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「BILLY BAT」における白と黒の違いについて

 以前、最終巻発売後にざっくりとした感想を書きましたが、もうちょっと細かい解釈の話を書きます。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 「BILLY BAT」は浦沢直樹の漫画で、ビリーバットという謎にキャラクター急かされるように漫画を描く漫画家たちを主軸にした物語です。この漫画の特徴としては、彼ら漫画家に描かれた物語が、その後、現実で実際に起こってしまうという、ある種の預言書のように機能するという点が挙げられます。それら預言書のような漫画を描くためのインスピレーションの源泉こそが、ビリーバットという存在なのです。

 

 普通の人には見えないビリーバットを見ることができる登場人物は、彼ら漫画家以外にも、歴史上の有名人物や、漫画内に登場する悪役たちなどの中にも存在し、彼らもビリーバットに導かれるようにして物語は二転三転を繰り返します。さて、彼らの言動の中で気になるポイントがあります。それはビリーバットには、白のビリーバットと黒のビリーバットの2種類が存在するというのです。

 彼らの話を聞く限り、白のビリーバットは善良なる登場人物に見えるもので、黒のビリーバットは悪辣なる登場人物に見えるようものに思えます。これら白黒の違いについては、最後に至るまで明確には描写されませんが、さらに月に存在していた第3のビリーバットを含めて、もしかしたらこうなんじゃないかと考える解釈を思いつきました。

 

それはつまり、

ではないかということです。

 

 前回の感想で、「BILLY BAT」とは漫画を描くという行為そのものを漫画化したものという解釈を書きましたが、その行為を大きく分割すると上記3種類のビリーバットになると思います。白と黒が、善と悪になぞらえられるのは、その意味でミスリードであり、しかしながら、結果的にはそれらはかなり近しいものとなってしまうという側面もあるのではないでしょうか?

 つまり、ストーリーを紡ぐことにおいては、悪こそがそれを牽引する役割を持っており、善が善であることを示すには、悪の作り上げたその道の上で反発を示すという方法が使われがちであるということです。悪が描こうとするストーリーに対して、作中で唯一反発できる存在こそが善なるものであり、それは主人公とされることが多いと考えられます。

 

 最終巻における第3のビリーバットの月からの降臨のシーンにおいて、白と黒はそもそもひとつであるという説明が成されます。これはつまり、物語を形作るためにはどちらか一方では不足するということでしょう。

 例えば「MONSTER」ではヨハン・リーベルトが、「20世紀少年」ではともだちが担っていたのが悪であり黒の役割です。そして白の善なるものとは、Dr.テンマやケンヂたちでしょう。物語の基本構造を創る黒と、その枠組みの中に収まらない白の争いこそが、物語を躍動されるために必要不可欠な行為であり、「BILLY BAT」では、おそらくそれらの経験を踏まえた上で、より具体的に象徴的に直接的に意図的にそれを行ったということではないかと僕は解釈しました。

 この物語は、実在の事件や実在の人物、およびそれに類する何かが多数登場していますが、それらはあくまで物語の構成要素として名前や立場や構造を借りてきているだけで、これはあくまで漫画であり、また漫画でなくてはならないのだと思います。

 

 これらの白と黒の狭間にある葛藤を、見下ろすように存在するのが月が象徴しているのが「テーマ」ではないかと思います。白黒の争いが物語を当初の予定から脱線させ、あらぬ方向に向かわせようとしたとしても、それらを大きく包み込み、見守る役目がテーマだと思います。月のビリーバットは、「最初に地球に隕石が衝突したことで、生まれたもの」が月であり、同時にそこに飛ばされたものが自分であると表現します。つまり、この物語の生まれる最初から存在していたものということです。

 そして、この物語のテーマとは、言葉で表現するならば、漫画家ケヴィン・グッドマンの口から語られる「なぜ相手と許しあうことができないのか」というものではないでしょうか?2つに分かれて争っていたものが手を取り合い、1つの結論に向かうこと、それは作中の最後のエピソードで描かれるものであり、そして、白黒のビリーバットが協力して物語の終結に向かわせることにもなぞらえられていると解釈できます。

 この物語の要所要所では、空に輝く月が物語を見守るように登場する場面があります。そして、実際にロケットで月に到達した男は、この物語のテーマに干渉して、変更し、自分のための物語に描き替えようとするというエピソードもありました。

 

 他の漫画において通じるところがあるものとして思い出すのは藤田和日郎の「月光条例」です。「月光条例」は、おとぎ話の登場人物が、青い月から降り注ぐ光を浴びてしまうことによって変貌し、物語の筋を破壊して、自分の欲望を満たすために動き始めるという物語です。

 上記の「BILLY BAT」の解釈に当てはめれば、青き月の光とは、白のビリーバットのことであり、物語という牢獄に閉じ込められていた登場人物に対して、それを自由に無視する権利を与えられたということです。そして、主人公の月光が執行する月光条例は、彼ら彼女らを再び物語の中に押し戻すための黒のビリーバットと同じ力となります。

 

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 あるいは、「ダイの大冒険」におけるヒュンケルの存在もあります。ヒュンケルとは人間でありながら魔物に育てられ、そして勇者アバンに助けられて弟子となった男です。彼は人間でありながら、人間に対する憎悪を抱いており、しかしながら、勇者アバンに対する尊敬の念もまた隠し持つという葛藤を抱えた男です。

 ヒュンケルはダイに敗れて仲間となり、人間の側の光の力を強く発揮していくことになりますが、物語の終盤において再び悪の力を受け入れることになるのです。ヒュンケルの闇の力の師匠であるミストバーンは、ヒュンケルの力の源泉は「葛藤」、つまり光と闇の力の決して相容れぬものをその身に抱えた状態であると表現し、光の力のみを頼った今のヒュンケルにはかつてほどの力がないと断じます。ヒュンケル自身もそれに気づき、あえて闇の力を受け入れたという展開になるのでした。

 これは、作中では戦闘能力のことを直接的には意味していますが、同時に物語の登場人物としての強度の話でもあったかもしれません。内面に葛藤を抱えないキャラクターは明瞭な存在となり、ある状況があれば、当然その役割に応じた反応を返すことになってしまうはずです。それは分かりやす過ぎると感じてしまう部分があると思います。

 善悪の2択を迫られたとき、躊躇なく善を選ぶキャラクターよりも、悪を選ぶだけの十分な理由を抱えてしまったキャラクターの方が魅力的とは思えないでしょうか?物語の中で「正しいこと」を主張する役割は、実は善よりも悪の方が多いのではないかと僕は思っています。ともすれば正しい悪と間違った善、ヒュンケルという存在はそんな黒と白の葛藤を一人で表現できるキャラクターであり、そこが魅力であるという話なのではないかと思いました。

 

 「BILLY BAT」の物語は、作中の根幹を示してくれる月のビリーバットの降臨のシーンで、実は全てを描ききっているのではないかと思います。そこから先は、白と黒と月を、そもそもひとつであるという解釈を与えた上で、これまでの経緯を元に、アドリブ的に、ジャムセッションのように、自由に描かれたものであったのではないでしょうか?

 この物語が至った結末は、作中の漫画や絵として予め表現された象徴的なシーンと、最初から存在していたテーマ、そして、そこに至るまでの白黒の葛藤によって形作られたものだと思います。それは、この膨張した物語を綺麗に収束させつつ、そしてまた、その先にも開かれているものであるかのように思いました。

 

 と、いうふうに僕は解釈して読みましたが、そうであるという証拠はないので、勝手な妄想です。本年もどうぞ宜しくお願い致します。