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「教養がある」ということについて

 「教養」って言葉、人によって使い方が曖昧なので、もうちょっと具体的に言うと何かな?って思うのですが、僕が思うひとつの解釈は「目の前のものから情報を抽出する方法をどれだけ知っているか?」というところに関係しているのではないかと思っています。教養があると、目の前のものからより多くの情報を得ることができるようになるということです。

 

 例えば以下のような文があるとします。

「たかしくんは100円を持っていました。コンビニに行ってうまい棒を3本買って帰りました。めんたい味、タコヤキ味、サラダ味です。さて、たかしくんは今何円持っているでしょうか?(消費税は無視してよいものとする)」

 この文章の意味は一般的な日本人なら意味が分かると思いますし、答えは70円だろうと分かるのではないでしょうか?

 

 一方、以下のような文章ならどうでしょうか?

「パグメリダスは100ガルボを持っていました。ヘルゲネクに行ってマルメリダを3本買って帰りました。ディオマルク、アルファメド、ゲラベルクです。さて、パグメリダスは今何ガルボ持っているでしょうか?(ガルセーニョは無視してよいものとする)」

 たぶん意味が分からないと思いますし、答えることもできないと思います。意味が分からないのは当然で、この文章に出てくる単語は僕が今適当に考えたので、意味なんてありません。でも、文章は読めたと思います。なぜなら日本語の文法で書かれているからです。ここで言いたいことは、日本語を読めるということと、日本語で書かれた文章から意味をとるということには少し差があるということです。

 

 ひとつめの文章では、「たかしくん」という言葉からは日本人の男性、そして、言い方からして子供であることが示唆されます。しかし、「パグメリダス」という言葉からはそのような情報が得られません。ひとつめの文章と比較することで、人名らしきことが推測され、名前の響きからして古代ローマっぽいようなそうでもないようなイメージがあるかもしれません。でも、そんな人はいません。男か女かの推測もつきません。

 ふたつめのよく分からない文章がよく分からないことで、ひとつめの文章を読むときにも、実は様々な情報を事前に持っていなければならないことが分かります。円というのが日本の通貨単位であること、コンビニというものが色んなものを売っているお店のことであること、うまい棒が一本10円のお菓子で、様々な味があること、そして場合によってはその味がどんなものであるか(サラダ味は野菜の味がするわけではない)など、色んなことを当たり前の前提として持っていることで、ようやくこの文章の持つ意味が分かるのです。

 

 このような、「言葉に閉じ込められた意味」を適切に理解しうるだけの事前情報を持っているかどうかが、「教養がある」かどうかということのひとつの解釈ではないかと思いました。もちろんそれは文章だけに限らず、音楽や絵画など、あるいはスポーツ観戦などにも適用されるものです。目の前にあるものが一体何であるかということについての解釈をするための下地となる部分です。それは多くの場合、目の前にあるそれそのもの以外のところに関係していたりします。

 

 言語には法則があり、それらは「文法」として整理され、まとめられています。文法が分かれば、文章は読めるのです。しかし、文法だけでは、文章の構造は理解できても、その文章の持つ意味は充分理解できないことが多いんじゃないかと思います。特に自分が生まれ育った文化圏以外の文章を読むときはそうです。例えば英文法は学校で十分に習いましたが、英語の文章を読んでも意味が上手にとれないことがあるのではないでしょうか?「文章の中に登場する単語の辞書的な意味を全て理解していても」です。特に自分の専門分野外の論文や、外国の若者同士の会話などの意味なんかが取りにくいと思います。その場合、その英文が書かれた文化圏に対する教養が足りないのだと思います。単語という記号が分かっても、その記号が持つ様々な意味に対しての情報が欠けています。

 この世に存在する単語にはそれぞれ色々な社会的な意味が存在します。そして、それは時代や場所によって変わったりもするのです。そう考えると、普通は文章を書いた人の意図を完全に正確に読み取ることは難しいのではないかと思います。なぜならば言葉の持つ意味はおそらく人によって異なるからです。辞書的な定義はあるかもしれませんが、その定義が万人に共有され、そしてその定義のままに使われることは保証されていません。僕も今、「教養」という言葉の定義を勝手に設定してこの文章を書き進めています。

 

 僕はこのように「ある言葉」について、「自分はこういう意味で使っている」と改めて定義することが多いのですが、それが何故かというと、このような言葉が持つ意味のすれ違いによって、コミュニケーションがすれ違ってしまうことがあるからです。なので、他人と話が噛みあわないときに、「この言葉を僕はこのように使っています」と説明できるように予め整理しておくことで提示できるようにしておき、また、相手がどのように使う可能性があるかをよく考えておく必要があります。

