漫画皇国

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電子書籍で漫画雑誌を買いはじめてから何年か経ちました

 日常的に漫画雑誌を電子書籍で買いはじめてから多分2年半ぐらいが経ちます。アフタヌーンの電子版が配信され始めたときあたりから、雑誌は徐々に電子版で買うことが増えました。それによって色々感覚が変わったところがあるので、それについて書きます。

 

 僕は月に漫画雑誌を80冊ぐらい読んでいる(週刊漫画雑誌は複数回カウントしてます)のですが、漫画喫茶で読んだり立ち読みも全然するので、買っているのは大体30から40冊ぐらいです。買ったり買わなかったりしています。1日2冊までというルールにしていて、休日は漫画喫茶に行ったりするので、だいたい毎月これぐらいだと思います。その一部が電子雑誌になっています。でも、まだ電子で買っているのは5冊から10冊ぐらいです。

 

紙と電子の違い

 紙で買うのと電子で買うのはどう違うかというと、全然違いますが、どちらかが一方的に良いということはないです。長所短所があります。

 単純に読むということを考えるなら紙の方がいいです。大きいし、読みやすいし、手触りや匂いや温かみがあります(実際あります)。何より重要なのは、他人と回し読みできたりするところです。知り合いが集まるところに置いておけば、僕が買った雑誌を誰かが読みます。僕も誰かが買ってきた雑誌を読みます。これはとてもいいことだと僕は思うのですが、電子書籍にはこれがないか、あっても非常に限定的なので、実用的に使うことは現時点では難しいです。

 平日は週刊漫画雑誌を紙で買って、仕事場の人とシェアしたりしているんですが、そうでなければ電子版でも変わりませんね。

 

 電子版のメリットには、いつでも買えることと、ゴミが出ないことがあります。

 ゴミが出ないのは重要で、大量の雑誌を縛って捨てるのも億劫ですが、何よりの大敵は、捨てる前にもう一回読んでおこうと思ってしまう僕の心です。そして、その最期の一回をなかなか読まないので、どんどん雑誌が蓄積してきます。どこかのタイミングで腰を据えて読み直しては縛るということをするのですが、そこまではどんどんたまってしまっていました。

 これを避けるために、一回目でもういいやと思うまで読むという対策をしていたりもします。週刊漫画雑誌がそうで、仕事場への行き帰りで読み終わり、駅のごみ箱などに捨てて帰ります。雑誌を読む最良のタイミングは出た瞬間です。出た瞬間に読みさえすれば、捨てることは躊躇がありません。半端に持ってしまい、あとで読み返すかもしれないなどと思うから、いつまでも家にあるのです。

 こういったことが電子版ではほとんどありません。なぜなら、買ったものは全部ずっとスマホの中に入っているからです。機種変などをすると再ダウンロードする必要がありますが、それも読もうと思えばいつでも読めるので特に気になりません。

 本を裁断してスキャンするということが、一時流行りましたが、それはもしかすると読書術ではなく整理術なのではないか?と思っています。なぜなら、前述のように本を捨てるときの大敵は、「また読むかもしれない」とか「もう一回読んでから」という気持ちではないかと思うからです。手元にスキャンした画像を残すという方法で、その大敵を解消できれば、紙をなかなか捨てられなかった自分のような人も容易に捨てられるようになります。一方、電子版では、そういったストレスも無縁です。全部手元にあり続けます。

 今僕のスマホには128GBのmicroSDカードが挿さっているのですが、漫画一冊を50MBぐらいとすると、2500冊ぐらい持ち運べます。これだけあれば何年かは持ちますし、何年か後にはさらに大容量のストレージがあるでしょうから、原理的に無限では??という気持ちになります。

 

 電子版の問題としては、先ほどどこでも買えると書いたものの、電子雑誌は数百MBぐらいあるものもあり、スマホのモバイル回線で直接ダウンロードすると容量制限による問題が発生する可能性があります。以前は転送容量無制限のWiMAXを使って、気が狂ったかのように出先で百冊とかの漫画をダウンロードしたこともあったのですが、今では、WiMAXを解約してしまったので、原則Wi-Fiがある場所でしかダウンロードしていません。結局ダウンロードできる場所を限定して運用しているので少し不便になっています。これは、この先、容量制限が緩和されたりすると気にならなくなるのかもしれませんが、おそらく先の話なので、当面は不便と思いながら使うことになると思います。

 

 あと、紙の本が重たいという事実も見過ごせません。コンビニで大体手に入るとはいっても分厚い月刊少年マガジンなどを一日中持ち運ぶ気には最近とんとならないですし、それでも買ったときは、自分ルール的には2冊買っていいものの、運ぶのがしんどいので月刊少年マガジンのみにしてことが多いです(アホなことに、なぜか出かけに買ってしまったりします)。こんなときにも電子書籍なら重くないので楽で素晴らしいですね。

 

漫画雑誌と電子書籍の相性

 電子書籍と雑誌の相性は良いと思います。なぜなら、電子書籍は少なくとも今後しばらくは勝手にコピーされないためのDRMと無縁ではいられないと思うからです。それは、自分が買った本を永続的に所有できるかどうかが保証されていないということです。しかし、雑誌はもともと捨てていたので、仮にサービスの都合でもう読めなくなったとしても、もともとの状態に戻るだけですから、まあいいかという気持ちになります。とは言ったものの、雑誌を何年分も所有できるという便利さによって感覚が変わってきているので、いざそうなったら文句をいうかもしれませんが。

 

 ちなみに、僕はDRMがあること自体は、今現在しょうがないと思うので、しょうがないなと思っています。なぜなら、漫画のタイトルで検索すると、違法アップロードされた漫画のダウンロードURLが一番上にくるとかいうような状態続いていたことを憂いていたからです(今も一部ではまだまだそうでしょう)。この状況でコピー制限なしのものを売れという気持ちにはなれませんでした。カジュアルにコピーされまくると想像しうるからです。ただ、実際、権利関係の識者によると、電子配信されたもののDRMが外されて高画質の漫画が違法アップロードされているケースも増えているらしいので、いたちごっこだなと思います。

 もう何年かすれば、音楽のようにDRMフリーにするべきかどうかの議論が現実味を帯びるのかもしれませんが、それが漫画出版にとって良いかどうかはわかりません(音楽業界が苦しんでいるように)。

 

電子書籍で漫画雑誌を買って変わったこと

 新しい単行本が出て、買って読んだあと、その続きのまだ単行本化されていない分を電子版の雑誌で読み直すようになりました(雑誌が全部残っているので)。便利だなあと思うのですが、紙の単行本と電子の雑誌という棲み分けならともかく、ここで単行本の方も電子書籍で買っていた場合、不思議な気持ちになります。なぜなら、雑誌で持っている漫画は電子版をいつでも読み返せる状態で所有しており、それと同じ漫画が単行本でも電子版であるとなると、スマホの中に同じ漫画が二重にあることになるからです。

 なので、単行本を買わなくても雑誌を読み返せばいいのでは?という気持ちになり、描き足しやおまけページなどがないことには、単行本を買う理由がかなり消失してしまいます。利点と言えば、雑誌の該当ページを探すのが面倒なので、一気に読めると言うことぐらいですが、順番を並べ替えて読みやすくするのにお金を払っているのか…という気持ちになります。とはいえ買っているわけですが。

 これを考えると、雑誌に連載されている漫画は、ある雑誌に載っている漫画を一定種類以上買うとき、単行本を買わずに雑誌だけ所有する方が金銭的には安いと言えるでしょう。となれば、単行本で利益を上げるモデルの雑誌と単行本の関係性がおかしくなるかもしれません。

 

