五十嵐大介の「魔女」はめちゃくちゃ好きな漫画で、中でも好きなのは「ペトラゲニタリクス(生殖の石)」というお話です。
このお話は、「言葉」と「体験」の関係性について描かれるお話です。大いなる魔女ミラは、ある晩家族となった少女アリシアに本を読むことを禁じます。アリシアはなぜと問いますが、その答えは「あんたには経験が足りないからよ」というものです。
そしてミラはこう続けます。「"体験"と"言葉"は同じ量ずつないと、心のバランスがとれないのよ」と。
僕はこの考えにすごく影響を受けていて、自分自身の生活にも取り入れています(なので今まで何度も書いている話かもしれません)。
言葉というものはコミュニケーションにおけるある種の圧縮の技術でしょう。「りんご」という言葉を聞くと、それぞれの人々が頭の中にそれぞれの「りんご」を思い浮かべます。そこには色や形、味や、そこから作られる様々な他のものや、関連する物語など、沢山の情報が詰まっているはずです。しかし、それを表現する言葉はあくまで「りんご」の三文字です。言葉は、それを使うことで人の頭の中にある記憶や体験の情報を引き出す鍵、文字通りキーワードなわけです。人はそのキーワードを組み合わせてやりとりすることで、自分の脳の中の情報を、他人の脳の中の材料を使って再現しようと試みます。
しかしながら、相手がりんごに関する体験がない人である場合、その人が「りんご」という言葉から想起するものは曖昧でしょう。なので、りんごについての体験がない人同士が、「りんご」という言葉だけでコミュニケーションをしようとしても、思ったように伝わらないはずです。
世の中はこういうことが往々にしてあります。体験の伴わない言葉だけが独り歩きしてしまうのです。その場にいる人たちがその言葉について何の体験の裏付けもないために、曖昧に使われ、曖昧に理解し、それぞれの人が頭の中で想起するものはまるで違うのに、なんとなく分かり合ったような気になっていたりします。これは不思議で面白いことかもしれませんが、不安定で危険なことでもあるかもしれません。
だからこそ、ミラの言う通り、言葉にはそれに相当する体験があった方が心のバランスがよくなるものだと思います。少なくとも自分の中ではその言葉の意味するところが明確になるからです。何が何に根ざして存在しているかに意識的になれば、見誤りも減るかもしません。体験の裏付けのない言葉は、裏付けがないゆえに容易に肥大化してしまったりするのではないでしょうか?それに見合う栄養としての体験を必要とせずとも言葉だけがただ大きくなることが可能だからです。
言葉を上半身とするならば、体験は下半身でしょう。その大きな言葉を支えられるだけの下半身がない場合、肥大化した上半身を支えきれずに転んでしまったり、そもそも立ち上がることができなくなったりしてしまうのではと危惧してしまいます。
自分が体験したわけでもないことを、言葉を知っただけで全てを分かったような気になり、それを繰り返せば、その頭の中に思い描くりんごは、他の人たちが思い描くものとは異なる全く独自のりんごになってしまうかもしれません。そのりんごは例えば、黒く、動物で、毛深く、ものすごい握力を持っているものかもしれません(ごりら?)。
そういうりんご感を持っている人に、「あなたはそんなりんごを見たのですか?」と問うたとき、「見たことはないけれど、りんごってそういうものでしょう?」と返されるようなことはよくあります。そして、自分だってきっと少なからず同じことをしてしまっているでしょう。毎日のように無数の言葉が流れ込んでくるような情報化社会です。その全ての言葉の量に比べて、体験に使える人生の時間はとても短い。
ペトラゲニタリクスは、宇宙を漂うある石が地球に舞い降りたことをきっかけにして始まる物語です。その石には生命を生み出す力があり、かつて地球に飛来した同種の石は、多様な生物が突然発生したカンブリア大爆発のきっかけとなりました。その一過性で無作為な生殖の力は、大半がそのまま死滅したものの、その後に長い時間をかけて洗練され、受け継がれ、地球上の生命を紡ぐ一糸となっています。しかしながら、その石の再来は、再び混沌を呼び起こし、我々地球の生命を脅かすことになるのです。
それを封じるために呼ばれたのが大いなる魔女ミラでした。そしてミラをそのために呼び寄せたのは、魔女を異端と排斥する人々です。
神の御名を口にする人々と魔女のミラが反目するのは、言葉と体験に関する認識の差に起因するものでしょう。神の加護ある言葉には同じ量だけの体験を釣り合わせることはできません。神は試すものではありませんし、信じることは取引でもありません。しかしながら、この物語における魔女は、自然とともに生きる体験を重視し、自分がそんな大きな存在の流れの一部であることに気づくことを生き方として掴んだ者です。それゆえに魔女は、体験の伴わない神の言葉をただ信じることはできなくなります。
神というものはおそらく超越的存在であり、この世界の存在する圏の外にあるものではないかと思います。だからこそ、この世界の律に縛られず自由であり、それゆえに必要とされる存在なのかもしれません。体験のくびきに囚われない自由な答えが、人を救うことだってきっとあるからです。
ただ、この物語の中において、そんな神の御名を唱える人々の言葉をアリシアは「汚れている」と表現します。なぜなら、彼らの使う言葉には体験が欠けているからです。
「いちども空を見たことがない人が『晴れた空は青い』と言ったら、言葉は間違っていなくてもそれはウソなんだわ」
どれだけ結果的に正しいことを言ったとしても、それを裏付ける体験なくしては言葉は虚ろです。自分が発している言葉の意味が分からないのですから。いや、言葉を使って無限の世界を、有限の自分の理解可能なものに切り分けること自体がもしかすれば虚ろなのかもしれません。
自分の大切な人々の生きる世界を救うため、その身を犠牲にするミラと、そんなミラを犠牲にすることをいとわない人々がいます。アリシアはそれを目にし、彼らの汚れた言葉が生み出す結果を批難し、ミラが教えてくれた輝く言葉の数々を噛み締めます。それは体験です。体験の伴わない言葉が何を引き起こすのかを、アリシアは体験しました。そうやって大いなる魔女ミラの言葉に、アリシアの体験は追いつき、アリシアもまた魔女となるのです。
この物語は魔女の話です。魔女の生き方がなぜそうなっているかが描かれ、魔女ではない人たちが魔女のようには生きられない姿が描かれます。ただ実際、僕が魔女のように生きられるかと言えば、そうではないでしょう。僕は自分が発している言葉の全てに同じ量の体験があるとは思えません。
子供の頃に読んだ本の意味が、大人になってふいに分かることがあります。漫画の感想だって読んですぐに出てくるかと言えばそうではなく、何年も前に読んだ漫画についてふいに気づくことだってよくあります。ペトラゲニタリクスが雑誌に掲載されたのはもう十数年も前ですが、今になってこんな文章を書いていたりもします。何かの指南書を読んだとき、その時点ではさっぱり意味が分からなかったのに、十分な時間が過ぎてそれができるようになったときに、習得する中で僕が自分で獲得したと思った知見は、最初に読んだ指南書にとっくに全て書かれていたなんてことに気づくことだってあります。
それはおそらく僕が得た言葉に、ようやく僕自身の体験が追いついたということなんじゃないかと思っています。本に耽溺し、自分の人生から逃避を続けているような自分でも、ゆっくりとそのタイミングが訪れたりするのが面白いですね。今もまだ分からないものは沢山ありますが、これから生きていく上で分かるタイミングがあるのかもしれません。でも、一生分からなくてもそれはそれで仕方ない気もします。
世の中には無数の言葉が爆発のように生まれ続け、個人の人生の時間はそれほどには長くないと思うからです。