漫画皇国

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岩泉舞の「ふろん」と自分を縁取る他人について

 岩泉舞の「七つの海」の最初に収録されている物語、「ふろん」が好きで、小学生の時から何度も読み返しています。

 この物語の主人公は、ある日、自分の名前がこの世から消えてしまった少年です。そして、それに伴ってどんどん存在が希薄になってしまうのです。

 

 学校の先生が、友達が、親が、自分の名前を思い出せなくなっていることに気づきます。どこを探しても、自分の記録がないことにも気づきます。そして、名前という手がかりがなくなってしまうことで、目の前に確かに存在しているはずの自分のことを、誰もが思い出せなくなって行きます。あなたは誰?と問われても、自分でもそれに答えることができません。かつてあったはずの名前は、他人の中からも、自分の中からも、なくなってしまいました。学校の机の上には、まるで亡くなったかのように花が置かれてしまいました。少年には生きている証拠がないのだから。少年の居場所はなくなり、ついには人に認識すらされなくなります。

 誰も自分を認識できなくなった場所で、同じく誰にも認識されない少女とともに、少年は社会から姿を消すのです。

 

 少女は少年のことを「ふろん」と呼びました。それは英語で蛙という意味のフロッグを元にした呼び名です。頭を失った蛙が、それでも脊髄の反射だけで泳ぎ続ける。少年はまるでそんな蛙のようだというのです。

 

 この説明の意味が、最初に読んだ小学生の頃の僕には上手く掴めていなかったように思います。でも、今では分かるように思います。つまり、ある人がある人であるということの根拠は、多くの場合、その人自身ではなく、その人を取り巻く人々によって規定されるということです。

 自分と言う人間を自己紹介するとき、皆さんは何を言うでしょうか?どこの生まれで、どんな家族がいて、どんな学校に通っていて、どんな会社に勤めていて、どんな映画や音楽や漫画が好き。今出した例は、全て自分以外のものの紹介です。自分を語る上で出てくるものが、自分以外のものであるならば、自分とはなんでしょうか?自分以外の他人や物によって縁取られた中心の空白こそが自分なのでしょうか?だとすれば、それは「ふろん」でしょう。脳がなくとも反射で泳げるように、自分がなくとも、周囲からの反射で存在を規定され、生きることができます。

 裏返せば、そんな「ふろん」は、周囲との関係性を失ってしまえば、自分を形作ることができなくなります。「ふろん」の少年は、少女とともにどこかへ消えていきました。ならば自分とは何なのか?確かに存在している自分という存在が、なぜ他人を用いなければ説明できないのか?もし、自分が他人から切り離されたら、そこにいるのは誰なのか?そんな問いかけがこの物語にはあるような気がします。

 

 あるときそう思ってから、自分と言う人間が、自分という存在だけではどうにも虚ろであるというということについて考えることが増えました。しかし、結局のところ、虚ろであること自体は間違いのないことで、そして、それは特に悪いことでもないのだろうなというのが最近の感覚です。

 

 ただし、絵を描いたり、文章を書いたり、漫画を描いたりをやっていると、それはもしかすると自分自身なのかもしれないなと思うこともあります。ならば、それは自分が虚ろかもしれないということに対する抵抗なのかもしれません。だって、自分が作ったものは、自分が作ったものであって、他人じゃないじゃないですか。だから、何らかの作品を残すことは、縁取られた空白ではなく、その場所に何かを埋める行為だとも思えるわけです。人が何かを作るのは、自分が自分であることを、自分だけで証明したいからなのかもしれません。

 そうすれば今度は、自分が他人を縁取る何かになれるかもしれません。自分が他人の存在を規定する根拠になることで、自分という存在は、自分という縁取りの内側だけでなく、外にも進出していくはずです。それは作品のようなものだけに限られたものでなく、役割や関係性なものでもあって、誰かの友人であることや、誰かの家族であること、何らかの集団の一員であることのように、自分と他人を相互に規定しあう枠組みが社会なんじゃないかと思っています。人が何者かになりたいのは、でなければ、自分が曖昧になってしまうから、それが怖いからかもしれません。

 でもやっぱり、これも別にきっと悪いことじゃないと思うんですよ。自分だけでは自分の形を保てないことも、だから人が集まるということも。そういうものなんだと思います。

 

 ただ、そんな社会で生活しているからこそ、自分が他人を形作る一片になれているのか?とか、自分を形作る他人の一片がどうあるべきかとかに囚われすぎてしまうみたいなこともあると思っていて、それが、場合によっては生活のしんどさを生み出したりもするんじゃないでしょうか?

 あと、自分が作り出した何かであったとしても、よくよく分解してみれば、それまでの自分を縁取ってきたものの分解と再構成で作られていて、それはやっぱり自分自身だけではなく、その中には多くの他人を発見できるものかもしれません。結局のところ、自分とは他人で作られた玉ねぎのようなもので、剥いていけば何一つ残らないようなものかも。ただ、他人をそのまま使うのではなく、そこに咀嚼の工程が挟まれているということは、自分という人間の縁取りをより精緻に見定める行為ではあるかもしれません。自分がどのような形をしているかをより詳しく知るために、何かを作っているのかもしれません。ちょうど僕が今、この文章を書いているように。

 

 何が嫌いかよりも、何が好きかで自分を語れというような話もありますが、好きでも嫌いでも、自分ではないもので自分を語っているという意味では同じじゃないですか。あるいは、自分が何をしてもらえるかよりも、自分が何をしてあげられるかで語ったとしても、それでも結局必要なのは他者です。その関係性の中に自分自身を見いだしているのが普通の人でしょう。それで悪いことはないですよね。

 何もないところにたったひとりでいて、それでも自分自身を見誤ることなくいられるなら、それはおそらく稀有な超人の類でしょうから。

 

 「ふろん」は岩泉舞の初投稿作で初受賞作です。Wikipediaの記載を参考にするなら、十代の頃に描かれた漫画です。

 僕が思うに十代というのは、自分という人間に、他人と分かつ明確なエッジを立てたくて、でも、皮肉なことにそのために沢山の他人を引用してしまうような時期じゃないですか。それはある種の人間にとっては苦しい時間です。自分をはっきりさせようとすればするほどに、自分を他人で縁取る必要があり、それがいっそう中心にある自分を虚ろに変えてしまうからです。

 

 僕がこういうことを思うようになったのは、二十歳もとうに過ぎてからなので、なんだ、そもそも答えはここにとっくにあったんじゃないかと思ったりもしました。子供のときに読んだ本には、きっと人生の全てが描かれていますよ。それに気づくのに一生かかるというだけで。

 この文章は、自分の至った考えを他人の作品によって縁取る行為だと思います。そういう断片を色々なところから集めては、組み上げて、僕は自分という人間を規定しているのだなと思い、だから自分もまた「ふろん」なのだろうなと思ったりするわけです。だからきっと、人の中にしか居場所がない。

「未来のミライ」を観て思った、世間の中心に向けて叫ばれるあれこれ関連

 アニメ映画の「未来のミライ」を公開してすぐぐらいに見たんですが、辛い映画でしたね。辛いというのは映画の内容の話ではなく、観ている自分の心の中に辛い感情がすごく出てきてしまったということです。

 

 未来のミライは、くんちゃんという小さい男の子が主人公で、妹のミライちゃんが産まれたところからお話が始まります。家族が増えたことで、変化する関係性に小さな男の子の気持ちはすぐにはついていけませんから、様々なトラブルが起こります。そして、ある不思議な力によって、くんちゃんは時間を超えた色んな旅をすることになるのです。旅先で得た経験から、くんちゃんは少し変わります。これはそういうお話だと思います。

