漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「キャラが立つ」ということについて

はじめに

 面白い漫画はキャラが立っていなければいけないということを劇画原作者の小池一夫が言ったといいます。多くの漫画において、その魅力の大きな部分がキャラクターの魅力であるということは、読者としての実感で僕も持っているのですが、では、キャラが立つということは具体的にはどういう状態のことなのかについて考えたのでそれを書きます。

 

免責事項

 キャラ立ち - Wikipedia これは、Wikipediaにおける記述ですが、ここではキャラが立つと周囲にどのように受け止められるかという効果については書かれているものの、立っていないキャラと立っているキャラはどのように違うかというところについては触れられていません。となると、このような成功した効果があるものを後付けでキャラが立ったと認定しているのと区別がつきませんから、かなり曖昧な定義と言えます。

 世の中には他に誰かが定めた定義があるのかもしれませんが、こういったものを厳密に定義してしまうと、定義と実際の関係性が逆転し、実際に成功したものがあるのに、それが定義に則していないのでよくないだのなんだとという話になったりもする、言い換えれば「ルールを守ることが目的化して窮屈になる」ので、曖昧にしておくのが運用上はよいとは思われますし、以下は、現在の「キャラが立つ」という言葉の持っている多様な意味のごく一部を切り取ったものでしかないということを免責事項として書いておきます。

 

「人形」と「人間」の違いが「キャラが立つ」ということ

 僕が考える「キャラが立つ」という状態は「人形」ではなく「人間」であるということです。この「人形」と「人間」という言葉は僕の中にしかない言葉なので、さらにそれを説明すると、「人形」は役割しか持っておらず、「人間」は役割と自我の両方を持っています。自我とは役割を果たすための原動力であり、役割を果たすことへの疑問にも成り得ます。

 役割しか持っていない「人形」と呼んでいるものの中で、分かりやすいのはファミコンRPGにおける村人です。典型的なRPGの村人は「ここは○○の村です」という発言を無限に繰り返す存在でしかありません。その村人にはその役割しか設定されていないのです。そのような村人に感情移入する人はあまりいないのではないでしょうか?これがキャラが立っていない状態であると僕は認識しています。

 では、そのRPGの村が魔物の襲撃により焼かれてしまったとして、ぼろぼろに傷ついた村人がそれでも勇者たちに、「ここは…○○の…村です…」と伝えようとしてくればどうでしょう?あるいは、それまで延々と「ここは○○の村です」と言っていた村人が、村のピンチに際して「うるせえ!こんなことやってられるか!」と叫んで魔物に向かって行ったとしたら?前者は役割を果たすことへの自我の力があり、後者には役割を放棄して他に向かう自我の力があります。これらの自我があることで「人形」は「人間」になり、それがつまりは「キャラが立つ」ということなのではないかと考えました。

 

漫画における「キャラが立つ」とは

 現在出版されている漫画の大半にはストーリーがあります。そして、ストーリーを作り上げるための役割が各キャラに割り振られています。前述の理屈を適用すると、その役割しか感じられないキャラは立っておらず、その役割に対して自我が感じられる描写があるとキャラが立っているのではないかと考えています。

 

 例えば、「幽遊白書」において、幻海師範が幽助に対する最後の試練として「自分を殺せるか?」と問います。それに対して、悩んだあげく「できない」という結論を出す幽助に、幻海は「合格」というのです。続く台詞はこうです、「自分が強くなるために師匠を殺そうってな結論を出す奴にあたしが奥義伝承すると思うかい? かといって悩みもしないでやれませんってな毒気のない奴も同じ位嫌いだがね」。

 幽助の目的は戸愚呂(弟)を倒すこと→そのためには力が足りない→幻海から霊光波動拳の奥義を伝授してもらえれば強くなれる、というストーリーからすれば、幽助は「殺してでも伝授を受ける」というのが分かりやすい答えです。あるいは、強くなるために人間から妖怪になった戸愚呂兄弟→自分が強さを求めるためには犠牲も厭わないという考え→それに勝つには強さのために犠牲を出してはいけない、という別のストーリーも存在し、「強くなるために幻海は殺せない」というのもまた、分かりやすい答えなのです。

