「女性の生きづらさに関する漫画は近年数あれど、男性の生きづらさに関する漫画はあまりないように思う」という話を目にしました。
そもそも「生きづらい」というのはどういうことか?という話があるのですが、僕の認識では「自分が周囲から求められている姿と、自然な姿の自分にギャップがある状態」のことだと思っています。だから、そのギャップを表面上無くすために、日々無理矢理合わせて頑張っていることに息切れをしてしまうのでしょう。だから辛い。
このように考えたとき、「生きづらい」ということには2種類あるのではないかと思います。それは、「求められる姿に合わせることはできるが辛い」のか、「求められる姿に合わせることすらできなくて辛い」のかということです。後者は、場にある価値観において自分が劣っている立場にあることも含まれます。
「金を稼ぐ男は偉いが、自分には金を稼げない」とか、「モテる男は偉いが、自分はモテない」とか、「強い男は偉いが、自分は弱い」とか、そういった生きづらさを描いた漫画は沢山あるでしょう。しかしながら、それらが即、「生きづらさを描いた漫画」に分類できるかというと、そうではないと思います。つまり、そのギャップを「金を稼ぐこと」や「モテること」、「強くなること」のような直接的なやり方で克服してしまうと、抱えていたその苦しみは解消できたとしても、結局自分を苦しめた価値観自体にむしろ依存してしまうことになるからです。
いわゆる「生きづらさの解消」とは、「自分を苦しめる価値観そのものとの付き合い方を変える」ということだと僕は思っています。
そこで、この認識において、男性の生きづらさを描いた漫画とは何かということを例示してみます。
「最強伝説黒沢」は、男性の生きづらさを描いた漫画だと思います。主人公の黒沢は、人望や出世、家庭を持つことなどの、世の中によくある男性がステータスとして評価される項目を何一つ満たしていない男です。だから、自分が他者と比較して劣っているということに傷つけられています。そして、そのギャップを減らすための行動を何もせぬままに歳だけをとり、もはや手遅れで、自分が思い描く理想の自分像には決して届かないのではないかということに絶望しています。
黒沢は、物語の中でそのギャップに苦しみ、その解消のためにあがきますが、そのためにとる行動はいちいち的外れで、決して望んだ自分に到達することができません。そんなみっともない姿の黒沢から出るのが「俺を尊敬しろ」という言葉です。でも、そんな言葉を発しても当然誰も尊敬してくれません。尊敬してもらおうと行動しても、決して尊敬してもらえるような存在になれず、あげく「尊敬しろ」と悲鳴のように他人に命令してしまうような人間を、誰が尊敬するというのでしょうか?自分が望み、そこに手を伸ばす行動が、何よりもそれを失わせるような結果に繋がるということは、人間の悲しみの中でも大きなものだと思います。求めれば求めるほど、求めたものが遠ざかるのですから。
黒沢は、様々な状況に遭遇し、とんちんかんな行動を見せながらも、想定とは異なる方法で徐々に人の信頼を勝ち得ていきます。なぜなら世間的な尺度では立派な人ではないけれど、根っこのところで黒沢はいいやつだからです。得られた人望は、黒沢が最初に望んだ種類のものではないかもしれません。仕事場での出世なんて望むこともできず、結婚相手も見つからず、家庭を得ることもできません。
それでも黒沢の生き方は、最終的に彼の中に大きく欠けていたものを埋め、温かさの中で眠りにつくことで最終回を迎えます。
だから、これは男性の生きづらさと、その中で生きることを描いた漫画と言っていいのではないでしょうか?
