漫画皇国

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当然知ってるでしょ?関連

 人間には知っていることと知らないことがあり、知らないことは知らないので知らないし、知っていることは知っているので知っています。でも、何を知っていて、何を知っていないかは人それぞれで違います。

 テレビでやっている街頭アンケートでの認知度調査なんかでは、誰でも当たり前に知っているだろうと思うような有名人でも100%知っているということにはならないことに驚きますし、日本で生きていて、本当にそれに一切触れずに生きて来れることはあるのだろうか?などとまで思ってしまったりしますが、これは完全に人それぞれなのでしょう。

 

 ですが、何かについて当然知っているだろうというていで、自分から他人に話を振ってしまうことはありますし、他人から自分に話を振られてしまうことがあります。でも、知らないものは知らないので、当たり前のように話されても知らないのだから仕方ありません。それは起こり得ることです。

 

 芸人のダイアンの漫才に、「サンタクロースを知らない人」というネタがあって、ボケの「サンタクロースって何?」という発言に対して、ツッコミが「サンタクロース知らんの?」と驚いて、そんな人がいるのかとはしゃぎ続けます。しかし、会話が攻守交替し、こんどはボケの方が「ファナスティって知ってる?」と発言します。そんな言葉は知りません。その後、もう嫌になるぐらい「え?ファナスティ知らんの??」と言い続けられたあと、「…これをずっと言われてるようなもんやぞ」と終わるのを見て、理解するわけですよ。自分が一切知らないものに対して、え?知らんの??と言い続けられても、そもそも知らないものは知らないので、相手のはしゃぎっぷりも含めてわけが分からないし、困惑しか残らないということを。

 

 自分が理解できないことで驚かれたり、笑われるのはストレスです。

 

 例えば、海外に行ったときなんかに、これを強烈に感じたりします。僕の場合基本的に仕事で行っているので、仕事関係の話題は分かるわけですが、それ以外のことはさっぱり分かりません。雑談中に彼らが何について話していて、何で笑っているのかもさっぱり理解できないことも多々あります。そして、さっぱり理解しないままに発言をしてしまうと、僕のそのとんちんかんな発言に皆が笑ってしまったりします。僕にはその笑いの意味も分からないので、どうしたもんかなあと思ってしまいます。

 逆に、日本で外国の人とテレビを見ていて、どつき漫才の話になったことがあります。漫才のボケが頭を叩かれていて、笑いが起こります。そこで外国の人に聞かれました。「彼はなぜ頭を叩かれたのか?」「間違ったことを言ったからだ」「間違ったことを言わなければ叩かれないのではないか?」「彼はわざと間違ったことを言っているんだ」「なぜそんなことをして叩かれようとするのか?」「…それが面白いから」「なぜそんなことが面白いのか?」「…」みたいな感じのやり取りが発生し、結局上手く説明することができませんでした。

 

 何かが分かる側からすると説明不要で当然であることが、説明なしには分からないかもしれませんし、説明をされたとしても分からないままかもしれません。つまり断絶です。

 

 「ONE PIECE」が1巻あたり300万冊売れたとしても、日本人口の97%以上は買っていないということになります。1万冊売れる漫画なんて、99.99%以上の人が買っていない漫画です。そんな世界です。自分が読んでいる漫画を、当たり前に相手が読んでいるということを想定していいのでしょうか?好きな漫画の話をするときにはそういうリスクがあります。漫画以外だってそうです。皆で共有できるものは多くありません。

 ただ、人との会話というものはいきなり1億2000万人の前で始める演説ではありませんから、その中の誰と話すかによって当然知ってるでしょ?を導入してもいいケースもあります。その方が話が早いですし、前提の説明を省略しても楽しくなってしまうわけです。これがオタの会話でしょう。伝わる範囲なんて狭ければ狭いほど分かる方からすれば良いですから、その中だけで通用する話題もガンガンしますし、結果、それは外から見ればどんどん歪で意味が分からないコミュニケーションとなってしまいます。

 なので、こういうところに外からやってきた人が入ると問題が起こります。他の人が当たり前に分かっているので説明してもらえないし、その狭い界隈だけで通用するものなので、何かを参考にして理解する方法もありません。分からない人とのコミュニケーションはとても疲れますから、嫌になってしまうかもしれません。

 

