字の部分は金色で塗りました(木の素材感を残したかったので下塗りはしていません)。側面は上面を目立たせるために黒で落ち着いた感じにしています。そして、四隅に真鍮の金具をつけてみました。ぶっちゃけたところ、この金具を付けることで持ち運び時に周囲の何かを傷つける可能性が出てきてしまい、実用性は皆無なのですが、東急ハンズでこの金具を見つけたときに、うわ!これをつけたらカッコいいのでは??って思ったので、つけてしまいました。

 

 レジプラ自体を所有している人が今世界に何十人もいないので、このようにデコプラしているのは現時点では世界でまだ僕だけなのではないでしょうか??

 

 即売会でレジとして使うという本来の使い方をまだ一度もしていないわけですが、今ちょっとなんとなく漫画を描いているので、それで本を作ろうと思っていて、8月開催のコミティアにとりあえず申し込むだけ申し込んでいるので、無事出られるようなら、そこがまずこのレジプラの出番です。

 7月中にアプリのアップデートを予定しているそうなので、より便利に使えたらいいなあと思っています。ということで、みなさんもレジプラを手にすることがあれば、デコってみましょう。

 Let's デコプラ!!

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 あと、以下の本にレジプラを作ろうと思ってから、実現方法の検討やプロトタイピング、量産に至るまでの過程が書いてあって面白かったのでオススメです。

booth.pm

本から読み取れるものの話

 世の中には色んな本があります。そして、世の中には色んな人がいます。しかし、人が本から読み取れることは基本的に2種類だけだと思います。それは「わかっていること」と「わかりかけていること」です。もし、例外的なものを1つ付け加えるとしたら、「この本に書いてあることがわからない」ということがわかるということもあるでしょう。


 もう少し、具体的に言うと、充分な前提知識を持たないで本を読むと最後の状態になります。つまり、「この本に書いてあることはわからない」と思って読書が終了してしまいます。例えば、一般的な小学生が大学レベルの数学の本を読めばそうなると思います。あるいは、自分が行ったことのない外国の話なんかもそうでしょう。現地の常識がわからなければ、わからないことが多いはずです。自分の持っている常識を前提に無理矢理読むことは可能かもしれませんが、おそらく書かれていることを誤解してしまいます。

 この誤解は、多かれ少なかれ、どんな読書にもつきまといます。なぜなら、本の作者が読者が持っていると想定している前提情報を、読者の側が常に全て持ち合わせているとは限らないからです。それは作者の書き方が拙いからとも限りません。なぜなら、昔に書かれた本は昔の常識に沿って昔の人々に向けて書かれているので、今の常識しか持ち合わせない人にはわからないかもしれません。あるいは、ある専門的な教育を受けている人を対象に書かれた本は、そうでない人をそもそも対象としていないこともあります。

 

 面白い本というのは、概ね「わかりかけていること」について書かれている本だと思います。なぜならば「わかっていること」しか書かれていなければ、読むのは既に知っていることの確認作業でしかありません。そして、「わからないこと」について書かれている本の感想は常に「わからなかった」でしかないからです。

 

 つまり、本が面白いか面白くないかは、読者が既に何を知っているかに依存します。ある分野についてあまり知識を持ち合わせていない人のために書かれた本は、想定読者である人が読むには「わかりかけていること」について書かれた本ですが、その分野について詳しい人が読むと「既にわかっていること」に関する本なので、退屈と感じるかもしれません。

 また、ある分野について充分な専門知識がある人にしてみればとても面白い本も、その専門知識を持ち合わせていない人にしてみれば、わけのわからないことの書かれたわけのわからない本でしかなかったりするのです。

 

 このように、読書には段階があります。自分にとって「わかりかけていること」について書かれた本を、段階的に順序よく読んでいけば、そのうち最初の段階では「わからないこと」について書かれていたはずの本が「わかりかけていること」について書かれた本に変化するかもしれません。問題は、常にそのような順序で本が読めるかどうかが分からないということです。現実はドラクエのようにレベルデザインがされていないので、お城を出て最初に出会うのが弱いスライムとは限りません。いきなり難しい本を読んでしまい、わけがわからないと思って、その分野について段階を経ることを諦めてしまうかもしれません。

 このようなレベルデザインがきちんと成されているのが教育の分野です。教科書は順序良く読んでいきさえすれば、着実に分かるようになっているはずです。問題は、最初の方のレベルをちゃんと理解できるようになっていないのに、次の段階に進んでしまうことです。そうなると、あらゆる教科書は、わけのわからないことの書いてあるわけのわからない本となってしまうでしょう。

 その理解度を確かめるのがテストであるはずですが、現実問題としては、完璧に理解できていないからといって落第とはなりません。例えば6割分かれば進級できたとすると、4割はわかっていないまま次の段階に進んでしまいます。次の段階では前段階がわかっていることを前提とされてしまうため、段階が進めば進むほどに、分からないことが増えてしまう人も多いと思います。そして、どこかの段階で挫折してしまうのだと思います。

 僕自身、大学はうっかり受かってしまいましたが、高校までに教えられる段階を完璧に習得していたとは言い難く、さらに、大学の1回生あたりに教えられる基礎の基礎である数学などを確実に習得して次の段階に行けたかというと胸を張れない感じで、なんとか単位はとったものの、学年が進むにつれて、それが理解できていることを前提の講義についていくのがやっとでした。さらにそこからは、研究の分野に入っていきます。

 そこで読む論文には、色んな数式や理論や物理法則に関する前提知識が当たり前のように要求され、さらにそれらは基本的に英語で書かれています。そして、それを読んで理解できなければ、自分が論文を書くという段階に進むことができません。その段階に到達すると、わかりやすい教科書というものも少なくなってきます。専門分野は専門性が高まるほどに、そこにいる人の数が少なくなってくるので、誰でも理解できるような「わかること」だけで本を書く必要性が薄まってきますし、需要がなければ本は出しづらくなってしまうからです。とはいえ、そこは教育なので、ゼロではないため大変助かります。そういうのを読んで、「わかること」を増やし、「わかりかけていること」を「わかること」に変えていくことで、前に進んで行くのです。

 

 このあたりの状況でしんどくて転げまわっているときに、思い当たったのは「わからないことがわかった」ということにも意味があるということです。いくつかの教科に関しては、分からないなりにテストを合格点のすれすれを低空飛行して先に進んできましたが、それが何について書かれていたことで、自分はそこがイマイチよくわからなかったという事実を記憶しています。そして、いざ、それらの知識が当たり前に必要とされることになったとき、記憶を遡って自分はあそこがわかっていなかったので、読み直すべきだということに思い至ることができます。幸い教科書はまだ持っていたのです。

 そのような感じに、一回段階を降りて、勉強をしなおして、また戻ってくるというようなこともします。しばらく先に進んでいたことが幸いして、今度はわかっていることが以前よりも増えていますから、前はわからなかったことが今度はわかるということもあります。そういうことを繰り返して何とか今に至っているわけです。重要なのはわからなくても一回は読んで道しるべは作ったということ、そして、どうしても先に進めなくなったときは、段階を下がってまた読み直したということです。

 

