漫画皇国

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漫画版「光圀伝」を読んで思った歴史物語の点と線関連

 冲方丁の「光圀伝」を原作に、三宅乱丈が描いていた漫画版「光圀伝」ですが、4巻が出て以降、数年単行本が出ていませんでした。にもかかわらず、先日単行本予定表を見たら、愛蔵版の上下巻が発売予定になっていて、あれ?いつのまに最終巻まで出ていたの??と不思議に思いましたが、どうも紙の単行本は4巻で終わり、5巻から7巻は電子版のみとなり、その代わりに全部が収録された一冊3000円の愛蔵版が上下巻の2冊に収まったものとして同時に出たようです。

 

 なんでこんなことに?と思いましたが、連載作品の途中まで出た単行本の続きが紙で出なくなり、電子版のみになるケースは最近体験することがちらほらあり(「もっこり半兵衛」とか「ブルーストライカー」とか)、採算とれるぐらいに売れるなら紙でも出すと思うので、売れる見込みが立たなかったのかな?と想像しました。4巻からの時間が空いて、既刊も書店では手に入りにくくなっていると思いますし、1~4巻を買った人以外は5~7巻は買わないでしょうから、難しい話だなとも思います。

 

 たとえ赤字だったとしても紙の本を出してくれ!と頼むには、自分が儲からない仕事を頼まれたときのしんどい気持ちがよみがえってしまって気後れする部分があり、とりあえず買いなおしになったとしても愛蔵版としては出してくれたのはありがたかったなと思いました。この本も多分あまり多くは刷られてない予感なので、紙で欲しい人はさっさと買った方がいいと思います。

 

 さて、僕は原作小説を読んでいないので漫画版の話をします。原作にあって漫画版にはないもの、そして漫画版にはあって原作にはないものがあると思いますので、これはあくまで漫画版を読んでの話だと思って読んでください。そして、これがめちゃくちゃ良かったです。

 

 「光圀伝」は、タイトルの通り、水戸黄門として有名な徳川光圀の生涯を描いた物語です。そして、僕が読み終わったときに思ったのは、これは人間の生涯に「義」という背骨を通すことで一本に繋げた話なのだなということです。

 

 僕が思うに、実際の人の人生は物語ではありません。もっと猥雑で混沌とした、離散的な事実の連なりです。しかしながら、それを一本に繋げて線形に理解することもできます。離散的な事実と事実の間を結んで線として理解するとき、そこには何らかの式が必要です。

 つまり、離散的な点の全てを理解するためには点の数だけの記憶領域を必要としますが、それを式で記述することができれば、もっと少ない記憶領域で済むはずということです。ただし、それはあくまで近似式でしかなく、本来は存在しなかった点と点の隙間を埋めてしまったり、その線から外れたものを無視することも生み出してしまうでしょう。

 人の人生をある種の価値観を式として利用して理解しようとすることは、そこに存在しなかったいくらかのものを生み出し、そこに存在していたいくらかのものを無視するということです。しかしながら、それによって、本当は理解できないほどの巨大な情報を持つ人間の人生を理解できるものに落とし込むことができます。

 

 光圀伝は「義」という概念を線として、徳川光圀の人生を理解することができる物語だと思いました。

 

 この物語の中でとにかく心に響いたのは、読耕斎(林羅山の子)と光圀の会話でした。同じ母から生まれた兄を差し置いて、水戸徳川の後継ぎに選ばれてしまった光圀は、それが「義」に反する「不義」であると悩み苦しみます。しかしながら、自分よりもはるかに知識があり弁が立つ読耕斎との討論の中で、彼は自身の人生を「義」に戻すことができる光を見るのです。

 それは、史記に記されている伯夷と叔斉の行動に自身の境遇を重ね、史上の人間の行動を解釈することで、自分にとっての最も良い選択に至れる可能性を見ることができたということでした。

 

 これも「線」の話でしょう。歴史書に記されている離散的な「点」と「点」をどのように選び、どのような「線」として理解し結ぶかによって、その記載の持つ意味は変わり得ます。もしかすると、そこに絶対的な正しい解釈は存在しないのかもしれません。ただ、光圀は、伯夷と叔斉について読耕斎の知恵を借りた「不義」を「義」に変える解釈を得ることで、自分自身の人生に光を見いだすことができたのです。

 

 徳川光圀は、後に大日本史を編纂した人物でもあります。大日本史は、紀伝体で書かれた歴史書です。紀伝体とは、事実の年代的な羅列(編年体)ではなく、人や国を切り口に、情報をひとまとまりにして記載する様式です。

 この物語の中で過去の人の生き方の解釈から自身の生き方を見いだした男が、同じように過去の人の生き方を記載した歴史書を作ることが描かれ、読者である僕もまた、その生き方の中から自分の人生にとって必要なものを見いだします。

 

 これは「義」の物語です。そして、その裏側には「史」がある物語でもあるのだと思います。徳川光圀という実在した点を、「光圀伝」という線をもってして、読者に届ける存在だと思うわけです。そこには本当の歴史には存在しなかった点が含まれるかもしれません。線に必要がなかった点は出てこなかったかもしれません。この物語は、実在した徳川光圀の人生とは全く異なるものかもしれません。

 でも、それを読む僕自身にとっては、この物語における光圀にとっての伯夷と叔斉のように機能し得るわけです。

 

 この物語は、「不義」の男が「義」の人生を追い求める物語です。ただし、その「義」はあくまで光圀にとっての「義」であって、別の視点から見れば異なるのかもしれません。つまり、「義」もまた「線」なのではないかと思います。「不義」として解釈される「線」を、「義」として引き直したところで、それはやはり無数の可能性の中のただ一本の線でしかなく、別の視点から見れば、別の線をいくらでも引くことができるものかもしれません。

 

 この物語の中では別の「義」も描かれます。ネタバレ配慮で、それがどこの何かは書きませんが、そこもまたすごく良く思ったところでした。

 

