漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

他人の言うことをできるだけ聞かずに生活する話

 僕は他人の言うことを聞くのがあまり好きではないので、できるだけ他人の言うことを聞かないで生活したいと思っています。ただ、僕は一人で生きているわけではなく社会で生きているので、生活を送る上で逆に自分の言うことを他人に聞いてもらったりも全然しています。だから、僕も条件次第では他人の言うことを聞くことには問題はありません。というか普通に聞いています。

 でも、やっぱりワガママな人間なので、できるだけ聞きたくないですし、「この人は何を理由に僕に言うことを聞かせようとしているのか?」ということが常に気になってしまったりします。

 

 他人に言うことを聞かせるための代表的な方法は、「お金を払うこと」でしょう。お金を払うという行為はとても素晴らしく、見ず知らずの人間にお金を払うだけで、食べ物を作ってくれたり、車を運転してくれたりします。

 もし、お金がなかったらどうでしょうか?他人の家に入って「僕のお昼ご飯を作ってください」と依頼するとします。お金を払わずにです。相手は「なぜ?」と思うでしょう。見ず知らずの人の車に乗り込んで、「駅まで走ってください」とお願いするとします。乗せてくれる人もいるかもしれません。でも、多くの人は「はあ?なぜ?」と思うでしょう。しかし、お金が介在するとなんとそれと同等のことができてしまうので、とても素晴らしいと思います。

 そういえば以前、ラーメン屋はすごいよ!!って思ったのですが、なぜなら僕がいつ行くかも分からないのに、急に夜中にやってきて、「ラーメンを作ってください」と頼んでも嫌な顔をしないからです。そして、その雑なお願いを笑顔で聞いてくれてラーメンを作ってくれます。さらには、後片づけもせず、最悪挨拶すらしないで、帰っても何も言われません。にもかかわらず「また来てください」なんて言ってくれます。次にいつくるかも分からないのにです。ただし、600円ぐらいのお金を払っています。しかし高々600円です。

 仮に僕が一番仲が良いと思っている友達の家に夜中に突然現れて、「ラーメンを作ってください」って頼んだとしたら、友達はきっと嫌な顔をするでしょう。そして、後片付けもせず、感謝の言葉も言わず、600円ぐらいだけおいて帰ったとしたら、たぶん友情に亀裂が入ってしまうのではないでしょうか?ですが、ラーメン屋はそうではありません。なので、少しのお金でそのようなことができてしまうラーメン屋というお店があってよかったなあと思いました。

 

 仮に人間が平等だとしたら、それぞれの人間の意思は同じように尊重されるべきです。ある人の意思が、別の人の意思を妨げるということは公正ではありません。なぜなら、一部の人の意思だけを尊重するということは、それ以外の人の意思を尊重しないということだからです。これは人間が平等であるという前提と矛盾します。

 しかし、全ての人の意思が平等に尊重されつつ、あらゆる物事が円滑に動くということは、何十億もの連立方程式を一意に解くこととも言えるのでほとんど無理でしょう。なので、人間は平等なのに、その意志が平等には尊重されないという現実があります。

 であるために、その間に潤滑油が必要とされています。そのひとつがお金です。全ての人間の意思が同時に尊重されることが難しいために、お金という数字を使って、あるときに尊重されなかった人に別のときに尊重される権利を与えることができます。他人の言うことを聞いてもらったお金を使って、今度は別の他人に言うことを聞かせることができます。これによってある種の問題が解決されました。ああ、なんとお金とは素晴らしいものでしょう。

 

 さて、僕は他人の言うことを基本的には聞きたくないので、僕に言うことを聞かせようとする人に対しては、「この人は何を根拠に僕に言うことを聞かせられると思っているのか?」ということを常に考えています。

 その意味で「仕事」は分かりやすく、上司やクライアントの指示がありますが、それは僕が仕事で貰っているお金と繋がっているので根拠として理解可能です。直接ではないにせよ、この人の言うことを聞くことが僕が貰っているお金の根拠になっているからです。そしてお金があれば僕の言うことを他人が聞いてくれるので快適に生きるためには仕事をするのはやぶさかではありません。

 僕は親の言うことをよく聞く子供だった(と思う)んですが、その理由はこの人たち(親)が稼いだお金で僕は住む場所があり、食べるものがあると思っていたからです。生育環境における諸事情により、小学校低学年ぐらいからずっとそう思っていました。なので、それ以後、親の判断に逆らったこともほとんどありません。ただし、このような考え方であるために、独り立ちしてからは、言うことを聞くことがほとんどなくなりました。別に親と仲が悪いわけでは全然ないのです。ただ、この人たち(親)の言う通りに生きるという理由を僕は全く持ち合わせていないなと思うので、そのようにしています。

 

 「法律」や「ルール」や「マナー」は、お金以外の他人に言うことを聞かせられるよくある方法です。これらは社会や、もう少し小さいある種の集団に属するために前提として守らなければならないものです。これら「法律」や「ルール」や「マナー」は、人間の自由を束縛するものです。

 例えば、全裸で往来を歩きたいと思ったとします。しかし、それは咎められてしまいます。なぜならそうしてはいけないという法律があるからです。他人が自分に対して、法律という根拠を元に、全裸で往来を歩きたいという意思を否定してきます。これは守るべきでしょうか?

 少なくとも、その社会の中で生活したいならその法律を守るということが必要となるのが現代では一般的な考え方でしょう。つまり、社会の外に出てしまえば守る必要はありません。無人島にひとりで暮らしているなら、全裸で外を歩き回っていても問題がないのです。自分が今属している社会に居座りたいならば法律を守る必要があります。そして、それでも不満なら、法律を変えるように働きかけるという方法もあります。それが実際に通るかどうかは別として。

 「ルール」や「マナー」は、法律よりももう少し小さいものなので、「守りたくないのでその集団を抜ける」という選択も現実的なものとしてあります。僕が昔読んだ本によると、ラグビーという競技は、サッカーをやっていたある人が急にボールを抱えて走り出したことから始まったのだそうです。これはもちろんサッカーという競技においてはルール違反ですが、このボールを抱えて走ることを許容するラグビーという競技が生まれました。ボールを持って走りたい人はサッカーをやめてラグビーをすることができます。

 

 「マナー」というものはルールよりもっと曖昧です。それらは明示されているものではないことも多いので、「マナー違反」ということを根拠に他人に言うことを聞かせられるかどうかは不明瞭です。

 個人的な経験で言うと、以前電車に乗っていたときに花粉の季節で鼻水をずるずる言わせてしまっていたら、隣の席に座っていたご婦人に「鼻水をすするなんてマナー違反ですよ」と言われたので、「なるほど、そういうマナーがあるんですね」と思いました。そしてそのご婦人はポケットティッシュをくれたので、僕はそれで鼻をかむことでしばらくの間はずるずる言わせることはなくなったのですが、それはそうと、そのご婦人がその後お弁当箱を開けてご飯を食べ始めたので、「おっ、この人の中では普通の電車の中でお弁当を食べ始めるのはマナー違反ではないんだなあ」と思ったということがありました。

 ただし、僕は別に電車の中でお弁当を食べてはいけない!というマナー意識を持っていなかったので、特に何もいうことはありませんでした。そのご婦人のお弁当を今食べたいという意思を否定する根拠を何も持っていなかったということです。

 

 この辺りが、すりあわせの難しいところです。「マナー」というものは明文化されていないことも多いので、ある行動が個々人が持っているマナーに合致しているかどうかが共有されておらず、なんでもいいから「それがマナーだ!」と言い張った人が、そう言い張ることで無根拠に他人に言うことを聞かせることができるという道具となり得ます。

 なので、「マナーにうるさい人」というのは、僕の認識では「他人に自分の言うことを聞かせたい人」というイメージがあります。その行為が良いか悪いかは場合によると思います。なぜなら、一部の人にある種のマナーを厳守させることで、その集団の残りの人々が快適に過ごせるようになるかもしれないからです。もし、マナー違反が多発し、その集団に属する人々が不愉快な思いをすることが多くなっていたら、その集団自体が瓦解してしまったかもしれません。

 一方、そのマナーを強要されること自体が不愉快な人もいるかもしれません。その場合、その場所を去ることができますし、マナーを守ることにして属し続けることもできます。

 

