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刃牙シリーズのこれまでのテーマとこれからへの勝手な期待

 板垣恵介刃牙シリーズは、「グラップラー刃牙「バキ」範馬刃牙」「刃牙道」と四シリーズ続いており、昨日第五シリーズの開始が示唆されつつ「刃牙道」が完結しました。

 では次に描かれるものは何であるか?ということの期待をしつつ、これまでのそれぞれのシリーズでは描いているものが明確に違うのではないか?と感じているので、その話をします。

 

 グラップラー刃牙は、地下格闘場でチャンピオンとして君臨する少年である範馬刃牙が、様々な格闘家と戦いつつ話が進み、最終的に世界中から様々な種類の格闘家を集めた最大トーナメントに繋がっていきます。このシリーズで描かれているのは、「誰が一番強いのか?」ということではないかと思いました。そしてそれは「勝った奴が強い」ということを裏付けとします。

 様々な勝利があり、様々な敗北があります。そしてトーナメントを勝ち進み、優勝者となった男が一番強いという結末です。ただし、それはトーナメントに参加した男の中では、という条件つきではありますが。

 もちろん優勝者は範馬刃牙、様々な格闘家の様々な強さが、プライドが描かれ、勝者の、そして敗者の美学が描かれました。

 

 これが次のバキになると、新しいテーマに移っていると思います。僕が思うに、そのテーマとは「勝利とは(あるいは敗北とは)何か?」というものです。試合形式で勝ちと負けがはっきりつく戦いと異なり、いつ始まりいつ終わるかも分からない戦いでは、勝利と敗北の条件が曖昧です。その日負けても、次の日に仕返しをして勝てば、それは勝ちでしょうか?あるいは負けや引き分けでしょうか?では、その次の日にまた負けてしまってはどうなるでしょうか?

 ここで、これまであった試合という形式は、格闘家たちにルールと明確な勝利条件という強い制約を与えたことで、物事の捉え方を分かりやすくするという特殊な状況であったことが分かります。本シリーズでは、とにかく勝ちと負けが分かりにくく、あるとき勝ったものも、そのあとで負けたりします。そして、あるとき負けたものも、その後勝ったりもします。強さは単純な不等号で表せるものでもなくなってしまいます。

 ずっと勝ち続けていたように見えたものが、実は負けを認めていなかっただけということが分かったりします。むしろ、負けることの方が勝ちよりも価値があるということが分かることだってあります。勝負で負けても、その際に与えた毒で相手が衰弱してしまえば、それは勝ちでしょうか?勝負に負けても、明らかに死ぬようなシチュエーションで、死なずに生き延びることができればそれは何らか勝ちなのでしょうか?

 勝ちと負けというのは、ある条件から見た判定に過ぎません。ルールが異なれば、勝ち負けの解釈は変わるかもしれません。同じ人々を見ても、誰が見るかによって勝ちと負けの解釈が反転することだってあるでしょう?強さを求め、勝ちを求めますが、ではそもそも勝ちとは何かと真面目に向き合ったとき、その勝ちという概念が意外と曖昧なものであることに気づきます。

 それゆえ、このシリーズは難しいシリーズだなと思いました。

 

 その点、次の範馬刃牙のテーマは、もう少しシンプルです。それはつまり「強さとは何か?」です。このテーマは、刃牙が父親である範馬勇次郎と戦うことを物語の到達地点として設定していることから来ていると思います。範馬勇次郎は本作の中で例外的に強い存在であり、その強さは本作でさらに加速しています。本来縮めなければ勝てないはずの勇次郎と刃牙の差は、むしろ開いているかのように表現され、とてもではありませんが、勝てる道筋が見えないままに最後の戦いに雪崩れ込みました。

 そこで出てくるのは「強さとは何か?」という問いです。何をどうすれば刃牙は勇次郎よりも強くあることができるのか?作中では「強さの最小単位」、つまり強さからできるだけ多くのものを剥ぎ取って、それでも最後に残るもの、それは「我が儘を通す力」であると語られます。相手よりも腕力が弱くてもいい、何度倒されてもいい、それでも自分の我が儘を相手に飲ませることができさえすれば、それは何らかの意味で強いわけです。

 刃牙は勇次郎に我が儘を通して見せ、そして、地上最強の称号を名乗ることを許されました。

 

 さて、ひとまずの終わりを迎えた刃牙シリーズが、さらに刃牙道として再開します。この物語は、クローンの技術と霊媒の技術により、現代に宮本武蔵が甦ったというところから話が始まりました。ある種の史上最強の存在である宮本武蔵が、現代の世の中で何をするのか?この物語のテーマは「強さの先に何があるのか?」ではないかと僕は思いました。

 現代の世の中の価値観に沿わない宮本武蔵がその強さ、つまり、我が儘を通す力を発揮したとき、その先に何があるのか?ということではないかと思います。

 武蔵はその強さゆえに、現代社会に様々な我が儘を通します。それにより人が死にました。そして、人を死なせないために守護(まも)ろうとするものもいました。

 この物語の結末について、僕はまだ整理がついていないのですが、結局のところ、人を殺す力に秀でた宮本武蔵は、現代の平和な日本では生きる場所がないということなのではないかと思いました。なので刃牙は、宮本武蔵をまた現代日本から追放します。

 

 人は強さを求めますが、強いことにどれほどの意味があるのでしょうか?強すぎることで何でも我が儘が通ってしまうということは本当に幸せでしょうか?そして、その周辺にいる人たちはどうでしょうか?刃牙道の宮本武蔵が強かったことには、何か意味があったのでしょうか?ひょっとするとこれは、とても悲しい話だったのかもしれません。

 

 さて、次のシリーズの鍵となるのは二代目野見宿禰だそうです。神話的な存在である野見宿禰を長い世代の果てに襲名できるほどの力を持った存在です。もしかすると、次のシリーズでは、「強くある」ということの意味を野見宿禰が見せてくれるのかもしれません。武蔵のときのような悲劇ではなく、今度は別の結末に辿りつくことを期待してしまいます。

 力があるということが、周囲に悲劇をもたらすのではないのだとしたら、そこには何があるのか?例えば範馬勇次郎は、世界中の強きものたちと戦うことで、ある種の神格化をされていました。勇次郎は弱きものを守ろうとしたわけではありません。しかし、強きものが弱きものを蹂躙しようとするとき、その強きものと戦う勇次郎の背中を弱きものが見ることになります。それはひとつの強さの在り方でしょう。

 しかしながらそれは、力が強いが悪いものたちとの対比でなければ証明できない種類のものでもあります。「ただ強くある」ということがもたらすポジティブな何かがそこに存在しているのならば見てみたい、僕はそういう期待をしてしまったりしていますが、全然そういう話ではないかもしれません…。