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続・漫画における天狗の抜け穴の話

 以前、ドラゴンボールの作劇のテンポの良さの影には「天狗の抜け穴」的なところがあると思うという話を書きました。

 

mgkkk.hatenablog.com


 「天狗の抜け穴」というのは僕の中だけの概念で、キテレツ大百科に出てきた発明品の名称を拝借しています。この発明品の説明として「紙の上に書かれたA地点とB地点を繋ぐ最短の方法は、その間を直線で繋ぐことと思わせて、実は紙を折り曲げてくっつけてしまうことだ」という考え方が登場します。

 つまり、物語における天狗の抜け穴とは、このようにA地点(原因)とB地点(結果)を、間をすっとばして直接繋げてしまう概念のことです。これを導入することによって、過程を省略して結果だけ得ることができるという便利な技法です。

 

 最近、漫画を描こうとするようになって、物語をつくる上でこの天狗の抜け穴という概念についてまた考えるようになったので、その話を書きます。

 

 おさらいですが、例えば、ドラゴンボールにおける「瞬間移動」の導入は、物語をテンポよく進めるための大発明だと思います。なぜならば宇宙や、あの世などに広がった物語の舞台を、「時間をかけて移動する」という過程を省略して、いきなり目的地に到達できるようになったからです。

 僕自身、漫画を描いてみようとしたことで、このすごさがより実感できるようになりました。なぜならば場面転換の描写は意外と手間がかかり、面倒くさいのです。

 移動するのには時間もかかりますし、手段も必要です。そしてわざわざ移動するための理由も必要しょう。加えて結構気になるのが、なんでこの話を移動中にせずに、移動完了して場面が変わってからするんだろう?と思ったりしてしまうということです。これらを妥当性あるように描こうとすると、すぐに何ページも費やしてしまいがちです。しかし瞬間移動なら、ちょっといってちょっと話して帰ってくるなんてことも可能ですし、時間が経っていませんから、会話も途切れずに継続することができます。これはめちゃくちゃ便利で欲しいギミックだと思いました(世界観が合わないと導入は無理)。

 ドラゴンボールの連載は他の連載よりもページ数が少なかったと思うのですが、にもかかわらず1話1話が物足りないということはなかったという実感があります。それは、無駄な描写を可能な限り減らし、物語の進行上必要不可欠な「実」の部分だけを描こうとするような姿勢があったからではないでしょうか?

 

 漫画の中にはこのような天狗の抜け穴(本来必要なはずの過程を省略して結果だけを得ることができるギミック)が存在することが多いです。例えば、ジョジョの奇妙な冒険における「スタンド能力」もその一種だと思います。

 ジョジョシリーズは、絵作りにこだわっている漫画だと僕は思っていて、作中にはタイトル通りの奇妙なシーンが沢山でてきます。普通に生活している上では見ることがないような奇妙な光景を、物語の中で描写するにはそうなる理由が必要です。それをこの物語の中では「そういうスタンド能力である」とすることで解決することができるようになりました。これと同じことを科学的に整合性のある理屈をつけ、そうなるべき理由から筋道立てて考えるやり方で実現するのは骨でしょうし、表現の幅も狭まるはずです。

 これは、ドラえもんの「ひみつ道具」に置き換えてもいいですし、魁!男塾の「民明書房」でも、HUNTER×HUNTERの「念能力」でもいいと思います。物語の中にはよくこのような都合のよいギミックが登場します。それらはなぜそうであるかという説明を代替し、過程を省略して結果を描写してもよいという言い訳を与えてくれます。

 

 ちなみに、全編に渡ってこの天狗の抜け穴を存分に発揮している漫画の代表的例がキン肉マンではないかと思います。作中で移動させたければ地面にいきなり穴が空いて地球の裏側にだって行けます。これはばかばかしい描写と思われるかもしれませんが、今の時代、このような豪胆なことはなかなかできないことです。

 例えば、あなたが物語の展開上、人をひとり地球の裏側に送りたいならどうします?飛行機の描写とかしてしまうのではないでしょうか?空港を描いて乗り込んで、機内で長時間を過ごす描写を入れて、乗り継ぎなんかも描いた方がいいかもしれません。着いた先ではまた移動です。乗り合いバスでやっと到着した勝負のリングに辿り着くのは少なくとも十何時間も経った後です。疲れているし、テンションも下がっているかもしれません。じゃあどうしますか?いきなり穴を開けて一瞬で移動させるしかないじゃないですか。