 棲み分けのひとつとしては、漫画雑誌と電子書籍の読み放題サービスの組み合わせです。僕はauのブックパスというサービスを利用しているのですが、例えばFEEL YOUNGコミックゼノンなどは、読み放題サービス内で読むことができます。これらの雑誌を買っていたことを考えると、月額600円ぐらいはすぐに元がとれてしまいます。さらには、一昔前の漫画やキャンペーンが中心ですが、全巻読める読み放題漫画も沢山あるので、浴びるように漫画を読みたい人間にとっては読み放題サービスはとても便利です。

 読み放題サービスにおける漫画雑誌は、ダウンロード期間が一定で区切られているため、しばらくすると追加料金なしでは読めなくなります。この読める期間の限定という方式が、雑誌と単行本の棲み分けということになるのかもしれません。

 

まとめ

 このように、紙の雑誌が好きは好きなままですが、利便性という意味で電子版に移行しつつあるというのが現状です。それは仕方ないなあと思いつつも、一部、問題も起こりつつあります。何かと言うと、今まである雑誌を継続的に入荷していた近所の本屋が、僕が買わないことも多くなった(とか、仕事場の近くで買うことも増えた)ことによって、いつのまにか一部の雑誌を入荷しなくなっていたりしたことに気づいたからです。

 多分、僕が買い続けていれば、「買う人がいるんだから」と入荷し続けてくれていたのではないか?と思うのですが、僕はそこで買えなくなると、隣駅の本屋まで行かないといけないので、よりいっそう電子版を買った方がいいのではないかという気持ちになってきています(特に仕事場に行かない土日に出る場合)。

 

 なんとなくの予想として、今噂されているAmazonの読み放題サービスなどが始まると、漫画雑誌の一部、特に一部の書店にしか置かれないような月刊漫画誌は、そちらにシフトしていくのではないか?と思っていて、なぜなら、既に読み放題サービスで漫画雑誌を読んでいる僕が便利!便利!!って思っているからです。そうなるとある程度雑誌と単行本、紙と電子の棲み分けが収まりよくなるので、良さそうなのですが、色んな要素を考慮していないので、そうなると思う!と言うよりは、そうなったら僕が便利なのになあと思うぐらいのことです。

 

 あと、僕は雑誌を買うと、一通りの漫画に目は通しますが、世の中の大勢は「目当ての漫画を2、3個読むと、もう読まない」という感じなんじゃないかと思うので、どんなに環境が変わってもみんなが雑誌を隅から隅まで一生懸命読むようなことはないだろうなと思っています。

 実は一番重要なのは、紙や電子、売り切りと読み放題のような環境の違いではなく、沢山の漫画を読む気になる人がどれぐらいいるかということなのかもしれません。

 ともかく、個人的にはどんどん便利になっているので良いですし、これからもっと便利になってくれ!!と思います(読むので)。

ポケモンの自己同一性問題(またはスワンプポケモンの話)

 スマートフォン用の位置ゲーム、「ポケモンGO」が日本でも配信されたので、流行に波乗りしてやり始めました。しかし、遊んでいるうちに哲学っぽい感じの問題に行き当たったのでシェアさせて頂きます。

 

 ポケモンGOは位置情報をベースに、色んな場所にいるポケモンを捕まえて育成し、バトルするというようなゲームですが、僕はまだまだぼちぼちしかやっていないので、気が向いたときにアプリを起動して、近くにいるポケモンを集めたりしているだけの感じです。このゲームでは、ポケモンを集めたり、ポケストップと呼ばれる各地に点在する目印となるオブジェを訪れたりすることで、経験値を得てレベルを上げていくことになるのですが、ある程度レベルが上がってくると、より強いポケモンが登場しやすくなってきます。そこで行き当たる問題こそが「ポケモンの自己同一性問題」です。

 

 「花の慶次」で主人公の前田慶次が、獰猛な巨馬と親交を深め、「松風」と名をつけた故事にならい、僕はポケモンGOで捕まえたポケモンに次々と「松風」という名前を付けていました。そんな適当な動機でも名前をつけてみると愛着が湧いてきます。

 にもかかわらず、前述のように、初期に手に入れたポケモンよりも、レベルが上がってから手に入れたポケモンの方が強く、育成するにしても、既にある程度強いものをベースにした方が楽なのです。おかげで、ゲームを始めたばかりに手に入れ、名づけ、育てていた愛着と思い出のあるポケモンを「より強いポケモンを手に入れたので」という理由で手放すという決断を迫られてしまいました。

 

 本作では、余剰なポケモンは博士に送りつけることで代わりに育成に使える飴と交換してもらえるという仕組みです。つまり、あるポケモンを育てたければ、同種のポケモンをガンガン捕まえて交換し、より多くの飴を手に入れることが重要です。しかし、新しく手に入れたポケモンよりも、最初の方に手に入れたポケモンの方が愛着があり、手放したくないという気持ちと、手放した方が効率よく遊べるという気持ちの狭間で、僕は揺れ動くはめになってしまいました。

 この板挟みの中で僕が至った結論は、愛着のあるポケモンを博士に送る前に、名前をデフォルトの種族名に戻し、新しく手に入れた強めのポケモンの方にその名前を襲名させるという儀式を行うということです。これにより、僕の気持ちとしては、同じ名前で同じ姿なのだから、こちらは最初からいる僕のポケモンだという気持ちになりつつ、効率よく遊べるようになりました。これは、複数の問題を一度に解決する「アイデア」だと思ったわけです。

 しかし、気づいてはいけないのは、あくまで名前を勝手に襲名させただけで、最初のポケモンとは別れてしまっているということ、そして、彼らとは二度と出会うことができないだろうということです。これはよく考えるととても恐ろしいことです。つまり、ポケモンにおける自己同一性とは一体何だと考えるべきなのでしょうか?彼らは何をもってして、別のポケモンと区別され得るのでしょうか?

 

 スワンプマンという思考実験があります。ある男性が雷に打たれて死ぬと同時に、その雷によって近くの沼に化学変化が起こり、今死んだ男性と原子レベルで全く同じ物理構成の存在が生まれたとします。同じ物理構成なので、沼の男(スワンプマン)は、自分と同じ構成の存在が今ちょうど死んだこともしらず、家に帰って家族団欒を過ごすでしょう。しかし、元の男性は死んでしまっているのです。その事実には彼の家族の誰一人として気づきません。そして、彼自身も気づかないのです。果たして、死んだ男性とは何なのでしょうか?そしてスワンプマンとは何なのでしょうか?

 

 これと同じような問題をポケモンGOポケモンは持っています。今僕の手元にいる松風という名のコラッタは、多分七代目ぐらいです。松風(コラッタ)の前には6体の松風(コラッタ)がいます(飴と引き換えにされて、もういません)。しかし、姿かたちからは新旧個体の区別がつきません。パラメータは異なりますが、そこはあまり気になりません。特に強さに関わるパラメータが向上していることは喜ばしいこととさえ思います。名前は同じ松風です。この松風と、消えていったかつての松風たちは何が違うのでしょう?そして、僕は、消えていった松風たちのことを忘れてもいいのでしょうか?

 

 このような問題は漫画の中にも時折登場します。ある重要な登場人物が死んでしまったあと、同じ顔をした別の存在が登場するということです。そして、おそろしいことに新しい存在が登場したことをきっかけに、いなくなった古い存在の記憶は徐々に薄れていってしまいます。例えば「はだしのゲン」では、物語の序盤、ゲンと弟の進次のコンビが活躍します。しかし、悲しいことに原子爆弾の投下の日、進次は死んでしまうのです。その後に現れたのが、進次と全く同じ顔をした少年、隆太です。隆太がいることは、進次が亡くなった悲しみを和らげてくれます。無論隆太は隆太であり、進次ではありません。でも似たポジションに、似た存在がいることが、喪失を忘れ去れてしまうということはあるのではないでしょうか?