 教育の分野は、分かりやすいので例に挙げてみましたが、読書は他の分野でも全部そうだと思います。わかる本もあればわからない本もあります。自分にとってちょうどいい本を読めれば楽しいですが、それがどれであるかは人それぞれなので適切に辿り着くのが難しいことです。そしてまた、わからない本だといっても読む意味がないわけでもありません。

 事実、僕が子供の頃に読んだ本は、当時の自分にはわからなかった感情や難しいことが書かれていたことも多いですが、わからないものはわからないままで、わかるところだけ数珠つなぎにして読んでいました。大人になってから読み直すと、ああ、こういうことだったのかと思い、ようやくある程度読めるようになったと思い、嬉しくなってしまいました。それらの本を読み直すに至ったのは、昔読んでいたからなので、分からないなりに読んでいてよかったなあと思います。あと、わからなかったときの自分と、わかるようになったときの自分の変化を感じれるのもよかったので、子供のときにわからない本を色々読んでおくみたいな経験はすごく大事だったと今になって思います。

 

 以前、本を読むことはワインを作ることに似てるということを思ったんですが、どういう喩え話かというと、仕込んでから発酵するのに時間がかかるということです。ブドウを摘むのが読書だとすると、それが飲めるワインになるためには手間と時間がかかります。つまり、本で読んだことの意味が、自分の中で実感を伴ってわかるのは、読んだ瞬間ではなく、その後の適切なタイミングになって、ようやくわかるということも多いということです。なので、そのときに良い本だと思わなくても、そのうちにあれはやっぱり良い本だったと思い返すことがあります。そしてそれは、読み終わった瞬間に適切な感想が書けないことが多いということでもあります。

 そんなことを言いながら「お前はよく読み終わった瞬間に感想を書いているじゃないか」と言われてしまうかもしれませんが、その多くは既に用意してあるやつだからできるだけで、ワインの喩えでいうなら、読んだ本に応じた既に作って発酵の進んでいるワインを出しているに過ぎないと思っています。たまたま自分の人生の進み具合などに応じて作っているワインがその本の内容に合致して、同じものを見て取ったということを根拠にそのタイミングで表に出しているだけで、その本を読んだ結果、自分が受けた影響が実感を伴ってわかるようになるのは、もう少し人生が進んだ先かもしれません。

 色んな本を読みつつ、そこに存在する「わかるまでのタイムラグ」によって、実は前に読んだ本によってわかったと思ったことの感想を、次の本を読んだときに似たものを感じて言っているのかもしれないと思います。新しい本を読んで、昔読んだ本の話を引き合いにだしてしまうということを僕がやってしまうことが多いのは、そういうことなのかなと思っています。

 

(関連:何を見てもデビルマンの話をするおじさんの話)

mgkkk.hatenablog.com

 

 このように、全く新しいことが書かれた本の内容を、自分がどのように受け止めていいかは、しばらく経たないと分からなかったりします。なぜなら、その本を受け止め方を、読んだ時点では自分がまだ知らないからです。なので、新しいことの書かれた本を、「この本は面白い」と説明することは自分にとってはなかなか大変なことで、自分の考え方が、それによって変わりきったあたりで、ようやく口にできるものだと思います。

 一方、その本がつまらないということを表明するのは簡単です。全く新しいつまらなさというものもあるかもしれませんが、ほとんどの場合、つまらなさは定型的なもの、つまり、すでに自分の中にある分類に当てはめていれば説明できてしまうからです。ただし、そのつまらなさは、面白さを「まだわからない」からこそ、そう認識しているだけなのかもしれません。

 

 面白さを表明するときに、自分の中の定型的な面白い分類に合致するから面白いということもできますが、それは「わかっていること」に対しての話なので、「わかりかけていること」に適用することは難しいと思います。僕が「わかりかけていること」が「わかっていること」に変化する過程を追い求めて読書をしている以上、新しい面白さを感じたときには自分の中に新しい分類を作らなければなりません。それは相応の時間や、読んだ本について考えることが必要です。

 読んだものの、自分の中でまだ上手く説明できないことを頭の中の「つまらない箱」に分類することは簡単で、手間を省いて、それをつまんなかったと言って終わりにしてもいいのかもしれません。しかし、自分がまだ面白さをわかる段階に進んでないだけなんじゃないか?ということを僕は常に念頭に置いています。なぜなら、今まで読んできた本の中に、最初読んだときはピンとこなかった本が、そののちわかったような気になってすごく大切な本に変化したという経験が沢山あるからです。

 

 本を読んで「つまらない」と思っても「面白い」と思っても、それは読者の自由だと思いますが、頭の中に既にある「つまらない」と「面白い」の分類に、ヒヨコの雄雌鑑定みたいに放り込んでいくだけなら、いずれ飽きてしまうんじゃないかと思います。なぜなら、何度繰り返しても毎回変わらない同じ作業になってしまうからです。

 読んだ本を放り込むための新しい箱を頭の中に作って広げていくためには、既にある定型的な処理を重ねるのではなく、自分自身が変わっていくことが必要不可欠なのではないかと思っています。そういうことを思いながら、今日も「わかる本」「わかりかけている本」「よくわからない本」を分け隔てなく読んでいます。

「うしおととら」における鏢の復讐について

ことのおこり

 中国は広東省、とある市に近い村、その時代にはまだ街灯も少なく、夜になれば、吸い込まれそうなほどに暗く深い闇があったという。そんな闇の中を、男がひとり家路を急いでいた。薬屋に勤めている平凡な男だ。代わり映えしないが満たされた毎日。なぜなら、彼にはとても大切な妻と娘がいた。幼なじみの妻と、やっとひとりで遊べるようになったばかりの娘。家に帰ると家族が笑顔で迎えてくれる。ただそんなことが、彼にとって幸福という言葉の意味の全てだった。

 帰りが遅くなってしまった。娘はもう寝てしまっただろうか?それとも起きて待っていてくれるだろうか?早く帰れなかったことを怒られてしまうかもしれない。そんなことを思いながら男は歩く。手にはアヒルのおもちゃがあった。ブリキで出来た何の変哲もないものだが、その辺鄙な田舎の村では珍しいものだった。怒っていた娘がそのおもちゃを見て機嫌を直してくれる、そんなことを男は想像したりしていた。

 

 「おーい、開けてくれ 今帰った!」

 

 しかし、返事がない。妙だった。部屋が暗い。もしかしたら、もう寝てしまったのだろうか?その日はとても静かな夜だった。聞こえるのは風の音ばかり。いや、少しの物音があった。

 その時だった。急に扉が開き、闇の中から何かが飛び出してきた。人ではない、もっと恐ろしいものだ。のけぞった男の顔を、激しい痛みが切りつける。顔が熱い。噴き出した血がが鼻筋を伝って落ちる。狼狽する男をよそに、その何かは嵐のように去って行ってしまった。

 ドクドクと心臓が脈打つ音が激しく頭の中に響き続ける。右目は既に光を捉えることができなくなっていた。よろけながらも部屋に入った男は、むっとした血の匂いに気づく。自分のではない。その匂いは、足下にある謎の水たまりが、実は赤くどろりとした血だまりであることを示唆していた。