 僕はあまり集団に属することを好まないですが、それは前述のように他人の言うことを聞くことをあまり好まないからです。誰の言うこともできるだけ聞きたくないですし、その代わりに自分の言うことを他人に聞かせたいともあまり思いません。皆好きにすればよく、他人に何かを聞いてもらうときには、他人であれば基本的にお金を払うことにしており、あるいは、身内であれば互いに持ちつ持たれつであることなどを重要視します。

 今思いましたが、これもある種のマナーですね。僕と接する人は、「僕に何かを強要するということをしない場合のみ一緒にいられる」というマナーを他人に強要しているのかもしれません。結局そのくびきからは逃れられていませんね。

 

 そういえば、インターネットで何かをしていると、「あなたはもっとこうしたほうがいい」というアドバイスをくれる人がいます。それ自体は別にいいんですが、その人のアドバイス通りにすると何がよいのかが僕はあまりよくわからず考え込んでしまうことがあります。たぶんこの人の言うことを聞けば、この人が好ましいと思っているものに僕が近づくことになるんだろうな?と想像しているのですが、僕がその人が思う好ましいものに近づくことに何の意味があるんだろう?とも思います。

 例えばこのブログでいうと「文章が長い」って言われることがあるんですが、僕は長い文章を書きたいと思って、誰に乞われるわけでもなく勝手に勝手に書いているので、短くしたらその人に「読みやすくなった!」と評価されるとして、僕が長い文章を書きたいことを我慢して短くすること、つまりその人にとって読みやすくなることに何の意味があるのだろう?と思います。

 ネット以外でも、そういうことは今までよくあって「私に評価されたければこのようにした方がいいですよ?」というようなことを言ってくる人がいるんですが、そういうときはだいたい、「この人はなぜ、僕がこの人に評価されたいと思い込んでいるんだろう?」という疑問が頭をもたげます。ただ実際、僕がその人のことがすごく好きで、この人に好かれたい!と思っている場合もあるので、そのときはそのようにしますが、そうでなければ、まったく意味不明な行為だと思います。僕は僕が良い感じに思うようにやっているので、何かを自分が思う通りにやっている時点で完全に目的は達成しているのです。

 

 こういうことを考えていると、不特定多数の他人の評価を受けたい人というのは大変だろうなあと想像します。無数の「私に評価されたければこうしろ」という人の意見に向き合わなければならないからです。それがお金を貰えるものだとしたら、その分、自分が好きにできる余地が増えるためまだ理解可能ですが、そうでなければ自分の望む良い行動ではなく、他人が望む良い行動をとり続けなければなりません。

 そして、もしかすると、その「他人が望む良い行動をとり続けること」が、その人にとって何らかの拠り所になる集団に属し続けるための前提条件とされているのかもしれません。他人の目を気にして、自分だけが望む良い行動をとれないということが、その人にとってどれぐらいしんどいことなのかは人によるかもしれませんが、それでしんどくなるなら止められるようにした方がしんどさは減るのではないでしょうか?

 

 僕はできるだけ集団に属さないので、そんな集団に属するのはやめればいいのにと、そういうものについて感想としては思いますが、それも僕の考える僕の考え方でしかないので、それを他人に強要するということはしないように思っています。

 結局言えることなど何もなく、僕はただ外から眺めているだけなのです。この行為が正しいことだとも思いません。ただ、個人的に楽だからやっているだけです。楽でないと生活がしんどくなるので、しんどく生活するのが本当に嫌なのです。個人のワガママです。

 

 さて、こういう風に振る舞っていると、「この人は本当に何の根拠で僕の行動を縛ろうとしてきているのかが意味不明」という人に時折出会います。その理由がまるで把握できないので、僕はとりあえず、この人の中には「人間が平等である」という前提が全くないのかな?と想像しています。平等でなければ今まで長々と書いてきた話は茶番でしかありません。自分は他人より偉いのだから、自分より偉くない他人たちは自分の言うことを聞くべきであるという前提の構築だってあり得るからです。

 じゃあ、僕がなぜ人間は平等だと思うのかというと、それも別にとりたてて大きな根拠があるわけではなく、ただそう思っているだけなので、そんななんとなく思っただけのモノサシで世界を測ること自体に無理があるのかもしれません。難しい世の中です。

 

 僕はこの「なんとなくそう思った」というのはすごく強い感覚だと思っているのですが、なぜなら、それは根拠のない確信なので、反論を寄せ付けないからです。人は目の前にいる相手を自分と同じ考えに誘導しようとして、論理や倫理や正義などを使うものだと思いますが(なぜならそれは従うべきものという暗黙の前提が共有されがちだからです)、根拠のない確信は、それらのどれひとつにも依拠しないので、それらをどれだけ用意して物量で攻め立てても籠絡の糸口がないのです。

 例えば、自身の考えがもし、正義を根拠にした論理に基づいていれば困ったことになります。相手が自分の正義を貶め、論理の矛盾を指摘すれば、そこに根拠がなくなるので、考えを取り下げざるを得ないかもしれないからです。であるからこそ、僕が思うに、どうしても守りたい一点に関しては、理論武装などむしろ不要、ただただ確信だけを携えておけば他人の理屈に従わずに済むことになります。相手が提示するあらゆる理屈に対して、「でもなんとなくそう思ったんです」と言い続ければ、相手が根負けして諦めてくれます(ただし大抵バカと罵られます)。

 そうすることで自分の大切なやつは守ることが可能ですが、その集団には居場所がなくなる可能性も高いので、居場所が欲しい人はやるべきではないかもしれませんね。しかしながら、そのような結果、僕の人と密な交流はあまりしないものの、一人で本を読んではきゃっきゃする生活が守られているのです。

 

 今はこれが楽しいのでそうしていますが、どこかのタイミングで感覚が代わったら、他人の言うことを聞く代わりにまた何らかの集団に属するようになるかもしれません。それが起こったとき、その理由はおそらく「なんとなく」だと思います。

漫画に見る、逃げた人の話、立ち向かう人の話

 漫画を読むにつけ「逃げないで立ち向かう」という価値観の方が「逃げ出した」という価値観よりも肯定される頻度が高いように思います。それはおそらく漫画では最終的に主人公側が勝つ物語になる場合が多いからでしょう。逃げ出したということを理由に勝つということはあまり考えられず、逃げ出した人が結果的に得るものは、生き延びたという事実ではないかと思います。つまり、そこで逃げ出さなければ死んでいた(かも)ということです。ただし、中には最終的に生き延びたものが勝ちという価値観もありますね(勝ちと価値がかかっていますね!)。

 

 生き延びた者が勝ちという価値観の代表的な漫画の人物は「バキ」郭海皇です。彼は齢百歳を超えるよぼよぼのお爺さんで、中国拳法における理合の力を象徴するような存在です。

 年齢と修行によって、単純な力を象徴する筋肉が完璧にこそげ落ち、箸と茶碗を持つのにも重さを感じてしまいます。そんな彼が、力の象徴である範馬勇次郎と戦います。その結末は郭海皇の敗北、それも戦う最中における老衰による死によって終わります。しかし、それは擬態の死であり、範馬勇次郎は死んだ郭海皇をそれ以上攻撃することはありませんでした。

 郭海皇は、強大な力の前にある種の技術で生き延びたことに武の勝ちを宣言します。しかし、それを手放しで肯定する人は他に一人もいません。ただし、彼は生き延びた、それは事実なのです。はたして、皆さんは郭海皇を行為をどのように捉えるでしょうか?

