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「からくりサーカス」から「月光条例」に繋がる地獄の機械関連

 からくりサーカスとはどんな漫画であったのかを一言で選べと言われたら、僕は「運命とは、地獄の機械である」という言葉を選びます。これは作中でジャン・コクトーの言葉として紹介されるものです。僕はこの言葉がジャン・コクトーによってどのような文脈で語られたかを知りません。なので、すごく見当はずれな理解をしているかもしれませんが、からくりサーカスを読んでいると、ああ、運命とは地獄の機械だなと思うわけです。

 

 機械というものは意図して設計され、様々な部品が絡み合い、動力を得て動作するものです。運命という機械を動作させるためには、様々な人々がその部品として組み合わされ、その部品は外部から導入された動力で動くでしょう。いや、動かされるでしょう。そこには選択の余地がありません。決められた役割に応じて決められた通りに動くのが機械の部品に求められることです。部品が壊れたなら、別の似たような部品がそこにまたおさまるだけです。部品となった人は壊れるまでそれを動かし続けなければいけない。そのために動かされつづけなければいけない。それは地獄、ではないでしょうか?

 

 僕が得たのはそのようなイメージです。

 

 からくりサーカスは「選択」の物語でしょう。物語の冒頭、悪い奴らに追われる少年、勝は、サーカスの宣伝の着ぐるみに「話かける」か「話かけない」かの選択を迫られます。ここで話しかけなければ、この後に起こる全てはなかったはずです。でも、話しかけてしまった。これはそういう物語です。選択にはそれを選んだ責任が付きまといます。選択したために起こってしまった悲劇は、選択した人自身に責任としてその代価を要求してくるでしょう。勝はそのあと、大きな喪失を経験します。それは自分が選んだからこそ起こったものであると思わされます。

 

 からくりサーカスには選択を迫られる場面が何度も出てきます。何かを「する」か「しない」か。しかし、そこに本当に選択の余地はあるのでしょうか?どちらかを選ばざるを得ないのであれば、選択肢が登場することは、登場しないことよりも残酷かもしれません。そこには勝のように責任が生まれるからです。人は責任によって身動きがとれなくなり、より一層機械の中に取り込まれてしまうものかもしれません。

 本作の主人公の一人である鳴海もまた、運命という地獄の機械に引きずり込まれ、歯車の一つとして身動きが取れなくなってしまいます。彼の体は、彼だけのものではなく、彼がそこまでくるためにその死を看取ってきた沢山の人々の意志によって動かされます。誰よりも自由意志のある人間であろうとした鳴海でさえ、数々の仲間の死を背負い、自分を失ってしまいました。

 

 自動人形の破壊者である「しろがね」もそんな地獄の機械の一つです。

 彼ら彼女らは、元々は一人の男の意志であったものを継ぐ者たちです。それはある種の呪いです。「自動人形を破壊せよ」との呪われた機械の部品と化した悲しい人々です。

 全ての元になった男、「白銀」は、自身の生み出した錬金術の最大の成果「生命の水」を使い、病に苦しむ人々を救う代償として、人々に「しろがね」という呪いをかけました。なんでも溶かす生命の水にその身を溶かし、飲んだ人々は皆、心の一部に彼の意志を宿すようになってしまったのです。これは地獄の機械ではないですか。

 

 ジョージ・ラローシュの話をしましょう。

 彼はピアノを練習する少年でした。そこでは、厳しい父により、自分がただ譜面を再生する機械であると指摘されます。ジョージにはしろがねになったことに抵抗が少なかったかもしれません。既に、過去の誰かが作った譜面を、再生する機械でしかないなどと言われてしまっていたからです。そしてジョージは、あやつり人形なしでも単独で戦える力を得るため、体の一部を機械に置き換えたしろがね-Oとなる決断もしてしまうのです。

 しかし、果たして彼に選ぶ権利はあったのでしょうか?彼はベルトコンベアに流されるように、機械となる運命に取り込まれてしまいます。そして多くの人がそうであるように、自らに求められた役割と、自分自身の意志を混同し、自分がそうであるということを受け入れ疑問を持つことができません。

 彼は敗北を機に、自身が超人間しろがね-Oの一員であるということも否定されます。彼は、しろがねと自動人形の最後の戦いにおいて戦力外通告され、伝令役としての役割しか与えられないのです。幸か不幸か、それによって最終決戦を生き延びたジョージは、その様子を「くだらねえ戦い」と言います。それは日本人の人形繰り、阿紫花の言葉を借りたものでしたが、この戦いは、病気にさせられた者たちが病気にさせた者たちに仕返しをしただけの、くだらない戦いだったと言うのです。自分たちを駆り立てた最後の戦いは、自分を支配した運命は、とてもくだらないものでした。

 その後、終わったはずの戦いに再び身を投じたジョージは、その幕間にサーカスを手伝います。ジョージは、お世辞にも上手いとは言えないジジイの芸の手助けに、ピアノを弾いてあげるのです。そのとき、彼に初めての賞賛が舞い降りました。子供たちの拍手がジョージのピアノに向けられるのです。それだけではなく、ジョージは子供たちにせがまれました。「また、ピアノを弾いてね」と。この出来事が、歯車と化していたジョージの心にヒビを入れます。

 ジョージは合理的に生きてきた男でした。合理性とは、しばしば不自由のことを意味します。なぜならば、合理的に考えるならば、合理的な結論を選ばざるを得ないからです。譜面の通りにピアノを弾く機械になるのが合理的。病から逃れるためなら、しろがねになるのが合理的。しろがねとして戦い続けるなら、改造されてしろがね-Oになるのが合理的。しかしその合理性は、果たしてジョージを救ったでしょうか?

 Oという存在がいます。それは体を完全な機械に置き換えた、ついにはしろがねですらなくなった合理化の権化です。Oの男を前に、ジョージは煙草を吸って見せます。目の前のOにジョージはかつての自分自身を見ました。煙草を吸う合理的なメリットなんてありはしません。つまり彼は、そこから降りたのです。いや、外に踏み出たのかもしれません。

 先ほど、ジョージはついに自分の得たかったものを知りました。ついに自分の望む生き方を見つけました。自分のピアノへの子供たちの拍手が、それに気づかせてくれました。「私はピアノを弾いてねと言われたんだ」。その記憶をジョージはひたすらに反芻し続けます。合理に囚われ過ぎ、ついには自分の生き方をも見失ったOに対して、自分がもはやそうではなくなったことを誇らしげに語るのです。

 「こんな私にだぞ」、ジョージのこの言葉は何よりも悲しい。ジョージは誰にも求められてこなかったわけです。ジョージは。人に見捨てられないために、それが合理的と目を背け、自分の選択だと自分自身を騙してきました。しがみついてきたその道の先にいるOでしょう。その姿はとても空虚でした。それは結局、誰かの意志を再生する部品の一つでしかないからです。

 ジョージはまた子供たちのためにピアノを弾いてやりたいと思います。ジョージはついにその身を捕らえる地獄の機械を破壊し、その外に出ることができました。しかし、戦いの中で力を使い果たしたジョージに待つのは死です。でも、それは悲しいばかりの死でしょうか?誰かの作った運命にもてあそばれて生きてきた今までは、本当に生だったのか?ジョージはその肉体的な死を前にして、ついに生きることができたのではないでしょうか?だから、ジョージ・ラローシュは本作を象徴するような男ですよ。彼は運命という地獄の機械に打ち勝つことができたからです。

 

 ドットーレという自動人形の話をしましょう。

 フランシーヌという人形を笑わせるためだけに生まれたドットーレは、その目的のために、人間に対しての様々な悪行をやってきました。最初にやったのはジャグリングの芸です。年に一度の祭を楽しみにしてきた田舎の村の子供たちが、自分に向かって走ってきたのを、ドットーレは優しく出迎えます。その腕は子供たちの頭や手足をこともなげに切り落とし、まるでボールやピンのようにジャグリングしてフランシーヌ人形に見せるのです。どうです?おもしろいでしょう?笑えるでしょう?