 「幽遊白書」の飛影は、母親の形見の氷泪石を探す旅を続けていました。その中で彼は、自分の石を見つける前に、妹の雪菜が持っていた石を受け取ってしまいます。それは自分の石ではないということは分かっています、しかし、分かってはいるもののそれによって、「かつて自分の未熟さにより失ってしまった石を探し当てる」という目的は薄まってしまいます。目的を見失った飛影は死に場所を求めるようになってしまいました(それはまた別のお話ですが)。

 

 世の中に完全に同じものは2つないにもかかわらず、同じようなものを手に入れてしまうと、失われたもののことを忘れそうになります。「3×3 EYES」では、死んだと思われたハーンの遺伝子情報を元に生まれたクローン、リバースハーンが登場します。ハーンは死にましたが、リバースハーンがいるということが人々の喪失の痛みを和らげます。しかし物語の終盤、体はほとんど崩壊しつつも、実はハーンはまだ死んではいなかったことが分かります。それは残酷な話です。リバースハーンは、自分にはオリジナルの代替であり、まがいものであるという事実が突き付けられ、そして、周囲の人々はハーンかリバースハーンかのどちらかを選ばなければならないという選択をつきつけられます。このお話は、サンハーラの力で両者が融合するという形で、解決が見られます。都合がいい話ですが、それによって心のざわめきは止まります。

 そういえば「岸和田博士の科学的愛情」における長官も同じような話ですね。へまをおかした長官は孤島の牢獄に幽閉されてしまい、その代わりに、遺伝子操作で頭を大きくして面白い感じにしたコピーの長官が、物語に登場し続けます。読者が、投獄されたオリジナルの長官のことを忘れたころに、その事実をつきつける話をする意地悪さがすごいですが、彼らも最終的には科学の力で融合することで問題の解決をみます。
 ちなみに逆のバージョンでは、2人の女性に求められる主人公の玄野が、コピーされて2人になって三角関係を回避するという「GANTZ」のお話もありますね。

 

 例を挙げればきりがありませんが、このような喪失と代替の物語は、ポケモンのスワンプマン、つまりスワンプポケモン問題に対する、気に病まない接し方を示唆してくれているのではないでしょうか?つまり、古いポケモンが消え去り、新しいポケモンが何食わぬ顔で、同じ名前と同じ姿で居続けていることに僕が感じるストレスには、いやいや、そうではなく彼らは別のように見えて実はひとつの存在であるのだよ?というような理屈をぶつけることで耐性を身につけることができます。

 生物としてのポケモンには、まだまだ分からない部分が沢山残っています。その分からない部分に秘密が眠っているのかもしれません。彼らはデータ化され、デジタル情報として転送されることができます。そう、彼らは既にスワンプマン的な特性を持っているのです。もしかすると、あるポケモンがあるポケモンであるという同一性を裏付けるものは、ポケモンという存在における余剰次元領域において集合的無意識のように繋がっており、個にして全、全にして個であるという…(妄言が続くので割愛します)。要は「いちいち区別して気にすんな」ということです。

 

 スワンプマンの問題についてはSF小説などを読みながら、子供の頃に色々と考えたことがあります。自分の体をデータとして分解して転送するという仕組みがあったとして、当の自分は転送時点で存在が消えてしまい、転送先では自分ではない存在がデータとして再生されて、その自分と全く同じ他人が、自分として周囲に受け入れられているというようなことを想像したりします。それによって背筋がうすら寒くなったりしました。

 それは怖いので、そういう転送装置がもしあっても使いたくないなあと思いながらも、そのときしばらく考えて至ったことは、そもそも自分の同一性は本当に確保されているのか?ということです。例えば、自分が自分であるという意識は、意識の連続性が失われた瞬間に曖昧になります。昨晩寝たときの自分は、現在起きている自分と、本当に同じ人間なのでしょうか?例えば脳みそをデータストレージとして、起きている頭のメモリ上で展開されている自分の意識は、意識をシャットダウンした時点でプロセスがキルされてしまっているのかもしれません。次の日の朝、目覚めとともに立ち上がったものは、また別の新しい自分であるとは考えられないかと。自分が自分であるということを裏付けているのは肉体と記憶ですから、同じ肉体上で同じ記憶を持っているだけで、自分は昨日と同じ人間だと思い込んでいるだけなのかもしれません。

 もしかすると、人間は毎日寝るときに死んでいて、毎日起きたときに新しく生まれているのかもしれません。となれば、一般的に言われている死は、死を迎えたあと、新しく目覚めないということと解釈できます。生きているようでも、毎日死んでいるのかもしれないのであれば、自分がスワンプマンとなったとしても、同じことなのかもしれません。どうせ寝たら死ぬのですから。つまり、それは特別なことではなく、常にあり、既に毎日経験していることかもしれないので、「いちいち区別して気にすんな」ということです。

 

 というようなことをポケモンGOを遊びながら考えていたんですよ…と人に話していたところ、「またわけのわからないことを考えてしまって袋小路に入ってしまっているね。もっと素直に遊んだらどうだい?」というような主旨のコメントをもらったので、ああ、そうだ、まったくその通りだと思ったりしました。

自分の好き嫌いを表明することと価値観の闘争について

 何かが嫌いなのは仕方ないよなあって思っています。例えば、何かを食べて「不味い!」と思ってしまったら、それを美味いと思う人にどんなに丁寧にその美味しさを説明されても、「やっぱりこれは美味い」と心変わりすることは難しそうだし、そういうのは個々人の持つ特性なんじゃないかと思うからです。

 何かの漫画を面白いとか面白くないとか思うとして、それを理屈っぽく説明することは可能ですけど、物語の構造を分析して因数分解のように要素に切り分けて整理したとき、どうしてもそれ以上分解できない素因数に行き当たるでしょう。例えば、その素因数が「親子の愛を肯定的に描いている」とかの場合、それを「素晴らしい」と思う人もいれば「おぞましい」と思う人もいるはずです。それを良いと思うか、悪いと思うかはそれぞれの人の経験や嗜好によるものであって、容易には乗り越えることができないと感じています。

 このように個人の特性によって、良いと悪いは一概に決められないものであって、同じ個人でも立場や状況や経験によって、それらは変化するものではないでしょうか?

 

 ただし、「個人の特性は仕方ない」とは言っても例外的なものもあって、そのひとつには先入観が関係しています。以前、探偵ナイトスクープであった実験で、おいしい「たまご豆腐」を「プリン」だと偽って提供したところ、食べた人々が顔をしかめて不味いと言ったのですが、実はそれはたまご豆腐であると教えられたあとに再度食べたところ、美味しいという結論に変化しました。

 ここには先入観による期待があったと思っていて、プリンは甘くて美味しいものだという期待に対して、別に甘くはないたまご豆腐がきたことから、あてが外れてしまったことを不味いと表現したのでしょう。このように嗜好はそれに何を期待しているかによっても変化する曖昧なものです。間違った先入観を持ってしまうと、美味いものも不味いと思ってしまうこともあると思うのです。

 

 何かを好きでもいいし、何かを嫌いでもいいと思います。それらはそれぞれ尊重されるべきことです。しかし、それらが両方尊重されるべきこととした場合、その好き嫌いを心の中で思うだけではなく、「外に向かって表明する」ということに発展すると、人々の間に軋轢が生まれる可能性が高まります。なぜならば、何かを好きとか嫌いとかいうことを自分の中だけのこととして慎重に言葉を選んで表明するならばまだしも、そうはならないことの方が多いと思うからです。つまり、他人の好き嫌いに、自分の好き嫌いが干渉してしまうということが発生します。

 それらはどちらも尊重されるべきものと思いますが、ぶつかってしまえばどちらかが否定され、あるいはどちらも互いに否定しあうことになります。それを回避したい人は、うかつに好き嫌いを表明しないこと、あるいは言い方を工夫するなどをしています。

