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獣性と神性の中間にある人間性について(ズートピアの感想にかえて)

 ディズニーの映画、「ズートピア」が公開になったので観て来たんですが、めっちゃ良かったです。

 

「ズートピア」とは 

 「ズートピア」は、文明を獲得した動物たちが暮らす都市を舞台にした物語です。そこではかつては食べる側だった肉食獣と、食べられる側だった草食獣が、もはやそういった関係性を遠い過去のものとし、同じ言葉を喋って同じ社会の中で暮らしています。

 この動物たちの楽園において、平等であるということを実現することは人間社会以上にとても難しい問題です。なぜならば、動物たちは体の大きさや形や性質がまちまちだからです。体が異なれば最適解も異なります。体の大きな動物用に作られた大きな扉を、体の小さな動物は開けられません。体の小さな動物用に作られたものを、体の大きな動物が使うことは難しいことです。それらは合理性から区別されることになりますが、では、差別と区別の違いはどこにあるでしょう?世の中で最も解決が難しい差別は、ある種の合理的を伴っているものだと思います。

 一見合理的な理由が見つけられることであるからこそ、ある人と別の人の持つ権利に差があっても「仕方ない」とされてしまったりします。しかし、それらは本当に仕方ないことなのでしょうか?

 

 さて、ズートピアについての直接的な感想は、公開間もないこともあり、また後日気が向いたらということにします。そして今日は、それに微妙に関連しているようなしていないような感じのことについて思っていることについて書こうと思います。

 

 ズートピアにおいて動物たちは、野生を捨て、人間性を獲得して社会を構築しました。ではそこに生まれた「人間性」とはつまり何なのでしょうか?かつてと今では何が変わったというのでしょうか?

 

amazarashiの「多数決」とジョージ秋山の「アシュラ


amazarashi 『多数決』Music Video

 最近買った、amazarashiのアルバムに収録されている「多数決」という曲に、以下のような歌詞があります。

その実、知恵のある振りをした獣だから

空腹もこれ以上無い動機になりえた 

  この部分の歌詞を聞いたときに、この曲の主題とは別に連想ゲームで思い出した漫画がありました。それはジョージ秋山の「アシュラ」です。「アシュラ」は、人間が獣に立ち戻り跋扈する悲惨な世の中において、人間であろうとすることの苦しみを描いた漫画だと思います。つまり、「人間性とは何か?」ということを問うているのです。

 「アシュラ」において、人間がなぜ獣に立ち戻ってしまうかというと、それは生きるために必要だからです。時は平安時代の末期、飢饉によって食べ物がない時代は人間から人間性を奪いました。この漫画に登場する多くの人は、生きる為に他人の肉を食べるという選択をしてしまいます。

 アシュラは、そんな世の中で、人肉を食べて生き延びたある女性の子供です。そして、その女性は人を殺し、あるいは腐肉を喰らってまで生んだ実の子供であるアシュラすら、火にくべて食べようとしてしまいます。なぜならば空腹であるからです。食べなければ生きていけないからです。実の親に食べられそうになったアシュラは、全身を大やけどしながら、人間社会の外で、人の情を知らずに育つ子供です。アシュラは生きるために人を殺し、生きるためにその肉を喰らうのです。

  人が獣として生きる世の中で、人間であろうすることは苦痛を伴います。なぜならば、心は人間であろうとするのに、その身は獣に落とさざるを得ないからです。矛盾を抱えてしまうことは、人を苦しめます。

 「生まれてこない方が良かった」、アシュラはそう嘆きます。人間であれと諭す坊主に、アシュラは自分は獣であり、みんなも獣であると返します。「おれが生きていくのに 人間らしさがなんの役にたつんだ」と主張します。坊主は、誰しもが獣の本性を持つことを認めながらも、人間らしく生きることが必要だと説きます。そして、人間はどんなに人間らしくあろうとしても、獣の本性をさらしてしまうことがあるというのです。それが、人間のあわれさです。坊主は、獣と化した両親を、アシュラに何もしてくれなかったどころか、殺して喰おうとした両親をゆるしてやれと言います。そして、アシュラにその言葉は届かないのでした。まだ。

 

人間性について

 僕が思うに、人間の感性の中には獣性と神性と分類できるものがあり、人間性はその中間にあるんじゃないかと思います(ここで出て来る言葉は全部、僕が便宜上、適当に定めた言葉です)。

 獣性とは、言うなれば個人主義です。自分の生存のために、他人をないがしろにするということです。神性とは、全体主義です。個人の利益を追求するのではなく、全体として上手く回るように考える感性です。一見、神性であれば良さそうに思いますが、より強い暴力を発揮し得るのは神性の方だと思います。なぜならば、獣性の暴力は自身の生存のために発揮される個人レベルのものですが、神性の暴力は全体のために不利益な「それぞれの個人の持つ獣性」を許容せず、弾圧する方向に作用し得るからです。

 人間が自分の生存を望む生物である以上、獣性を切り離すことはできません。切り離せないものを弾圧する暴力は、抵抗に応じてより強く、そして広範囲にばらまかれる可能性があるでしょう。それは、場合によっては社会構築の障害にすら成り得ます。かといって獣性しかなければ、社会を作ることができません。なので、獣から人間となり、社会を構築する根源となる「人間性」は、その間にある「いい感じの部分」のことではないかと思っています。

 

 自分の利益を追求する獣の部分と、全体の利益を考える神の部分のその両方を兼ね備え、バランスをとることが人間性であり、そのバランスは時代や場所や各人によって微妙に異なるものだと思います。それは言うなれば危うく、言うなれば柔軟です。

 

神と獣、理想と現実

 僕の感覚では人間は神には成り得ないですし、獣でなくなることもできないと思います。それは理想主義では生きていくことはできず、どこか現実に足場を置かなければならないというという感じの意味です。

 自分から獣の部分を切り離せると思っている人と、そうでない人がいると思うんですが、僕は切り離せない派で、なぜかというと、金に困ったことがあるからです。その結果、食うものに困ったことがあるからです。食うものに困ったとき、他人に対する攻撃性がある自分の中の獣の部分を痛感しました。近年の自分は割と、全体のことを考えて理想的に行動できているような気もしますが、それは近年は金に困っておらず、その結果、食うものに困っていないからだと思いますし、また困るようになったら、今のような考え方でいることはきっとできないでしょう。きっと自分の食い扶持を稼ぐために、他人をないがしろにし始めると思います。

 「アシュラ」を昔、初めて読んだときに強く心を動かされたのは、自分の中のこういう部分に気づいているからだと思います。人間には豊かさからくる余裕がなければ、きっと獣の本性を隠すことができなくなります。そして、それは同時に、豊かささえ確保できれば、本性が獣であったとしても、人として社会を形作ることができるということでしょう。僕は、それが素晴らしいなと思います。そして、だからこそ、豊かさを失うということに対する不安があります。

 

 その本性が獣であることをやめることができない人間が、豊かさを前提にバランスよく他人と上手くやることを覚えたということが人間性ではないでしょうか?その背後に獣の部分が埋まっていることは、恥ずべきことではないと思っています。それを眠らせておき続けるだけの豊かさを確保し続けなければなりませんが。

 僕がより恐ろしいと感じるのは神の視点に成り代わり、獣の部分をなくそうとすることです。獣の部分は確実にあるのに、ないことにしようとすることは、つまり、獣の部分を出してしまった人を社会から排除するということによってのみ達成されると思うからです。あるいは、獣の部分があるかもしれないことを示唆するだけでもアウトかもしれません。それは実は誰しもが持ち合わせているはずなのに。

 それがより恐ろしいのは、その獣を排除しようとすることに、ある程度の合理性を感じられてしまうからです。合理的なことは肯定される力が強いですが、その結果、本当ならもっとよく考えるべきことが考えられないかもしれません。そして、それは人間が獲得した人間性をむしろ失わせる行為ではないかと思うのです。

 

 amazarashiの「多数決」では、正しさや間違いがその時代時代の人々の多数決で決まってしまうことについて歌われています。それはとても恐ろしく、そして合理的な行為であると思います。

