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「ウサギ目社畜科」がめちゃ好き関連と僕の笑いの理論

 直近で、最近は何の漫画が好きですか?って聞かれたときに答えたのが「ウサギ目社畜科」です。今一番楽しみに連載を読んでいるギャグマンガです。

 

 ウサギ目社畜科は、月で労働していたウサギのふわみが、戦力外通告を受けたことで地球に落とされ、サラリーマンの主人公の家に飛び込んできたので、そこで働くことになった漫画です。

 ふわみは、月での無賃金の重労働を常識として感じており、地球にやってきても働かないことに不安を感じてしまいます。ふわみは、主人公を社長と呼び、月給1円の報酬で労働をすることになりますが、それすら非常に高収入と感じて日々生きているのです。そしてふわみの下には、同じく月から落ちてきて、ぶっ刺さった、もふこもやってきました。

 

 この漫画のどこが面白いかというと、とにかくふわみともふこの様子です。地球の働きたくない人類とは真逆の「ろうどうのよろこび」をビンビンに感じているふわみともふこは、彼女たちなりの常識で考えて沢山の労働をしますが、それらは、月の異常な常識に根付いているためにほとんどが的外れです。それに主人公は毎回のように怒ります。

 でも、ふわみともふこが一生懸命考えた結果なんですよね。面白いことをしようとしているわけではなく、その常識と常識のすれ違いが面白い話です。つまり、これは孫ですよ。孫を見るおじいちゃんの心境ではないかと思います。もしくは、インターネットで知り合いの子育てトラブルエピソードを読んでいる僕の気持ちともシンクロします。

 

 ただ、ふわみともふこが、人間の子供と違うのは、人間ではなく月からやってきたウサギであることです。その抱える常識だけでなく、生物としての生態も人間の常識ではない動きをします。つまり、僕はそれを知りません。だから、何が起こるかわかりません。とんでもない、めちゃくちゃな動きをしてしまい、それが異常なのに、ウサギ側からすると常識ですよいう雰囲気なのがたまらなくおかしいのです。

 

 笑いってどうやったら起きるのかなって僕は常日頃から思っています。なぜなら、僕は「自分が好きな人が自分の発言で笑ってくれる」ということがめちゃくちゃ嬉しいので、どうにかして、自分が好きな人たちを笑わせられないかな?ということばかり考えているからです。

 その試みは上手く行ったり行かなかったりしますが、僕の経験からの認識では、笑いは「不可解と可解の往復運動」の中で起きます。つまり、「分からなかったものが分かるようになった瞬間」と「分かっているつもりだったものが分からなくなる瞬間」が面白いわけです。

 

 なので、一見常識っぽいことを言ってそうで、話している内容をよくよく聞いてみると異常なことを言ってたりするのは面白いのでは??と思っていて、異常な内容を書くときには、できるだけ常識的で抑制的な文体で書くようにしてみたり、逆に、真面目な話を書いているときに、急に口調が変わった書き方をしてみたりします。

 その関連で言うと、「です・ます調」で書いている文章に、いきなり「だ・である調」の文章とか、さらにくだけた口語調の文章を混ぜたら面白いんじゃないのかな?と思ってそういうことも試しています。

 例えば、めちゃくちゃくだけた文体で書いていたのに、いきなり敬語になると笑える、みたいな感じがしていて、文の書き方では文体を統一するのが常識でしょ?みたいな感じかもしれませんけど、まぜこぜにした方が全然面白いんじゃないかと思うんですよね。

 

 あと、まったく無意味な言葉の繰り返しもしたりします。トートロジーとかも多用します。例えば「このパンはめちゃくちゃ美味いですよ!なぜなら、このパンは美味いので」みたいな文を僕って書きがちじゃないですか。

 これも、そういう理屈なんですけど、後段で理由が示されるかと思いきや、まったく示されないのが面白いんじゃないかなと思っていて、でもとはいえ、最初から「またいつもの無意味文章だろ?」と思われていたら、そうはならないですし、万人にウケるのは難しい。

 

 笑いがおもろうて、そして難しいのは、分かっているものがやってくるとそれはそれで面白いんですよね。「なんでも2回言ったらおもろい理論」です。これも、「不可解と可解」で説明はできて、つまりは「可解」を増やす理屈なんだと思っています。

 沢山の人を目の前にするとき、そのそれぞれの人が何を知っていて、何を知らないかを事前に全て理解することができません。なので、会話の中で最初に登場したものを、あとでもう一回言うと、それは知っているものとして処理できますから、「可解」を植え付けることができるんですね。そうすれば「不可解」に移動したときや、「不可解」から戻ってきたときに面白くなっちゃうわけです。

 プロの芸人さんとかはそういうコントロールがめちゃくちゃ上手いので、めちゃくちゃすごいなあと思って尊敬しています。

 

 いつもの仲間たちが話し相手であれば、それぞれの人が何を知っていて何を知らないかが分かるので、それに合わせて適度に不可解を混ぜていけばいいですけど、知らない人が相手だと、そもそも何を言えば相手にとって不可解か可解か分かりませんからね。だから、笑ってもらうのがめちゃくちゃ難しいわけですよ。

 