 人がなぜ歴史物語を読むのかというと、それがいかに過去の史実に基づいたものを描いたものであったとしても、今の自分にとって意味があるからなのではないでしょうか?都合よく解釈して読んでいるだけなのかもしれません。ただ、歴史は、これまで生きてきた人間の営みの連なりです。

 そこには今の人間が悩むような全てが既に存在し、記録されているのかもしれません。いや、それはただ今の人間が、過去の点の間に勝手に線を引いて見いだしているだけなのかもしれませんが。この文章のように。

人に同人誌を渡しに行くときのお気持ちレポ

 この前のコミティアには1年ぶりにサークル参加をしなかったので、ゆっくり会場を回ることができました。色々本を買えたし、人とも話せたので楽しかったです。サークル参加しているときは基本的に1人での参加なので、あんまり自席を空けるわけにはいかず慌ただしくしか回れないのです。

 

 当日家を出る前に、今回サークル参加する知人が僕の同人誌欲しかった(前回僕がサークル参加したときには来れなかった)って言ってくれてたなと思って、会場で渡そうと思って在庫を出してたんですけど、せっかくだからもう何冊か持って行って現地で会った誰かにあげれたらあげようと思いました(闇コミティア開催)。

 それで、実際現地で好きなサークルの本を買いに行ったときに、「これ僕が作った本なんですけど、もしよかったら…」と渡すやつをやったんですけど、でもやっぱり渡せる人と渡せない人がいるなと思いました。

 

 そのときのお気持ちをちょっと書こうと思います。

 

 同人誌って、なんか生っぽいじゃないですか。自分で作って自分だけがオッケーを出しているものなので、自分からしか出てない出汁だと思います。一方で、人と人との関係って基本的にはそんなに生と生ではなくて、やっぱり相手との関係性をベースに反応とかを見て良い感じに調整するものだと思うんですけど、それが考慮されてない剥き身の自分を自分から出た出汁だけで煮込んだようなものである同人誌を、人に渡すって結構すごいパンチを相手に打ってると思うし、渡す僕の側からすれば最悪読まずに捨ててくれても大丈夫って感じなんですけど、貰う方はそういう怨念のこもったようなものを貰ったあとで気軽に捨てるのもはばかられるかもだし、受け取らないのもはばかられると思うので、そういうことを想像して気後れすると、この人になら渡せる!と思える人は限られるなと思いました。

 

 渡せた人たちは、インターネットで多少やりとりをしたことがある、知らないわけじゃない感じの人たちです。それでも迷惑ではないだろうか…?という気持ちはあったし、完全に初対面の、こちらが一方的に知っているだけの人に対して渡すハードルは今の自分には超えられないなと思いました。

 たぶん、ラブレターを渡すような気持もこんな感じじゃないですかね?それも自分自身のことしか書いてない一方的なラブレターを(そんなの絶対書かないし、渡しませんが…)。

 

 同人誌がおもしろいと思うのは「自分とはこのような人間です」ということを簡潔に示す存在でもあるなと思うことです。ある人がどのような人であるかを知るときには、直接話せばわかるでしょうか?それについては僕は結構疑っていて、なぜなら、人と人とが対峙するときには前述のように相手の反応を見ての加減があるからです。

 ネットではめちゃくちゃでも会ったら良い人だったという話もありますが、それはどちらかが本当ではなく両方本当だと思っていて、他人に接さないときに出てくる自分と、他人と接するときに出てくる自分が存在するんだと思うんですよね。結局それらを重ね合わせた総体が自分なんだと思っています。

 だから会ったら良い人であったことは、ネットでイカレたことを言っていることとは別個の事象ですし、その人が人と直接接するときには、どのような加減をしているのかというだけの話ではないかと思います。

 

 同人誌は、人と話したときには分からない、その人の奥にある、自分と自分だけの対話から出てきたものが出てきやすい存在であることも多いんじゃないかなと思います。同人誌というか、なんらかの作品は皆少なからずそうなのかもしれません。そういうことを思っているので、僕はなんか、その人が作っている何らかの作品を見ることで、その人に対する興味を持つことが多いです。

 だからといって、別にその人と仲良くなりたいかはまた別個の問題で、僕自身抱えられる密な人間関係の量が人よりも少ないので、そこは結構ややっこしい話なんですけど、ともあれ、その人が作る作品はこの先もずっとすごく手に入れたいとか、そういうことはすごく思うわけです。作品が好きなだけであれば、相手側にもあまり迷惑がかからないですしね。

 

 個人的な経験として、何かを作っている人とは比較的繋がりを持ちやすいのはそういうことが関係していると思います。何かを作ることは自己開示の側面があると思うんですよ。

 

 何考えているんだか分からない人っていうのはミステリアスで興味は惹かれますけど、怖いところもありますよね?相手に何を思われているかを気にしすぎてしまうために、自分の頭の中にしかいないその人の亡霊を作り上げてしまって、とんちんかんなことを思ったり行動をしてしまったりするからです。

 その人がどういう人で、どういうことを思って生きているかが開示されていれば、そういう意味で安心できます。人と接する上で自分のリソースを想像に使い過ぎなくて済みますから、やりとりもしやすいです。

 

 なので僕自身も、ネットに色々出すようにしてから、知らない人から声をかけられることが増えました。それはやっぱり、「なんだか分からない人」ではなく「こういう人」であるということが分かりやすいからだと思います。とはいえ、開示した自己が他人にとってめちゃくちゃ受け入れがたいものであって、余計に人を遠ざけてしまう可能性も全然あるわけですが。分かりやすくはなることには良い側面も悪い側面もあります。

 

 でもまあ、そういうことを考え始めると、同人誌を人に渡しているのって「僕はこういう人間ですよ」って頼まれてもいないのに自己紹介をし始めている人みたいで、マジかよ、そんなことをしているのかよ!?って気持ちになってしまいますね。ヤバ人間だなと思いましたが、一方でこういうことを書くと、僕が他の人に同人誌を貰ったときにも、相手をヤバ人間だと思っていると解釈されてしまうのでは??と思い、いやそんなことはないですよ、マジで。もっと適切に自分自身だけを自省することができて、他の人たちは対象外ですよ~って言うことができる方法さえあれば…と思っています。僕に都合がいいように皆思ってくれ。

