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「夢中さ、きみに。」と内向的な人間を浮き彫りにする人間関係関連

 和山やまの「夢中さ、きみに。」は、先月単行本が出た漫画で、気を抜いていたら紙の本が売り切れていたので電子版を買ったものの、先週ぐらいに紙の本が重版されたようなので、そっちでも結局買いました。以下、具体的ではないですがほんのりとネタバレが含まれます。

 

 この漫画は大きく、林くんを取り巻く複数のお話と、二階堂くんを取り巻く複数のお話で構成されます。この2人の共通点は、2人とも何を考えているんだかパッと見、よく分からないところだと思います。

 

 林くんは、本当に何を考えているんだか分かりませんが、でも、彼の中では何らかの考えがあってそういうことをしているんだろうなと思えます。周囲は、林くんが林くんであることに困惑しますが、一方で、林くんが何なんだか分からないことで、林くんに興味を持ち、林くんが何を考えているかを探ろうとしたりします。

 そうすると、浮き彫りになってくることがあるわけです。彼が言い出す突飛な言動は、全くランダムに出てきたものではなく、彼なりに色々考えて出てきた言葉なんだなと思える瞬間があるわけです。ただ、その過程が表に出て来ず、ただ結論だけを与えられると困惑したりします。無数の「分からない」の間に、ときおり「分かる」が発生することが林くんの魅力じゃないかと思っていて、人間には「分からないものが分かりたい」という根源的な欲求があると思うんですよ。だから、林くんを分かりたいと思う人が沢山現れるのではないかと思います。漫画の中にも、漫画の外の読者にも。

 

 二階堂くんの方は、意図的に自分の周囲を混乱させるメッセージを出している子です。人間は結局、その人が出してくれたメッセージを読み取ることでしか、人を解釈することができません。それは言葉だけではなく、表情やしぐさもそうですし、服装や髪形など、見た目が発するメッセージ性もあります。そのように目に入った断片を繋ぎ合わせて、この人はこんな人ではないか?と類推するわけです。

 では、人が、わざと誤解されるように振る舞ったとしたらどうでしょうか?狂人のまねとて、大路を走らばすなわち狂人なりです。周囲の人間には分からない理屈で、周囲の人間の分からない行動をとるならば、それはきっと狂人なのかもしれません。どんな狂人でも、その行動には、その人なりの理屈があるのではないかと思っています。そして、それが理解できたときに、理解できた人にとってその人は狂人ではなくなりますが、どんなに理路整然とした理屈があったとしても、他人に理解されなければ、狂人として扱われてしまうのです。

 

 二階堂くんは、他人を遠ざけるために、わざとそのような行動をとる普通の人です。でも、普通の人がそんなまねまでして、人を遠ざけなければならないのは異常です。彼をその異常に走らせたのは、周囲の人間からの誤解でしょう。狂人のまねをせずとも誤解は発生します。

 人は他人を見たいようにしか見ません。運が悪ければ、他人が見たいように見た人物像に、当人のありのままの姿が合致していないことで怒られたりもします。二階堂くんは、そういった不幸を避けるために必死で自分を偽り、でも、そこに気づく人も出ました。

 

 自分の中だけで完結した理屈で動きがちな内向的な人間の内面は、その人をひとりにしていただけでは何も読み取ることができません。僕自身その傾向があります。子供の頃はもっとそうでした。

 子供の頃は、他人から言われたことをブラックホールのように吸い込んで、相手が予想したリアクションを返さないので、何を考えているのか皆はよく分からなかったようで、周囲を混乱させてきたこともしばしばでした。それは、周囲の人間にどのようなリアクションを返せばどのように受け取られるかにビビッていて、上手くいかなくて失敗も繰り返すので、それならいっそ何も返さない方が安全だと思い込んでいたためではないかと思います。

 

 だから僕の人間関係は、周囲の僕の人間性にぐいぐい踏み込んでくる友達がいたことで何とか成り立っていました。僕自身はできるだけ何も発さないように決め込んでいましたが、ずかずか踏み込んでくる友達へのリアクションが面白がられて、僕という人間の人間性が周囲に受け入れられていた部分が多分にあったと思うからです。だから、僕が一番仲が良かった友達は友達で、周りには変な人だと思われていたことも多かったです。距離感がぶっ壊れていたので、0から100に距離を縮めてきたりしましたけど、それが運よく、常に周囲との距離をとりまくってしまう僕との相性が良かったんでしょうね。

 僕は、他の友達に何であんな変なのと仲良くしているのか分からないなんて言われたこともありますけど、でも僕には彼ら彼女らのその態度がありがたかったとも思うわけなんですよ。

 

 「夢中さ、きみに。」で描かれていることもそこに通底することがあるような気がしていて、ひとりで存在していれば何も読み取れないような内向的な人間について、周囲の人間との関係性が発生することで、見えてくるものがあります。それがなんか嬉しい感じがしました。僕はこの漫画を読んでいて、なんか嬉しい感じがすごくしたんですよ。

 

 それは内向的に生きてきていた自分が、周囲の人間関係が存在することで内面が開示されたことで、何かしら救われてきたというような自覚があって、そして、それが面白く肯定的に描かれているように思ったからです。

 

 に…人間と人間の関係性~!!僕はそれをすごく良いものだなと思っています。

仕事のために獲得しつつあるコミュニケーション能力関連

 コミュニケーション能力、もうほんと無く生きてきて、自分が発した言葉が他人にどう受け止められるかに過剰にビビり過ぎてしまって口数が少なくなったり、自分が他人とコミュニケーションをとったときの悲観的な想像をし過ぎてしまうために、人とあまり接さないようにしたりして生きてきたところがあります。