 

 僕が思うに、これは親から見た子の物語でしょう。子供は気が付くと変化しています。もしかすると、自分が見ていないところで、様々な冒険をしてきたのかもしれません。そういう想像力のお話ではないかと思いました。そして、これは大人の目を経由したお話だと思った理由は、子供の目で見た場合には省略されがちなことが描かれていたからでもあります。

 それは、人間はどうにも不完全であるということです。

 

 僕が4歳ぐらいのとき、近所に住んでいたひとつ年上の兄ちゃんがとても大人に見えていました。自分にはできないことをできる、すごい人だと思っていたわけです。でも、実際に大人の目から見れば、5歳は5歳、どうしても5歳なりの姿がそこにはあります。また、子供の頃は大人は特別だと思っていた気がします。僕は何かあるとすぐ泣く子供だったのですが、大人は泣かないし、泣かないだけですごいことだなと思っていました。親や先生も、すごく正しさに満ち溢れていて、それにそぐわない自分は間違っているのだろうと思っていたんですよ。

 でも、いざ大人になって見れば、そうではないという事実も目に入ります。大人だって歳をとった子供であるという側面もあるわけですよ。あと、大人は泣かないとか言ってましたけど、僕は結局大人になってもよく泣きます。自分が泣かなかったのは、あまりに泣き過ぎる自分が嫌で、必死で感情を押し殺していた中学生から大学生の途中ぐらいまでです。

 階段を登ってここまで来たわけですよ。途中でワープしたわけじゃありません。だから、あの頃と今は地続きですし、自分は子供のころからずっと不完全で不安定な人間のままです。きっと多くの人がそうでしょう?今思えば、子供から見て大人が正しく見えたのは、その正しさを大人が規定していたからで、それにそぐわない自分が間違っていると思っていただけのように思います。正しさとして取り得る立場は必ずしもひとつではありませんし、違った正しさが同時に成り立つことだってあります。

 

 未来のミライの中には沢山の「まちがったこと」が描かれています。自分から親の関心を奪ったミライちゃんを、電車のおもちゃで叩いてしまうくんちゃんは明らかに間違っています。そして、それがくんちゃんが自分への親からの関心が薄れたことへの辛さの結果であることを理解せず、ただ叱りつけるお母さんも間違っているように思いました。くんちゃんのときには大して子育てに参加しなかったお父さんも間違っているでしょう。今回は家事を頑張っていることを、近所のママさんにアピールしてしまうところもきっとそんなに正しくないですし、そのことについて、イヤミを言ってしまったり、慣れない家事に取り組むお父さんにダメ出しばかりをしてしまうお母さんもあんまり正しくないように思いました。

 そもそもこの物語に登場する家だって子供が生活するのには適した家とも思えません。階段やガラスで怪我をする危険性が高そうですし、何か起こったときによくなかったと言われそうなポイントは山ほどあります。この家族は、たくさんの間違いに満ちています。間違っているから喧嘩もあり、間違っているから互いに傷ついたりもします。

 

 でも、それは特殊なことでしょうか?

 

 実際のところ、僕が育った家に比べればよほどまともです。僕が育った環境は、減点法で評価すれば、めちゃくちゃ点数が低くなると思いますが(育児放棄で衰弱して長期入院したりしたので)、別にそれだって運の悪さが重なった部分もあって、そんなに特殊なことじゃないと思っていますし、今思えばそんなに悪くない環境だったとも思います。だって、非の打ち所のない家庭なんて本当に存在するんでしょうか??

 

 僕がこの映画を観て感じたことは、自分は「他人の間違いに対しては沢山気づいてしまうんだな」ということです。自分や自分の家族がそんなに正しくない感じに生きてきたことにも関わらず。そして、他人が間違ったままで生きていることについて、もっといいやり方があるだろうよとおせっかいに思ってしまったり、その状況を見続けていると落ち着かない気持ちになりました。

 つまり、自分自身はそんなに正しく生きてもいないのに、なんだかそういう「他人の間違いにばかり気づいてしまう」ということに気づいてしまうというようなことがあったわけです。もっといいやり方を自分は知っているのに、なんでこの人たちは、それをしないんだ?というようなのは、例えば、自分が得意なゲームを子供がやっているときに、あまり上手く遊べていないのを見て、口出ししてしまったり、しまいに取り上げて代わりにやってしまうようなこととも似てるのかもしれません。そして、そんなとき、取り上げて代わりにやってみたものの、自分だって上手くできなかったりすることだってあるわけですよ。外から見ているときには、あんなに正しいやり方が分かっていると思っていたのに。

 

 人は、だいたいのことについては拙いものだと思っていて、それは人が何かに習熟するには相応の経験が必要だからだと思います。そして、時間は無限にはありませんから、できるところとできないところがあります。

 僕がとりわけその点に自覚的なのは、僕自身がとにかく不器用なので、他の人たちがすぐにできることをひとりで残ってずっと練習していたというような経験が多々あるからかもしれません。上手くできないということが、それを指導する人たちから見てどれほどの失望を招くのか、そしてその失望を隠しもせずにあからさまにしたりする人だって別に珍しくありません。

 小中高、そして大学と、面白いぐらいに先生に「お前のような人間は社会ではやっていけない」と言われてきたので、そういうものだなという認識があります。それでも別に今調子よく生きているわけですからね。彼らの期待する成長速度よりも、ゆっくりだっただけで。

 

 でも、上手く行かないものじゃないかという気持ちとか、上手く行かない中でもやっていくのが人生じゃんすかという気持ちとは裏腹に、未来のミライを見ていて、うわあ辛いなあという気持ちになったので、なんか辛い映画だなと思ったわけですよ。そんな中でも人は育つし、その辛い状態が継続した時間ですら、あとから振り返ればかけがえのないものであったりもするんだと思います。

 そういうことを、自分の親や、親の親や、そのまた親の親まで繰り返して、なんとかおっかなびっくりやってきているということを、あの家で巻き起こる出来事が浮き彫りにしているように感じました。

 

 そういえば、あの場所が時間的な特異点となり、複数の時空の出来事が交錯するという意味で、ハーラン・エリスンの「世界の中心で愛を叫んだけもの」のcrosswhenのような感じだなと思いました(読んだのかなり前なのでちょっと間違った印象の可能性もありますが…)。

 crosswhenはいつでもなくどこでもないような場所で、あらゆる時空を超越した概念的な中心なわけですが、その物語の中では、crosswhenから漏れ出したものがあらゆる時空の様々なものに影響を与えます。ある日、とんでもない大量殺人を引き起こしたウィリアム・スタログもその影響を受けた一人です。ウィリアム・スタログはその死刑が確定する法定で「俺はみんなを愛している」と叫びました。

 そして、未来のミライの場合はその逆で、様々な時空で起きた出来事がその中心の特異点となってしまったくんちゃんに影響を与えてしまうわけです。これはメタな見方をすれば、この映画を観た人々の感じた様々も、それに該当し、その認識はくんちゃんにも届きうるという話かもしれません。

 

 実際、子育てに限らず、世間に向かって発信されてしまう様々にはそのような傾向があるんじゃないかと思います。ネットを通じて広がる、何かの中心になってしまった人に対しては、直接は面識もない人々からの、様々なご指導ご鞭撻が発生するわけじゃないですか。でも結局、誰しもそこそこ間違っていると思っているので、その中心にたまたま選ばれたか選ばれなかったかぐらいの違いしかないんじゃないかと思うんですよね。