 

 とにかく行動をするときには色んなことを思うわけですよ。この文も自己開示なので、良くも悪くもこういうことばかりを考えて生きているんだなと思ってくださいね。頼む。

「ディザインズ」における美しくおぞましい生命讃歌関連

 五十嵐大介の「ディザインズ」の最終巻が発売されました。

 ディザインズは「HA(ヒューマナイズドアニマル)」という人間のような見た目を持つ動物が生み出され、それが軍事利用されたりされなかったりする漫画です。この漫画の前日譚として「ウムヴェルト」という読み切りがあり、そこに共通して登場するのは蛙のHAの少女です。

 

 ウムヴェルトは「環世界」と訳される言葉で、ある生物が自身の置かれて環境を何の感覚器を使ってどのように認識しているかを意味する言葉です。

 人間なら、光を目で感じ、空気の振動を音で感じ、物質の組成を味覚や嗅覚で感じ、そして、物体との接触を触覚で感じます。生物に搭載されている感覚器の種類や性能は様々で、例えば蝙蝠は超音波で物体の存在を感じますし、蛇は熱で他の生物の存在を感じます。犬は嗅覚を使って、残留物の情報から、そこに何かがあった時間の感覚までを複数重ね合わせて感じられるそうです。それらは、人間の持っている感覚になぞらえて理解することもできるかもしれません。でも、そのなぞらえはどのような形でも完全ではないでしょう。

 環世界が異なる生物は、同じ世界に生きていながらも感じているものが異なるわけです。その差は同じ感覚器を持たない者の間では決して完全には共有できないものかもしれません。

 

 HAは人間化された動物です。決して、人間に動物の能力を付与したわけではありません。彼らは遺伝子的には動物そのものなのです。つまり、彼らは人間のような見た目を獲得していたとしても別の生物なのです。だから、彼らの感じるものは、同じ環境にいる人間とは異なるはずです。

 同じ世界に生きていても、異なる視点を持つ彼らの存在は、今の世界に対しての異なる見方を提供してくれるかもしれません。ディザインズは、そんな物語だと思います。

 

 僕は物語には大きく2種類あると思っていて、それは「収束するもの」と「発散するもの」です。収束するものは、物語の中で登場する人間的課題や事件などの全てに何らかの答えが示され、始まりと終わりを体験することができるものです。ふりまかれた伏線は最後に全て回収され、ひとつの単独で完成されたものとしての美しさを感じることができます。

 一方で、発散する物語はそうではありません。読むことで頭の中に新しい課題や理解や考えを植え付けられるものの、その物語の中でひとつの明確な答えが与えられるわけではないものだからです。発散する物語は、最後まで読み終わってようやく始まりです。物語を読む中で、新たな考えを獲得し広がった読者の脳内は、読後にただそのままに残されます。

 ディザインズはそういった発散する物語ではないかと思います。

 

 ディザインズを読んだことで少し変質した自分の考え方とともに、この先やっていく感じになるからです。

 

 この物語は、あらゆる生物にとっての生命讃歌です。世界には絶対的な正誤がなく、ただ環境への適応があるだけです。生物の在り方は、遺伝子と環境のジャムセッションのようなものかもしれません。作中でも、遺伝子は「楽譜」になぞらえられます。楽譜は音楽を記述したものですが、決して音楽そのものではありません。HAを生み出したオクダは、その楽譜をもとに自由に音楽を奏でることで、まるで人間のような姿の動物たちを生み出していきます。彼は同時に、他の生物の感覚器を移植し、自分自身をも改造していきます。そうすることによって、異なる環世界へと越境することを望んでいるのです。

 オクダは世界で最もイカレた人間かもしれませんが、同時に、世界に存在する生物の全ての在り方を同時に愛しているとも言えます。生物の持つ形質が、それがどれほどよくある形から乖離していたとしても、「そう在ること」を決して否定しないからです。

 

 オクダは「病」を愛し「病」と友達になろうとします。ある種の病は、生物の形質や感覚器の性能を変えてしまいます。それは、異常だと捉えることができるかもしれません。というか実際、その病になることによって、現在の環境では不都合があるからこそ、それを病とネガティブに呼んでいるのでしょう。しかしながら、別の環境に行けば、それらの形質はむしろ有利に働くかもしれません。最初は突然変異であったものが、変わりゆく環境への適応できる形質であったことで、その後、その種族における支配的な形質へとなっていくなんてことも、生物の進化の中ではままあることです。

 つまり、病は、今は病かもしれませんが、異なる環境に適応するための準備でもあるかもしれません。それは生物の持つ可能性でもあるはずです。病の根源となる遺伝子を根絶し、多様性の無くなった生物ならば、あるときの環境変化で一気に絶滅してしまうかもしれないからです。

 

 生物の種はそのようにできていて、一定の割合で現在の環境には適合できない個体が生まれたりもします。しかしながら、それは異常で根絶すべきものとは限らないということです。いや、確かに生きる上で不利にしかならないように思える「病」もあるような気もします。でも、それはもしかすると、今ここではない、いつかのどこかでなら上手く生きるための武器になるかもしれないのです。そこで想定する環境が無限の多様性を持っていたら、あるいは、もしかしたら、いつかの、どこかに。

 生物の中に一定割合で枠から外れた個体が存在してしまうこと、それは生物という存在が流れとして強くあるために太古の昔から続けてきた営みです。そうであるからこそ、生物は長い時間を変化に適応しながら生きることができたわけなのではないでしょうか?