 

 逃げることを肯定する人といえば「道士郎でござる」の健助くんもそうです。アメリカ帰りの武士である道士郎から殿と呼ばれるようになった普通の高校生の健助くんは、道士郎の起こすトラブルに何度も巻き込まれて、なぜだかヤンキーたちに尊敬される人物となっていきます。そんな中、健助くんは巻き込まれたトラブルにおいて、適当に負けておいて、その後の平和な日常を満喫しようとヤンキーたちに提案します。しかし、ヤンキーたちが選んだのは、平和な日常よりも最後までボロボロになるまで戦うこと。そこに美学を見出しているのでしょうが、普通の高校生の健助くんは、いや、絶対平和な日常でしょうよ!と思います。しかし、それは叶わないので、戦う羽目になってしまいました。

 そうはいっても健助くんは逃げない子です。正確に言えば、逃げることを是としながらも、決して逃げてはいけないときを知っている子です。だから、普段はいきがっているヤンキーの子でさえ、逃げてしまうようなシチュエーションでも、力が弱くて勝てないことが分かっていても、どんなに格好悪い戦い方をしたとしても、立ち向かうことができる子です。それは逃げて無傷で生き延びることよりも、戦うことで守りたい大切な何かがあるということでしょう。その感情に非常にグッとくるわけですが、そう読んでいるとやはり、逃げることよりも立ち向かうことこそが是という価値観に辿り着いてしまいますね。

 

 「ベルセルク」のロストチルドレンの章では、小さな村の小さな世界から逃げ出そうとする少女が登場します。そんな彼女が足を踏み入れたのは、人にあらざるものの世界、そしてそこは、かつて彼女と同じ世界にいた別の少女が、化け物となることで足を踏み入れた世界でした。主人公のガッツは化け物となってしまった少女を殺し、逃げ出したかった少女は、また元の村に帰ってきます。ガッツは言います。逃げ出した世界もまた戦場だと。楽園なんてどこにもありはしないのだと。

 逃げること自体は否定されていないと思います。しかし、逃げ出したからといって、そこにあった辛さが全くない楽園もまた望めないということです。どこにいったところで、そこに立ち向かうということからは逃れられないと描かれているのかもしれません。

 

 一度は逃げ出した人が、それでも立ち向かうことを決意する物語といえば「ダイの大冒険」でしょう。へたれの魔法使いポップは、強大な魔王の手先を前に、勝てるはずがないと逃げ出してしまいます。その場に残った仲間たちを置いて逃げ出してしまいます。逃げ出した先でポップは、まぞっほに出会います。まぞっほは偽物の勇者のパーティの魔法使いの老人で、彼は逃げ出してばかりだった自分の人生についてポップに話します。逃げ出してしまったポップの姿に、まぞっほはかつての自分を見出してしまったからです。

 ポップは、一度は逃げ出した戦場に、踵を返して再び向かいます。そんなポップがいなければ、ダイたち勇者のパーティは負けてしまっていたでしょう。ポップは勇気の象徴です。逃げ出したいような状況で、それでも逃げ出さないと決意することは、最初から戦うつもりであった人々が戦うことよりも、もしかすると困難なことかもしれません。

 そして、大魔王との苛烈する戦いの中、まぞっほまた、その逃げてばかりだった人生の中で、ようやく力を発揮することになるのです。それは世界を破滅させるような絶望的な状況において、力はなくとも立ち向かうということです。そんな平凡で弱き人々の結束が、あまりにも強い大魔王に一矢報いることになるのです。

 

 「皇国の守護者」で描かれるのは撤退戦です(元は小説ですが漫画版があるのでよいことにしてください)。戦力差のある勝ち目のない戦の中で、自軍の主力を逃がすために、戦うのが新城直衛の率いる大隊です。ここには、逃げる戦いと逃げない戦いが同時に存在します。

 生き延びるために逃げ、彼らを逃がすために戦う者がいます。その戦う者の中でも、その場に留まって戦う者と、敵軍を迎え撃つために出撃する者がいます。留まり、守り抜いた人々は全滅し、出撃した人々は最後には降伏をします。彼らは生き延びるために、負けを選びます。そして、それは主力を逃がすという彼らの目的を達成したと思った後のことでした。死んだとしても最後まで戦うことには意味がないということでしょう。

 

 このように逃げることは時に重要ですが、逃げてばかりでは後悔ばかりが残るということが、多くの漫画では描かれているように思います。そういえば「逃げるは恥だが役に立つ」という漫画もありますね。どこかで戦わなければならない、逃げるだけではダメなのではないか?そういう罪悪感のようなものを持っている人が多いのかもしれません。

 そこに留まって死ぬ(肉体的に死ぬという意味だけではなく、もう少し広い意味で)ぐらいなら、逃げ出したっていいということも言いたくなります。しかし、泥沼化するのは逃げたくても逃げられないときです。逃げられないときには、それなりの理由があるでしょう。

 

 僕は自分でも無茶な仕事のスケジュールを組んでしまうことがあるのですが、もうちょっと楽にすればいいのにと自分で思いつつ、できないことがあります。それは、実はその無茶なスケジュールこそが、もう少し長期の期間を見ると一番楽なスケジュールだと気づいてしまったときです。

 短期的には無茶になりますが、その後の仕事の繋がりを見ると、このタイミングでそれをやり終えておかないと、のちのち余計に忙しくなってしまうことが見えているため、肉体的に楽にするために肉体的にしんどいことをしてしまうという矛盾するようなことをしてしまいます。それは傍から見れば、自ら望んで自分を追い詰めているように見えるでしょう。そして、事実そうです。合理的な理由を元に、自分にとってある程度不利なことをしてしまうという、恐ろしさがここにあると思います。

 そういう無茶をしてこの場に留まるということが、最も合理的であると考えてしまったとき、自分自身をじわじわ削り取っていくような状況なってしまうのかもしれません。逃げるためには、逃げる場所と逃げる経路の確保が必要です。その場に留まることである程度利益がある状態では、逃げ出すということは、その状態を壊して再構築をするということを考えないといけないのです。それはときに困難です。

 逃げることは留まることよりも、大変なことかもしれません。そして、そんな状況に揉まれている間に、逃げ出す体力をも失ってしまうこともあるかもしれません。

 

 逃げ出すということに合理性を確保できないときに、留まることでじわじわとダメージを蓄積してしまう状況は、とても危険なことだと思います。ただ、留まって戦うことで、活路を見いだせることもあるかもしれません。でも、逃げ出すことしか生き延びるすべがないかもしれません。その分水嶺は、明確な線引きがされているものではなく、当事者それぞれに判断を求められてしまうことので、とても難しい状況なのではないかと思ったりします。

 

 世間は、逃げる人に対して残酷なことも多いと思います。なぜならば、逃げるということは多かれ少なかれ現場放棄による責任の放棄とも捉えられるからです。それは他人に不利益を与えることですから、不利益を与えられた人々は正当な権利として抗議をします。そんな抗議に応えることよりも、自分の生存の方が重要であるという考え方もあるでしょう。そして、それに同意する人も多いでしょう。しかし、漫画で言えば、そういうキャラクターに強い嫌悪の表明がされることもあります。

 

 それは例えば、「3月のライオン」において、妻子捨男と揶揄された名前で呼ばれる男性のことです。彼は主人公の零くんがお世話になる川本家の人々の父親で、とっくの昔に妻子を捨てて家を出て行った男です。色んな仕事をしては嫌なことがあるとすぐに辞める。浮気をして家を出ていき、都合がいい理由があると帰って来る。体面を気にして、接する人には平気で嘘をついて、自分がヒーローであるように振る舞い、その実、しんどいところは他人に丸投げして、自分は知らんふり。そして、それをすることが正しいことだと思い込んでいる。そのような人物です。

 彼は何とも戦わず、ただ逃げ回っているような人物です。彼は作中の登場人物と、そして読者に嫌悪の目線を向けられているのではないでしょうか?責任を放棄し、逃げ出す人に対する目線から、それを排除することは果たして可能なのでしょうか?彼の心が、少しのストレスで壊れてしまうような形をしていたとき、それでも責任をもって戦えと言えるでしょうか?言えるのだとしたら、それは彼以外の人々に向けられるということとどう違うのでしょうか?

 

 違う理由はいくらでも考えられると思います。しかし、僕が思うにそれはどこかに線引きをしているだけで地続きです。ここまでは許そう、これ以上は許さない、そのようにそれぞれの人が決めたというだけのことです。人から逃げ場を失わせていることに、自分が全く荷担していないとは言えないのではないでしょうか?それは自分自身を省みても思うことです。

 

 逃げたっていいですし逃げなかってもいいと思いますが、逃げたい状況と逃げられない状況もあり、それは自分自身で作り上げていることも他人から強いられていることもあると思います。それらは物語の中で、肯定的にも否定的にも描かれ、しかし、「逃げない」ということの方が圧力としてはやはり強いのではないでしょうか?