 ドットーレたち自動人形は、決して許されない悪行を繰り返してきました。人を笑わせないと苦しむ病気、ゾナハ病をばらまき、人の血液を吸って生きる、忌まわしき人形たちです。しかしそれは全てフランシーヌ人形のためです。彼女を笑わせるためなら、自動人形たちはなんでもやってのけます。フランシーヌ人形は、彼らの存在価値そのものなのです。

 遠い昔、自分の子を、ジャグリングの道具にされた女がいました。彼女はゾナハ病のせいで死ぬこともできない苦しみの中、自動人形を憎み続けます。その気持ちは、しろがねになることでさらに増幅され、自動人形の破壊のため、彼女はたくさんのものを犠牲にしてきました。その女の名は、ルシールと言います。彼女の最後の武器は、フランシーヌ人形そっくりの人形です。その人形をあやつることで、ルシールはドッドーレたちを行動不能にしました。

 目の前の人形はフランシーヌ人形ではない。頭ではわかっていてもドットーレたちは動くことができません。なぜなら、フランシーヌ人形とは彼らの存在意義そのものなのだから。同じ形をしたものを、無視することなんてできはしません。

 ルシールはドットーレに挑発的に囁きます。「フランシーヌ人形など自分には関係ないと思ってごらん」と。それが唯一、彼が動くために必要な方法だからです。ルシールはドットーレをさらに挑発し続けます。そしてついに、ドットーレは動きました。目の前のしろがねを殺すため。フランシーヌなど自分には関係ないと宣言して、動けない体を無理矢理動かしたのです。

 自分を縛る不自由な法から抜け出たドットーレに与えられたのは、死でした。なぜなら、フランシーヌ人形は彼の存在価値そのものなのだから。そのために彼は作られた存在なのだから。それを否定しては、生きていくことができはしないのだから。ルシールは、ドットーレに自由を与え、それによって復讐を遂げたのです。

 

 ジョージ・ラローシュとドットーレは、お互いに課せられた機械の部品という運命から外に出ることができた存在です。そして彼らに訪れたのは死でした。前者は自分を取り戻した満足の中の死であり、後者は自分を見失った絶望の中の死です。しかし、彼らにともに死が訪れたのは果たしてたまたまでしょうか?

 運命というものがそれまでに残酷で、恐ろしい力を持つからだったりはしないでしょうか?

 

 からくりサーカスは「選択」の物語だと書きました。しかし「選ぶ」「選ばない」に影には、「選べない」があるのではないでしょうか?物語に登場した人々の多くは、選ぶことができない運命に翻弄された者たちです。ゾナハ病の患者はしろがねになるしかなく、しろがねは自動人形を壊すしかなく、自動人形はフランシーヌ人形を笑わせるしかなく、フランシーヌ人形は造物主に笑顔を見せるしかありませんでした。全てはそのために、起こった出来事です。

 全ての発端となった造物主、白金の選択が、他の沢山の人から選択肢を奪い、世界中を巻き込む悲劇に発展したのです。

 

 なら、彼に訪れた選択とは何だったのか?フランシーヌ人形のモデルとなった女性、フランシーヌを求めることを「選んだ」ということです。そしてそれは、フランシーヌに選ばれなかったという悲しみから生まれた行動です。彼女は兄の白銀を選び、自分を選んでくれなかったのです。

 

 からくりサーカスの物語は、白金の自分がその道を選んだことが間違いだったという言葉によって終幕が始まります。フランシーヌが白銀を選んだとき、自分が選ばれなかったという悲しみから、強引にフランシーヌを奪い取ったという選択が全て間違っていたという結論に至ります。

 白金が、流されるままに我慢をすることなく、自分の望む未来を強引にでも選ぼうとしたことが間違いだったなら、これもまた地獄の機械なのではないでしょうか?自由を勝ち取ったジョージ・ラローシュやドッドーレに死が訪れたように、彼には「我慢する」か「悲劇を起こす」しかなかったのですから。

 

 運命に定められた人生を歩まざることを得ないことは悲劇です。しかし、それを抜け出すことが、さらなる悲劇を生み出すのであれば、そこはきっと地獄です。だから、からくりサーカスは、運命という地獄の機械の物語だと思うわけです。

 

 この地獄の機械に翻弄される人々という構造は、次の長期連載である「月光条例」で繰り返されます。ここに登場するおとぎばなしはしばしば悲劇です。おとぎばなしの筋を運命とするならば、その登場人物たちにとって地獄の機械と言えるかもしれません。物語を狂わせる青き月の光は、物語の登場人物に月打(ムーンストラック)という暴力的な自由を与え、その本来の筋を破壊します。月光条例の青き月の光は、地獄の機械を破壊する力であるのです。

 それを抜け出た登場人物たちは、ジョージ・ラローシュではないでしょうか?ドットーレではないでしょうか?白金ではないのでしょうか?

 その月打は、月光条例の執行によって正されることになりますが、物語の登場人物たちはその一瞬見ることができたように、誰しも地獄の機械に抗い続けているということではないかと思いました。

 

 これは言うなれば物語という地獄の機械と、登場人物たちの全面戦争です。そして、多くの物語は、そのせめぎあいの中で生まれているのではないかと僕は思います。浦沢直樹の「ビリーバット」もそれを描いた漫画ではないかと僕は思いました。

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 物語の筋を破壊してしまうほどの強力な意志を感じ取れる登場人物と、そんな強力な登場人物を使役するほどの強い物語のせめぎあいが、漫画の持つある種の強い力の正体なのではないかと僕は感じています。

 

 そのすさまじい戦いを、ある意味、地獄の機械側の勝利でねじ伏せたからくりサーカスが、その次に月光条例に辿り着くのは必然であったのかもしれません。

当然知ってるでしょ?関連

 人間には知っていることと知らないことがあり、知らないことは知らないので知らないし、知っていることは知っているので知っています。でも、何を知っていて、何を知っていないかは人それぞれで違います。

 テレビでやっている街頭アンケートでの認知度調査なんかでは、誰でも当たり前に知っているだろうと思うような有名人でも100%知っているということにはならないことに驚きますし、日本で生きていて、本当にそれに一切触れずに生きて来れることはあるのだろうか?などとまで思ってしまったりしますが、これは完全に人それぞれなのでしょう。

 

 ですが、何かについて当然知っているだろうというていで、自分から他人に話を振ってしまうことはありますし、他人から自分に話を振られてしまうことがあります。でも、知らないものは知らないので、当たり前のように話されても知らないのだから仕方ありません。それは起こり得ることです。

 

 芸人のダイアンの漫才に、「サンタクロースを知らない人」というネタがあって、ボケの「サンタクロースって何?」という発言に対して、ツッコミが「サンタクロース知らんの?」と驚いて、そんな人がいるのかとはしゃぎ続けます。しかし、会話が攻守交替し、こんどはボケの方が「ファナスティって知ってる?」と発言します。そんな言葉は知りません。その後、もう嫌になるぐらい「え?ファナスティ知らんの??」と言い続けられたあと、「…これをずっと言われてるようなもんやぞ」と終わるのを見て、理解するわけですよ。自分が一切知らないものに対して、え?知らんの??と言い続けられても、そもそも知らないものは知らないので、相手のはしゃぎっぷりも含めてわけが分からないし、困惑しか残らないということを。

 

 自分が理解できないことで驚かれたり、笑われるのはストレスです。

 

 例えば、海外に行ったときなんかに、これを強烈に感じたりします。僕の場合基本的に仕事で行っているので、仕事関係の話題は分かるわけですが、それ以外のことはさっぱり分かりません。雑談中に彼らが何について話していて、何で笑っているのかもさっぱり理解できないことも多々あります。そして、さっぱり理解しないままに発言をしてしまうと、僕のそのとんちんかんな発言に皆が笑ってしまったりします。僕にはその笑いの意味も分からないので、どうしたもんかなあと思ってしまいます。

 逆に、日本で外国の人とテレビを見ていて、どつき漫才の話になったことがあります。漫才のボケが頭を叩かれていて、笑いが起こります。そこで外国の人に聞かれました。「彼はなぜ頭を叩かれたのか?」「間違ったことを言ったからだ」「間違ったことを言わなければ叩かれないのではないか?」「彼はわざと間違ったことを言っているんだ」「なぜそんなことをして叩かれようとするのか?」「…それが面白いから」「なぜそんなことが面白いのか?」「…」みたいな感じのやり取りが発生し、結局上手く説明することができませんでした。