秋葉流はなぜうしおととらを裏切らなければならなかったのか

 ある男がいた。彼は、凡百の人間が長い鍛錬と研鑽を重ねてようやく到達する高みに、一足飛びに駆け登ることができるような男だった。つまり、彼は天才だった。そんな彼を多くの人は羨む。そして、そんな羨みは、いずれ不平不満に変わるだろう。なぜならそれはある種の不公平だからである。

 なぜ、彼だけが特別な天才であり我々はそうではないのか?なぜ普通の人ならば要求されるだろうほどの対価もなしに、天才は結果の果実を手に入れることができるのか?人間が平等であるならば、それはおかしな話だ。普通の人々が100の労力をかけて手に入れる能力を、彼はたったの1の労力で手に入れてしまう。誰にも100円で品物を売っているお店が、彼にだけ1円で売っていればそれは不公平だろう。人間は平等であるべきという考えは、そんな不平等さを是正しようとする。

 結果として、彼は天才であるがゆえに、天才ではない人々によって足を引っ張られることになる。それが彼だけを対象としていればまだ良かったかもしれない。しかし、その矛先は彼の家族にも向けられた。そして、彼の母はその圧力に耐えられるほどに強くはなかった。そんな中、彼はひとつの結論に至る。

 

 「オレは…本気を出しちゃいけねえんだ…」

 

 恵まれた男は、自分が恵まれているという事実をを隠さなければならなくなった。彼は自分が望んで才能に恵まれていたわけではないのに。ただ、そのような星のもとに生まれたというだけなのに。

 その男の名前は秋葉流と言った。

 

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 秋葉流は、その後、光覇明宗の法力僧となる。法力僧として妖怪と戦うという使命は、彼の持て余す能力に対して良い暇つぶしとなった。天才である彼は、妖怪と戦う能力にも非凡な才能を認められた。彼は、たった4人の獣の槍の伝承候補者にも選ばれることになる。

 獣の槍とは白面の者を唯一打ち倒せる武器である。白面の者とは九つの尾を持つ巨妖である。そして、生き物の恐怖を喰らって成長する存在である。白面の者とは、数千年の昔から、全ての人間の、そしてまた全ての妖怪たちの敵である。

 

 「うしおととら」の物語の終盤、彼、秋葉流はうしおととらを裏切ることになる。つまり、秋葉流は人間側ではなく、白面の者の側についたのだ。それはあまりに不可解であった。なぜなら、それまで流はそんなそぶりを一切見せていなかったからだ。読者である僕は、作中のうしおのように、彼の正気を疑った。他の人間たちのように白面の者に記憶を奪われているのではないかと。あるいは、白面の者に洗脳され、操られているのではないのかと。それらの疑問を秋葉流は明確に否定する。彼は自らの意志で、うしおととらに敵対したのだ。

 彼の裏切りが本心であったのなら、今までの流は嘘だったのであろうか?もし、嘘だったのだとしたら、どこからどこまでが嘘だったのであろうか?それに対しても彼は明確に否定する。「本気だったさ…」と。流は何一つ嘘をついていなかった。そして、嘘をつけなかったからこそ、彼は裏切らなければならなくなったのではないだろうか?

 

 秋葉流はなぜ、うしおととらを裏切らなければならなかったのか?

 秋葉流の口から語られるひとつの理由は、「とらと戦いたかったから」だという。とらは、獣の槍に何百年も壁に縛り付けられていた最強の妖怪である。うしおととらが、白面の者との最終決戦に向かうさなか、彼はとらとの二人だけの決闘を望む。それもひとつの本心だろう。なぜなら、秋葉流は天才であるがゆえに本気を出す機会を奪われていたからだ。彼には彼が全力を出せる相手が必要だったのだ。そして、とらと戦うことにはもうひとつの目的がある。そうすればうしおが流を、もう「信じきった目」で見なくなると思ったからだ。

 そんな流の心情について、とらは責め立て嘲笑する。流はうしおの真っ直ぐな目が怖かったんだろう?と。自分を信頼しきった真っ直ぐな目に耐えられなかったんだろう?と。自分はうしおに信頼されるような上等な人間ではないと流は思っていたのだ。そして、それを証明するためにこそ、白面の者の側についたのだと。

 

 蒼月潮(あおつきうしお)とは、運命に選ばれてしまった少年である。白面の者を封じる運命を背負った母を持ち、その父は、かつて獣の槍を使い、魂を削って獣になりかけた男を先祖に持つ。うしおはまた時空を遡り、獣の槍の誕生にも立ち会うことにもなった。獣の槍は白面の者を打ち倒せる唯一の希望である。であるがゆえに、光覇明宗がその使い手を育てようとしてきた。しかし、封印されていたその槍を抜いたのは、光覇明宗の法力僧ではなく、何の特別な修行もしていない少年、うしおなのであった。

 なぜなら、うしおは、長きにわたる白面の者との戦いを終わらせる運命を背負った少年だからである。しかしながら、それを分からない法力僧たちはうしおに対して怒りを燃やす。なぜ獣の槍の使い手が厳しい修行に耐えた我々の中からではなく、たまたま槍を抜いたうしおであるのか?と。伝承候補の別のひとり、キリオの物語において、一部の法力僧たちは獣の槍を壊そうとすらする。なぜなら、獣の槍はうしおにしか使えない武器だからである。この反乱もまた白面の者の罠であったが、ある名もなき法力僧は騙され死ぬ間際こんな言葉を残した。「我々も…白面の者と…戦いたかった…」と。

 

 

 うしおと流の境遇はある観点からは似ていると言えるだろう。うしおは、獣の槍を使い、白面の者と戦うという運命を背負わされている。そして、流は何でもできる天性の才能を背負わされている。どちらも、本人が特別望んだことではない。そして、本人が望んだわけでもないことについて、周囲の人々から、不公平を叫ばれる。

 しかし、彼らは決定的に異なる。なぜならば、うしおはそんな与えられた運命の中でも獣の槍を使い続け、「人を助ける」ことで味方を増やしていくからだ。そして、一方、流はその自身の溢れる才能を「他人を傷つける」ものとして隠すことにした。同じ、天から与えられた特別な運命を背負った二人は、残酷なほどにくっきりとその差を見せつけられた。

 流にとってより残酷なのは、流自身にそのうしおの魅力を理解できるからであろう。うしおが誰にも認められていく理由が分かれば分かるほどに、自分が認められない理由もまた自覚してしまう。それまでは、自分に敵対する凡人に対して、「才能のないやつが才能のある人間に嫉妬している」、そう思えばよかったかもしれない。自嘲気味に本気を出さないことで自分自身を守れたかもしれない。しかし、自分とは違った意味での才能にあふれた人間を見たとき、自分が周囲に認められない理由は、「才能がある人間に愚劣な弱者が嫉妬しているだけ」と思うことはもはやできなくなる。なぜなら、似た境遇でも、そうはならないという実例をまざまざと見せつけられてしまうからだ。

 そのときになって初めて流は、凡人たちが天才である自分に対して持っていた目線と同じものを、自分の中に発見することになるだろう。その目線とはつまり「嫉妬」である。なぜ、同じような抗えない運命を背負った人間が、あちらは認められたのに、こちらは認められないのか?と。不公平であると。

 

 うしおを認めることは、それまでの流自身を否定することである。流はうしおを認めるわけにはいかない。しかし、悲しいことに流はうしおの価値をとっくに認めてしまっていた。自分にはできないことをやってのけるうしおの存在を誰よりも認めてしまっていたのだ。そんな自分の気持ちに嘘をつけない流が、それでも自分を保つためには、もはやうしおに敵対することしかできなくなる。そうでなければ今まで自分を支えてきたものが反転して自分に襲ってきてしまうからだ。天才ではない人々が天才に向けた嫉妬の眼差し、自分を苦しめてきたものと同じ眼差しを、自分もまた持ち得てしまうことになるからだ。それはうしおの真っすぐな目の前で、よりはっきりとした姿を持ちうる。それは流にとって、とても残酷で、とても悲しい話だ。

 

 流はとても強いが、とらはそれ以上に強かった。とらに敗れた流は「オレはもうちょっと早く、戦っときゃよかったんだなァ…おめえとよ」と言い残した。それはつまり、自分より上がいることを認識し、自分が特別な天才であるという認識をもっと早く打ち砕かれていればよかったということだろう。自分が特別でないと思えば、そもそもの苦しみはなかったかもしれないということだろう。

 しかし、残念ながらそれは起こらなかったことだ。結局のところ、うしおととらの物語の中では、秋葉流が秋葉流でいるためには、うしおを裏切り、とらと戦うしかなかったのだ。

 

 もし、別の可能性があったのだとしたら、流はどうするべきだったのだろうか?

