漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

作品の適切な褒め方がいまだにちっとも分からない話

 何かの作品を見て、ウワーッこれはすごい!!と感動したときに、それを褒める言葉にするのはどうすればいいのか、いまだに適切な方法が分かりません。

 ひとつの方法としては、自分が他人に褒められて嬉しかったことを参考に、同じことをしてみるというものがあります。ただし、僕は自分自身がやっていることを言葉で褒められてもあまり嬉しくならないことが多いので、どのように言葉で表現するか?という観点では、自分自身の体験があまり参考にならず、また、自分の感性が一般的かどうかにも疑問があるので、これは僕は嬉しいけれど、他人が嬉しいかどうかは分からないな、とも思います。

 

 そもそも、僕自身は言葉をあまり信用しておらず、それよりは行動の方を信用しています。つまり、嬉しいのは、相手が言葉で褒めてくれることより、行動を継続してくれることです。例えば、僕が書いた文章や描いた絵、する話なんかを喜んでくれる人がいたとして、それに対する言葉による感想を僕は特に必要としておらず、それよりは、それやその次作ったものをまた、読んでくれる見てくれる聞いてくれるという行動を継続してくれるということの方を嬉しく思います。それは相手が僕が作ったものに対して「そうしたい」と思ってくれているということだと感じるからです。お金を払ってくれるのもその範疇です。

 どれだけ美辞麗句を並べて褒めて頂いても、次に作ったものに興味を持たれていないのであれば、その言葉は、その時その場で適当に並べたてられたものでしかなく、体重が乗っていないように感じてしまいます。もちろん、その時その場だけでも褒めようとしてくれたのはありがたいことではありますが、結局それが行動を促すほどのレベルに達していないのであれば、その程度の評価のされ方なのだろうと思ってしまいます。言葉は重厚だけれど、その中身は軽いものだなと感じてしまうのです。

 

 僕はそういう考え方なので、その感覚に従って行動すれば、好きな漫画家さんなどに対し、第一にすべきこととして考えているのは、新しい作品が出てくればそれをちゃんと読むこと、そして本になったなら買うことだと思っています。なおその行動は、自分に「読みたい」「手に入れたい」という十分な気持ちが伴った場合のみ初めて実行することです。自分の感性に沿うならばこのような感じですが、このままでは結局持て余す「感動した」という感覚をいかにして言葉にすればいいのかが分かりません。

 

 良いと思ったのは事実なのに、何をどのように褒めればいいのか分からないのです。

 

 書道の漫画「とめはねっ」に、三浦清風先生という書道の偉い人が登場します。この三浦清風先生は、作中に登場する数々の書道作品を評価していくわけですが、この人は本当にその書のどこがどのように良いかを具体的に褒める人で、読んでいてすごいなあと思います。

 書道においても、賞の話になると、それぞれの書道作品に序列がついてしまいます。芸術的な分野では単純な数値による比較が行いづらいため、そこでつけられる序列に十分な根拠が示されなければ不公平感が出てしまいます。それは読者としても納得できるものであって欲しいと思います。なので、評価される人々やそれを眺める人々が、納得できる形で個々の作品を評価するということはとてもすごいことで、そのためには「良いものとはどのようなものか?」「悪いものとはどのようなものか?」「悪いものの何を直せばより良くなるか?」を、独善的ではなく一般的に納得できる形で示せなければなりません。

 三浦清風先生の尊敬できるところはもうひとつあります。それは、作中で前衛書を見せられたときに「自分にはこれを評価できない」という態度をとったことです。前衛書とは、書道作品を一般的な枠組みを逸脱して表現された作品のことだと思います。しかし、三浦清風先生は、自分では前衛書を書かず、前衛書に対する十分な知見を持ち得ないと判断したため、この作品が何かを表現しようとしたものであることまでは分かる、しかし、申し訳ないが自分にはこれを評価する能力がないと発言します。

 

 これはなかなかできないことだと思っていて、なぜなら自分が分からなかったとき、それを「良くない作品だ!」と判断することもできるからです。そして、それだってひとつのやり方です。しかし、その「自分がどう感じたか」のみを元にされる評価はあくまで自分の中の評価のモノサシに照らし合わせただけの話であって、それが世間一般で共有される評価のモノサシと一致するという自信でもなければ、「こう改めるべきだ」というような返答にはならないはずです。

 自分の価値判断が正しいのかどうか?それを常に刷新し続け、自分は何を判断でき何を判断できないかということを把握するということは、作品を作る人に対してフィードバックとしての意見を送る上では、重要なことなんじゃないかなと思います。

 

 僕はこの辺の普遍的な感覚を持ち合わせている自信がないため、作品の評価は行っていません。あくまで自分がどう感じたかという感想のみを書いているつもりです。だから、僕が書く感想文は、本当にあくまで自分がそれをどのように感じたかという内容でしかなく、だから、その文章が、作者は今後どうすべきだとか、これをもっとこうすれば良くなるというような意見と誤解されないように気を付けています。

 僕は自分の中のモノサシは持ち合わせている自覚はあって、それに照らし合わせればこの作品はこのように整理されるということはできるのですが、僕のこのモノサシは僕の個人的な心の問題でしかないので、普遍的な価値を持ち得るものではないし、それを混同されると弱るということを常々思っているのです。

 

 感想を「個人的な話」として捉えると、それが仮に作品の内容を多分に誤解したものであったとしても、常に正しいものです。そして一方、普遍的な評価と称されるものの場合は、その評価基準に対する世間一般からの納得を求められます。そのような納得を提供できる鍵は何なのか?それが分かりません。より多くの作品を見てきた経験があるとか、その人自身がより良いと評価されているものを作る能力があるとかは関係しているような気もしますが、それも絶対的なものではなく、常に流動する曖昧模糊としたものなのではないかと感じています。

 どこかのタイミングで、えいやっと自分のモノサシを普遍的なモノサシとしてすり替えるぐらいの豪放さが必要なのかもしれません。ただ、それを僕はできないので、感想に留めているのが実情です。

 

 評価するということ、どのように褒めるか?ということには、僕はずっとこのようなジレンマを感じていて、結局「この作品のこの部分が僕には響いて素晴らしく感じた!」ということは言えても、それ以上のことは言えないなと日和っています。しかし、この辺りの葛藤をすっとばした褒め方もあるように思います。それは芸術的なものに対しては適用しにくいはずの「数値による比較」です。それを無理矢理やる方法です。

 

 分かりやすいもので言えば売上でしょう。この漫画は素晴らしい、なぜならば100万部売れているからです!などというものです。同様に、序列の方を勝手に先につけるという方法もあります。なぜ素晴らしいかというと序列が高いからで、なぜ序列が高いかというと素晴らしいからだという循環参照を繰り返し、説明なしに価値があることを主張できます。つまり、何とかランキング1位とか、何とか大賞受賞とか、今季ナンバーワンの漫画だ!とかです。この漫画が他の漫画と比べて優れているのは、数字の大小比較によって自明であると主張することは、単純で分かりやすく便利な方法です。

 ただし、その方法は便利な反面、選ばれない漫画を序列の下として配置する犠牲のもとに成り立っているので、僕はあまりやりたくありません。例えば、売れている漫画を売れているから素晴らしいと言ったとき、売れていない漫画には価値がないということを同時に主張してしまうことになるかもしれません。今季ナンバーワンの漫画がこれだと言ったとき、では、他に読んだ漫画にはそれほど価値がなかったということになるのでしょうか?それらはどれも自分の感覚に矛盾してしまいますし、矛盾した行動をとりたくないので、実行するには抵抗があります。

 

 結局、個別の作品について自分が何をどう思ったかをつらつら書き連ねる以外のことができません。

 

 そもそも作品を「褒める」って何のためにやるんでしょうか?作者の人に、自分が良いと思った部分を伝えて、それによってその部分がより良くなってくれれば、自分がより嬉しくなっちゃうみたいなことでしょうか?あるいは、その作品とそれを好きな自分と同一視し、この作品の評価が高まることを、まるで自分の評価が高まることのように捉えることで嬉しくなっちゃうということでしょうか?それとも、ただただその作品に触れて湧き上がった感情の持っていき場がなく、言葉として溢れ出してしまったという事実でしかないのでしょうか?