 

 何かが分かる側からすると説明不要で当然であることが、説明なしには分からないかもしれませんし、説明をされたとしても分からないままかもしれません。つまり断絶です。

 

 「ONE PIECE」が1巻あたり300万冊売れたとしても、日本人口の97%以上は買っていないということになります。1万冊売れる漫画なんて、99.99%以上の人が買っていない漫画です。そんな世界です。自分が読んでいる漫画を、当たり前に相手が読んでいるということを想定していいのでしょうか?好きな漫画の話をするときにはそういうリスクがあります。漫画以外だってそうです。皆で共有できるものは多くありません。

 ただ、人との会話というものはいきなり1億2000万人の前で始める演説ではありませんから、その中の誰と話すかによって当然知ってるでしょ?を導入してもいいケースもあります。その方が話が早いですし、前提の説明を省略しても楽しくなってしまうわけです。これがオタの会話でしょう。伝わる範囲なんて狭ければ狭いほど分かる方からすれば良いですから、その中だけで通用する話題もガンガンしますし、結果、それは外から見ればどんどん歪で意味が分からないコミュニケーションとなってしまいます。

 なので、こういうところに外からやってきた人が入ると問題が起こります。他の人が当たり前に分かっているので説明してもらえないし、その狭い界隈だけで通用するものなので、何かを参考にして理解する方法もありません。分からない人とのコミュニケーションはとても疲れますから、嫌になってしまうかもしれません。

 

 「あいしゃんどん」、これは意味が分からない言葉だと思いますが、僕の家族には当たり前に通じる言葉です。これは僕の妹が小さい頃「しょくぱんまん」を上手く言うことができずに使っていた言葉で、なので、僕の実家では「しょくぱんまん」のことを「あいしゃんどん」と言ってもコミュニケーションが取れます、でも、外から来た人には無理でしょう。こういうことが無数にあるわけですよ。自分が属していなかった場所に足を踏み入れたときには。

 そういうときに理不尽さを感じてしまったりしないでしょうか?分かる人にしか分からないコミュニケーションの場に足を踏み入れることは大変です。

 

 なので、そういうことに気を遣って話すならば、場で一番前提を共有できていない人に向けた言葉を選ぶとよいことになります。僕もブログで書いている文の場合、固有名詞やそれが意味する別の何かを知らない人でも、なんとなく意味が分かるように簡単な説明とともに書いています。上記で言えば、「ダイアン」という言葉が出てきたときに、それが何か分からない人がいることを考えて「芸人の」という言葉を付けました。その後のやりとりも、知らなくても分かるように書いたので、ダイアンのそのネタを見たことがない人でも意味は分かってもらえるのではないでしょうか?

 ただ、「ONE PIECE」という言葉が出てきたときには、仮に読んだことがない人であっても、それが日本でめちゃくちゃ売れている漫画であるということぐらいは知っているだろうという判断で、余計な説明は省いています。

 この文章を読む人を強く限定してもいいなら、そんなことは気にせず、自分が分かるようにだけ書けばいいわけですが、ここに書いてある文章は、誰が読んでもだいたいの意味ぐらいは分かることを基準にして書いているのでそうしている感じです。

 

 IDA-10さんとみやおかさんがやっているpodcastの「ピコピコキャスト」で(ほら、こういう説明的な書き方をしがちです)、みやおかさんがゲームの話をしているときに、IDA-10さんが「今録音してる?」って確認したことがありました。それは2人だけの会話であるならばわざわざ説明しなくてもいいような、当たり前に共有できていることを、わざわざ口にだしていることが気にかかったからです。つまり、その言葉は自分たち以外の誰かに聞かせることを意識して喋られていて、それはつまり、その会話を録音してpodcastにするためだろうと察したからでしょう。

 これはすごく面白い話だと思うんですよね。人は会話の中で、聞く意味のあるところとないところ区別して認識していたり、その発言が登場した意図を細かく考えたりをしているということだからです。相手が何を当たり前に知っていて、だから何を省略しても問題なく伝わるか?あるいは、何を明示的に言わなければ伝わらなかったり、誤解を生む可能性があるかを意識して会話をしている人は多いのではないでしょうか?

 

 それができれば、説明が必要なものとそうでないものが区別できるわけですよね?なら、目の前の人が自分が当然知っていることを知らないときであっても、そこを説明しながら伝えれば、割となんとかなることが多い気がします。コミュニケーションはそれでいいじゃないですか。

 あとは目の前の相手が何を把握していて、何を把握していないかをどれだけちゃんと察したり確認したりをできるかですよ。

 

 今ちょうどやってる展示会に今僕が働いている仕事場が出展したりしているんですが、説明員が足りないというので昨日ヘルプでやったりしました。そう、僕は説明をしに行ったわけです。

 そこで、ある技術について「詳しいことは分からないんですけど」と言いつつ質問をしてくれた人がいました。これは結構な難しい状況です。その詳しくないことがどの辺まで分からないのかの判別が瞬間的には難しいからです。なので最大限の想定をして、あらゆる専門用語は避けて説明をし始めたら、相槌から基本的な用語や概念は分かるということを察し、認識を途中で修正しつつ言葉を選び直して説明しきったりしました。説明相手が、何をどこまで知っているのかを事前に把握できないときが一番難しいということです。しかも一期一会なのでやりなおしもきかない。

 

 何かについて「当然知ってるでしょ?」っていうことを期待できるの、非常に狭い狭い範囲のことで、それを少し外に越えてしまえば、そんなことを期待する方がおかしいんじゃないかと思ったりします。

 こんなことも知らないのか?と他人に思っても、一方、その相手が当然知っていると思っていることを自分が知らないことだって絶対あるじゃないですか。あらゆる基本はそれで仕方ないんだと思うんですよね。相手に知ってて当然を期待する方が特殊な状況ですよ。なので、長々書いたんですけど結論は普通で、「人と人はおそるおそる情報交換しつつちょっとずつ相互理解をやっていくしかないんだろうな」という感じがします。

 やっていきましょう。

「若おかみは小学生!(映画版)」と獅子咆哮弾について

 昨日、「若おかみは小学生」の映画を観て来ました。近所のショッピングモールの映画館だと朝しかやっていなかったので、朝にバイクでブリブリと行ってみたら、朝イチだとショッピングモール全体がまだちゃんと開いてなくて、限られた入口からしか映画館に行けないんですね…(知らなかった)。上映時刻に間に合わないかと思って、中年男性が入口まで走ってしまいました。若おかみは小学生を観たさに中年男性が走るわけです。でも映画は良かったのでオッケーです。

 

 原作も読んでないですし、テレビアニメ版も観てないので、これがどの程度映画向けに作られたお話なのかは分かっていないのですが、児童文学にしてはとてもしんどい状況を描いていて、子供がしんどい状況になることに、すごく胸が痛む気持ちになってしまいハラハラしながら観ました。

 

 免責:以下、ネタバレが含まれます。

 

 主人公のおっこちゃんは交通事故で両親を亡くし、旅館を営むおばあちゃんに引き取られます。また、その旅館にはおばあちゃんの幼馴染の少年の幽霊がいて、ずっとおばあちゃんのことを見守ってきたわけですよ。そして少年の霊は、後継ぎのいない旅館と働き続けるおばあちゃんを見て、おっこちゃんに若おかみとなることを勧めるのです。そこで、おっこちゃんは、うっかり小学生ながらに旅館の若おかみになります。

 おっこちゃんからすれば成り行きで、別段強い意志があったわけでもなくなった若おかみです。でも、物置に封じられていた小鬼を解放してしまったため、引き寄せられる様々なお客さんのおもてなしをする中で、徐々に立派に若おかみの仕事をしていくようになります。

 おっこちゃんは、どんな人であろうとも拒むことなく癒す温泉、花の湯で、お客さんに満足して帰ってもらいたいという気持ちから、小学生ながらに若おかみとしての自分を獲得していくわけです。

 

 さて、映画のクライマックスでは、おっこちゃんはお客さんとしてやってきた家族をもてなすわけですが、そのお客さんこそが、なんと自分と両親が遭遇した事故における対向車側の当事者であることが分かってしまいます。それに気づいたおばあちゃんも、その事実を知らずに偶然お客さんとしてやってきたそのお父さんも、加害者と被害者という立場の人間が、若おかみとお客さんという立場で接することの重圧に耐えきれず、別の旅館に移るという判断をします。でも、おっこちゃんは「自分は若おかみだから」と、それを慰留し、まだおそらくは自分の中で解決していないだろう私情を乗り越えて、仕事人として振る舞うわけです。

 これは見方によれば残酷ともいっていい状況でしょう。この場面でも、僕の感情は溢れてしまったわけですが、それは良いと感じることも悪いと感じることも、ごった煮にした量の感情が、自分の平静でいられる許容量を超えてしまうからこそなってしまう状態で、色々整理がつかないことなわけです。

 

 僕が気になったのは、果たして、このときのおっこちゃんは、「若おかみである」という自分で「事故の被害者である」という自分を上書きして飲み込んだのかどうかということです。若おかみであるということが、その私情を塗りつぶしてしまうものならば、若おかみであるということは、果たしておっこちゃんにとって良いことなのでしょうか?