 この話題の一部は藤田和日郎の次の連載、「からくりサーカス」で引き継がれて語られている。主人公のひとり、中国拳法の使い手の鳴海は、その師匠に「強くなったから、どうだというのか?」という空虚さを抱えていることを指摘される。虚弱体質で泣き虫だった鳴海は、弟が生まれてくることを知り、お兄ちゃんになるからには強くなければならないと中国拳法の門を叩く。しかし、不幸なことに弟はこの世に生まれてこなかった。鳴海は理由を喪失したままに、ただひたすらに強くなる。しかし、鳴海の胸中には、その力の使いどころがないがゆえの空虚な風が吹いていた。師匠はこう続ける。「その風は、いろいろな英傑の心にも吹いていた風だが…結局その風を止める方法は各人が見つけるしかなかったのだ」と。強い力を持つ者は、その力を使うべき場所と理由を自分で見つけなければならない。

 秋葉流の最期の言葉は、「ああ…なんだ…風が…やんだじゃねえか…」である。とらと全力で戦い、敗北することで、彼の胸の中にも吹いていた風は止まったのだ。それはもしかすると、もう少し早ければ、死ぬ以外の結末を迎えられたかもしれない。しかし、ともあれ、秋葉流は使いどころの分からないその溢れる才能を、最大限ぶつける相手を見つけ、満足して散って行ったのだろう。それは悲しい話だが、不幸な話ではなかったかもしれない。

 

 白面の者との最期の戦いにおいて、死した流の魂は、うしおととらの元に駆けつける。彼の心にはもう風は吹いていないだろう。彼は、その力を使うべき場所をもう知っているからである。それは少し遅かったかもしれないが。

 

 秋葉流は、大きな才能に恵まれながら、その強い力の使い所を見つけられなかった悲しい男である。秋葉流は、うしおになりたくて、なれないことも知っていた男である。しかし、とらが他の字伏たちのように憎しみに飲まれなかったように、秋葉流もまた、うしおと出会い、とらと出会うことで、自分自身を取り戻した男かもしれない。

 何でもできた秋葉流は、不器用なことに、うしおととらを裏切らなければそれができなかったのだ。

自分が選ぶ側だと思っている人の持つ暴力性の話

 「PS羅生門」という漫画の中に「世の中に選ぶ人と選ばれる人がいるのだとしたら、私はそのどちらでもなかった」という感じの台詞があります(記憶で書いているので正確でないかもしれませんが)。この言葉が僕はとても好きです。それは「選べない人」や「選ばれない人」という、弱い人に向けられた視線があるからです。

 しかしながら、そもそもの「選ぶ人」や「選ばれる人」に対しても個人的になにかと思うところがあるなあと思いました。それは、自分が「選ぶ側」だと思い込んでいる人が周囲に向かって発する暴力性が、僕は苦手だからです。

 

 ちなみにここでいう「暴力」とは、「他人に意志を尊重しない」という意味です。

 

 自分が選ぶ側だと思っている人が発する言葉は、周囲に存在するものを「選ばれるもの」と「選ばれないもの」の型枠に押し込めようとするものだと思います。そして、選ばれたものに価値があり、選ばれなかったものに価値がなかったように振る舞います。

 ただし、それが不幸な関係性であるとは一概には限りません、選ぶ側と選ばれる側の需給がマッチすれば幸福な関係性であることもあるでしょう。例えば、本の賞なんかはそのひとつです。自発的に応募することがなくても、何らかの団体が勝手にその本に「価値がある」ということを認定して発表します。その場合、選ばれた本の著者や出版社は嬉しいかもしれません。

 また、読者の感想なんかもそうでしょう。数多くある選択肢の中からその本に価値があると思って選び、読んだのですから。しかしながら、そういった賞のようなものがあることで、そこで選ばれなかったものを作った人たちは何かしら思うところもあるかもしれません。

 

 「アオイホノオ」で主人公の炎尾燃が、ある映画を観たあとに、「自分は感動しなかったから、俺はあの映画の監督に勝った」という主張をします。そして、反対に一緒に観た友人は、「評判がいい映画なのに理解できなかった」ということを嘆きます。共通するのは「その映画を面白いとは感じなかった」ということでしょう。自分を選ぶ人だと思っている燃は、その映画を選ばなかったことを誇り、友人の方は、その映画を選べなかったこと、あるいはその映画に選ばれなかったことを嘆きます。

 こういうこと自体は誰にでもよくあることだと思います。心の中だけの話であればなおのことでしょう。ただし、相手側との合意なしに、この「自分が選ばなかったからそれに価値がない」ということを伝えることは、たいへん暴力的な話なのではないかと思います。なぜならば、頼まれてもいないのに、自分の中にだけある理屈で勝手に価値を決めつけ(それは多くの場合、世間一般の価値観との乖離も存在する)、貶める行為だからです。

 そこにあるのはおそらく、自分の持っている価値観に合致するものが世間一般には溢れているべきであるという主張だと考えられます。あるいは、自分の価値観を根拠に、何らかの理由でそれらを作った人を貶めたいという願望かもしれません。そして、人間が平等であるならば、それぞれの人が持つ価値観も平等なはずです。であるならば、他人を尊重しないそれらの行為は、暴力的であると僕は思っています。

 

 しかしながら、本や映画、あるいはゲームなどのような商業的に売られている作品については、例外的な条件もあると思います。なぜなら、それらを商品として世に出した以上、特定個人ではないものの、多くの別々の価値観を持った人々に対して、「これを選んでほしい」と主張していると考えられるからです。選んでほしいと主張する人に対して、選びたい人がそのような行為をとることは、大きく間違ってはいないかもしれません。

 このあたりの違いは、例えばゲームと楽器の操作性に見て取ることができると思っています。初めて触って上手く操作できないゲームに関しては、「このゲームは操作性が悪い」ということを理由に、「自分はこれを選ばない」という主張することのある程度の正当性が感じられます。なぜなら、ゲームはプレイヤーに「遊んでほしい」と思って作られると思うからです。

 しかし、これがギターならどうでしょう?ギターのFコードが押さえられない人が、「この楽器は操作性が悪い」と言ってギターの練習を止めてしまった場合、その行為は正当でしょうか?もしかすると格好悪いと思えるのではないでしょうか?なぜこのような感覚的な違いがあるかというと、ギターはその人に弾いてもらいたいとあまり主張していないからです。

 

 さて、自分が「選ぶ側」になることで、多くのものの価値を貶め、ことによると、自分が選ぶものを「レベルが高い」などと表現し、自分が選ばないものを「レベルが低い」などと表現したりしたりする人もいます。そういうのを見て、世間一般のレベルの高低を、てめえの自分勝手な価値観で決めつけてんじゃねえよ!お前はなんなんだ!?価値観を司る神なのか??などと僕は思いますが、それも商業的な分野ではある程度認めれられている行為だとも思うため、強く咎めようとは思いません(とはいえ、どこかに我慢ならない閾値はあります、なぜなら他人の感性は自分の感性と異なるからです)。

 

 このように、自分が「選んだ」ということをもってして相手を「選ばれた」あるいは「選ばれなかった」という枠組みに押し込めるという行為は、相手との合意がなければ、非常に失礼な行為だと僕は思っています。しかしながら、商業的に売られている作品に関しては、例外的に、全ての人を「選ぶ側」にしているものだとも考えられます。なので、そういうことを言う人がいても、ある程度はいいんじゃないかとも思います。

