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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「The Mark of Watzel」を読んだ僕について

 僕が前から思っているのは、感情とか感覚って記憶ができないなということです。「のどもと過ぎれば熱さを忘れる」という言葉のように、そのときいかに熱かったかというのも、時間が経てば忘れてしまいます。それはそれで合理的なことです。感情や感覚が完璧に記憶されていて、思い出すだけで完璧に再現されてしまうなら、痛さや辛さ、悲しいこと、時間が過ぎるにつれてそういうのが蓄積されてしまいますし、再現してしまうと痛かったり辛かったり悲しかったりしてしまいますから、そんなものは忘れてしまっていた方が都合が良いでしょう。

 昔の自分の日記なんかを読んで、当時辛いことがあって辛かったなんて書いていたとして、それを読んで思い出す辛さというものは、多分当時の辛さとはまた違うのだと思います。完全に再現されているわけではないということです。とても辛い境遇にいた人が、その後に成功するなりして幸福になったとき、あのときの辛さも自分には必要なことだったみたいに回想することができたりすることがあります。でも、それもきっと忘れているからです。だから解釈を変えることができるのであって、そのときの感情が完璧に保存されていて、頭の中で完璧に再生されてしまったら、あんなものない方がいい!!ってやっぱり言ってしまうんじゃないでしょうか。

 

 長い前置きにもうしばらくお付き合い下さい。上記のように頭の中の記憶や、自分で書いた日記なんかには普通は感情や感覚は閉じ込められないなと思ったのです。にもかかわらず、漫画を読んだとき、自分の感情が大変刺激されることがあって、怒ったり喜んだり悲しんだり、そんな感情が、この絵と文の中に織り込まれていて、それを読むたびに再生できることがあって、こういうのを今まで当たり前に体験してきましたが、よく考えればこれはすごいことだぞ!!なんて思ったりしたのでした。漫画には感情が記録されています。それはもしかすると自分の頭の中にある感情の詰まった箱を開ける鍵として機能しているだけなのかもしれませんが、紙にしみ込んだインクの特殊なパターンを見るだけで、人間の(少なくとも僕の)脳は化学反応を起こします。

 

 ようやくの本題ですが、先週に武富智の「The Mark of Watzel」の単行本が出たのです。この漫画がもう、1ページめくるたびに自分の中の感情がビンビンに刺激されてしまって、それが何故かは上手に説明ができないのですが、説明はできないけれど、僕自身の体験は事実なので、なんだかこれはすごいものだぞと思ったという話を書こうと思ったのでした。

 

 さて、この物語は脳腫瘍を患ったひとりの少女と、それを助けようとする3人の男たちの物語です。少女の病状は絶望的で、医学的にはもう手の施しようがありません。彼らの手に残ったのは「サイモントン療法」、患者に病気に打ち勝つイメージを持たせ、精神面からサポートすることで、患者自身の免疫の力で癌を乗り越える方法です。3人の男の内訳は、(1)少女の父親、(2)サイモントン療法を提案する医師、そして、(3)かつてのテレビのヒーロー「ワッツェル」を演じた、今では詐欺師まがいの元俳優です。

 部屋に閉じこもった少女の唯一の楽しみは、再々々々…放送の「ワッツェル」の活躍を観ることだけだったのでした。老いたワッツェルは少女の父親に雇われ、医師に言われるままに、少女の前に姿を現します。そして、彼女を襲う病魔を彼女自身に倒させるための、少女の頭の中で、想像上の「ワッツェル最後の戦い」に挑むことになるのでした。

 

 この物語の根幹は「人は自分自身を信じることができるのか?」ということではないかと思いました。ちなみに僕自身は全くそれができませんから、だからとてもこの物語が自分に響いたのではないかと思います。登場人物たちとの悩みの共有が簡単にできるからです。僕の今までの人生の中で、僕に一番期待したのはおそらく僕自身であり、それを一番裏切ってきたのもきっと僕自身だと思います。できるはずと思ったのにできなかったり、絶対にやるぞと心に決めても守れなかったり、そうありたい自分と、そうなれない自分とのギャップにさいなまれてきました。結果、自分なんて世の中で一番信じられないじゃないかというのが僕の正直な気持ちです。「GS美神」で横島が同じことを言っていましたが、歳を経るにつれてよく分かるようになってきました。

 しかしながら、本作でサイモントン療法を成功させるためには、その少女が自分自身が病魔に打ち勝つことを心から信じなければなりません。しかし、彼女はおろか、彼女にそれを薦める男たちも、それぞれがそれぞれなりに誰一人として自分自身を信用できないのでした。

 

 絶望の暗闇の中にいる人が、そこでかすかな光を見てしまったとき、思わずそちらに向かってしまうかもしれませんが、それはただの光であって、希望とは限りません。光に釣られてしまったがために、余計に迷ってしまうこともあるでしょう。わずかな光に手を伸ばし、それが希望ではないと分かったときには強く傷つきます。再び別の新しい光が見えても、もはや動くことができなくなるかもしれません。年齢を経るということは少なからずそういうものであるような気がしています。過去の痛みの記憶が、かつては持っていたはずの蛮勇さを殺します。もはや自分は信じられず、しかしながら、死にたいわけでもないので、自分自身が信用ならない同居人であったとしても、そんな自分自身と上手くやって生きていくしかありません。

 

 この漫画で描かれているのは希望と思いました。傷つき、疲れ果て、自由に動くことができなくなった人たちが、また歩き出せる過程を描いた物語です。病気の少女エリンには、目の前に現れた老ワッツェルは希望の光と感じました。老ワッツェルを演じる老俳優ジェイソンには、自分が一度捨てたワッツェルの姿を心から必要としてくれる少女の純真な眼差しが、曲がった背筋を再び伸ばす希望の光と感じました。手の施しようのなかった患者のため、手を尽くし、治療と続けようとする医師スズキはときに治療が上手くいかず、罵られ、それでも患者を助けたいと願います。妻を同じ病気で亡くし、今再び娘を亡くしてしまうかもしれない父親には、希望は毒かもしれません。希望を膨らませば、絶望が大きくなります。諦めている方が楽でしょう。それでも、娘の快復を願うのです。

 敵は病魔、そして自分を信じられない自分自身です。それぞれに傷つき、それぞれに絶望を抱えた彼らと彼女が、それでも病気に打ち勝とうと、心を尽くし、それゆえにさらに傷つき、それでも、前に進みます。ひとりでは無理でしょう。でも、みんなだからといって、上手くいくものでもありません。お互いがお互いを思いやることが、自分自身をさらに騙すことだってあります。そして、それが分かっていたとしても、実行できるとも限りません。では、最後の決め手は一体何なのか。

 

 …それは単行本でご確認ください。ひどい締め方ですが、僕には書けないと思ってしまいました。結局、僕には言語能力の問題で自分の体験を不完全な言葉でしか表現できませんから、自分が強く揺さぶられた絵ひとつについてすら、まともに書き記すことができませんし、それはもう漫画の方を読むしかないのだと思います。あと、これだけ面白い漫画が、たった514円+税で買えるんですから、みんな買って読むべきだよなあと思うからです。

 

 では、そういうことで。