 つまり、幻海が提示した悪い答えの両方は、ストーリーに対する葛藤がなく、役割を果たすという目的に対して一直線です。そこには人間味が読み取れないのではないかと思いました。幽助が人間として「キャラが立つ」ためには、葛藤が必要だったということです。

 また、小池一夫原作の例で言えば、「クライングフリーマン」。彼は、後催眠暗示によって殺し屋にされてしまった男で、任務を終えた瞬間に催眠から解放され、涙を流したのです。やりたくもない殺しをせざるを得ない殺し屋につけられた皮肉なコードネームが自由人(フリーマン)。ここにも、殺し屋という役割と、そこから解放されたい自我という葛藤を見て取ることができます。

 

 このように、漫画の中の魅力的な存在は、その中で自己肯定と自己否定が戦っていることが多いのではないでしょうか?葛藤のない完全なる善や、完全なる悪には魅力が見出しにくいと僕は感じています。「ダイの大冒険」におけるヒュンケルはアバンという光の闘気の師匠と、ミストバーンという暗黒闘気の師匠を持ち、その拮抗によって爆発的な力を発したキャラクターです。これは物語の中の強さとも関わりますが、キャラ自体の魅力に対しても同様なことが言えるのではないでしょうか?育ての親(魔物)の仇としてアバンを恨みつつ、アバンを尊敬するという人間と魔物の葛藤のあったヒュンケルから、善なる者としての立場を確立したヒュンケルでは、何か失われたものがあるということです。そして、ヒュンケルは暗黒闘気を再び受け入れることで、さらなる変化を遂げることになりました。

 

 一方、漫画の中には役割しか持たない「人形」も沢山登場します。主人公の強さを見せつけるためだけに主人公に絡んでくる悪者や、お色気要素のためだけに登場する女性キャラ、分かりやすい悪として主人公に絡んでくるヤクザや悪の政治家やいじめっ子など、これらの典型的なキャラクターは、読者が読める範囲内には内面の葛藤の描写が行われません。葛藤が描かれれば魅力的になりますが、そのために行われる典型的なものが回想シーンですし、魅力的になってしまえば倒すことに爽快感が出なかったりします。作者が全部のキャラクターを愛し、全部のキャラクターに納得のいく結末を用意しようとすればするほどに、そのための描写と倒して爽快で終わりではない別の結末が必要となり、物語は長くなる傾向があると思います。

 なので、漫画においてはどのキャラクターを立て、どのキャラクターを立てないかを選択する必要もあるのではないかと思いました。

 

 漫画の多くはストーリーを描写するものですが、あまりにもストーリーが主になってしまうと、キャラの魅力がなくなって(立たなくなって)しまうと思います。なぜならば、ストーリーのためのキャラクターからは、ストーリーに都合のよい発言と行動しか生まれないからです。それは予定調和であり、複数のキャラクターが同じ目的のために動いていることを、人間の洞察力が察してしまえば、それが茶番であることが認識できますし、キャラクターの自由意志を感じることができなくなってしまうのです。それらは全て裏側にいる機械じかけの神によって都合がよく動かされた人形でしかなく、感情移入が難しくなってしまうではないでしょうか?