 

 何かに対する世間の評価が、自分の中の評価と一致しないとき、世間の評価を自分の評価に一致させようとしてしまう感情の動きは誰しも多かれ少なかれあるのではないでしょうか?そう思ってしまう人から、ネガティブな発言を引き出すための手っ取り早い方法は、その人があまり良いと思っていないものを目の前で手放しで絶賛しまくるのことです。

 これは逆の立場でも同様で、何かが好きな人の前で、その好きなものを思いっきり貶せば、なぜこの良さが分からないのか?という反応が返ってくるでしょう。このような心の動きは誰しも多かれ少なかれ在るものだと思っていて、それが表に出てくるほどに強い人と、そうでもない人がいます。

 

 誰しも自分は特別だと思っているでしょう。少なくとも自分にとって自分は特別な存在であるはずです。その特別な自分の特性である「好き嫌い」はとても重要なことです。自分が何が好きで、何が嫌いかを把握することは、日々の生活をナイスな感じに送って行く上で大切です。言葉にすれば簡単な話で、生活の中で好きなものを増やし、嫌いなものを減らすように行動すると非常にナイスだと感じるからです。

 

 世間一般の風潮が、自分の好き嫌いと合致していれば幸運なことでしょう。自然に振る舞うだけで好きなものが好き、嫌いなものが嫌いという感じに自分の周囲に現れてきます。しかし、逆だったら辛い話です。自分の好きなものが世間で否定され、自分の嫌いなものが世間で賞賛されています。そういったとき、世間から一定の距離をとって、これが好きでしょう?これが嫌いでしょう?という圧力を自分の芯の部分まで届かないように防御することが必要です。

 もし、世間の好き嫌いの干渉を受けてしまえば、自分の好きを嫌いと言い、自分の嫌いを好きと言うことを強いられます。それは自分の特性とは異なった生き方です。

 そうなった場合、例えば、食卓に上がるものが嫌いな食べ物ばかりだとして、それを好きと言うことを強いられます。好きと言うからにはそれは食卓に優先的に上がり続けますし、毎日我慢しながら食べ続けなければならないでしょう。そして、好きな食べ物を嫌いと言うことを強いられることで、本当な好きな食べ物が食卓に上がることがなくなります。それは自分が周囲の雰囲気にのまれ、自分の手でそういう選択をしてしまったことがきっかけになってしまったことですから、救われません。

 自分はこれが好きじゃない、自分はこれが嫌いじゃないと、いい加減その状況に限界に近づいたときに叫びのように表明しても、「でも、これまで自分で選んでただろう?」というある種の慣性が、そこから抜け出すことを困難にします。

 

 であるからこそ、自分が何を好み何を嫌うかを正確に把握し、それに必ずしも合致しない環境の中で、いかにそのスタンスを崩さずに居続けることができるかということを考える必要があると思っています。そして、自分のスタンスを崩さないために、他人の好き嫌いにうっかり干渉してしまうならば、それは同様のことを自分もされ得るということです。万人の万人による好き嫌いの闘争の中で、傷つき傷つけられながら生き延びていくということです。中には生き延びれない人もいるかもしれません。

 

 僕個人の好みとしては、他人に関しても放っておく代わりに自分も放っておいて欲しいと思うので、基本的にそうしていますが、もし他人に自分の好き嫌いに干渉されたときは、最近は受け入れる気が完全にないので応戦することにしています。そうでなければ具合が悪いからです。一方、世の中には周囲の人間の好き嫌いを、自分と同じに合わせていくということを好む人もいるでしょう。僕はそういう人と一緒にいると前述のように応戦をせざるを得ないので、あまり無防備に近づかないようにします。

 

 どのようなスタンスで自分の好き嫌いと、自分以外の好き嫌いを住み分けるかは人によると思います。僕は自分に干渉されると応戦せざるをえないですが、そうでなければあとはみんな好きにすればいいと思います。ただ、自分の好き嫌いが、自分だけの好き嫌いではなく、周囲に影響を与える形で表明されるとき、それは戦いのゴングになり得るということだということは何時もまず意識しています。好きで語るのも、嫌いで語るのも、根本的には違いはありません。

 

 今日もまたどこかで誰かがゴングを鳴らしている音が聞こえます。

FF8の位置ゲー(Final Fantasy VIII GO)を考えました

 ポケモンGOがやりたいんですけど、まだ日本でサービス開始されないという暇に任せてFF8位置ゲーを考えました。

 ポケモンGOとはNianticという会社が作っている、ポケモンのゲームで、スマホGPSによる位置情報と紐づけられ、特定の場所にポケモンが出現したりして捕まえたりするゲームなのかな?と思っています。が、まだプレイしていないのでよく分かりません。なんか、ジムとかもあるらしいですね。

 

Ingressを一時期熱心にプレイしていた話(読み飛ばし可)

 僕はNianticが作っているIngressという位置情報と連動した陣地取りゲームを、以前そこそこ毎日プレイしていました。ガチの人にはとうていおよびませんでしたので、レベルは11とかです。ただ、最近はやめています。

 なぜやめているかというと、人間の「感情」を認識してしまったからです。きっかけは、Ingressを遊んでいたら、近所に住むプレイヤーの人と出会ったので、その人に誘われるままに周辺地域のプレイヤーが参加しているチャットを教えてもらったということでした。そのチャットの中で、陣地をとったりとられたりすることに対する様々な人々の「感情」を目にしてしまったのです。それによって、ああ、僕が色んなところを気分次第で攻撃したり陣取りをしていた裏で、このような人々の感情の動きがあったんだ!と気づいてしまいました。そして、気づいてしまったからには気にしてしまう性格なので、それを気にしてしまうからにはあんまり自由に遊べなくなってしまったのです。

 ご近所の他のプレイヤーの人たちが悪いとは一切思いません。しかし、僕は他人の目を気にし始めると楽しく遊ぶことができない性質の人間なので、なんとなく起動する頻度が減り、最近はほとんどやらなくなってしまいました。

 

 ただ、僕自身が街歩きが好きなこともあり、位置情報に基づいたゲーム自体はとても面白いなあと思っていて、ポケモンGOもきっと面白いんだろうなあと思っています。しかし、なにぶんまだプレイできないので、暇に任せて他のゲームをモチーフにした位置ゲームを作ったらどうだろう?と妄想しており、そこで思いあたったのがFF8です。

 

みなさんはFF8をプレイされているでしょうか?(読み飛ばし可)

 FF8には特徴的なシステムがあって、その代表的なものが「ドロー」と「ジャンクション」です。多くのRPGでは、魔法などの特殊な行動を行う際には、MPなどと呼ばれるポイントが消費されるという仕組みが採用されています。これらは多くの場合休息によって回復するもので、休息がとれるまでは計画的に利用することが求められます。一方、FF8における魔法はそれとは異なり消耗品のような扱いです。まず入荷しなければ使えず、使用すれば消えてしまいます。その入荷の方法がドローです。敵のモンスターなどは特有の魔法を持っており、そこからドローすることで自分があとで使うための魔法を得ることができます(その場で使うこともできます)。あと、ドローポイントという、魔法をドローできる特定の場所もあったりします。

 このドローという仕組みが、初回プレイ時には割と面倒だと感じていて、なぜなら、レアな魔法を持っているモンスターを見つけると、十分ストックできるまで倒さずにドローし続けるということをしていたからです。しかし、実は魔法はドローしなくても、別の方法で精製もできるので、実はそっちを使うべきだったんですが、当時はアホなのでそうすべきだということになかなか気づきませんでした。

 

 そして、ジャンクションです。「ジャンクション」とは言い換えるなら「装備」のことです。多くのRPGでは武器や防具を装備するものだと思いますが、FF8では装備が基本武器の強化しかない代わりに、魔法を装備(ジャンクション)することができます。力や体力や魔力などのパラメータに対して魔法を装備することで、魔法の種類や量に応じて強化することができるのです。そして、そのベースになっているのがG.F.(ガーディアンフォース)です。G.F.とは過去作で言うところの召喚獣に相当し、魔力によって呼び出される味方のモンスターです。

 つまり、キャラクターたちは、まずG.F.を装備することで、そのG.F.に対応したパラメータに任意の魔法を装備することができるのです。ここには、どの魔法をどのパラメータに装備するか?また、手に入れた魔法を使うか、装備してパラメータ強化するために貯めておくかなどの判断があり、どのようにカスタマイズするかに戦略性があります。

 

FF8GO(僕が考えた妄想ゲーム)とは?

