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ピカソの解釈と「ちいかわ」関連

 アフタヌーンの最新号の「ブルーピリオド」で、「ピカソって何がすごいのか?」みたいな話が語られていて、なるほどなと思ったので、それに関連することを書きます。

 

 そこで語られるピカソのすごさとは、「多様な語りに耐えうる存在としてのすごさ」です。つまり、キュビズムに代表されるものの、ピカソは他にも様々な画風の絵を描いており、なおかつ、作品が十数万点もあり、まだ未公開のものすらあります。私生活は派手で、絵にはとてつもない高額がついているために人目を惹きます。つまり、その中から都合が良い要素をピックアップすれば、任意の人物像や美術概念を導き出せるということです。

 そこでは人によって相矛盾するような語られ方がすることもあるかもしれません。しかし、そのどちらかが間違っているというわけでもなく、それぞれがどちらも十分な根拠がある理解としてそれを語ることができる足腰を持っているのがピカソの凄みということです。さらにそれが、20世紀初頭のアートビジネスと上手く合致したことで、化け物じみた力を持つに至ったという理解がされます。

 

 ただ、人が絵に感じる良し悪しは、世間的評価と一致する必要があるものではありません。世界中の他の全ての人が、その絵に興味を持たなくても、たったひとりがその絵を好きであれば、少なくともそのひとりに対しては、その絵は良い絵だと言えると思います。

 しかしながら、その絵の社会的な意味や、金銭的な価値は、社会全体でその絵をどのように受容するかという部分に強く関係しているのではないでしょうか?そしてそれが個々人においては、「語られる」という行為に現れてくるのではないかと思います。

 

 多くの人の口にのぼり、それぞれの視点で解釈できるために議論が巻き起こるということが、人の注目を集める構造を生み出し、それが認識や手法として他のアートに影響を与えることで、社会的立場を獲得していくのだと思います。そして、それを欲しがる人が増えることで、競り合いが発生し、金銭的評価も高まっていくものです。

 

 そして、人に語られるということは、唯一無二の絶対的解釈だけが存在するのではなく、それぞれの人が自分に合わせて語りなおすことができる隙間があることによって加速するのではないでしょうか?

 

 つまり、人によって多面的な理解をされれるものが、社会的に価値を持ちやすいという傾向があるということです。そういうことを考えていて、「ちいかわ」のことを思ったりしました。ちいかわは、ちいさくてなんかかわいい生き物の生活の様子を描いた、Twitterで公開されている漫画です。

 このちいかわは、見た目のかわいさや、かわいい出来事の合間や裏に、不穏な描写があることが話題になっており、そこにはちいさくもなくかわいくもないものが存在するということが示唆されています。

 

 僕のTwitterのタイムラインでは、主に、その不穏さに対する言及が多いのですが、一方で、漫画のTweetそのものには、かわいさに対する言及が多くされています。つまり、同じものを見ても楽しみ方が全然違うようなんですよね。そして、違うということはそれぞれの立場に対する言及も存在し、より多く対象に対する言及が生まれることになります。

 そのかわいさについても、その不穏さについても、ちいかわではそれぞれについて語りたくなるぐらいの丁寧な描写がされているため、多くの人の口にのぼりやすく、インターネットで話題になりやすいのかなと思って、そう考えたときにピカソの話とちょっと似ているなと思ったりしたのでした。

 

 多面的な語りに耐えうる強度をその描写の中に持っているということが、とりわけSNSで作品が話題になる上では必要な条件となっているのかなと思ったりしています。そのどちらか一辺倒の一面的な理解をされるものだってもちろん面白いですが、ただ、持続的な話題にはなりにくいのかなという話です。

 多面性という観点から、バズり続ける漫画を見てみるのもいいかもしれませんね。