 それゆえ、キャラを立てること、とにかく実在の人間と同様に自由意志を持った人物としてキャラを描写することが漫画の魅力の根源にあり、ストーリーはそれらの人物が行動した結果でしかないと読者が思えるだけの十分な描写があるもの(実際にはストーリーが予め最後まで決まっていてもよい)、が魅力的な漫画であるように思えると僕は感じました。

 

日常の中のキャラ立ち

 このような認識はフィクションの中だけではなく、現実の世界で生活している中でも感じることができるものだと思います。例えば、日常接するお店の店員さんは、名前ではなく職業で認識しています。そして、マニュアル接客により、その職業の人特有の規定の言葉を口にし、お客としての自分も典型的な言葉を返しています。そこには店員という役割とお客という役割しかありません(もちろんそうでない場合もありますが)。となれば「人間」ではなく「人形」ですから、そのコミュニケーションの中からでは、魅力を感じるのも難しいのかもしれません。

 人間が個体認識してコミュニケーション出来るコミュニティは200人ぐらいが限界だと聞いたことがあります。しかしながら、現代社会では交通や通信の発達により、日々それ以上の人と接することになります。つまりは、人間の認識の限界ですから、人を「人間」と思わず、役割しかない「人形」として接することで省力化をしているのかもしれないと思いました。

 

 役割で認識すれば、一人一人が別の人格を持った人間として区別する必要がなく、例えば駅員さんは何人いても駅員さんで識別され、ある駅員さんの良い所が別の駅員さんの評価にも繋がるかもしれませんし、悪評もまたしかりです。「最近の若者」や「マナーの悪い老人」「マックの女子高生」などでもいいと思います。それらを役割として一つで認識することで、一つの事例を属性全体のものとして拡大解釈することもできます。それは大変雑な行為ですが、何万人もの一人一人を認識することは人間の能力の限界でできないということからそうせざるを得ないという側面もあります。

 さらには、人間の行動はその多くが役割に縛られているために、それで問題のないことも多いのです。僕が朝起きて仕事をしにいくのは、「会社員」という役割があるからです。コンビニの店員さんが僕がレジの前に行くと会計のために来てくれるのは、その人に「コンビニ店員」という役割があるからです。もし、コンビニ店員でない人がいたとしたら、レジには来ないでしょうし、来たらおかしいとしか思えません。

 そういう風に考えると、会社員が朝起きて「会社に行きたくない」と言い出したりするのは、役割を逸脱しているので、大変「人間」的な行為だなと思いました。行きたくないと思い、それでも行くという行動をするということは、大変人間的であり、そういうのが人間の魅力的な部分かもしれません。なにせ、「当たり前だろ?」と全く問題なく会社に行っている人よりも、うだうだ文句言いながらも行っている人に、僕が親近感を感じているからです。

 

まとめ

 人間には「役割」があって、それとは別に「自我」があるのではないかと思います。役割しかない人間には、人間的な要素が見出しにくく、粗雑に扱ってしまうかもしれません。それはフィクションの中であれ、現実の世の中であれ、認識上は同じなのではないかと思っています。

 一方、人間の行動の多くは、その役割によって決まっているとも思います。もし人間に役割しかなかったとしたら、役割を完璧にこなす人々によって社会は完璧なシステムも構築できるかもしれません。しかし、社会はそうはなりません。なぜならば皆は人間だからです。人間はその自我によって役割を果たしますが、自分の役割を疑い、捨て去ってしまったりもします。その完璧でない部分こそが人間っぽさであり、そこを認識することで、その人を属性(役割)ではなく一人の人間として区別できるようになるのではないかと考えています。

 つまり、「キャラが立つ」ということの一つの意味は、その存在が役割に依拠し、寄りかかるのではなく、一人の人間として立っているということなのかもしれないということです。僕が考えるに、その役割を遂行するか、その役割を反故にするかの選択肢を持っているかのように描かれているということがその境界です。

 

 上記のようなことを、人と漫画の話をしていて、キャラの個性を出すには?という部分で、特徴的なセリフや見た目の特徴や、過去のトラウマみたいな、そういうものを設定すれば個性!というのはどうも違うのでは??というのを整理している段階で思ったので、メモのために書いておきます。

 念のためもう一回書いておきますが、これが「キャラが立つ」ということの全てであり、これに反するものは「キャラが立ってない」というような意味ではない感じです。それでは。