 往来で、いきなり大声で無意味なことを叫ぶ人がいたとします。これは笑いでしょうか?異常者ですよね?でも、相手のことを知っていて、常識で捉えていれば、いきなり異常な叫びをすることが笑いに感じられるかもしれません。でも、相手が知らない人でそもそも異常なのでは?と疑っていれば、その異常さを補強するだけなので、怖くなってしまいます。

 そのために、お笑いはコンビ芸の人も多くて、常識を担うツッコミの方の人が不可解にツッコミをして、可解に戻したりをしているわけですが。

 

 なんかそういうことを常々思っていると、「ウサギ目社畜科」のお話は、そういう僕が感じている面白理論に満ちているなと思っていて、人間の常識で捉えようとするとウサギだし、けなげなウサギたちを理解しようとうっかりしちゃうものの、あ、こいつら異常者やんけと引き戻される瞬間があって、分かるものと分からないものの狭間で、ぐわんぐわん揺らされるのがめっちゃおもろいんですよね。

 

 テレビ番組で言うと「あらびき団」のような…、僕は「あらびき団」がめちゃくちゃ好きなんですけど、あれはツッコミの番組だと思っていて、ライト東野とレフト藤井がツッコミ役として存在していることによって(あとはスタッフの悪意ある編集によって)、単体で見せられるとどうしたらいいのか分からない不可解なものだとしても、しっかり可解の方に引き寄せられて、行ったり来たりできるのが面白いです。

 常識人がいるからこそ、異常な存在が引き立ち、異常な存在があるからこそ、常識人の役割があります。そして、ふわみともふこがめちゃくちゃ可愛いので、うっかりそっちを理解したくなっちゃうところが、ポイントな気もするんですけど、でも、理解できないんですよ。だって人間じゃなくウサギなので。

 

 というようなことを書いてみましたが、僕が何を面白いと思っていて、どのような理屈で喋ったりしているかを書いてしまうと、今後僕が喋ったりするあらゆる不可解なことが、最初から可解になってしまってつまんなくなってしまうかもしれませんね。しかしながら、そこには隙があり、これが理解する対象なんだろと皆さんが思ったときに、それとは別の理屈を突き付けると笑えるわけでしょ?

 

 まあ、そんな感じに分かったり分からなかったりしてくださいよ。

「天気の子」が「甘い水」のオルタナティブっぽく感じた関連

 天気の子を公開初日に観たんですが、その物語の最後に至るにつれて僕の記憶の中からのっそり出てくる漫画がありました。それが松本剛の「甘い水」です。

 

 「甘い水」は、父親の命令で家族を支えるために体を売らされる少女と、閉塞感のある田舎町で外に出る自由を夢想する少年の物語です。

 この物語は、「しょうがない」と戦う物語でもあります。少女の心の中には諦めがあり、起こってしまったことを受け入れる「しょうがない」と、それがこの先も続いていくことを受け入れる「しょうがない」が存在します。体を売ることは嫌なことではあるけれど、それを、好きな男の子に知られてしまうこともとても嫌ではあるけれど、自分がその様々を「しょうがない」と我慢して受け入れることが、今を続けていくためには必要だと、少女は思ってしまいます。

 少女のそんな様子に、そして彼女をそう追いこむ様々に、少年は怒りを覚えます。しかしながら、少年は無力です。自活することもまだできない少年です。だから、好きな少女とその妹を養うこともできやしません。それでも、目の前に起き続けている悲劇的な状況が、そのままであり続けることを受け入れることができなかった少年は、少女を解放するために暴力を辞さない覚悟で動きます。それは成功し、そして失敗します。

 少女を助けることができた成功と、まだ無力な少年には彼女たちと伴に生きていくことができなかった失敗です。彼女たちは安全に生きる場所を得るために大人たちに連れられて遠くに行ってしまいます。それは少年時代の彼に淡く苦く、少しだけ甘い記憶として残る物語です。

 

 そういえば、「甘い水」というタイトルには「agua doce」とも書かれていて、これは調べるとポルトガル語です。「agua」は「水」、「doce」は「甘い」ですが、繋げると「淡水」という意味があるようです。この漫画が、なぜこのタイトルなのか、僕はイマイチ得心のいく答えを持っていませんが、淡水→混じり物の少ない純水に近い水という意味なのかもしれません。つまり、しがらみという混じり物を排除した、純粋な気持ちが存在するという意味として。終盤に登場する、逃げ出した先で少女の手から少年が水を飲むシーンがそれを象徴しているとも解釈することができますね。

 他の解釈では、「こっちの水は甘いぞ」というホタルを呼ぶわらべ歌も思い当たります。ホタルが光るのは求愛行動のためと聞きますから、これは少年と少女になぞらえられるかもしれません。その場合、甘い水とは、惹かれ合う2人が誘われる先ということになります。

 

 さて、「天気の子」ですが、僕は「甘い水」に通じる部分が沢山あると感じました。「天気の子」も少女と少年の物語です。少女には責任が存在し、それゆえの「しょうがない」があります。周りのみんなのためを思うならば選択肢などないのです。しかしながら、彼女がその責任を背負うことになったのはたまたまです。つまり、彼女でなくてはならないいわれはないのです。それでも、彼女はその責任を全うすることを選びました。でも、少年はそれに怒りを覚えるわけでしょう?当然ですよ、しょうがなくなんてないのだから。

 何の責任もいわれもなかったはずの人間が、それが一番いい選択だからと、他人の幸福の肥料として食いつぶされていく状況に、もしかすると人は普通は慣れてしまうのかもしれません。犠牲となる人数が少なく縁遠く、益を得る人数が多く近しければ、人間は簡単にそれを受け入れてしまったりするのではないでしょうか?