 

 「新世紀エヴァンゲリオン」のシンジくんは「逃げちゃだめだ」と自分自身に言い続けます。それは逃げた方が余計に辛いと思っているからだとも言います。つまり、長期的な辛いことから逃げるせいで、短期的な辛いことから逃げられないという典型的な雁字搦めの状態でしょう。それで潰れてしまうなら、逃げた方がいいんじゃないかと思いますが、逃げないことで道が開けたとき、それを称えてしまうということもあるでしょう。

 シンジくんが逃げ続けていたエヴァンゲリオンの物語において、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・破」では、ついに逃げずに積極的に立ち向かう姿を見せてくれます。そして、それを視聴者である僕はとても肯定的に捉えてしまいました。しかし、それは「ヱヴァンゲリヲン新劇場版・Q」において、いじわるなことに全く逆転的に描かれてしまいます。逃げてばかりであったシンジくんが、ついに逃げずに立ち向かい、それを人々が肯定的に捉えたとき、その逃げなかった事実が大きな災厄を引き起こし、たくさんの人々に不利益を与え、そして、その責任をとれと迫ってくるような物語となっています。はたして、シンジくんは逃げればよかったのでしょうか?逃げなかった方がよかったのでしょうか?

 それはどちらかに言い切れるようなものなのでしょうか?

 

 さて、「漫画の」ってタイトルをつけて書きはじめたのに、最後アニメの話になったので、タイトルを間違えたのでは??と思いました。

 あと、「からくりサーカス」の「逃げる」「逃げない」の選択肢の話も入れようと思ってたのを書き終わってから思い出しました。

「ガンバ!fly high」を久しぶりに読み直した話

 ガンバ!fly highは、中学生の藤巻駿が、全くの初心者であるにもかかわらず、「オリンピックの金メダルをとりたいんです」などと無茶な宣言して体操部に入部、最終的には金メダルをとるというお話です。リオオリンピックの体操の中継を観ていて、すごく良かったので、思い出して漫画を読み直したりしたんですが、こっちもほんと良かったです。

 

 なんというかこう、僕は時間の流れが感じられる漫画が好きで、最後の方の巻を読んでいるときに、最初の方の巻のことを思い出して、「ああ、あそこからここまでやってきたんだなあ」という道のりのことを思ってしまうと感極まってしまうんですが、丸1日で34巻プラス外伝1巻を読み直して、実時間ではたった1日前に読んだところなのに、その道程を考えると、とてつもなく前だったような気がして、色々あった、色々あったんだよと思い、じんわりとした気持ちが心の中に広がりました。

 

 主人公の藤巻駿は体操の初心者なので、最初はろくな演技もできないんですが、なんと、そんな状態で大会に参加するはめになります。そこではとてもとても恥ずかしいことになってしまいます。なぜなら、ろくな演技もできないのに、沢山の人が見ている中で、何かをしなければならないからです。そんな中、駿は自分にできることをやってみます。でも、それは評価されるために最低限必要な要素も満たしていなかったりして、笑われてしまいます。点数も最低です。そこが駿の原点です。全てはそこから始まりました。

 

 体操、だけには限りませんがこの種の競技の面白いところは、点数がつくというところだと思います。それはつまり、その競技が成り立つためには、演技者だけでなく採点者が必要だということです。

 このような採点競技ではもちろん、感情の入る領域をできるだけ排し、誰が付けても同じような点数になるように採点基準が明確化されているものでしょう。そうでなければ、結果に人間同士の間の好き嫌いが採点結果に強く関わり過ぎてしまうからです。でも、それでも人間がやることです。人間がやるということは、そこからシステマチックに感情を排したとしても、それでも残る感情的な何かがあるはずです。ガンバ!fly highでは、また、その領域についても描かれていると思います。

 

 良いか悪いかが点数によって判断されるということは、面白い状況だと思います。なぜそれを面白いと思うかというと、何かに点数がつけられる際には、しばしばその主従が逆転することがあるように思えるからです。つまり、良いものだから点数が高くなるということが、いつの間にか、点数が高いから良いものであるということになってしまったりします。でも、つけられた点数と良し悪しは本来は別々のことではないでしょうか?点数が高いのは、採点基準に照らし合わせればそうというだけで、その演技を見た人が感動したかどうかとは必ずしも一致しません(もちろん、一致する場合も多々あります)。

 ガンバ!fly highでは、ある技に失敗した人が、同じ技をもう一度やり直すという描写が繰り返し登場します。そして、そのたびに「同じ演技をやり直して成功したからといって、点数評価からは除外されてしまう」という事実と、「だから大会で勝つためには意味がない」という視点が登場します。

 事実そうでしょう。点数を追うだけなら、意味がありません。最後までやったところで、その点数は切り捨てになるだけかもしれません。価値観が点数だけならそうかもしれません。でも、そうじゃないものがあるということが繰り返し描かれます。

 念のため書いておくと点数をつけることが悪いと描いてあるわけでもないと思います。そこに「点数以外の価値観が登場しない」という状態に疑問を呈しているということなのではないでしょうか?なぜなら、体操選手の演技を見たとき、そこには、点数化とは必ずしも繋がっていないある種の感動が存在するからです。それが「ある」ということを描いているのだと思います。

 

 この物語は、素人ながら「金メダルをとる」という大それたことを言った少年が、その時点では誰もそれが叶うことを信じなかったのに、ついに成し遂げてみせるというものです。誰もが笑ったその夢を実現することは、笑った人たちを見返してやる物語とも読めるかもしれません。だとしても、駿の心の中には、そういう要素はなかったのではないでしょうか?

 駿はロシア人コーチのアンドレアノフに体操を教わります。アンドレアノフが説いたのは「楽しい体操」です。その「楽しい体操」というものは、誰かを見返して「ざまあみろ」と思うようなものではなかったからです。体操は他人に見せて評価を受けるものではあるものの、それ以前に自分との戦いであると説かれます。

 

 同じ技をやり直すことはその象徴的なものでしょう。失敗は人の心を縛ります。それまで一度も失敗をしたことがなかった人が、ある印象的な失敗をたった一度してしまっただけで、その後、今までは意識せずともできていたことをできなくなってしまったりします。それを乗り越えなければなりません。それは他人が代わってやってくれるものではありません。自分が乗り越えなければならないものです。誰しもそれを乗り越えて前に進むものなのではないでしょうか?

 

 自分との戦いを乗り越えて、他人を感動させる演技に繋がります。しかし、そこにある他人の目とは、採点基準という他人に決められた価値観に合わせることだけなのでしょうか?点数上は同じでも、よりよく見える演技について物語の中では語られます。誰もやっていない技は、基準がないために個性がありますが、だからといって、誰もやっていないということだけを追い求めても仕方がありません。自分と戦い、他人を魅了する演技、そして、それでいて点数も勝ち取るというなんとも欲張りなものです。

 様々な価値観が絡み合い、舞台が大きくなればなるほどに強烈なプレッシャーが襲ってきます。その中で、プレッシャーと戦いながら演技し、失敗したとしても立ち上がり、克服し続けること、その根本には「楽しい体操」があったように思います。

 チャレンジをし続けた先が金メダルです。これは物語ですから、作り事です。でも、作り事とはいえ、色々あったわけです。それが辿り着いた果てから見れば、金メダルに至る、感慨深くなるほどの道のりがあるわけです。その道のりを思うとき、胸の内に湧く感情があるわけです。

 

 この物語はシドニー五輪で結末を迎えますが、連載終了後に描かれた外伝があります。その外伝の主人公は、岬コーチとアンドレアノフの息子ミハイルです。彼は、伝説的な存在となった藤巻駿の技を、自分もやってみるために、彼の補助であった上野のもとを訪れます。体操選手としての壁にぶちあたっていたミハイルは、そこを抜け出す術を駿の体操に求めたのです。それは、ミハイルが子供の頃、ビデオで見た、彼の原点です。藤巻駿の楽しい体操が、次世代の体操選手の種を蒔いていたということです。それは駿がアンドレアノフに教わったように。駿の偉業は簡単には真似できないことですが、続く人がいるということです。時代はその担い手の手によって先に進んでいるのです。

 さて、この外伝のエピソードの時代設定が2016年なのですが、後書きを読むと15年も先のスゴイ未来世界のことと書かれていて、しかしながら、もうそこに辿り着いてしまいました。この15年のことを思うわけです。物語の中で時間は経過し、現実の日本の体操はオリンピックで金メダルを取りました。

 ちなみに僕は体操は小学生のときでやめてしまいましたが(実はやってたんです)、体操ではないにせよ、連載完結から15年という時間の流れを思い出したら、色々あったなあと思います。15年前にこの漫画をリアルタイムに読んでいて良かったなあと、15年後の今読み返して思いました。