 

 僕がやっていることは2番目と3番目でしょう。何かを良いと思ったら、何かを書きたくなり、そして、自分が良いと思った感性がその作品の中に含まれていたら、その感性の部分が素晴らしいと言ってしまうのです。それは結局作品の中に見つけた自分との共通点であって、つまりは自己アピールでしかないのかなと思います。と思えば、しょうもないことをしているような気持ちになってきます

 

 このように、よく分からないわけです。自分が何のためにそれをしていて、それをする以上は適切なやり方であるべきと思っていますが、何が適切かが分かりません。分からないという気持ちをそのまま書いているだけなので、この文章には結論なんてありません。

 ただ、分かんねえなあと思いながらも、良い作品に出会ったときに生まれる何かしらこうエネルギーみたいなものを持て余すので、なんとか文章に変換して書き残していこうとしています。

「この世界の片隅に」の映画を観たあとに思ったこと関連

 映画を公開初日に観たんですが、ようやく言葉になってきた感じがするので今さら感想を書きます。ちなみに原作は連載時に既読です。

 

 上映開始してすぐにすごく泣いてしまっていました。なんでかというと「絵が動いている!」と思ったからです。絵が動いているのはすごいなあ、最高だなあと思って、気持ちが溢れてダバダバと泣いてしまいました。

 僕は泣くとき「コップが溢れてしまった!」と感覚的に思うんですが、どういう感覚かというと、頭の中に感情を入れる用のコップ(概念)があって、それに液体のような感情が注がれるような感じです。そして、感情がコップのふちを超えてしまうと、涙として外に溢れ出てくるような感覚があります。歳をとったことにより、コップ自体が小さくなってしまったのか、コップが最初からある程度の感情で満たされた状態になっているのか、あるいは、注がれる感情の弁がガバガバでどっしゃりと流れ込んでしまうのか、それともそれら全てなのか、とにかくすぐに泣いてしまうようになりました。

 本を読んだり映画を観たりゲームをしたりして、よく泣くので、泣いたこと自体はよくあることで、だからどうということではない感じではあります。ただ、この映画に登場する風景と人々の所作から、なんらか自分の感情を動かすものをたくさん読み取ってしまったということなのでしょう。

 

 「この世界の片隅に」は、太平洋戦争時の広島を舞台にした物語で、すずさんという女の子が、成長して呉に嫁に行き、そこで生活をする様子を描いた漫画とそのアニメ映画です。これが何の映画であるかというと僕は「戦争の映画」だと思っていて、そして、その戦争と日常の生活が切り離せないほどに融合しているお話だと思いました。

 これは戦争が起こっている中での日常の話です。そして戦争中というのは、平和な状態と比較すると狂っているのだと思います。それゆえ、その中の日常の生活も多かれ少なかれ狂っています。その狂いは知らず知らずのうちに広がっていたものではないでしょうか。つまり、戦争がなければ起こっていなかった狂った出来事が沢山巻き起こり、そして、狂った世界の中にいては、その世界が狂っていることになかなか気づくことができません。

 ちなみに僕は「狂っている」という言葉を、「正常(というものがあるなら)な状態とは異なる価値観によって判断が行われること」と考えていて、それゆえ、狂っている側の視点を持てば場合、正常の方をむしろ狂っていると思ってしまうような、相対的なものだと捉えています。

 その意味で言えば、他人の視点を使うなら誰しも互いに多かれ少なかれ狂っているのです。そして、この物語の中には戦争という大きな狂いが存在します。

 

 今の平和な世の中に生きる僕からすると異常なことが、当たり前のような顔をして登場します。しかしながら、その異常さが日常に巻き取られ、埋没しています。そのおかしな状況を、以前から地続きの日常と捉えてしまうような強い恒常性が、人間の持つ強さであり、そして、それは吹雪の中で裸でいて、なぜ寒いか分からないような異様なことかもしれません。

 この物語では、戦争の激化に従って、異常さの表面に糊塗されていた日常という化けの皮がはがれ、その背後にあった世界の異様さが眼前に露わに広がります。それは耐えがたい光景として繰り広げられ続けるのです。終戦という転換点を迎えるまで。

 

 映画では原作漫画以上に、空襲の様子が強く、具体的に描かれていました。それを観ていたときの自分の感情は、「もうやめてくれ!」と強く願うしかないような状態です。それはさながら、防空壕の中でただただ空襲が終わるのを待っているような気持ちかもしれません。

 なぜこんなことが起こるのか。呉が海軍の重要な拠点であることは知っていて、戦争ならば、そこを潰すための作戦行動があることも分かっています。しかし、民間人の家を焼き、機銃で攻撃するようなことまで本当に必要でしょうか?なぜ、こんなことが起こっているのか?という疑問と、その状況に耐えるしかない辛さを感じました。

 そして、ここまで来て、一切お話の中に出てきていないことがあることに気づきます。それはこの戦争が、日本が仕掛けたことで始まったということです。そして、日本の国民が強いられているこの状況に相似する何かしらが、日本の外では日本人の手によって行われていただろうことです。そこが地続きであるということに思い至ります。

 

 主人公のすずさんは、目の前にある状況をそのまま受け入れがちな人であるように思います。何かが起こったとき、それをまず受け入れ、それからどうしようと考える性質の人であるように思いました。

 その姿は、ともすればバカのようにも見えます。受け入れるという行為そのものには本人の考えを見出しづらいからです。考えがないように見えてしまうのです。夢見がちの夢心地で、現実から遊離しているようにも思えるかもしれません。すずさんは絵を描く人です。絵は現実ではありません。現実を種として広がった空想の世界です。すずさんは現実を生き、同時に、その右手で描いた夢のような世界も生きていた人なのではないかと思いました。

 すずさんは、道を切り開く強い意思を見せるのではなくでなく、ただ状況を受け入れていく姿を見せます。しかし、そこで何も感じていないわけではないでしょう。色々考えて、感じて、それでもそのように生きているのだと思います。そしてそれを「普通」という言葉で表現されます。

 狂った世界の中で、ただ一人普通であること、それは見方を変えれば別の意味で一人狂っているのかもしれません。その生き方には彼女の右手の描いた、絵の世界が関わっていたように思いました。そして、その右手は爆撃に巻き込まれたことによって失われてしまうのです。

 玉音放送後のすずさんの慟哭は、正常が異常に、そして異常が正常になった姿ではないかと思いました。夢と現の垣根が壊れてしまったということです。今まで何に目をつぶってきたのか、そこから何に向き合わなければならないのか。今まで生きてきた生活とは何だったのか。それには本当に意味があったんだろうか。そこにあったのは戦争というものの被害者の姿かもしれません。そして同時に、無自覚に戦争に加担していた加害者でもあったという事実も突き付けられた姿なのではないでしょうか?

 この国から飛び去ってしまった正義のこと、暴力に屈するということ(それはまた、暴力で押さえつけていた何かもあったということ)は、それまでの笑える日常とともにあり、目を向けなかったものに気づいてしまったということではないかと思います。

 

 何が夢で何が現であったのか?この物語は最初から夢のようなシーンで始まります。最初に登場した謎の人さらいは、最後にも登場します。彼の姿は、戦争に行って帰って来なかったお兄ちゃんのその後を、すずさんが想像した姿と繋がります。それは夢かもしれません。でも、物語上は事実です。さて、この物語は夢なのでしょうか?それとも現なのでしょうか?