 こうなったのは、実際にはコミュニケーションの失敗がその前に沢山あって、それは必ずしも僕自身の問題ではない部分もあるとも思うのですが、結局自分がそうなってしまったということは事実で、それを何とかしようと思う人間は僕自身しかいないなあと思うので、なんとかどうにかそこから抜け出そうと色々考えているところがあります。

 

 前に、病院に行ったとき、めちゃくちゃ痛いところがあって、めちゃくちゃ痛いんですよって言ったけど、お医者さんは僕の様子からあんまり痛いと感じていないと想像したようで、色々検査をした結果、これで痛くないんですか??と聞き返されたことがあり、いや最初からめちゃくちゃ痛いと言っていますよと申し添えたというようなことがありました。僕の表情や振る舞いからは、そんなに痛がっているように思わなかったんでしょうね。僕は自分が抱えている痛みとかを、他の人に察することができないように押し殺す癖がついてしまっていたりします。

 その理由を思い出すと、やっぱり自分が痛いということを訴えても、むしろ怒られるというか、それを理由にして何かをやらないことを叱責された経験があるからかなと思うわけです。痛みを訴えてむしろ損をするならば、最初から察することができないように押し殺した方が得です。なので、それをずっとやってきたみたいなところがあるんじゃないかと思うわけです。

 

 なので、僕はコミュニケーション能力がむちゃくちゃダメな状態で育ってきたわけですよ。自分が考えていることができるだけ他人に分からないように振る舞い、人との接触を避けることで、他人の考えを想像したり、求められることを察して応えることなんかからも逃げてきました。周囲との情報伝達をわざとおかしくすることが、自分を守る方法だと思っていたわけです。でも、そのせいで得られなかったものも多々あると思います。

 でも、近年仕事をしていて、やっていることの半分以上はコミュニケーションになってきました。なぜ自分がそんなことに??と思ってしまいますが、生きていくためにはしなければなりません。

 

 仕事で発生するコミュニケーションとは、例えば、何かを作るときに、それが利用者にどのように求められているかを調べることです。利用者は自分が使いたいものの具体的なビジョンを持っていないことが多いですから、今何に困っていて、それがどうなるとどうよくなるのかを、色々な人に聞いて、彼らがまだ明確には持っていない答えを具体化する必要があります。

 コミュニケーションなしにこれをやろうとすると、参照できる人が僕自身しかいませんから、それは多くの場合とても独りよがりなものになってしまうと思います。若い頃はこれで失敗したこともあります。一生懸命作ったのに、誰も使ってくれないのです。僕の態度はつまり、必要だと自分が考えるものは入れたので、思うものと違っても我慢してこれを使えと利用者に押し付けたということになります。それは、僕自身に強い権力でもない限り、だいたい上手くいかないですよね。

 

 そして、そうやって決まった作るべきものの規模はだんだんと大きくなり、自分ひとりで作れることはなくなりました。集団での作業になります。だから、自分がそのリーダーになるとき、自分の考えていることをできるだけ正確に色んな人に伝える必要があります。これもコミュニケーションです。そのために文書を作りますし、対面で説明もします。それでも、違って伝わることはあって、ひょっとして僕の言うことが上手く伝わってないんじゃないか?と気が付くのもまたコミュニケーションです。

 あるいは、自分の考えが実際は間違いを含んでいることに気づくのもコミュニケーションではないかと思います。色んな人が関わってくれるということは、自分が考えて頭の中で整理したものに欠けているものや、想定していない前提なんかを他人の頭を使って補うことができるようになります。

 誰かのために、誰かと何かを作る作業では、大量のコミュニケーションが必要で、そのためのコミュニケーション能力を持たないといけないわけです。

 

 最初から正解を出せるとは限りません。でも、正解に向かう意志があるなら、色んな人の意見を聞いて、少しでもそこに近づくようにはできるわけです。ジョジョの5部ですよ。そのためのコミュニケーションの意志で、そのためのコミュニケーション能力です。

 そういうのを何とかやっています。なんとかやれるようになってきました。

 

 で、この辺がなんとかやれるようになってきた過程を思い返していたんですけど、それは他人と自分の間に発生するものに対して、どのように接するかが変化してきた過程のように思います。つまり、自分が他人に投げかけた言葉がどのように解釈されるか?という話と、相手が自分にどのような意図で言葉を投げかけてきているのか?という話です。

 

 僕が人間を見るときに注目しているポイントのひとつは、その人が自分の考えていることを他人にやらせようとするときに、どのような方法をとるのか?ということです。

 よくない現場では、それが叱責による恐怖になっていることがあります。つまり、「それをしなければ、アナタの精神に強い負荷をかけるぞ」というメッセージです。負荷をかけられたくない人は、そうなることを逃れるために逃げるように何かをしますが、僕の認識では、それはそもそも結構おかしな方法だと思うわけです。

 なぜなら、人の行動を促すのは、その行動に良い評価を与えることだと思っていて、その逆の悪い評価を与えることは、人の行動を抑止することに繋がると思っているからです。

 

 何かをやってほしいときに、その行動を褒めるのではなく、行動しないことを叱責するという方法は、行動をしないことを止めさせることはできるかもしれませんが、何をすれば良いとされるのかというメッセージ性が欠けています。

 「人の悪いところを叱り続ければ、良い人になる」という考えの信用できないことは、その発想の中には「良い」という概念が一度も出てきていないからです。悪いところを全てなくせば、それは本当に「良い」ということなのでしょうか?それはただ「悪くない」というだけなのではないでしょうか?