 なぜなら、言葉の基本的な受け取り方の部分ですれ違ってしまうと、その先の会話に意味がなくなってしまうからです。であるからこそ、認識の齟齬をなくすためには、「当たり前」と思っていて、「事前に意味が共有できていそう」と思ってしまう言葉ほど、それを別の言葉で言い直すことで、相手と自分がどのようにその言葉を捉えているかを最初に明らかにしておいた方がいいように思います。

 

 例えば、ちょっと前に僕が考えた「暴力」の定義がこれですが、

 

 こんな定義をわざわざ考えたのは、実際に人を殴らなければ暴力ではないのか?という疑問があったからです。「暴力はいけないことだ」という合意の条件があったとして、では何を「暴力」として捉えるかの認識がすれ違っていては、「暴力はいけないことだ」と口で言いながらも、平気で「暴力」を振るってくる可能性があります。その行為はその人の中では矛盾しません。なぜなら、その人の中において、それは「暴力」ではなく別の何かなのですから。「物理的に殴ること」のみが暴力であった場合、「言うことを聞かないと殴るよ」と発言することは「暴力」でないことになります。となれば、殴られるのが怖くて言うことを聞く人たちがいたとして、その人は暴力に虐げられている人ではないことになります。僕はそうなると嫌だなあと思いました。

 そこで持ち出した理屈が、「選択肢を強制的に奪うこと」です。相手の言うことを何らかの理由で聞くしかないということを「暴力」と捉えれば、人の自由意思を無視した行為を全て暴力として認識し、否定することが可能になります。例えば「誰が飯を食わせてやっていると思っているんだ、子供は親の言うことを聞け」というのも「暴力」になります。こういうことを言いながら、「自分は子供に暴力を振るったことがない」と言う人に対して、このように定義することは反論になります。

 もちろん、「そんな定義はお前が勝手に考えたものだろう」というのも正しいと思います。そして、であるならば、相手には相手の考える別の「暴力」の理屈があるはずです。そこを明確に言葉にしてもらって、理解することで、自分と相手が何をすれ違っているのかが分かるようになります。こういうことができるのもまた「教養がある」という態度ではないかと思いました。それはつまり、相手の発する言葉の意味を、より詳細に正確に理解しようと努めるということです。

 

 このように、ある言葉に込められた意味を知らなければ、その言葉で構成された文章の意味がわからなくなったり、ある言葉を知っていたとしても、それが相手が使っている意味と同じかどうかが分からないと、正確に理解することができなかったりします。そして、人間の認知に限界がある以上、あらゆる分野において、それらを完全に把握し、「教養がある」状態に保つことは不可能ではないでしょうか。

 

 であるならば、教養があるかないかという話は、ある分野における知識を既に持っているかどうか以前に、自分がその分野において無知であることに気づき、知ろうとする態度が重要ということではないかと思います。

 自分が既に知っている意味だけで、目の前の何らかを解釈して終わりにする、というのは、誤解を深めたり、理解できないものを無視したりしてしまうという結果に繋がります。教養があろうとする態度をとり続ければ、いずれ、目の前にあるものには色んな情報が含まれていることに気づき、色んな解釈の仕方があることが分かるようになるはずです。

 

 例えば、自分が知らない文化の知らない文字で書かれた石碑を見ても、たぶんすぐに飽きてしまうでしょう。なぜなら、それに対する教養がないからです。書かれている意味が分からないからです。でも、教養がある態度をとっていれば、いずれ、その文字の意味が、背景となる文化が分かるようになり、意味が分かるようになるかもしれません。そうすれば、きっと、その石碑を見ても面白くなるんじゃないでしょうか。

 このように、教養を身に着けることで、今まで面白いと思わなかったものが面白くなるかもしれません。だとすると、教養があった方が得だなあと思います。実際、年齢を重ねることで、いくつかの分野における教養が昔に比べて少しは身につき始めてきました。そうなると、今まで目もくれていなかった色んな本が面白くなるのです。歴史的建造物を見たり、街並みを見たり、自然を眺めたりするだけで、子供の頃は気づかなかった色んなことに気づけて面白くなったりもします。

 多分、まだ知らないことが山ほどあって、そして、人間の一生はそれを全て知るには短いのでしょう。でも、たぶん歳をとれば今よりはより分かるようになると期待しています。そうなれば、年々目にするものの面白さが増していくのでしょう。そんな感じで歳を重ねていきたいなあと思いました。

 あれ、何の話でしたっけ。