 

 夢と現、空想と現実、日常と戦争、それら二つが合わせ鏡のように存在しています。遊離し、乖離しているかのようにも思えたそれらが、合わせてひとつのものであるということを描いているように僕には思えました。

 このお話は作り事です。しかし、現実にあったことをよく調べて作られているそうです。そのよく調べ、調べた結果が再現されているということは、映画では原作よりさらに仔細にビジュアルとして表現されていると思いました。これも夢と現ではないかと思います。実際にはなかったことを描くために、実際にあったらしいことを細部にわたって積み上げることで、そのなかったことを浮かび上がらせているように思いました。

 この世界に片隅を作るため、それ以外の世界を具体的に詳細に描いたとも言えるかもしれません。

 

 ただ果たして、この映画で描かれていた戦時の生活が、本当にリアルであるのか?ということに対して、僕は意見を持ちません。なぜならば、僕自身がリアルな戦時の生活というものを知らないからです。正解が分からない以上、リアルかどうかを判定する能力がありません。ただ、リアリティ(もっともらしさ)は感じました。

 僕は以前色々思って、戦争体験の話を色んな人に聞いたことがあります。一番印象的なのは玉砕命令を受け、からがら生き延びたもののソ連軍に拿捕されてシベリアに抑留されていた父方の祖父の話です。

mgkkk.hatenablog.com

 反面、母方の祖父と祖母は、当時地元の山奥の農家の子供だったので、空襲も体験していなければ、食料にもそこまで困っておらず、特に悲壮感を感じないものでした。人間の数だけ、戦争体験はあり、何が正しいのか正しくないのか、誰を基準とすればいいのかも分かりません。人から聞いた話から、なんとなく想像はしてみますが、それは人の語りの中の話であって、事実とは乖離もあるんじゃないかと思います。それもまた夢かもしれません。

 

 人は夢と現の狭間を行き来しながら生きているのかもしれません。夢とは自分の頭の中にあることで、現とは自分の頭の外にあるものなんじゃないかと思います。頭の中にいる限り夢は正しく、頭の外にある限り現は正しいと思います。ただ、夢(頭の中)をそのまま現(頭の外)に持ち出そうとしたとき、逆に、現(頭の外)をそのまま夢(頭の中)に持ち込もうとしたとき、それらがどれだけ乖離しているかによって、その差を一気に埋められるという動きが発生し、そこで大きく感情が動いてしまうということがあるように感じています。

 この映画を観ていたとき、僕はそこで感情が溢れていしまっているのではないかと思いました。日常と戦争の間にあった薄皮が剥ぎ取られてしまったとき、夢を描くために使っていた右手が失われてしまったとき、そして、それでも続いていくのだと思ったとき、頭の中に用意されている感情のコップには押しとどめておけないほどの様々な感情が流れ込んできて、終盤はずっと泣きながら見ていました。それは怒りとか悲しみとか喜びとか様々な感情が混ぜこぜにされたもので、それらが区別されず同じコップに注ぎこまれてしまっていて、ただ溢れてしまっていたような体験であったように思います。

 

 漫画は連載であったこともあり、さらに自分のペースで読めるので、少しずつ消化しながら読んでいたものが、映画では映像や音の強さもあって一気に津波のように流れ込んでくるので、感情がずっとオーバーフローしていたように思いました。

 

 それがすごく良かったなと思いました。おわり。

 

 

 あと自慢なんですが、こうの史代さんには昔ある経緯でサインを頂いたことがありますので見せびらかしておきます。

過去や未来や異世界を舞台にした物語に現代の常識が紛れ込む問題

 例えば過去や未来や異世界を舞台にした物語の中で、なぜか現代の日本の常識を持った人物が登場するということがよくあります。それはなぜでしょうか?

 

 結論から書くと、それはその物語の想定読者が現代の日本の常識を持った人間だからだと思います。

 

 人間の常識、つまり「言わずとも当たり前である共通理解」は、時代や場所によって異なります。もちろん、同じ人間である以上、それらを超えて理解できる部分はあるでしょう。でも、例えば、食の問題一つをとってみても、タコを食べる日本人を理解しない外国人もいれば、犬や猫を食べる外国人を理解しない日本人もいます。

 極端な例で言えば、食人の習慣のある人々がいたとして、人間を食材にした料理が食卓に上がったとすれば、そのような常識を持たない現代の日本人からすれば狂気に溢れる光景のように見えるかもしれません。しかし、何らかの機会には人を食べることもあるという常識を持っている人々がそれを見たとしたら、それをよくある風景と思ってしまうかもしれません。同じ光景を見たとしても、見た主体の持つ常識によって全く異なる理解をしてしまうのです。

 

 あらゆる伝達手段には、発信者と受信者の間で握っている暗黙の了解があります。そのような了解があるからこそ、言葉や文字に意味を込めて情報を伝えることができます。もし、それがなかったとすればどうでしょうか?例えば、地球人と何も前提を共有していない宇宙人から、何らかのメッセージが地球に届いていたとして、それが何かを意味するかを解読することは困難です。そして、そのメッセージを解読した結果も地球人にとっては意味不明で理解不可能なものかもしれません。

 

 つまり、「現代の日本の常識を持った人が物語に登場する」ということは、少なくともその登場人物の主観の部分においては、現代の日本の読者にも理解可能なものがあるということです。

 その登場人物が、訪れた過去や未来や異世界に存在する別の常識に触れたときに持つ違和感は、読者が持つ違和感と同じものになるはずです。異文化を描くときには、このように現代の常識を持つ人物を登場させる方法がよく使われます。その物語に登場する異文化は、読者の持つ常識とどのように違うのか?そこで相互理解に至るにせよ、理解不能と言う結論に至るにせよ、その差を認識するために効果的な方法です。

 

 さて、現代のある場所で作られる物語は基本的に、現代のその場所に生きる人々に向けて描かれているものです。なぜならば、それらの物語は誰かが読むために作られているからです。その誰かが「既に亡くなった遠い昔の人」であったり、「まだ生まれていない遠い未来の人」であったり、あるいは「自分とは一切かかわりのない遠い世界の人」である物語があるとしたら、それらはかなり特殊なものでしょう。

 なので、その物語の舞台が過去であれ未来であれ異世界であれ、物語を「何かを伝達するもの」と認識する以上は、現代のその場所に生きる人々のために作られていると考えられます。であるからこそ、現代のその場所に生きる人々に理解可能な常識をその中に内包する必要があるのではないかと思っています。

 

 例外的なもので言えば、過去の異国で描かれた物語を、現代の日本人が読むというような場合でしょう。なぜなら過去の異国で描かれた物語は、過去の異国に住んでいた人々を読者として想定して描かれているからです。そのような本を実際に読んでみると分かりますが、意味がとれない表現が沢山でてきます。

 例えば、「不思議の国のアリス」では、様々なジョークがその物語の背後に存在していますが、それらの意味は説明なしには現代の日本人には分からないことが多いはずです。帽子屋(The Hatter)は、頭のおかしい言動を繰り返すキャラクターですが、彼は「as mad as a hatter」という当時の慣用句を元に作られているそうです。しかし、そのような言葉を日常使うことがない現代の日本人にとっては、解説なしには理解することは困難です。

 自分が想定読者として含まれていない本を読む場合、このような意味のとれなさはよくあります。しかし、例えば外国の物語が日本に向けて翻訳されたものを読むのであれば少しはましになります。なぜなら翻訳者が、翻訳先である日本の常識に合わせて内容を変換してくれることが多いからです。そのせいでむしろ本来の意味が分かりにくくなることもあるかもしれません。しかし、少なくとも全く意味の分からない言葉は分かる言葉に置きかえられて表現されるようになっているはずです。

 

 では、これが地域ではなく時代、例えば過去の日本であればどうでしょうか?僕は100年ぐらい前の本をちょいちょい読んでいるのですが、文章の意味を上手くとれないことがよくあります。

mgkkk.hatenablog.com 例えばあることを肯定的に書いているとして、それを本当に肯定的に主張したいのか、皮肉でそういうことを書いているのか、あるいは、なんらかの意味を持ったジョークとして言われているのかを明確に区別する方法を持ち合わせていません。

 そのような分からない中で、似たような本を大量に読んでいると、その時代の常識が段々と蓄積されてくるので、なんとなく意図が分かったような気になることもあります。しかしながら、それらはやはり、限定された書物の中から得た常識でしかなく、当時の人々が持ち合わせていた常識と完全に一致しているという保証はないわけです。いったい、その時代のその本の読者は、何を思ってその本を読んでいたのか?それは不確実な認識のもとにしか理解することができません。

 

 同じ時代の同じ常識を共有している人ですら、ある本を読んだ結果の認識は様々です。時代や場所が異なればなおのことでしょう。過去の人々が過去の人々のために描いた物語の中には、読者として想定されていない自分では上手く受け取れない何かが含まれています。そして、自分を読者として想定した現代の人々が描いた物語にも、この時代のこの場所の人間にしか分からないようなものが含まれているはずです。それが、過去や未来や異世界を舞台にした物語の中にも存在したとして、否定されるべきものでしょうか?