 

 僕がやっている方法は、まずは何が「良い」かを共有することです。でも、その「良い」というのは、本当に良いかどうかは分かりません。良いというのは絶対不変の概念としてあるわけではなく、「誰にとってどのように良いのか?」という文脈があるからです。ある人にとって良いものは、別の人にとっては良くないかもしれません。だから、最初に何を良いとするかを共有する段階で、それを見定めることをします。そして、一度決めたら、それは基本的に変えるべきではありません。

 なぜなら、何かの判断に迷ったとき、その「良い」ことに対して、利するものであるかどうかを判断するモノサシとして使うためです。そのモノサシさえ確固として存在していれば、最終的に落ち着くべき価値観が一致するので、別々に動いている人の意志を統一しやすくなりますし、話し合いになったときにも、落としどころが見つかりやすくなります。

 これが完璧な方法とはまだ思いませんが、良いと悪いを適切にフィードバックすることで、集団で何かを作る際のコミュニケーションを円滑にして、成果物の品質や、構成員のモチベーション維持をしていこうとしています。上手くいっているかは分かんないですよ。もっといい方法がるかもしれません。でも、少なくとも迷走はしていないので、ましな方法です。

 

 僕は人格的に色々欠けているので、それを補うために方法論を頼っています。人間力で対応しようとすると、めちゃくちゃになってしまうと想像して怯えてしまうからです。

 それで、色んな方法を考えては実際に試して、上手く行く方法を模索していて、今後もアップデートしていこうと思うんですけど、今の実感として思うのは、良いものを作るために必要なことは、「良いものを作るために行動すること」で、迷走するときには、その逆だという実感があります。つまり、「何も行動せずに悪いところだけを指摘し続ければいい」ということです。何が良いかも示されない中で、とにかく今が間違いだと指摘され続けると、その仕事の担当者の考える範囲は無限に広がりますし、そして、誰も手伝ってくれないので、その広がったものを全て個人が抱え込まなくてはいけなくなります。

 

 僕が思うに、人は自分で解決できない問題の前から逃げることを許されないと、そのうち狂ってしまうんですよ。だから、そんな感じの現場がまだ回っているとするならば、まだ担当者が狂っていないというだけで、いずれはヤバくなるタイミングがくる可能性が高いと思います。

 

 何が良いと思うかを考えて、それを実際に行動して実現していくことです。悪いところを指摘したりするのは、その過程で副次的に存在することはあっても、それしかない現場は、人間の精神を沢山すりつぶしていくようなものにしかならないんじゃないかと思います。

 これはもちろん、僕自身がそんな現場に長時間いて、自分の精神をすり減らしていたから思うことで、自分が管理できる権限を持ちえた今になっては、それを繰り返してはならないなと思っているというだけなのですが。

 

 他人に対して、無理めな目標を与えて、何か上手く行かないことがあれば、「なぜできないんだ?」「できるようにしろ」「上手く行かないのはお前が仕事を舐めているからじゃないのか?」をグルグル言い方を変えて繰り返し、10個の課題を抱えて相談に行くと、帰りには15個の課題を抱えることになるみたいな中で、仕事をする現場は結構あると思っています。僕自身の経験から具体的に言うと、学生の頃の研究室はそんな感じで、同期が何人も中退してしまいましたが…。

 

 でもなんか、そういうのが世間一般では楽で便利で良い方法だと思われているんじゃないか?とビビッてしまうことがあります。自分たちが何を良いと思い、それを実現するために動いているかということではなく、「あいつらは間違っている」とか「あいつらはアホばかりだ」という声だけを人にぶつけているだけの光景をネットでよく目にするからです。自分たちの正しさを示さず、自分たちと違う側の悪辣さを糾弾することの先に何かがあるのでしょうか?今僕が書いていることもそれに抵触するので、多少落ち込んでもいるわけですが…。

 他人の悪いところを指摘し続けるというのは、人を壊すための方法ですよ。自分が嫌悪しているはずの、そういうことをして、人の精神をすり潰すことでしか何かを実現することができない人に、それに与するのであれば、なってしまうじゃないですか。

 

 だから、なんというか、自分は自分が良いと思うことは何かを考えて、そして、それを自分で実現するように、やっていくしかないと思うんですよね。そういうことをするしかないと思っています。

 僕が良いと思っているその方法を、周囲の人たちも同じように思ってくれるようになるように行動していくこともまたコミュニケーション能力なんじゃないかと思っていたりするのです。

コミティア129で買った「カラオケ行こ!」について

 昨日のコミティアで、どうしても欲しかったので、サークル参加している初動の早さを利用して、開場すぐに並んで買ってきました。以下が感想ですが、ネタバレも多少は含んでしまうので、皆さんはまずどうにか本を手に入れて読んでください。

 以下にサンプルが公開されていました。

 

www.pixiv.net

 

 この漫画は、合唱コンクールに出場していた中学生に、ヤクザの若頭補佐の成田さんが目を付けたことから始まる物語です。

 その組の組長は大のカラオケ好きで、定期的にカラオケ大会を開催しては、一番下手だった組員に罰として自分の手で刺青を掘ります。組長の下手な刺青を入れられたくない組員たちは、必死でカラオケを練習し、自分が一番下手にならないように死に物狂いになるのでした。そこで、成田さんが目を付けたのがこの物語の主人公の岡くんです。彼は合唱コンクールの中で一番歌が上手い学校の一番歌が上手い少年です。若頭補佐の成田さんは中学生の岡くんを毎週カラオケに誘っては、指導を頼む関係性になるのでした。

 

 この物語から僕が読み取ったのは、「変わってしまうもの」と「変わらないもの」です。世の中は諸行無常なので、あらゆるものは時間の経過とともに少なからず変わってしまいます。子供にとっては特にそうでしょう。肉体の成長も精神の成長もとても早く、今のままでいることはできません。

 

 岡くんにとっては声がその象徴です。避けられない声変わりがあることで、これまで出せていた声が出せなくなるからです。歌が上手かった少年は、かつて出ていた声がでなくなり、歌は上手くあることはできても、今までと同じ上手さではいられなくなります。物事は変わっていくのです。その場に留まることはできない。