 FF8位置ゲーとは、ここまで書けばご推察のとおり、実際の街中にある何らかのモミュメントなどをドローポイントとして目印にして、そこから魔法をドローでき、それをジャンクションして遊ぶというものです。大きな目的としては、ジャンクションして強化したG.F.を用いることで、何らかの戦う要素があるといいかもしれません。例えば、より強力なG.F.を手に入れるためには、手持ちのG.F.をある程度強化して戦いを挑み、倒さなければならない、などです。

 

 僕が遊んだ経験からすると位置情報ゲームには大きく3つのシチュエーションがあると思います。ひとつは「日常」、自分が住んでいる地域における日々のプレイです。もうひとつは「遠出」、旅行や何らかの用事で出かけた先で普段は来ることがない場所で起こる、日常とは異なるプレイです。最後は「祭事」、私的公的に開催される特別なイベントです。これらのそれぞれにおいて、異なる行動と、それに応じた報酬があることが望ましいでしょう。

 

 Ingressの場合は、僕は「日常」における出来事をきっかけにやめてしまいましたが、好きだったのは「遠出」です。新たに訪れたその土地土地の印象的な何らかのモニュメントが「ポータル」という名前の目印となっているので、見るべきものがそれによって示唆されたりします。例えば、かっぱ橋に行ったとき、近隣にある河童の像がことごとくポータル化されていたので、Ingressの表示を参考に、沢山の河童の像を見て回ったりしました。そして、ポータルキーという形で、それらの名称と写真を保存して手元に置いておくことができます。

 ただ「祭事」は、開催が何度もアナウンスされていましたが、僕は結局参加したことがありません(なので、その面白さを僕は理解できていないと思います)(経験がないので)。

 

 さて、そういった体験を踏まえて、僕の考えたFF8GOの基本コンセプトはこんな感じです。

 プレイヤーはG.F.を所有することができます。G.F.には「ご当地G.F.」と「イベントG.F.」が存在し、それぞれ特定地域や特定イベントで登場するG.F.を倒すことで手に入れることが出来ます。これらのG.F.を手に入れて、ジャンクションして強化することで、よりたくさんのG.F.を手に入れていくということが基本コンセプトです。

 プレイヤーは、生活圏内にあるドローポイントで日々魔法を調達しつつ、最初に選択して入手可能な「イフリート」「シヴァ」「ケツァクウァトル」の3体からいずれか好きなG.F.を選んで育てて行きます。最初の関門は生活圏内にいる「ご当地G.F.」でしょう。

 

 地域を治めるG.F.のところに行き(駅とか市役所とかにいる)、そいつらを倒せるようになるのが最初の目標です。秩父ディアボロス、川崎アレクサンダー、お台場セイレーン、五反田カーバンクル、新宿バハムート、筑波リヴァイアサン鳥取サボテンダー、土佐ケルベロス、芝浦シヴァなどなど、地域に根差したG.F.がおり、地元の看板を背負うためには、まず彼らを倒す必要があります。

 地域の看板を背負ったら、プレイヤーは遠出をして戦います。池袋などには、浦和イフリート、西浦和イフリート、東浦和イフリート、南浦和イフリート、北浦和イフリート、武蔵浦和イフリート、中浦和イフリートなどをジャンクションした、埼玉の刺客が次々と現れます。

 

 大規模なイベントも開催されるでしょう。それはきっとひとりの力では倒せません。多くの人がその地をおとずれ、強大なG.F.を相手に戦ったりします。G.F.にはそれぞれ属性(炎、冷気、雷、水、風、地、毒、聖)などの特性がありますから、効率よく戦うためには入手した魔法を適切にジャンクションしなければなりません。イベントが成功した暁には参加者には特別なG.F.が与えられたりするのでしょう。

 

 おそらく、企業とのコラボもあるでしょう。街中にある様々なお店がドローポイントになったりします。おそらく、東京チカラめしのドローポイントでは、ファイガなんかが手に入るのではないでしょうか?そのファイガをちからにジャンクションすると、パラメータが大きく上昇します。すたみな太郎のドローポイントでは体力の上昇する魔法が手に入りそうですね。リジェネとかでしょうか。

 

  ホーリーをドローするために神社仏閣や教会を訪れたり、メテオをドローするために宇宙関係の施設を訪れたり、カッパーをドローするために遠野を訪れたり、バニシュをドローするために全面ガラス張りの家を訪れたり、メルトンをドローするために溶鉱炉を訪れたりしましょう。デスを求めて死んでみるのもいいかもしれませんね。

 

 さあ、与太話を書くのも飽きたのですが、ここにPSP goがあり、ゲームアーカイブスFF8が入っているので、僕はこれでFF8GOと洒落込むことにします。みなさんも、自分のGOを探してみてもいいかもしれませんね。それでは。

 

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最終回のない物語について

 物語には始まりがあって終わりがある場合が多いと思われますが、世の中には最終回を迎えず、終わらない物語もあります。例えば掲載誌が休刊して続きが載らなくなってしまったとか、作者が病気で描けなくなってしまったとか、作者が亡くなってしまったとか、予算がなくて続きが作れないとか、物語の途中で何故か急に載らなくなってしまったとか。様々な理由で終わらない物語が生まれます。始まりのない物語はありませんが、終わりのない物語はあります。なので、物語は終わった数よりも、始まった数の方が多いものだと思います。

 

 例えば、ある漫画家さんには、連載開始は読んだような気がするものの、どうにも最終回を読んでないような作品が色々あるような気がすることが多く、あれが終わってないのに新しいのが始まっている!と思って毎度びっくりしたりしていました。ただ、ちゃんと追っていくと、放り投げたわけではなく、ゆったりと同時に不定期に連載しつつ、徐々に終わらせていたりもするので、いずれ全部終わるのかもしれないなどと思いながら読んでいます。

 

 今連載形式であったり、続編へと繋がる謎を残し続けて進められている物語の多くは、まだ終わっていない物語です。今進められている物語の数だけ、終わっていない物語があり、それがどこかのタイミングでちゃんと終わるものもあるでしょうし、ちゃんと終わらないままに人目に触れなくなっていくものもあるでしょう。

 

 沢山の物語に接していると、どうしても終わらない物語に接することも増えます。あれはどうなったんだろう?と思いながら、その物語に対して頭の中に作った、続きを受け付ける窓口を開いたままにしています。終われば閉じてしまえるので、人によっては終わらない物語によってその窓口を開いたままにされてしまうのはストレスでしょう。でも、開きっぱなしにしているうちに、なんとなくその窓口の存在は薄くなってきてしまって、遂にはあったことすら思い出せなくなるようなものかもしれません。

 僕は続きが来ない物語について、割と慣れてきました。続きが来ないのではないかと思ったりしても、作者死亡などで続きがもう決してないことを知りながらも、窓口を開いたままにしています。別にそれで構わないのです。

 