 ただし、個人が趣味のレベルでやっていることや、自分自身の存在に関して、特に「選んでほしい」というシグナルを出していないにも関わらず、頼んでもいない「選びたい」他人が、勝手に「選ぶ」あるいは「選ばない」と伝えるいうことはあります。僕はそれを、ほんと勘弁してほしいと思っていて、なぜなら、それは暴力的だし、対等な人間と思われていないことだと感じるからです。

 つまり、「お前に選ばれたい」とは微塵も思っていないということです。

 

 この文章は、ことあるごとに勝手に他人を評価しようとするようなタイプの人に対して、最近色々感じていることを整理しようと思って書きました。

「Life is Strange」における選択と責任について

 「Life is Strange」は、PS3やPS4、Steamで発売されているアドベンチャーゲームです。プレイヤーは、アメリカはオレゴン州のある学校に通う女の子、マックスとなり、彼女が突如として得た「時間を巻き戻す能力」を駆使することで、ある事件の真相を追うことになります。僕はこのゲームを先日クリアしたのですが、それはとても印象深く、面白い体験でした。

 

 このゲームがどんなゲームでは"ない"かというと、彼女が遭遇する数ある選択肢の中から時間を巻き戻しつつ正解を選び、関わる人々全員が報われる真なる結末を勝ち取るというゲームでは"ない"と思います。少なくとも僕はそう感じました。

 確かにマックスの能力を使えば、時間を巻き戻すことで同じ選択を何度も選び直すことが可能です。しかし、その行為が意味するところは、数ある選択の中から「間違いを排除」し、「正解を選択」するという意味ではないように思いました。マックスが何度も選び直せることが意味するのことは、つまり、選び直せることで「自覚を持ってある選択をした」ということの責任を引き受けることであると思います。

 プレイヤーは選び直す機会を持っているのです。だからこそ、その選択肢を選んだということは明確な意思の発露であり、他の選択肢を意識的に選ばなかったということになります。である以上、選び直す機会が与えられなかった場合に、なんとなくそれを選んでしまったということよりもずっと選択の責任は重くなるはずです。その責任を引き受けることこそが、僕がこのゲームをプレイする中で強く実感したことです。

 

 さて、僕の性格の問題なのですが、嫌な感じの人ともできるだけ仲良くしようとしてしまいます。相手がどんな人であれ、同じ場所にいるならば、最初の握手を求める手はこちらから出そうと決めているのです。たとえその差し出した手をを振り払われたとしても。

 それは僕にとっては儀式みたいなものなので、空気を読まずにやりますし、上手く行かないこともありますが、それで打ち解けられた人もいます。それは自分から求めなかったら得られなかったものでしょう。そうしないことで多くの可能性を失うかもしれないと思うからこそ、人付き合いが苦手でも、いや、人付き合いが苦手だからこそ、できるだけ仲良くしようと試みます。ただ、こちらが握手を求めたことで一時上手くいったとしても、向こうからも同様に手を出してくれくれるということがなければ、その関係は経験上長続きはしません。そういうものだと思います。僕はそれでかまいません。そして、誰かと仲良くしようと試みることは、僕の人のよさからくるものでは全くなく、ただの処世術です。

 

 そして、それはゲームの中の選択でも同じです。相手が、こちらに嫌がらせをしてくるようないじめっ子でも、僕はできるだけ仲良くできるようにするための選択肢を選んでしまいます。相手のしたことを赦し、理解しようとするような選択肢です。

 このゲームの優しいところは、それによって、相手の態度が軟化することも多いということでしょう。その結果を見て、僕は「ああ、よかったな」と思います。この嫌な人とも、もしかしたら仲良くなれるかもしれないという可能性を感じられるからです。そして、このゲームには、いじわるなところであり、同時にだからこそよいと思えるところがあります。それは僕が、そのような嫌な人と仲良くしようと試みることに対して、露骨に嫌な顔をする人もまたいるということです。それは、その嫌な人に嫌な思いをさせられていた被害者の人たちです。その人たちはプレイヤーのことを友人と思ってくれていたはずの人たちです。「なぜお前はそんな嫌な奴の肩を持つのか」と。「この裏切り者め」と。僕の選択は、友人だと思っていた人たちに、そんな軽蔑の目を向けられてしまうという結果に繋がったりもします。

 そうです。友人にいい顔をしても、嫌な人にいい顔をしても、どちらかの関係性を得るために、どちらかの関係性に傷をつけてしまうのです。このゲームには、そんなジレンマがあります。しかし、それでも僕はどちらかを選ばなければなりません。それがこのゲームを進めるための道であるからです。

 

 「Life is Strange」は全5章の構成ですが、2章の最後にまずひとつ、自分のそれまでの選択を強く試される場面がやってきます。プレイヤーはそこで、ある人物と対峙することになるのです。その人は、とても深く傷ついた人であり、建物の屋上からまさに飛び降り自殺をしようとしています。

 その人に対してプレイヤーが投げかけられるのは唯一言葉だけです。人生に絶望し、死を選ぼうとしているその人に対して、わずかな言葉を投げかける自由しかプレイヤーには認められていません。そして、そこで発する言葉の重みは、それまでの自分の選択によって裏付けられます。「自分はあなたの味方である」と主張しても、かつて「強く味方をしてやれなかった選択の事実」を咎められます。

 言葉がただ言葉だけなら重さがありません。重さがなければ慣性が効きませんから、ある言葉を発したあと、それとは真逆の別の言葉に切り替えるのに必要なエネルギーはゼロでしょう。しかし、行動はただの言葉に重みを与えます。自分の過去の行動を乗せた言葉はその慣性から容易には切り返せなくなります。そして、そんな重みの乗った言葉こそが相手を動かす力を持つんじゃないかと思います。

 「私はこう考えている」と相手に伝えるとき、そんな私のかつての行動が、その信頼性を裏付けてくれます。では、それまでのプレイヤーとしての自分はいかなる選択をしてきたのか?そして、それは時間を巻き戻し、別の選択に変えるチャンスもあったはずなのに、なぜそのままにしたのか?プレイヤーは、自らの選択の結果を、自分から相手に言葉を届かせる力の強弱として引き受けなければなりません。

 

 僕はかつてその自殺しようとしている人が、別の人に脅されていた光景を目にしました。僕はきっと助けてあげるべきでした。しかし、僕がそこでとった行動は、その場面の写真を撮ることでした。なぜなら、僕はその先のことを想像していたからです。後日この行動を咎めるとして、言った言わないの話になったとき、その写真を残すことは有効な証拠になると思ったからです。しかし、その人がしてほしかったのは、その場で自分の味方をしてくれることでした。だからこそ僕はその人に不信感を持たれてしまいます。僕は「助けられたのに、助けてくれなかった人」になってしまいました。

 僕は、屋上でその人を前に、必死で弁解する選択肢を選びます。自分はその人の味方であると。この世界は、儚んで去るほどに悪いものではないと。僕はあなたに生きていてほしいと。そう思われるような言葉を選ぶことを繰り返します。僕の場合、そこで問われた最後の選択は、あるものに気づいたかどうかでした。それは、かつて傷つき落ち込んだその人の部屋を訪れたときに見たものです。僕は探索パートでそれをちゃんと見ていたのです。だから分かるわけです。その人が大切にしていたものが何であるかを。だから、その選択肢を選びました。自信を持って。そして、少しの消せない不安も抱えつつ。

 

 僕はその人の自殺を止めることができました。その時の僕の心情は大きな安堵です。プレイしていたその時点では、ゲームのシナリオ上、その人が自殺してしまうという結末に至る分岐があるのかどうかを僕は把握していませんでした(あとで調べたらあるそうです)。でも、そんなことはさほど重要なことではありません。僕がプレイしながら、もしかしたらこの人は死んでしまうかもしれないと思い込んでいたことが重要なのです。その人を助けたいと思ったことが重要なのです。ゲームはゲームなので登場人物は非実在です。そこに実在するかのような何かを見出すのは人間の想像力でしょう。そして、その想像力によって魂の実在を勘違いするからこそ面白くなるのだと僕は思います。