 その中心にあるものが、自分の持っている価値基準と異なるという話ばかりをしてしまうということについて、色々思い当たることがあり、お話の本筋とは異なるかもしれませんが、観終わったあと、そういう印象が残りました。

理想化された認識と現実との乖離の圧力差で起こる事故関連

 「近未来不老不死伝説バンパイア」という漫画があって、これは「昭和不老不死伝説バンパイア」という漫画の続編です。そしてこれは、無性生殖を行い、自分で自分を生みなおし続けることで悠久の時を生き続けるバンパイアのマリアを巡る物語です。

 人間ならばいつか受け入れなければならない「自分は死ぬ」ということを、金や権力を手に入れた人々は「自分たちが特別である」という自認ゆえに受け入れません。なぜ特別な自分たちが、その他の多くの特別でない人々と同じに老いて死んでゆくのか?それを受け入れたくない人々はマリアの存在に希望を見いだします。彼女の持つある種の不老不死を、自分のものとする願望を抱いてマリアを追い続けるのです。

 

 この物語では、そんなマリアを追う者と守ろうとする者たちの戦いが描かれます。マリアを守ろうとする者のひとりがあーちゃんと呼ばれる男です。彼はマリアに育てられ、マリアを慕い、されど、マリアを守るための一番にはなれなかった男です。彼はマリアを追う者たちの中に紛れ、あるいは姿を変えて、影ながらマリアを守り続けました。それは献身でしょう。あーちゃんは自分が決してマリアにとっての一番になれなくとも、マリアを守り続けた男です。そしてついには、マリアを守るために作られたマリア会の頂点に立つのです。そのとき、日本は神マリアを崇拝する者たちによって支配される国になっていました。

 

 さて、この物語は「神マリア」の勝利で終わります。そして、その神マリアとは一個人のマリア自身ではないのです。マリア会が崇拝する神マリアという概念は、不思議なことに一個の生物である当のマリアとは敵対してしまうのです。多くの人々に崇拝されたところで、そもそもマリアは神ではありません。自分を生みなおし続け、悠久の時を生き続けるというだけの、そういう生物なのです。人とは違う生き方ができるマリアという生物は、人とは違う生き方ができるゆえに、人から特別視されますが、しかし、それでも全能の神なのではなく、あくまでただの生物です。

 しかし、マリアを崇拝するマリア会にとってはそうではありません。マリアは常に正しく、そして、マリアに敵対する者たちは排除しなければなりません。なぜならば、マリアは神なのだから。神マリアのものとして広められた言葉はマリア律法となり、人々を縛ります。そして、神を冒涜する存在は排除すべきなのです。その対象が当のマリア自身であったとしても。

 

 そんなマリア会を牛耳るあーちゃんに対してマリアは立ち向かいます。誰よりもマリアを愛し、誰よりもマリアを崇拝してきたあーちゃんはそんなマリアを殺すのです。マリアは言います「やはり、神マリアとはお前か…」と。あーちゃんはそれを認めます。

 

 「そうだ!今やっと自分が何者か分かったよ」と。

 

 あーちゃんの抱え続けていたマリアへの愛情の結論は、愛していたはずのマリアを殺すことでした。マリアを殺す瞬間、それはマリアという他者への愛情ではなく、あーちゃん自身への自己愛に変貌を遂げていたのだと思います。つまり、神マリアとはマリアではなくあーちゃん自身であり、その神マリアと決定的に乖離したマリアはもはやただの邪魔者でしかありませんでした。では、それはいつ頃からだったのでしょうか?他者への愛が自己愛への変貌を遂げたのか?あるいは、そもそも最初から全てが自己愛であったのか?その献身の全ては、果たして自己利益でしかなかったのでしょうか?

 

 誰かのことを「好きだ」と表明することは、言葉通り他者への愛の表明でしょうか?僕はそうとも限らないと思っていて、なぜならば、誰かのことを好きだと表明することの実際的な意味が、「だからあなたも私を愛してほしい」であったりすることも多いからです。それはつまり、自分への愛でしょう。ただ他者が好きなだけならば好きと思うだけで満たされるわけじゃないですか。自分から他者への一方通行の愛でも、愛は愛でしょう。例えば、何かの本が好きとか、音楽が好きというとき、その本や音楽が自分のことを個人識別して作られていなくても好きは好きでしょう?

 でも、他者から自分への逆方向の感情がなければ、成り立たないものもあります。自分が相手を好きでも、相手が自分を好きでなければ成り立たないのであれば、そこには自分自身への愛情が混ざっているはずです。そしてそれは、行き過ぎれば他者の意志の否定となってしまうかもしれません。こちらからあちらへの愛情が発生しているにも関わらず、あちらからこちらへの愛情が発生しないとき、場合によっては、その他者への怒りすら生まれることがあるからです。

 

 これがあーちゃんにとっての神マリアであったかもしれません。自分にとって必要だったものは理想化された神マリアであって、そこからもはや乖離するマリア本人は、ただの出来損ないでしかなかったのかもしれないのです。あーちゃんにとって、マリアが神マリアでないことには怒りすら生まれる余地があります。相手が自分の理想通りに行動しないことに怒り、それが暴力に帰結するのは、ストーカーの事件の話でもよく耳にすることです。

 

 人間が自分の外と何かしらの接点を持つことは、実は自分の内側に影響を及ぼすことで、つまり、自分の中にその外の居場所を作ることでもあると思います。人と人との心が直接繋がるものでない以上、人と人とのコミュニケーションは多くの場合、不完全な方法を使った「点」でしかありません。それらを繋げて「線」として理解するには、コミュニケーションのみでは確認できない部分を想像して埋める必要があります。他者の胸の内を直接確認することができない以上、線の理解を構築するためには、その間を埋めてくれる全ての胸の内をさらけ出してくれるような架空の他者が必要でしょう。なので、その架空の他者の居場所を自分の中に作っているわけですよ。つまり、実際にやっているコミュニケーションとは、外にいる他者ではなく、その自分の中に作ったその他者像との対話だと考えられるのではないかと思います。

 自分の中にある他者像と、実際の他者があまり乖離していないときには、結果的にコミュニケーションの齟齬は生まれにくいと思います。しかし、自分の中にある他者像が実際の他者と著しく乖離してしまうとき、当然そこには問題が発生します。

 

 つまり、自分は他者と会話しているつもりで、自分の中にある他者像と会話をしているのに過ぎないのに、その他者像自体が本人とは全然違う人物像なのだとしたら、その会話は全て成り立たないことになります。想像した内心は的外れになりますし、想定していた返答は、その通りに返ってくることはありません。

 そこで、自分の中にある他者像をより実像に近いものに修正することができれば、コミュニケーションを立て直せる可能性があります。しかし問題は、自分の中の他者像の方が正しく、実際の他者の方がむしろ間違っていると思い込んでしまったときです。相手が何を言ったところで、いいや、あなたは本当はそう思っているはずがないという受け取り方をしてしまいますし、相手が何かの行動をとっても、そんな行動をとることはおかしいと考えてしまいます。「自分の中にいるあなたは、そんなことをするはずがない」と。

 

 場合によっては、他者の方がその人の中の他者像に頑張って合わせて行動してくれるなんていうこともあるでしょう。人と人とのコミュニケーションにおいて、何が正しいとするかいうことを僕には規定することができません。ただ、人の中にある他者像と、他者自身が何らかの力で一致していない限り、筋の通ったコミュニケーションは困難であるということだということは事実だと思っています。

 