 つまり、そのような現代の常識が紛れ込んだ場合については、その物語は、現代の人間が理解しやすいように翻訳して描かれているというふうに理解すればよいはずです。もちろん、外国の本を原書で読むように、自分に向けて描かれていない物語を異文化を理解する気持ちでそのまま読むという体験もよいものでしょう。ただ、それが唯一の正しいものであるとは僕は思いません。

 場所や時代の常識に反する表現が物語の中に登場したとして、それは物語を通じて伝えたいものを伝えやすくするため、想定する読者の理解に寄り添うために登場しているものであって(とはいえ単純な考証不足の場合もあるでしょうが)、間違っていると呼ばれるものではないと思うのです。

 

 そして、過去や未来や異世界の常識を、そもそも僕らは持ち合わせていないという問題もあります。例えば、「300年前の人々はこんな常識を持っていた」という話があるとして、それは事実でしょうか?おそらくそのような話を口にしてしまうとき、300年前に書かれた書物を大量に読んだ結果得た常識を元に類推しているのではなく、「300年前の人々はこんな常識を持っていた」と書かれた本を1冊2冊読んだというような根拠しかなかったりはしないでしょうか?それは本当に事実であると語るに足る証拠でしょうか?

 いい加減なことが書かれたと思われる書物も沢山あります。「過去にはこういうことがあった」ということを事実として断定するには、かなりの証拠集めが本来は必要なはずです。でも、薄弱な根拠をもとに、分かったような気になってしまっていることがあります。そのような根拠とは、おそらく、現代に描かれた過去を舞台にした物語なども含んだ様々なものを今まで読んできたことの集積でしょう?でも、それはやはり、過去の事実と完全に一致することはないのではないでしょうか?

 一度立ち返って、自分は何故その時代にはそういう常識があったと思っているのかを探ってみる必要があるかもしれません。そのとき、実は「ある本にそう書かれていたから」以外の理由が見つからないのであれば、そのわずかな手がかりを、事実と置き換えて認識しているということです。それらの参考文献もまた、現代の人々に対して翻訳して描かれていたものであるかもしれません。事実を語るのは非常に難しく、それが事実であるのかどうかを検証するのも一筋縄ではいきません。

 過去の事実や感覚についてどれだけ忠実に再現しようとしたとしても、そもそも正解を読む側である自分が把握しておらず、また、その物語が現在において現在の人々に対して描かれたものであるならば、その中には現在の感覚で分かるものが混ぜ合わされるものだと思います。そして、分かるものをとっかかりにして分からないものにも手が伸びるという作りになっているのではないでしょうか?

 

 さて、不思議の国のアリスの帽子屋は当時の慣用句を元にしたと上で書きましたが、その話は不思議の国のアリスがモチーフとして登場する漫画の「ARMS」が好きで好きでたまらなかった高校生のときに読んだ本に書かれていたもので、実際にそのような慣用句が日常的に使われていたかどうかの証拠を僕は持ち合わせていません。

 もし、この文章を読んでいる人がその話をさっき初めて知ったとして、それが事実であると信じたでしょうか?Wikipediaで検索してみれば、同様の話が出てきますが、それを持って事実であると思えるでしょうか?もしそうなのだとしたら、ある本やブログにいい加減なことを書いた人が、注目されにくいWikipediaの項目にそれを反映したとして、その両方を目にしたとき、それを事実ではないと見抜くことができるでしょうか?何が本当に事実であるかを断定的に語ることは、真摯に取り組もうとすることは、前述のようにとても手間がかかることです。

 自分が生まれ育った環境以外の常識を正確に把握するのはとても難しいことです。

 

 まとめると、現代の日本の常識が、過去や未来や異世界などの別の常識が存在する場所に紛れ込むのは不自然です。しかし、読者である自分が現代の日本の常識に基づいて生きている以上、それを全く排除した場合、物語として自分が理解できるとっかかりが失われてしまうかもしれません。言葉や常識、感覚が異なる場所では、必ずしも現代の日本人が理解して納得できる物語として成立しない可能性があるからです。

 筒井康隆の「最悪な接触(ワーストコンタクト)」では、地球人とは感情回路の異なるマグマグ人が登場し、彼らの感情論理に基づいた行動をとります。それは地球人には全く理解不能なものとして描かれていて、行動をしっくりくる形で受け取ることができません。その物語がマグマグ人のために描かれているならよいでしょう。あるいは、この物語のように理解しあえないということが主題であれば納得できます。しかし、そうでないならば、やはり、なんらかの形で現代の日本の常識は物語の中に紛れ込むはずです。

 綿密な取材と考証によって、過去をできるだけ再現した物語であったとして、それはその中への現代の常識の埋め込み方がさりげなく、やり方が上手いということであって、現代の日本の常識がそこから完全に排除されたということではないのではないでしょうか?そして、そのさりげなさに、別の常識の方を精緻に把握できていない読者は気づくことができないかもしれません。

 なので、僕が思うには現代の常識が紛れ込む不自然さと、同じくそれらが盛り込まれているはずなのに自然に見えるものとの差は、表現したいことを何としているかに基づく手法の選択の問題であって、作品の出来の優劣を決める要素とは異なる話ではないかと思います。

 

 本当に現代の常識が入らない物語を読みたければ、過去や外国で作られた物語を原書で読むという方法もあります。僕はたまにやっていますが、それらは現代の日本の常識ではないものに基づいて描かれているために「わかんねえ~」という気持ちを抱えたまま読み終わることになることも多いです。そして同時に、それでも「わかる~」という部分もあるのが、場所や時代を超えて同じ人間であるという共通点を感じて面白いところですね。

「晴れ間に三日月」を読んだ関連

 イシデ電の「晴れ間に三日月」を読んだのですが、面白かったのでその感想を書きます。

 

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 このお話は、ある女の人が彼氏(バンドマン)を、幼馴染の親友に紹介したところ、その彼氏がその幼馴染に一目ぼれしてしまい、目の前でフラれてしまうというところから始まります。そして、実は既に子供を身ごもっていたその女の人は、妊娠の事実を告げることなく、町を離れ、水商売をしながら一人でその子を育てることにしたのでした。さて、その息子も中学生になるほど時間が経ったあるとき、その女の人は祖母の経営するパブを継ぐために、また生まれ育った町へと帰ってきます。

 そこには、かつて自分から恋人を奪った幼馴染が、その元恋人と子供二人と、温かい家庭を作っているのです。会いたくないですよね。会いたくないでしょう。でも、再会してしまうお話なのです。さて、彼女たちはその後、どのような人間関係を構築していくのでしょうか。

 

 冒頭のあらすじを読むと、どろどろとした陰鬱な物語なのかと思ってしまいそうですが、必ずしもそういうものではありません。そのようなことが「かつてあった」ことを前提に描かれる、日常の中のお話ではないかと思います。そして日常のお話でありながら、その背後にはそういうことがあったということ、それがなかったことではないということだと思います。

 

 もし「正しい人付き合いの仕方」というものがあったとして、「それに沿う人を正しい人」、「それに沿わない人を間違っている人」としたら、僕が思うに大半の人はなんらかの部分で間違っている人なんじゃないかと思います。そもそも何をもってして正しいとするかという問題がありますが、例えば、全く無理をせず自然体で過ごしながら、周囲にいる人たちに理不尽な負担をかけることなく助け合い、毎日楽しくやっていくということを「正しい」としたら、僕自身はそれを満たして生きている自信がありません。