 

 思い返せば、おっこちゃんは仲の良い家族の幸せな生活を奪われてしまったにもかかわらず、それをおくびにも出さず、普通に暮らしてきました。その普通でいることが普通じゃないと思います。でも、そういうことについては僕自身も経験があるので分かる気がします。そういうとき、普通に振る舞ってしまうわけですよ。だって、周りが悲しむ様子を見てしまうからです。

 でも、やっぱり平気なんかじゃなかったということを、物語の中で少しずつ見て取ることができます。その様子を周囲の大人たちも優しく見守ってくれます。でも、自分の中で失われてしまった大切なもののことを、素直に心から悲しみ、乗り越え、その先へと進んでいくことは、やっぱりしんどいことですよ。誰しもどこかで経験することなのかもしれませんが、それが人生の早い目の頃に来てしまうのはとてもしんどい。

 

 嫌な言い方をしますが、不幸にも親が亡くなってしまった子供という状況は、対人関係において強いカードです。なぜなら、それを出されてしまうと、相手は何も言えなくなってしまうからです。少なくとも良識のある人間ならば。可哀想な子供には優しくしてあげないといけない。可哀想な子供なのだから言うことを聞いてあげなくてはいけない、こんなに可哀想な子供でも頑張っているのに、そこまででもない自分はそうでもいいんだろうか?などと思ってしまうんじゃないでしょうか?

 可哀想な経験をしている子供であるということは、可哀想でなかった場合に比べて、様々な事柄で優先されてしまう場合があります。それを当事者が望むかは別として。

 

 おっこちゃんが若おかみになってすぐの頃、宿にお母さんを亡くしたばかりの父子が来ました。男の子は、優しかったお母さんを失ったことにまだ整理がつかず、ワガママを言っては周囲の人を困らせます。そこで、おっこちゃんはそのカードを切ってしまいました。自分も両親ともに亡くなっているというカードです。それは、「あなたの気持ちが分かる」という共感から出てきたものかもしれません。でも、言われる側からすれば、「両親とも亡くなったより不幸な自分でさえ、こんなに頑張っているのに、まだ片方親が残っているお前は何だ?」と読み取ることだってできるでしょう?

 そのとき、より多くの不幸を抱えた方が、強いことになってしまうという悲しい構図が生まれます。より大きな不幸を抱えた自分というカードは、それよりも不幸でない人の行動を制限する力があることを知ってしまいます。幸いなことに男の子は、まだ男の子であるがゆえにそれに反発してくれますが、これが大人なら黙ってしまうかもしれません。彼女ほど不幸でない自分にはそれを言う権利がないと。

 

 でもきっと、そんなのおっこちゃんは嬉しくはないですよね。

 

 自分が不幸であるということが、強い力を持ってしまうということがあります。であるならば、その強さを維持したければ、不幸なままでいるしかありません。それはきっと悲しいことでしょう?少々のルール違反や、他人に対する抑圧も、自分の不幸という体重を乗せればそのまま通ってしまうかもしれません。それに味を占めると、いかに自分が不幸であり続けるかに拘ってしまうかもしれないじゃないですか。

 

 これは「らんま1/2」に登場した獅子咆哮弾という技に似ています。獅子咆哮弾は、気を放出して相手にぶつける技ですが、その威力を高めるには「気が重い」必要があるのです。自分の身に降りかかった不幸によって、より重たい気を作ることができれば、それを相手にぶつけるときに強い力を発揮することができます。でも、獅子咆哮弾の使い手同士の戦いは泥沼です。より不幸な方が強いわけですから、わざと自分を不幸に落とし、不幸自慢をするかのような戦いになります。

 それで勝って、何を得るのでしょうか?強くあるためには不幸でなければいけないなら、その強さを使って得たいものは何でしょうか?

 

 おっこちゃんの手の中にはそんな強い力があります。不幸にもそんな強い力を与えられてしまったわけです。可哀想で可哀想な子供であるということは、周囲の良識的な大人に気を遣わせ、黙らせることもできます。でも、それは本当に嬉しいことでしょうか?自分に対して罪悪感を感じてしまう人たちを目の前にして、彼らに責められるような気持を植え付けてしまうことは、幸福なことなのでしょうか?それはもしかすると、自分から忌避すべき不幸な過去や失われてしまった悲しみに意味を持たせてしまうような、もの悲しいことなんじゃないでしょうか?ならば、そこを抜けることこそが、良い道なのかもしれません。

 

 このお話は、死者の心残りの執着を描いた物語でもあるかもしれません。おばあちゃんの幼馴染の少年は、おばあちゃんを長年見守ってきました。それは心配だからでしょう。もうひとりの幽霊の少女は、頑張り屋の自分の妹を影ながら見守ってきたわけですよ。エンディングの中には、小鬼がまだおっこちゃんがお腹の中にいるお母さんと出会っている絵がありました。それはひょっとすると、旅館や娘のことを頼んでいたのかもしれません。あの世にいくはずの人々が、現世に留まるのには意味があるはずです。

 幽霊たちは皆、残された人たちのことを心配しています。自分たちがいなくなったあとでも、その人たちが問題なく生きていけるのかと。夢の中にしか登場しなかったおっこちゃんの両親も、もしかするとおっこちゃんには見えないだけで周囲にいたのかもしれません。

 死してなお現世に留まった彼ら彼女らが去るということは、その役割がなくなったということだと思います。それは、現世に残した心配事が解消したということじゃないでしょうか?ならそれは良いことなんだと思います。

 なぜなら、悲しみの過去に囚われ続けることを止め、明日を生きることができるということだからです。

 

 起きてしまったことを許さなくてもいいでしょう。強く乗り越えなくてもいいでしょう。でも、ただ、そんな過去に囚われ続けることが、正解ということになってしまうと、悲しい気持ちのままずっと生きていかないければいけないじゃないですか。

 それこそが幽霊たちを、現世に留め続けてしまうような心残りじゃないですか。

 

 このお話の最後、おっこちゃんが滅私な仕事人としての立派な若おかみになったのかどうかは僕には分かりません。でも、少なくとも彼女は、その身に起きた悲しい過去から一歩外に出て、みんなに心配され気を遣われるような人ではなくなったんじゃないかなと思いました。だから、みんなはおっこちゃんの将来を心配しなくていいし。幽霊たちも安心して成仏するわけです。

 過去の悲しいことに囚われ続けること、本人の意志ではどうにもならないかもしれないけど、そこに意味が出てきてしまうと、なおさら囚われ続けてしまうので良くないよなと個人的に思うことがあり、そういう意味ではこれは良い結末だったのではないかと思いました。

 

 まだ、観たあとの気持ちの整理が十分ついているかは分かりませんが、とりあえず今の僕の頭の中ははこんな感じです。

 

 それはそうと別な話、ピンふりの真月ちゃんがすごく良い子ですごくよかった。すごくすごくよかった。

「hなhとA子の呪い」と自分に内在する暴力性との付き合い方関連

 中野でいちの「hなhとA子の呪い」は、性欲を巡る物語です。主人公の針辻くんは、ブライダル企業の若社長でありながら、性というものに嫌悪感を表明する男です。なぜならば、人間の3大欲求の中で性欲のみが、唯一、他者に向けられるものだからです。

