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自分の優位を他者否定でしか示さないやり方について

 これから書くのはただの悪口なんですが、どうにもよくないんじゃないかと思うやり方があって前々から引っかかっています。どういうやり方かというと、自分が優れていることを主張するために、自分の優れている部分を他人に見せるのではなく、他人を「優れていない!」と批判してみせることで、間接的に相対的に自分が優れているような雰囲気を醸し出そうとする方法です。

 

 大阪に住んでいた頃、大阪という土地の少なくとも僕がいた場所では「面白い人がすごくて偉い」みたいな雰囲気がなんとなくあったので、みんなできるだけ面白くなろうとして、他人を笑わせるようなことを沢山言うというような感じになっていました。しかし、その中には、前述のようなことをする人も混ざってきます。

 その人は、自分がお笑いのレベルが高い(つまり、その集団の中で偉い)ということを主張するために、他人を「面白くない」「わかっていない」「すべっている」と否定していきます。この手の人は、接すると嫌な気持ちなるので、自然に任せるとその人の周囲からは人は離れていくようなものだったりもしますが、ところが例えば年長者であったり、否定している相手に対して何らかの力関係の存在している場合があり、そんな状態でも周囲に人がいる状態が保たれるので、そのまま変な雰囲気が継続したりします。

 具体的に言うと、先輩と後輩のような間柄、あるいは教師と生徒のような間柄において、後輩や生徒を「おもんない」「おもんない」と言い続けることで、自分はさもお笑いが分かっているレベルが高い人と言うような雰囲気を出してきます。後輩や生徒の中で素直な人は、自分が笑いのレベルが低くて悪いんじゃないかと思って、頑張ってその人が笑いそうなことを言おうとしてしまったり、場合によると黙ってしまったりします。しかし、そもそもその指摘している人自身は別に面白いことを言うわけではありません。面白いことを言うわけではないのに、「自分はお笑いを分かっている」というような感じをぐんぐんに出してきて、場の主導権を握ろうとしてきます。大変面倒くさい人です。

 ただ、こういう人はちょいちょいいたので、うわぁ…面倒くさい人だ…とは思うものの、いちいち腹を立てても仕方ないという感じでもありました。あと、面白さの基準は人それぞれなので、僕が沿わない面白基準がその人の中にはあるかもしれないとも思い、他人にとやかく言う気が削がれてしまうというのもあります。

 

 この手の人たちが、なぜこのような行動をとるかというと、僕が思うには、おそらく皆が笑う面白いことを言うのは難しく、他人をおもんないと指摘することは簡単だからでしょう。面白いとおもんないが同じ軸上に並んだ概念であったとするならば、周りをおもんない人呼ばわりすることで、その人は相対的に面白さとは何かが分かっている人であるかのような雰囲気になります。なんと、一切面白いことを言うことなしにです。なので、他人を笑わせようと考えることもせず、手を抜いて、そういう楽をしてしまっていたんじゃないかなあと思います。

 

 そう思ってみれば、世の中にはこのような態度を示す人が他にも沢山いることに気づくでしょう。例えば正しいと思われたい人が、正しい行為をし続けることで周囲の支持を集めるのではなく、他人を「間違っている!」と糾弾することで、あたかも自分が正しいかのような雰囲気を醸し出したりするやつです。あるいは、自分がセンスのある人間であることを示すために、世の中にある色々な創作物をセンスがないと言いまくるみたいな感じの人もいるでしょう。そのセンスを具体的に示す物作りを一切していない人や、その人自身は特に大した何かを発表しているわけではない人が、既に多くの人の支持を集めているものに対して、「全然分かっていない」「駄作」「大衆は見る目がない」というような言葉を投げかけていることもしばしばです。

 そのような人にとっては、「自分が分かっている人間である」「自分は優れた人間である」と主張し、周囲にそのように受容されることが重要なことなのかもしれません。しかし、その状態に至るための手段の部分で手を抜いてしまうために、いざ行動する側となると実力は伴っていないことが多いのではないでしょうか?なので、本当に分かっている人がいてほしいときや、本当に優れた人に来てほしいときに、そういう人を間違えて呼び込んでしまうと、たいへん痛い目に遭います。