 誰かと付き合うために何らか無理をしていることもしばしばですし。自分が自然体で付き合って楽しいと思っていても、相手に知らずに負担をかけているかもしれません。その辺は本当に自信がないんですよ。だから僕は自分は多分間違っている側の人だと思います。そして、それは気づいたとしても、自分でも簡単にはどうにもなりません。

 

 このお話の中にも、多くの間違っている人がいると思います。そしてそれは特殊なことではないとも思います。誰しも多かれ少なかれ間違っていて、このお話では最初から色々な間違いを発見することができます。恋人がいながら別の女性に心を奪われてしまった間違い、親友の恋人を奪ってしまった間違い、もしかすると、それによってひとりで町を去ったということも間違いかもしれません。

 人間関係における正しさというものが僕にはどうにもよく分からず、もっとよい方法があったのではないかと常に考えてしまいます。そしてその考えは、自分が間違ってしまったんじゃないかと思ったときに一番よく頭をよぎります。

 

 僕の経験的な感覚として、多くの人間はあまり自由に生きておらず、自分が背負っている役割などが求めてくるものの方が、自分の意思よりも強く自分の行動を決めているように感じたりします。朝仕事に行くのは自分の意志ではなく働き手を求める仕事の意志でしょう。夜にご飯を食べるのは自分の意志ではなく生きるための肉体の意志でしょう。やることを求められているため、それに応えているだけのように思うのです。

 でも、普段はあまりそれを意識していません。そして、意識せずにいられることはある種の楽な状態なのかもしれません。ただ、時折、その背負った役割ゆえの行動が、役割を持ち合わせていなかったと想像した場合の自分と、すごくギャップがあるように思えて驚いてしまったりもします。

 自分は自分の意思でこのようなことをしているつもりだけれど、ふと立ち戻って考えたとき、そもそもそれは自分のしたかったことなんだろうか?もしかしたら、そうすることで誰かが喜んでくれるから、あるいは、そうしなければ誰かが怒ったり傷ついたりするから、そのようにしようと思っているだけなのではないかと思ってしまうのです。

 

 この物語は、自分の本当の意志に気づける人と、自分の本当の意志に気づけない人を取り巻くお話であるように思いました。でも、その差は100と0のような明確ではなくて、60と40のような微妙な違いのように思います。それは当たり前のことで、自分の意志しかない100の人も、自分の意志がまるでない0の人も、傍からみればある種の異様な人です。なので、そうではないことは普通ということです。

 多くの人間は普通で生きていくしかありません。普通の生活では、日々揺れ動く自分の意志の割合が表に出てくるレベルになったり、表に出てこないレベルになったりして変動します。それが葛藤でしょう。それに決着をつけるのが、なんらかの人生の節目ではないかと思ったりします。

 

 この物語の最後では、そのような節目を迎えます。

 

 裁定者のような目線を得て、誰かを間違っているとすることは可能で、誰にだってなんらかの間違っている部分を探すことができます。そして、そんな間違っている部分はその人を気楽に責め立てるとっかかりになりやすいものです。そういうことはいくらでもできます。でも、じゃあ、それを気楽にできるほどに自分が間違ってはいないのかというと、自分にも全く間違っている部分があると思ってしまいます。だからといって、他人の間違いを見過ごすことが正しいかというと、それもよく分かりません。

 そんな曖昧な状態で、日々生活は続いて行くようなものだと僕は感じているのですが、このお話ではある種の節目に至りました。それは重要なひとときで、鮮烈な場所です。そして、だとしてもその先も続いていくものです。

 

 この物語における、日々の生活に曖昧に埋没しない感じ、かといって、なんらかの客観的な正しさで他人を塗りつぶそうとはしない感じ、そして、それが全ての終わりではない感じがとても心地よく感じました。

 この漫画をまた読んで感じた色々を、頭の中でぐるぐるさせながら、昨夜は小雨の降る夜の道を、喫茶店から家までてくてく歩いて帰ってきました。

自分の優位を他者否定でしか示さないやり方について

 これから書くのはただの悪口なんですが、どうにもよくないんじゃないかと思うやり方があって前々から引っかかっています。どういうやり方かというと、自分が優れていることを主張するために、自分の優れている部分を他人に見せるのではなく、他人を「優れていない!」と批判してみせることで、間接的に相対的に自分が優れているような雰囲気を醸し出そうとする方法です。

 

 大阪に住んでいた頃、大阪という土地の少なくとも僕がいた場所では「面白い人がすごくて偉い」みたいな雰囲気がなんとなくあったので、みんなできるだけ面白くなろうとして、他人を笑わせるようなことを沢山言うというような感じになっていました。しかし、その中には、前述のようなことをする人も混ざってきます。

 その人は、自分がお笑いのレベルが高い(つまり、その集団の中で偉い)ということを主張するために、他人を「面白くない」「わかっていない」「すべっている」と否定していきます。この手の人は、接すると嫌な気持ちなるので、自然に任せるとその人の周囲からは人は離れていくようなものだったりもしますが、ところが例えば年長者であったり、否定している相手に対して何らかの力関係の存在している場合があり、そんな状態でも周囲に人がいる状態が保たれるので、そのまま変な雰囲気が継続したりします。

 具体的に言うと、先輩と後輩のような間柄、あるいは教師と生徒のような間柄において、後輩や生徒を「おもんない」「おもんない」と言い続けることで、自分はさもお笑いが分かっているレベルが高い人と言うような雰囲気を出してきます。後輩や生徒の中で素直な人は、自分が笑いのレベルが低くて悪いんじゃないかと思って、頑張ってその人が笑いそうなことを言おうとしてしまったり、場合によると黙ってしまったりします。しかし、そもそもその指摘している人自身は別に面白いことを言うわけではありません。面白いことを言うわけではないのに、「自分はお笑いを分かっている」というような感じをぐんぐんに出してきて、場の主導権を握ろうとしてきます。大変面倒くさい人です。

 ただ、こういう人はちょいちょいいたので、うわぁ…面倒くさい人だ…とは思うものの、いちいち腹を立てても仕方ないという感じでもありました。あと、面白さの基準は人それぞれなので、僕が沿わない面白基準がその人の中にはあるかもしれないとも思い、他人にとやかく言う気が削がれてしまうというのもあります。

 

 この手の人たちが、なぜこのような行動をとるかというと、僕が思うには、おそらく皆が笑う面白いことを言うのは難しく、他人をおもんないと指摘することは簡単だからでしょう。面白いとおもんないが同じ軸上に並んだ概念であったとするならば、周りをおもんない人呼ばわりすることで、その人は相対的に面白さとは何かが分かっている人であるかのような雰囲気になります。なんと、一切面白いことを言うことなしにです。なので、他人を笑わせようと考えることもせず、手を抜いて、そういう楽をしてしまっていたんじゃないかなあと思います。

 

 そう思ってみれば、世の中にはこのような態度を示す人が他にも沢山いることに気づくでしょう。例えば正しいと思われたい人が、正しい行為をし続けることで周囲の支持を集めるのではなく、他人を「間違っている!」と糾弾することで、あたかも自分が正しいかのような雰囲気を醸し出したりするやつです。あるいは、自分がセンスのある人間であることを示すために、世の中にある色々な創作物をセンスがないと言いまくるみたいな感じの人もいるでしょう。そのセンスを具体的に示す物作りを一切していない人や、その人自身は特に大した何かを発表しているわけではない人が、既に多くの人の支持を集めているものに対して、「全然分かっていない」「駄作」「大衆は見る目がない」というような言葉を投げかけていることもしばしばです。

 そのような人にとっては、「自分が分かっている人間である」「自分は優れた人間である」と主張し、周囲にそのように受容されることが重要なことなのかもしれません。しかし、その状態に至るための手段の部分で手を抜いてしまうために、いざ行動する側となると実力は伴っていないことが多いのではないでしょうか?なので、本当に分かっている人がいてほしいときや、本当に優れた人に来てほしいときに、そういう人を間違えて呼び込んでしまうと、たいへん痛い目に遭います。