 男に残った左目に飛び込んできたのは、もはや原型をとどめていない何かだった。喰い荒らされてしまっていた。床を覆い尽くす血だまりの中、落ちている小さな靴が男の目に入る。娘のものだ。その靴を拾い、握りしめた男は全てを理解した。そこにあるそれは、かつて彼の妻と娘であったものだ。静かな村に、男の叫び声が響き渡る。それは、怒りと悲しみの混濁した絶叫であった。

 その後、その村で、男の姿を見た者はいない。

 

黒い男の話

 中国のある村で起こった奇怪な事件から十五年。日本のある町に黒衣の男がいた。男の顔の半分には傷跡が三本の線として深く刻み付けられおり、その傷の下には、吸い込むような青さをたたえた右目が存在していた。

 男の名はと言った。字名である。本名は捨て去ってしまったのだという。とは武器の名前である。投げつけ、あるいは斬りつけることができる、穴の開いた短剣の名前である。彼は自分自身を、携えた武器の名前で呼んだ。つまり、彼は武器である。武器とは何かを傷つけるために作られた道具である。

 

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 黒衣の男は、金を貰って妖怪を退治する符咒師であった。そしてまた、あの日、全てを奪われた男の成れの果てであった。かつて平凡だった男は、その手も、背中も、全身が隙間ないほどに傷だらけとなり、しかし、今も生きていた。あの時えぐられたはずの右の目の場所には不思議な輝きを放つ目があった。それは浄眼と呼ばれるものである。翠竜晶で作られた、妖怪を見ることができる特別な目である。それは彼が、彼の妻と娘を奪った妖怪を探すため、失くした右目の代わりに手に入れたものだった。男が妖怪を探す理由とは復讐である。彼はそのために、戦う力を欲し、人を捨て、鬼となったのだ。

 鏢の仇を探す旅は日本という異国の地に辿り着いた。なぜなら、彼は見てしまったからである。日本のテレビが撮影した妖怪の姿を。その姿は彼の右目と、彼の家族を奪った妖怪によく似ていた。彼は彼の復讐が果たせることを期待し、この地までやってきたのであった。

 結論から言えば、それは勘違いであった。「とら」と呼ばれるその妖怪は、この数百年の間、つまり十五年前も、ある寺の蔵の底に獣の槍で縛り付けられていたということがわかったからだ。鏢の仇を捜す旅は、またも徒労に終わった。しかし、獣の槍が妖怪を惹き付けるならば、自分が追う妖怪もまたこの地にやってくるかもしれない。鏢はそう言うと、そのまま日本に留まることを決意する。そして、鏢はまたこうも言う。自分もまた、もはや獣の槍に惹きつけられた妖怪であるのかもしれないと。

 

憎しみは何も実らせないのに

 うしおととらにおける印象的な言葉のひとつに「憎しみは何も実らせない」というものがある。それは数千年の昔、ある女性が口にした言葉だ。そして、この物語の根底にある価値観を指し示す言葉でもある。

 うしおととらにおける「敵」とは白面の者という名である。白面の者はこの世界が生まれたとき、底に溜まった不浄なる陰の気から生まれた妖怪である。それは憎しみの権化である。であるからこそ、白面の者を打ち倒すため、獣の槍を手にしたうしおは、こう諭される。「憎悪を憎悪では調伏できない」のだと。

 獣の槍は、白面の者に家族を奪われたある男が生み出したものである。それはつまり、獣の槍もまた憎しみそのものであることを意味している。そんな獣の槍は、同じく白面の者に憎しみを持つ人々の手に渡り、使い手の魂を削り続け、そしていつしか、使い手たちを憎しみを宿した獣に変えてしまう。字伏と呼ばれるその獣たちは、いつまでも強い憎しみをその身に宿し続ける。そして、憎しみを宿すあまりに、その姿はいずれ白面の者そのものに近づいてゆく。皮肉なことに、白面を憎むあまり、白面になってしまうのだ。

 憎しみだけを糧に白面の者に立ち向かったうしおもまた、それ以上の憎しみの権化である白面の者に敗れてしまう。より強大な憎しみを前に、獣の槍は粉々に破壊されてしまうのであった。

 「憎しみは何も実らせない」。かつて獣の槍を使った男のひとりでもあったとらはこの言葉を思い出す。その言葉を口にした女性は、まだ人であったころのとらが、憎しみとともに生まれ、憎しみを糧に生きてきた自分にとって、初めて太陽と思えた存在であったからだ。

 獣となり、人であった頃の記憶もなくしたとらは、長い年月の果てにうしお出会い、ともに過ごした時間の中で、いつのまにか白面の者への憎しみを捨てる。そして、うしおもまた憎しみに囚われることをやめる。うしおととらは、白面の者を憎む気持ちを糧に戦うことをやめ、復讐を捨て去った果てに、ついに白面の者を倒すことができる。憎しみのみがその存在価値であった白面の者は「かわいそう」だと評される。これがうしおととらの物語である。

 限りない憎しみの連鎖の物語であり、そして、憎しみから解放される物語である。

 

 しかし、そんな価値観を根底に持つこの物語の中で復讐を最後まで遂げた男がいた。それがである。憎しみは何も実らせないこの物語において、鏢が遂げてしまった復讐とは何であったのか?憎しみが何も実らせないのであれば、が成したことはいったい何であったのだろうか?

 

の誕生

 妻と娘を殺されたばかりの男は半狂乱のまま山をさまよい、偶然、桃花源という場所に迷い込んだ。そこは年中桃の花が咲き乱れ、時間の流れが止まった場所である。男は、そこで仙人と出会い、失われた右目を埋める石と、妖怪と戦う手段を手に入れる。ここはと名乗る男が生まれた場所である。おそらく、という男が何であったかを理解する手掛かりのひとつがここにある。

 全てを失った男はやみくもに戦う力を得ようとする。全てはあの妖怪に復讐するためだ。しかし、喧嘩もろくにしたことのないような男にはとても辛い修行の日々であった。師匠にも「仇討ちなんてやめてしまえ」と言われる。それは正しいことだ。復讐を遂げたところで、亡くしたものは返って来はしない。それよりは、その絶望の淵から立ち上がり、新しい幸せを求めた方がいいかもしれない。

 しかし、大の男が泣きながら、情けない顔でこう口にする。「死んだ者のためだかわからない!…でも!わたしはこれだけのために生きてるんです!これをやめてしまったら、何もない!もう…何もないんですよう!」。そうだ、男にはもう何もなかったのだ。幸せの全てを奪われた彼には、自分の人生がそこから先、どこに向かうかももう分からなかったのだ。

 修行の果てに、彼の閉じた目は、ついに浄眼として開いた。それはある妖怪から女性と子供を守るために開いた。自分の妻と娘を守れなかった男は、女性と子供を守る力を手に入れて桃花源をあとにする。復讐の旅に向かうためだ。彼は本名をそこに捨てた。その瞬間から、彼はとなったのだ。

 

の復讐

 果たして、は復讐がしたかったのだろうか?自分が与えられた痛みを、それを与えた張本人に与え返せば気がすんだのだろうか?