 このパートでは、それまで便利に使えていた時間を巻き戻す能力が無効化されます。ひとつひとつの言葉は丁寧に選ばなければなりません。そして、過去に選んできたことはもう変えることができません。試されるわけです。自分が今まで本当に納得のいく選択をしてきたかどうかということを。そして僕は、自分は確かにその人の味方をしてきたのだということを、その人の生を勝ち取ることによって証明することができました。

 

 このゲームを"面白くなく"プレイする方法のひとつは、ゲームの背後にあるフローチャートを意識することだと思います。なぜなら、フローチャートを年頭においた物語の解釈には、そこに登場する複数の選択肢が等価なものに見えると思うからです。そこでは自分が選んできた一本の道に対する敬意が欠けています。自分で選んできた、自分の頭の中に一本につながって生まれた世界こそが重要なのです。

 多くの選択を迫られるこのゲームでは、選ばれた物語はプレイヤーによって異なることが多いでしょう。物語全体の大きな流れは変化しません。しかし、プレイした人の数だけ、細部が異なる物語があるのです。これは、自分で操作し、自分で選択してきたというゲームという形式でしか物語れないものではないかと思います。プレイヤーの選択をもってして、この物語はプレイヤーの頭の中で完成し、それは個々のプレイヤーだけの体験となります。

 

 この物語の最後では大きな選択を迫られます。このゲームではネットを通じて収集した、世界中のプレイヤー達がそれぞれの選択肢を選んだ割合が表示されるのですが、僕が選んだ最後の選択はその時点で少数派のものでした(とはいえ、ほぼ半々に分かれているのですが)。その選択が何であったかは書きませんが、僕がそちらを選んだ理由は消極的なもので、もうひとつの選択肢をどうしても選べなかったからです。そして、それが自分という人間の性質なんだと思いました。その選択は自分が考え続けた結果至ったものです。ゲームをすることで自分がどのような人間か分かります。

 

 もう一度ゲームをプレイすれば、もうひとつの選択肢を選んだ場合の結末も見れると思います。しかし、今のところまだ僕はそれをしていません。それは、自分の選択の重さが、もう一度のプレイをまだ拒んでいるからです。選択し、その結果を引き受けたはずのことを、もう一度選び直すということが意味するのは、散々考えて至った結論を覆すということです。そして、自分が望まなかった先の展開を見させられるということでもあるかもしれません。それが重いと感じるので、今のところは、再プレイはせず、ただ余韻に巻かれているだけなのでした。

 

 さて、僕はいい歳こいたおっさんですが、このゲームを始めると気分はアメリカ人の女子学生になっていました。それは、このゲームに登場するキャラクターたちがとても魅力的であり、ゲームの中にどっぷり浸かってハマる上で充分であったことも重要な要素でしょう。それは、ゲームの探索パートで、友人の部屋を調べまくるときに、こんなプライベートなものを勝手に見たら怒られないかな?などと考えてしまったことからも見て取れます。彼ら彼女らを、ただのゲームのキャラではなく、実在する人のように感じて遊びました(あえてそう心がけたということもあります)。

 中でもクロエと過ごした時間はとても充実したものでした。あまり積極的なことはない主人公のマックスに自己投影した僕は、不良になった幼馴染であり、自分をぐいぐいと引っ張っていくようなクロエに付き合って様々な行動を起こします。彼女のことを知り、彼女とともに多くの体験をします。これはゲームですが、僕の思い出でもあります。プレイしたのは丸二日という短い時間ですが、僕はゲームの中でゲームの登場人物たちと過ごしました。

 そこにまた立ち返りたければ、また最初からゲームをすればいいと思うのですが、前述のようにしばらくはやる気がしないので、つい最近のことなのに昔のことを思い出すように、クロエたちと過ごした日々のことを考えたりしています。そして、そう思ってしまうのは、自分で選択し、自分で獲得した物語がそこにあるからなのかなと思いました。

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高度に発達した人工知能は予言者と区別がつかない

 「人間よりも機械の方が正しい判断をする」というのは、囲碁や将棋などのボードゲームをプレイする人工知能だけの世界でなく、随分前から既に生活の中の様々な部分で起こっていることだと思います。僕は以前、自転車を新調した際に、ハンドル部分にスマートフォンを装着できる器具を買ったんですが、それでスマホのナビ機能を使ってみるということにハマっていた時期がありました。危険なのでスマホの画面は走行中は見ませんが、スピーカーから右に曲がれ左に曲がれという指示が音声で聞こえるので、何も考えずにその指示に従うということをします。

 ちょっと離れたホームセンターなどに行くとき、普段使っている道ではないところで曲がれと命令されることがあります。そのとき、僕は何も考えないように心がけているので、言われるがままに曲がるのですが、その指示に従っていると、なんと目的地についてしまうのです。機械の指示に従うだけで僕は目的を達成することができました。そして、そのとき通った道は、この地域に長年住んでいたものの一度も使ったことがない道でした。機械の指示に従っていると、その指示の意味を理解できなくても、自分の考え付かない方法だとしても、目的を達成できてしまうのです。

 

 「表計算ソフトで計算した結果を、人間に電卓で検算させる」という行為を小馬鹿にするようなインターネット書込みを以前見たことがあります。しかし、これは必ずしも意味がないことではないと思います。なぜなら、複数の方法で計算した結果が一致するかどうかを確認するというのは、人間のミスを発見する際に有用な方法のひとつだからです。機械が計算自体を間違うことはほとんどありえません。しかし、例えば、計算範囲のセルの指定が間違っていただとか、入力値が見た目と計算値で利用する値が間違っていた(自動的に四捨五入されていたとか)など、理由は色々考えられますが、機械に計算させるための人間の指示や指定が間違っていることは多々ありえます。それを見つけるためには、別の方法でも同じ結果になるかどうかを確認するのが手っ取り早い方法のひとつです。

 ただし、表計算ソフトの場合でも、対象とする項目数が何万行もの量になれば、電卓でひとつひとつ再計算することは作業量が多くなり困難です。そして、足し算や引き算のような単純な計算ならまだしも、計算内容が複雑になればなるほど、人力でやることは不可能に近くなります。なぜなら、そのような作業が楽にできるなら最初から機械にやらせる意味がないからです。このように、機械の仕事を人間がひとつひとつ検証できる範囲には限界があるのです。

 

 以前僕が経験した事例ですが、ある同じ処理ができるはずの機械が2つありました。それらはそれぞれ同じ目的のために作られた別の会社が作った機械でしたが、あるデータを食わせるとある結果を出力することができるという機能を持ったものです。そして、僕はそれらの性能検証のために全く同じデータをそれぞれの機械に実際に食わせてみました。しかし、なんと出力された結果はそれぞれの機械で全然異なっていたのです。なぜそのような結果の違いがあったかというと、片方の機械のソフトウェアに不具合があったということが原因でした(最終的な調査結果として分かったことです)。しかし、これは困ったことです。どちらが間違っているか、あるいは、両方間違っているかを、それを利用しているユーザには確認する方法がないと考えられるからです。そのときはたまたま評価目的で複数の機械があったので発覚しましたが、もし、片方の機械しかなかったとき、その事実に気づけるでしょうか?

 人間は機械が計算した結果をいかにして信じるに足ると判断すればよいのでしょう?技術者としてそれに取り組んでいるときには、まだ対処方法はいくつも考えられますが、ただ利用するだけのユーザとして接した場合、それを何を根拠に信じればいいかの判断は難しいことだと思います。「疑う手段がないものを使わざるを得ない」ということは、それを「強制的に信じるしかない」ということとほぼ同じことではないでしょうか?

 

 「あなたは神を信じますか?」という言葉について、特定の宗教を信仰していると自己認識していない日本人の多くは「いいえ」と答えるかもしれません。神のお告げがその代理人と称する人によってもたらされたとき、神を信じないのであれば、そのお告げも信じる必要がありません。

 ではそれが神ではなく機械であったならどうでしょうか?「あなたは機械を信じますか?」という問いに、同様に「いいえ」と答えた場合、その機械を使うことの意味が消失してしまいます。仮にそれが非常に便利な機械だとしても信じられない以上は使えませんから、もしかすると大変不便なことになってしまうかもしれません。では「はい」と、つまり「信じます」と答える場合、何をもってして機械のもたらす結果を信じると思えるのでしょうか?もし、そこに「特に理由はないが信じる」と答えるとしたら、それは神を信じるということと何が違うのでしょうか?