 成田さんが歌を上手くなって逃げようとしているのは、「変わらないもの」からです。組長の一時の思い付きで、消せない刺青がその身に刻まれてしまうかもしれないことから逃げたいということです。だから変わらなければなりません。歌が上手くなるように変わることで、変わらないものの恐怖から逃げることができます。

 

 この物語は、そんな変わりたくない岡くんと、変わりたい成田さんの関係性で紡がれる物語です。

 

 変わることは、良いことでしょうか?悪いことでしょうか?では、変わらないことはどっちでしょうか?ヤクザの介入によって自分の生活を変えられてしまった岡くんは、最初はそれを迷惑だと思いながらも、徐々に、その変わったことを受け入れていくようになります。

 成田さんは、岡くんの指導で、歌を上手く歌うコツを獲得していきます。好きな曲よりも上手く歌える曲を教えてもらい、それを練習していきます。でも、毎回のカラオケで好きな曲を、X JAPAN「紅」を、歌い続けるわけですよ。変わらずに。だって好きだから。

 

 変わってしまいそうだけど変わりたくなかったり、変えなければならないのに変えたくないことがあります。変わらない何かを受け入れることが嫌だったり、変わることが心地よかったりします。物語の後半で、決して変わってほしくなかったことが起こるわけじゃないですか。あり続けて欲しかったものはいつかなくなってしまうかもしれないわけです。

 自分にとって大切で心地の良い時間は、永遠には続きはしないかもしれないということに気づいてしまいます。それが自分ではどうにもできないかもしれなくても、その中で生きるしかないわけです。

 

 変わりたくなかった少年は、自分の人生に暴力的に介入してきたヤクザによって、たくさんのことが変わってしまいました。でも、それが今度は変わってしまったことが、変わらないでいて欲しく思ったりしてしまうわけです。世の中はそういうことの連続じゃないですか?

 永遠に続くものはないです。でも、すぐになくなってしまうものもあれば、少しは長く続くものもあるじゃないですか。そういうことのごちゃまぜになったものが人生じゃないですか。だったら、それを瞬間瞬間で切り取って、変わることも変わらないこともあるでしょう。変わってほしいことも変わってほしくないこともあるでしょう?だったら、自分の中で、何がそれぞれに当たるかということが分かることに、意味があるんじゃないでしょうか?

 

 この物語の最後は、変わらないもので締められます。でも、それは決定的に変わったものでもあります。それが変わらなかったことと、それが変わったことが、なんだかとてもいいなあと思いました。

 みんなもどうにかして手に入れた方がいいよ??

最新のコミティア129に出る情報です

 コミティア129に出るのでその情報を書きます。よければ来てください。

  • 日時:2019/8/25(日)
  • 場所:東京ビッグサイト(青海展示棟)
  • スペース番号:く10a
  • サークル名:七妖会

 

 新刊は「虚無病」という、amazarashiからタイトルを最初に決めて、話を作っていく毎度のシリーズのやつです。どういう話かというと「人殺しをめぐる話」です。人間は何をどうすれば人を殺すんだろう?と思いながら描きました。

 好きな曲名をタイトルにするのは、お話を作るときにすごく良くて、なぜなら、お話の方向性に困ったときに、このお話はタイトルに照らして合っているかどうか?という軸が生まれるからです。テーマみたいなものの代わりをタイトルがしてくれるので、迷いがちなお話作りにおける道しるべとして機能して、そこに寄り添いさえすれば、お話は最後までできる。なので、便利なんでやってます。

 あと、こういうの、曲名とか他の好きなものとか、最終的に外に分かるように出さなくてもいいんじゃないの?って話もあるんですけど、僕は自分が何かを好きという気持ちを一番表現できる方法が、「自分の生き方や、自分の作るものにその影響をガンガンに受けていく」ということだと思っています。そして、影響を受ける代わりに、その事実を隠さないというのが誠実さかなあと思っているのでした。っていうか、僕が好きなもの、めちゃくちゃいいので、皆も読んだり聞いたり見たり遊んだりしなよって思っているんですよね。知って。

 僕が描いているものは、自分が何を好きかということを漫画の形にした、自分が好きなたくさんのものの感想文まとめのようなものなんですよ。

 

 以下が試し読みです。

www.pixiv.net

 

 そういえば、今回はティアズマガジン129に1ページの漫画を描いています。前回のコミティアのときに声をかけてもらったので、やります!やります!と言って描きました。普段は自分のOKだけで描いているので、他の人の依頼を受けて描くのは面白かったです。

 

 あとなんかあったっけか…。そうだ!当日は以下でレポった寿司のTシャツを着ていくつもりなんですが、同じく寿司のTシャツを着て来てくれた人がいれば、なんかオマケをあげます(欲しいかどうかはしらない)。

mgkkk.hatenablog.com

 

 コミティア、出ると「ブログ読んでます」って言って来てくれる人が毎回何人もいるので、嬉しいなあという気持ちと、おい!頼むぞ!!来てくれ!!という気持ちがあるので、よかったら来てみてください。いつも通り、ひとりでぼんやりしていると思うので。

 頼むぞ!!

「HUNTER×HUNTER」のナニカの能力と責任の等価交換認識の類似幻視関連

 ハンターハンターに登場するゾルディック家には、アルカという子供がおり、そのアルカには「ナニカ」と呼ばれるもうひとつの人格が存在します。ナニカの正体はその後、暗黒大陸から持ち帰られた「ガス生命体アイ」という存在であると示されており、これからもっと新しい背景が描かれるのかもしれません。

 

 ナニカの能力は夢のようなものです。それは「何でも願いを叶えてくれる」というものだからです。しかしながら、そこには以下のようなルールがあります(記憶で書いてるので、もっとあったかもしれませんが)。

 