インターネット揉め事関連雑感

 常日頃から他人に対して攻撃的な人もいるにはいると思いますが、だいたいの人は、何もなければおだやかに日々過ごしているものだと思います。でも、そんな人でも場合によっては攻撃的な感じになることがあるんじゃないでしょうか?そのための条件のひとつは、「自分が攻撃されたと感じるとき」なのではないかと思います。

 なにしろ、攻撃されているとき、黙っていたらそのまま攻撃され続けますから、殴り返してもいいはずだと考えます。緊急避難の考え方ですね。このように、自分が不利益を被るという理由を手に入れてしまうと、人は普段は起こさないような行動を起こしてしまうことがあります。

 

 僕はこの辺の行動を起こすきっかけのことを「心の天秤」というふうに呼んでいます。それはつまり、人がある行動に至るには、心の中にある天秤にそれに釣り合う理由を乗せる必要があるということです。その天秤がどんな塩梅で動くかは人によって異なるので、どの行動を起こすのにどれだけの理由が必要かは人それぞれ異なるものだと思います。しかし、基本的にはそういうものだと思っています。ある行動がなされるとき、天秤の反対側には当人にとってそれに十分釣り合う理由が存在します。

 

 人がそうであるとした場合、悪い部分もあれば良い部分もあります。例えば「〆切が近い」という理由が天秤に乗らなければ行動できない人もいます。「自分はなぜ〆切ぎりぎりにならないと着手できないのか?」という疑問を持つ人は多いと思いますが、何を隠そう僕もそうなので、何で自分はこうなんだろうと思い続けてきました。でもこの「心の天秤に乗せる理由が足りていない」という考え方をするに至って思ったのは、自分の心の天秤はそういうバランスにできているのだという諦めです。その諦めの境地に至ったことで、自分が放っておくと〆切よりも早め早めに行動することができないという事実自体には悩むことはやめてしまいました。

 つまり、いくら心の表面上で焦っていても、「まだ頑張れば間に合う、大丈夫」という気持ちが心の奥底にあるうちは、天秤に乗せる理由の重さが規定量に達していないのです。なので、いくら早めに始めよう、早めに始めようとしても、それは無理なのです。この天秤のバランス自体を作り変えることは、おいそれとできることではないと思っています。変えられないにもかかわらず、行動を起こしたいのであれば、さらに上乗せする理由があればよいということになります。

 極端な話、〆切が1ヶ月後で、まだ頑張る気にならなかったとして、1秒に1cmずつ天井が下に降りてくる部屋に閉じ込められていて、その案件を終わらせないことには潰されて死んでしまうとしたらどうでしょう?仮にあと24時間でぺしゃんこになりますが、そのお仕事の〆切自体は1ヶ月後のままだとした場合、やらないと明日には死ぬけど、でも〆切は1ヶ月後だからまあやらなくていいや…とはならないと思います。このように今やるべき理由が生まれてしまったからには今始めるということになるはずです。

 めちゃくちゃな例え話をしてしまったので、余計に分かりにくくなったかもしれませんが、僕は何かをするときにはそういうことをします。やるための理由が足りなければ、やらないといけない理由を意図的に増やすことで対応します。例えばあえて期日を早めに回答しておくと、それを守らないといけない感じが強まります。趣味であれば、ネットで告知したりすると、告知だけしといて間に合わないと格好悪いなあという理由が生まれたりします。例えばイベントに申し込んでしまえば、間に合わせないと申込料が無駄になるという理由が生まれます。

 ここには色んなやり方があるんですが、自分という人間は本当に怠惰で、やらないで済むならやらないという結論に至ることが分かっているので、もうちょっと上位概念の理性が、状況に応じて適度に理由を積み増し、怠惰な自分をコントロールするということをしています。

 

 物事には両面がありますから、「理由が足りないと行動を起こせない」ということにはもちろん良い側面もあります。例えば犯罪なんかがそうですね。

 僕は犯罪をおかしてはいませんが、それは犯罪をするに足る理由を今十分に持ち合わせていないからだと思っています。でも例えば、飢えて飢えて死にそうになっていて、お金を一円も持っていないとしたら、食い逃げとかをしてしまうかもしれません。なぜならそうしないと死ぬと思っているので、これは大きな理由となります。であれば、食い逃げは犯罪ですが、やるべきことではないですが、天秤のもう一方に「でもやらないと死ぬ」という大きな理由が乗ってしまうので、それぐらいしてもいいだろうという考えになってしまうのではないかと想像してしまいます。

 世の中にはそれでもできない人がいて、その人は規範意識の強いバランスの心の天秤を持っているんだなあと思います。

 

 僕の考えでは、犯罪を実際におかしてしまう人は、2パターンあります。1つ目は行動に至るために必要な理由が、他人よりも少なくても足りてしまうという天秤のバランスであるというパターン。もう1つは、その人が他人よりも沢山の理由を抱えてしまっているというパターンです。

 「太陽がまぶしかったから人を殺した」と言ったとき、もちろんその理由は適当な嘘かもしれませんが、たったそれだけのことでも殺人と言う大きな行動を起こすに足る人なのかもしれません。その天秤のバランスは一般的ではないので、平均的な人から見ればその事実は恐ろしいと感じるでしょう。また一方、天秤のバランスは平均的でも、沢山の理由を乗せてしまえば、行動には足りてしまいます。それは情状酌量の余地とも呼ばれ、多くの人に理解できるものなので、減刑される理由になるかもしれません。

 この場合、罪を許そうとする側にもまた天秤があるのです。その人を許すに足るだけの理由を探すことが出来た人は許せるかもしれません。そして、見つけられなければ許せないかもしれません。

 

 他人について知れば知るほどに許せる理由を見つけてしまうかもしれませんし、もしかすると逆に許せない理由を見つけてしまうこともあるでしょう。ここには、先入観なども関係してきます。つまり、許したいと最初に思えば、許せる理由を積極的に探してしまうかもしれませんし、許せないと最初に思えば、許せない理由を積極的に探してしまうかもしれないからです。

 

 場がインターネットの場合、この人間は、許すにたる人間か、そうではないか、それを埋めるために必要な情報がネットの向こうから勝手に大量に供給されてきます。許すか許せないか、その分水嶺は、その中から何の情報を取捨選択するかによるのだと思います。

 これを僕は「マクスウェルの悪魔」と似ているなと思ったことがあります。マクスウェルの悪魔とは、エントロピー増大則への反例として挙げられた思考実験で、雑に説明すると、温度の異なる2種類の気体を混ぜ合わせればそのうち同じ温度になるのが普通です。ただ、ある種の「悪魔」が存在したとして、温度とは分子の運動のことですから、運動が激しい分子のみを選り分けて通す扉を作ってしまえば、大きなエネルギーなしでも、また気体を温度の異なる2つにわけてしまうことができるということになります。

 全ての分子、つまりここの喩えでは「理由となり得る情報」を同列に扱えば同じ温度になることは自然の流れですが、その中で一部の情報を選り分けで、抽出することで、ある種の温度を高めた箱を作ることができます。これはつまり、怒りたい人が怒るに足る理由を沢山探して怒ること、許したい人が許すに足る理由だけを沢山探して許すことと似ているように思いました。

 

 僕が自分の心の天秤をコントロールして、〆切に余裕をもって仕事をするよう行動を促すように、そのような情報の取捨選択によって、怒ったり悲しんだり許したり許さなかったりする温度を、人間は自分の中で自由闊達に変化させることが可能なのではないかと思いました。

 

 さて、ようやく本題ですが、インターネットは色んな揉め事があるので、それが目に入って色々揉めているなあと思うのですが、そこで気になるのは、この揉めている人たちは、どのような心の天秤を持っていて、そして、その天秤には何の理由がどれだけ乗っているのだろうということです。行動に至るということは、何かしらそれに足る理由を持ち合わせているのだと僕は類推するのですが、揉め事情報を眺めていると、しばしば双方が「最初に攻撃してきたのはあちらの方だ」と考えているらしいことを見て取ることができます。

 この文章の最初の方に書いたように、「攻撃された」ということは大き目の理由となり得ると思うので、行動に足るためには重要な役割を果たしているのではないでしょうか?そして、双方が相手側が攻撃してきたと判断しているということはどういうことかというと、攻撃の意図はなくとも相手を攻撃していることがあるという事実です。そして、それはしばしばやっている本人には自覚されていません。

 

 自分が誰かに攻撃されたと思ったとき、その攻撃してきた誰かに、自分がその行動に足るだけの理由を与えてしまったのではないかと思うことがあります。それはつまり、無自覚にその人を傷つける言葉を自分が発していた可能性です。

 もちろん天秤のバランスがユニークな人がいて、思いもよらない種類と程度の理由だけで、その行動に足りてしまっているのかもしれません。でも、そうではないのだとしたら、例えば自分がその人が大切に思う何かをうっかり否定的に語ってしまったなどがあったのだとしたら、そんな理由を相手に与えてしまいさえしなければ、この事態は回避できたのになと思います。

 

 持ち合わせている天秤のバランスを作り直すことはなかなか困難なことです。例えば〆切ギリギリまで何かをできない人がそれを修正するということは、学生時代の8月31日にあわてて宿題をしていた人が、次の年には見事7月中に完璧に宿題を終わらせてのけるようになるぐらいの困難さはあるはずです。やろうと思えばできる!と思う人もいるかもしれません。でも、実際にそれをやった経験がある人はどれほどいるでしょうか?