 だから、あらゆる病を含めて、全てを是とすること全てを讃えること、オクダの脳内はそんな多幸感で包まれているように思えました。それはとても素晴らしく、なおかつおぞましくも思えることでした。なぜならば、それは今の環境には上手く適合できない存在が生まれてしまうことを許容する考えで、そこには少なからずの個体レベルの苦が存在し、それをも織り込んだ上で全体を讃える行為でもあるように思えたからです。

 

 ディザインズの物語を読む中で自分の中に再確認した感覚は、「今ここの環境を、世界の全てとは思わないこと」です。自分の抱えるある種の肉体的精神的な異常さも「誤り」ではなく、ただ、今ここではなく他の環境に先に適応してしまっただけなのではないかと思えたことです。準備ができたのだから、その適応できる環境に自ら移動したっていいはずです。

 この物語は生物の話ですが、人間社会の話に置き換えて理解することもできます。人間社会における苦は、「自分を取り巻く社会のルール」と「自分の中に存在するルール」が乖離するところで起きることが多いです。今ここに適応できないことは病と認識されるかもしれませんが、それはその環境では病とされても、別の環境ならそうではないかもしれません。

 

 ただし、これはポジティブな希望だけを意味するとは限りません。例えばとてつもない暴力の才能がある人は、現代社会では犯罪者になりやすいと思われるかもしれませんが、無法の世の中であれば賞賛されるということだったりもするからです。ここが合わないならば、暴力が支配する無法の世の中に身を移せばいいという話になるでしょうか?世の中がいつかどこかでそうなっている可能性はありますけど、そんな世の中に適応する才能を持って生まれることが、果たして本当に良いことなのかどうかを考え出すと難しい顔をしてしまいます。

 食べても太らない体質は、食うに困らない世の中を生きるにはポジティブな性質かもしれませんが、もし食料が潤沢に供給されない世の中ならば食べても太れないのは命の危険に繋がるかもしれません。なら太りやすい体質の人は、食料が潤沢ではない世の中であれば幸せなのでしょうか?

 

 人間は生まれる時代や場所を選ぶことができません。環境はある程度は変えられるかもしれませんが、どうしようもないことだってあるでしょう。自分が生まれもった性質が、生まれてきた場所に適合するかどうかは運の問題かもしれません。

 ただ、その自分の抱える性質がいかに、今いる場所に適合できないものであったとしても、それは別のどこかに適応するための可能性であると認識することはできます。自分は「悪い性質」を抱えているのではなく、それそのものは「多様性」で、たまたま今いる世の中に適合できなくて運が悪かったと思うしかありません。あるいは、もし世の中が激変したときの保険のようなものと捉えることもできるのではないでしょうか?

 

 生物が種として強くあるには、自分のような外れた存在もまたひとつの可能性なのだろうと思うことができます。今の環境に適合できなくても、だがそれでいい、みんなちがって、みんないい。その中の一個人の人生がたまたま運悪く苦しみに満ちていたとしても、それでもその全てを肯定することが種としての強さの裏付けとなる、美しくおぞましい生命讃歌であるのかもしれません。

 これは僕がディザインズを読みながら感じたことです。これもある種の環世界と解釈できるかもしれません。皆さんが読んだならまた別のことを思うかもしれません。環世界は人の数だけあり、だがそれでいい、みんなちがってみんないい。

「バスタード」における魔法とSNSの類似関連

 「バスタード」は連載が長らく止まっている漫画で、僕はそのずっと続きを待っています。バスタードは剣と魔法のファンタジーとして始まった漫画ですが、途中で世界のからくりが明らかになります。それは、この剣と魔法の世界は実は我々の世界の数百年後の姿であるというものでした。作中の「魔法」という概念は「霊子力」という科学の文脈で説明されるのです。

 漫画に登場する破壊神アンスラサクスは、霊子力が生み出した大量破壊兵器で、強大な魔力を持つ魔法使いの主人公、ダークシュナイダーもまた、霊子力が生み出した存在であることが示唆されます。

 

 バスタードが特異だと思うのは、「魔法は科学」だと解き明かされたあとに、その上でさらに天使と悪魔という神話上の存在が登場することです。魔法だと思っていたものは科学であったが、実はその根本には神話の世界があり、それらは全て一体のものであるという統一理論的な世界観が示されるのです。

 この世界には神が存在し、天使が存在し、堕落した天使が悪魔となり神に反逆し、神話の中で伝えられる出来事は全て事実であると示されます。その上で、彼らはまた物理的な存在でもあり、それらは重なっているのです。

 物理の視点において、天使は正のエネルギーフィールドであり、悪魔は負のエネルギーフィールドであって、例えば「天使が堕落する」ということは、あたかも恒星がブラックホールに転換するように、そのエネルギーが中心に向かって落ちていくことで反発力を崩壊させたときに、力場が正から負に反転する物理現象と同じであることが説明されます。

 

 神話を否定せず、魔法を否定せず、科学を否定しない、全てを飲み込むような大統一的な世界観がめちゃくちゃ十代の僕の心を掴んで離しませんでした。なおかつ、様々な漫画やらゲームやら特撮なんかのパロディーも盛りだくさんで、例えば天使という概念がウルトラマンと同一視されるような描き方をされたりしていて、本当に何でも飲み込み取り込む強烈な漫画で、僕の心も飲み込まれているわけです。

 

 そろそろ本題なのですが、バスタードの作中における「魔法」の概念についてのことです。魔法は霊子力によって説明される物理現象であると同時に、神の力の秘密でもあります。それは神や天使や悪魔は当たり前に使える力であり、その力を霊子力という文脈で解明した人間にも取り扱えるものとなっています。

 魔法における長大な儀式や複雑な象形は、人間と霊的に上位な世界とのチャンネルを開くためのもので、魔韻を含んだ言霊で組み上げた呪文は、さながらプログラミング言語のようにその魔法を記述します。これらは初心者向けの魔力制御方法とされています。弱い魔力しか持たない人間でも、神の力の秘密を再現することができるように作り上げられた技術体系なのです。

 

 これがSNSにおける人間の振る舞いと似ているなと僕が思ったという話です。

 