 

 例えば、自分たちが購入している商品が、あるいは日々利用しているサービスが、どこかの誰かの心をすりつぶすような犠牲によって支えられていたと知ったとしても、人は割と受け入れてしまうんじゃないでしょうか?全員を助けることはできないとか、そんな状況に至ったのは個人の努力の問題とか、ただ運が悪かったとか、何かしらの理屈をつけて正当化し、それらをしょうがないと受け入れていったりするじゃないでしょうか?それは他人にそう仕向ける側でもそうかもしれませんし、それを他人に仕向けられる側でさえもそうかもしれません。

 でも、少年は蛮勇です。まだ少年であるがゆえに蛮勇です。見える範囲が狭く、背負うものが少ないからかもしれません。でもだからこそ、皆のために人知れずその身を犠牲にしようとする少女の姿に対して、たったひとり明確なノーを突き付けることができます。

 

 「甘い水」では、その結果に至ったのは別離であり、その直前の一瞬の純粋な時間だけを抱えてその後の人生を生きていく結末となりました。でも、燻っているわけじゃないですか。少年が望んだものは、それだけじゃなかったと思うからです。力及ばずと納得して、記憶の中に埋もれていくことが最良の結末ではないんじゃないかという気持ちがそこにはなかったでしょうか?

 そして、「天気の子」では違います。少年は少女に会いに行きます。少し大人になって会いにいくわけですよ。ただ、「甘い水」の終わり方が悪いわけではなく、僕はあちらもとても好きです。でも、やっぱり燻りは燻りでそこにあったわけですよ。そうではない未来だってあってよかったのではないか?という燻りが。

 それを「しょうがない」と思わなかったのか?ということです。

 

 なので、「天気の子」の終盤にさしかかったあたりで、十何年も前に読んだ漫画のせいで自分の中にあったその燻りがひょっこり顔を出したように思いました。ああ、僕はこんな光景も見たかったんだなと思ったからです。

 

 これは、ヱヴァンゲリヲン新劇場版の破を見たときにも思った感情です。「私が死んでも代わりはいるもの」と言う綾波レイに、「違う、綾波はひとりしかいない」と口にした碇シンジを見たときに、最初にその「代わりはいる」という言葉を聞いて十何年も経ってから、ああ、これも見たかったなと思ったからです。

 そして、そうすることがその場の全員に共有できる正しいことではなかったということも、「天気の子」と通じているかもしれませんね。

 

 ネットの他の人の感想を見てみたところ、「天気の子」からはそれぞれの人が、過去の自分の経験から、色んなものを引っ張り出してあれと同じだとかあれと違うとかいう話をしています。それはひょっとすると、そこにある感情が、ある種の普遍的なものだからなのかもしれません。

 色んな人が、それぞれの経験の中で、同じ感情を別々の作品や自分自身の経験から得ていて知っているのかもしれないということです。そして、映画を観て、その感情を知っているよと言われているような気がしたのではないでしょうか?

 僕の場合はそれが「甘い水」だったということです。

 

 松本剛の「ロッタレイン」の1巻が発売されたとき、帯が新海誠でした。そして、「甘い水」に強く衝撃を受けたということも語られていました。その覚えもあったことから、ああ、仲間だなというような勝手なシンパシーがあったような気がします。

 十何年前の僕らは、胸を痛めて「甘い水」なんて読んでたわけじゃないですか。そのときに同じ気持ちになった人が、これを作ったんじゃないのかなと思ったからです。

 

 だから、なんか良かったな、と僕は思ったわけです。

せがわまさきの「ドロップランダーズ」の話数を毎月確認しています関連

 半年ぐらい前の月刊ヤングマガジンに、せがわまさきの「ドロップランダーズ」の「前編」が載りました。そして、その次の月に、僕は「後編」を読む気まんまんで雑誌を開くと「中編」が載っていたのです。

 なるほどー、と思いました。「前編」の後に「後編」ではなく「中編」があるのはたまにある話です。一話多く読めるので、これは儲けたもんだと思いました。

 

 人から聞いた話では、本の「上巻」と「下巻」をセットで買ってみたものの、話の繋がりが何かおかしいぞと思って確認したら、実は「中巻」があったことに気づかなかったというものもあります。世間でもよくあることなのかもしれません。

 

 これは先入観に囚われてしまっていたという話でしょう。「上」の次には「下」に違いない、「前」の次には「後」に違いないという思い込みが生んだ心の隙です。そのような隙を突かれてしまい、驚いてしまうということが人生にはあります。僕はこのような隙をもう見せることはないと思いました。なぜならもう気づいてしまったからです。気づいてしまったからには隙はもうないのです。

 

 そして、その次の月の雑誌に載っていたのは「中編2」でした。そして、「中編3」「中編4」と続き、今月号には「中編5」が載っています。

 

 もう騙されません。この調子で中編が続き、最後には後編が来て終わるのでしょうか?その考えもまだ先入観に囚われていると言っていいでしょう。なぜならば「後編2」が来る可能性があるからです。もう絶対騙されません。騙されたくない!!