 相手の天秤のバランスを変えることは困難であるなら、相手に理由を与えてしまったことに自覚的になることが、それを回避するために有効な手段ではないかと思います。ただし、それを考慮して行動することは窮屈であると思えるかもしれませんが。

 

 一方、自分がある種の行動をしたくないと思ったら、それに足るだけの理由を自分が持ってしまわないように心がけることだと思います。簡単な方法のひとつは、ヤバそうな情報は最初から見ないことだと思ったので、それを実践しています。つまり、情報の量が増えなければ、行動に足る量の理由を抱えてしまう可能性は低まります。これを読んだら怒ってしまうかもしれないなと思うような文章があったなら、最初から読まなければ怒る可能性は低いです。

 しかし、自分が「読んだら怒りそうな文章を自分から積極的に読みに行くような人」であることを自覚するとどうでしょう?それはつまり、マクスウェルの悪魔のようなものです。だとすると自分は「怒りたい人」なんだろうなと思います。そして、その行動はつまり、怒るに足る理由を自ら取捨選択して得ようとしているということです。僕の中にもそういう性質はあると思うんですが、それを自覚すると嫌な気持ちになります。

 

 僕は近年、怒りたくないなあという気持ちが強まっているので、上記のように見ないようにするための努力をしています。幸いなことに、インターネットの文章は、タイトルの時点で自分が不快に思いそうなものをある程度見分けることができるので、非常に便利ですね。あとはこのサイトは見ないということをしたり、何かに怒りたいタイプの人が怒るための材料をSNSで大量に供給してくる様を非表示にしたりします。

 おかげで嫌な気持ちになることが減りましたが、必然的に人の集まる場所を避けるような形になっているので、人とは疎遠の傾向も強まっている気がします。ただ、そもそも人付き合いが得意ではない方なので、こちらの方が性に合っているなあと思います。

 

 つまり、「怒りたくないなあ」「嫌な気持ちになるなあ」とか「こちらの方が性に合っているなあ」というのは、僕がそのように行動するための重要な理由となっていて、僕の今の心の天秤はそのようにできているのだと思います。

 それを今の所は上手い具合にコントロールしていて、自分が良い感じになる方向に誘導しており、なんとなく意図通りに動けているような気がしますが、何かのバランスが崩れたりするとまた考え直さないといけないかもしれませんね。これからも良い感じにしていこうと思います。

作者の名前に敬称をつけるかどうか問題

 インターネットに漫画とか映画とかゲームとかの話を書くとき、その作者の名前に敬称をつけるかどうかに迷ったりします。つまり、知り合いでもないのに呼び捨てしてもいいんだろうか?って思うんですけど、色々考えた結果、僕は基本的には呼び捨てにすることにしています。

 それは作者名を、一個人の名前というよりは、その作品を特定するための識別子として使っているという認識だからです。作品タイトルに敬称をつけないように、作者名にも敬称をつけません。その代わりの条件として、フルネームで記述することを必須とし、また、同作者による何らかの作品に対しての言及のときのみにしか使わないということにしています。

 なので、例えば、その作者の人の作品以外のことに関しては何らかの敬称をつけることになります。例えばSNSの投稿に関することに言及するとしたら、それは作品ではなく個人の話なので敬称付きにします。あと、既に亡くなっていて歴史上の人物に近くなると敬称を外すという傾向もあるかもしれません。つまり、敬称をつけるつけないは、言及先を人として取り扱うか、情報として取り扱うかという差です。

 

 今理屈を提示しましたが、これらの敬称をつけるつけないかの判断はは、実際は「個人的にしっくりくるかこないか」をベースに判断していて、上記の理屈による分類はただの後付けです。後付で感覚と一致する理屈を考えました。つまり、言語における文法みたいなものです。これは「親しい知り合いでもないのに名字で呼び捨てとかありえないだろ」みたいな個人的感覚の集積なので、例外的に上手く切り分けられないものもあります。

 例えばお笑い芸人についてはなぜか呼び捨てにした方がしっくりくるというのがあって、基本的にはコンビ名に名字の組み合わせ例えば「ダウンタウン松本」ならセーフということに自分の中でなっています。そして、それがセーフということになると、ピン芸人だけに敬称をつけることになるという違和感から、ピン芸人も呼び捨てになることが多いです。

 実態に即して理屈を考えると、理屈が筋が通っているように見えて、実は沢山例外があったりする感じになりがちなので、美しくないですね。

 

 これらは自分の感覚なので、自分はそれに則していることを実感しますが、「他人もこれに従え」というような気持ちは特にありません。ただ、自分の感覚では違和感のある呼び方をしている他人を見ると、この人の頭の中ではどのように整理されているのかな?ということは気になったりします。

 

 インターネットを見ていて気になるのは、なぜ冨樫義博氏に関して言及する人は、「冨樫」と名字を呼び捨てにする人が多いのか?ということと、ここ最近の「シン・ゴジラ」に関する言及を見ていると庵野秀明氏に関する言及も「庵野」率が高くて、びっくりしました。一方、鳥山明氏に対する「鳥山」という呼び方はあまり見かけませんし、宮崎駿氏に対する「宮崎」という呼び方はあまり見かけません(「駿」という呼び捨てはあるかもしれません)。

 この辺の呼び捨てる感覚、傍から見ている感じでは、親しみと場合によっては蔑みが入り混じったような感じに見えますが、どうなんでしょうか?僕の感覚としては、そうする人は他人と自分の距離が近いひとなのかな?と思いますが、僕自身は仕事場に来た新卒の新人に対しても敬語で話すような感じの他人との距離感が遠くにあるタイプの人間なので、それがどういう感覚なのかよく分かりません。

 

 そういえば、なかやまきんに君(お笑い芸人なので何故か個人的に呼び捨てがしっくりくる、前述の名字呼び捨てもこれと同じ種類の何かなのかどうなのか…)が何かの舞台で言っていたネタで、学園祭でスタッフに名前を間違えられたあげく敬称をつけられて「なかやまきんにくマン君さん」というわけのわからない名前で呼ばれたみたいなやつがありました。

 そういうことを唐突に思い出したということをもってして、特に結論はなくこのお話は終わりです。

漫画を描いたのでコミティア117に出ます

 なんとなくコミティアに出たいと思ったので漫画を描きました。なぜコミティアに出たいと思ったかというとなんとなくです。僕が思うに「なんとなく」というのは、人生をいい感じにやっていくためには絶対に無視してはいけない種類の感情だと思います。なぜそう思うかというとなんとなくです。

 

日時と場所は、

8/21(日) 東京ビッグサイト スペース:U02b サークル名:七妖会

です。宜しくお願いします。

 

 

 さて、漫画を描こうと思うといくつかの問題にぶちあたりました。なぜなら、漫画をろくすっぽ描き上げたことがないからです。しかし、それらの問題を乗り越えないと漫画を描けないのでそれらを解決する必要がありました。代表的なの問題は以下の3つです。

 

1.描きたいことがない

2.描き方がわからない

3.描くのがめんどい

 

 かなり本質的な問題が眼前に横たわっていたので、頑張って乗り越えていかなければなりませんでした。描き上がったということは、乗り越えられたということなので、それぞれの問題についてどのように取り組んだかをシェアさせて頂きます。

 