 SNSには、そもそもSNS外で有名な人もいれば、あるSNSの中だけで有名な人もいます。そして有名ではない大多数の人がいます。

 有名な人の振る舞いは、バスタードにおける天使や悪魔に似ていると思います。つまり、ただ手足を動かすことで魔法が使えるように、何気ない発言でも猛烈な勢いでシェアされ、いいねがつけられるということです。同じ発言を有名ではない人がやっても見向きもされないのではないでしょうか。そんな内容の発言でさえ、有名人ならばすぐに沢山の人に反応されるのです。

 

 一方、そもそも有名でなかった人ではそうはいきません。発言の内容にSNS韻の含まれた言霊を組み込んで、漫画や図解のような象形を活用し、そのとき注目が集まっている話題や猫の写真などという霊的上位世界とのチャンネルを開いて力を借りるようなことをしなければ、多くの人から反応を得ることはなかなかできません(ただ、多くの人から反応を得ることは副作用も大きいので僕個人はあんまりそうなりたいとは思いません…)。

 

 SNSの中で有名になろうとしてなった人は、そういう魔法を頑張っている感じに僕は見ています。流行りの話題にSNSウケのいい「韻」を組み込んだ魔法を繰り返し使ってきたことでフォロワーを増やし、魔法使いとしての立場を確立してきたのかな?と思うのです。

 そして、一方でやっぱり天使や悪魔に相当するような有名人ならば、そんな複雑な術式を使わなくとも大量の反応を得られるわけなんですよね。つまり、魔法を使うことを頑張っている時点で天使や悪魔ではなく、人間の魔法使いだな、あくまで人間の魔法使いの頑張り屋さんだな、と思ったりするわけです。

 

 人間の魔法使いが、流行りの話題にいっちょかみしつつ、ときに対立をあおって両側の神経を逆なでたりもしながら、SNSでウケる韻を意識したり、複雑な象形を駆使して漫画にしたり図にしたりして、やっと発動できた魔法により入手できるシェアやいいねの数を、有名人の天使や悪魔は「おはよう」の一言で悠然と超えていったりします。

 この歴然とした差があるという事実、皆さんも認識しているのではないでしょうか?

 

 例えば、インターネットの論客として日々色んな揉め事にコメントしている人が、それ以外の何気ない日常の発言には全然いいねがつかないなどという光景を皆さんも見ているのではないでしょうか?その魔法使いたちが、天使や悪魔に勝つ光景を想像できますか?

 

 そう、つまりバスタードで行われているのは、そのような絶望的な戦いです。

 

 天使と悪魔の戦いの中に、兵器として人工的に作り出された魔法使いダークシュナイダーが、その超絶美形(ハンサム)と、巨大なポコチンと、絶大なる自信と、人間離れした魔力と、悪魔たちから奪った力なんかを使って戦い挑んでいるわけです。この戦いの無謀さについて、皆さんもご存知かもしれないSNSの雰囲気を手掛かりにして理解していただけましたか??

 

 バスタードの続きが載らなくなってもう何年経ったかも曖昧ですが、あの戦いの先がどうなるのか?僕はいまだにずっと読める日を待っているわけです。皆も待とう!バスタードの再開。

「デスストランディング」と僕のインターネット感の一致関連

 「シェンムー3」の発売までの間にやれるだけやろうかなと思って「デスストランディング」を買いました。事前に、オンライン要素がゲームフィールドに反映されることは知っていたので、人が多いうちにやった方がいいかなと思ったりしたからです。

 

 まだ序盤でいくつかの目的地に到達したぐらいなので、あんまり遊べてないんですが、基本的なチュートリアルは終わってサブクエストも出てきたので、そういうのもちょっとずつぼちぼち遊んだりしています。

 さて、この先ゲームがどうなるのかも全く分からないんですが、今感じているゲームのコンセプトから、僕自身のインターネット感との一致を感じたので、とりあえずその話を書きます。

 

 「デスストランディング」は物を運ぶゲームです。ある地点から別の地点に物を運ぶことを頼まれ、また、道中で拾った落とし物をまた別の誰かに届けたりもします。途中に厄介な敵も出てきますが、目的はあくまで物を届けること。敵は、それを奪ったり道を阻んだりするだけで、倒すことそのものが目的にはなりません(今のところは…)。

 物を運ぶときには、その安全にも気を遣わなければなりません。敵に奪われることの警戒もありますが、何より、転んで荷物を傷めたりしてはいけないのです。転ばないためには、適切に足場を選ばなければなりません。障害物が少なく、坂道の角度が緩やかで、歩きやすい道を選ばなければ、ちょっとした拍子に転びやすくなってしまいます。

 あるいは、荷造りに気を配らなければなりません。物をバランス悪く大量に持ち過ぎると転びやすくなるからです。でも、できればより沢山のものを一度に運びたいですよね?2往復するよりも1往復で運べた方が楽なはずです。そして、楽になりたいために大量の荷物を持ち過ぎ、より困難な道程にしてしまったことに気づいたりします。それに、もう引き返すこともしんどい場所まで来てから気づいてしまったりします。その結果、この配達を早く終わらせたいと、悲鳴を上げながらなんとか目的地に急ごうとしますが、それでも転ばないようにゆっくり慎重に急がなければならないのです。

 

 そんな面倒くさいゲームが楽しいのかな?という話はあると思います。楽しいです。でも、やっぱり面倒くさいです。その微妙なバランスに加わるのがオンライン要素です。

 

 困難な地形を踏破するためには、上手くショートカットできる道を作る必要があります。ハシゴをかけたり、ローブを降ろしたり、橋を作ったり、道を作ったりすることができます。そして、自分が作ったその効率的に歩くための要素は、ネットワークを通じて、他のプレイヤーにもシェアされるのです。

 

 デスストランディングにおける我々の道程は孤独なものです。目的地まで、たったひとりで孤独に歩かなければなりません。しかしながら、その道には、誰かが通った跡や、誰かが残してくれたルート、誰かが残してくれたアイテムがあるわけです。もちろん自分も何かを残すことができ、それが、誰かに使われたということだけが知らされます。

 孤独と書きましたが、これは孤独ではないのかもしれません。ただ周りに誰もいないだけです。周りに誰もいなくとも、それでも顔も知らない誰かと協力しながらゲームを進めることができます。

 

 主人公のサムは、他人との接触を避ける人間です。そんな彼が巻き込まれることになったのが、謎の大災害によって分断された地域を繋ぐことです。人と接触をしないでいながらも、人と人を繋ぐ任務を担うということ、これは矛盾しているでしょうか?