基本ルール

  • アルカのおねだりを3回聞くと、1つのお願いを叶えてもらえる
  • お願いの大きさには限界がなく、何でも実現できる
  • お願いが大きければ大きいほど、その等価交換として次に大きなおねだりをされる
  • おねだりを聞くことに3回失敗すると失敗した人、その最愛の人、失敗した人と長い時間を過ごした順に、それらが等価になる人数まで死ぬ
  • おねだりに失敗すると簡単なおねだりにリセットされる

条件的なルール

  • おねだりをしている途中で、別の誰かにおねだりをすることはない
  • 同じ人間が連続してナニカにお願いすることはできない

応用的なルール

  • 結果的に叶えられる願いがひとつなら、条件をつけて複数のお願いができる

隠されたルール

  • 何かを直すお願いを叶えるためにはナニカが対象に直接触れる必要がある
  • 直すお願いを叶えたあとには、残酷なおねだりをされることはない
  • キルアの「命令」であればノーリスクで願いを叶えることができる

 

 このルール、何か(ナニカ!!)に似ているなと思っていて、ひとつ思い当たったのは世の中の責任追及に対する態度です。念のため書きますが、ナニカの能力が世間のこれを暗喩していると言っているのではなく、僕がそこに勝手に共通点を見いだしたという話です。

 上記のルールから以下3点について話します。

  1. お願いとおねだりが等価交換であること
  2. 直すときには残酷な見返りを要求されないこと
  3. 命令はノーリスクであること

 

1. お願いとおねだりが等価交換であること

 大きな悲しい出来事が起こると、世の中にはその後、その悲しみに相当する責任を誰かに取らせようとする意見が生まれたりします。つまり等価交換です。このようなことは、人がしでかした出来事ではもちろんそうですが、人の力ではどうにもならなかったような自然災害でさえも起こります。例えば、それを防いだり、救助のためにために適切な対応をとれなかった人間が、自然災害が起こったことそのものに匹敵するぐらいに責められることもしばしばです。

 これはつまり、人格のない自然そのものには責任を問うことができませんから、起きてしまった出来事への責任の等価交換を求めるなら、その対象は人になってしまうということではないでしょうか?

 

 例えば凶悪な犯罪者がいた場合にも、その犯罪の責任はその人の親族や、その人を取り巻いていた環境を作り上げた人や、その人が抱えていた属性と同じものを抱えている人に広がって、「その責任をとれ」という言説が生まれることがあります。そうなってしまう理由は、その重大な犯罪と釣り合わせるには、たったひとりの人間の存在では全然足りないからなのではないでしょうか?

 そもそも因果関係の認識には、エネルギー保存則や質量の保存則と違って、必ずしも等価交換が認められるものではないと思います。つまり、ほんの軽微なことが、重大な結果を引き起こしてしまうこともあるわけです。しかしながら、そのようなところにまで等価交換を求めてしまう人間の思考が、結果に釣り合う大きさまで責任を取らせる範囲を広げ、沢山の人を責任の俎上に上げようとしてしまいます。

 僕はこのような状況と、ナニカの能力に類似を感じました。

 

 これは呪術的な側面のある行為の一種だと思っています。なぜなら、そこで問われる責任は、問題を真に解決するため(二度と起こらないようにするため)の行為というよりは、その大きな喪失に納得するための儀礼的な意味合いが強いように思うからです。

 何かの事故や事件を防ぐことを考えるときには、そこで語られる理由が、関係者を納得させるだけではなく、本当にそれの再発を防ぐために有効な施策かどうかを選り分けなければならないことが多いです。

 

 話は逸れますが、何かの事故の再発を防止するため、その原因に対して「なぜ」を繰り返すという方法が使われることがあります。この方法自体には、よい側面も多いのですが、悪い使われ方をすることもあります。何かが起きた原因として「人間の精神」が出てくると、僕が思うにもうそれは分析としてダメです。

 人間という概念は、「責任が取れすぎてしまう」のでマズいところがあって、それがどんなにリソース不足の中で強行された仕事であっても、それがどれだけ理不尽な周辺事情があったとしても、当事者が「私がちゃんとしていないのが悪かった」という説明をすることで周囲の納得が得られてしまうことがあります。この言葉は、その責任を取らされる人から自発的に出てくることもしばしばです。なぜなら、本当の原因を見つけられずに延々と話し続けられるよりも、もう自分が悪いことにしてこの場を収めてしまった方が楽だと思ってしまったりするからです。

 でも、この状況、たまに遭遇しますが、最悪だと思っているんですよね。

 

2. 直すときには残酷な見返りを要求されないこと

 さて、話を戻しますが、悪い行為に等価交換の責任を求められがちな一方で、何か素晴らしい行為が行われたとき、そこで等価交換を求める動きには抑制がかかりがちではないかと思います。例えば、素晴らしい行いをした人の親族や、同じ属性の人々が等価交換に釣り合うだけ褒めらえるということは、もちろんあるにはありますが、それを否定する考えも強いように思うからです。

 あなた方が素晴らしいのではなく、その素晴らしいことをした人だけが素晴らしいだけだと。それを我がことのように誇るのは、越権的ではないかという指摘が出てくるのをインターネットでは目にしたりします。

 

 こちらはナニカが直すときには残酷な見返りを求めないことと似ているような気もしたんですけど、でも、よくよく考えてみたら、同郷の有名人を誇ったりするのは世の中に全然あるような気はして、それは特に否定的には語られないような…。じゃあ、あんまり似てはいないですか…。

 いや、でも、そこに責任は求められてないですよね?素晴らしいことを成したときに、誰かにその責任をとらせるというようなことはないわけです。こっちの方向なら行けそうな気がしてきました。やっぱりナニカの能力から、色々類似を勝手に読み取ることができそうです。

 

3. 命令はノーリスクであること

 「命令はノーリスク」というのは、ハンターハンターの世界の根本を揺るがすような仕掛けなので、それが明らかになることを読んだときには衝撃に感じました。本当に何でも願いがノーリスクで叶うなら、この先起こる全てのことはそれで解決すればいいからです。ドラえもんにおける、ソノウソホントだけあればいいだろ理論です。