 は仇の妖怪を探す過程で、時間を遡ることができる妖怪「時逆」と出会う。時逆の力を借りたは、見るべきではないものを再び目にする。それは、十五年前、妻と娘があの妖怪に喰われる場面だ。は、自分の人生を狂わせた光景を、今度ははっきりと目にすることになる。そのときは何を思ったのだろう?目の前に起こることを止めようとは思わなかったのだろうか?止めようとはしたが、やはり時間の流れは変えられず、より強い絶望に至ったのだろうか?あるいは、起きてしまったことが変えられないことを知っていたのだろうか?

 少なくとも、の中で妻と娘が死んだということは確定していたのだろう。妻と娘は生きてはいないのである。変えたい過去ではなく、起こってしまった、変えられないことなのである。大切な人間の幻を見せる妖怪「ギ」との戦いにおいて、うしおは、父や幼馴染の姿を見せられただけで狼狽し、まともに戦うことができない。しかし、は違う。自分の妻と娘の姿をしたそれを、自分の手でこともなげに殺す。それが出来るのは彼の心が失われ、鬼となっていたからだろうか?いや、もしかすると、実は生きているなどとまるで信じられないほどに、の中の失われたものは、くっきりとその痕を刻まれていたからかもしれない。

 

 もしかすると、にとっては復讐、それ自体は目的ではなかったのではないだろうか?「わからない」「もうこれしかない」、鏢となる前の男はそう嘆いた。はただ、いまだあの帰り道にいただけではないだろうか?その道は、彼の家へと続く道である。彼を待つ家族が笑顔で出迎えてくれるはずの未来に繋がる家路である。しかし、それは曲がりくねり、どこまで続くのかも分からず、鏢はあてもなくさまよい続けるはめになっていた。その長く終わりない道の途中で、鏢は歩き続けることに疲れ果てていたのかもしれない。彼がただ復讐を目指したのは、もはやただの道しるべでしかなかったのではないだろうか?彼が本当に目指した先は、それを乗り越えた向こうにある、自分が辿り着くべき家だったのかもしれない。

 

 は、彼の妻と子を殺して喰った凶悪な字伏、紅煉を殺す。見知らぬ母子をかばい、助けながら、命を賭して止めを刺す。彼は自身の復讐を完璧な形で遂げる。死に行く鏢の目には、あの扉が見えていたらしい。はずっと懐に持っていたボロボロのブリキのアヒルのおもちゃを取り出す

 

 「今…帰ったよ…あけとくれ」

 

 その扉の先には笑顔で出迎えてくれる妻と娘がいた。それは十五年前には、実際にはなかった光景だ。紅煉によって阻まれてしまっていた光景だ。彼は、とうとう帰るべき家に帰ったのだ。

 鏢は知らなかったのではないだろうか?鏢と紅煉の決着がつく少し前、特別な力を持つ白い髪の女が、冥界とこの世を繋ぐ門を開けていたことを。ただ、死者はこの世には帰って来ないものである。もし、帰ってくる死者がいるならば、それはこの世にやらねばならないことがある死者である。彼の妻と娘、ハイフォンとレイシャはどうだっただろうか?後に鏢と呼ばれる男が、扉の向こうの家族の元に帰りたかったように、家に帰ってくる夫を父を、笑顔で出迎えたかったのではないだろうか?それはやらねばならないことではなかっただろうか?

 鏢がこときれる間際、見た光景は幻か、それとも彼を迎えに来た家族の魂だったのか、それは僕には分からない。

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ドラゴンボールにおける悟空のいない未来の話

 ドラゴンボールの人造人間編は、人造人間たちの暴虐により荒廃してしまった未来から、タイムマシンに乗ったトランクスがやってくるところから始まります。トランクスは、サイヤ人の生き残りであるベジータと、地球人のブルマの間に生まれた混血児であり、時間を遡ってやってきたこの現代にはまだ生まれてもいない少年でした。

 トランクスがいた未来では、戦う力を持った人間は、もはや彼ぐらいしか残っていません。どんな願いでも叶えてくれたドラゴンボールは、その創造主の片割れであるピッコロが死んでしまったことで既に消失してしまっています。その結果、未来の世界ではもはや誰も生き返ることができなくなってしまいました。ピッコロやベジータを始め、地球に存在した戦士たちは、人造人間たちに敗れて次々に命を落としていきます。

 では、このドラゴンボールという物語の主人公であり、数々の困難を打ち倒し、乗り越えてきた男、孫悟空はその時どうしていたのでしょうか?悟空はなんと、この戦いが始まる前に心臓の病気で死んでしまっているのです。

 

 この暗くて悲しい未来は、ドラゴンボールにおいて、悟空のいない世界がどれほどに希望がなく、陰惨なことになってしまうかを教えてくれます。当たり前にあるものは、実際に失ってみるまでその本当の価値を測りかねるものです。悟空という存在が周囲に与えていた楽観的な視点と、どんなに強い相手が現れても絶望しないというしなやかさとしたたかさが、あの世界にどれほど希望をもたらしていたのか?それは悟空のいない未来に漂う閉塞感によって明らかになります。

 

 「どんなに絶望的な状態になったとしても、悟空ならなんとかしてくれる」、それはドラゴンボールの世界の中で、悟空を知る人々が抱く想いです。そして、それは同時に読者の気持ちでもあるでしょう。悟空さえいればなんとかしてくれる、だから悟空が来るまで持ちこたえるのだと。悟空がいることで、人々は希望を持って目の前の困難に耐え、待つことができるようになります。そして、悟空がいなければ、つまり希望がなければ、待つことは死を少しだけ延命させるほどの意味しか持ちません。

 

 この悟空のいない未来の世界については、漫画やアニメで外伝的に語られます。そこでは悟空の息子である悟飯が、たった一人で人造人間たちと戦い続けていました。トランクスはまだ幼く、そんな悟飯を兄のように先生のように慕いながら、物心ついた頃から荒廃した世界で生まれ育っています。

 トランクスは、自分の父であるベジータのこともろくに知りません。話に聞くだけです。なぜなら、ベジータはトランクスの成長を待つこともできず、とっくに人造人間たちに殺されてしまっていたからです。トランクスはもちろん、悟空のことも知りません。ただ、悟空の話もまた、悟飯やブルマに聞かされてはいます。しかし、悟空を知っている人々が、悟空のことを話すときに持つ感情、つまり「悟空さえいれば」という気持ちを、そのときのトランクスにはまだ理解できなかったかもしれません。なぜなら、未来のトランクスは悟空のいない世界で育った子供だからです。

 

 連載当時、まだ本編の作中では子供であった悟飯が、未来の世界で立派な大人として成長している姿を目にするのは不思議な光景でした。その世界の悟飯は、傷だらけで、片腕を失っていて、そして、スーパーサイヤ人になることができます。それは、詳しく描かれこそしないものの、悟飯がそれまで潜り抜けてきたものに対して思いを馳せるには十分なものでした。幼い頃から大きな才能を秘めていたとはいえ、悟空にピッコロに守られていた、まだほんの子供であった悟飯が、立派な大人として、今度はトランクスを守っています。その身に刻まれた傷は、これまでにあった数々の敗北と挫折を示唆しています。そして、激しい怒りによって目覚めるはずのスーパーサイヤ人の力は、失われた人々に対して彼が抱いた激しい感情を想像させるには十分です。