 だから、その欲望の発露は他人を傷つけるかもしれません。人を傷つけるものは悪いことでしょう?その相手が自分にとって大切な人ならばなおのことです。ならば、その欲望は素直に発露してはいけないものかもしれません。欲望を抱えながらも、その発露が許されないのは辛いことです。ならば、そんな欲望なんてなくなってしまえばいい。持たないで済ませたい。だから、性欲を否定することでしか、人と人とは上手くやっていけないのではないかという妄執に囚われてしまっています。

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 「あなたの抱える欲求は、人が本来誰でも持ち合わせるものなのだから、だから、それは悪いことではないんだよ」というような許しの言葉は甘美でしょう。誰しも罪悪感を抱えながら生きることは辛いわけでしょう?だから、それを肯定してもらえばきっと助かるはずです。

 性欲の罪を感じる人が日々辛い毎日を過ごす一方で、それを罪と考えず、よしんば他人を傷つけたとしても気にせず生きられる人が自由に生きられるのだとすれば、それはいいことなのでしょうか?だとすれば、他人に優しくあろうとする人ばかりが辛いじゃないですか。だから、「そんなに自分を責めなくたっていいんだ…」という言葉は、その辛さを抱える人にとっては優しいかもしれません。

 でも、結局のところそれでは最初に危惧した、自分の性欲が他人を傷つけるかもしれないということは何にも解決はしないわけです。だから針辻くんはそんな言葉は受け入れません。

 

 自分たちの欲求を肯定するためにあなたは我慢をしろと言われた人たちは、その通りに我慢するか、それに反発するしかありません。そして、その反発はことによると別の他人に我慢を強いるものであったりもします。そうすれば出てくるのは反発への反発でしょう。そのように、様々な人々の自分は我慢をしたくないという、個人のレベルでは正当なはずの欲求が矛盾しあい、互いを傷つけてしまったりするわけです。

 「こんなに苦しいなら愛などいらぬ」と言った「北斗の拳」の聖帝サウザーのように、性欲の存在が無くなることこそが、それを根本的に解決することではないかと思ってしまう道筋がそこにあるわけですよ。

 

 だから、自分の性欲を許してはいけないという話になります。だから苦しいという話になります。なぜなら、どれだけ否定したとしても、自分の中には性欲が確実に存在しているということに気づいてしまうからです。性欲を排除した「真実の愛」、それがいつまでも続く「永遠の愛」を謳ったとしても、その言葉を発する口とは裏腹に、その目は、目の前の異性に対する淫らな欲望を衝動的になぞってしまっているかもしれません。

 それは知られてはならないわけですよ。それを知られるということ自体が相手を傷つけてしまうかもしれないからです。だからこそ、それをひた隠すわけですよ。でも、それは相手に嘘をついていることでもあります。だから、こんなにも他人のことを思いやっているはずなのに、罪の意識ばかりが積み重なってしまいます。いや、他人を思いやっているのではなく、自分のそんな部分を知られたくないだけかもしれません。自分の欲望を誤魔化すのは得意なのですから。そう思ってしまうからこそ、罪の意識はなおさら積み重なってしまうのです。

 

 それは仮に相手に受け入れられ、それでいいんだよと言われても、根本的には解決しないこともある厄介なものです。なぜなら、それは相手にそう言わざるを得ない状況が強いているのかもしれないのだから。そして、その状態が永遠に続く保証もないのだから。

 

 針辻くんは、自分の中にある性欲という名の暴力性を認めて肯定することもできず、かといってそんなものは持ち合わせていないと否定することもできず、そのどちらにも行けない狭間で、無数の問いかけを常に突き付け続けられているかのように重圧を抱え続け、どんどん追い込まれてしまいます。

 自分を肯定する言葉を前にしても、それを否定する言葉を探し当てて無効化していきます。好きな女の子のことを大切に思う気持ちと、それを淫らに傷つけるような性欲の妄想の、相反するものを抱え続けた先にあるものは、どちらも選べない選択の放棄であって、それは自死に繋がる道でもあります。

 でも、死にたかったわけじゃないでしょう?上手く生きたかったはずなのに、上手く生きられないからこそ、その先を歩くのが辛くなってしまったんでしょう。自分が理想とする歩むべき美しい愛の道を、汚い性欲の足が踏み外すわけですよ。そんなことはないと、強い言葉でそれを否定しようとしても、どうしても踏み外している足元に気づいてしまうわけじゃないですか。

 

 この物語は誤魔化しができない人の物語だと思います。自分を正当化してくれる言葉も、ひょっとして、その下にある欲望を肯定するために後付けて選び取っている誤魔化しなんじゃないかと気づいてしまう真面目で厄介な人の物語です。

 だから自分が口にする愛は、性欲の誤魔化しじゃないのか?とどうしても気づいてしまいます。そして、それは愛と性欲は完全に不可分になるとは限りませんし、そもそも性欲を伴わない愛こそが、伴うものよりも価値が高いと思ってしまうこと自体に罠があるでしょう?そう思ってしまう時点でかなり詰んでしまうわけですよ。

 

 そして、目の前には誰かの性欲によって既に傷ついてしまった異性がいるわけです。その人たちを傷つけたものは、自分が持ち合わせているのと同じものです。同じものを持ち合わせていながら、想像の中では同じようなことをしてしまいながら、自分はあいつらとは違うとどう思うことができるのでしょうか?

 それは、弾の込められた拳銃の引き金に指をかけながら、それを死ぬまで引かないことでのみ許されるような話じゃないですか。その拳銃を捨てることはできない苦しみの中で生きるお話じゃないですか。

 

 針辻くんは生きる道を選び取ることができます。でも、それは彼が抱えていた悩み苦しみが解決したわけではないでしょう。それでも生きることを選択したというだけの話ですよ。それまでの自分が何を誤魔化して見ないようにしていたのかに気づかされ、それを直視してしまうことで、消え去りたいような気持になりながらも、それでも生きていくことを選んだというお話だと思います。

 

 性欲の持つ暴力性は、それを向けられる異性だけでなく、それを抱える自分自身をも傷つけてしまう可能性があります。社会のルールと肉体のルールが矛盾してしまう狭間では、それを誤魔化さずに直視するならば、どちらかの意味で自己否定が生まれてしまうからです。

 そういう誤魔化さない視点に対して、真面目過ぎる!!と思ってしまいもしますが、その真面目さは美徳であってほしいなという気持ちもあって、そのままで上手く生きられりゃいいのになとということを思いました。

「フリクリ」のフリクリ感とは何か??

 アニメのフリクリが好きなんですけど、何が好きかというとおそらく複合的なので、いまいちコレ!と言いにくいようなところがあります。なので、この文ではまずその中のひとつだけを抜き出して話をします。それは、主人公のナオ太くんが置かれている状況が好きというものです。

 

 陰気な小学生のナオ太くんは女子高生のマミ美や、突如現れ自分の家の家事手伝いに収まったハル子、同級生のニナモなど、沢山の人が「自分に好感を抱いているんじゃないか?」と思えるような境遇にいます。また、どうやら宇宙人らしいハル子にベースギターで頭を殴られたことによって、ナオ太くんの頭は外部とのチャネルを開く特異点となり、色んなものが頭から出てきます。そして、その頭から出てきたロボットと合体して大活躍もしてしまうのです。

 僕はフリクリの物語を思春期の少年の物語だと思っていて、そして、少年がもう少年ではいられなくなる瞬間までの過程を描いたものではないかと思っているのです。それが好きなわけなのです。

 

 では、思春期の少年とは何か?僕はそれをシュレディンガーの猫に似ているものだと思うんですよね。

 

 シュレディンガーの猫は、量子力学に関する思考実験です。仮に量子の状態によって毒ガスが出たり出なかったりする箱があったとして、そこに入っている猫がいるとします。量子の状態が「観測されるまで確定しない」という性質が本当に正しいのなら、それをまだ観測していない状態では、猫が生きているか死んでいるかもまた不定となってしまうのではないか?という話です。