 この辺は、まだ何か裏があるんじゃないかと思っていて、まだ素直には受け取れません。クラピカのエンペラータイムも、後から強い制約と誓約が存在することが分かりましたしね。

 

 ハンターハンターの根本を揺るがすとは、作中の念能力自体が、リスクを抱えることによって大きなリターンを得るという等価交換の原則に準拠したものだからです。その中に、ナニカの能力のような、その認識を打ち破るようなものが出てきたということは矛盾するので、想像していませんでした。これは自分がいつの間にか発想の枠組みをいつの間にか狭めていたということにも気づけたので面白い体験でした。ナニカが暗黒大陸から来たものであるということは、これまでのルールが通用しない場所という引きとして興味を惹かれます。

 

 で、これも何かに無理矢理なぞらえて捉えるかって感じなんですけど、命令されるというのは、無責任になるということと似ていると思います。なぜそれをするのか?と問われたときに、「命令されたから」がそのまま理由になってしまったりするからです。

 命令された側が、無責任になって何かをしてしまうということは、割と楽な話だと思うんですよ。自分で考えて行動すれば責任を求められますが、他人に言われてやるなら、言った他人のせいにできます。

 

 僕自身、完璧に正しいリーダーの言うことを聞いて、言われたことだけやっていればいいというのなら気楽だなあと思いますし、完璧に正しいリーダーさえいてくれさえすればそうなりたいと思ってしまいます。ただ、結局そうならないのは、完璧に正しいリーダーというのが架空の存在だからだと思います。

 これまでの僕の経験上では、人間の認知にはやっぱり限りがあるので、ありとあらゆることに対して詳しく知ることはできません(知っているふりはできるとは思いますが)。めちゃめちゃ賢い人であったとしても、現場作業レベルの話になれば、現場の人よりもものを知らなかったりするのです。

 なので、大きな問題に取り組むときには、その大きな問題を適切な大きさに分割し、詳細で実践的な認識のある人が責任を持たなければならないと思っていますし、どれだけ能力のある人であったとしても、その隅々まで仔細に判断して指示することをしていては、時間がいくらあっても足りませんし、判断の根拠もあやふやです。その結果、スケジュールはどんどん遅れていきます。

 

 いやもう全然ナニカの話とは変わってきてしまいましため。何を隠そう、これは漫画の話ではなく、個人的に悩んでいたりすることについて、それが頭の中にいつまでもあるせいで、漫画を読んでもそれに結び付けたことばかりを思ってしまうという病気みたいなものなんですよ。

 

 プロジェクトのマネジメントだとか、課題の解決だとか、再発防止策だとか、そんなことが終わりなく延々とやってくるわけなんですけど、なんでこんなに仕事があるんでしょうね??目の前のことをやっているとすごい速さで毎日が終わって行きます。

 もう、何も分かりません。ああ、ハンターハンター早く連載再開してほしい(読みたい)。

将太の寿司Tシャツをめぐる冒険

 2019年7月29日、将太の寿司界隈を驚かせるビッグニュースが舞い込んだ。週刊少年マガジンの60周年記念を祝したユニクロとのコラボ商品のラインナップに、将太の寿司が含まれていたのである。

 

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 他の作品と比べ、20年以上前に連載が終了した作品が取り上げられるのは異質に感じた我々は、ひとつのことが思い当たった。つまりは、昨年のネット上での将太の寿司ブームである(以下はそれを僕が勝手に総括した文です)。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ユニクロ講談社も粋なことをするじゃないか。昨年ぐっと増えた将太の寿司ファンに対して、公式のグッズ供給が行われない辛さに手を打ってきてくれたのだろう。漫画は時代を超えて読み継がれる。電子書籍の時代になればなおのことである。

 しかしながら、それはもう、とうの昔に終わった連載なのだ。時代を超えてファンにはなれるが、公式の供給は一定数のファンが集中している時代にしか行われない。好きになった人は、もう手の届かない場所に行ってしまっていた。そういうことの方が多いのだ。

 だが、我々には来てしまった。そのときが。今このときを逃しては、この先もうないかもしれないチャンスが到来してしまった。買うしかないだろう。買うしかないじゃないか。デザインもクソだせえなと思ったりはしたが、だがそれがいい気持ちになってきたじゃないか。

 

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 白Tシャツの絵はマグロづくしの寿司桶である。これはまだ小樽にいたころの将太くんが、父親の代わりに寿司の大会に出るために作った寿司である。笹寿司の嫌がらせにより、閉店に追い込まれそうになっている将太くんの実家、巴寿司の名前も入っている。父親は両手を怪我し、寿司ネタの仕入れも制限されているときに、仲間の尽力で唯一手に入ったのがこのマグロである。だから、マグロづくしなのだ。マグロしかないのだ。将太くんはこの寿司桶の中に、マグロの全てを詰め込んだのだ。多彩なネタを仕入れることすらできなかった逆境を、むしろ力に変えてその寿司は出来上がったのだ。

 この寿司にはドラマがある。むしろ将太の寿司のロゴすら不要かもしれない。マグロづくしであるからこそ、その寿司が赤だけに彩られていることの意味がある。白黒の紙面では見えなかった色がそこにある。

 ロゴがないほうがハイコンテクストでかっこいい気もしたけど、ロゴがないとわかる人にしかわからないので、ロゴはあってもいいです。

 

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 グレーTシャツの絵は正面はワンポイントのマグロの寿司と将太の寿司のロゴである。これはさりげなくて嬉しい。気づく人だけが気付けばいいのだ。上に一枚羽織れば、ほとんどの人はそれが将太の寿司Tシャツだと気づかないかもしれない。でも、それは将太の寿司のTシャツなのだ。自分だけが分かっているのだ。おいお前ら!?お前らは気づいていないかもしれないが、僕はいま将太の寿司のTシャツを着ているんだぞ!!と胸を張って街を歩くのだ。