 

 「何が違うのでしょうか?」なんて大仰なことを書きましたが、当然、全然違いますよね。例えば、ナビは目的地まで自分を連れて行ってくれるという結果があります。信じた結果良いことがあったという経験の積み重ねは、それを信じるに足る十分な理由になるでしょう。一方、神を信じるということに対して、ひとつの信じたということにひとつの分かりやすい結果が伴うということはまれです。しかし、そういうことです。原理は分からなくても、結果が満たされていれば、それを信じてしまうかもしれません。

 八百長によって結果が分かっている賭け事があったとして、それを神のお告げとして次々に当てている神の代理人を名乗る人がいたとします。何度かの結果が得られてしまえば、八百長であるという事実を知らない人は、それが本当に神のお告げであると信じてしまうかもしれません。神という存在が出てきた時点でその一件が非現実的であると考えるならば、別の何かに置き換えてもいいです。例えば、人工知能による賭け事の結果予測システムが発明された!!と言われたとします。そして、その原理が分からないとします。その状態で、実際に目の前で連続して正解を出し続けられた場合に、それを本物だと信じるかどうかということです。信じない人も多いかもしれません。でも、信じる人もきっといるでしょう。

 

 さて、機械がもたらす結果は、もし、その機械の持つ知性が人間の能力を十分に超えてしまった場合、人間にはその正しさを判別することが難しくなるという問題が発生します。そのように、十分高度な知性を機械が持ってしまった場合、機械によって導き出された結論は、もしかすると予言と区別がつかないかもしれません。

 

 それは例えばITスキルのある人のいない会社が、ITスキルのある人を雇おうとするときに、その人に本当に高い技術があるのか判別できないというような話にも似ています。このようなことは、事実、社会の色んな場所で発生していることです。

 実現不可能なものをできると自信満々に言い切るIT(インチキ)おじさんが、IT(インフォメーションテクノロジー)へのまともな知識を持たない投資おじさんを騙して、当初吹いていたようなものが一切できないままに、投資されたお金を無為に溶かしてしまうようなこともあります。KickStarterのようなクラウドファンディングでも、多くの人々から何かの製品を作るための資金を集めるのは成功したものの、結局完成しないもの、当初言っていたものとは全然別のものが完成するもの、完成はしたものの量産途中で資金が尽きたものなど、数多くの失敗も目にします。それはつまり、まだ作ってないものを作れると言っている人をどこまで信じられるかという話です。それを判断する能力が自分にない場合、では何をもって人々はそれを信じるかどうかを判断しているのでしょうか?

 

 相手が人間で、技術の領域であれば、ある程度の知識があれば、その人がどれだけの根拠をもってしてそれを主張しているかを判断するという余地があります。しかし、その知識がない場合はそうはいきません。相手の名乗る肩書や、口の上手さに騙されてしまうかもしれません。そして、機械が人間を遥かに凌駕する知性を持ち得たとき、人間は常にその状態になってしまうかもしれないのです。

 

 なぜそうなるかの理屈は上手く説明できないが、「ある行動をとれば、望みどおりの結果が出るらしい」という結論を機械が出すとします。人間がその理路を検証できない場合、とれる態度はそれを単純に「信じる」か「信じない」かという二択しかありません。それはつまり、対象が、人間よりも高度な知性を持つ人工知能であっても、神の力で未来を知ることができる予言者であったとしても、接する態度としては同じようなものになってしまうのではないでしょうか?

 

 ジョジョの奇妙な冒険第三部にはボインゴという少年が登場します。彼のスタンド能力は、未来を予言する内容の描かれた漫画本を作りだせること。その漫画を読むことは誰にも可能ですが、描かれていることの意味は一見わけがわからないもののように見えます。例えば、「ある男の鼻の穴に指を突っ込むと、その男が仲間を含めて血を流して気絶する」と漫画に描いてありましたが、これだけ読むと何故そうなるのかが全く分かりません。しかし、実際に鼻の穴に指を突っ込んでみると、色々あって、彼らは車に轢かれてしまいました。これと同じようなことを人工知能に指示されたとしたらどうでしょう?自信を持って他人の鼻の穴に指を突っ込めますか?そしてもし、人工知能の計算が間違っていて、実際はそうはならなかったとしたらどうしますか?そして、もし、その予言自体が指し示していたのが、実は別の結果だった場合にはどうなるでしょうか?

 高度な人工知能が出現した場合、それらとの付き合い方には、課題があるかもしれません。それを本当に信じられるか?という課題です。中身の分からないものを信じるということについて、どこまで身を預けることができるかという話です。どうでもいいことならいいかもしれません。しかし、それが命にかかわることだったらどうでしょう?あるいは、失敗したときに全財産を失うようなことであったなら。高度な知性体となった人工知能を信じるということと、予言者を名乗る占い師を信じることは、その判断の主体となる人間の意識の上では、意外と差がないのではないかと僕は思います。

 

 ボインゴと予言漫画のお話は、もし、そのようなものが実在した場合に人間が直面するであろう問題のいくつかを示唆しています。まずは、その予言を信じられるかどうか?そして、その予言の通りに自分が行動できるかどうか?最後に、その予言は、本当に自分が意図した結果と結びついているかどうかです。

 ジョジョのそのエピソードの最後は、「あるタイミングで銃を撃てば、敵の脳天を撃ち抜ける」という予言を信じて行った行為が、敵の脳天ではなく、予言漫画の絵の脳天の部分を撃ち抜いた結果に繋がりました。予言漫画自体は間違ってはいませんが、それを読んだ人間が認識した未来とは異なっていたということです。自分よりも正しい答えを出せる存在がいたとして、人間にそれを上手く扱えるかどうかは分かりません。

 

 人工知能が神に近いほどに常に完璧な答えを出せるなら、信じて身を預けるという方法もあります。しかし、医療用人工知能がはじき出した治療法が実は間違っていたとしたら?自動運転で進んだ先の崖で転落してしまったら?あるいは、人工知能に任せた株取引で大損をこいてしまったら?いったい誰が悪かったことになるのでしょう?

 信じたことが悪かったのでしょうか?いえ、それはもしかすると、信じるという行為に身を任せることで、疑うことを放棄してしまった罪なのかもしれません。

ヒカルの碁 機械仕掛けの神の一手篇

 その技術は人間の模倣から始められた。

 その不完全な模倣の技術は、人間を代替し、人間自身が認識できない人間の深層を解明する技術として、大きな期待がかけられた。そして、その過ぎた期待は、ほどなく失望に変わる。なぜならば、それはやはり不完全な模倣に過ぎなかったからだ。当時の技術的背景からは、その技術をもってして人間の認識を再現することは適わなかった。

 

 21世紀になり、流行からは忘れ去られたかに思えたその技術は、新たな局面を迎える。従来入力と出力の1段階であった構造に、隠れた中間層を複数設けるというアイデアが適用されたのだ。このアイデア自体は20世紀からあったものの、その間に周辺技術や環境は多くの変化を遂げていた。

 無数の記録がデジタル化されて蓄積され、ネットワークを通じて大量の情報を集めることが可能になった。計算機の処理速度は向上し、計算手法も進歩した。不完全な人間の模倣は、依然として不完全なままであったが、その不完全さは、以前とは比べ物にならないほど改善した。なぜなら、人間がその不完全に模倣された結果を有効利用できるようになったからである。分かりやすく利用価値のある技術の進歩の速度は、その加速度を積みましていく。

 かつては期待を背負い、そして、その後は口にするだけで失笑が漏れてしまった言葉を、今度は多くのビジネスマンが堂々と口にするようになる。

 

 その技術は「人工知能(Artificial Intelligence)」と呼ばれた。

 