 そのような環境で、各人の中で理想化された認識が、現実の人そのものと大きく乖離してしまうとき、その圧力差を解消しようとする動きが発生すると、その場にいる人に痛みとして伝わることがあると思います。それが世の中の多くの人間関係における不幸の生み出していたりするんじゃないかと、身の回りのこれまでを見渡しても思うことがあるわけです。

 なので、他者から明示的に出てきたわけではないことを想像し過ぎないとか、誤解が起こる可能性を減らすために、「言わずに察してもらう」のではなく「明示的に表明しておく」ことを心掛けるとか。そういう乖離をどうにか減らすためのことはするといいんじゃないかと思ってそうしているところがあります。

 そして、どれだけ気をつけても、齟齬が生まれることはあって、そういうのは悲しいことだなと思うわけですよ。そして、それでも、みんながお互いがお互いを正確に認識できない中で、なんとなく勘違いしつつも適当に上手くやっていたりするわけじゃないですか。

 

 さて、こういうことは、人と人との間だけではなく、例えば漫画を読んだりしてもあると思います。ある漫画を読んだとき、「この漫画はこういうことを描いているのだ」という感想が自分の中から出てきたとしたら、その自分の感想こそが真実だと思ってしまうというようなことです。僕は結構ありますよ。でも、作者はそれを全く意図していないかもしれません。上記のバンパイアの感想だって、僕が思っただけのことです。

 そのように僕の中にある「ある漫画」という認識が、その作者の描いた「ある漫画」の認識と一致しないことは当然あり得ますし、もちろんそれぞれの読者が感じた認識はそれぞれ完全に一致するものではないかもしれません。それはある程度仕方がないことです。なぜなら、漫画もある種のコミュニケーションの手段であると考えることができますし、人と人とのコミュニケーションというものはいつだって不完全だからです。

 

 これは例示しやすいのでよくする話なのですが、「ベルセルク」を、「ファンタジーの世界で、魔法などの超常的な力を使わず、魔物と己の肉体のみで戦うのが素晴らしい漫画」と褒めていた人がいました。しかし、ベルセルクではその後に魔法が強大な力を持つ存在として描かれることになり、作者からすれば、魔法が登場することもアリの漫画だと思っていたということです。ただ、それまでベルセルクを褒めていた彼は、その展開のあと「ベルセルクは堕落した」という話をするようになりました。つまり、自分の中にあった漫画の認識の方を優先させ、それにそぐわない作者の描く漫画自体を否定的に捉えるようになったということです。

 こういうことが悪いことかというと、別のそれほどのことではないと個人的には思っていて、なぜならよくあることだからです。こういうことは程度の差はあれ世の中には無数にあります。

 

 僕自身もこの前、大好きな「うしおととら」の登場人物である秋葉流の話をしていて、「秋葉流とはこういう人物で…」という話を延々していたのですが、僕の中にある秋葉流という人物像はあくまで僕の中にあるものでしかなく、いつの日にか先鋭化を進め過ぎてしまった僕の中の秋葉流は、漫画の中に登場する本来の秋葉流という男を、「これは秋葉流っぽくない」などと否定してしまうかもしれません。そうなればつまり、僕にとっての秋葉流とは誰だったのか?それは自分自身であったということです。つまりそうなれば、僕もあーちゃんと同じです。

mgkkk.hatenablog.com

 

 人間の認識は不完全で人それぞれですから、自分の中の認識が、外の実際と異なってしまうことは仕方がないことだと思います。しかし、それが事故に繋がるのは、その差を埋めようとする力が生まれてしまうときでしょう。つまり、こちらの方が正しく、あちらが改めるべきだと思ってしまった時点で、世の中には急激にその差を埋めようとする圧力が発生し、そこに巻き込まれる事故が起こります。事故が起こると痛いじゃないですか。痛いのは嫌じゃないですか。

 僕はそのように人が事故に巻き込まれるのはしんどい話だなと思うので、齟齬があるのは仕方ないにせよ、ゆっくりその差を埋めてなくすか、自分の中のそれを外にある別の誰かのそれと直接一致させようとなんて考えない方がいいのではないかと思っていて、そうすることにしています。

藤田和日郎漫画の悪役とマッチ売りの少女の見た幻について

 みなさん!サンデーで連載中の「双亡亭壊すべし」を読んでますか??

 双亡亭壊すべしは足を踏み入れたものがおかしくなって取り込まれてしまう謎の建物「双亡亭」を「壊すべし!」と色んな人が思い、そして実行しようとするという感じの漫画なんですけど、今はその双亡亭を建てた男、坂巻泥努(さかまきでいど)の過去の話がされています。

 それは、少年時代の泥努がその思慕の情を一心に注ぎ続けた姉との間で起こったことの話なんです。都会に出て行った姉の心に住み着いていたのは、その都会で出会ったある絵描きの男で、姉の心は完全にそちらを向いてしまい泥努少年の気持ちは通じるところはなくなってしまったわけです。他に家族がいる男を慕ってしまった姉と、そこを引き裂いた父の行為によって、あの快活とした陽の存在であった姉は消え失せてしまい、田舎に連れ戻されてきてからというもの陰な面持ちのみを顔に浮かべているようになってしまいます。

 泥努少年からあの輝いていた姉との日々を奪ったのは誰でしょうか?なぜ泥努少年からはそれが奪われてしまったのでしょうか?泥努少年の心の中は、その欠落を埋めるようにとめどなく溢れ出る濁った感情でひたひたになってしまいます。泥努少年は自分が欲しいものが決して手に入らなくなってしまったということから狂気に飲まれていきます。この先どうなるかは連載を楽しみにするとして、ひとつ気づいたことがあります。

 それは、藤田和日郎漫画における悪役の多くはその心の根源に、似た渇望を持っているのではないかということです。

 

 つまり、どれだけ求め、手を伸ばしても、決して手に入らないものがあるということが人を狂わせるということが繰り返し描かれているのではないかということです。

 

 「うしおととら」における白面の者は、この世界が生まれたときに底にたまった濁って邪な陰の気が実体を持った妖怪です。白面の者は全ての陽の者を憎んでいます。なぜならば自分は陰の者だからです。

 綺麗で温かい陽の者を外から眺めながら、「綺麗だなあ」と「何故自分はああじゃない」と羨むわけです。しかし、自分が陰であるがゆえに決して陽にはなれないという現実が目の前にあります。求めても求めても決して自分が手に入れることができないものを、当たり前のように手に入れている人間のような存在がいることを白面は許せるでしょうか?許せなかったわけですよ。だから白面は誰よりも陽の者に憧れ、それゆえに全ての陽の存在を滅ぼそうとします。

 これは秋葉流の心にも訪れた感情かもしれません。自分がどれだけ求めても決して手に入れられないものを、当たり前に手に入れている存在を目の前にして、人が正気を保てるのかという話です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 「からくりサーカス」で巻き起こった数々の悲劇の全ては、白銀と白金の兄弟が共に、フランシーヌという女性に惚れてしまったということに端を発します。しかし、弟の白金が先にフランシーヌを好きになったのに、フランシーヌは後からその気持ちに気づいた兄の白銀の方と恋仲になってしまったのです。これで白金は狂ってしまうわけです。「フランシーヌは僕が最初に好きになったんじゃないか」と。これは、なんてことのない失恋の話であったとも言えるかもしれません。しかし、白金に異常とも思える実行力と錬金術の知識があったことが悲劇を生み出してしまいました。