 ゲームの「シェンムー」がとても好きなのですが、シェンムー2のラストでは、これからとんでもないことが起こりますよという感じの状態でエンドロールが流れます。そして、その後シェンムー3は発表されませんでした。おそらく商業的なコストとリターンの問題から、3を作ることの折り合いがつかなかったのではないかと想像しています。そういうことはよくあるので、あれで終わりということにして窓口をクローズしていてもよかったのですが、僕はなんとなく開けたままで、たまに続きこないかなと思っていました。

 すると、去年、急にシャンムー3の製作が発表されました。僕はとても喜んだので、シェンムー3のためにクラウドファンディングに300ドルほど投じることにしました。発売はまだ先ですが今はそのときを待っています。

 

 このように待っていれば再開されることもあります。「冒険王ビィト」も、作者の病気で連載が中断していましたが、先日再開しました。待っていれば良いこともあります。僕はまだ「バスタード」や「コータローまかりとおるL」や「黒鉄」や、そして、最近また休載に入ってしまった「ハンターハンター」のことを待っています。「ヘルシング」の外伝や「ガンマニア」の続きも待っています。他にもたくさん待っています。待つのはあまり苦ではありません。なぜなら、他にも楽しみにしていることも沢山あるからです。その隙間を埋めるものを沢山持っているので、再開しないことにあまりやきもきしません。それは少しさみしいことなのかもしれませんが。

 

 最近は、「物語が終わるということ」、そのものも、そんなに重要なことだとは思わなくなりました。今読んでいて面白ければそれでいいのです。今読んで面白く、次号を楽しみにして、次号を読んで面白い。それが続くのが物語の楽しみの基本となっていて、それがどのような結末を迎えるのかは、そんなに重要なことだとは思っていません。

 

 「シュトヘル」という漫画にこういう言葉がありました。「死に方は生き方を汚せない」。僕はこの言葉が本当に胸にきたので、何度も何度もその言葉が登場する回を読んだのですが。例えば、人が無意味で無残な死を遂げたところで、その事実はそこに至るまで彼らが生きてきたこと、その中で成してきたことを毀損するものではないということです。彼らが生き、そして成し遂げてきたこと、それまで引いてきた線が、最後の点でしかない死に方ひとつで台無しになるのだとしたら、人の生には価値がないことになってしまいます。

 「いつも生が死の先を走る」、生あってこその死です。その物語の終わりがどうあったとしても、それまでの価値は失われません。そして、それが結末に辿りつかなかったとしても、そこまで読んできたことは無意味ではないと思います。最近はそういう気分で物語を読んでいます。

 

 終わる物語は、綺麗に閉じた物語で美しく、終わらない物語は、開いたままでいて自由です。大作RPGのラスボスの手前、クリアせずにやり込み要素を延々やり続けてしまい、ついにはクリアせずに終わるように、古本屋で読んだ本の最終巻だけ見つからず(最終巻は発行部数が少ないので)結末を知らぬまま長い時間を過ごしたり、毎回楽しみに見ていたアニメの最終話をうっかりなぜかそのときだけ見逃したりします(見逃し配信などがない時代)。それはそれで悪くなかったのではないかと思っています。自分の中では終わっていない物語の中では、登場人物たちは、まだ迎えるべき結末が不確定のままで、なんだかわからないまま漂っています。それも悪くないのです。結末を見てしまったとき、それが自分の中で終わったことで、失われてしまう何かもあるのではないかと思います。もちろん、得られるものはそれ以上にあるかもしれませんが。

 

 綺麗に終わったはずの物語が、何らかの事情で作られた続編によって、また開かれてしまうこともあります。前の物語の結末で、その後の「彼らは幸せになりましたとさ」と、めでたくめでたく終わっていたのに、新しい物語を描くためには、幸福な彼らだけを描くわけにはいかず、幸せになったはずの彼らが再び悲劇的な状況に追い込まれる姿を目にしてしまったりします。それを悲しく感じることがあります。しかし、彼らに再会できたことが嬉しくもあったりします。良いこともあれば、悪いこともあります。

 

 終わってもいいし、終わらなくてもいいです。一度終わった物語が、また再開してもいいですし、再開しなくでもいいです。僕はどちらでも楽しめる感じになっているからです。

 

 「極限脱出 9時間9人9の扉」、そして「極限脱出 善人シボウデス」の続編であり、完結編である「ZERO ESCAPE 刻のジレンマ」を昨日クリアしました。「善人シボウデス」のラストには、様々な謎が残っており、そこで明らかになる新たな謎もあり、続編の存在が示唆されていたのですが、なかなかその製作が発表されず何年も経ち、どうなんだろう?と思いながらもぼんやり待っていました。それが、先日発表され、発売され、そしてクリアしました。

 過去作に残っていた謎はほとんど解決され、クリア後に開放されたテキストでエピローグが描かれ、残ったものも解釈次第で納得できそうな感じです。彼らとそしてプレイする僕が至った結末にも納得しています。終わったなあと思い、満足感とともに、寂しくもなってしまいました。ただし、この物語は、あらゆる問題を解決した上での、完全なる幸福の頂点で物語が終わるわけではありません。彼らにはまだこの先にも立ち向かうべき困難が待ち受けている状態です。それが物語が閉じたように見えて、少し開いている感じで、その余韻が個人的になんだかよい塩梅だったと思うので、なんかそういうことを思ったということを書きたかったという話です。

 この先があってもいいですが、なくてもかまいません。そういうことを色んな物語について最近は思っています。

【世界初】レジプラをデコる【たぶん】

 この前の土曜日、秋葉原で開催していた「技術書典」というイベントに行ってきたのですが、そこで、レジプラと言う機械を買いました。レジプラとは同人誌即売会などで会計管理をするためのレジソリューションです。iPhone用のレジアプリは既に色々ありますが、こちらの商品の特徴は、iPhoneと連携する物理ボタンを備えたハードウェアが存在することです(ちなみにAndroidへの対応も検討しているそうです)。

 以下はレジプラのプロトタイプを用いたプロモーション用の動画です。


即売会向けレジアプリ『レジプラ』

 

 このレジプラは、TOKYO FLIP-FLOPが作った機械です。メンバーのひとりの斎藤公輔さんとは、何年か前にインターネットで何となく知り合いました。斎藤さんはご自身が作る色んな面白い本に加えて、エアコン配管トレーディングカードや、定礎シール、定礎せんべいなど、一風変わったグッズを作ってはコミケ文学フリマなど出展しており、そういった場では、ひとつの商品を複数買いしてもらうことも多いそうです。そのような状況では計算や在庫管理が大変なので、まず自分の役に立つ機械を作ろうとしたのがこのレジプラを作るきっかけになっているそうです。

 ちなみに、斎藤さんは最近はデイリーポータルZでも、面白い記事をたくさん書いていますね。

portal.nifty.com

 

 本題と関係ないですが、スマホを買い替えたので定礎シールを背面に貼りました。レジプラの開発費は定礎シールの販売や、Web定礎、Web書道、Webおみくじなどのサービスの広告収入から捻出していると聞いているのでちょっと貢献してます。

 

 僕も近年、同人誌を作るという趣味を何となく始めており、年一回ぐらいのペースで何らかの即売会に参加しています。なので、自分でも使える機会はありそうかな?と思ったこともあり組み立てキットを買ってみました。5000円です(僕は技術書典限定の10%引きの4500円で買いましたが)。また、組み立て済み完成品は8000円とのことです。

 

 以下のサイトで通販で買えるはずです。

booth.pm

 

 レジプラの組み立ては、基板へのはんだづけと、ネジ止め、両面テープによる接着程度なので特に難しくはありません。はんだづけは人類は一度はやってみたことがあるでしょうし、はんだごては一般的にご家庭に一本はあるものだと思いますが、もし万が一、家にはんだごてがなく、はんだづけもしたことがないなら、組み立て済みの完成品の方を買った方がいいかもしれませんね。