 

 このような人は一見害悪でしかないように思われますが、自分で物事の良し悪しを判断するのが億劫な人とは相性がよく、こういうめちゃくちゃなことを言いまくる人に、適当な正解を決めてもらうことで、一人では優柔不断でなかなかできない、目の前の何かについて「正しい」と「間違っている」に選り分ける作業ができるようになったりします。あるいは、一緒になって何かを糾弾することで、自分も「分かっている側」になったような気になったりもするかもしれません。でも、これらの態度と行為は基本的に、その人たちが否定している他者の方に、むしろ依存してしまっているものだと言えるでしょう。なぜなら、他人を「間違っている」と言わないことには、自分が正しいことにはならないからです。

 なので、その手の人たちには「分かりやすく間違っている他者」が供給され続けることが必要です。幸か不幸かインターネットには人間が沢山繋がっており、検索することも簡単なので、そういう人たちの餌食になる「間違っていると認定された人」を次から次へと見つけることができます。おかげで絶え間なく終わりなく、そのような、「この人は間違っている」と指摘する行為を続けることができるでしょう。

 

 でも、それらの行為は、実際に何かの物を作ってみたり、何かの問題を解決しようとしてみたりする上では特に役に立たないことではないかと思います。暇つぶしならいいかもしれませんが、自分にちゃんとすべきことがあるならその手の人たちの相手をしても不毛でしょう。相手の目的がその人自身のコミュニティにおける優位性を確保することであるならば、それはその人の内面の話であり、自分が取り組んでいる目の前のものをより良くする課題とは、異なる目的を持った答えであると考えられるからです。

 

 何かを否定する行為に意味がないとは思いませんが、一方、それがお手軽に自分が優れていると主張するできる行為であるという側面もあります。その誘惑にひっかからないことが重要ではないかと感じています。何かに対する否定的な言葉が自分の口から出てきたとき、それは「その何かをより良くする目的で発せられたもの」か、あるいは「自分が分かっている側であることを周囲にアピールする目的で発せられたもの」かを立ち止まって考えた方がよいと考えています。

 さて、悲しいことに今僕が書いている文章もその枠組みの中に収まってしまうものです。なので、たいへん残念なこととなっています。この文章は僕という人間が今揶揄している対象である人たちよりも、「より分かっている人間である」とアピールする文章であると読むことができますし、それはたいへん拙く下劣なことをしてしまっていると言っていいでしょう。

 自己嫌悪を招くため、こういうことはできるだけやりたくないことですが、僕がこういうことを思わず書いてしまっているのは、それに類する嫌な光景をまた見てしまったからです。そのような「自分が優れている」と主張したがための争いごとを日々何らかの形で目にするはめになっています。もちろん、僕が目の前の光景を悪意的に解釈しているという疑念も払拭できませんが。

 以前は、自分とは異なる意見でも、目にいれるぐらいの方がいいだろうと思っていました。しかし、今ではもう全てを網羅的に目にするのは不毛と捉えていて、それ以上に不快にすら感じることもあって、どんどんそのような言説が目に入らないようにフィルタリングをしています(ただし、僕が接点を持ちたくないだけで、やめろとは思ってはいません)。

 

 僕自身の行動指針としては、そういう行為と決別し、面白い人と思われたければ、面白いことを言う。優れた人と思われたければ、なんらかの優れた結果を示す。センスがよいと思われたいなら、他人に分かる自分のセンスのよさを見せる、シンプルにそこを目指すことをした方がいいんじゃないかと思っています。そうしようと思っています。

 繰り返しになりますが、例えば他人からの批判的なアドバイスがきたとき、その人は何を根拠にそれを言ってくるのか?少し考えて、その人が自分がスゴイと言いたいだけの人であるならば、それはその人と社会の関わりあい方の話題であって、自分自身が取り組んでいることとは関係のない、その人自身の心の問題について言及しているだけだと判断してもよいと思います。

 そうしなくてもいいですが、僕はそうしています。