 白金はフランシーヌをさらって逃げてしまいました。言うことを聞かないフランシーヌの顔を殴り、泣いて哀願して、自分を愛してくれることを求めます。しかし、さらわれた後のフランシーヌはかつてのように笑ってくれなくなりました。そればかりか、疫病が原因で隔離され、ついには自ら火を放って死んでしまうのです。フランシーヌの死後、空っぽになった白金は彼女そっくりの自動人形を作り出しました。しかし、人ではないフランシーヌ人形には笑うということが分からない。白金はどこまで行っても求めるものを得られないわけです。

 だから白金は、人を笑わせないと苦しみを味わう病気「ゾナハ病」を生み出しました。そして、それを世界にばらまく自動人形たちも一緒に。自動人形で構成された「真夜中のサーカス」は世界中にゾナハ病をばらまき、混沌をもたらします。

 

 白金は、フランシーヌに自分の隣で笑っていて欲しかっただけでしょう。少なくとも最初はそうだったはずです。でもそれが自分に手に入らない未来であったこそ、それを手に入れるために足掻き続け、結果的に世界に大きな不幸をもたらす最悪な存在となってしまいました。

 

 「月光条例」のオオイミ王がどのような存在であったかというと、月光条例という物語の悪役でありラスボスです。その役割を物語に与えられた存在だと思います。だからこそ、彼は物語の主人公になることはできない。また、彼は物語という虚構が世界に存在することを禁じた人々の王でもあります。にもかかわらず、彼は主人公になりたかった男です。自分たちが禁じた虚構の物語に、誰よりも耽溺し、自分も同じような主人公になることを強く望んだ男であったのです。

 でも、彼は決して主人公になることはできません。なぜならば、彼はこの物語の悪役でありラスボスであるからです。オオイミ王は、この物語の主人公である岩崎月光に嫉妬します。月光条例月光条例という物語である以上、オオイミ王は自分があれほど憧れて望んだ主人公になることは許されないのです。それは岩崎月光の役割なのですから。

mgkkk.hatenablog.com

 

 月光条例は、この世に存在する数々のおとぎ話が、青き月の光によって狂ってしまう物語です。青き月の光により、物語の登場人物は筋書きに縛られることを辞め、自由に行動できるようになります。それを元の筋書きに戻してしまうのが月光条例の執行です。

 物語が物語である以上、その筋書きは本来変えられません。「マッチ売りの少女」や「キジも鳴かずば」のように、物語の中で悲劇に見舞われてしまう人々も、その筋書きを変えては物語の意味が変わってしまうでしょう。であるがゆえに、それがどんな悲劇であろうとも、つまり、オオイミ王がいかに主人公になりたかったとしても、それは決して変えられないわけです。オオイミ王は、その身のうちに主人公への強い憧れを抱いたまま、岩崎月光という人間がいかに主人公であるかを描くための舞台とならざるを得ない。そんな悲しみを抱え込んでいるわけです。

 

 月光条例と言う物語は、物語が物語であるがゆえに筋書きを変えることができないという悲しい制約に対して、マッチ売りの少女におけるマッチのような役割を担った物語だと思います。マッチ売りの少女は、寒空の下で凍えて死んでしまう結末を迎えます。でも、それまでの間にマッチをするたびに幸福な光景が見られたわけじゃないですか。そういう可能性が存在したということが救いになるんじゃないかと思うわけですよ。

 マッチ売りの少女の本来の結末は変わらずとも、月光条例の物語の中では、そんな少女を力強く助け、彼女にマッチを売ることを強いた悪い父親に銃弾を叩き込んで思い知らせてやる一場面があったわけです。その可能性がそこにあったことが救いでしょう。

 そして、その可能性がないと決めつけられることが絶望です。それが人を狂わせるわけじゃないですか。

 

 このように藤田和日郎漫画に登場する悪役には、自分がいくら望んでも決して手に入らない何かゆえに狂ってしまったという共通点があります。「運命とは地獄の機械である」これはジャン・コクトーの言葉だと、からくりサーカスに書かれていました。彼らの運命は、彼らに決して味方をしなかった。彼らが心の底から望んだものを、決して与えなかったからです。

 だからといって、彼らが行なった様々な非道が、人を傷つけたことが、赦されるわけではないかもしれません。ただ、彼らはそんな運命に抗おうとしたのだということの一点においてはきっと共感が可能だと思うのです。

 

 僕はからくりサーカスにおいて、ひとつだけ気に食わない点があります。それは白金が、最後の最後に自分を「間違っていた」と表現することです。いや、確かに彼は間違っていたのかもしれない。そしてそれを後悔したのかもしれない。彼が最初に自分の望みを我慢してさえいれば、その後にあった数多くの悲劇は生まれもしなかったのですから。

 でも、そのとき、白金の気持ちはどうなるのでしょうか?そこにある平和が、白金が、自分の望みを望みだと考えないことでしか生み出されなかったのだとすれば、それは本当に真の意味で平和でしょうか?平和のために、我慢を強いられる白金は犠牲者ではないのでしょうか?それを間違いだと言っていいのでしょうか?

 僕が思うのは、白金にも望んだものを望んだままに手に入れられる幸せになれる道が、たとえ可能性だけでもあってもよかったじゃないかということで、それがなかったことがとても悲しくて気に食わないところなのです。自分で間違っていたと認めてしまったことがただ悲しいわけです。

 たとえそれがマッチの火が消えるまでに見えた幻であったとしても、白金にとっての幸福な光景があってほしかったと思ったりするのです(そういう意味では最後のカーテンコールには救われたような気もします)。

男性作者の漫画と女性作者の漫画の違い(乱暴な話です)

 すごいざっくりとした印象論なので例外は無数にあるとも思うんですが、男性が描く漫画と女性が描く漫画の方向性には違う傾向が見て取れるように感じています。

 それは、僕が買っている漫画を見返してみると、近年女性作者のものの比率の方が大きくなっているようであることから思い至ったことです(男女でなんとなく3対7ぐらいの比率です)。僕は作者が男性か女性かで買う漫画を選んでいるわけではないので、それはつまり、たまたま僕が好むタイプの漫画の作者が女性であることが多いということでしょう。具体的に数として見えているので、そこには何らかの作者の性差によるざっくりとした方向性の違いがあるのではないかと思いました。

 

 ただし、肉体の性別は基本的に男女で分かれるものですが、それぞれの人の精神の傾向はきっぱりと2つに分かれるものではないとも思っています。自分自身の中にも、男性的な部分と女性的な部分が混在しているようにも感じますし、だからこそ、ここでいう「女性的な漫画」を男性である僕が好むことが多いということもあるでしょう。また、このへんは非常にセンシティブな話題なので、あまり性差による解釈で語るべきではないのかもしれません。僕も今おそるおそる書いているところがあります(実際は雑誌の編集方針の差の影響が強く、そこにはステレオタイプな男女観が反映されている可能性も多分にあるわけじゃないですか)。

 

 さて、僕が感じている方向性の違いとは、漫画の中で何らかの課題に突き当たったときに「その課題を何らかの方法で打ち倒して解決する」のが男性作者が描きがちな物語で、「その課題自体については根本的な解決には至らなくとも、折り合いをつけることができるようになる」というのが女性作者が描きがちな物語ではないかというものです。

 もう少し具体的に書いてみるなら、この世を混乱に陥れる魔王を倒せば世界が平和になるので勇者となって倒そうというのが前者で、人間の王の圧政の中でも村人が前向きに生きていく方法を手に入れるというのが後者です。僕が後者を好んでいるのは、おそらく自分が生活の中で接する問題が後者的なものの方が多いからです。漫画の中にに自分が理解できる感情が描かれていれば、そこから読み取れるものも多くあるわけじゃないですか。つまり、なんのことはない、共感しやすいという話です。

