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「ベイマックス」と物語の付喪神について

 公開後一ヶ月ぐらい経ったので、そろそろ公開初日に観たベイマックスが面白かったという話でも書きます。

 

(クライマックスの部分の話がしたいので、ネタバレ含みの話を書きますがご了承ください。)

 

 ベイマックスは、サンフランソウキョウというサンフランシスコと東京がごちゃまぜになったような設定の場所で、天才少年のヒロくんが、お兄さんの遺したベイマックスというロボットと一緒に、お兄さんの仇っぽい感じのするような相手と戦ったりしながら成長を遂げるというようなアニメです。ディズニーです。原作はマーベルです。

 

 もうちょっと詳しく書くとすると、天才少年であるものの、ロボットファイトの賭け試合なんかに出て、場を荒らしたりしていたヒロを、お兄さんのタダシは大学の自分の研究室に連れていきます。そこでは同じ研究室の学生たちが色んな研究をしていて、最初は大学に行くことをしぶっていたヒロも教授にはっぱをかけられたりしつつ、ここで研究をしたいと思うようになるのでした。大学に入るために教授を唸らすような発表をしなければならなくなったヒロは、見事それをやってのけ、自堕落な生活からその才能を生かした輝かしい未来に一歩踏み出そうとするのです。そんな矢先に、大学で火事が起こり、そこに取り残された教授を助けようとしたタダシが命を落とします。失意に包まれるヒロ、彼の元にはタダシの作ったベイマックスが遺りました。しかし、ヒロは気づいてしまうのです。火事は誰かが起こしたもので、タダシはそれに巻き込まれたのだと。そこで、ヒロはタダシの仇を討つことを心に決めたりするのでした。ベイマックスとともに。

 

 さて、この映画において僕が面白いと思ったのは、この映画は人間の温かみのようなものが描かれているにもかかわらず、ベイマックスの行動はあくまで機械的であるということです。ベイマックスはケアロボットです。もともと闘うような機能はついていません。ケアの対象者としてヒロを選んだベイマックスはケアロボットとしての目的通りに世話を焼いてきますが、あくまで機械なので人間ほどには精緻な考えができません。ベイマックスなりに出した結論は、いつもどこかずれていて、それがユーモラスで楽しい部分でもあります。

 長く使った道具に命が宿るという付喪神みたいな話もありますが、人間は物に人間のようなものを見出すことがあると思います。例えばAIBO、もう正式なサポートも終わっている製品ですが、いまだに有志によって修理がされつつ、共に生活をしている人たちがいます。仮に似たような最新製品をあげると誰かが提案したところで、その人たちはきっと受け取らないのではないでしょうか?そのAIBOと過ごした年月の思い入れは代替不可能だからです。

 機械はプログラムされた通りに動いているにすぎません。しかし、ときに人間はそこに魂のようなものを見出します。それを馬鹿馬鹿しいと思う人もいるかもしれませんが、考え方によっては人間だって遺伝子によって何かしらプログラムされた存在とも言えます。その境界はグラデーションで、切り分けは「そこで線引きをする!」とそれぞれが勝手に決めるしかないのではないでしょうか?例えば、死んだ人という、もはや形のない存在に何かを見出すからこそ、人は霊という概念を生み出したのでしょう。

 

 ベイマックスは傷ついた対象者をケアし、「ベイマックス、もう大丈夫だよ」と言われるまでそばを離れません。ヒロは傷ついていて、それは体ではなく心です。ヒロは復讐に囚われ、自身の幸福よりも、破壊衝動に飲み込まれたりもします。ヒロが求めたものは亡くなった兄であり、それはもう二度と返ってはこないのです。なので、傷つく前に戻ることはできませんが、傷を治して立ち直ることはできます。この映画が描いたのはその過程であると思いました。

 物語のクライマックス、特殊な空間から脱出しなければならなくなった、ヒロをベイマックスはロケットパンチで送り届けようとします。それはつまりは反動となるベイマックスは帰ることができないことを意味します。しかしながら、ケアロボットであるために対象者のそばを離れることが出来なかったベイマックスは、ヒロに「大丈夫」の言葉を求めるのです。そこにあるのはロジックです。ヒロを帰すという目的があり、そのためにはヒロを離れる必要があり、離れるためには「大丈夫」の言葉が必要です。

 ベイマックスに人間のような魂があると認識するかどうかは関係なく、ベイマックスは合理的な帰結として、それを求めるでしょう。しかし、ヒロに感情移入をしている視聴者こと僕は、そこに確かな魂を認識しているわけです。そしてヒロもおそらくそうだと思いました。ここがすごく良かったんですよ。

 ベイマックスが行ったのはヒロの心のケアです。ヒロは自分がもう大丈夫になったと口にすることで、もう大丈夫になったんだったんだと思います。そこにはヒロがベイマックスに見いだした人間的な優しさと、そんなベイマックスを作ったタダシの優しさがあるのだと思いました。タダシはもういません、ベイマックスもこれでいなくなります。でも、その彼らがヒロに向けた優しさをヒロは実感したのではないでしょうか?それは、その先を生きていく上で必要十分なものだったのではないでしょうか?そういうことを思いました。

 

 その後、ベイマックスはロケットパンチに託されたデータカードから復活することになりますが、タダシの遺したデータカードをロケットパンチに握り込んでいたということは、ベイマックスはヒロの作った戦闘用データカードのみで動いていたということであり、あの優しさはひょっとしてプログラムの結果ではなく、ベイマックスが獲得した人間性の結果だったのでは??と思わせるような感じではありました。

 が、真相がどうであろうとどうでもいいことだと思います。実際の設定がどうであれ、ヒロの心の動きとして僕が想像したものが、そうだったのだろうと僕が思ったということが重要なのです。プログラムされた動きをしているだけの機械に人間性を見いだすように、ディズニーの作った映画に、それを制作者たちが想定していたかどうかは別として、何らかの意味を僕が勝手に見いだしているということです。それはひょっとしたら勘違いかもしれませんが、僕がすごく感動したんだから、それは僕にとってとても尊いことなのです。

 

 長く使ったものに命が宿る付喪神なんて信じていません。でも、長く使ったものや思い出のある物を僕はぞんざいに扱うことができません。そこにあるのは、非合理的な勝手な思い入れです。勘違いです。

 僕は本を読んでもゲームをしても映画を観ても、全て勝手なことを思っていて、それを趣味でこういうふうに書き連ねているのですが、そういうものだと思っているのです。

 物語を作る人は何かしら伝えたいものがあって、それを伝える最良の形として物語を使っているのだと思いますが(この認識すら間違いの可能性も)、それはやっぱり限定的なもので、受け手としては分かるものと分からないものがあります。とんこつラーメンを食べたことのない人に、「とんこつラーメンのような味」を見せても伝わりませんし、作り手の人たちが物語に込めた物の中から分かるものだけをピックアップして、勝手に繋げて勝手に読み取っているのだと思います。それは伝わったり伝わらなかったりすると思います。それが割と伝わったりすると傑作と呼ばれるかもしれませんし、思わせぶりな描き方を受け手が勝手に勘違いして傑作に祭り上げることもあるかもしれません。

 そういうものではないかと思っています。物語の体験というものはある種の付喪神なのではないかと思いました。

 

 ちなみに、似たテーマを扱っているものとして、業田良家の「機械仕掛けの愛」という漫画があります。作中に登場するロボットたちはあくまで機械として行動をしているにもかかわらず、そこに人間が勝手に愛を見出したりします。どうしても愛に見えてしまうのです。こちらも面白い漫画です。

 

 ということで以上。