 そして羽織った上着を脱いだとき、その背中には小手返し一手(片手で一回で寿司を握る技法)のコマが入っている。擬音もかっこいい。「スパーン」だ。これは片手を怪我した将太くんが、それでも寿司を握ろうとしたコマなのだ。

 

 こう考えると、2つのTシャツには共通点があることが伺える。逆境の克服だ。父が両手を怪我しても、マグロしか手に入らなくても、自分の片手を怪我しても、それでも寿司を握るのだ。これは将太の寿司のテーマのひとつでもあるかもしれない。どれだけ笹寿司の嫌がらせにあったとしても、その逆境の中で自分にできることを掴み取り、道を切り開いていく物語なのだ。将太の寿司は、生きるための寿司なのだ。

 これは我々の状況とも似ている。公式グッズの追加供給など、とうに諦めていた我々に、唯一供給されたTシャツがこの2枚なのだ。少なく、選択肢のない、この逆境の中で生きることを掴み取ることこそが、将太の寿司のTシャツなのだ。

 

 2019年8月12日、その日は朝から落ち着かない空気が流れていた。

 僕は近所のユニクロがいつ開店するのかを調べ、そして、思っていた。

 「開店と同時に入って将太の寿司Tシャツだけを買って帰るのって、え、あの人、将太の寿司Tシャツが欲しすぎて、朝イチで来たの??って店員さんに思われはしないだろうか…」と。しかし、そんな他人の目を気にして遅く行って、売り切れていたらどうしようと不安になる。他人の目を気にしてしまったことで、入手できないなんてことはあってはならない。だから次に、僕はこう検索した。

 結論としては、ネットで検索する限り、将太の寿司Tシャツ欲しさに、開店前から並んでいる人はいなさそうだ。僕は少し考え、開店15分後あたりに着くことを目標に家を出た。

 

 現地に着くと、ひとつの杞憂が分かった。セルフレジの存在である。将太の寿司Tシャツだけを買っても、セルフレジなら他人の目は気にならない。いいじゃないか!と僕は思った。しかし、そんな少しの安心を完膚なきまでに破壊する出来事が起こる。

 ないのである。将太の寿司Tシャツはおろか、マガジンコラボのTシャツすらひとつも置いていない。住宅街の近くにある小型の店舗だからだろうか?なんということだ。最初からそこに希望などなかったのだ。

 

 

 大好きな幽遊白書のコラボTシャツの悪口を言いながらも、僕は次の行動に移っていた。比較的近くのショッピングモールの中には大型店舗がある。そこに向かえばいい。僕はバイクを走らせた。

 

 ショッピングモールの駐車場にバイクを止め、他の人の状況はどうだろうと、Twitterを開くとそこには笹寿司からの情報があった。

 そうなのだ。ユニクロのWebサイトには在庫検索の機能があったのだ。でも、ショッピングモールに来ちゃったし、ここで在庫ないの分かってそのまま帰るのもあれだから、検索せずに店舗を見にいっちゃおとなったので、とりあえず行った。

 ない。

 検索をしてみたら、そもそも埼玉県にはないっぽい??

 

 分かったよ!!だいたいわかったよ。将太の寿司をラインナップに入れてみたものの、でも、ネットで流行ったぐらいで、全国の店舗に供給しても、どうせ在庫がだぶつくだろうって思ったんでしょ?でしょでしょ??

 そして、流行ったのはネットだからオンラインショップからなら買うかもだし、超大型店舗でしか取り扱わなくっても、寿司のオタクなら買いにくるだろ??って思ってるんでしょ??

 

 そうだよ!!!!!!!買いに行くよ!!!!!!

 

 現実が、将太の寿司化してきました。寿司勝負のために最高の寿司ネタを探して走り回る将太くんと、寿司Tシャツを探して走り回る自分が一致してきました。

 

 この頃になると、全国各地の寿司のオタクたちも近所のユニクロ将太の寿司Tシャツが入荷されていないことに気づいてざわつき始めます。僕の、そして彼ら彼女らの、寿司のTシャツを求める動きが、静かなうねりのようにネット上に広がっていきます。

 誰に言われるでもなく、皆は「笹寿司の仕業だ」と思い始めました。

 

 夕方にユニクロ池袋東武店に到着した僕は、Tシャツを探してフロアを走り回りたい気持ちを押さえ込み、若干早足でキョロキョロしていたところ、ありました。

 

 ありました!!!!!

 

 よかった。これで最高の寿司が握れる。しかし、この店舗には罠があります。セルレジがないのです。将太の寿司のTシャツを2枚だけ持って行くのは、恥ずかしくないだろうか?そんな気持ちが胸で揺れました。

 でも、いいんですよ。欲しかったのだから。これだけ欲しかったという気持ちが何の恥になりましょう?欲しかったんだから、店員さんだって欲しかったんだなって思ってくれるんじゃないでしょうか?いや、そもそも客が何買ってるとか、全然興味ない気もしますね。

 

 

 ここからは、まだ寿司Tシャツが買えてない人に優越感を感じるフェイズに入ったので、そういう感じです。

 

 こうして、将太の寿司Tシャツをめぐって走り回る長い1日が終わった。たぶん正解は、オンラインで注文することだった。近所のユニクロで店舗受け取りにしていれば、朝の時点で終わっていたかもしれない。

 でも、いいんだ。僕には将太の寿司Tシャツがあるのだから。しかも、2枚も同時にだ(見てるか谷沢)(安西先生!)。

 

 あと、今さっき検索したら、オンラインももうあんまり在庫なさげなので、欲しい人は早めに買った方がよい。

 

 将太の寿司Tシャツをめぐる冒険(完)。

 