 

 魔王を倒すような物語はそれはそれとして子供の頃からずっと好きなんですけど、困難さ自体が根本的には解決されない世の中を、それでも上手く生きていく方法を見つける話みたいなのも、近年めきめき好きになってきています。それが買う本の量に反映されてるっぽいんですよね。

 

 僕個人の人生の話をすると、悪者を倒して何かが良くなるというような世界観は、自分自身の人生の中からあまりなくなってきているのが今の状態です。それは、そこに生じている何らかの困難さを、誰か一個人の責任だと解釈して排除してみても、結局その困難さが解決しないというような経験を積み重ねてきているからです。つまり、特定個人を、問題の象徴として取り扱えば理解は分かりやすくなるものの、そもそもの機序の理解としては全然間違っている場合も多々あるということです。あるいは、排除するということ自体が自分の力の及ばない領域であることもありますね。その場合も無力です。

 だからこそ、物語の中でぐらい悪い奴を倒したらあらゆる問題が解決するようなものを求めたいなんて気持ちもありますが、それ以外に目を向けるようになったからこそ分かるようになったものを求める方にも気持ちが広がっていて、今は後者が強い感じがしています。

 

 さて、僕が感じているところの「女性的な漫画」の代表的なものは、安田弘之の「ちひろさん」なんですけど、まず男性作者なので、肉体の性別とは何なのか?という気持ちになります。やっぱり、肉体も精神もそれぞれ「男」と「女」で一律に分けるのはおかしい感じがしてきますね。いや、そもそも男と女とはいったい何なのか。それは肉体の性差そのものが根本的な原因ではなく、なんらかの偏見とその再生産の結果でしかないのではないか?などと考えれば考えるほど悩んでしまいます。

 ここは結論が出ないので話を戻して「ちひろさん」がよいのは、自分と周囲の接点において出てきてしまうガタツキを滑らかにしてくれるようなお話が多いことだと思っていて、人が何に接してどう感じるかを、絶対的な正しさではなく、あくまで一例として示してくれるようなところだと思います。大道を歩くのが不得手な人に対して、歩ける脇道の情報を教えてくれるような良さがあります。

 あと、漫画を読んでいると、人との関係性は使い捨てじゃないなと思うようなところがあって、作中に登場する人たちが一回出てきて終わりということはなく、出てくるたびに何かしらあって、そのたびにその関係性が何かしら変化するというようなところもすごく好きです。人と人との間にあるものは、一回の何かで決着がついて終わりではないということが描かれているからだと思います。「ああ、そうだな」と思います。一方、一度しか会わなかった人や、永遠の別れが起こることも作中にあるんですよ。それもあることですよ。色んな関係性があって、そのどれもに価値があるように思えるということは、生きることそのものじゃないかと思うわけです。

 

 あと、池辺葵の漫画もめちゃくちゃ好きです。池辺葵の漫画では、人生の中に確かにあるのにあまりそれを注視するきっかけがないものを、漫画の中でさりげなく目の前に出してくれ、それを見るたびに「ああ、そうだな」と思います。この漫画の作者は、この気持ちを認識している人なんだな、と思うことだけで、なんか救われた気持ちになるわけじゃないですか。そこにある「分かるもの」が自分の中にしかない孤立した感情ではないと思えるからです。そして、漫画の中にはまだ僕が認識していない感情も描かれているんだろうなと思っていて、それはいつか分かるかもしれないし、別の誰かに今既に刺さっているのかもしれないなとも思います。

 悲しいことが悲しいままに描かれたりされていますけど、それが悲しいという視点があることそのものが救いになったりします。それは嬉しいことでもそうで、そうだよな、それが嬉しいんだよなと思うわけですよ。そうすると、漫画で読んだことで、明確になった自分の感情にも目が行き届き、自分の人生にもその嬉しさを増やして、悲しさを減らしたり、減らせなくても寄り添ったりもできるわけじゃないですか。

 

 そういうのがよくて漫画読んでるところもあるわけですよ。

 

 最近自分が好む漫画について思えば、最近の自分が分かるような気がします。ただ、今この状態が未来永劫続くわけでなく、経験や人生の段階で好むものはまたどんどん変わってくるんでしょうけれど、今はこういうのが好きだなと思うので、それを記録として書いておきます。

インターネットで悲しくなっちゃう話

 「助けて」っていう言葉が言えずに生きてきたようなところがある。どんなに困っても、他人を頼ることが下手くそで、下手くそだから、それをすることを避けて自分ひとりでなんとかしてこようとしてきた。だからいつまでたっても他人を頼ることが上達しないし、ずっと下手くそのままで改善しないから泥沼だ。

 それでも「助けて」って言ったことは過去に数回ある。それは本当に色んなことがダメになりそうになったギリギリのときで、だいたい金に困ってるみたいな話だったんだけど、もうダメかもしれないと思ってようやく発せたその言葉は、結局他人からの拒絶しか生み出さなかったので、絶望的な気分がより絶望的になっただけだった。これは自分が本当にギリギリにならなければそうできなかったというタイミングも悪いし言い方もダメな下手くそな話だけれど、それは当時の僕に、助けを求めることの方がむしろ辛いものだという気持ちを植え付けることになった。助けてもらえないばかりか、尊厳まで傷つけられたからだ。

 

 実はこれは少し嘘で、助けてくれようとした人が2人だけいた。ひとりは高校生のときに街で知り合った兄ちゃんで、最初の出会いは僕がカツアゲにあうという最悪なものだったんだけど、財布にわずかな小銭しか入っていない僕に同情して、ファミレスでご飯を食べさせてくれた。僕が金に困っていたとき、何の躊躇もなく貸してくれるって言ったのは結局この人だけだった。

 もうひとりは僕以上に金に困っていた人で、金は貸せないけど(ないから)、それでも何かできることはないかと言って一緒にいてくれた。別に何の役にも立たなかったけど、人間は金を貸してくれと言われると態度が変わることが多いので、彼ら2人だけはそれでも変わらなかったというか、僕が困っていること自体に寄り添ってくれた人たちだから、だから、彼らに何かあったときは僕は絶対に手を貸そうと心に決めたということがあった。

 

 これは随分と昔の話で、今の僕はもうまるで金に困っていないので、生きることが全然平気で、なんて楽な人生なんだろうと思いながら日々生きているような状況です。でも、詰んでた可能性のあるポイントはこれまでにいくつもあって、それらをたまたま運よく切り抜けてこれたからの今だと思う。人生がもう一度やり直せるボタンがあったとして、絶対に押さない。次もこんな風に上手くいくとは全く思えないからだ。

 

 ごく一部の例外を除いて、「結局誰も助けてなんてくれないんだ」という気持ちは自分の胸にずっとある。

 

 以前、借金を抱えた知人に金を貸したときも、そういうことがムカつくみたいなのが原動力だったと思う。別に僕は優しいわけではなく、その原動力は怒りでしかなかった。つまり「借金を抱えた人は自業自得だし、金を貸しても損をするだけだ」と決めつけていた他の人たちに対するめちゃくちゃな怒りがあったから、その勢いだけで結構な額を貸した。

 僕の知ってる人間の情報だけど、ある程度以上の借金を抱えてしまうと、もうどうしようもなくなる。元本が減らず、無限に利息だけを返すことになり、その状況は人間の精神をゴリゴリと削り込んでいく。ある程度以上の過負荷を精神に抱えた人は判断力がなくなることが多い。目の前のそれをどうにかするのに精一杯で、長期的な目線で何をどうすればいいかを考える余裕がなくなってしまうからだ。なぜそうなると思うかというと、僕がそうだったからで、だから、まずはそこを抜け出さなければいけない。自分だけで抜け出すことができないからそうなるので、誰かがその人を助けなければいけないという気持ちがある。