 

 このような人は一見害悪でしかないように思われますが、自分で物事の良し悪しを判断するのが億劫な人とは相性がよく、こういうめちゃくちゃなことを言いまくる人に、適当な正解を決めてもらうことで、一人では優柔不断でなかなかできない、目の前の何かについて「正しい」と「間違っている」に選り分ける作業ができるようになったりします。あるいは、一緒になって何かを糾弾することで、自分も「分かっている側」になったような気になったりもするかもしれません。でも、これらの態度と行為は基本的に、その人たちが否定している他者の方に、むしろ依存してしまっているものだと言えるでしょう。なぜなら、他人を「間違っている」と言わないことには、自分が正しいことにはならないからです。

 なので、その手の人たちには「分かりやすく間違っている他者」が供給され続けることが必要です。幸か不幸かインターネットには人間が沢山繋がっており、検索することも簡単なので、そういう人たちの餌食になる「間違っていると認定された人」を次から次へと見つけることができます。おかげで絶え間なく終わりなく、そのような、「この人は間違っている」と指摘する行為を続けることができるでしょう。

 

 でも、それらの行為は、実際に何かの物を作ってみたり、何かの問題を解決しようとしてみたりする上では特に役に立たないことではないかと思います。暇つぶしならいいかもしれませんが、自分にちゃんとすべきことがあるならその手の人たちの相手をしても不毛でしょう。相手の目的がその人自身のコミュニティにおける優位性を確保することであるならば、それはその人の内面の話であり、自分が取り組んでいる目の前のものをより良くする課題とは、異なる目的を持った答えであると考えられるからです。

 

 何かを否定する行為に意味がないとは思いませんが、一方、それがお手軽に自分が優れていると主張するできる行為であるという側面もあります。その誘惑にひっかからないことが重要ではないかと感じています。何かに対する否定的な言葉が自分の口から出てきたとき、それは「その何かをより良くする目的で発せられたもの」か、あるいは「自分が分かっている側であることを周囲にアピールする目的で発せられたもの」かを立ち止まって考えた方がよいと考えています。

 さて、悲しいことに今僕が書いている文章もその枠組みの中に収まってしまうものです。なので、たいへん残念なこととなっています。この文章は僕という人間が今揶揄している対象である人たちよりも、「より分かっている人間である」とアピールする文章であると読むことができますし、それはたいへん拙く下劣なことをしてしまっていると言っていいでしょう。

 自己嫌悪を招くため、こういうことはできるだけやりたくないことですが、僕がこういうことを思わず書いてしまっているのは、それに類する嫌な光景をまた見てしまったからです。そのような「自分が優れている」と主張したがための争いごとを日々何らかの形で目にするはめになっています。もちろん、僕が目の前の光景を悪意的に解釈しているという疑念も払拭できませんが。

 以前は、自分とは異なる意見でも、目にいれるぐらいの方がいいだろうと思っていました。しかし、今ではもう全てを網羅的に目にするのは不毛と捉えていて、それ以上に不快にすら感じることもあって、どんどんそのような言説が目に入らないようにフィルタリングをしています(ただし、僕が接点を持ちたくないだけで、やめろとは思ってはいません)。

 

 僕自身の行動指針としては、そういう行為と決別し、面白い人と思われたければ、面白いことを言う。優れた人と思われたければ、なんらかの優れた結果を示す。センスがよいと思われたいなら、他人に分かる自分のセンスのよさを見せる、シンプルにそこを目指すことをした方がいいんじゃないかと思っています。そうしようと思っています。

 繰り返しになりますが、例えば他人からの批判的なアドバイスがきたとき、その人は何を根拠にそれを言ってくるのか?少し考えて、その人が自分がスゴイと言いたいだけの人であるならば、それはその人と社会の関わりあい方の話題であって、自分自身が取り組んでいることとは関係のない、その人自身の心の問題について言及しているだけだと判断してもよいと思います。

 そうしなくてもいいですが、僕はそうしています。

「エアマスター」を読むと元気が出る話

 なんか嫌なことがあったり、やる気がでないときに「エアマスター」を読み返すことがあるんですが、なぜかというと、僕はエアマスターを読むと元気になる体質だからです。エアマスターという漫画は人間の感情がパツパツに入った風船みたいなものです。触れるとはじけて、全身に感情を浴びてしまいます。僕自身のちっぽけな感情は、弾けて出てきた感情の奔流に流され、全てが些事のように思えてきます。読むことで、湧き出るようなどこに向かっていいやら分からない感情が頭の中で大暴れです。

 

 好きなエピソードは沢山にあるので、全部を書くのは面倒ですが、元気を出したいときに読むのは深道(兄)と渺茫との戦いが多いです。深道に(兄)とつくのは(弟)もいるからです。弟はこれから書く話には特に関係ないので、未読の人は無視していいです。

 エアマスターストリートファイターの相川摩季(通称エアマスター)がストリートファイトをする漫画なのですが、大きく分けると3部構成で、最初がストリートファイターとして路上で出会う様々な格闘家たちと戦っていく話、次が、深道ランキングというストリートファイターたちの強さランキングに参加する話、最後が、今まで登場した全ストリートファイターが廃墟に集められ、最後に残った一人を決めるバトルロイヤルの話です。

 渺茫という男は、この漫画のラスボスであり、霊的な力によって時代時代に最強であった十五人の格闘家の魂をその身に宿す者です。深道ランキングは深道(兄)が、この渺茫を自分の世代で倒してみたいと思い作ったものなのです。十五人の格闘家の魂を全開放した十五漢渺茫は、常識外に強く、作中に登場するどんな強い格闘家たちも敗れてしまい、そして主人公のエアマスターですら負けてしまいます。深道(兄)は、手持ちの格闘家を全て渺茫にぶつけ、敗北し、全てが終わったかに思えたとき、満足はしたものの、まだ燻るものを感じました。敗北者の中から傷が浅くまだ戦える者たちと共に、今度は自ら戦うことを決意するのです。

 深道(兄)と共に戦う残った者は(作中において相対的に)強い者たちではありません。個性は強くとも、敗れた経験のある者たちです。敗残者たちの寄せ集めです。そんな負けた者たちが、最強の十五漢渺茫に挑むのです。挑む前から勝てそうにもないと感じてしまいます。でも、まだ胸のうちで燻っているわけなのです。それは、まだこのままでは終われない者たちの打ち上げる、最期の花火なのですよ。

 

 パワーがとりえの月雄、浸透勁の使い手の屋敷、空中戦が得意な女子プロレスラーのカイ、忍者の末裔である尾形、そして深道(兄)の5人のパーティです。ラスボスを倒すための深道クエストです。それぞれが渺茫に勝てるかもなんて話ではないんですよ。まともに戦っても負けることなんておおよそ分かっているわけですよ。それでも挑むわけです。そして、彼ら彼女らは次々と散ってゆくのです。

 最初にやられたのは屋敷、渺茫浸透勁を叩き込むものの全てを出し切って気絶してしまいました。

 次に敗れたのはカイ。アイドルが大好きなカイは、深道(兄)の正体が、推しの藪沢くんであることが判明したおかげで、ぎゅっと抱きしめられたその最高潮のテンションを携えて渺茫に突撃します。もちろん玉砕です。しかし、その勢いが残った人々のテンションを上げていきます。

 次の月雄は渺茫に相撲を挑むわけです。渺茫を寄り切って勝利宣言をするものの、そもそもそんな勝負じゃないんですよ。その後、一撃でやられます。バカでしょう?しかし、そのバカがさらにテンションを加速していきます。

 尾形は、ハイテク忍術を隠れ蓑に除霊の技で渺茫に挑みます。それは意外に有効な攻撃でした。しかし、それでも渺茫の圧倒的なパワーには敵いません。気の込められた強い攻撃を受けて、泡を吹いて言葉すらままならない中で、負けていきます。そのとき、尾形が叫ぶわけです。クールな現代忍者が声を張り上げて叫ぶわけです。「頼むぞ深道!」と。「たのむぞーっ!だのぶぞーっ!ブガびヂぃーっ!(頼むぞ、頼むぞ、深道)」と。

