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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

デビルマンおじさんの話

 デビルマンおじさんはデビルマンが大好きなので、僕はおじさんとデビルマンの話をよくする。
 以前別のところでも書いた思い出で、随分と前の夜中の居酒屋で、手のひらを頭の上でバタバタさせながら「妖鳥シレーヌ!」などと言って、だだスベリしていた友人Aを、四つん這いになって「シレーヌ!俺の体を使え!合体だ!!」などとカイムのモノマネをして助けてあげたのも、デビルマンおじさんだった。僕は場末の居酒屋で、二人の男が組体操をする様を美しいと思った。
 
 デビルマンおじさんにはあらゆるデビルマンの話が通じるので、バイオレンスジャックの話も、デビルマンレディーの話も、ネオデビルマンの話も、AMONデビルマン黙示録の話も、シレーヌちゃんの話も、デビルタカマンの話も、佐々木蔵之介デビルマンのパワーマイムの話も、デビルマンGの話も、激マンの話も、他にも沢山の話も、ありとあらゆるデビルマンの話が通じるので、僕はデビルマンおじさんとデビルマンの話をする。新デビルマンは悪い漫画じゃないけど、デビルマン本編の中に挿入してしまうのはテンポが悪いよねとかそういう話もする。

 デビルマンおじさんは、世の中のあらゆるものからデビルマンを探すのが得意だ。寄生獣を読んではこれはデビルマンだと言い、ベルセルクを読んではこれはデビルマンだと言い、エヴァンゲリオンを見てはこれはデビルマンだと言い、魔法少女まどかマギカを見てはこれはデビルマンだと言う。デビルマンおじさんの心の中にはきっとデビルマン箱というものがあって、ヒヨコの雄雌鑑定のように、これはデビルマン、これはデビルマンじゃないと選り分けているのではないかと思う。それほどに、デビルマンがおじさんに与えた影響は強烈であったのだろう。
 
 ある漫画や映画なんかを見て強烈な影響を受けたとき、直後に読んだりした別の漫画や映画なんかにも同じものを見出してしまったりすることが僕はある。これは多分デビルマンおじさんの言っていることと同じだろうなと思う。違うのは僕の中のそれは揮発性なので、時間が経つとその対象が別の何かに映るという点だ。僕は気移りし、デビルマンおじさんはずっとデビルマンのところにいる。僕は尻軽で、デビルマンおじさんは一途だ。
 
 デビルマンおじさんにとってデビルマンは漫画そのものだけでなく、構造であり概念だ。なぜならばデビルマンデビルマンでしかないので、寄生獣はどう考えてもデビルマンじゃないし、不動明飛鳥了も出てこない。なのに、寄生獣デビルマンだというのは、デビルマンおじさんのなかで、デビルマンが概念化しているからだろう。じゃあ、概念としてのデビルマン的というのは一体何なのか?
 
 それが一言で言い表せるのであれば、デビルマンという漫画はいらない。漫画なんて読まなくても、その一言だけを崇拝していればいいのだ。実際世の中ではそんな感じのことも多い。ホッブズの「リヴァイアサン」を読まずとも「万人の万人に対する闘争」などという言葉を使って十分だし、ニーチェの「善悪の彼岸」を読まずとも、「怪物と闘うものは、その過程で自らが怪物とならぬよう心せよ」などという言葉を使って十分だ。そんな場合に引用したいのはそのごく一部の概念であって、本そのものを概念化したものではない。本そのものだとするならば、本を読むしかないのだ。なぜならば、その本を理解するために最も簡潔に書かれたものが、その本そのものであるからだ。デビルマンが何かと問われれば、それはデビルマンの単行本全五巻でしかない。それ以上の何かは全て冗長で、それ以下の何かは全て欠けている。一言で言い表せることは、豊潤なデビルマンのごく一部を小さく切り出したものに過ぎない。デビルマンを概念化するとき、人はそれを要約などせずに、その全体をただ確信するしかない。ソムリエが言葉で述べるワインの味も、百万言尽くしても三分の一も伝わらないかもしれないが、一口飲めば一瞬で理解できる。そういうことだ。

 神と悪魔、人と化け物というような相容れない二項の対立、その中での片方から片方への強烈な思慕、あるいは憤怒、二人の関係性と世界規模の争いの相似形、正義を成すために犯さなければならない罪、守るべきものこそが最も唾棄すべきものたちであったという悲しみ、最後の心の支えを蹂躙された絶望、価値観の反転と正義の喪失、それでもなお襲いくる強大な力、虚無、戦いの果てに辿り着いた安らぎ、デビルマンの中には沢山の要素を見出すことができるし、想像力が豊かであれば、ともすれば作者が意図していなかったものすら読み取ることができる。それはさながら、聖書や白鯨の中にメッセージを読み取ることができるがごとく、読者は紙に染み込んだインクの形状から、自分が読み取りたいものをただ読み取る。なぜそんなことができるかと言えば、読み取りたいからに違いない。三つの点があれば人の顔を認識するように、外部の情報から、自分好みのパターンを認識する。

 デビルマンおじさんにとってはそれがデビルマンの形をしていて、それ以外の人にとってはきっとそれぞれ別の形をしているのだろう。世界はデビルマンの形をしていないが、人が望みさえすれば世界からデビルマンの形を見出すことは可能だ。世界は世界でしかないが、観察者の望むように歪められ、歪められているがゆえに観察者にとっては完璧だ。
 
 デビルマンおじさんは実在する。僕はデビルマンおじさんが大好きだ。デビルマンおじさんの手にかかれば僕もまたデビルマンの一部にされてしまうかもしれない。でもそれは悪いことではない。僕もおじさんを好きなように歪めて捉えているし、全ての人がきっとそうだろう。全員が全員にお互い様の話だ。
 
 この世界に新しい何かがまた出てきたとき、おじさんはきっとその中にデビルマンを見出すだろう。そうしたら、僕はまたデビルマンおじさんと、デビルマンの話をしようと思った。