 

 でも、普通は助けないでしょう。だって損をする可能性の方が高いから。色んな人が色んな賢い理由で、何故自分はその人を助けないかを教えてくれる。言ってることは間違っちゃいないし、処世術としては正しいことだろうと思うけれど、でも、それでもそれにひどくムカついてしまった。彼らは僕がまた困ったときには同じようなことを言って僕を見捨てるのだろうなと思ったからだ。思っただけだ。勝手に想像して、想像に対して勝手に怒ったので、僕が面倒くさい人間という話だ。

 でも、そう感じてしまったからこそ、「自分は違うぞ」という気持ちだけで色々やってしまった。ただ、よくよく考えてみれば自分だってそんなに違ってはいない。全員が全員を助けることはできないし、ただ自分は違うって思いたかっただけで、そう思いたかったのは、自分だって同じかもしれないと実は思うからだろう。かもじゃない。きっと同じなんだと思う。ただ、それに少しは抵抗したかっただけの話だ。

 

 インターネットを見ていると、時折悲しくなる。インターネットで沢山目にする賢い人たちが、何か困っている人に対して、なぜ自分はその人を助ける必要がないかを賢く説明してくれるからだ。その賢さはその困っている人が少しでも困らなくなるような方向に発揮することはできないんだろうか?

 インターネットを見ていると、時折悲しくなる。インターネットで沢山目にする賢い人たちが、何か困っている人を守るために、寄り添うのではなく、その困っている人を助けることをしない人たちを攻撃的に責め立てているのを目にしたりするからだ。例えば、今書いているこの文だってその範疇だ。助けたかったんじゃないんだろうか?守りたかったんじゃないんだろうか?その困っている人に寄り添い手助けをすればいいだけの話が、なぜかそうならない誰かを責め立てることになったり、その人たちを何故助けなくていいかを説明する話にばかりなってしまう。賢さが人を助けるために機能しない。

 じゃあ、困っている人たちは置いてきぼりじゃないかと思う。誰が何のためにそれをしているのか、ただ不思議になる。

 

 自分に誠実にいようとするならば、そういうときは黙っていればいい。黙って、その人たちが少しでも助かるように何らか行動するしかない。でも、そうばかりにできていないじゃないかと思う。他人に対してそう思うし、自分に対してそう思う。

 

 何か大きなことが起こると、その大きなことで困った人が沢山出る。なら、まずはともかく助ければいいんだと思う。けれど、その時困っていない人が助けることをするでなく、その大きなことの責任者探しをまず初めてしまったりする。僕はそれは勘違いしているんだと思っていて、大きな出来事によって起こる大きな悲しみには、大きな理由や大きな責任の所在が常にあると思い込んでいる人がいるんじゃないかと思う。だから、その所在を探して、起きてしまった出来事と、その原因に選ばれてしまったものを釣り合わせて、納得したような気持ちになる。でも別にそんなことはないよ。人間の理解の範疇にある大きな原因や責任の所在なんて存在しなくても、大きな出来事は起こる。竜巻の責任の所在を、蝶の羽ばたきに求めても仕方がないじゃないか。

 まず責任を求めて納得しようとするのは、別にその件で困ってない人たちがとりあえず納得したような気持ちになれるだけで、そもそも起こった出来事で困っている人たちにとっては何の関係もないじゃないかと思う。だからそんなのとりあえずはどうでもいいじゃないか。

 

 京極夏彦の「絡新婦の理」だったかで、起きてしまった事件に怒り出すおっさんがいて、それに対して探偵の榎木津礼二郎が、「怒っている人は、特に何もすることがないから怒っている」というような感じのことを言う。つまり、それに対して何かすべきことがあるならば、まずそれをすべきだし、それをしないということは何もできないのだろうということだ。ただ、何もすることがなくても目の前に大きな問題があれば気になるし、でも、それに対して何もできないからただ怒り出してしまう。

 このことについては割とよく思い出す。仕事でもそうだ。何かが上手く進んでいないときに怒り出す人は、それを上手く進めるための具体的な手段を何一つ持っていないんだなと理解する。それは無力だということだろう。そして暇だということだろう。何かの問題を解決するためにすべきことは、それを解決するための行動を起こすことだと思う。怒り出すのしかないのは、つまりは自分には何もできないと言っているということで、それはある種の悲鳴のようなものだと思う。それはきっと別に悪いことでもない。人が立場や能力によって、何かに対して無力となってしまうことは悲しくはあっても悪いとは言えないし、ただ、これは悲鳴だなと思うだけだ。その人には、それを解決するために何もすることができないんだなと思い、悲しくなる。

 

 人と人との話し合いには、目的が必要だ。議論をするにしても、それぞれがどういう結論に至りたいかがまず最初に設定されていなければ、ただ時間を浪費する結果になるだろ。結論なんて条件によっていくらでも変わるし、その条件をころころ変えれば、無数の立場をとって、無限に議論を続けることができるようになる。収束しない議論はだいたいそうだろう。

 例えば、派手な色の服を着るか、地味な色の服を着るかを議論したとして、至りたい結論が決まっていなければどっちでもいい話だ。でも、人ごみの中ですぐ見つかってほしいというような条件が決まっているならば、派手な方がいいとなるし、目立たずに集団の中に埋没していてほしいというならば地味な方がいいとなるだろう。だから、最初にその目的を共有しなければいけない。それを全員が全員同じもので統一することはできないかもしれないけれど、それでも、自分はどうしたいのかを確固と持っていなければ、そこから始まる話はほとんど無駄だろう。

 

 僕はそれを、あらゆることの目的を、「人を助ける」というところに持ってきたいんだと思う。それは、自分が一番助けて欲しかったときに、沢山の人が賢しらな理由をつけて僕を切り捨てたじゃないかという記憶と密接に繋がっているところがある。誰も別に不幸になる必要はないし、100人いたら、100人が幸福に生きられるのが一番じゃないかと思う。

 だからその目的を「自分は何もしない」だとか「誰かを責め立てる」というところに持って来るのはきっとよくないことだと思うのだ。散々議論をした結果、「何もしない」という結論に至るなら、じゃあ最初から何もしなければいい。議論をした時間だけ無意味じゃないかと思う。「誰かを責め立てる」でもどうでもいい。だってそれは誰かを助けることとあまり関係ないじゃないか。

 

 何かの行動を起こすとき、その行動の結果が、自分の抱える目的に少しでも近づくものかどうかを考える。そうでなければ、その行動には意味がないし、ひょっとしたら自分が抱えている目的だと思っているものは表面上だけの嘘っぱちで、本当に抱えている目的をごまかしているだけかもしれないとも思う。だいたいの場合は、行動は言葉よりもずっと正直だ。だから行動で示せないものならば、それはたぶん嘘なんだと思う。

 

 僕が今インターネットに書いている文章は、ただの言葉で、だから意味がない。これ自体には全く意味がなく、これを書いた上で体現していくことに初めて意味が生まれるのだと思う。だから、今のところこの言葉はまだ無意味だし、だから、インターネットをしていて悲しくなる。

「我らコンタクティ」と人生における無限への想像力の話

 これは人生の話なんですが、友達と話をしていて、自分自身に対する未来への希望がないというか、今はそこそこ幸せに生きている皆さんが、いざ未来の話をすると、年老いて誰かに迷惑をかける前に、早めにぽっくりと死んでしまいたいねという話になったりしたことがあります。