 箱を開けてみるまでは生と死が重なった状態にあり、開けて観測したときに初めて確定してしまうという感覚は、現実的には違和感があります。しかし、このそもそもの思考実験の命題とは全く関係のないところで、似たものを感じることはあるような気がしています。

 

 それは人の心の問題です。

 

 僕個人の感覚では、結果をちゃんと確かめるまでの未確定な状態のままでいることを好むということがあるんですよね。例えばテストの自己採点とかをしなかったりしたんですよ。なぜなら、自己採点をしてしまったら、点数がだいたい確定してしまうからです。そして確定さえしなければ、無限の可能性を想像することができます。どれだけ失敗したテストであったとしても、その結果を確認するまでは、もしかしたら良い点数なのでは??という想像をすることができますし、少なくとも僕は、そのように猫の入った箱を開けずにとっておくような子供だったわけですよ。

 

 結果の話をすると、フリクリでは、マミ美にとってのナオ太くんは、いなくなったナオ太のお兄さんの代わりだったりします。ハル子にとっても長年追い続けている宇宙海賊アトムスクへの手がかりであったりします。ニナモは…よく分かりません。でも、彼女もナオ太くんに対して見せる顔が本当か嘘かもよく分からないわけです。

 箱を開けて見れば、彼女たちから自分への好意は、全部勘違いかもしません。相手に好意を抱かれているかもしれないというのは、ナオ太の頭の中にだけあった都合がよい想像かもしれません。

 

 フリクリは、箱を開ける物語なんじゃないかと思います。そして、開けてみたら猫が死んでいたとして、その先に足を進めることで大人に近づく物語だと思うわけです。

 

 皆が自分に好意を抱いていて、自分は人間関係の中心であるという認識が勘違いだと知ったこと。ロボットと合体して活躍していたと思いきや、活躍していたのはロボットだけで、自分はそのロボットが撃つ弾として使われていただけと分かったこと。自分が特別ではなく、なんでもないひとりだと知ってしまうこと。それは、多くの思春期の少年のとっての通過儀礼ではないかと思います。

 

 ナオ太くんは、自分は誰かの代わりではないし、自分は自分だから、自分を見て欲しいという一歩を踏み出しますが、結局のところ至るのは失恋です。いつまでも勘違いはしていられない。自分の足で前に進み、何かを求めなければいけない。それが大人になるということだ。そうかもしれません。でも、それでも、勘違いしていられた時期の特別さみたいなものもあるわけですよ。

 それは否定して捨て去るものではなくて、そのときはそういう時期で、それはそれで大切な時間であったということを思い出せる特別な思い出です。それが僕の中でのフリクリフリクリ感みたいなものではないかと思いました。

 

 箱は開いてしまうし、開いてしまった以上は、そこから歩みだすしかないけれど、その箱が開いていなかった時間はそれはそれで特別だっただろ?というものは、誰しもスネに傷のようにあったりするものなんじゃないでしょうか?

 

 さて、フリクリの新作こと「オルタナ」と「プログレ」を観ました。

 

 前述の、箱を開けなかった特別な時間への憧憬と、その箱が開いてしまったことによる物語の終結のことを「フリクリ」と呼ぶなら、「オルタナ」は割と「フリクリ」で、「プログレ」はあまり「フリクリ」ではないと感じました。つまり、タイトル通りなわけです。「オルタナ」は最初の「フリクリ」の「オルタナティブ」としての対比的な物語であり、構造的には新しい要素はなく、同じ流れの中のもうひとつの可能性という感じの物語です。そして「プログレ」は、「フリクリ」の「プログレッシブ」としての、新しい可能性のお話であったと思います。

 なので、「プログレ」を経たおかげで、これからも「フリクリ」を冠する作品が続いていけるような感じになったのかな?というような感想です。というか、閉まっていたフリクリの物語を今回無理くり開けておいて、開けっぱなしにしていきおったわ!という印象で、でも、今回の興行が上手く行って、新しいのがどんどん生まれるなら、それはそれでまた観るかなあというような気持ちですね。

 

 この2作を観たのは、個人的にすごく良くて、それによって僕の中で「フリクリって何なのよ?」ということについての言葉が出てきたような気がしたからです。友達とも話したのですが、これはフリクリか?それともフリクリじゃないか?という話をするなら、じゃあそもそも「フリクリって何なのよ?」って疑問に自分なりの回答を持つ必要があります。

 自分はこれまで何をフリクリだと思っていて、それと比較して今回のものは何なのかというのは、当然人それぞれ少しずつ異なるものでしょう。それぞれの人の心の中にある「フリクリ」に照らし合わせて、この新しいお話が、フリクリなのかフリクリじゃないのか、もしくはフリクリを再定義するものなのかが感じられたのなら、それはそれでよかったというような感じがするんですよね。

 

 で、僕は前述の理由により「オルタナ」は「フリクリ」だなと思ったし、「プログレ」は「フリクリ」じゃないなと思いました。でも、これは別に「オルタナ」が面白くて「プログレ」がつまらないって話ではないんですよ。全く関係ないんですよ。面白い面白くないで言えば両方面白かったからです(ただ、次もう一回見るならまずは「プログレ」かなという感じです。一回では掴み切れなかった物がすごく多かったように思ったため)。

 

 そしてまた「フリクリ」というものを別の定義にして、「なんだかよく分からないものが自分の中を駆け抜けた体験」みたいに思うなら、「オルタナ」は「フリクリ」でなかったし、「プログレ」は「フリクリ」だったと思うこともできます。

 最初のフリクリも何回も何回も見たことで、ようやく自分の中で腑に落ちたところがあったわけですし、自分にとって「フリクリとは?」ということに答えを出したのは見てからどれだけ時間が経ったんだよという今なわけじゃないですか。よく分かんないけど面白かったし、よく分かんないけど好きだったわけですよ。

 

 何があったら「フリクリ」で、何がなかったら「フリクリ」じゃないのかみたいな話、他人としても全然合わなかったりするんですけど、とりあえず友達と色々な要素についてフリかクリかを話して重要な点として合意が得られたのは「おねショタ感」であって、マミ美に後ろから抱きすくめられた状態で河原にいる時間や、ハル子と一緒にベスパに乗ってまずいラーメン食べたりする時間がそれでしょ!!ってなったので、握手したところ、じゃあ、「オルタナ」も「プログレ」も「フリクリ」じゃないじゃんよ!!ってなりました。

 

 結局、フリクリ感っていったいなんなのよって感じなんですけど、その取り方によって、オルタナプログレフリクリであったと言えるし、フリクリでなかったとも言えるし、そもそもフリクリフリクリである必要性ってあるのだろうか??そんなのどうでもいいじゃん!!と思うようなところもあり、ともあれブルーレイは買うかと思った次第です。

「からくりサーカス」は実質、秋葉流の話説

 来月からついにアニメが始まる藤田和日郎の「からくりサーカス」ですが、皆さんは好きですか?僕はめちゃくちゃ好きです(なお、アニメが楽しみ過ぎて死にそう…原画展も…)。僕は好きな漫画については色んなことを思い続けているので、最近思い至った考えについて書こうと思います。

 

 それはズバリ、「からくりサーカス」という漫画は、作者の前作である「うしおととら」に登場する秋葉流という男の抱えていた課題を引き続き取り扱ったものではないかということです。なので、「からくりサーカス」は実質的に「秋葉流2」と言ってもいいかもしれません!!

