漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

個々人が持つ情報量は絶対値をとれば大差ないんじゃないか関連

 人間の認知には限界があるんじゃないかと思います。

 目にするもの耳にするもの、その他色々な方法で体験するもの、ひとそれぞれあるでしょうけれど、時間は誰にでも平等ですし(重力に極端な変化がない限り)、様々な感覚器から得た情報を処理できる量も大差はないのではないでしょうか?つまり何が言いたいかというと、何かを詳しく知っている人は、それを知る代償として他の何かを知らない可能性が高いですし、あらゆることについて全て詳しい人なんて存在し得ないのではないかということです。

 人間は「自分が知っていることを他人が知らないこと」には敏感ですけど、「自分が知らないことを他人が知っていること」には鈍感というか、そもそも知らないんだからその人が詳しいことにも気づきにくいんじゃないかと思います。そう考えると、「自分は知っているのに相手は知らない」ということにばかり気づいてしまい、周りにいる人たちは自分より何も知らない人ばかりだ!!と思ったりしてしまう可能性が高い。

 あるいは、情報について自分の都合で重みづけをしてしまうこともあります。つまり、「自分が知っていることは重要だけれど、相手が知っていることは重要ではない」と考えるやり方です。ある人は、「漫画に詳しくても何も役に立たないので意味がない」と考えるかもしれませんし、またある人は「野球に詳しくても何も役に立たないじゃないか」と考えるかもしれません。学問的な情報であれば、重要と考える人が多いかもしれませんが、学校の勉強なんて社会では役に立たないと言ってのける人もいます。

 相手がよく知っていることについては大した価値のないこと、自分がよく知っていることについては非常に重要なことというような重みづけをすることで、総体としての情報量は実は同じぐらいだったとしても、物知りと物知りでないということに実際以上に大きな差を感じることができるようになります。

 

 このようにして、本当はそれぞれの人が持っている情報量の総体には大差がないのに、自分は普通の人よりも物知りだと思い込んでしまうということはよくあることなのではないでしょうか?その逆に、自分が知っていることなど大した価値がないと思い込み、他の人たちはなんて役に立つことばかり知っているのだろうか…と自信を無くしてしまうなんてタイプの人もいるでしょう。

 実際に、それらの情報が、仕事上の稼ぎに繋がりやすいかという指標ももちろんあります。お金に変換しやすい情報もあるでしょうし、まったくそれには向かない情報もあるでしょう。だとしても、それがお金として評価しづらいものであったとしても、あるいは、他人の注目を集めるような面白いものではなかったとしても、それでも、その人の持つその情報がユニークで、そこにしかないものであったりするということも事実だと思っています。

 

 さて、時間は平等と言いましたが、不平等な場合もあります。例えば、単純に年齢差がある場合です。早く生まれた人は、遅く生まれた人よりも人生が長いので、そのぶん多くの情報を持つことができます。

 小さな子供と接すれば、その子が知っているようなことは自分は全部知っていると感じることもできるかもしれません。ただ、子供が知っているようなことを自分が知らないことも多々あり、「大人なのにそんなことも知らんの?」と子供にバカにされたりもします(かわいい)。昔、妹にポケモンの名前を全然知らないことで馬鹿にされたことがあったので、くやしくて「ポケモン言えるかな?」の歌詞を覚えました。

 これはまさに前述の効果で、その子が知っているその子にとって重要なことを僕が知らないことで、僕が物を知らない人と判断されてしまったケースです。その子が知らないで、僕が知っていることについては、その場において考慮されることはありません。

 

 人間は自分に価値があると思いたいわけじゃないですか。というか自分に価値がないと思いながら生きるのは辛いってことですよ。だから、自分に価値があると思える理由を探すわけなんですけど、その理由の分かりやすいもののひとつが「自分は他人より優れている」ってことなんじゃないかと思います。優れている自分には価値があるぞ!って思いたいわけですけど、これを物知りかどうかの分野でするとして、僕が思うようにあらゆる人がもつ情報量には実は大差がないとすると、そう思うことは難しいということになってしまいます。

 だから、自分より時間的に不利な若者を見て、このような若者はあれも知らないこれも知らないと、自分が知っていて若者が知らない話をしようとしたりしてしまう人がいるんじゃないでしょうか?そして、相手が自分と歳が近かったり自分より年上の人である場合は、自分が得意な分野を意味があるものとして、自分が得意ではない分野を意味がないものとして、自分が有利になるように都合の良い重みづけをすることでそれを達成しようとしてしまうんじゃないでしょうか?