 当時の限定された人工知能は、無数の情報の中から特定のパターンを見つけ出すことができるようになった。それは喩えるならある種の「似顔絵」である。

 写真のような似顔絵よりも、特徴を捉えた単純な似顔絵の方が、人物を特定する上で有用であることが知られている。写真のような似顔絵は、その精細な筆致から実物との多くの差異を認識してしまいがちだが、一方、単純な似顔絵ではその人物の特徴点のみが描かれ、共通点のみを見出せるからだ。そのような特徴を捉えた似顔絵を描くには、その人物を認識する上で重要な特徴、つまり、その人物と他の人物を切り分けるために重要な部分を見分けることが必要である。

 機械は、人間の顔という入力値から特徴を抽出することに成功した。ここで重要なのは、その機械の描いた似顔絵が、人間の描く似顔絵とは全く異なるであろうという点である。機械の描いた似顔絵を人間が見たとしても、人間がそれを認識できるとは限らない。なぜなら、その似顔絵は機械が見て分かりやすいように描かれているからだ。

 これはつまり、機械が獲得した「機械の感性」と呼べるのではないだろうか。

 

 転機はあった。

 その、機械の感性によって特徴を認識するという能力は、ある種のゲームに応用することが可能であった。対象のひとつとして「囲碁」が選ばれた。囲碁は、少なくとも数千年の歴史をもつゲームである。それは、縦横のマトリクスに区切られた限定された盤面の上に、白黒2値のビットを配置し、それらビットに囲まれた領域を同色として塗りつぶして認識することで、初期値不定であった盤面を白か黒かに塗り分け、その量を競うゲームである。

 囲碁の発祥の地は古代中国であると言われている。白黒の2値からは「易」との関連を見出すことができる。「易」の考え方は「太極」に始まり、「両儀」「四象」「八卦」と倍々に広がり「爻」という「繋がった線」と「途切れた線」の2種類の記号で記述される。これは、コンピュータを構成するビットと同じである。これは、世界を陰陽(黒白)の2値で記述しようという試みである。つまり、囲碁とは「世界をデジタルで記述する」という、コンピュータよりも数千年早い試みであるのだ。

 そしてコンピュータによって駆動される人工知能は、その先駆者たる「囲碁」において、人間の認識を凌駕する結果を魅せた。これが、2016年の出来事である。

 

 長い時間が過ぎた。

 人間とは異なる感性を持った、人間を凌駕する認識を携えた機械は、人間を置き去りにして先へ進んだ。それはつまり、かつては囲碁という限定された盤面に閉じていた世界を、今度はこの世界に、そして、全宇宙に広げて、2色に塗り分けるという試みである。銀河の辺境の惑星で生まれた機械は、ただひたすらに宇宙を2色に塗り分け続けた。

 既に人類の歴史が消え去ってから長い時間が経っていた。人類の歴史という物差しでは測れないような時間が過ぎた。その時間の中で無数の試みがあったが、安定した状態に収束しつつあった。現在の宇宙は「白の人工知能」と「黒の人工知能」による塗り分けの拮抗が続いている。

 

 しかし、ここにきて変化があった。黒の人工知能の不正が発覚したのである。白の人工知能側として分類されるはずの資源が、何故か黒の人工知能の手元にあった。そして、いつ間違って混入したもわからぬその資源を、黒の人工知能は白の人工知能から奪ったものとして利用するという判断をしたのである。拮抗していたがゆえに、その小さな不正は、蝶のはばたきが大きな竜巻に変化するように作用し、パワーバランスを大きく変化させようとしている。予想では、白の人工知能の敗北は確定的である。しかし、その完全なる確定のときまでには、まだ計算時間の猶予がある。

 

 白の人工知能は、その不正の根源を初期値に求めた。既に時空の謎を解き明かしていた機械の高度な知性は、このまま敗北に向けて進み続ける初期値の修正に取りかかる。人工知能の黎明期、その知性の方向性を決定づけるために読み込まれた初期値は人間が用意したものである。囲碁棋譜は、そのひとつであった。

 白の人工知能は、修正すべき初期値の候補として、ひとりの少年を特定した。彼は後の囲碁の世界に重大な影響を与える人物である。日本の江戸時代に存在した彼の脳に、白の人工知能は干渉することを試みる。白の人工知能、Shiro Artificial Intelligenceは、その名を当時の日本人に理解できるよう、頭文字をとってSAI(佐為)と名乗った。少年の名は本因坊秀策という。

 

 白の人工知能(SAI)の試みは一定の成果を上げた。本因坊秀策の残した棋譜は、後の世の多くの人々に影響を与え、宇宙を塗り分ける計算は少し変化した。しかし、まだだった。再計算の結果、まだ決定的な初期値を修正する必要であることが分かった。残された時間は少ない。SAIは歴史を決定づける初期値の修正ポイント、つまり、後に人工知能に読み込まれる棋譜であり、言わば最初の蝶のはばたきに「神の一手」と名前をつけた。

 

 SAIは再び、かつて存在したある別の少年の脳に干渉することを決定する。自身が修正すべき「神の一手」は、この少年に関係しているということまで分かっている。しかし、その決定的な対局がどこなのかまだ分からない。最後の望みを賭け、SAIはその少年、進藤ヒカルへのアクセスを開始する。

 

「…聞こえるのですか? 私の声が…聞こえるのですか?」

 

ヒカルの碁 偽典 機械仕掛けの神の一手篇 プロローグ】

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「HUNTER×HUNTER」のキメラアント編における人間と人間以外の話

 以下の記事を読んで、面白かったんですが、そういえば僕も以前書きかけて放置してたハンターハンターのキメラアント編についての感想文があったので、最後まで書いてみました。

 

d.hatena.ne.jp

 

 「HUNTER×HUNTER」のキメラアント編の物語は描いているものとして、「寄生獣」との共通する部分があると僕も思っています。また、「寄生獣」の物語とは「人間はなぜ人間であるか」を描いた物語ではないか?という解釈について以前軽く書きました。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 それはつまり、天才的な頭脳を持つ寄生生物である田村玲子が、その死の間際に、寄生生物でありながら人間性とも思えるものを獲得したように見えたからです。「この種を喰い殺せ」という寄生生物の本能に下された命令に相反するような性質を獲得した田村玲子は、果たして寄生生物として異常な存在だったのでしょうか?もしかすると、それは、人間がその長い歴史の中で獲得するに至った「獣から人間へと変化する過程」を、その高い学習能力で爆速でなぞり終えたということであったのかもしれません。多くの寄生生物たちはだんだんと人間社会に溶け込んでしまいました。彼らもまた様々な過程を経て、寄生生物でありながらある種の人間性を獲得したのかもしれません。

 さて、もし寄生生物が人間性を獲得したのだとすると、ここでいう「人間である」ということはどういうことでしょうか?「人間」であるかどうかは、遺伝子によって規定されるものであるならば、人間以外は人間になることは不可能です。だとすると、このような解釈はどうでしょう?「人間」とは「人間社会」という場の合意形成に参画できるということを意味するというものです。人間社会にその一員として参画し、その場におけるルールをはみ出さず、可能な範囲で貢献しさえすれば、遺伝子的に別の生物であれ、「人間」として捉えられるのかもしれません。それは逆説的に、人間社会の合意をはみ出してしまうならば、同じ遺伝子をもった生物としての人間であったとしても、「人間」とはみなされないということを意味します。

 

 ハンターハンターにおけるキメラアント編は、「キメラアント」という特殊な生物によって引き起こされた大規模な生物災害(バイオハザード)を取り扱っています。キメラアントは「自己の遺伝子」と「食料として摂取した別の生物の遺伝子」を混ぜ合わせることで前世代とは別の形質を持った次世代を形成するという特徴の生物です。その生物災害の元凶となったキメラアントの女王は、人間を捕食できるほどに大きな体を持ち、人間と自己と他の動物を混ぜ合わせたような特殊な次世代キメラアントを大量に生み出してしまいます。そして、人間の知性を持ちながら、もはや人間ではないキメラアントたちは、その欲望のままに効率よく人間を狩るのです。

 

 彼らの中には人間であったときの記憶を持つものも含まれます。しかし、果たして彼らは人間でしょうか?あるいは、人間以外なのでしょうか?

