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自分流、根拠のない自己肯定感の持ち方について

 僕が考えるに「根拠のない自己肯定感」を持つ方法はひとつです。それは「今この瞬間からいきなり持っていると認識する」というものです。

 なぜならその自己肯定感には根拠がないので、それ以外に持ち方があるはずがありません。もし、根拠のない自己肯定感を持つために必要な努力や手続きがあったとしたら、それはもはや根拠でしょう。何かに対して相応の根拠を持てば安心ですが、逆に恐ろしくもあります。なぜなら、その根拠を崩されてしまったら、そうではないことになってしまうからです。

 他人に認められることで得た自己肯定感は、他人に否定されたら傷つけられるかもしれません。自分が他人より優秀であるということによって得られた自己肯定感は、衰えやより優秀な人の出現によって失われてしまうかもしれません。何かの条件を付けて得られたものは、その条件が失われるとなくなってしまうのです。そうなれば、その条件が崩されないように頑張ったり、新しい条件を得ようとしたりして頑張り続けないといけません。頑張り続けなければ自己肯定できないのであれば、いつの日か疲れ果ててしまう可能性があります。疲れてしまったときに自己否定に陥ってしまえば、そこからもはや抜け出すことができないでしょう。そうなれば、自分はダメな人間だ、自分には価値がないと思いながら日々過ごさなければなりません。それはとてもしんどいでしょう。しんどいことはしたくないでしょう。

 

 思うに、根拠のない自己肯定感とは、どんなに最悪の状況であったとしても、今笑うに足ることにできるというとても便利な道具です。だとすると、あった方が便利なので、僕は持ち合わせるようにしています。なぜそれを持つことが出来るようになったかというと、前述のようにあるとき全く無根拠に持つことに決めました。持つことに決めたら持てたので、非常に良かったのですが、全く無根拠ですし、やり方もあったものではないので、他の人にも同じことができるかどうかは分かりません。

 

 「自分が優秀な人間だから、自分を肯定できる」というような考えを、僕はあまりしたくありません。現実問題として、自分は優秀ではない可能性が高いからです。世の中に、優秀な人と優秀でない人がいるとしたら、きっと優秀な人の数は優秀でない人の数よりずっと少ないはずです。だとすれば、自分がその数少ない優秀である方に入っている可能性は確率的に低いということになります。確率が低いことに対しては、そんな期待はしない方がいいのではないでしょうか?期待して裏切られると辛いからです。

 仮に自分が客観的に見て優秀でなかったとしても、それでも、自分が優秀であると認識したい場合には、自分よりさらに優秀でない他人を探すでもするしかありません。相対的な優秀さを確保する必要があります。そのために、毎日自分より優秀でない人を探して、優秀でない人がいかに優秀でないかを確認し続ける必要があります。それは完全にダルい作業だと思うので、僕はやりたくないのです。

 

 「他人に認められたから、自分を肯定できる」というような考えも、僕はあまりしたくありません。なぜなら、全く何もせずに認められるならいいですが、それはよほど運がよくなければそうならず、実際にはその他人に認められるために、その他人の価値観に沿うように生きなければならないと思うからです。

 うどんを食べるかそばを食べるか決めるとき、他人の評価を気にするならら、自分はうどんを食べたかったとしても他人が好きなそばを食べる必要があるシチュエーションがでてきます。他人の価値観に合わせて行動するということを全くしたくないというわけではありませんが、それしかないということ、常に相手のご機嫌を損ねないような選択をし続けなければならなくなると、やはりダルいでしょう。その人に認められるために、自分の本来の欲求を押し殺し続けなければならないのだとしたら、自己肯定感と引き換えに失われるものが沢山あるので、僕はできるだけやりたくないのです。

 

 上記の2つは代表的なやりたくないことですが、ただ、全くやりたくないわけではないんですよ。自分がちょっと他人より上手くできたとか、自分がちょっと他人に褒められたとかで嬉しくなってしまうということは全然あります。でも、それはあくまでおまけのプラスアルファの部分であって、根底には、そんなものに依拠しない自己肯定感があった方が便利です。それがなければ、自己肯定感を得るために頑張る必要があり、毎日ダルいダルいと思いながら生活しなければならないからです。

 

 僕が何より好きではない言説があるのですが、それは「幼少期に周囲から肯定されてきたかどうかが人間の自己肯定感を育む」みたいなやつです。なぜ好きでないかというと、それは幼少期に周囲に十分肯定されてこなかったままに大人になると、手遅れということになるからです。

 一方、僕自身は全然幼少期にちっとも肯定されてこなかったと思いますが、今では十分に自己肯定はしているので、その理屈は少なくとも自分にとっては間違いです。穴のある理屈を根拠に、「あなたには自己肯定感は手に入らない」というようなことが事実であるように語られると弱ってしまいます。

 また、結局他人に認められることで得た自己肯定感は、他人に否定されたときに耐えうる強さを持ち得るでしょうか?僕は強固な自己肯定感を錬成するために、根拠なんていう脆弱なものを持ち合わせるということはしないようにしています。

 