 僕が思うにそれには矛盾しない解があって、つまり、他人との接触には適切な距離感があるという話だと思うんですよ。

 

 これは僕がインターネットに対して常日頃感じていること共通するなと思いました。

 

 何度か書いていると思いますが、僕の日常では、人とあまり密な人間関係を構築していません。それは意図的に避けていることです。僕はできるだけ他人を嫌わないでいたいと思っています。それは他人を嫌っているときの自分の心の在り方に、自分でダメージを受けてしまうからです。

 その結果、至った考え方が「人に対してどれぐらいの距離感なら嫌いにならないで済むか」というものです。毎日顔を突き合わせていれば、すぐに喧嘩をしてしまうような相手も、年に2回、盆と正月に会うぐらいであれば仲良くやれるかもしれません。あるいは、直接会うのではなく、インターネット越しに見ているだけならば大丈夫かもしれません。そんな適切な距離をとることが重要なわけです。

 

 僕は、他人に対して接触することによる悪い影響を避けるための念のために過大な何かを想像してしまいがちで、それに勝手にビビッて他人と近い距離では上手くやっていけないと思ってしまうので、インターネット越しに人を見ているぐらいが基本的にはちょうどよく感じています。

 ただ、インターネット越しだとしても、特に直接的なやりとりを頻繁に誰かとするわけでもなく、SNSで何となく繋がっている人たちの中にいて、それぞれが独り言として同じ話題の話をしているぐらいの雰囲気がとても心地よく感じます。あるいは、今このブログを書いているように、思ったことを虚空に向かって投げているぐらいが。

 

 このへんの感覚の話は、半年ぐらい前に同人誌の漫画にも物語として描いたんですが、僕はインターネットが「価値観の違う人たちを一足飛びで繋げてしまう」ことが、世の中に沢山の揉め事を増やしているんじゃないかなと思っています。

 何を良いと思って、何を悪いと思うかの価値観は、人それぞれ微妙に違っていて、それが真逆の人たちもいます。その差がある人々がたったひとつのリンクで繋がってしまうとすれば、人はその状態に傷ついてしまうんじゃないでしょうか?つまり、自分自身の大切な価値観が、相手にはないがしろにされていると感じてしまいやすくなるからです。

 世の中の価値観がひとつに統一されていない以上、その悲しい出来事は常に起こり得ることです。なぜ自分以外の人たちが、自分と同じ価値観を持ってくれないのか?という悲しみは、世界に自分ひとりしかいなくならなければ完全には消えないのではないでしょうか?

 

 人がそれで傷ついてしまうことは悪くないと思います。しかたないことですよ。だって、自分の中の価値観は大切でしょう?でも、他人にだって同じく大切な価値観があるわけです。それを相手に曲げさせることを認めることは、全ての人間が平等であるという前提に立てば、自分の価値観も相手に合わせて曲げなければならないということです。

 ただおそらく、多くの人は、全ての人間を平等だなんて思っていないので、自分の価値観を相手に受け入れさせつつ、他人の価値観は受け入れないということを正しいと思ってしまうのではないでしょうか?これも別に悪くはないと思います。自分を真に客観視できる人は、自分という人間は何十億分の一の価値しかないということを受け入れてしまうからです。自分に特別な価値がないと思うことは、それはそれで辛いことでしょう?そんなに辛くならなくていいんじゃないかなと思うんですよね。

 

 異なる価値観を持つ人たちが、お互いに傷つけずにやっていくコツは、あまり接触をしないように距離をとることだと思っています。上手くやっていけないから距離をとるのではなく、上手くやっていくために距離をとるということです。しかしながら、距離をとってしまえば傷つけあうことはなくなるかもしれませんが、協力し合うこともなくなってしまうのかもしれません。人がたくさんいるのに、それぞれが価値観の切れ目で分断されていることも非効率的なことのようにも思います。

 だから、互いに適切な距離をとりつつも、共通的に必要な目的に関しては協力をすることができればいいのになという気持ちがあり、それがデスストランディングのゲーム設計と一致するような気持ちがあって、それがとても良く感じました。僕がゲームと、自分が抱えているのと同じ価値観と繋がれたと感じたからです。

 

 インターネットによって急激に狭くなった世の中は、世の中から多様性を奪っているのではないか?という疑惑を僕は抱えています。

 価値観と価値観がぶつかることは争いも生み出しますが、一方で歩み寄りのきっかけともなるからです。歩み寄りは良いことかもしれません。しかしながらその歩み寄りの裏側には、双方が何らかの我慢をすることで成り立っているという側面もあるのではないでしょうか?多様な価値観を持っていた人たちがたくさん集まれば集まるほどに、最終的に場に出せるものは、その誰もが納得できるとても狭いものになってしまうのではないかと思っています。

 だから、全員が同じ価値観を共有する場にいるのではなく、それぞれの人がそれぞれ近しい価値観の人で集まりつつ、その集団同士が必要に応じて点で連携できるようになれればいいんじゃないかと思うんですよね。大前提としては、その集団と集団の間を人が自分の意志で移動できるものとして。

 だって、インターネットで異なる価値観の人と繋がることで生まれる苦しみもあれば、インターネットでようやく同じ価値観の人と繋がることができた喜びもあるわけじゃないですか。

 