 

 そんなわけで、ここのところ毎月、月刊ヤングマガジンを開いては、まずはドロップランダーズの話数を確認しています。

「双亡亭壊すべし」と「サユリ」と「パックマン」に見る、非対称な関係性が生む恐怖について

 「双亡亭壊すべし」の坂巻泥努さんがすごく好きなので、今週のサンデーなど、泥努さんがとても魅力的に描かれている回は、めちゃくちゃ楽しくなってしまいます。

 双亡亭壊すべしは、足を踏み入れたものを不幸に陥れる謎の建物「双亡亭」を巡るお話で、連載が進むにつれ、その正体が何であるかということが明らかになっていきます。

 

(ここからネタバレがあるので、未読の人は判断して読んでください)

 

 さて、双亡亭に巣食う者の正体は、遠い異星よりやってきた侵略者です。彼らはある星を食い尽くしたのちに、次のターゲットとして地球にやってきました。そのゲートとなる場所にたまたまあったのが双亡亭です。しかしながら、彼らにとって不幸であったのは、その風変りな建物に住んでいた絵描き、坂巻泥努という男が、人智を超える強大なエゴを持った存在であったことです。

 水で満たされた異星よりやってきた侵略者たちは、地球の空気に含まれる窒素を弱点とします。彼らは地面から染み出る水の中にその身を隠し、双亡亭に現れます。彼らは窒素からその身を守るために、人間の体も利用します。その心を恐怖によって破壊し、その隙間に入り込むことでその体を奪ってしまうのです。

 彼らは当然のように泥努の肉体も奪おうをしました。しかし、それは失敗してしまうのです。なぜならば、泥努の心はそんなことでは壊れなかったから。侵略者に支配されなかった泥努は、逆に侵略者たちを支配してしまいます。そして、彼らを自分の思った色を映す絵具として使い、時間の流れも曖昧になった双亡亭の中で、絵を描き続けているのです。

 

 人間の心を破壊するために恐怖の感情を使う、脅す側だったはずの侵略者が、凡百の人間たちがその恐怖に心を破壊され、思うがままに動かされ続ける哀れな人形に仕立てられてしまうにも関わらず、泥努に対しては、逆に脅されてしまうというところに、ある種の痛快さがあります。

 

 さて、この構図に思い当たる他の漫画として押切蓮介の「サユリ」があります。

 

 こちらは家に憑りついたサユリという霊が、そこに引っ越してきた家族を理不尽にも呪うという内容の漫画です。ホラーでありがちなように、家族は次々をサユリに呪い殺されます。そして、残るは主人公とボケた祖母だけになりました。しかしながら、次は自分たちかもしれないという恐怖の中、すっかりボケていたはずの祖母が突如として正気をとりもどすのです。それだけでなく、自分の家族を殺したサユリに対して復讐の宣戦布告をするのでした。

 祖母と主人公はサユリの抱える因縁を明らかにしながら、逆にサユリを精神的に追い詰めていきます。今までなすすべがなく、あちらからは攻撃できても、こちらからは攻撃も防御もできないような非対称な関係が逆転し、無理やりこじあけた隙間から、サユリに怒りのこもった攻撃を当てられるようになります。すると、それまであんなにも恐ろしい存在であったサユリは、弱々しく哀れな存在にも見えるようになってきました。

 サユリの強さは、自分には攻撃が当たらないという非対称なルールという虚飾に守られたものでしかなかったように思えるようになりました。対等に殴り合うならば、それほどではないのです。

 

 「サユリ」と「ばあちゃん」、「侵略者」と「坂巻泥努」の関係性は似ているように思います。一方的に殴られるだけだった非対称な関係性を、逆転し、こちらから殴ることができるように転換させられるほどの巨大なエネルギーを抱えた存在のすごさです。

 

 それはあるいはゲームの「パックマン」にも似ているかもしれません。敵に触れば死ぬ状況で、追われて逃げるしかないはずの関係性が、パワーエサをとることで逆転します。今度は今まで自分を追いかけてきた敵たちが逃げ回る番で、こちらが接触すれば食べることができるようになるのです。

 それは痛快な話だと理解できるでしょう。しかしながらそれは、自分を苦しめていたものと同じ感覚を自分が追体験してしまうという倒錯したものでもあるかもしれません。なぜなら、自分がその一方的な蹂躙を楽しいと感じるのであれば、自分がそれまで苦しめられてきたことも、相手からすればただ楽しかったのかもしれないと思えてしまうからです。

 

 いや、泥努やばあちゃんはそんなことを感じないかもしれませんが。

 

 もしかすると恐怖とは、それに対する抵抗不可能性と密接に関係しているのかもしれません。敵を殲滅できるほどの弾薬が供給されるようになった頃の「バイオハザード」では、弾薬の節約のためにゾンビから逃げるしかなかった頃よりも恐怖心を感じずにプレイできるようになっていたように思います。

 坂を下るとき、ちゃちなブレーキしかついていない自転車と、しっかり止まれるバイクでは、同じ速度で下っていても、感じる恐怖心が全然異なります。それは恐怖心の源泉が速度そのものではなく、止まれるか止まれないかと関係しているからではないでしょうか?