 

 彼らの想いを受け、加速度的に高まったテンションをもってして、深道(兄)が渺茫と対峙します。一度も本気で正面から戦うような姿を見せたことがない男です。謎の多い男です。その強さは単純に考えれば決して一番ではないでしょう。しかし、誰と戦っても、彼が負ける姿は想像できません。彼は頭のいい男です。勝ち目のない戦いに、決して正面から挑んだりしません。彼は冷めた男です。感情に引きずられて、考えなしの行動をとるような男でもないんです。なかったんです。そのときまでは。

 

 深道(兄)は弱い。もちろん渺茫と比べてですが。渺茫の本気の一撃を喰らってしまえば、深道(兄)はそれだけで致命傷です。これはそういう戦いです。深道(兄)は渺茫の攻撃を全て完璧に避け続け、そして、ひとつひとつはわずかなダメージしか与えられない攻撃を、延々繰り返さなければなりません。深道の脳は目の前の脅威に対してフル回転し、相手の動きから、攻撃の軌道を読み、その全てを躱して、反撃をするのです。繰り返し、繰り返し、積み重ねは、ついに渺茫にダメージを感じさせました。

 

 しかし、圧倒的に不利な戦いです。渺茫の一撃は、その深道(兄)の出し続けた、100点の答えの幾重にもわたる積み重ねを、ハンマーでたたき壊すように、紙屑のように破壊してしまうようなものです。非情な一撃です。受けてしまえば深道(兄)は、もはや立つことすら難しい。最初から分かっていたことです。勝てるはずがない。それは、とても無謀なことだったんです。

 

 でもその攻撃を、真正面から受け止めるわけですよ。深道(兄)は叫びます、「金次郎のように力強く!」。前に、以下でも書いた北枝金次郎のように戦うのです。

mgkkk.hatenablog.com

 北枝金次郎という男も渺茫とまともに戦えるような強さのレベルではありませんでした。しかし、彼を突き動かしたのは、彼に最後に残った安いプライドです。それだけが彼を突き動かしました。深道(兄)はそんな金次郎のように戦うのです。渺茫の攻撃を受け止めた腕は、ぼきぼきと音を立てて粉砕されます。

 しかし、再び吼えます、「長門のように超激情!」、あの冷静沈着な男が、全身の骨がボロボロになったような状態で、なおも動き、渺茫に噛みつきます。金次郎を愛する男、長門のように理性を捨て、狂気たたえた顔で噛み付くのです。無様な姿です。格好悪い姿です。それまでの彼が持っていた、勝てない戦いは決してやらず、正面から立ち向かわず回避するようなクレバーな姿とは完全に異なる、なりふり構わない姿です。それでも、そんな姿でも立ち向かうわけです。なんと格好悪いことでしょう。なんと格好良いことでしょう。

 首元に噛みついた歯を、深道(兄)は決して離しません。強さの権化であるはずの渺茫が、このちっぽけな一人の男に恐怖を覚えてしまいます。

 

 しかし、それでもやはり渺茫は強い。瀕死の深道(兄)は、渺茫の攻撃に吹き飛ばされ、さらに大きなダメージを受けてしまいます。もう噛みつくこともできません。立てるはずもない。しかし、しかしですよ、それでも立つんです。理屈が通りません。攻撃なんてできるはずもない。それでも立って、攻撃をしようとするんです。

 このバトルロイヤルの舞台となった廃墟は、言わば蠱毒の壺でしょう。毒を凶悪に濃縮するために作られた狂った装置です。無数のストリートファイターという毒虫を入れて競わせた結果、最後に残った一匹の虫が、最強の毒を持った虫けらが深道(兄)です。

 つまり彼は、この戦いに参加した全てのストリートファイターたち背に抱いた、最先端の一刺しです。その槍の先端は、ついに渺茫にも届き得るのです。彼は屋敷のカイの月雄の尾形の金次郎の長門の、そして、それまで彼が関わってきた全てのストリートファイターたちから獲得したものを、その結晶を渺茫にぶつけようとします。

 「ハッタリで人間は倒せない」、立つことすらままならない瀕死の深道(兄)の姿を見て、渺茫はそう投げかけます。しかし、その言葉に深道はこう答えます。

 

 「知らないのか?俺も今知ったけどな。それしかないなら、人間は…最後は"ハッタリ"で動く!」

 

 彼が最期に望んだハッタリは、死神との取引です。命と引き替えに望むものは「エアマスターのようにしなやかで、坂本ジュリエッタのように超ハイパーな一撃」です。彼はその身に残る、いや、もはや何も残ってすらいないはずの全てを、その一撃に込めるのです。その力は「坂本エアマスター!」という絶叫とともに、渺茫に延髄斬りとして叩き込まれました。

 

 深道(兄)が望んだものは何だったのでしょうか?

 「金か?」「女か?」「全人類の幸せか?」、彼はその全てを「下らない」と斬って捨てます。千人の人間の、千個の夢が、ひとつも叶わないことだってあります。しかし、深道(兄)の願いは叶いました。彼の一撃は渺茫を倒したのです。

 

 深道(兄)は、世界に絶望していた男です。何もかもが無意味で下らないと思っていた男です。世は全て無意味だと。だから、何かを成し遂げることすら無意味だと気づいてしまった男です。この世の全ての人の営みは、無価値だと思っていたような男なのです。

 その地獄のような世界において、全く無意味な生を無意味に消費し、そして終わっていくのだと思っていた男が、唯一興味を惹かれる「面白いもの」を見つけました。それが渺茫です。彼は無数の人々を踏み台にして、自らの手で足でそこに到達し、願いを叶えました。それは満足です。彼の生に対する満足なのです。

 

 しかしながら、その次の瞬間には、深道(兄)に敗れたことで暴走した制御不能の渺茫による、無慈悲な一撃があります。深道(兄)は、ついにボロクズのように吹き飛ばされてしまいます。最後に控えているのはそんな渺茫エアマスターの戦いです。

 

 蠱毒に残った最後の毒虫である深道(兄)は、もうピクリとも動けないような状態で、その力を言葉に変えてエアマスターに届けます。

 相川摩季は自分の中で育つエアマスターという存在に恐怖していました。そのエアマスターは際限なく強さを求め、そして得た力に比例するように狂っていきます。摩季は、自分は危険で暴力的なエアマスターであり、もはや自分自身でも制御できないと感じていました。危険な暴力の権化、エアマスター。自分が幸福に生きるためには、不要かもしれない化け物エアマスター。そんな自分の中のもう一人に悩み苦しんでいる摩季に、深道(兄)が届けた言葉とは「人生の楽しさ」です。

 彼自身が、渺茫を追う戦いの中で獲得した、人生の意味と充実感です。

 人生は無意味かもしれない。人生は無価値かもしれない。それでも彼が感じたのは人生の楽しさでしょう。素晴らしさでしょう。自分自身こそが世界の始まりであり終わりです。一個の我として、一個の誇りをもって生きるのです。最悪であっても誇りを持って生きていけばよいのです。

 「そしたらな、楽しいぞ」、その言葉は、渺茫に向かうエアマスターの背中の最後の一押しとなりました。摩季はエアマスターとして、笑いながら渺茫に立ち向かいます。

 

 深道(兄)の駆け抜けた戦いは、彼ひとりの成したことではありません。無数の人々の人生の葛藤と挫折と喜びと楽しさをごった煮にしたような、清も濁も混ぜこぜに煮詰まり過ぎたスープのようなものです。それを一気飲みさせられているような体験です。僕自身の持ち合わせている、精神の小さな波など、雑音のようにかき消してしまう大きな波です。

 深道(兄)が、目の前で次々前のめりに敗れて倒れていく姿に、心の回転数をピークアウトさせたように、僕がエアマスターを読むときの気持ちの高まりが分かりますでしょうか?血管にごんぶと注入されたようなこの奔流は、全身を駆け巡り、あらゆる悩みや苦しみを、まるで大したことのないことのようにしてしまい、内側に収めてはおけなくなるような猛烈な感情的なエネルギーとして渦巻きます。