1.描きたいことがない問題

 描きたいこと、ほんとないです。他人に対して何かを主張したいということもないので、うわー、何も描きたくない!って思ったのですが、今回は目標を描くことに設定してしまったので、なんとなくお話の始まりと終わりと、描きたいことを絞り出すことにしました。とはいえ描きたいものが、自分の中にはなかったので、自分が好きな本にあった、自分が好きな部分を、自分なりに再現してみようというのを当初の目標として設定してみることにしました。しかし、これは結果的に失敗に終わります。なぜならプロの人が作ったものの中にある良いものを、十分に再現できるスキルが僕にはないからです。

 しかし、こういう感じに、無理矢理方向性と手段を決めたので、描き始めることには成功しました。僕が思うにこれは普通なんじゃないかなあと思っていて、普通に何不自由なく暮らしておいて、何かを強烈に主張したいということは生まれにくいのではないでしょうか?でも、何も思っていないわけではないんだと思います。何かを描き始めたら、ようやく明文化されていない自分の中の何かがにじみ出てくるような感じかなあと思ったりしました。

 

2.描き方がわからない問題

 描き方は全然わかりません。ぼんやりと考えている話の流れを、どのようにシーンに分割して、ページ分割して、コマに分割すればいいのかが分かりません。最初はネームで最後まで描き終わってから本チャンの原稿を描こうとしていたのですが、半分ぐらい描いたところで頓挫しました。なぜなら、当初思っていた結末に、どうしても辿り着かないからです。起承転結というものがあるとすると、起承承承みたいな感じになっていって、話として辻褄は合っているのですが、どこにも辿りつかないままページだけが進んでいくというような感じになってしまっていました。

 そこで仕切り直して、描き方を変えてまた最初から描きなおしました。どういう描き方に変えたかというと、基本的に見開きの2ページずつ、ネームと下描きとペン入れまで同時にしてしまうことで退路を断ち、基本的にはそれでそこまでの内容を確定させてから先に進んでいくという方式です。

 これは、一人でやるリレー漫画のような感じで、ここからどうするの?みたいなことを都度、それまでの流れを読み返しながら描きました。するとどうでしょう。話は一回目よりもずっと展開するようになりました。しかし、イマイチ辻褄が合いません。なので、ちょっとずと前の台詞を描きなおしたりしながら、全体としての整合性をできるだけとりつつ、なんとかじりじりと進んで行く感じになりました。

 ただ、ラスト数ページの段階で、またもや「これ、今まで描いてきた流れに乗ると、ちゃんと思っていたページ数で収束する感じに終わらせられないな」と困ってしまいました。しかし、その困ったところに、なんとなく常日頃から自分が思っていることが当てはまるような気がしたので、それを当てはめて終わらせてみました。とりあえず終わったのでよかったということにします。

 

 あと、コマ割りができないという問題があったんですが、これは去年、文学フリマに出した妖怪本のときにちらっとだけ描いた漫画のときの方法を使っています。どういうことかというと、そのページに何をどのように描くかを決める前に、まず適当にコマ割りをしてしまうということです。

 人に話したら、「そんなやり方聞いたことがない」というようなリアクションを貰ったのですが、僕は結構これを合理的と思っていて、なぜなら、漫画を描く経験は全然足りないですが、漫画を読む経験はそれなりに蓄積があるからです。

 つまり、「描いていておかしい」ということには今のところなかなか気づけませんが、「読んでおかしい」ということには気づくことができます。気づいてしまえば、今のコマ割りをどのように変化させればいいかを考えることになりますから、説明が足りないようなら、追加でコマを分割してみますし、それで小さくなるようなら大きく配置しなおしてみます。このような試行錯誤ができる段階になるようにまず非常に適当でもいいので叩き台があることが重要と考えました。

 

 僕が最近考えていることに、「頭の中の解像度」というものがあります。それはつまり、自分を取り巻く世界は高解像度なのに、自分の頭の中は低解像度でしかないように感じているということです。

 この解像度の差を仮定した場合、世界を頭に取り込むときは、情報を単純化してしまえばいいですが、頭の中のものを外の世界に出すときには、解像度が足りないため、何らかの超解像処理(低解像度⇒高解像度への変換)が必要になります。でなければ、ドットの荒いガクガクの絵になってしまうからです。この超解像処理こそを上手くやることこそが技術力だと思います。

 

 頭の中にある設計図を、思った通りに出力するには、ぼんやりとしたものをはっきりとしたものに変換する能力が必要です。その能力がない場合は、出力が安定せず、出力を試行するごとに偶然性が強く出てしまいます。つまり、やってみなければわからないことが多いということです。

 高い技術力がある人は、作ってみる前の段階から、完成形がある程度見えていて、それに合うように出力できるかもしれませんが、僕のような低い技術力しかない人間は、一旦出力されてみるまで、それが良いのか悪いのかを判断することすらできません。そこで、とりあえず試行錯誤をできる状況に持っていくことの重要性を考え、そのようにしてやってみました。

 

 これは作り手と受け手の間で一般的にある話で、受け手の人は作り手が完成させたものを見て、「ここを直した方がよい」などと思うことがあります。しかし、多くの場合、作り手より超解像の技術力の劣る受け手は、完成品を見なければ良し悪しが判定できず、であるからこそ、自分の頭の中の理想通りに、世の中にそれを出力するという能力も持ちません。なので、「自分は観る目があって良いものが分かっている」と吹聴するような人でも、いざ実際に作ってみると全然ダメなものしか作れないとか、ちゃんと完成しないみたいなことになってしまうんじゃないかと思います。

 僕もそんな感じなので、色んなものを読んで、「こういうものが面白い」というようなぼんやりとした考えはあるのですが、では、いざそれを形にしてみようとすると大体上手くいきません。ただ、今回はやってみようと思ったので、できる範囲でやってみました。

 

3.描くのがめんどい問題

 パソコンの力がすごいですね。パソコンがあると、めんどい作業をかなり削減することができます。僕は枠線を引くのが面倒で面倒でしかたないので、できるだけやりたくありませんが、パソコンでやるとものの数十秒ぐらいで引けてしまいます。前、たいへん尊敬している漫画家さん(アナログでひとりで描いている)に「枠線引くのめんどくないですか?」って聞いたら「めんどいよ」って返ってきたので、めんどいのにやれるなんて、なんて実行力があるんだ!と、ちょっとめんどいとやれなくなってしまう自分のダメさを実感してしまったことがあります。しかし、人間の性質は簡単には変わりません。だから、めんどくなくてもよい方法を探すのが重要です。それがパソコンで描くことでした。

 他にめんどうなことと言えば、紙に描いてスキャンして取り込むのもめんどうなので、ネーム兼下描きも、ペン入れや仕上げも、最初からタブレットでやりました。あと、ひと手間かければコマから絵がはみ出さないように描くこともできます。トーンもアナログならめんどいですがパソコンならまだやれます。背景と人を別々のレイヤで描けば気を遣わないで描けますし、フキダシの位置を後から変えてみたりするのも簡単ですし、ホワイトをいくら使っても紙に盛り上がることがないので、無限に試行錯誤ができます。

 前述のように、ある程度作ってみないと良し悪しが分からないようなレベルの技術力しかない僕にはパソコンというやり直しをしやすい手段があることが、完成させるには必要不可欠ということが分かりました。

 

 上手い人はパソコンを使わなくても大丈夫ですが、僕のような上手くない人は絶対パソコンを使った方がいいんじゃないかと思います。

 

 

まとめ

 このように、ちょっとめんどうな問題にぶちあたると何もやれなくなってしまうような人間も、目の前にある問題のそれぞれに適切に対策をとり、めんどうさを可能な限り排除してやれば、漫画を描いてみることができます。

 僕の考えでは基本的にあらゆることは、それを自分ができない理由をリストアップして、それらを全部解消した段階で出来てしまうので、そういう風にやってみるといいんじゃないかと思っています。ともかく、今回の目標は完成させることなので、完成させた時点で100点満点だと自分で思っていて、よかったよかった満点でよかったと思いました。

 

 ほんとうによかったなあと僕は思いました。もし、当日ご来場の方がいらっしゃいましたらどうぞ宜しくお願い申し上げます。

シン・ゴジラのシン(秦)について

はじめに

 「シン・ゴジラ」を公開の次の日に一回観たんですけど、そのあと4DXでももう一回観たりしました。面白かったからです。その内容に関しては面白かったなあということ以外に特に言いたいことはないんですが、「シン」って何かね?っていうことが気になります。みなさんもどうせ気になるでしょう?