 

 人が恐怖と対峙するとき、それは、自分には抗うことができないかもしれないものと目を合わせることと似ていると思います。恐怖を克服するとは、それに抗えるようになったことを意味するのかもしれません。

 

 双亡亭壊すべしでは、泥努の存在によって、当初侵略者たちの持っていた恐怖は薄れてきたように思います。なぜなら、侵略者たちも無敵の存在ではなくなったからです。しかしながら、今度は泥努が、双亡亭を壊すべしと訪れる人々にとって、抗うことができない恐ろしい存在として立ちふさがります。そこに立ち向かえるのは、抗うことを諦めず戦うことを選ぶ「勇気」かもしれません。もしくは、相手を「理解」することで、自分を脅かす存在ではなくしてしまうことかもしれません。

 

 双亡亭壊すべしでは、絵描きの凧葉が、絵描きの言葉で会話するときだけは、泥努の持つ恐怖が薄れるような印象もあります。戦って打ち倒すことと相手を理解すること、どちらの先に、双亡亭壊すべしの結末があるこかは分かりませんが、僕はなんとなくそういうことを思いながら連載を読んでいます。

批判は何も生まれない?関連

 インターネットに何かを書いたり、何かを作って公開をしたりすると、反応を得られることが増えてきた感じがします。

 

 僕はずっとポリシーとして、「趣味でやってることについては他人の反応を無視する」ということを心がけていて、それは、自衛のためでした。なぜなら、僕は自分の振る舞いが他人の目にどのように映っているかを過剰に気にしてしまう子供時代を過ごしてきたからです。他人の目に良く映ろうと思い過ぎるのがしんどくて嫌だったんですよね。頑張り続けることもできず、他人の目に映らないように行動したりして。

 ネットでも他人の反応を見始めてしまうと、それに応じて、自分側の出し方を色々変えようとしてしまいそうなのが怖いと思っていました。だって、それはそのうち、「他人に怒られない」とか、「他人に良く思われる」ことを基準にして自分の立ち振る舞いを決めることになると思ったからです。つまり、自分の行動を全て他人が決めることになります。なんで他人の思う通りに生きなければならないのでしょうか?

 その相手が、自分が大切に思っている人たちではなく、ネットで目にする知らない人たちであるとき、その意味はないなと思っていたんです。自分がしたいことをしたいようにする自由さの方がよほど大事だと思っていました。いましたというか、今も思っていますが。

 

 でも、ここのところ、なんらか話題にしてもらえるタイミングがいくつかあったので、エゴサとかをするように頑張ってみました。届いた感想も全部読みました。そしたら、さすがにもう中年になって若い頃ほど感覚が鋭敏でなくなってしまったのもあるのか、意外と平気だったんですよね。あれ?なんか平気になっているなと思ってびっくりしてしまいました。

 僕は褒められるのも貶されるのも見たくなかったんですよ。褒められたらより褒められるように振舞わなければならないとか、貶されるなら貶されないように振舞わなければならないとか、自分がどうしても思ってしまっていたからです。

 でも、今は「ああ、この人はこう思ったんだな…」と思って、それで終わりになりました。

 

 褒めるとか貶すとか、それは結局「その人が持つ価値観」と、「その人が比較対象として見ている何らか表現」との差分でしかないんじゃないのかなと今は思っています。

 作った人が、その人が自身で抱える価値観をガイドラインにして良しとなるものを作ったとき、それとは異なる価値観を抱えた人がそれを見ると、自分の価値観と「合致している」とか、「異なっている」ということに気づくはずです。

 甘い食べ物が好きな人が、甘い料理を作ったとき、辛い食べ物が好きな人がそれを食べると、これは辛くなくて甘すぎると思ってしまうでしょう?それだけのことだと思います。甘いものが好きなら、「甘くて良い」と思いますし、辛いものが好きなら、「これは辛くないので良くない」と思ってしまいます。仕方ないじゃないですか。自分が辛いものが好きなのを無視するわけにもいきません。

 

 もちろんそれだけの話だけではなく、人は何らかの作品に出会うことで価値観を変化させることがあります。それまで甘いものが好きではなかった人が、とても美味しい甘いものに出会ったときに、甘いものが好きになってしまうかもしれません。そのように個々人の価値観は流動的で、自分の人生のどのタイミングで何かの作品に出会うかで、その感想は変わってしまうかもしれません。

 

 ただ、それでも、結局その場その時に限定してみれば、何かの作品にであって思うことは、その場その時の自分の価値観と合っているかどうか?ということだと思います。つまり、自分の話なんですよ。その価値観が、世界の全てで共有されている唯一無二のものであることはありえないんですから。

 誰かが作った何かが、自分の感覚と合致しているとか異なっているとかを表明することが、褒めるとか貶すなんじゃないでしょうか?それはあるでしょうし、それを表明することも別に悪いことじゃないですよね。

 

 さて、僕が作ったものに対して、批判的な意見があったとします。僕はいつからか上記のように物事を解釈するようになったので、「ああ、この人は僕とは異なる感性を持つ人で、それを教えてくれているんだな」と思います。