 

 悲劇的なことに、そんな悟飯もまた人造人間たちに敗北して命を落としてしまいます。アニメ版では、それによりトランクスもまたスーパーサイヤ人に目覚めますが、そのような形で連鎖的に力が目覚め受け継がれていくということは、強くなるための道筋としてはとても悲しいものです。

 

 この世界に残った最後の希望はトランクスです。その希望を信じ、道を作るのは天才科学者であるその母、ブルマです。そして、その道は悟空へと続いています。ブルマはタイムマシンを発明し、心臓病の特効薬をトランクスに持たせます。

 こんな壊れた世界においても、ブルマは変わらない強さを持ち続けていると思いました。仲間たちが、そして夫が命を落としていく中、誰もが絶望しても仕方がない世界の中で、唯一希望を持ち合わせ、手繰り寄せようとしているのがブルマではないかと思うからです。

 

 山奥にひとりで住んでいた少年の日の悟空を、外の世界に連れ出し、大冒険を始めさせたのはブルマです。天才的な頭脳を持ちながら、とてもワガママで、しょうもないことにこだわり、それでも悟空の旅を幾度も助けたのがブルマです。しかしブルマは、いつしか悟空と一緒に旅をすることはできなくなりました。悟空たちの戦いは遠く激しくなり、戦う力を持たない彼女はついていくことができなくなったからです。そして、いつまでも若い時代を生きる悟空たちサイヤ人とは違い、普通の地球人であるブルマは徐々に老いていきます。

 しかし、それは彼女の魅力を損なうものでしょうか?

 

 年をとったブルマは、なお現役で作業着に身を包み、資源も乏しい中、一人でタイムマシンを作り上げます。彼女が作り上げたその時空を超える機械には「HOPE」の文字が書かれています。それは荒廃した世界に残った希望そのものです。それに乗るのは彼女にただひとつ残った息子です。

 しかし、彼女は知っています。タイムマシンで過去を変え、悟空を生き延びさせたとしても、自分がいるこの未来はもはや変わることがないことを。「人造人間をやっつけてしまった平和な未来があってもいいじゃない」、ブルマの口にするその言葉はとても強いものです。つまり、なかったことにはならないのです。起きてしまったことは、失われてしまったことは、既にあったことで揺るぎありません。ブルマはそんな辛さや悲しさを乗り越えた先にいるのだと思います。そんなブルマの姿はとてつもなく格好良いと思いました。

 

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 希望を託された彼女の息子、未来から来たトランクスの存在は、現代の世界を別の未来に分岐させることに成功します。そして、現代の悟空やベジータと出会うことで、トランクス自身も強くなり、また未来に帰ってきます。強く成長したトランクスに、人造人間たちはもはや敵いません。そして、未来の世界は、そんな未来の世界の住人自身の力によって平和を取り戻すのです。

 

 一方、悟空のいる別の未来へと分岐した現代の世界は、あらゆるものが失われてしまったあの未来とは異なり、数々の困難は相変わらず襲いくるものの、幸福に満ちた牧歌的なものになります。現代のトランクスもまたスーパーサイヤ人の力に目覚めますが、それは大切な人を奪われたからではなく、もっと穏やかな形で行われます。

 そして、ブルマは相変わらずです。相変わらず天才的な頭脳を持ち、ワガママで、明るく、そして強い。どんなに世界が変わっても、悟空は変わりそうにもありません。そして、ブルマもまたそうなのではないでしょうか?

 ドラゴンボールの物語が、そんな悟空とブルマの出会いから始まったことは、運命的なものだったのではないでしょうか?漫画のドラゴンボールの最終回は、ブルマと悟空の出会いから振り返られます。全てはそこから始まったのです。

 

 さて、今やってるアニメの「ドラゴンボール超」ですが、今週から「未来トランクス編」が始まり、また未来の世界が描かれ始めたので、色々思うことを書きました。僕はこの世界の話がとても悲しくて思い入れがあるのです。

 これまでの新たな敵は登場しても、どこかゆるくて牧歌的な感じからうって変わり、たいへん厳しい未来の世界が描かれます。その差はきっと悟空の不在です。そして、それを解決できるのはおそらくブルマの遺した力です。そして、この悟空のいない世界に、悟空に似た謎の男が登場しました。彼は一体誰なんでしょう?これから先にどうなるのでしょう?それが気になるので、おじさんは日曜の朝に毎週アニメを観ます。

Arduboyをゲットした話、あるいはゲーム作りをゲーム化する話

僕が考えるところのゲームとは?

 多分何回か書いていますが、僕はゲームの最小単位、つまり、僕がゲームと認識しているものから、可能な限りあらゆる条件を剥ぎ取っても最後に残るものを、「プレイヤーが入力して、画面に何らかの反応が返ってくること」だと思っています。そして、そこにもう一つだけ足させてもらうなら、「プレイヤーが返ってきた画面を見て、次はもっとよい反応が返ってくるように入力を修正する」ってことなんじゃないかと思います。この入力と出力のループを無限に繰り返すことをゲームだとして考えると、なんとビデオゲーム以外も多くのものが実はゲームです。

 

 例えばこの意味においてプログラミングはゲームです。ある仕様に基づいたものを作ろうとして、とりあえずプログラムを組んでみます。しかし、僕がへぼいこともあり、一発で完璧に動くことはまれです。そこには何か見落としがあったりして、画面表示やデバッグログなどの出てきた結果を確認して、問題点を発見し、修正して、また実行します。その繰り返しの中、当初の意図通りに上手く動けばゲームクリアです。

 

 また、絵を描くこともゲームです。なんとなく「こんな絵を描きたい!」と思っても、僕がへぼいこともあり、頭に思い浮かんだものがそのまま描けるとは限りません。いや、そもそも僕の頭に思い浮かんだものの解像度が低いのです。そして一方、現実の世界はもっとずっと解像度が高いのです。つまり低解像度の脳内イメージを、高解像度の紙の上で再現しようとしたときに、その差を埋める段階で初めて分かることが多々あります。なので、僕の場合は一発で完成を目指さず、とりあえず描いたあと、良くない部分を発見して、それを修正することを繰り返して、目当ての絵に近づくことを目指します。散々修正したあと、これ以上はどう直しても良くはならないという自分の限界に気づいた時、絵は完成し、そのゲームはクリアとなります。

 こう考えると、絵はアナログで描くより、デジタルで描く方がよりゲームっぽくなります。なぜなら、修正作業が容易だからです。鉛筆で描いた線は消しゴムで消えますが、跡が残ります。ペンで描いた線は修正液で消せますが、修正された部分をもとの紙と完璧に同じように扱うことは困難です。水彩絵の具で一回塗ってしまえば、修正したいと思っても元の白い紙に戻すことはできません。しかしデジタルならば、完璧に元の状態に戻せます。よって、細かく何度も迅速にチャレンジすることができるのです。

