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獣性と神性の中間にある人間性について(ズートピアの感想にかえて)

 ディズニーの映画、「ズートピア」が公開になったので観て来たんですが、めっちゃ良かったです。

 

「ズートピア」とは 

 「ズートピア」は、文明を獲得した動物たちが暮らす都市を舞台にした物語です。そこではかつては食べる側だった肉食獣と、食べられる側だった草食獣が、もはやそういった関係性を遠い過去のものとし、同じ言葉を喋って同じ社会の中で暮らしています。

 この動物たちの楽園において、平等であるということを実現することは人間社会以上にとても難しい問題です。なぜならば、動物たちは体の大きさや形や性質がまちまちだからです。体が異なれば最適解も異なります。体の大きな動物用に作られた大きな扉を、体の小さな動物は開けられません。体の小さな動物用に作られたものを、体の大きな動物が使うことは難しいことです。それらは合理性から区別されることになりますが、では、差別と区別の違いはどこにあるでしょう?世の中で最も解決が難しい差別は、ある種の合理的を伴っているものだと思います。

 一見合理的な理由が見つけられることであるからこそ、ある人と別の人の持つ権利に差があっても「仕方ない」とされてしまったりします。しかし、それらは本当に仕方ないことなのでしょうか?

 

 さて、ズートピアについての直接的な感想は、公開間もないこともあり、また後日気が向いたらということにします。そして今日は、それに微妙に関連しているようなしていないような感じのことについて思っていることについて書こうと思います。

 

 ズートピアにおいて動物たちは、野生を捨て、人間性を獲得して社会を構築しました。ではそこに生まれた「人間性」とはつまり何なのでしょうか?かつてと今では何が変わったというのでしょうか?

 

amazarashiの「多数決」とジョージ秋山の「アシュラ


amazarashi 『多数決』Music Video

 最近買った、amazarashiのアルバムに収録されている「多数決」という曲に、以下のような歌詞があります。

その実、知恵のある振りをした獣だから

空腹もこれ以上無い動機になりえた 

  この部分の歌詞を聞いたときに、この曲の主題とは別に連想ゲームで思い出した漫画がありました。それはジョージ秋山の「アシュラ」です。「アシュラ」は、人間が獣に立ち戻り跋扈する悲惨な世の中において、人間であろうとすることの苦しみを描いた漫画だと思います。つまり、「人間性とは何か?」ということを問うているのです。

 「アシュラ」において、人間がなぜ獣に立ち戻ってしまうかというと、それは生きるために必要だからです。時は平安時代の末期、飢饉によって食べ物がない時代は人間から人間性を奪いました。この漫画に登場する多くの人は、生きる為に他人の肉を食べるという選択をしてしまいます。

 アシュラは、そんな世の中で、人肉を食べて生き延びたある女性の子供です。そして、その女性は人を殺し、あるいは腐肉を喰らってまで生んだ実の子供であるアシュラすら、火にくべて食べようとしてしまいます。なぜならば空腹であるからです。食べなければ生きていけないからです。実の親に食べられそうになったアシュラは、全身を大やけどしながら、人間社会の外で、人の情を知らずに育つ子供です。アシュラは生きるために人を殺し、生きるためにその肉を喰らうのです。

  人が獣として生きる世の中で、人間であろうすることは苦痛を伴います。なぜならば、心は人間であろうとするのに、その身は獣に落とさざるを得ないからです。矛盾を抱えてしまうことは、人を苦しめます。

 「生まれてこない方が良かった」、アシュラはそう嘆きます。人間であれと諭す坊主に、アシュラは自分は獣であり、みんなも獣であると返します。「おれが生きていくのに 人間らしさがなんの役にたつんだ」と主張します。坊主は、誰しもが獣の本性を持つことを認めながらも、人間らしく生きることが必要だと説きます。そして、人間はどんなに人間らしくあろうとしても、獣の本性をさらしてしまうことがあるというのです。それが、人間のあわれさです。坊主は、獣と化した両親を、アシュラに何もしてくれなかったどころか、殺して喰おうとした両親をゆるしてやれと言います。そして、アシュラにその言葉は届かないのでした。まだ。