 その上で、その人に褒めてもらいたければ、その人の感覚に合わせたものをその後作るでしょうし、特に褒めてもらいたくなければ今まで通り自分の感覚に即したものだけを作ると思います。これが趣味ではなく、商売なら、どれだけの人の感覚に即したものを作れるかも重要な要素となってくるかもしれません。なぜなら、より多くの人に受け入れられる価値観に即しているかどうかが、自分の報酬に跳ね返ってくるからです。

 だから、他人の感覚に即して物を作ることも別に悪いことじゃないですよ。僕も仕事では、他人に頼まれたものを、他人に喜んでもらえるように作っています。ただ、世の中には全ての人間で共有されている価値観はないということで、人間の数だけある価値観の中で、どれに合わせたものを作るかは、作る側に選択権があると僕は思っているんですよ。

 

 「世の中には批判ばかりが溢れていて、そのために作る側が萎縮してしまうのは良くないから、もっと褒めるようにしよう」というような意見を目にします。一方、「世の中にはぼんやりと褒めるような意見ばかりで、もっと適切に批判がなければ良くならない」という意見も同時に目にします。

 そのそれぞれは、それぞれの発言者の主観において正しい認識なんだと思います。ただ、目の前に自分の価値観に合致した作品があるなら、それに対する批判を不快と捉えてしまうかもしれませんし、目の前に自分の価値観と異なった作品があるなら、それに対する賞賛を不快と捉えてしまうかもしれません。

 つまり、同じ話をしているわけです。今目の前にあるものが、自分の価値観と合致していて欲しいという願いの話です。そして、それが他の価値観に邪魔されず続いてほしいということでしょう。

 

 だから、「批判があったっていいじゃないか」と僕は思っています。その矛先が僕に対して向けられるものでもです。なぜなら、それは発言者のある種の悲鳴のようなものだと思っていて、その作品が自分の方を向いてくれていないということが不快だったり、悲しいんじゃないかなと思うからです。だから、もっと自分の価値観に合致したものを作って欲しい!と主張してしまうのではないでしょうか?

 そして、その願いを聞いて、そのようにするかどうかは作る側の判断です。聞いてもいいし、聞かなくてもいいでしょう。

 これは褒める場合でもそうです。あなたの作るこれが良かったからこのようなものを今後も作って欲しいという願いが届けられたとき、そのように作り続けるかどうかは作る側の判断です。もし、それを裏切るようなものを次に作れば、それまでの賞賛は、一転批判に変わるかもしれません。

 だから、きっと賞賛も批判も実は同じことだと思っています。価値観の話です。そして、繰り返しますが、世の中には共有される唯一絶対の価値観があるわけではありません。だから、その違いが、生じることは自然で、それが表明されることも悪いことではないと思っています。

 

 だから、批判ばかりでは何も生まれないわけではないということはないでしょう。その批判をしている人たちが、そういう価値観で生きているんだなという理解が生まれるからです。

 しかしながら、その批判は、そして賞賛も同様に、立場の表明でしかなく、それをしたところで、対象の作品やら人やらが、その批判や賞賛に合わせて行動しなければならない理由は基本的にないと思うんですよ。自分が出資して作って貰っているとかなら別ですが。

 僕が嫌だなと思っていることは、自分がその価値観の合致や相違を表明しているのに、相手にそれに合わせてもらえないとき、どれだけ主張しても相手がそうならないことが怒りに変化してしまうことです。怒りによって相手に精神的な重圧を与えることで、そこから逃れる動きを利用して自分の思い通りに相手を動かそうとすることは、相手の自由意志の否定であって、とても、暴力的な話だなと思うからです。それはやっぱり嫌ですね。

 

 ともあれ以上の理由から、何かを作っている人は、その作品に対する批判賞賛に対して、その批判賞賛は話者個人の価値観の表明であると認識して、間違っても世界の全てだと誤認しない方がいいんじゃないかと思っています。そして、そこで表明してもらった個々人の価値観に、自分が合わせたいかどうかを考えるという一拍を置くと楽な気持ちになるんじゃないかと思っています。

 また、批判も賞賛も価値観に多様性があり、そこに違いがある以上、自然に生まれてくるものなので、その表明は妨げられるものではないだろうなと思います。

 

 何かを賞賛ばかりしている人は、世間に溢れているものが自分の価値観と合致していて楽しいんだろうなと思い、何かを批判してばかりいる人は、世間に溢れているものが自分の価値観と相違していてしんどいんだろうなと思います。

 そういうものだなと思うことで、自分が作っているものに対する反応も、なんか他人事のように思えるというか、実際他人事なんだろうなと思って、それが自分がいつの間にか他人の反応が平気になってしまっていた理由なのではないかと思いました。

漫画を読み返して以前と違うことを思う関連、あと痛みが怖いという話

 ここ数日、「Dr.コトー診療所」を読み返しています。で、17巻にこのようなセリフがあります。

 

「痛み」は、人間のすべての気力を失わせる。楽しむ、喜ぶ、働く、生きる… …

その気力すべてを奪って、人の一生を「痛み」に耐えるだけのものに変えてしまう。

 