 ゲームで言えば、失敗すればステージの最初からやりなおすゲーム(アナログ作画)と、その直前で復活できるゲーム(デジタル作画)のような違いです。そう、デジタルで絵を描くことはよりユーザフレンドリーなゲームであり、だから根性もなければ真剣みもない僕のような人間でも続けることができるのです。

 

 こういうことを考えていくと、ゲームを作ることは、実はそれ自体がゲームなんじゃないか?ということに気づきます。なぜなら、何もない状態から、ゲームの仕組みを創りだし、それを動かして、より面白くなる方向に修正していくという入力と出力のループがあるからです。そして、ゲームを作るという作業の中には、上述のプログラミングやデジタルで絵を描くことも含まれています。そう、だから、ゲームを作ることはおそらくとても楽しいことのはずです。なぜなら、ゲームを作ることはゲームだからです。

 

 ただし、ゲームといっても、楽しさがすぐに分かるゲームと、なかなか分からないゲームがあります。その原因はいくつか考えられますが、大きなもののひとつは、自分が行ったことの結果がすぐに分かるか、しばらく経たないと分からないかという部分でしょう。

 入出力ループを回すことをゲームとするならば、もし、入力に対応した出力が分かるのが何日も後だとすればどうでしょうか?再度入力をする気になるのも何日かに一回となってしまいます。想像してみましょう。ドラクエの戦闘で「たたかう」を選んで、敵にダメージが与えられたかどうかが分かるのが数日後だとした場合、そのゲームをクリアできる気がするでしょうか?よほどの根気がなければ不可能でしょう。

 これはゲームを作るというゲームにおいて、非常に重要な問題です。なぜなら、ゲームを作りたいと思ってから、画面上で何かが動き、それを修正するという、出力が容易に得られる段階に辿り着くまでに、非常に長い時間がかかってしまったとすると、多くの人はそのゲームの面白さが分かるまでにを待たずにやめてしまうと考えられるからです。その人が「根性なし」というのもそうかもしれません。しかし、たとえ根性なしだったとしても、それを楽しみたいのなら、この問題を解決する必要があります。

 

 一方、楽しさが分からなくなる原因は他にもあります。それは、出力を解釈する方法(それが正しいか正しくないか)が分からないことや、どのように修正すればいいかが分からないことなどです。この辺のスキルは、一朝一夕どうしようもないので、いきなりあまり大それたことをしようと思わないことが肝要かもしれません。

 

 ともあれ、何かをやって、それがどのように動いて、それを見て、次に何を変えればいいかを考えるというループを、迅速に回せるようになることがゲーム作りをゲームとして楽しむためには大事だと思いました。ゲーム化してしまえば、良い感じに楽しくなるので、無限に時間が注ぎ込めるようになります。

 

 最近はフリーのゲームエンジンも沢山あるので、色んな工程をすっとばしていきなり動くものを作れるという便利な時代です。僕も趣味で細々としたものを作ったりしていましたが、かなり便利です。Unityなんかにはアセットストアという様々なリソースを自分で作らなくても利用できる枠組みもあって、たいへん便利で素晴らしいなあと思います。しかし、それでもやはり、動かせるというところに至るまでに細々とした長い工程が挟まってしまうことがあります。そういうときに、僕は早く動かしてえ~と思ってしまうのです。

 余談ですが、僕が子供の頃、プログラミングを覚えるきっかけになったのが、当時通っていた中学校にあったMacintoshHyperCardです。このソフトウェアが素晴らしかったところに、動かせるまでの早さがあったと思います。HyperCardはその名の通り、PCの画面を1枚のカードに見立てるものです。そのカードにはペイント機能で自由に絵が描けます。そしてさらに、カードの上には、押すと何かを起こせるボタンや、文字列を表示できるフィールドも配置することができます。つまり、とりあえず絵を描き、ボタンを押せば別のカードに飛ぶように書けばすれば、選択肢によって分岐する簡単なアドベンチャーゲームを作ることができます。触ったことがなくても10分あればいけるので、それでぐいぐい引き込まれてしまいました。

 より高度なことはおいおい覚えていけばいいとして、とりあえず動くというところに到達することが重要だと思います。そして、動いて楽しくなるところに至るまで「待つ」ことができる忍耐力を持っているか否か。それは、何か新しいことにチャレンジする上で最も重要なことのひとつでしょう。ちなみに僕はあんまり持ち合わせていませんが。だからこそ、頑張らなくてもいい方法論に頼ります。

 

 そういえば、また話がそれるんですが、何かに対して、それが楽しくなるかならないかの見切りが早い人がいて、楽しくなるところにすぐに到達できないと、それを止めてしまったりします。ただ、それを見切る代わりに他の別のことに向かうのでしょうから、それが良い悪いとは一概に言い難いです。しかし、そういう人がなんか早く見切ったことを自慢げな物言いで言ったりすると、腹が立つことがあります。なぜなら、個人的に楽しくなるまで時間がかかったものの、素晴らしいと思ったものが沢山あるからです。そこに至りもしないで、そのものを否定する行為が、全く丁寧ではないと思い、ひるがえっては自分が好きなものを粗雑に扱われたと思います。だから、腹が立つんだと思います。

 

Arduboyをゲットしました

 ここまで3000字ぐらい書いてきてようやく本題なのですが、昨日、Arduboyというゲーム機をゲットしました。一年ぐらい前にKickstarterにバックして、忘れた頃にようやく届いたんですが、これはArduino(という組み込み系の便利な枠組み)をベースにしたポータブルゲーム機です。

 

 

 これがすごく良いのですが、何が良いかというと、できることがすごく限られていることです。画面の広さは128×64しかありませんし、書込めるプログラムも32KBの容量が限界です。ドラゴンクエスト1が64KBの容量であったことを、今から振り返ればすごく小さいと皆さん思うでしょうが、こちらはそのさらに半分です。ボタンも十字キーとABボタンしかありません。スタートボタンもありませんし、ボリュームも調整できません。イヤホンも挿せません。音も同時に鳴らせるのは2音だけです。

 しかし、できることの品質は充分です。調達に苦労したというOLEDのディスプレイは、自発光であるため、暗い場所でとても美しく光ります。ボタンのクリック感も良い感じです。そして、スイッチを入れれば、ものの6秒ぐらいで動き出すのも小気味良いです。microUSB端子をPCに直結すれば、充電ができます。そして、arduinoの開発環境を入れればそのケーブルを通じてすぐに中身を入れ替えることができます。なにより小さくて可愛い!!