 

 なお、秋葉流についての僕の考えの詳細は、前に書いた以下の文章を参照してください。

mgkkk.hatenablog.com

 免責:以下の文章には「からくりサーカス」と「うしおととら」、そして「月光条例」のネタバレが含まれます。

 

 からくりサーカスという物語は、中国に生まれた2人の兄弟、白銀(バイイン)と白金(バイジン)が同じフランシーヌという女性に惚れてしまったということから全てが始まります。

 

 つまり、からくりサーカス=白銀+白金 なのです。

 

 では、まず白金とはどういう男であったのか?彼は自分が先に好きになったフランシーヌを、後から自分もまた好きであると自覚した白銀にとられてしまった男です。そのとき白金は見てしまいました。フランシーヌの顔を。その幸せそうな顔は、自分ではなく兄に向けられたものなのです。それは決して見たくないものでした。

 だから、白金はフランシーヌを攫います。2人だけの場所で幸せになりたかったからです。でも、フランシーヌはそんな白金のもとから白銀のもとに逃げようとします。白金はフランシーヌを殴ります。そして哀願します。自分を愛してほしいと。あの素晴らしい笑顔を自分に向けて欲しいと。

 

 からくりサーカスという物語は、白金という男が、フランシーヌに徹底的にフラれ続けるという物語です。白金はフランシーヌの血縁であり、面影を残す少女アンジェリーナにもフラれ、アンジェリーナの子であり、錬金術の力でフランシーヌの記憶を宿す少女エレオノールにもフラれます。

 

 この物語は白金という男には、決して大好きなフランシーヌが手に入らないという物語であるのです。

 

 以前こちらでも書きましたが、

mgkkk.hatenablog.com 藤田和日郎の長期連載漫画におけるラスボスには、共通する欠落があるのではないかと思います。つまり、この白金のように、自分が欲しくて欲しくてたまらないものが、絶対に手に入らないという呪いのような欠落です。一番欲しいものが絶対に手に入らないということが言い渡されているような環境、それはどれだけ残酷なことでしょう。

 白面の者は陽なる存在になることができず、白金はフランシーヌに選ばれることがなく、オオイミ王はヒーローになることができません。

 

 うしおととらに登場するとらは、白面の者に対して「お前はナガレだ」と言いました。白面が陽なる存在を見る目は、流がうしおを見る目と同じです。自分が決して手に入れることができないものを、手に入れてしまっている人がいる。だから、白面も流も、それに敵対してしまうのです。どれだけどれだけ望んでも自分には手に入らないものを目の前にしたとき、人は狂ってしまうのかもしれません。

 それは白金も同じでしょう。フランシーヌは白銀を選び、自分を選んではくれないのですから。そのまま生きていくのだとしたら、白金は白銀とフランシーヌの仲睦まじさをずっと近くで見続けなければならなかったのです。狂うでしょう。狂いますよ。そんなもの。白面や流がそうであったように。

 

 つまり、白面の者=秋葉流=白金 ということが成り立ちます。

 

 では一方、白銀はどうでしょうか?彼は錬金術に傾倒しながらも、その力の使い道に疑問を感じていた男です。錬金術の研究も技術の研鑽も、自分のためでしかなければ虚しいものなのではないのかと。彼の精神はまた、錬金術の成果である生命の水に溶けることで、それを飲んだ「しろがね」たちに受け継がれます。その中でも一番濃い部分は加藤鳴海という男に引き継がれます。

 

 つまり、白銀=加藤鳴海 です。

 

 加藤鳴海もまた自分の力の使い道が分からなかった男でもあります。ひ弱でいじめられっ子だった鳴海は、ある日、中国拳法の門を叩きます。理由は「お兄ちゃんになるから」です。今度生まれてくる弟のために、自分は強くならなければならないのだと決心して門を叩いたのです。不幸なことに、その弟は生まれてくることがなく、しかし鳴海は理由を失いながらも自らを鍛え、強くなります。そして、その心の中には風が吹くのです。「『強くなったからどうだというのか』だろう?」、師にそう指摘された鳴海は、自分の心の中に吹くそんな風について自覚します。強い力を持ちながら、その使い道が分からない男の心に吹く風です。

 「その風は、いろいろな英傑の心にも吹いていた風だが、結局、その風を止める方法は各々が見つけるしかなかったのだ」、師の梁剣峰はそう言いました。

 

 白銀も、偉大なる錬金術の力をどう使えばいいかが分からない男でした。しかし、彼もようやく到達します。フランシーヌです。フランシーヌたち貧しき人々を救うためにこそ自分の力はあるのだと自覚します。だから彼の心の風は止まったわけでしょう。鳴海もまた才賀勝という少年と出会うことで風を止める方法を手に入れます。彼の強さは、勝のために、自分より幼い勇気ある少年、いや、最初は勇気なんてなかった、でも、そんな勇気をきっと持つことができる少年のために発揮されることになるのです。

 

 秋葉流の心にも風が吹いていました。彼もまた強くなることに意味を見いだせず、死ぬまでただの暇つぶしと思って生きていたような男だったからです。彼が風を止めることができたのは、とらとの戦いの結果です。化け物であるとらに、完膚なきまでに負けることによって、その風はようやく止まりました。悲しいことにそれは死と同時にやってきたものでしたが。

 

 つまり、心の中に風が吹く男=加藤鳴海=白銀=秋葉流 なわけです。

 

 ここで思い出してください。

 からくりサーカス=白銀+白金 です。

 そして、白銀=秋葉流 であり、白金=秋葉流 であるならば、

 つまり、からくりサーカス=秋葉流+秋葉流 ということになりませんか?

 

 そう、白銀も白金も秋葉流と同じものを抱えてるわけです。2人はともに秋葉流の抱えていた別の可能性です。だからこそ、からくりサーカス自体が秋葉流と秋葉流の間で起きたことと言うことができ、からくりサーカスは実質的に秋葉流ということになってしまうんですね。

 

 以上、証明終了!!

 

 ただし、鳴海と流は少し異なりますね。流の風はその死とともに止まりましたが、鳴海の風は生きているうちに止まるからです。鳴海は流でありつつも、うしおととらの流には訪れなかった可能性です。だから、からくりサーカスにおける流は、その悲しい死から救済されることができた可能性の話として捉えられるかもしれません。

 一方、白金としての流はやはりここでも救済されないままです。人は欲しくて欲しくてたまらないものが、どうしても手に入らないときにどうすればいいのでしょうか?白金は最後に「僕が間違っていた」と言ってしまいます。白金はその欲しくて欲しくてたまらないものを我慢するしかなかったのです。皆が笑顔でいるために。

 それは正しいかもしれません。でも悲しいでしょう?

 

 では、白金としての秋葉流に対する救済はあり得ないのでしょうか?ここにはさらにその次回作である「月光条例」の話があります。月光条例はおとぎ話が青き月の光の力で本来の筋に反して暴走し、災いをもたらす物語です。そこにオオイミ王という男が出てきます。オオイミ王は全ての虚構を否定する存在です。この世には一片の物語も必要ではないのだと、だから全てのおとぎ話を消し去ろうとします。

 それは何故か?同語反復になりますが、彼がこの月光条例という物語において、全ての虚構を否定する存在であるからです。彼はこの月光条例という物語において、その役割を担わされている存在であるからです。彼自身の精神は、むしろそこに抵抗しているかのようにも見えるわけです。だって、彼は虚構を否定する存在でありながら、誰よりもヒーローに憧れ、ヒーローになりたかった男なのですから。

mgkkk.hatenablog.com

 この月光条例の物語には、秋葉流を救済する余地があると思います。作中に登場する悲しい結末のおとぎ話がそうなったように。物語の本来の筋に反して、登場人物たちにとっての別の可能性が、救済された結末がもたらされる可能性があり得るからです。月光条例の物語もそのような結末を迎えます。お話の中で自己犠牲の悲しいデクノボーとして消えていった月光のために、読者たちが新たな可能性を作者に強要し、無理やりにハッピーエンドを強請りとることができるからです。

 そう、望みさえすれば、きっとオオイミ王にだって、そう、秋葉流にだって。

 

 秋葉流が秋葉流である以上、うしおととらにおける彼の結末は何度やってもあのようになってしまうでしょう。月光条例の作中で、ハンス・クリスチャン・アンデルセンがどれだけ脅されようとマッチ売りの少女の悲しい結末を変えなかったように。でも、月光条例の中にはあったわけですよ。青い鳥のチルチルが、寒さで凍えるマッチ売りの少女を助け、寒空の下、娘にマッチを売らせていた強欲で無慈悲な父親に、鉛弾を叩き込む光景が。それは作者である藤田和日郎がそれを望んだからではないでしょうか?アンデルセンのマッチ売りの少女にはありえなかった結末が、藤田和日郎月光条例でならあり得ます。

 だから、きっと望めばあり得るわけですよ。うしおととらに敵対し、その死によってしか風を止めることができなかった悲しい悲しい秋葉流が救済され、生きたままでにこやかに笑うような光景がどこかに。望みさえすれば。

 