 

人間性について

 僕が思うに、人間の感性の中には獣性と神性と分類できるものがあり、人間性はその中間にあるんじゃないかと思います(ここで出て来る言葉は全部、僕が便宜上、適当に定めた言葉です)。

 獣性とは、言うなれば個人主義です。自分の生存のために、他人をないがしろにするということです。神性とは、全体主義です。個人の利益を追求するのではなく、全体として上手く回るように考える感性です。一見、神性であれば良さそうに思いますが、より強い暴力を発揮し得るのは神性の方だと思います。なぜならば、獣性の暴力は自身の生存のために発揮される個人レベルのものですが、神性の暴力は全体のために不利益な「それぞれの個人の持つ獣性」を許容せず、弾圧する方向に作用し得るからです。

 人間が自分の生存を望む生物である以上、獣性を切り離すことはできません。切り離せないものを弾圧する暴力は、抵抗に応じてより強く、そして広範囲にばらまかれる可能性があるでしょう。それは、場合によっては社会構築の障害にすら成り得ます。かといって獣性しかなければ、社会を作ることができません。なので、獣から人間となり、社会を構築する根源となる「人間性」は、その間にある「いい感じの部分」のことではないかと思っています。

 

 自分の利益を追求する獣の部分と、全体の利益を考える神の部分のその両方を兼ね備え、バランスをとることが人間性であり、そのバランスは時代や場所や各人によって微妙に異なるものだと思います。それは言うなれば危うく、言うなれば柔軟です。

 

神と獣、理想と現実

 僕の感覚では人間は神には成り得ないですし、獣でなくなることもできないと思います。それは理想主義では生きていくことはできず、どこか現実に足場を置かなければならないというという感じの意味です。

 自分から獣の部分を切り離せると思っている人と、そうでない人がいると思うんですが、僕は切り離せない派で、なぜかというと、金に困ったことがあるからです。その結果、食うものに困ったことがあるからです。食うものに困ったとき、他人に対する攻撃性がある自分の中の獣の部分を痛感しました。近年の自分は割と、全体のことを考えて理想的に行動できているような気もしますが、それは近年は金に困っておらず、その結果、食うものに困っていないからだと思いますし、また困るようになったら、今のような考え方でいることはきっとできないでしょう。きっと自分の食い扶持を稼ぐために、他人をないがしろにし始めると思います。

 「アシュラ」を昔、初めて読んだときに強く心を動かされたのは、自分の中のこういう部分に気づいているからだと思います。人間には豊かさからくる余裕がなければ、きっと獣の本性を隠すことができなくなります。そして、それは同時に、豊かささえ確保できれば、本性が獣であったとしても、人として社会を形作ることができるということでしょう。僕は、それが素晴らしいなと思います。そして、だからこそ、豊かさを失うということに対する不安があります。

 

 その本性が獣であることをやめることができない人間が、豊かさを前提にバランスよく他人と上手くやることを覚えたということが人間性ではないでしょうか?その背後に獣の部分が埋まっていることは、恥ずべきことではないと思っています。それを眠らせておき続けるだけの豊かさを確保し続けなければなりませんが。

 僕がより恐ろしいと感じるのは神の視点に成り代わり、獣の部分をなくそうとすることです。獣の部分は確実にあるのに、ないことにしようとすることは、つまり、獣の部分を出してしまった人を社会から排除するということによってのみ達成されると思うからです。あるいは、獣の部分があるかもしれないことを示唆するだけでもアウトかもしれません。それは実は誰しもが持ち合わせているはずなのに。

 それがより恐ろしいのは、その獣を排除しようとすることに、ある程度の合理性を感じられてしまうからです。合理的なことは肯定される力が強いですが、その結果、本当ならもっとよく考えるべきことが考えられないかもしれません。そして、それは人間が獲得した人間性をむしろ失わせる行為ではないかと思うのです。

 

 amazarashiの「多数決」では、正しさや間違いがその時代時代の人々の多数決で決まってしまうことについて歌われています。それはとても恐ろしく、そして合理的な行為であると思います。