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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

作者と読者の共同作業としての読書体験の話

 何かの本を読んだとして、それが面白かったとか面白くなかったとか感じることがあるんじゃないかと思います。そのとき、その「面白かった」ということの手柄は誰にあるのか?「面白くなかった」ということの責任は誰にあるのか?ということを思うのです。僕は、それは作者にあり、そして読者にもあるんじゃないかと思いました。両方ということです。つまり、その読書体験を形作るのは、作者と読者の共同作業ではないかということです。

 言いたいことはこれで終わりですが、以下、もう少し詳しく書きます。

 

 ある本が面白かったとき、その本には読者を面白くさせる力があったということを意味します。そして、同時に読者にその本を面白がれる能力があったとも言えます。面白くなった場合も同様です。その本に読者を面白くさせる力がなく、読者に面白がれる能力がなかったのです。これらは学術分野の本などを例に考えれば顕著だと思います。

 ある専門分野における大変偉大な発見について書いた本があったとして、その専門分野の基礎知識や最近の研究動向が分かっていないと、そこに書かれている内容の意味や、その発見がどのような価値を持つのかということが理解できません。それがある視点からは本当に面白い本であったとしても、それを読み取る素養がなければ、その本は「わけのわからないことが書かれたわけのわからない本」でしかないのです。文章は前提知識のない素人にも分かりやすく書けた方がよいというのもある種の正しさですが、そのようなことを正しくしようとすると本の分量が増えてしまい、しかも、既に知っている人にとっては冗長な内容となってしまいます。

 例えば、大学で学ぶぐらい内容の数学の本があるとして、対象読者を数学を習ったことのない人まで広げるためには、中学1年生から高校3年生までの数学の話題を前提知識としてその本の中に含めなければなりません。しかしながら、その前提知識は普通の人が6年をかけて学ぶ分量ですし、さらに、それらの前提知識は一読しただけで理解してもらえるような卓越した文章力で書かれる必要があります。もし、誰でも一読しただけで高校までの数学が全て理解できる文章が簡潔に書けるのならば、学校で勉強などさせずに、それを読ませればいいという話になるので、そういうものを作るのは、ほとんど不可能と言っていいじゃないでしょうか?これは例としては極端かもしれませんが、このような構造自体はあらゆる本において存在するのではないかと思います。

 

 つまり、ある本を読むには、それを読むために最低限必要な前提知識があるということです。それが欠けていると面白く読むことができません。もしくは、その本の中の前提知識が必要な部分以外に面白さを見出すしかありません。このように前提知識をなしにその本を読んだとき、それを理解できないがゆえに「つまらない本」と評する人がいるかもしれませんが、さて、それは果たして本当に「つまらない本」なのでしょうか?

 

 安彦良和の歴史漫画、特に近代を扱った「虹色のトロツキー」「王道の狗」そして今連載している「天の血脈」が僕はとても好きなのですが、これらの漫画を最高に面白いと思って読めるようになったのは、実はここ数年の話なのです。子供の頃に読んだときは、主人公を中心としたドラマの部分は理解できたのですが、その周辺の歴史上の人物たちの描かれ方や、そもそもこの人はいったい誰なのか?ということに対する前提知識がまるで足りなかったため、読んでいるつもりで、実際はほとんど読み飛ばしてしまっていたということに、ある程度読めるようになってからやっと気が付きました。しかも、安彦良和先生は「みなさん、ご存じの」とでもいうような感じに何気なく当たり前に様々な歴史上の人物を登場させるのですが、「ご存じじゃねえよ」と、まるで「寄生獣」にあった、寄生生物の生態について熱心に語る学者の話を聞かされている人たちのような感じで読んでいたのが、つまりは少年の日の僕であるということなのでした。

 長年生きていれば、色んな本を読むことになり、段々と歴史についても情報が集まってきます。歴史のよいところは、ある種の二次創作の楽園のようなもので、同じ人物が様々な物語作品や、物語でない本に登場するということで、読めば読むほど、その名前と人物像が蜘蛛の巣のように縦横無尽に繋がっていき、面白さが加速していくという点があります。

 おかげさまで、再読した「虹色のトロツキー」や「王道の狗」は大変面白く、さらに「天の血脈」に至っては、別のライフワークでもある古代史との連携もあるので、その本単体でなく、より色んなものと繋がって面白く感じられるようになり、夢中で読んでいます。

 

 面白く感じられるまでにある程度の何かがないといけない本というのは、その本を売る商売で儲けたいという意味では不利でしょう。素養のある人にしか売れませんし、それが100人に1人の割合だとすれば、誰にでも分かる本よりも絶対数が100分の1の中で商売をしなければなりません。

 前提が必要な本とはある種の内輪ウケの本です。内輪ウケは、その内輪の外にいる人間には全くもってつまらないものだと思います。しかし、内輪の中にいる人間には最高に楽しかったりします。ある内輪があったとして、それに対しては内輪の中にいる人と、内輪の外にいる人がいます。そして、内輪の外にいる人には、内輪の中に自分から入ろうとする人と、内輪の中に決して入るまいとする人もいます。読者がどの立場で読むかによって、同じ本でも受け取り方が変わってくるというのが面白いところです。

 

 僕はこういう感じ方をするため、例えば何でもかんでも貶す評価をする感じの「毒舌批評家」みたいな人の感想などを目にすると、「この人は本を面白く読む能力があまりない人なんだなー」と感じてしまいます。それはその人の特性なので、それが良い悪いという話では別にありません。逆に、何を読んでも面白いという人であれば、面白く読む能力があり過ぎて、普通の人には面白いと思えない本に関する参考にならない感想を書くかもしれません。なので、どちらの感想の方が参考になるかを考えると難しいところです。

 

 しかしながら、今の世の中には、本に限らず読めるものが溢れてしまっているので、もしかすると、何を読むべきかという情報より何を読むべきでないかという情報の方が重宝される可能性があります。つまり、何でも面白いという人の意見は、無数に読むものを増やしてしまいますが、何かを読むべきでないという情報は選択肢を狭めて、結果的に何かを選びやすくしてくれるかもしれないからです。

 ということで、最近の情報過多な世の中では何かを面白がる能力があんまりない人が必要とされているのでは??ということを思ったのですが、僕自身は、自分が次に読む本を何にするかを決めるというのは、僕にとってとても重要なことで楽しみなことなので、特に他人の評価などを参考にすることはなく、自分で勝手に決めますし、他人の感覚は自分とは違うのだから、自分の選択を他人の感性に決めてもらうようなことはしません。なので、他人が何をどう読んでいようが、その感覚を僕に押し付けない限りはどうでもいいことだと思っています。

 僕はもっともっと浴びるように色んな本を読みたいので、もっともっと色んな本を面白く読む能力を身につけたいと思っていますが、色んな本がどんどん面白く読めるようになり、最終的には白紙の本をも大変面白く読めるようになったら、何かしらの究極の完成を見たような気もしますが、外部からは発狂したように見えるかもしれません。それはヤバい感じがするので、ほどほどにしておいた方がいいのではないかと思い直しました。

 

 STOP!発狂!読書の秋もほどほどに!!