 はんだづけのポイントはボタン5個×4箇所、逆流防止用ダイオード1個×2箇所、電源スイッチ1個×5箇所、電源ケーブル2本×1箇所の計29箇所です。ネジ止めは基板の4隅に足を止め、足の裏を両面テープで箱の底の貼りつければもう完成です。のんびりやっても1時間もかかりません。

 作るのはさほど難しくはありませんが、組み立てキットと完成品でそこそこ価格差があります。こちらの商品、現段階ではTOKYO FLIP-FLOPのメンバーが家内制手工業で作っているそうなので、組み立て済みの方に注文が偏ると今の体制では生産しきれないとのことで、キットの方を優先させたいという意味で、現時点ではこの価格としているそうです。

 

 レジプラの物理ボタンとiPhoneとの間の接続はBluetooth LEなので(koshianという技適認証済みモジュールを使っているそうです)、iPhoneBluetooth機能を有効にし、基板に書かれた認証用のシリアルをアプリに入力すれば、アプリ画面上の接続のボタンを押すだけで連携完了します。動作確認用LEDなどが特にないので、繋がってみるまで本当に動いているのかどきどきしましたが、大丈夫、ちゃんと動きました。

 以下が、僕が組み立てて起動してみたときの動画です。

 

 アプリはまだまだ今後も拡張されていきそうですが、もうAppStoreには登録されていて、ダウンロードして使うことができます。

 画面上に3つまでの商品を登録し、それぞれが物理ボタンに対応します。画面をフリックして切り替えれば、また別の3種類の商品を登録可能です。何時に何が何個売れたかの情報が残せるので、それを元に売り方を検討したりできます。Twitter連携の機能もあるようなので、今後のバージョンアップで簡単に在庫状況をつぶやけたりするようになるかもしれませんね。

 

 別に物理ボタンではなく、iPhoneのタッチパネルをタップするのでもいいじゃないか?という意見もあるでしょうが、ある商品を3個分タップしてOKボタンを押すみたいな操作をするとき、タッチパネルと物理ボタンの場合では、物理ボタンの方が操作におけるストレスが少ないように感じます。なぜなら、タッチパネルはどこでも押せるせいで、むしろどこを押さなければいけないかというところに気を遣ったり、クリック感がないため、操作の確実性を確認するのに気を遣ったりするからです。これらは少しの差異ですが、積もり積もるとかなり違う、というような印象です。

 

 さて、ここからが本題です。このレジプラの見た目の特徴的なところは、外観に桐箱を使っているところでしょう。桐箱が採用されたのは、金型を起こしたり、3Dプリンタで出力するのと比べ、安価に安定した品質のものが手に入り、加工がしやすいからということでの選択だと思います。

 ただし、これは結構ナイスな選択なのではないかと思っていて、なぜかというと、非常にシンプルな木箱なので、僕もこの箱をさらに気軽に加工してみようという気持ちになるからです。ということで、色を塗ったり金具をつけたりしてデコプラ(レジプラをデコることを意味する造語)をしてみました。

 

 そして、今のところの外観がこんな感じです。

 

 家に和のテイストのアクリルガッシュがあったので、ボタンの白と対比させるようにおめでたい赤で塗装し、ロゴや文字の部分は金色で塗りました(木の素材感を残したかったので下塗りはしていません)。側面は上面を目立たせるために黒で落ち着いた感じにしています。そして、四隅に真鍮の金具をつけてみました。ぶっちゃけたところ、この金具を付けることで持ち運び時に周囲の何かを傷つける可能性が出てきてしまい、実用性は皆無なのですが、東急ハンズでこの金具を見つけたときに、うわ!これをつけたらカッコいいのでは??って思ったので、つけてしまいました。

 

 レジプラ自体を所有している人が今世界に何十人もいないので、このようにデコプラしているのは現時点では世界でまだ僕だけなのではないでしょうか??

 

 即売会でレジとして使うという本来の使い方をまだ一度もしていないわけですが、今ちょっとなんとなく漫画を描いているので、それで本を作ろうと思っていて、8月開催のコミティアにとりあえず申し込むだけ申し込んでいるので、無事出られるようなら、そこがまずこのレジプラの出番です。

 7月中にアプリのアップデートを予定しているそうなので、より便利に使えたらいいなあと思っています。ということで、みなさんもレジプラを手にすることがあれば、デコってみましょう。

 Let's デコプラ!!

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 あと、以下の本にレジプラを作ろうと思ってから、実現方法の検討やプロトタイピング、量産に至るまでの過程が書いてあって面白かったのでオススメです。

booth.pm

本から読み取れるものの話

 世の中には色んな本があります。そして、世の中には色んな人がいます。しかし、人が本から読み取れることは基本的に2種類だけだと思います。それは「わかっていること」と「わかりかけていること」です。もし、例外的なものを1つ付け加えるとしたら、「この本に書いてあることがわからない」ということがわかるということもあるでしょう。


 もう少し、具体的に言うと、充分な前提知識を持たないで本を読むと最後の状態になります。つまり、「この本に書いてあることはわからない」と思って読書が終了してしまいます。例えば、一般的な小学生が大学レベルの数学の本を読めばそうなると思います。あるいは、自分が行ったことのない外国の話なんかもそうでしょう。現地の常識がわからなければ、わからないことが多いはずです。自分の持っている常識を前提に無理矢理読むことは可能かもしれませんが、おそらく書かれていることを誤解してしまいます。

 この誤解は、多かれ少なかれ、どんな読書にもつきまといます。なぜなら、本の作者が読者が持っていると想定している前提情報を、読者の側が常に全て持ち合わせているとは限らないからです。それは作者の書き方が拙いからとも限りません。なぜなら、昔に書かれた本は昔の常識に沿って昔の人々に向けて書かれているので、今の常識しか持ち合わせない人にはわからないかもしれません。あるいは、ある専門的な教育を受けている人を対象に書かれた本は、そうでない人をそもそも対象としていないこともあります。

 

 面白い本というのは、概ね「わかりかけていること」について書かれている本だと思います。なぜならば「わかっていること」しか書かれていなければ、読むのは既に知っていることの確認作業でしかありません。そして、「わからないこと」について書かれている本の感想は常に「わからなかった」でしかないからです。

 

 つまり、本が面白いか面白くないかは、読者が既に何を知っているかに依存します。ある分野についてあまり知識を持ち合わせていない人のために書かれた本は、想定読者である人が読むには「わかりかけていること」について書かれた本ですが、その分野について詳しい人が読むと「既にわかっていること」に関する本なので、退屈と感じるかもしれません。

 また、ある分野について充分な専門知識がある人にしてみればとても面白い本も、その専門知識を持ち合わせていない人にしてみれば、わけのわからないことの書かれたわけのわからない本でしかなかったりするのです。

 

 このように、読書には段階があります。自分にとって「わかりかけていること」について書かれた本を、段階的に順序よく読んでいけば、そのうち最初の段階では「わからないこと」について書かれていたはずの本が「わかりかけていること」について書かれた本に変化するかもしれません。問題は、常にそのような順序で本が読めるかどうかが分からないということです。現実はドラクエのようにレベルデザインがされていないので、お城を出て最初に出会うのが弱いスライムとは限りません。いきなり難しい本を読んでしまい、わけがわからないと思って、その分野について段階を経ることを諦めてしまうかもしれません。

 このようなレベルデザインがきちんと成されているのが教育の分野です。教科書は順序良く読んでいきさえすれば、着実に分かるようになっているはずです。問題は、最初の方のレベルをちゃんと理解できるようになっていないのに、次の段階に進んでしまうことです。そうなると、あらゆる教科書は、わけのわからないことの書いてあるわけのわからない本となってしまうでしょう。