 

 さて今ちょっと、朝までにやらないといけない面倒な作業があるんですが、面倒でかなりやる気がしなかったものの、この文章を書いてエアマスターのことを思い出していたら、徐々にテンションが上がってきたので、これを利用して片づけたいと思います。エアマスターは最高の漫画だなあと思っています。

主人公が成長してしまう物語は無限には続けられない話

 主人公が成長する物語がすごく好きです。しかし、主人公が成長する物語は連載を長くは続けられないんじゃないかと思っています。なぜなら、人間は無限に成長するわけにもいかないからです。

 それは肉体的な強さの成長でもそうですが、それ以上に精神の成長に関してそうだと思います。つまり、精神がどんどん成長してしまえば、人間としてどんどん成熟していきますし、成熟してしまえば、葛藤がなくなっていくんじゃないかということです。十分成熟した人間が主人公になると、困難に直面しても悩み苦しむことがなくなっていきます。それはそれでよいことでしょう。でも、物語としては描くことがなくなってしまうかもしれません。描くことがなくなってしまうと、その物語はもはや終わらざるを得ません。

 

 長く続けば続くほど、よい物語というわけではないので、連載は終わって全然いいのですが、主人公の成長の有無によって継続できる長さの違いはあるのではないかと思いました。100巻を超えるような長く続く物語では、延々と主人公の成長を描くわけにもいかず、良くも悪くも主人公の成長要素はなくなっていきがちなのではないでしょうか?

 

 例えば、先日200巻で完結した「こち亀」では、主人公の両さんの精神的成長はあまり見られません。いや、成長しているように思えるエピソードもあるんですが、だとしても、同じような無茶と同じような失敗を何度も繰り返し、その度懲りない様子が描かれます。もし、一回目の失敗で強く反省し、二度と同じような失敗を繰り返さない両さんであったとしたら、あのお話は数十巻も続いたあたりで描くことがなくなり、終わっていたかもしれません。

 「ゴルゴ13」でも、デューク東郷は成長しません。ただし、こちらの場合は最初からある程度成熟していますし、物語が進めば進むほどに、その精神はより盤石です。ゴルゴ13の方式は、物語の主軸が主人公ではなく、彼に舞い込んだ殺しの依頼の方にあります。主人公は、主人公であるものの、それぞれのエピソードの中では脇役とも言えます。人間がぶつかる困難や、それを乗り越えた成長などは、それぞれのエピソードごとに登場した人物が担うことがあっても、デューク東郷自身が担うことはあまりない作りになっているはずです。

 一方、主人公を成長させつつ長い物語を継続する方法としては、定期的に主人公を変更するという方法もあります。例えば、「ジョジョの奇妙な冒険」では、部ごとに主人公が交代することで、成長をリセットすることができています。新しく登場した主人公には新しい課題があり、それを乗り越えることがドラマとなるのです。

 

 繰り返しますが、人間の精神が無限に成長していくと、それに反比例して人生の中から困難が減少していくのではないかと思います。困難が減少していくことはよいことですが、そこからはドラマがなくなっていくのではないでしょうか?完璧に完成した人間は、おそらくどんな困難に遭遇したとしても動じることなく淡々とそれを解決していくでしょう。だからこそ、その完成された人間以外に、困難を糧に成長する人材が必要になります。主人公は脇役に回り、その代わりに葛藤を主に担う人材が必要となるわけです。

 

 「コータローまかりとおる」はまさしくこのような作りになっていたと思っています。「新コータローまかりとおる柔道編」では、前作で十分な精神的成長を遂げてしまった主人公のコータローは、狂言回しとしてある種の脇役に徹しており、その影響を受けた存在としての西郷三四郎や伊賀稔彦に焦点が当たっていた物語だと思いました。

 柔道編におけるコータローの役回りは、他のキャラに対しての鏡のようなものです、コータローがいることで周囲の人々の姿の輪郭が浮き上がります。コータローは空手家でありながら、柔道の領域に足を踏み入れ、様々な事情で柔道の大会に参加してきた別の部活(アームレスリング部や相撲部など)との異種柔道試合において、相手の領域で相手のルールに従いつつ勝つということを繰り返します。相手の土俵で戦うことで、相手の個性を引き出し、そして破るということが繰り返されます。

 この物語は柔道編を経て「コータローまかりとおるL」へとつながり、コータローの一族に関わる話として、再び話の焦点をコータローに戻して最終章という形式だったように思いますが、作者の健康上の理由から連載中断してもう随分になるので、続きが読めなくて残念です。

 

 主人公が成長しない物語は、主人公の周囲にいる人々に変化を与え続けることで無限に続けることができます。探偵ものの物語もこの方式であることが多いですね。

 であるがゆえに、物語が終結するときには、再び主人公にバトンを渡し、そこからのなんらかの精神的変化や、周囲の人間との関係性を変えることが終了の合図となりがちです。例えば、贋作専門のアートギャラリーを営む藤田を主人公とする「ギャラリーフェイク」では、助手のサラとの関係性が変化するようなエピソードをもって連載が完結しました。

 その意味において、普段と何ら変わりない形で連載を終了した「こち亀」は特異な存在と言えるかもしれません。おかげで、いつでも再開しようと思えばできるでしょうし、次週のジャンプに何気なく載っていたとしても、ああ、そうかと思うだけです。

 

 仮に、登場する全ての人間が完璧なまでに人間的な成長を遂げてしまった物語があったとしたらどうでしょう?それはどのような物語になるでしょうか?全ての人が分別があり、起きた出来事を淡々と解決していきます。それは面白いでしょうか?何らかの手法で面白く作ることも可能かもしれませんが、基本的には退屈のようにも思えます。

 「青龍」という漫画には、ある文明を極限にまでに進化させ、人工的な精神的成長を達成した人々が出てくるのですが、彼らが直面したものがまさに「退屈」です。彼らは、自分たちを神として猿から進化させた人間を生み出し、それによって退屈しないドラマを生み出そうと試みました。

 

 これはもしかすると、現実の人間もまた同じかもしれません。なぜなら、僕の生活は日々良い感じになっているからです。おかげで、昔のように金に困ったり、周囲の人間関係に悩まされたり、初めて手掛ける仕事が上手く出来なくて弱ったりを、なかなかしなくなってきました。

 その僕がわざわざ漫画を読んでいるわけです。未成熟で、困難に直面しては葛藤し、それを乗り越えていく人々の登場する、漫画の中のドラマに一喜一憂しています。自分の成長が停滞してしまったことで、ひどく退屈しているからなのかもしれません。

 

 自分という物語においても、無限に成長していくことができないなら、人生の道半ばで描くべきことが無くなってしまうでしょう。ただ、自分が十分成長したといっても、それはごく限られた分野での話です。新しい分野に手を出せば、またイチから始める必要があり、また継続的な成長が望めるかもしれません。もしくは、次世代の人材の育成を手掛けたり、困っている他人を助けるという主役を他人に回すのもよさそうです。あるいは、肉体の衰えや周囲の変化によって、新たな課題に直面させられることもあるでしょう。

 

 人間が漫画と異なるのは、人気のあるなしに関わらず、いつ終わりがくるかが分からないことでしょう。退屈でも生きなければなりませんし、成長中でも死ぬかもしれません。

 ともあれ、自分の人生が今成長物語なのか、成熟して他人の依頼を解決する物語なのかなどと考えてみるのも面白いかもしれません。成長物語は無限には続きません、なので、どこかで仕切り直す必要があるとか考えたりもします。成熟した物語は、何らかの外部を取り込まないと退屈です。退屈も過ぎれば、それを一旦捨てて、また成長物語に身を投じることもよいかもしれません。

 とりあえず今はいる場所が比較的退屈になってきたので、漫画を読んで未熟な人々が頑張っているのを追体験したり、別の人を助けたり、気が向いたら新しい何かにチャレンジしてみようかとおもったりしています。