 

 それをすることが良いか悪いかは分かりませんけど、自分に自信を持つためにそうしてしまうのだとしたら、それはある程度仕方のないことなのかもしれません。

 僕も少なからずそういうことをして生きているんだと思うんですけど、仮にある分野で自分が他人より何かをよく知っていたとしても、その他人はきっと自分が知らない何かを知っていて、それはその人にとって重要な重みづけをする何かだったりするんだろうなというお互い様的な考えを持つことは意識しています。

 

 僕は漫画は結構読んでいる方なんじゃないかと思うので、すごく詳しいと思われたりすることもたまにあるんですけど、実際はちっともそうではないなあと思っていて、僕が読んでいなくて、他の人が読んでいる漫画の方がずっと多いと思います。でも、実際会話をしていると、僕が読んでいて他の人が読んでいない漫画の話になることが多かったりするんですよね。それはきっとそういうとき、話題の選択の主導権を僕が持っているだけってことだと思います。

 主導権があるならば、必然的に僕は僕が知っている漫画の話ばかりをしますし、それは僕が知っていることは確実なのに、相手が知っているとは限りませんから、結果的に僕が実態以上に沢山の漫画を網羅的に知っている人というような雰囲気になってしまったりします。そういう空気にしばらくいると勘違いして、僕はすごく詳しい人だぞ!!みたいな気分になってしまったりしてた時期もあるのですが(二十代前半ぐらいのとき)、年齢を重ねて冷静に自分を見るようになってくると、全然そんなことはないことが分かるわけですし、沢山知っていて詳しいから価値がある人であるぞよ~みたいな感じに自分を見るのは実態として間違っているし、そういうところに自分の大事なものを置くのは危う過ぎるなと思ってやめてしまいました。

 

 この関連、自分を省みるとほんとよくないと思っていて、自分はその分野で詳しい人であるぞよ~みたいな認識を維持しようとし続けると、場合によっては自分が知らないものを「読む価値がない」などと貶めることが最適解になったりします。自分が読んでいる漫画は価値がある漫画、自分が読んでいない漫画は価値がない漫画ということにすれば、自分は常に価値がある漫画に詳しい人でいることができます。こういうのはもちろん漫画に限った話ではないです。

 僕も既に若者ではなくおじさんなので、オタクの老い方みたいなのをたまに考えるようになってきたんですけど、なんでも貪欲に読む元気やそのための空き時間がなくなってきたにも関わらず、自分が一番詳しいんだ!と思おうとするのは、やっぱり辛いですよ。そう思い続けられるようにするなら都合よく認識を歪めていくしかないですし、歪めていけばいくほどに、他人にケチをつけるばかりの人になってしまいそうです。そうなると、相手がたまたまケチをつけられて喜ぶタイプの人でないならば、きっと会話を積極的にしてくれなくなってしまうでしょう?なぜなら自分の趣味にケチをつけてばっかりくる嫌な人だと思われるだろうからです。

 

 そのような考えによって、僕は自分がオタクとして良い感じに老いていくには、その分野にすごく詳しい人であるということに価値を見出すようなことはすべきではないなと思うようになっていて、自分が知っているのはすごく広い全体のごくごく一部であって、でも、そこがすごく好きなんだなあという気持ちを大切にしていくことだなあと思っています。

 そして同時に、他の人にもその領域があるわけじゃないですか。それが仮に自分の領域とは全く交わらなかったとしても。自分のその領域が素晴らしいと思うように、他の人のその領域も同様に素晴らしいものだと思うわけですよ。

 少なくとも今現在はそういう気分なので、そういうことを忘れずにいたいですね。

 

 ※この文章は、僕という人間が「すごく感じのよい人だな」と思われたいというような気持ちによって書かれました。できればそう読んでください。