 作ったものが持ち歩けて、物理ボタンで操作できる。こういうのが欲しかったのです。一時期のdocomoの携帯のiアプリとかは割とこれに近かったのですが、今では廃れてしまいました。

 

 さて、できることが限られていると、必然的にどのように使うかを考える方法がシンプルになります。この枠組みの中で何が作れるかを考えると、色々できなくて仕方ないなあなどと思いながら、一直線に結論に至れます。画像に凝ったり音に凝ったりも頑張ればできるとは思いますが、難しいので後回しです。つまりできることが制限されているために、へぼい僕は動かすところまで一足飛びにいかざるを得ないのです。そして、修正も方法が限られているので、あんまり大掛かりなことを考える余地がありません。ちょっと取っついて、すぐに結果が出るということを短時間で繰り返せるので、ゲームを作るというゲームとしてはとてもお手軽でいいですね。

 

 昨日の昼過ぎにArduboyの入った小包が届いて一通り動作確認したあと、ご飯を食べに外出しながら何を作ってみるかを考えて、帰ってきてから1時間ぐらいでひとつゲームを作りました。間に合わせのつぎはぎでめっちゃ雑ですが、なんとなく僕が考えたゲームっぽさ(つまり、入力と出力のペア)は作れました。

 

 

 これはどんなゲームかというと、0から9の数字が上からじりじり降りてくるので、右下の数字を十字キーの上下で消したい数字に合わせてBボタンを押すと消えるというものです。画面に迫ってくる数字があって、それを見てどれを消すかを判断、ボタンで選択して消すというただそれだけの無限の繰り返しです。

 ですが、上から降りてくる数字の速度がちょうどよく設定されていると、

  1. 画面出力を判断して、
  2. 行動を決定し、
  3. ボタン入力したあと、
  4. 結果を確認する

というサイクルを自分の感覚でぎりぎり処理できる感じに回すことができます。これだけで、自分で遊ぶ限りでは数分ぐらいは間が持ちます。僕はこのArduboyで自分が暇つぶしにできるゲームを作りたいので、最終的に15分ぐらい間がもつゲームになったら完成だ!ということにしようと思っています。

 

 その後、戯れに消えた数を音の高さで把握できるようにしてみたり、消えるときに適当なエフェクトを試しにつけてみたりもしました。

 

 

 それで、この先、どうするかなんですが、とりあえず数字を消すと右下にパワーゲージが伸びていくようにしてみました。これが貯まったところで何かが出来るようにしてみると、「目の前の数字の処理に対応すること」と、「ゲージが貯まったときにすること」の、周期が異なる二重のループをゲームプレイの中に作れるので、上手くしたら15分ぐらい間が持つんじゃないかなあと思っています。しかし、まだこのゲージを何に使うのかを決めていません。

 

 このように、家にArduboyが来たことで、雑なゲームを雑に作って遊ぶと言うゲームがお手軽にできるようになりました。作ったゲームがある程度遊べる感じになったら、友達のところの子供とかに遊んでもらったりしたいと思っています。2台手に入れたので、1台をあげてもいいかもしれません。それもまたゲームです。

 

まとめ

 僕が思うに、世の中の大体のことは僕が自分勝手に定義した意味で「ゲーム」だと思います。「ゲーミフィケーション」という一瞬流行ったものの、実用的にはあんまり上手く行ってなさそうな言葉がありますが、僕が考えるゲームの意味はそのとき言われていたこととは違うと思っていて、そもそも世の中の色んなものはゲーム化する以前に既にとっくにゲームなんだと思います。

 しかし、そのゲームに夢中になるためには、「自分が行動したという結果が、何かに反映されて確認できる」ということ、「そこに見つけた問題を自分で発見し、修正できる」ということ、そして、「何度も一度チャレンジできる」という条件が満たされていることが重要です。これらが満たされていれば、ゲームを作ることも楽しいゲームです。まあ、別に作らなくても、次に遊ぶゲームを見つけることだけでも楽しいゲームかもしれません。

 この辺を上手く調整することができれば、つまらないと思っていた何かも、面白くて楽しいゲームとして捉えることができるかもしれません。しかし、世の中はそう上手くはいかない。自分の行動の結果が、ずっと先にならないと分からなかったり、そもそも結果を教えて貰えなかったりします。原因の調査や解決を他人に任せなくてはいけなかったり、一回こっきりで次のチャレンジを許されないかもしれません。それは仮にゲームだとしても、夢中になりにくいゲームです。このように、世の中はままなりませんが、自分が目の前のことを楽しめないとき、では、何の条件が欠けているせいで、それが夢中になれるゲームではないのか?を考えると、そこから抜け出すための糸口になるかもしれませんね。

 なんかいい話を書いたような気がするので、今日のところはこの辺で終わりにします。

「こども・おとな」と自分を形作る他人の話、ほか

 福島鉄平の漫画には、情緒の機微のとっかかりにガンガンとフックをひっかけられて揺さぶられてしまうものが多いのですが、この前単行本が出た「こども・おとな」もまたそのような感じでした。

 作中で描かれる日常の風景の、ぱっとしか見なけば平坦に見える表面には、指でなぞれば確かに分かる絶妙な山なりが描かれており、それをただただ静かになぞり続けていくような感じの読感で、たいへん良かったです。

 

 このお話の中では、ある少年と、その周囲にいる人々の関係性が描かれます。少年はまだまだ無垢な感じであり、世界はそれに比べれば普通に猥雑です。そんな無垢と猥雑が接触すれば摩擦が生まれます。無垢な少年は、その摩擦にビックリしてしまいますが、その経験を通して、それらとの付き合い方を学んでいきます。無垢な少年はいつしか猥雑さを抱えた大人になります。しかし、だからといって、子供の頃に持ち合わせていた無垢な部分が、その胸の中から全くなくなったわけではありませんが。

 

 僕が思うに人間が成長するということのひとつの意味は、自分の中に他人の居場所を作ることです。そして、そんな「自分の中の他人」は、いつしか、自分自身と溶け合っていくものだと思っています。

 この人は何でこんなことを言ったんだろう?この人は、こう言ったらどう思うだろうか?そんなふうに他人のことを考えるとき、自分の中にはその他人をモデルにした不完全な立像が作られます。多くの人と出会い、共に過ごすことで、それらの多くの人を形作った像が、自分の中に増えていきます。そして、そのような「自分の中の他人」と、「自分自身」の境界は、時間とともに曖昧に溶け合ってしまうのではないでしょうか?そのような過程を経て、いつしか、自分の中に沢山の他人が取り込まれていることに気づいたりもするものだと思います。

 

 個人的な体験では、大学時代の恩師のことが思い当たります。在学中は特に仲が良かったわけではなく、研究の報告以外で話をしたことなんて、出張中に一回二人で飲んだきりぐらいの間柄でした。しかし、学部四回生から大学院卒業までの3年間、毎週の研究報告の際、内容にコメントされること、そして事前準備として、何をコメントするだろうか?ということを先回りして想定して資料を作っていたことが、僕の中にその先生の立像を形作っていたのだと思います。何かの問題について考えるとき、その考え方の中に、先生から受け継いだものがあることに気づきます。

 卒業後しばらく経ってから、自分がその先生に大いに影響を受けていると気づいたとき、ああ、あの人は僕の恩師なのだとやっと実感しました。手取り足取り教えて貰ったことは一度もありませんし、むしろ環境と課題だけ与えられてあとは放っておかれるような関係性でしたが、僕は先生から多くのことを学び、それらがこの身の中に生きています。

 このように、僕を形作っているもののほとんどは、おそらく、自分が直接的に間接的に触れてきた人々の欠片の寄せ集めなんだと感じています。

 