 

 自分で描いてみようとすれば、起承転結の「承」ばかり続けて描いてしまうことに気づいてしまうんですよ。それにはすごく反省ばかりしています。「承」は主にお話の整合性をとるために働きます。ある描写と別の描写を繋ぐ中間です。その存在自体は重要ですが、「承」ってあまり面白くはないと思うんですよね。であるならば、全体のページ数を考えれば、少々強引に思えてもできるだけ「承」を省略して「転」の描写を厚くとった方がいいはずです。それをどうやって減らせばいいかということに僕にはまだノウハウがなく、この先、身に着けていきたいと思っているんですよ。

 

 ただし、天狗の抜け穴は漫画を描写する上で非常に重要なテクニックだと思いますが、万能ではありません。例えば、推理小説を描く上で守るべきルールと提唱された「ノックスの十戒」には「中国人を登場させてはならない」というものがあります。ここでいう中国人とは、天狗の抜け穴的な役割を担ったものでしょう。謎の中国人のしわざとして論理の隙間を埋められてしまうことは、読者が謎の真相を推理する上で不誠実と考えられるからです。

 筋道立てて理屈を考えることは読者に対して誠実ということかもしれません。しかし、それは場合によっては不必要に冗長でテンポが悪いと感じられてしまう可能性もあります。一長一短あるわけです。

 

 「必要な部分を十分に描写するためにも、不必要な部分をできるだけ省略すること」、それはおそらく短いページで物語を展開させる上でとても大切な技法でしょう。しかしながら同時に、あまりそればかりやり過ぎると筋を追うことに虚しさを感じてしまうかもしれません。安易に使うのもリスクがあります。

 

 さて、料理漫画の「めしにしましょう」でも、回を重ねたことで天狗の抜け穴が登場し始めました。例えば、部屋に何故か存在する「穴の開いた謎の物体」からいきなり食材が出てくるのです。短いページで1話完結かつ、料理の工程を描くことが重要な本作において、これは「材料を入手する」という工程の描写を省くことが出来る強い天狗の抜け穴です。料理漫画を見れば、材料を入手する工程というのは、一般的に重要視されていることも多いはずです。特に変わった食材であればなおのことです。

 めしにしましょうは、そこに思い切った省略を入れることで、集中すべきポイント(料理の詳細な工程)を明確化しているように思います。その割り切りが素晴らしいなと思うのです。

 

 そう考えてみると、実は他の種類の漫画でも大胆に省略できる部分はあるのではないでしょうか?本来必須要件と思われているような要素を大胆に省略することで、節約されたページを別の部分の描写に集中させることができます。

 「哭きの竜」では麻雀漫画に大切思われる闘牌を大胆に省略してみせることで、麻雀卓の上と外に乗った人間の人生を強く描くことができました。何を描くか?ということを考えるには、もしかすると何を描かないかを考える必要があるのかもしれません。

 

 デスゲームものと呼ばれる、多人数が殺し合いをするタイプの漫画も、「何故」を説明する最初の説明が省略され、いきなり殺し合わなければならない描写から始まったりします。

 何故戦わなければならないかという動機を最初に丁寧に積み上げていくことよりも、命をかけて殺し合うという描写がまず大事だという省略の技法でしょう。殺し合わなければならない理由の部分にあるのが天狗の抜け穴です。それは実は最終的に何も説明がなくてもいいのかもしれません。事実、デスゲームに巻き込まれた人々に対する「何故」が、物語の最後の最後にようやく説明されるとき、そこでは実はあまりお話として盛り上がらなかったりすることもしばしばです。

 

 この文章は、今描いているの漫画に対する反省の意味があって、8月のコミティアに出す用の漫画が一応最後まで描けたので、あとは細かな修正をしたり、仕上げをしたりという工程に差し掛かったのですが、今考えればこの描写はいらなかったんじゃないだろうか?これは何を描きたかったお話で、そのためには何を描かなければよかったのか、ページの配分を考えてもっとこの描写を厚くしておけばよかったのでは?という反省会モードが既に始まっています。

 とりあえず印刷〆切のギリギリまで(まだ1週間以上ある)試行錯誤をしてみようと思ったりしている次第です。