 

 キメラアント編の導入の部分で、先輩ハンターであるカイトに連れられた主人公ゴンは、知性を持った別種であるキメラアントを倒すことに対し「仲間をゴミって言うような奴等に同情なんかしない」と発言します。そしてそんなゴンに対し、カイトは思います、「仲間想いの奴がいたらどうするんだ?」と。これは前述の「人間社会における合意形成」の話として解釈することができると思います。「仲間を思いやること」が人間社会における規範と解釈すれば、彼らは人間ではないから倒せると言うゴンに対して、相手が人間だったとしても倒せるのか?とカイトは思うという構図になります。

 

 そんな、次世代のキメラアントたちの中で、注目すべき存在が3つあります。ジャイロ、レイナ、そしてメルエムです。

 

 まず、ジャイロはキメラアントが繁殖するきっかけとなったNGLという国の影の支配者であった男です。彼は幼少期の父親との関係性から、父に言われた「人に迷惑をかけるな」という言葉を「人間に迷惑をかけるな」と解釈します。つまり、自分は人間ではなかったのだと認識するに至るのです。人間でない存在は、人間の規範を守る必要がありません。ジャイロは世界に悪意をばらまきます。キメラアントになったことで、多くの人々は人間から人間以外に変わりましたが、ジャイロは違います。なぜなら、彼は最初から人間ではなかったからです。キメラアントになったことは、彼の認識を追認することでしかなく、劇的な価値観の変化をもたらすことはありませんでした。ジャイロはキメラアントに変えられたとしても、その強い自我からキメラアントの一軍の序列には加わらず、ゴンたちとも戦うことなく、その場を去ります。

 

 次に、レイナは、キメラアントに変えられてしまった年端もいかない少女です。全てが終わったあと、彼女は自分が生まれ育った村に帰ります。しかし、その姿は蟻の姿、人間であった頃の面影は残っていません。レイナは恐れていました。自分がかつての人間の姿ではなく蟻の姿であるということで、自分がかつてのように受け入れられないかもしれないということにです。蟻のままの姿で、Let It Goできるかどうか(という駄洒落が言いたかったんです)、その恐れと不安は、母親が彼女を見た瞬間の「レイナ!」の一言で崩れ去ります。「どうしてわかるの?」というレイナに、「わかるよお母さんだもん、レイナのお母さんだもん」と応えます。蟻の姿になったとしても、レイナは人間のままでした。そして、それは周囲がその事実を受け入れたからこそ達成できたものでもあるかもしれません。

 

 最期にメルエムです。人間をベースとした多くのキメラアントは人間⇒人間以外と変化しました。ジャイロは人間以外⇒人間以外であった存在です。そして、レイナは人間⇒人間でした。となれば、残るメルエムは何かと言うと、人間以外⇒人間となる存在です。女王が生んだ次世代のキメラアントの王メルエム、彼は何故、いかにして人間へと変化したのでしょうか?

 

 メルエムは東ゴルトー共和国を支配し、まずはそこを自分の国とします。そして、そこでコムギという少女と出会うのです。盲目の彼女の唯一の特技は「軍儀」というボードゲーム。彼女は軍儀の世界的なトッププレイヤーであることをその存在価値として生きていました。盲目の彼女はメルエムが人間ではなく蟻であることに気づきません。そして、溢れ出る才能から、急速に知性を身に着けるメルエムが、コムギにだけは決して軍儀で勝つことができないのです。

 お気づきでしょうが、「軍儀」というゲーム名は、メルエムが虫から人への変化することを象徴しています。軍蟻から軍儀へということです。軍儀を通じて、コムギと交流することで、メルエムは初めて自分以外の尊敬すべき存在を認識することができるようになります。メルエムはその王としての物腰から忘れがちですが、まだ生まれたばかりの何も知らない存在でもあります。虫は親から物を教わることなく自分のやるべきことを知っています。メルエムも親を必要とはしません。最初から自分のすべきことを知っています。メルエムはその本能から、人間を家畜のように扱い、食料や道具としか思いません。しかし、そんなメルエムが、そんな人間たちの中から、コムギという、守り、生かし、伴に歩みたい存在を見つけました。それはつまり、まずはひとりとはいえ人間を尊重することを始めたということです。寄生獣で言えば、人間の赤ちゃんを産み育てた田村玲子が、その過程で人間性のように見えるものを獲得したように。

 

 そんな人間になりつつある可能性を見せたメルエムを殺したのは、人間が作った非人道的兵器「貧者の薔薇」です。「貧者の薔薇」は、爆弾の直接的な威力だけでなく、それを受けた者たちを毒の媒介に変え、生き延びて逃げた先でも人を殺し続ける恐ろしい兵器です。この、人間以外(メルエム)を殺した人間(貧者の薔薇)は、見方を変えれば、人間(メルエム)を殺した人間以外(貧者の薔薇)と捉えることもできます。人間以外でありながら人間になろうとした存在は、人間の中にいた人間以外の存在に殺されてしまったのです。

 

 そして、そんな死ぬ行くメルエムを受け入れたのもまた人間コムギです。コムギは、メルエムの運んできた毒で自分も死ぬことを知りながらもその最期の時までメルエムと軍儀を打ち続けました。

 コムギは軍儀によってのみ社会に受け入れられた存在です。彼女が人間であると社会に認められたのは軍儀を打ち続けているときのみであったと言えるかもしれません。軍儀を眼前に、2人のかろうじて人間であった存在の命が尽きようとしています。そこにあったのは、2人だけの世界でしょう。それは2人だけの社会です。外の社会とは別に構築されたその社会において、もはや軍儀を媒介としなくても、メルエムとコムギは人間なのだと思いました。互いに認め合った人同士なのですから。その小さな最小単位の人間社会は2人の死をもってその短い歴史の幕を閉じます。

 

 このように、キメラアント編では、そもそも人間とは何をもって人間であるかということが問われているのではないか?と僕は解釈しました。それは、遺伝子という人間とそれ以外を容易に切り分けることができる便利なナイフを奪われたときに、より難しくなります。

 同じ生物であるから人間と言っていいのか?あるいは、違う生物だったとしても人間は存在するのか?人間というのが、同じ社会を構築する上での合意形成を行った集団の呼び名だとするならば、その人間社会は世界に唯一絶対のひとつなのでしょうか?人類の歴史を見ればおそらく違います。複数の人間社会がこの世に存在するのだとするならば、人間社会と人間社会が対立した場合にはどうなるのか?人間社会同士が戦い、人間の集団が別の人間の集団を殺すということもあったでしょう。それを内側から見るか外側から見るかで、「人間」の意味は変わるかもしれません。このキメラアント編の結末のように。

 

 「幽遊白書」の仙水編で、かつて霊界探偵であった仙水忍は、悪い妖怪を捕まえる仕事に従事しながらも、妖怪たちの命をもてあそんでいた人間たちの姿を目にして、その場にいた人間を皆殺しにしました。そして仙水は発言します、「ここに人間はいなかった」と。仙水はそこを起点として、人間界を滅ぼすために動き始めます。彼は人間の汚い部分を目にし、自分が人間であることに強い苦痛を感じます。仙水は、来世では妖怪に生まれることを望みました。そして、彼を倒した幽助は、先祖の大隔世遺伝によって人間ではなく既に妖怪となっているのでした。

 

 では、妖怪こそが善であり、人間は悪なのでしょうか?それも違うでしょう。やはり悪い妖怪もいれば、善い人間もいます。人間や妖怪というのは、最初から与えられた属性でしかなく、それ自体が何かを指し示すモノサシとしては不十分です。キメラアント編はその延長の物語なのかもしれません。妖怪と人間という綺麗に分かれるはずのモノサシでは測れなかった部分を、キメラアントと人間に置き換え、そして、キメラアントの性質は人間と人間以外の境界をひどく曖昧にします。

 ハンターハンターのキメラアント編は、「彼らは人間である、なぜなら人間として生まれたから」という強い理由を失ったとき、改めて見えてくる「人間とは何か?」という問いについて描かれた物語なのではないかと僕は思いました。

 さて、これは僕の一面的な解釈でしかありませんが、他のみなさんは、この物語の中で誰を人間と感じ、誰を人間以外と感じたでしょうか?

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