 「こども・おとな」のお話の中には絶対的な正義はないように思いました。ここでいう正義と言うのは、「そうすべきこと」のことを言っていて、正解と言い換えてもいいかもしれません。正解というものはときに厄介です。なぜ厄介かというと、正解が存在すると、そうでないもの間違いということにされてしまうからです。少年の周囲にいる人々の行動は、全肯定はできないことも多いですが、でも、それは間違いではないのだと思います。少年と周囲の人々は、良くも悪くも関わりあい、そして、少年は周囲から色んなことを学び、得ていきます。

 例えば、第一話で、少年はある女の子が邪魔なところに立っていることに「バカ」と言い放ちます。なぜ少年がそんなことを口にしたかというと、自分の家にいるとき、お兄ちゃんが自分が邪魔なところにいることに対して「バカ」と言うからです。少年は邪魔な場所にいる人について「バカ」と言うものだと学びますが、一方その行為は先生に咎められてしまいます。少年には分からなくなってしまいました。誰かが邪魔なとき、「バカ」と言ってよいのかよくないのか。

 色んな人の色んなやり方が自分の中に入ってきます。無垢な、言い換えればまだまだ空っぽな少年は、その空っぽの器の中に、色んなものをどんどん取り込みます。その中には矛盾するものもあるでしょう。でも、自分の中にそれを置いておくと、矛盾していた部分もいずれ整理され、馴染んでいきます。それがどろどろになるまで溶け合ったとき、それは自分になるんだと思います。このお話の中で描かれているのは、そういう光景なんじゃないかと思いました。

 色んな人がいます。そこには、必ずしも正しいとは言えない人もいます。また、その行動の中に、一見分からなくとも、少年に対する大きな愛情が含まれていることもあります。その、まだ空っぽの器には、清も濁も区別なく注がれます。

 そんな色んな人との出会いと、共に過ごす時間を経て、少年は大人になります。誰だってそうでしょう?僕は、誰だってそうだと思うので、僕だってそうだと思います。だから、僕はこのお話を読むことで自分の中のそういった記憶を思い出し、胸の中に今まで出会ってきた人たちとの記憶と、その人たちから受け継いだものが蘇るのを感じます。僕は住む場所を次々と変えているので、今まで出会ってきた多くの人たちのほとんどとは、今はもう日常的に会うことはありません。でも、その人たちの欠片は今も、きっとこの先も自分の中に残っているのです。

 

 誰にだってある、子供の頃の何も知らない自分と、今ある自分の狭間にある、出会ってきた沢山の人々について思い出すような漫画だなと思いました。そして、自分に注がれていた愛情に気づくのは、注がれていたとき、その瞬間ではなく、タイミングが随分とずれていて、その愛情の伴う行為を自分の中に発見したときにであるかもしれません。そういうことを思いました。

 

 さて、感想はここまでとして、別のことを書きます。

 漫画も商品です。商品においては、言葉にすれば一言でその良さが表現できるものというものが重宝されるという傾向があります。なぜなら、この漫画は何の漫画であるか?を一言で言い表せることは、宣伝や口コミによる伝播を期待するときには重要な要素だからです。あるいは言葉でなくとも1コマ見れば面白さが分かる漫画も同様です。

 でも逆に、言葉にすれば、元の作品の何倍もの量になってしまうというような漫画もあると思います。作品に込められたものは充分圧縮された形をしていて、読んだ自分の中には、それ以上の量のものが広がってしまうからです。また、1コマではなく、コマの連なりをじっくり読むからこそ、初めて表現できるものもあると思います。

 そんな指で触って初めて分かるような細かく繊細な起伏は、読めば感じ取れるものだとしても、それを語るのに、より多くの言葉を必要としてしまい、むしろ語られることを聞くより、元の作品を読んだ方がてっとり速いような気がするかもしれません。僕が思うには、「こども・おとな」はそっちの方の漫画なんじゃないかと思います。

 

 曽田正人「昴」に、主人公の昴と、トップバレリーナのプリシラ・ロバーツが、同時期に同じ「ボレロ」で舞台に立つというエピソードがありました。昴のボレロへのアプローチは、自分が踊っているときに入っているトップアスリートのみが到達できるようなZONEに、観ている人々をも引き込むということです。そして、一方、プリシラ・ロバーツは、踊りの動きの中に音を取り込み、徐々にフェードアウトしていく演奏を感じさせず、無音のはずの空間において観客たちに音がまだ鳴ったままだと思わせるというようなことをやってのけます。

 プリシラ・ロバーツは、初回の舞台ではまだ上手くそれをコントロールできませんでした。その結果、観客たちは夜寝る頃に、鳴ってもいないボレロの音楽が頭に響い続けてしまい、たいへんなことになってしまいました。しかしながら、それも結果的に功を奏し、プリシラ・ロバーツの舞台は大盛況となります。なにせ、演奏されていない音楽が頭の中に鳴り響くという不思議な舞台なのですから。連日沢山の人がその舞台に詰めかけます。

 一方、昴の舞台は、そこまでの社会現象は生み出しません。しかし、大量のリピーターを生み出すことになるのです。昴の踊りを見れば、人々は個人の力では入ることができない領域に引き入れられてしまいます。その状態は誰一人上手く言葉にすることはできませんが、喩えるなら麻薬的です。昴の舞台の魅力に憑りつかれた人々は何度も何度もその舞台に足を運びます。社会現象にはなりませんでしたが、昴は昴でとんでもないことをやってのけました。そして、その事実に気づいたプリシラ・ロバーツは、自分以外の才能に気づき笑みを漏らす(ちなみに、雑誌連載版では多少表現が異なっていて、戦慄する描写だった)のでした。

 

 僕は、漫画もこのような特性の違いがあるんじゃないかと思っていて、人々の中に伝播する能力が高い漫画と、そうでもない漫画があると思います。特に昨今は、企画の段階でSNSなどの口コミによる伝播を意識している漫画が沢山あるように思えていて、その手の漫画は、どのような漫画であるかの個性を短い言葉で言い表せられるようになっていると思います。そして、それは分かりやすくてとてもよいことだと思います。

 一方、同時に、そうでもない漫画も沢山あるというのが日本の漫画出版のよいところだと思っています。本作もそうですが、最近で言えば福島聡の「ローカルワンダーランド」なんかも、一言で何の漫画と言えばいいかなかなか難しいですが、とても良い連作短編集でした。

 それらを無理矢理言葉にすることはできるんですけど、それは結局、元の漫画が持っている多様性の中から、ひとつだけを切り出すだけの行為に思えてしまい、確かにこういうものだと言えるとは思うけれど、それだけじゃないんだよなあと延々と文章をこねくり回し続けて、最終的に上手くまとまらず諦めるということになったりします(というか実際僕が書こうとして書けなかったんですが)。

 でも、読んで「良かった」と思った気持ちは、間違いないのです。そういった種類の漫画がどのようにしたら皆に広く早く伝わっていくことができるのかということは分かりませんが、それは別に読者でしかない僕の仕事ではないと思うので、その辺は誰かすごい人が頑張るんだろうなと思っています。

 

 ちなみに、そういった漫画にありつける一番よい方法は、雑誌を購読して全部読むことです。なので、合法なドラッグのような漫画を読みたいジャンキーであるところの僕は、今日も漫画雑誌を読み続けるのでしたとさ。

 おしまい。