 そのとき、男でも女でも一人で暮らしていても家族と暮らしていても、遠い未来の先に、今以上に輝かしい何かがあるというあまり想定をしておらず、ある種の諦念があるように思いました。僕の付き合いだけの話なので、一般化できるような話ではないかもしれませんが、これから年老いていく自分自身のその先に、今以上に明るい何かを見ている人はどれぐらいいるでしょうか?少なくとも自分は違うような気がしていて、それでいいのかな?と思うところがあります。

 

 ドラゴンボールベジータフリーザは永遠の命を求めますが、それってすごいことだなと思います。だって、永遠に生きたいと思うほどに今が充実していて、そしてそれが未来永劫続くのだろうと思っていなければ、そう思うことはできないと思うからです。そこそこ楽しく生きて、寿命が来たら来たで死んだらそれでいいや、いい人生だったと思うよ…というような僕のような人間には獲得できないかもしれない人生観です。

 

 さて、「我らコンタクティ」は幼馴染の男女の物語です。彼らは子供の頃に一緒にUFOのようなものを見たという体験の持ち主です。大人になって再会した彼らは、その宇宙人へのメッセージを送りたいという目的を共有しました。その変わった目的は「自分たちの好きな映画を、宇宙人に見せるために宇宙で上映する」という形に具現化されることになります。では、そのために何をすればいいのか?合理的に考えれば、それを宇宙に持っていく手段が必要です。直線でそこまで突っ切るならば、そのための手段が必要で、だから彼らは、自分たちだけの手で宇宙ロケットを打ち上げるという発想に至るのです。宇宙で映画を上映するために。

 

 町工場で働く無口な男が作った宇宙ロケットに、力を貸すのはただの事務員の女。これは荒唐無稽な話だと言えるかもしれません。宇宙ロケットというものに無知な僕には、これがどれほどリアリティのある話なのかも分かりません。でも、そんなことは僕にとって大した問題ではなく、このお話がめちゃくちゃ良く感じたんですよ。なぜならそこには無限に対する想像力があったように感じられたからです。

 それはつまり、僕が抱えているような閉塞感に対する打破の力なんじゃないかと思いました。

 

 最初に書いたように、自分の人生は割と先が見えています。厳密に言えば、先が見えていると思い込んでしまっているんじゃないかと思います。ただ実際は別にそうじゃないかもしれなくて、だって先のことなんて分からないじゃないですか。

 

 子供の頃はもっと無限なことを考えていたように思います。例えば、無限の宇宙の果てには何があるかとか、何十億年先の地球はどうなるだとか。科学技術の発展の先にある夢のような未来だとか、この先の人生にやってくる素晴らしい人との出会いだとか、無限の選択肢がある自分の生き方だとか。自分の人生の先にある空白の部分に無限の可能性を想定して、ワクワクしたり恐ろしくなったりしていたわけですよ。なるようにしかならず、落ち着くべきところに落ち着くと思っている現状からは、もしかするとそれが失われてしまっているのではないでしょうか?

 

 かつて無限にあったかのように見えた選択肢は、いつの間にか少なくなり、だからこそ目の前がクリアに見えるようになって安心して歩けるようになりました。しかしながら、だからこそ期待はできなくなってしまっています。まだ来てもいない数十年先のことを、確定的な未来のように想像して、勝手に落胆したりなんかしてるわけですよ。でも、それってただの想像じゃないですか。想像でしかないじゃないですか。つまり、「想像する」ということが、自分の人生にどれだけの影響力があるのか?っていう話じゃないですか。

 

 我らコンタクティでは、最後宇宙ロケットを打ち上げます。かつて宇宙人に遭遇した男の子は、ロケットを作って周りの反対を無視してそれを打ち上げるわけですよ。かつて宇宙人に遭遇した女の子は、それに協力し、そしてその許可が取れない中での決行は、犯罪でしかないわけですよ。

 かつての男の子は、自分で作った宇宙ロケットの状態を把握する数字を見て、その成功を理解します。かつての女の子は、その実況を聞いて、自分たちのロケットが今まさに宇宙で映画を上映開始したということを理解するわけですよ。その光景を、我ら読者だけは実際に映像として理解することができます。読者は作者が描いてくれさえすれば、たとえ宇宙の果てだろうともそこに視点を持てるからです。でも、当の彼らには目視ではその様子を見ることができない。だって映画の上映機は宇宙にあって、彼らは地上にいるのだから。彼らは画面に表示された数字から、それを想像することしかできやしないわけです。僕らが映像として理解した光景を、彼らは頭の中で想像しただけなわけです。そしてそれで十分じゃないですか。

 

 まともに考えれば、打ち上がった映画上映機が永遠に稼働しながら宇宙の果てまで行けるわけなんてないわけですよ。それがどれだけ単独で稼働し続けられるように作られたとしてもです。きっとどこかのタイミングで何かの影響で壊れたりしてしまうじゃないですか。でも、想像の中では無限でしょう?そもそも、自分たちの好きな映画が、いつかあの宇宙人に届くかなんて何の保証もない。その宇宙人だっていないかもしれないわけですよ。あの光が宇宙人だったなんて分からないし、そんなものそもそもいなかったかもしれないわけじゃないですか。

 

 だとすれば、ここにあるのはつまり全て想像力の話です。自分たちが飛ばしたロケットの先に、いつか宇宙人まで映画が届くかもしれないという無限の果ての想像力を彼らは得たということじゃないかと思ったわけです。

 自分の人生の未来に、何かがあると思うことも、何かがないと思うことも、すべて今想像しただけのことです。そんなことに一喜一憂して、自分のこの先の人生に価値があるとかないとか言っているわけじゃないですか。人間が未来に生きるためには無限への想像力が、生きていく上で強い力を発揮したりするわけですよ。存在していないそのようなものに、めちゃくちゃな価値があるわけですよ。

 

 もしかすると自分が死んだ後もずっと宇宙の果てまで進み続けるような映画上映機が存在しているということ、それを想像するということが、一見何の関係もない自分の人生の在り方に強く関係しているということもあるんじゃないかと思うわけです。そしてそれがいつの間にか自分の人生から抜け落ちてしまっているのではないのかと思ったりするわけなんですよ。

 

 僕が我らコンタクティの物語に惹かれたのは、そういうところじゃないかと思っていて、いつの間にか自分の中から抜け落ちていた何かしら無限的なものに対する想像力がそこにあったからなんじゃないかと思います。世の中にある閉塞感のようなものも、根っこは同じような気がしていて、本来どう埋めても大丈夫なはずの未知の未来の領域を、勝手に手元にある陰鬱になるようなものだけで埋めちゃっているような気がするんですよね。

 でも、それがもしかすると安心するためにわざわざそうしているんじゃないかという疑惑があって、それをどうにか楽観とそれを現実にするための行動で上書きしていくことが、自分の何十年先の未来のことを思っても、ワクワクした気持ちを持ち続けるためには必要なんじゃないかと思ったりしました。

 

 あれ、何の話だったか…。

 

 とにかく良いお話でしたよ。良いお話なだけでなく、絵もめちゃくちゃに良いですからね。最後のシーンは本当に胸いっぱいになりながら読みました。これはとてもカッコいいお話だったので、あの後、彼らがどうなったのかは語られませんでしたが、僕はそれは閉じたものではなく、広がったものであるかのように思っていて、なぜなら僕はこの漫画を読み終わったあと、とても清々しい気持ちになったからです。

 僕もそんな感じに生きていくぞ!!というようなことを思いました。