 デスストランディングに見る他人との距離感は、インターネット以前には遠く見えなかった人たち、そして、インターネット後には近すぎて見えすぎてしまう人たちと、改めて適切な距離感を模索する様子があるように思えます。

 僕はひとまずそれがなんかいいなと思ったりしました。

実写映画「バクマン。」は実質、林羅山説

 実写映画の「バクマン。」を皆さんは見たでしょうか?最高と秋人の2人の高校生コンビが、週刊少年ジャンプでナンバーワンの漫画を描くこと(そしてアニメ化されて好きな女の子をその声優にすること)を目指す映画です。

 特に原作を読んでいた人に聞きたいのですが、あれは「バクマン。」でしたか?確かに登場人物や、置かれている状況は「バクマン。」だったでしょう。でも、本当にあれが「バクマン。」ということでよかったのかどうかに、僕は疑問があります。僕はあれが、「スラムダンク」であったように思えてならないからです。

 

 さて、林羅山という人物をご存知でしょうか?歴史の授業で出てきたと思うのでご存知と思います。林羅山は、朱子学派の儒学者であり、徳川家康から数えて4代の将軍に遣え、江戸幕府の在り方についての様々を定めた功績のある人物です。

 彼は儒学者でありながら、儒教ではなく、仏教の僧侶として出家しています。しかしながら、彼は仏教の僧侶としての立場を得つつも、儒学者でもあり続けた人物でした。朱子学とは、儒教から宗教性を取り除いた学問です。江戸幕府は、寺請制度により、人々をいずれかの寺院に所属することを義務付けました。つまり仏教を利用することで、宗教統制を行うとともに、民衆の管理を行う施策を進めたわけですが、一方で、江戸幕府の正学としては朱子学が採用されており、ここに林羅山の影響があると思われるわけです。

 

 宗教性を排除した朱子学と、形式を残した仏教による江戸幕府の統治は、その習合にも影響を与えたのではないでしょうか?曖昧に書いたのは、僕は適当な本の読みかじりなので、学問的には間違っているかもしれないという予防線です。

 

 さて、現代の寺院で見られる、日本の仏教と我々が思っているものの中には、様々な儒教的なものが残っています。例えば、位牌は儒教にその起源があるものです。お盆も、なんとなく仏教的に思えてしまいますが、先祖の霊が帰ってくるという思想は、仏教における輪廻転生の概念と矛盾しますし、一方で祖霊を祀ることを教える儒教とは親和性が高いものです。

 この辺も、僕には厳密な話はできませんが、我々が仏教という枠組みで捉えているものの中には、実は仏教由来ではなく、仏教が日本に根付く中で、様々な別の思想を取り込んだ結果であったりもするわけです。

 

 宗教は、このように外来したものが現地信仰などと結びつくことも多く、あるいは、布教のために土着の進行を悪神として取り込んだりなどして、地域によって変化をしがちなものです。その結果、開祖の思想はどこへやらとなってしまったり、最初の経典の思想に帰れ!と主張する人が出てきて揉めたりを繰り返していて、様々な地域での受け入れられ方なんかの本を読んでいると、非常に人間的で面白い話だなと思います。

 

 林羅山は仏教の顔をしながら、儒教由来の思想をその中にまんまと取り込ませることに成功した男という解釈をすることができます。

 これですよ!つまり僕が言いたいのは、「バクマン。」の実写映画を作るというていで、映画製作者たちが作りたかったのは「スラムダンク」であり、まんまと「スラムダンク」の映画を作ってやったのではないかと思うわけです。

 

 じゃあ、どこが「スラムダンク」なのかというと、終盤の展開です。

 

 映画の中で、最高は、ハードワークがたたって入院してしまい、せっかく上り調子な連載中の漫画を休載せざるを得ないことになってしまいます。しかし、最高は病院を抜け出し、原稿を完成させて、編集長に提示して、見事掲載する許可を得ることができます。そして、ついにはアンケートのナンバーワンを得ることができるのです。しかし、ここで全精力を使い果たした彼らの漫画は、その後人気を落とし、終わってしまうことになります。

 これは、映画の尺に物語を収めるための変更だと思いますが、原作とは異なる展開なんですよね。

 

 そして、一方でこれは「スラムダンク」の最後に酷似しています。バスケの試合中のアクシデントで背骨に痛みを感じた桜木花道は、選手生命にかかわると警告されながらも、自分の全盛期は今だと言って試合に出続け、最強のチームと名高い山王工業に勝つことができます。そして、その試合で力を使い果たした彼らは、次の試合でぼろ負けしたと書かれ、連載が終わるのです。

 

 実写映画の「バクマン。」でも、「スラムダンク」の話題は登場し、そして、なによりクライマックスのアンケート1位をとった場面で、最高と秋人がタッチをかわすのです。これは「スラムダンク」における流川と桜木のタッチをかわすシーンと同じでしょう。僕たちは、「バクマン。」の映画を見に来たつもりが、「スラムダンク」を見させられていたのだ!!とそのとき思いました。

 

 長々書いてきましたが、もちろん「スラムダンク」だけが描きたかったわけではなく、他の作品へのオマージュも沢山あり、あるいは、大槻ケンヂの「グミチョコレートパイン」を意識しているのかな?というような場面もあったのですが、基本的には、90年代のジャンプ漫画が好きだった人たちが、90年代のジャンプ漫画が好きだった気持ちを元に作った映画なんじゃないかなという風に感じました。

 そんな感じに、「バクマン。」の原作で描かれていたものをぐぐっと最小化して、90年代のジャンプ漫画が好きだったぞ!という気持ちをマシマシにしたら、結果、映画が面白かったので、なんかその状況が面白かったなという話でした。

昔、あずまんが大王が嫌いだった話

 今は、あずまんが大王は何も嫌いじゃないというか、本当は最初から別に嫌いなんかじゃぜんぜんなかったと思うけど、若い頃、あずまんが大王がすごく嫌いだと思っていた。嫌いだったというより、より正確には、これを面白いなどと思ってはいけないと思っていた時期がある。