 ちょっと別な話ですが、他人の意見を変えたい人というのは、相手に今の意見の根拠を求めてくることがあります。そして、そこで提示された根拠を崩すことで、自分の意見を受け入れさせようという戦略をとったりします。そういうとき、素直な人が、根拠を崩されたことで自分が間違っていると思って言うことを聞いてしまったりするのを目にします。しかし、その人の言うことを聞くことで実は損をしてしまうかもしれません。なぜ自分が損をする選択をしなければならないのでしょうか?相手の言うことが筋が通っているからでしょうか?筋が通った理屈を作れるということは、他人に損な選択を強要するぐらい価値のあることなのでしょうか?僕はそんなもの、「なんとなく嫌です」と言っておけばいいと思っています。これは強いです。

 「なんとなく」は理屈による説得に対して強い防御力があるので、理屈を考えるのが得意な人の言うことを嫌々聞かなければならないシチュエーションを減らすことができます。「なんとなく」は使いこなせるととても便利な盾なので、理屈をこねくりまわして相手に言うことを聞かせたい人に対してどんどん使っていきましょう。

 

 さて、無根拠な自己肯定感が強まってくると、自分が好きなものと嫌いなものに対して素直になれるんじゃないかと思います。あらゆる価値判断に他人の価値観が入ったり、他人との比較を意識する必要性が薄まるので、好き嫌いの判断が自分自身にとって、より純なものになってくるからです。そして、その純粋な好きなものを生活の中に増やして、純粋な嫌いなものを生活の中から排除するように行動すると、段々と毎日が心から好きなものばかりになってくるので、非常に良い環境だと感じます。

 しかしながら、自分が好きなものを好きと思い、自分が好きでないものを好きでないと思うということは、簡単なようでいてなかなかできません。僕もできていない部分が多くあると感じます。例えば、「世間で話題になっていないマイナーなものが好き」という感覚があったとします。それは一見、自分の感覚に素直になっているように見えて、「世間で話題になっていない」ということを意識してしまっている段階で、実は「世間で話題になっているメジャーなものが好き」という感覚と構造的には同じだと思います。結局他人の価値観に影響を受けてしまっています。

 他人を意識してしまうと、自分の素直な受け取り方とは違うことを表面上思ってしまう場合があるので、自分が好きなことをしているつもりで、実は好きではないことをするはめになってしまい、好きなことをしていると回復するはずの心のゲージが、いくら頑張っても全然回復しないという迷路にハマってしまったりするのではないでしょうか?

 

 本を読んだ感想などは、本来、自分とその本の間の話であって、その本によって自分にどのような変化がもたらされたかを記録すればいいものだと思います。しかしながら、うっかりすると、その本に対してではなく、同じ本を読んだ他の人たちに向けての感想を書いてしまうことがあります。それは本に対する純粋な話ではなく、自分が意識しているコミュニティに対して、自分がどのようなポジション取りをするかを決定するために、言うことを決めるという人間関係の話になっていると思います。

 人間関係は人間関係で重要でしょう。でも、そのポジション争いのために、好きな本を好きでないといい、好きでない本を好きというようなことになったりします。そして、その判断があたかも正当なものであるかのように小理屈をつけて、自分の柔軟性を失わせてしまいます。そしてまた、自分に合う最高の本を探すより、自分が意識している人々がより多く言及している本を探すようになってしまったりします。それは、ただ本を読むことを楽しみたいだけなのであれば、間違った方法ではないでしょうか?ことによると、その本を読んでいないのに言及して、良いの悪いの言うというわけのわからない話になったりします。

 

 結局のところ、本を楽しく読みたいなら、ひとりで読んでいるのが一番楽しいと思っているのが最近の僕の感覚です。そうすることが、自分が感じたことに対して素直になり、無根拠な自己肯定に寄り添うということと親和性が高いからではないかと思います。

 

 一方、僕は相変わらず自己評価は低いままです。それは冷静に見れば当たり前です。なぜなら、自分の能力に対して、自分よりすごい人がすぐに目に入ってしまうからです。自分には大した能力がないと思います。それは事実なんですよ。そんな状況において、自己評価を高く感じるようにしようとするということは、要するに嘘やごまかしなので、それに気づかない努力をしなければなりません。でてきました、努力!頑張る!継続する!絶対にやりたくありません。

 

 僕は自己評価と自己肯定を切り離すことにしているので、自己評価が低いことは何も問題ではありません。僕は自己肯定感を高めるために、自己評価を高くする必要は全くないと思っているのです。むしろ、本当は大したことのない自己の評価を無理に高めようとすればするほど、その歪に飲まれて自己肯定感が落ちる可能性もある気がしています。つまり、自己肯定感を高めたくて、自分はスゴいぞ!とか、自分はこんなにも愛されてるぞ!とかそういうものを求めるのは、間違っているんじゃないかなあと思っているのです。

 なので、僕はそういうことをしませんが、最初に書いたように、僕はこの方法で今はたまたま上手く行っているというだけのことなので、他の人はどうかは分かりません。とにかく、それぞれの人が自分に合った方法を見つけるのがいいんじゃないかと思っていて、その目的に一歩でも近づく実感を感じながら、やっていくしかないような気がします。

 

 さて、自己肯定感を持ちたくて持てなくて困っている人がいたら、今この瞬間から持ってみましょう。できたならよかったですね。できないなら、残念ながらやり方が合わないので、別な方法を探すしかありませんね。