 「あいしゃんどん」、これは意味が分からない言葉だと思いますが、僕の家族には当たり前に通じる言葉です。これは僕の妹が小さい頃「しょくぱんまん」を上手く言うことができずに使っていた言葉で、なので、僕の実家では「しょくぱんまん」のことを「あいしゃんどん」と言ってもコミュニケーションが取れます、でも、外から来た人には無理でしょう。こういうことが無数にあるわけですよ。自分が属していなかった場所に足を踏み入れたときには。

 そういうときに理不尽さを感じてしまったりしないでしょうか?分かる人にしか分からないコミュニケーションの場に足を踏み入れることは大変です。

 

 なので、そういうことに気を遣って話すならば、場で一番前提を共有できていない人に向けた言葉を選ぶとよいことになります。僕もブログで書いている文の場合、固有名詞やそれが意味する別の何かを知らない人でも、なんとなく意味が分かるように簡単な説明とともに書いています。上記で言えば、「ダイアン」という言葉が出てきたときに、それが何か分からない人がいることを考えて「芸人の」という言葉を付けました。その後のやりとりも、知らなくても分かるように書いたので、ダイアンのそのネタを見たことがない人でも意味は分かってもらえるのではないでしょうか?

 ただ、「ONE PIECE」という言葉が出てきたときには、仮に読んだことがない人であっても、それが日本でめちゃくちゃ売れている漫画であるということぐらいは知っているだろうという判断で、余計な説明は省いています。

 この文章を読む人を強く限定してもいいなら、そんなことは気にせず、自分が分かるようにだけ書けばいいわけですが、ここに書いてある文章は、誰が読んでもだいたいの意味ぐらいは分かることを基準にして書いているのでそうしている感じです。

 

 IDA-10さんとみやおかさんがやっているpodcastの「ピコピコキャスト」で(ほら、こういう説明的な書き方をしがちです)、みやおかさんがゲームの話をしているときに、IDA-10さんが「今録音してる?」って確認したことがありました。それは2人だけの会話であるならばわざわざ説明しなくてもいいような、当たり前に共有できていることを、わざわざ口にだしていることが気にかかったからです。つまり、その言葉は自分たち以外の誰かに聞かせることを意識して喋られていて、それはつまり、その会話を録音してpodcastにするためだろうと察したからでしょう。

 これはすごく面白い話だと思うんですよね。人は会話の中で、聞く意味のあるところとないところ区別して認識していたり、その発言が登場した意図を細かく考えたりをしているということだからです。相手が何を当たり前に知っていて、だから何を省略しても問題なく伝わるか?あるいは、何を明示的に言わなければ伝わらなかったり、誤解を生む可能性があるかを意識して会話をしている人は多いのではないでしょうか?

 

 それができれば、説明が必要なものとそうでないものが区別できるわけですよね?なら、目の前の人が自分が当然知っていることを知らないときであっても、そこを説明しながら伝えれば、割となんとかなることが多い気がします。コミュニケーションはそれでいいじゃないですか。

 あとは目の前の相手が何を把握していて、何を把握していないかをどれだけちゃんと察したり確認したりをできるかですよ。

 

 今ちょうどやってる展示会に今僕が働いている仕事場が出展したりしているんですが、説明員が足りないというので昨日ヘルプでやったりしました。そう、僕は説明をしに行ったわけです。

 そこで、ある技術について「詳しいことは分からないんですけど」と言いつつ質問をしてくれた人がいました。これは結構な難しい状況です。その詳しくないことがどの辺まで分からないのかの判別が瞬間的には難しいからです。なので最大限の想定をして、あらゆる専門用語は避けて説明をし始めたら、相槌から基本的な用語や概念は分かるということを察し、認識を途中で修正しつつ言葉を選び直して説明しきったりしました。説明相手が、何をどこまで知っているのかを事前に把握できないときが一番難しいということです。しかも一期一会なのでやりなおしもきかない。

 

 何かについて「当然知ってるでしょ?」っていうことを期待できるの、非常に狭い狭い範囲のことで、それを少し外に越えてしまえば、そんなことを期待する方がおかしいんじゃないかと思ったりします。

 こんなことも知らないのか?と他人に思っても、一方、その相手が当然知っていると思っていることを自分が知らないことだって絶対あるじゃないですか。あらゆる基本はそれで仕方ないんだと思うんですよね。相手に知ってて当然を期待する方が特殊な状況ですよ。なので、長々書いたんですけど結論は普通で、「人と人はおそるおそる情報交換しつつちょっとずつ相互理解をやっていくしかないんだろうな」という感じがします。

 やっていきましょう。