「hなhとA子の呪い」もまた別の種類の生きづらさを扱った漫画だと思います。その生きづらさの理由とは「性欲」、男性として自分に備わっている性欲が、異性を傷つける種類のものであることを自覚しながらも、決して手放すことができず、目を背けてもそこにあることを自覚せざるを得ないという苦しみがそこにあります。
自分が心から慈しむ存在を、他方で淫らな妄想で汚してしまう自分自身に対する嫌悪感との付き合い方を、主人公の針辻くんは模索します。
この物語でも、針辻くんはあれだけ嫌悪した自分の性欲を捨てることはできません。だって、腹が減るのが嫌いだからといって、腹を減らさないようにすることはできないし、眠ることが嫌いだからといって、眠らないように生きることもできないからです。それを外に出すかどうかはコントロールできるかもしれません。でも、性欲は他の欲と同様にそこにあるものです。針辻くんは物語の中で、自分の性欲を抱えたまま、それから目を背けることなく生きる方法を獲得していきます。
針辻くんは自分が一番好きな相手からの好意を獲得することに成功しますが、それは針辻くんを苦しめたものを解消する手段ではありませんでした。誰かの性欲によって傷つけられた人を、心配することと同時に、彼女を傷つけたものと同じ性欲が自分の中にも確固と存在していることにも気づいてしまうからです。それを手放すことはできず、あることを認識しながらも、それでもそれで生きていくしかありません。
これも、男性という性に内在する暴力性を自覚することと、それを決して発露してはいけないという狭間で苦しんだ生きづらい男が、生き方を獲得していく真面目で悲しく、希望ある物語です。
男性という存在は、傾向として女性よりも体が大きく力が強い存在です。そして、その強いということがむしろ自分自身を傷つけることがあります。なぜならば、その強い力があっても、それを外に出すことは社会的に咎められるケースが多いからです。生来強い者が強いことで何かを得ることが不平等だということ、それは当たり前のことだとは思いますが、その当たり前を実現することが人に負荷を与えないわけではありません。
様々な動物たちが人間のように暮らす世界を描いた「BEASTARS」は、力が強い者の苦しさや悲しみも描いていることが特徴的な物語です。
大型肉食獣の熊は、その強い力を抑えるために薬物の摂取が義務付けられています。その膂力は容易に他人を傷つけることができるために、事故の防止のためにも強制的に封じられる必要があるからです。作中で大きな事件を起こしたある熊もそんな存在でした。彼は、強く生まれてしまったがゆえに、薬物を投与されるという大きなストレスを強制され、自分があるがままに生きることも許されず、ついには凶行を起こしてしまいます。
大型草食獣では、象もまた同じような悩み苦しみを抱えていました。自分が生来強いがゆえに、平等な世界では、その強さが忌避されます。世の中の平等に合わせるためには、常に我慢を強いられるということが精神を蝕んでいくわけです。
弱き者が、その弱さゆえに強者に怯えてあるがままにいられない苦しみの対極に、強き者が、その強さゆえに弱者に配慮してあるがままにいられない苦しみが描かれています。
これらは、男女の関係としても読み取ることもできますが、他の様々なものになぞらえることができる関係性です。不平等な生来の特性を持つ者たちが集まった社会において「平等である」ということは、そこに参加する人々のたゆまぬ努力のもとに達成される状態であって、それは、そこに関わる様々な立場の人たちがある程度の生きづらさを与えてしまうものなのかもしれません。
現在の「BEASTARS」では、そのどちらにも属し、どちらにも属せない社会の隙間の存在の悲哀が描かれています。それは男性の生きづらさでもあり、女性の生きづらさでもあると捉えることができるかもしれません。あるいは、それとは全く別の分類に置き換えても理解できる問題です。性による隔てに限らず、人が同じ社会を営むということは、様々な側面で生きづらさを生み出してしまうものなのかもしれません。
例をあげればまだまだ見つかるかもしれませんが、男性の生きづらさに寄り添った漫画もあると思います。しかしながら、それ以上に、その生きづらさの解消を、その価値観との付き合い方を変えるのではなく、自分を生きづらくした世界のルールをそのままにして、その中の立場転換によって解消しようとする漫画の方が目にしやすいのかもしれません。
つまり、弱い男が弱いままで生きる道を探るより、強くなることで克服する物語の方が多いということです。それだって解消方法としては間違っているとは言えないでしょう。何にせよ生きることの辛さをなくして生きることができればよいと僕は思うからです。ただ、それしか方法がないと思い込んでしまうのが、男性的な生きづらさの根源にあるのかもしれませんが。
そういうある価値観の中で強者になることができないときに、そこに寄り添ってくれる漫画もあります。これからさらに増えていくのかもしれません。
何かの物差しを採用して優れているとか優れていないとかの話をすれば、優れている人の数だけ、その他方に置かれた優れていない人が生まれてしまいます。つまりそれは、100人いて100人が幸福になれる方法ではないわけです。様々な特性を持った人々がひとつの社会を維持する上では、少なからず、その人々が自分の生来の特性とは異なる何かしらに合わせて生きなければならないかもしれません。そこから完全に自由になることは一生あり得ないのかもしれません。
それでも、自分が何に合わせて生きているのかを自覚し、そこに何のためにどれだけ合わせるべきなのかを上手く調整することが、生きづらさを解消するための道なのかもしれませんね。そういう物語が生まれているということは、それを求めている読者がいるということだと思います。
書いててよく分からなくなってきたので唐突におしまいです。