 こういうことを僕は思うわけなんだなあ!!ということをお友達に熱っぽく話していたら、お前はいつもそんなことばっかり考えているのかよ?というようなリアクションがあり、そう…僕はこんなことばかり考えているんだ…と返事をしました。

 

 からくりサーカスという物語は、短編集「夜の歌」に収録されている物語の欠片の拾遺と言えるかもしれません。物語の冒頭の鳴海が勝をサーカスに連れていくところは、「メリーゴランドへ!」から、懸糸傀儡のからくり人形と自動人形との戦いは「からくりの君」から(カトウという名もそうですね)、中国拳法は「掌の歌」から、それまで描かれてきた漫画中から拾遺した要素を改めて描いているような漫画とも言えます。

 ならば、物語の中身だってその可能性があるのではないでしょうか?「うしおととら」で描かなかった部分が「からくりサーカス」で描かれ、「からくりサーカス」で描かれなかった部分が「月光条例」で描かれるわけですよ。

 では今連載中の「双亡亭壊すべし」では何が描かれるのか?きっと今までとは異なる、まだ描かれていない領域が描かれるに違いないと強く期待しています。

 

 白銀としての秋葉流も、白金としての秋葉流も、ひとまずの救済があったあと、秋葉流以後の世界がそこに待っていると思うからです。何言ってんだか僕もよく分からなくなってきました。

 

 ともあれ、秋葉流2こと、からくりサーカスのアニメが楽しみだなあと思う次第です。

「シュガー」および「RIN」における天災としての天才関連

 新井英樹の「シュガー」とその続編の「RIN」はボクシングの漫画です。そして天才を巡る漫画だとも思います。

 

「できないだろ…俺は最初からできたからね」

 

 これがこの漫画を象徴する台詞だと思います。この台詞は、作中に登場するかつての天才ボクサー中尾がさらりと言ってのけたものです。引退して指導者の立場になりながらも、自身があまりにも天才であるために、中尾の指導内容は誰にも通じることがありませんでした。なぜなら中尾に当たり前にできたことが、中尾ジムのジム生にはどんなに練習してもできないからです。そのせいで、誰よりも強かったはずの中尾は、指導者としてはまるでダメです。だって、天才の中尾には最初からできたからです。天才でない人たちにはそれができないという状態が、そもそも分からないのです。

 気まぐれでジム生に指導してみても、上記の台詞です。自分にできることが他人にはどうしてもできないことを、当たり前であり仕方のないことだと思っています。だから、最初から教えることを諦めてしまっているのです。なぜなら自分は天才であり、他人はそうでないのだから。

 

 そこに現れたのがこの物語の主人公、石川凛です。凛は唯一、中尾の言葉の意味を理解します。それは、凛もまた最初から当たり前にできる男だから。ただ、もちろん相応の努力もしているわけなのですが。

 

 さて、中尾という男は、人間性という意味ではひどいものです。凛の言葉を借りるなら、「『天は二物を…』じゃ表現として甘すぎ、天は中尾をギリギリ、ヒトとするために、ボクシングのみを与えやがった!」です。その類まれなるボクシングの才能と釣り合わせるためには、他を全てが与えられないぐらいにしなければバランスがとれないということです。しかしながら、そんなボクシング以外まるでダメな男に、凛は心酔してしまいます。だって彼のボクシングは天才的だから。凛が心底憧れてしまうほどのものを魅せてくれる男だからです。

 石川凛は、素人のくせに戯れに少し習ったやり方を試しただけで、日本チャンピオンに本気を出させたような男です。地道に練習をし続けたボクサーができないようなことを、ビデオで見ただけで再現してみせるような男です。そんな誰もが羨むものが詰まった宝石箱のような存在である凛が、それでも憧れたのが全盛期の中尾のボクシングです。高慢で自信家の凛が、頭を下げて教えを請います。なぜなら中尾は天才だから。そのボクシングはとても素晴らしいものだから。

 

 中尾や凛のボクシングは、まさしく天才のボクシングです。殴られても殴られても倒れても倒れても、そのたび立ち上がるような、一本気で愚直なボクシングではなく、リングの上の圧倒的な簒奪者としてのボクシングです。それは具体的には、相手に殴られずに相手を殴ることができる三次元的なポジションを奪い、さらにはもう一次元、時間軸までを支配して、自分が思うままに相手を動かし、まるでシャドーでもしているかのように相手を倒してしまう四次元のボクシングです。そんな一方的な試合が面白いのかと思うでしょう。これが、まったくもってものすごく面白いのだから仕方がない。

 

 僕が感じるところに、人にはある種の不思議な願望があるんじゃないでしょうか?それは、「自分なんて及びもつかない圧倒的なものに敗北する快楽」です。それはもしかすると、目の前の火事の火に目を奪われ、逃げることも忘れてしまうようなものと似ているのかもしれません。その美しいものに目を奪われると、危険であるにも関わらず決して目そらすことができない。

 

 この物語の中で凛は、その天才的なボクシングの能力の開花とは裏腹に、人間的な様々を失っていきます。それはまるで中尾のように。凛は端的に嫌な奴になってしまいます。これは自分の圧倒的な才能に支配され、自分自身がその才能の奴隷にでもなったような光景なのかもしれません。だから、あれだけ好きであり続けた幼馴染の女の子にも、凛は拒絶されてしまいます。天才はある種の病気だから、普通の人はもはや一緒にいることすらできなくなります。

 

 つまり、天才であることは、ある種の災禍として周囲をかき乱してしまいます。そして、自分自身をもかき乱してしまいます。本来ならあるべきところにあるようにあったもののバランスを崩し、捻じ曲げてしまう強い力は、あるべきものがあるべきようにあることを期待する平々凡々とした人たちからすれば、もはや耐えられないものなのかもしれません。

 そして逆に、天才でさえなければ手に入ったかもしれないものが、天才であるがゆえに指からすり抜けてしまったりもします。そう、凛の手にはボクシングしか残りません。そして、何を失っても、リングの上では自分を取り戻すことができます。そこにいれば誰よりも輝くのに、そこにしか居場所がない。孤高で孤独で哀れな存在としての天才です。

 

 凛も自分が、今の中尾のように「かつて天才であった」ということ、それ以外に何にもない人間になってしまう未来を想像してげんなりしてしまいます。

 

 物語の序盤に、少年期の凛が強く影響を受けた男、火の玉欣二の言葉が出てきます。

「ゆるくねえときに泣くやつは三流、歯ぁ食いしばるやつは二流だ。笑え!はてしなく。そいつが一番だ」

 災禍に巻き込まれたとき、それに負けてしまうでなく、それに耐えるでなく、その状況を自己肯定する存在こそが1番ということです。凛は笑い、一番になりますが、その姿はどこか儚げで、てっぺんの孤独を伺わせます。才能という業火の中で身を焼かれながらも、その中からけたたましく笑っている声だけが聞こえてくるようにも思えるからです。

 

 天才でさえなければ普通に生きられたかもしれない人生を、天才であるがゆえに異常に生きなければならなくなったのだとしたら、それはやはり、凛にとっても他の人たちにとっても天災でしかないのかもしれません。別の漫画の話では、「うしおととら」の秋葉流も、天才であるということによって迫害され、それを隠して生きることを選択してしまいました。そして、その天才性をついに発揮するのは、とても悲しい形でということになります。

mgkkk.hatenablog.com

 天才は天才であるがゆえに、その人生をも飲み込む災厄となり得ます。でも、その凡人がどれだけ努力を重ねても決して到達できない高みにいる天才たちに、人はある種の憧れを抱いてしまうのではないでしょうか?ただ、その憧れは、場合によっては強い嫌悪という形で表面に出てしまうのかもしれませんが。

 

 とりわけ続編のRINになってからは、読んでいてつらい状況が沢山あるんですよ。そして、その辛さとは裏腹に、凛のボクシングの描写はあまりにも流麗で最高に気持ちが良く、砂糖のように甘い。そんな乖離したような状況を見せつけられてしまうわけなんですよ。なので、このシュガーとRINという物語は、何度も読み返したい気持ちと、全く読み返したくない気持ちが同居するような怪作になっているのではないかと思っています。

 ハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもなく、天才という現象が通り過ぎた跡を見せつけられる漫画だと思うからです。