 その理解度を確かめるのがテストであるはずですが、現実問題としては、完璧に理解できていないからといって落第とはなりません。例えば6割分かれば進級できたとすると、4割はわかっていないまま次の段階に進んでしまいます。次の段階では前段階がわかっていることを前提とされてしまうため、段階が進めば進むほどに、分からないことが増えてしまう人も多いと思います。そして、どこかの段階で挫折してしまうのだと思います。

 僕自身、大学はうっかり受かってしまいましたが、高校までに教えられる段階を完璧に習得していたとは言い難く、さらに、大学の1回生あたりに教えられる基礎の基礎である数学などを確実に習得して次の段階に行けたかというと胸を張れない感じで、なんとか単位はとったものの、学年が進むにつれて、それが理解できていることを前提の講義についていくのがやっとでした。さらにそこからは、研究の分野に入っていきます。

 そこで読む論文には、色んな数式や理論や物理法則に関する前提知識が当たり前のように要求され、さらにそれらは基本的に英語で書かれています。そして、それを読んで理解できなければ、自分が論文を書くという段階に進むことができません。その段階に到達すると、わかりやすい教科書というものも少なくなってきます。専門分野は専門性が高まるほどに、そこにいる人の数が少なくなってくるので、誰でも理解できるような「わかること」だけで本を書く必要性が薄まってきますし、需要がなければ本は出しづらくなってしまうからです。とはいえ、そこは教育なので、ゼロではないため大変助かります。そういうのを読んで、「わかること」を増やし、「わかりかけていること」を「わかること」に変えていくことで、前に進んで行くのです。

 

 このあたりの状況でしんどくて転げまわっているときに、思い当たったのは「わからないことがわかった」ということにも意味があるということです。いくつかの教科に関しては、分からないなりにテストを合格点のすれすれを低空飛行して先に進んできましたが、それが何について書かれていたことで、自分はそこがイマイチよくわからなかったという事実を記憶しています。そして、いざ、それらの知識が当たり前に必要とされることになったとき、記憶を遡って自分はあそこがわかっていなかったので、読み直すべきだということに思い至ることができます。幸い教科書はまだ持っていたのです。

 そのような感じに、一回段階を降りて、勉強をしなおして、また戻ってくるというようなこともします。しばらく先に進んでいたことが幸いして、今度はわかっていることが以前よりも増えていますから、前はわからなかったことが今度はわかるということもあります。そういうことを繰り返して何とか今に至っているわけです。重要なのはわからなくても一回は読んで道しるべは作ったということ、そして、どうしても先に進めなくなったときは、段階を下がってまた読み直したということです。

 

 教育の分野は、分かりやすいので例に挙げてみましたが、読書は他の分野でも全部そうだと思います。わかる本もあればわからない本もあります。自分にとってちょうどいい本を読めれば楽しいですが、それがどれであるかは人それぞれなので適切に辿り着くのが難しいことです。そしてまた、わからない本だといっても読む意味がないわけでもありません。

 事実、僕が子供の頃に読んだ本は、当時の自分にはわからなかった感情や難しいことが書かれていたことも多いですが、わからないものはわからないままで、わかるところだけ数珠つなぎにして読んでいました。大人になってから読み直すと、ああ、こういうことだったのかと思い、ようやくある程度読めるようになったと思い、嬉しくなってしまいました。それらの本を読み直すに至ったのは、昔読んでいたからなので、分からないなりに読んでいてよかったなあと思います。あと、わからなかったときの自分と、わかるようになったときの自分の変化を感じれるのもよかったので、子供のときにわからない本を色々読んでおくみたいな経験はすごく大事だったと今になって思います。

 

 以前、本を読むことはワインを作ることに似てるということを思ったんですが、どういう喩え話かというと、仕込んでから発酵するのに時間がかかるということです。ブドウを摘むのが読書だとすると、それが飲めるワインになるためには手間と時間がかかります。つまり、本で読んだことの意味が、自分の中で実感を伴ってわかるのは、読んだ瞬間ではなく、その後の適切なタイミングになって、ようやくわかるということも多いということです。なので、そのときに良い本だと思わなくても、そのうちにあれはやっぱり良い本だったと思い返すことがあります。そしてそれは、読み終わった瞬間に適切な感想が書けないことが多いということでもあります。

 そんなことを言いながら「お前はよく読み終わった瞬間に感想を書いているじゃないか」と言われてしまうかもしれませんが、その多くは既に用意してあるやつだからできるだけで、ワインの喩えでいうなら、読んだ本に応じた既に作って発酵の進んでいるワインを出しているに過ぎないと思っています。たまたま自分の人生の進み具合などに応じて作っているワインがその本の内容に合致して、同じものを見て取ったということを根拠にそのタイミングで表に出しているだけで、その本を読んだ結果、自分が受けた影響が実感を伴ってわかるようになるのは、もう少し人生が進んだ先かもしれません。

 色んな本を読みつつ、そこに存在する「わかるまでのタイムラグ」によって、実は前に読んだ本によってわかったと思ったことの感想を、次の本を読んだときに似たものを感じて言っているのかもしれないと思います。新しい本を読んで、昔読んだ本の話を引き合いにだしてしまうということを僕がやってしまうことが多いのは、そういうことなのかなと思っています。

 

(関連:何を見てもデビルマンの話をするおじさんの話)

mgkkk.hatenablog.com

 

 このように、全く新しいことが書かれた本の内容を、自分がどのように受け止めていいかは、しばらく経たないと分からなかったりします。なぜなら、その本を受け止め方を、読んだ時点では自分がまだ知らないからです。なので、新しいことの書かれた本を、「この本は面白い」と説明することは自分にとってはなかなか大変なことで、自分の考え方が、それによって変わりきったあたりで、ようやく口にできるものだと思います。

 一方、その本がつまらないということを表明するのは簡単です。全く新しいつまらなさというものもあるかもしれませんが、ほとんどの場合、つまらなさは定型的なもの、つまり、すでに自分の中にある分類に当てはめていれば説明できてしまうからです。ただし、そのつまらなさは、面白さを「まだわからない」からこそ、そう認識しているだけなのかもしれません。

 

 面白さを表明するときに、自分の中の定型的な面白い分類に合致するから面白いということもできますが、それは「わかっていること」に対しての話なので、「わかりかけていること」に適用することは難しいと思います。僕が「わかりかけていること」が「わかっていること」に変化する過程を追い求めて読書をしている以上、新しい面白さを感じたときには自分の中に新しい分類を作らなければなりません。それは相応の時間や、読んだ本について考えることが必要です。

 読んだものの、自分の中でまだ上手く説明できないことを頭の中の「つまらない箱」に分類することは簡単で、手間を省いて、それをつまんなかったと言って終わりにしてもいいのかもしれません。しかし、自分がまだ面白さをわかる段階に進んでないだけなんじゃないか?ということを僕は常に念頭に置いています。なぜなら、今まで読んできた本の中に、最初読んだときはピンとこなかった本が、そののちわかったような気になってすごく大切な本に変化したという経験が沢山あるからです。

 

 本を読んで「つまらない」と思っても「面白い」と思っても、それは読者の自由だと思いますが、頭の中に既にある「つまらない」と「面白い」の分類に、ヒヨコの雄雌鑑定みたいに放り込んでいくだけなら、いずれ飽きてしまうんじゃないかと思います。なぜなら、何度繰り返しても毎回変わらない同じ作業になってしまうからです。

 読んだ本を放り込むための新しい箱を頭の中に作って広げていくためには、既にある定型的な処理を重ねるのではなく、自分自身が変わっていくことが必要不可欠なのではないかと思っています。そういうことを思いながら、今日も「わかる本」「わかりかけている本」「よくわからない本」を分け隔てなく読んでいます。