 英語版のタイトルが「GODZILLA RESURGENCE」らしいので、ゴジラの再誕というか、また初めてゴジラが日本に現れるところからやってみましょうという感じで、「新」なのかな?っていう感じかもしれませんが、わざわざカタカナにしているのは、他の文字も当てはめていいですよ?みたいな感じかもしれません。「真」とか「神」とか、色んなシンが世の中にはありますけど、僕が思うに「秦」じゃないかなあと思ったりします。

 

秦の始皇帝

 「秦」とはかつて存在した中国の王朝です。ご存じ、始皇帝の秦です。なぜ秦だと思うかというと、この映画は秦の始皇帝の話を下敷きにして構築しているのではないかと思うからです。結論から書くと、「東の海より現れる不死の龍」という存在が始皇帝の目指したものそのものです。

 

 始皇帝といえば、中国を統一し、「皇帝」という称号を最初に名乗った人物であり、不老不死を求めた人物でもあります。彼は徐福という男に、東の海の向こう蓬莱にある不死の霊薬を探しに行くように命じます。徐福は数多くの童男童女や職人を連れ、東の海に船を漕ぎ出し、結局帰ってこなかったと言い伝えられています(実際は海に出ずに始皇帝から金をせしめて逃げたという話もありますね)。とにかく、始皇帝といえば不老不死です。

 

 そしてまた、始皇帝は「龍」に喩えられます。代表的な伝説では、諸国を回っていた始皇帝がひとつの噂を耳にします。それは「祖龍が今年死ぬ」というものです。「祖龍」とは人の祖先を示すものだと始皇帝は言いますが、その一年後、始皇帝は死んでしまいます。つまり、始皇帝こそが祖龍であったということです。

 中国の皇帝には龍のイメージがつきがちです。そもそも皇帝という言葉自体が、中国の神話の時代の三皇五帝という存在に由来します。三皇と呼ばれるのは神のような存在で、何を三皇とするかは文献によって異なりますが、「史記」によれば「伏義」「女」「神農」がそれにあたります。このうち、「伏義」と「女」は夫婦とも兄妹とも言われる、人類の始祖であり、その姿は人面蛇身の姿をしています。中国神話の思想では、人類の祖には蛇がいるということです。これは龍と置き換えて認識してもいいでしょう。

 五帝とは、神話の時代に活躍した帝王のことですが、その最初の人物である黄帝もまた龍と関連の深い人物です。龍の姿を持つとも言われ、神農の末裔である蚩尤との戦いでは翼の生えた龍である応龍の力を借りてこれを打ち倒します。始皇帝の行動は黄帝に倣ったと解釈できる部分が多々あります。中国を統一した黄帝は、ついに不老不死の仙人となり、龍の背に乗って天へと消えていったという伝説が存在します。始皇帝もまた中国を統一し、不老不死を求めました。ちなみに始皇帝が目指した永遠なる存在は「真人」とも呼ばれます。ここにもシン(真)が登場しましたね。

 さて、三皇にも五帝にも龍の要素はあります。そこから名前をとった皇帝が当然龍を象徴するものであるのは自明です。事実、五本の爪を持つ龍は皇帝の象徴として色々な場所にその姿が残されています。

 

ゴジラ=徐福説

 始皇帝が目指した姿が不老不死の龍であったのだとしたら、そして、その姿を得る道がはるか東に眠っていると考えられていたとしたら、もしかするとゴジラこそが始皇帝の目指した姿であったのかもしれません。しかし、始皇帝はそこに至ることなく命を落としてしまいました。ではあのゴジラはいったい何か?それはおそらく徐福の成れの果てでしょう。始皇帝の叶えられなかった夢を叶えた男こそが徐福なのです。

 

 シン・ゴジラの劇中では、ゴジラの生命のメカニズムを解明しようとする過程で、人類がいまだ知らない未知の物質を発見され、それは人類にとっての「福音」でもあると主張されます。東の海より徐に立ち現れる福音、それはつまり「徐福」ということではないでしょうか?そして、福音にはもうひとつの解釈のしかたがありますね。そう「エヴァンゲリオン」です。ここで、徐福=ゴジラエヴァンゲリオンという図式が成立します。

 本筋ではありませんが、エヴァンゲリオンが徐福であることは、これまでの学説からして自明だと思います。念のため根拠を書いておくと、新劇場版の「序破急(Q)」は、「徐福」が長い歴史の中でなまったものであるという理解が識者の中では定説です。徐福が引き連れたのは童男童女、そして百工と呼ばれる技術者たちであることも、チルドレンとNERVというふうにエヴァンゲリオンと符合しますね。

 

 話を戻して、つまり上記の仮説が正しいとすると、秦・ゴジラとは、始皇帝の命により、蓬莱へ不老不死の霊薬を探しに行った徐福が、日本を越えて東の海の果てで藻屑となり、2200年以上の長い年月を過ぎて、ついには始皇帝の追い求めた不老不死の龍の姿を獲得し、日本に上陸する物語であると言えます。

 

なぜゴジラ(徐福)は日本にやってきたのか?

 ここに残る主な疑問は以下3点でしょう。

1)なぜその姿を獲得するに至ったのか?

2)なぜ今だったのか?

3)なぜ中国ではなく日本にやってきたのか?

 

 これらの疑問に関してひとつひとつ僕の解釈を書いていきます。

1)なぜその姿を獲得するに至ったのか?

 多少ネタバレとなりますが、秦・ゴジラは最初から龍のような姿であったわけではありません。元は深海に棲息する海洋生物が、海に投棄された放射性物質の影響で突然変異を起こしたものであったと考えられています。

 ここで思い出すのは大鮫魚のことでしょう。これは徐福が始皇帝に申し立てた、蓬莱への船旅を邪魔する存在です。これはまた、「太平記」では龍神が変化した姿と記述されています。そして、始皇帝はこれの中の一魚を殺し、ほどなく病で亡くなったと伝えられます。

  もしかすると徐福は大鮫魚に取り込まれてしまったのではないでしょうか?その正体が龍であることからその存在は不死であり、蓬莱にある不死とは、行く手を妨げるかに思えたこの魚そのものを意味していたのかもしれません。このような海洋生物として、水底で穏やかに暮らしていたはずの徐福は、前述の放射性廃棄物による影響で一変します。生来の不死の力は暴走し、以上変化を遂げることとなります。その姿が元の龍神の要素を色濃く見せるものであったとしても不思議ではないでしょう。

 つまり、かくの如くして、徐福は不死の龍へと変態を遂げたのです。

 

2)なぜ今だったのか?

 おそらく、きっかけは、東京湾で謎の失踪を遂げた牧悟郎博士でしょう。まず、彼が何者であったかを解き明かす必要があります。

 「牧」と言えば、牧場のことです。古代日本においては天皇の命により開発された勅旨牧が多数存在し、例えば、信濃十六牧の大野牧は秦氏が牧長でした。古代の日本には始皇帝の末裔を称する秦氏という渡来系の人々が存在しており、彼らは天皇家と深い付き合いがあったと記されています。中でも、厩戸王(聖徳太子)と秦氏秦河勝の関係は深く、ここにも牧(馬)が関係しています。

 つまり、牧悟郎博士は、秦氏縁の人物であったのではないでしょうか?彼こそが始皇帝の末裔であり、祖先の果たせなかった夢を果たそうとした人物であると考えられるのです。

 

3)なぜ中国ではなく日本にやってきたのか?

  ゴジラが日本に最初に現れたのは東京湾の羽田沖、羽田は秦に通じます。つまり、始皇帝の末裔たる牧悟郎が、秦氏の縁の土地である羽田沖において、始皇帝に恨みを持つ徐福を呼び寄せたとは考えられないでしょうか?

 姿を消した牧悟郎博士はどこへ行ったのでしょう?それは明確には描かれませんが、ひょっとしたらゴジラに取り込まれてしまったのかもしれません。それはつまり、不死の龍となることを求めた秦の始皇帝が、ついにその悲願を達成したことを意味するのです。

 

まとめ

 このように、「シン・ゴジラ」が「秦・ゴジラ」であるということの非常に確度が高い論考が僕によって発表されたことになりましたが、いかがでしょうか?どこまで信じられますでしょうか?僕が思うに、最初の段落で大半が脱落していると思うんですが、この文章は最後まで読まれるんでしょうか?

 ともかく、みなさんもシンの意味について考えてみるといいですね。