 これは鳴海という医師の言葉で、ある患者の手首を切断する手術をするかどうかの話の中で登場する言葉です。手や足を切断するということ、それは生きるために必要であったとしてもショッキングなことです。コトーは、その手術の技術によって、普通なら切断するような状態でも温存することができるかもしれません、 しかしながら、完全に元どおりにすることは困難で、ただ残しただけで上手く動かない体は、むしろ人の生活に不便を生じさせてしまうかもしれません。

 自身も右足の切断を経験し、義足の使用して生活している鳴海は、むしろ切断の方がいいと主張し、それはコトーの判断と対立してしまいます。

 

 連載時にこのくだりを読んだ時、コトーが正しく鳴海が間違っているというような印象で読んでいたように思います。この先の展開でも、鳴海の方が正しいというふうにはなりません。自分が抱える幻肢痛の痛みを、再建可能かもしれない他人の四肢を切断する判断をすることで誤魔化そうとするような鳴海の姿が描かれ、そして、その幻肢痛の原因自体は、切断するという事実とは関係ないことで取り除かれます。

 

 しかしながら、終わりのない痛みが続くことと、それによって気が狂うような気持ちになってしまうことについては、今読むと分かるような気持ちになりました。それは、自分がそれを経験したからです。

 歳をとってきたことから、たまに病気をやることがあり、それによってすごく痛いことになったりしました。そのときは、何日もの間、痛みが断続的に来ることで、眠ることもままならず、ひたすら呻いているような状態で、たった数日で、生きる希望が失われたりした気分になりました。

 生活する上で、何も困ったことはなかったわけです。あらゆることが順調で、将来の不安も特にないぼんやりとした毎日でしたが、それでも終わらない強い痛みが少しの間続いただけで、全てがおしまいのような気分になります。健康ですよ。健康がすごく大事です。

 

 鳴海は悪い医師だったし(その後改心しますが)、彼は嘘を並べ立ててとんでもないことを巻き起こしてしまったりもしますが、それでも、彼が「痛み」について語ったことは、何も間違っていないし、僕自身の経験と照らしても、真実だなというような気持ちになったりしました。

 彼は彼なりに苦しんでいたということが、自分の経験が合わさることで、分かるような気持ちになったということです。

 

 物語は、人が物語を描くということで終わるのではなく、それを別の誰かが読むことでようやく完成するものなんじゃないかと思っていて、どんなに素晴らしい物語があったとしても、それは100人が100人素晴らしいと感じるものではなく、読む側にそれを解釈する素養がなければ届かないものだなというふうに思います。もしかすると、世の中には100人のうちの1人しか上手く理解できないものもあるかもしれません。でも、それが99人が分からなかったとしても、1人が分かるなら、それはその1人にとっては掛け替えのないものだったりすると思うんですよね。

 年齢を重ねることで、経験が増え、解釈できるものも増えたように思っていて、だから、大人になってから読んだ方が面白い漫画なんていうのもすごくたくさんあるわけです。歳をとると目が肥えてきて、面白がれるものの範囲が減る、というような話も聞くんですが、別にそうとは限らないというか、昔は面白さがよく分からなかったものについても、今は分かると思うことがよくあります。

 

 なんかまたややこしいことを書き始めてしまいましたが、そういうことではなくて、「痛み」マジやべえよ…という気持ちがあり、ちょっと痛いだけで、あらゆる人生の調子よさが徹底的に破壊されてしまうみたいな気持ちがあり、そんだけ痛いときに何か言われたら、僕はめちゃくちゃ嫌な人間になってしまうだろうなという想像があります。

 極限状態になったときに人間の本質が出てくるみたいな話もありますけど、ほんとそうか?と思っていて、めちゃくちゃ痛いときに、何か言われて、めちゃくちゃ痛いがゆえに余裕がある対応をできなかったときに、それがお前の本質だ!!とか言われたらめちゃくちゃ嫌じゃないですか?もうほんと嫌なんですよね。痛いの。

 

 だから、鳴海先生、僕はめっちゃ言ってること分かりますよと思いました。痛くない感じに生活していきたいと希望しています。

自分の思考方法がまったく論理的じゃない関連

 「論理的な思考能力が重要」みたいな話があると思うんですけど、困ったことに僕は日頃から全く論理的に思考をしていません。「元になる何か情報があって、それを信頼できる論理をガイドラインにしながら筋道立てて展開していくことで最終的に結論に至る」とかではなく、初手でいきなり結論を得ています。

 とりあえず結論を得てから、それを正当化するための適当な理屈を選び、それっぽく装飾して話すのが僕の日常的なやり方です。理屈なんて後付けの嘘です。言わば詐欺師ですよ。

 

 でも、僕が思うに、これが多くの人の基本的な思考形態です。神秘的なのは、なぜ最初にいきなり結論を得られ得られるかということです。今のところの僕の解釈では、そこには利害関係が強く関わっています。つまり、自分にとって一番都合がよいと思われることを無意識に選び取っているんですね。一番利が大きく、一番害が少ないものが、その結論と近いはずです。そして、その自分が得するはずと思った結論を、あたかも場にいる全員が得をするとか、一番正しいことだとかという風に飾り立てて、皆もそれにしようよと騙していったりするわけです。

 