 

 漫画は何も悪くなくて、こんな風に名前を出すこともよくないのかもしれない。僕がなぜあずまんが大王を嫌いと思っていたかというと、僕が嫌いだった奴が「世界で一番面白い漫画は、あずまんが大王だ」と言っていたからだ。ほんとうにしょうもない理由だ。

 僕が「あずまんが大王は面白い」と感じてしまうことは、「僕が嫌いなあいつの感性を肯定すること」だと思ってしまったのだと思う。そんなわけはないし、全く無意味なことを思っていたなと思うけど、当時はそう思わないでいられるような感覚がなかった。

 

 その嫌な相手は、ある繋がりでたまに一緒の空間にいなければならない人だった。

 

 僕が彼を嫌いになった理由は分かりやすくて、彼が僕が好きな漫画のことを「気持ち悪い」と表現したからだった。すごく嫌だなと思って、なんで人が面白く読んでいる漫画についてわざわざそんなことを言ってくるんだろう?と思った。それだけだ。それだけのしょうもない話なんだけど、たったそれだけで、その後何年もの間、あずまんが大王を面白い漫画とは思ってはいけないという感覚に囚われ続けてしまった。

 人間はしょうもない。一般化し過ぎた。僕はしょうもない。

 

 でも、もしかしたら今は頑張って切り離しているだけで、今でも同じ感覚はまだあるのかもしれない。

 

 例えば、SNSでの振る舞いが嫌な作者の描いた漫画を、面白いと思ってはいけないという感覚があったりはしないだろうか?SNSでの振る舞いを否定したいがために、相手の漫画をつまらないと表現しようしようとしてしまうとしたら、それは人間と人間の問題であって、漫画の問題ではないだろう。でも、そこを綺麗に切り分けることが本当に誰もに完璧にできるのだろうか?ということも思う。

 もしくは、他人が好きなものをこき下ろすことで、自分が相手より優位に立ったように感じてしまったりしないだろうか?それはひょっとしたら、嫌な相手が僕に向けてきた感覚の裏返しで、同じものなのかもしれない。

 

 オタクは、何かが好きとか嫌いとかで自分を語ってしまいがちなのではないかと思う。何かが好きとか嫌いとか言うことが、オタクにとって自分自身を記述する数少ない方法なのだとしたら、そこにはきっと優劣も生まれるのだろうと思う。人間は他人との優劣を気にしてしまう生き物だからだ。

 何かのことを好きな自分は、別のものを好きだと言っている他の誰かよりもいいセンスをしているとか。何かを嫌っている自分は、他の誰かよりいいセンスをしているとか。それは自分が属する集団の中の序列の話で、人間関係の話で、人の心の問題だろう。漫画は実はあんまり関係ない。

 でも、そういうことをしてしまうんじゃないかと思う。漫画そのものじゃなく、それを好きとか嫌いな自分の話をしてしまうんじゃないかと思う。何が嫌いかより、何を好きかで自分を語れなんて台詞があったけど、好きとか嫌いとかを感じてしまうことそのものは個人の感覚だから別にいいとして、好きだろうが嫌いだろうが、それを他人との序列を認識するために使うことには本当に自分に得があるんだろうか?と思う。実際は自分が楽しめる範囲をわざわざ狭くしているだけなんじゃないのかと思ったりする。

 

 こういう経験は、友達のオタクたちにも少なからずあるようで、「自分が好きな漫画を、他人に薦めるときに重要なことって何かな?」って話をしていたときに、最終的に大事なのは「薦めている自分の好感度」だなという結論に達した。

 僕が嫌な人間だと思われていれば、僕が薦める漫画をむしろ嫌う人の方が増えるだろう。僕があずまんが大王を嫌ってしまったように。

 もしくは、自分と自分が好きな漫画を一体化して、我こそがこの漫画の一番のファンであるぞ!!という顔をし始めても、その漫画を何のしがらみもなく楽しむことができる人は減るかもしれない。ファンコミュニティの序列の中で、自分は上で、お前は下だと言われ続けるかもしれないからだ。

 

 僕は自分が好きなものが、世の中でも広く好かれているといいなと思う。それは別に善良さではなく、個人的な利益の話だ。つまり、自分が好きなものが嫌われている光景を見ると傷ついてしまうからだ。そう、結局のところ完璧に切り離せてなんかいない。ただ、僕が好きなものを皆も好きであれば、そういうことは起こらない。自分の好きなもので世の中が満たされていさえすれば、僕も機嫌よく過ごすことができる。

 でも、実際の世の中は僕と同じ形をしていない。百人いれば百人の違った形が存在する。全ての人間にとって心地よい形を満たすようにすることは不可能なのかもしれない。だから、たまたまそうあってほしいと願うことぐらいしかできない。

 そして、自分が嫌いなものの感性で世の中が満たされてしまうことにも怯えてしまうのかもしれない。だから僕はそれを拒絶しようとして、面白い漫画を面白いとは思ってはいけないと、頑なになってしまっていたんじゃないかなと思う。

 

 そんなふうに色々思うところがあって、何かの特定のものが好きなオタクの集団には深く属さないでオタクをやろうという気持ちがある。なぜならそこにはどうしても序列が生まれてしまうだからだ。自分は他の誰かよりもこれが好きだとか、作者と仲がいいだとか、あんなものを喜んでいる奴らはレベルが低いだとか、そういう序列の話が生まれてしまう。

 そうじゃないんだよな。ひとりで読んでてなんとなく面白かったなとか、楽しかったなとか、救われた気持ちになったなとか、そういうことをしている時間が好きなだけなんだよな。

 だから、同じものが好きなオタクの集団に無理に属する必要はないし、ひとりで楽しくやってりゃいいんだと思う。

 

 僕は今、あずまんが大王を面白く読める。でも、かつて嫌いだと思っていたことに少しの後ろめたさがある。いまだに。