誰かが「正解」を作っている世の中に生きている関連

 大森靖子の「君と映画」という曲の歌詞に、以下のようなものがあります。

映画もいいよね 漫画もいいよね ついついお金を使ってしまうでしょ
知らない誰かに 財布を握られる 握られる
テレビもいいけど なんか怖いよね これが現実か なんか怖いよね
私のリモコン握られる 握ってる見えないヒットラー

 この歌詞は僕の認識では、自分の行動が誰かのレコメンドに制御されることへの抵抗感を歌った内容だと思います。他人によるレコメンドが氾濫する情報化社会で自分の価値観を持って生きることを歌ったものだと。

 

 「面白い漫画を教えて」と言われることがあります。僕はこの言葉の意味を考えるんですけど、きっと重要なのは「面白い漫画を読みたい」ということではなく、「つまらない漫画を読みたくない」んだと思うんですよ。失敗する選択をしたくないんじゃないかな?ということを相手から感じることがあります。

 わざわざ時間をかけたりお金を払ったものを結果的につまらないと感じると嫌だから、最初から面白いと誰かに保証されたものを読みたいわけでしょう?失敗を恐れるあまりに、自分の感性ではなく、他人の感性の中で高く評価されたものを踏み外さないように生きるわけでしょう?つまり、自分より他人の感性の方が正しいと思っちゃっているわけですよ。自己肯定感の欠如ですよ。

 そして、そんな状況に対する嫌だなという気持ちを歌っているのが「君と映画」だと僕は思っていて、僕はそこに共感するところが大きいです(僕が共感したいと思うあまりに勝手にそれを見いだしている可能性もある)。

 

 失敗をしたくないがために、自分の行動として、誰かが決めてくれた「正解」の上を歩くことしかできなくなるということ。何か出来事があっても、それに対する周囲の初期の反応を見て、肯定するのが「正解」なのか、否定するのが「正解」なのかを判断し、その「正解」の側を選ぶということ。

 あるいは逆の側から、他人の行動を採点し、百点の行動だとか0点の行動だとか言って、点数が低ければ攻撃的になり、自分の考える百点以外の行動は認めないということ。そんな、その人の中で0点であることが、勝手に採点された側に何の関係があるのでしょうか?

 

 「正解」が探されているように思います。それは、それ以外を「間違い」として、その上を歩くことを認めない人が出てくるという形で広がっているように思います。恐怖ですよ。誰かの中で「正解」であるかどうかということが、自分の人生に何の関係があるというのでしょうか?

 

 インターネットで誰しもが発信できることが、多様な世の中を作るというのは幻想で、実際には、ものすごい勢いでその場での「正解」とされるものが決まっていき、それ以外が「間違い」とされていくのを目にします。

 

 僕は今現代の話をしていますが、それは僕が今現代に生きているからなだけで、昔からもそうだったような気もします。昔聞いた、「巨人ファン」の話で、なぜ数ある野球チームの中で巨人を応援するのかの理由が「勝つ」からだというものがありました。これは同じことなんじゃないかと思います。つまり、自分が応援してるものが「負ける」ということのストレスから逃げたいっていうことなんじゃないかと思います。だから、より勝ちそうなものを応援するんじゃないでしょうか?

 自分が応援しているものが勝って欲しいという願望が、その裏には負けるなら応援したくないというものがあるんじゃないかと思うんですよね。

 

 だから面白いとされる正解の映画や漫画を選び、勝つとされる正解のチームを応援し、正しいとされる正解の言説を口にしてしまうのではないでしょうか?でも、それって結局全部自分の外の話じゃないですか。自分の人生から、わざわざ自分を追い出す行為じゃないですか。そんなふうに、他人によって外堀を埋められた、正しくあるべき自分像という隙間を、死ぬまで頑張ってくぐり抜けていくのかって話ですよ。

 

 でもまあ、自分で選択するのって結構辛い話ですよね。だって、もしそれで失敗するとしたら辛いじゃないですか。正解が選べるときに、わざわざ失敗をする必要なんてないわけですよ。誰かが完璧な正解を教えてくれて、それをやってりゃいいなら楽なことはありません。

 誰かに正解を決めて貰えるのでなければ、自分で選ばなければなりません。そして、その自分で選んだことはもしかすると失敗かもしれません。そして、それを誰かのせいにすることもできません。だって自分で選んだのだから。

 

 あらゆることを自分だけで決めていくこともまた非現実的なのかもしれません。個人にはそれだけの時間も余裕もないと思うからです。

 

 それでも僕が思うことは一点で、その「誰かが正解として目の前に設定してきたもの」が、本当に自分にとっての正解と一致しているのか?という疑念を持つことです。失敗を恐れるあまりに、むしろわざわざ誰かに仕組まれた失敗を掴まされているのではないか?ということへの恐怖からです。他人をめちゃくちゃ疑っているからです。

 でもって、自分にとっての正解って何なのかな?って話なんですけど、これは僕は簡単に設定していて、得になると思ったことが正解です。損得で考えるのが一番分かりやすいと思ってそうしているんですよね。

 

 僕の得って他人の損かもしれません。そして、僕の損が他人の得かもしれません。だから、全員が得の正解になることってまれだと思うんですよね。だから、自分の得になることを「正解」に見せかけることで他人に受け入れさせようとする人が出てくるんじゃないかなと思っています。他人が損するだけのことを、でもこれが「正解」だよと騙すことによって、自分が得をしたい話じゃないですか。他人が作った「正解」に依存し過ぎると、そういう人に引っかかって損ばかりしてしまうかもしれません。

 

 それって損じゃないですか。だって損させられるんだから損ですよ。損なのは嫌なんですよね。だから僕は、他人に設定された「正解」を疑いまくります。その結果どうなるかというと、友達の少ない孤独な中年になるわけですよ。

 

 でも、孤独な中年は元気やでっ!!(おしまい)