 あたかも自分が、論理を使ってそこに辿り着いたかのように説明する人は沢山いますが、僕の偏見では大半は実はコレじゃないかと思っています。論理は後付けで、それもパターンマッチングです。それっぽい理屈をあらかじめ色々用意しておいて、それに当てはまりそうなものを適当にピックアップして、ほら、これで辻褄があるから正しいでしょう?って言ったりなんかするわけです。でも、そんなもの多くの場合、全くに虚飾で無意味ですよ。それっぽいだけで再現性もなく、論理の接合部分を適当に誤魔化し、データも適当に都合がいいものだけピックアップしてこじつけているだけで、茶番であることがとても多い。

 その証拠に、自分が抱えている結論に合致している事例が出てくると、人は反射的に喜んでしまいます。その事例にどれほどの信憑性があるかどうかの検証もせぬままに、その事例を根拠にすれば、自分にとって都合がよい結論に至れることが分かれば、拙速に引用してしまったりします。ちゃんとした論理じゃないんですよ。その場その瞬間だけ妥当性があるように見せかけられればいいということを優先させてしまうから、人はそういうことをしてしまうわけでしょう?

 それを論理的だと思い込んでいることが邪悪です。ホントはやめたほうがいい。そんなものに身を任していては、きっとどこかで転んでしまうじゃないですか。

 

 だってそれは、科学のふりをした科学ではないものとも強く親和性があるものだからです。

 

 「このNASAが開発したロズウェルXサプリを飲めば、寝ている間に脂肪が燃焼してみるみる痩せる!!」って言われたときに、なんと、NASAが開発したサプリを飲めば、寝ている間に脂肪が燃焼してみるみる痩せるんだよ!!これはとても論理的で、NASAが言っているということはエビデンスもあるんだよ!!みたいなレベルの説明に飛びついてしまったりするわけですよ。

 なんで飛びついてしまうか?それは運動をしろとか、食事制限をしろとかいう面倒で厄介で再現性のある正しい方法よりも、楽に痩せるという結果に至れそうという、一番得しそうな結論を示唆してくれているからではないでしょうか?その機序が本当に正しいかの検証を何一つせずにする判断はつまり、信じるか?信じないか?ということだけです。何の材料もないのにしたその判断に、どれほどの意味があるというのでしょうか?

 

 「日本人は現場は優秀だが、マネジメントが無能だ」というような理屈を見たときに、そうだそうだと飛びついてしまったりしませんか?もし、飛びついてしまったときに、アナタは現場の人ではありませんか?あるいは、そんなことはないだろうと思ったときに、アナタはマネジメントをやっていたりはしませんか?そう思った理由は、「自分にとってその方が都合がよい」ということだったりはしないでしょうか?

 そこに何のデータ的な裏付けもないのに、目の前にある適当な状況から、自分が一番得する結論にいきなり飛びついて、その後、それがあたかも正しいかのように説明する適当な理屈を探し始めていたりはしないかって話ですよ。

 

 そんないい加減なことをしているような人が、「自分は論理的だ」とか思い込んでいることだって多いです。僕は自分がそうなっていないか日々ビクビク怯えています。でも、真面目に考えた方がいいことじゃないですか?だって、それは個人の利害の問題でしかないんじゃないのに、それを誤魔化しているだけかもしれないからです。だから、可能な限り自分の判断の根拠は正確に理解した方がいいですよ。自分は自分にとって都合がいいことを言っているだけなんじゃないかと疑って。

 

 僕は仕事で論文を書いたりもするんですけど、論理的に考えてデータを検証して書くのってすごく大変だと感じています。でもちゃんとやるわけですけど。ただ、そういうことをしていると、逆に、自分は日常的に判断していることは、なんて無根拠なんだろうということにも気づいたりします。

 

 僕は基本的に日々の生活を利害関係で判断していて、自分が得するように動いています。別に悪くはないですよね?人間は自分が得をするように生きていいと思うんですよ。

 でも、それを「自分は利害関係で動いているな」とちゃんと認識することが生活を具合よくする感じに思っています。なぜならば、「自分が得だからこうしたい」ということが、「他人の自分が得だからこうしたい」ということと対立したとき、人間と人間が対等という認識があれば、自分の要求が単純に通ることはないな!と納得できるからです。自分の要求と他人の要求がかちあうとき、そこに調整する必要があると思えます。しかしながら、これを「正しさの話」だとしてみてしまえば、目の前の他人が自分の思った通りに行動しないことは「間違っている」と思ってしまうじゃないですか。

 それは他人に対して一方的に損をしろと命令しているようなもので、めちゃくちゃ他人の尊厳を傷つけることだと思うんですよね。

 

 自分を正しく理解することで、むちゃくちゃなことを言う人にならなくて済みますし、それによって周囲の人間との軋轢が減るので、ストレスも減ります。これは「自分は論理的じゃないな」と思いながら日々の生活をしていて、それをそのまま認識することで日々の生活が具合よくなっているという僕の話でした。

 なんかいい話っぽく締めようとしてしまいましたが、これも嘘です。この本心を正確に記述するなら、インターネットを見ていて、こいつらも僕と同じでまったく論理的に考えて得た結論ではない話をしているだろうに、自分が論理的で普遍性のある考え方をしている風に主張しているのがなんかムカつくなあ~という気持ちになったという話です。