漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画における「選択と集中」の描写の話

 仕事をしていると、事業領域の「選択と集中」が大事という話がされることがあり、近年はその「選択と集中」に失敗して経営に影響があるというようなものも目にします。

 

 この「選択と集中」ですが、漫画でも描かれることがあり、その代表的なもののひとつが「GS美神 極楽大作戦!!」です。

 

 GS美神は、悪霊や妖怪が世間一般で認知されており、それを駆除するためのゴーストスイーパー(GS)という職業があるような世界の物語です。主人公は、そんなGSの美神令子、そしてその助手の横島忠夫なのですが、選択と集中の話は、この横島がGSの認定試験を受ける際に登場します。

 ひょんなことから潜入捜査一貫としてGSの試験に参加することになった横島ですが、霊能力的には全くの素人であり、戦う力がありません。そこで依頼者の小竜姫の力を受けた意志を持ったバンダナの力により、潜在的な能力を引き出してもらうことになります。素人のはずの横島は、異常な煩悩による集中力により、霊能力を引き出されますが、それはそれでも試験に参加する高度な能力を持った人々の前では足りないものです。

 そこで、バンダナは一計を案じ「選択と集中」の提案をしました。

 

 つまり、手のひらの大きさに全霊力を集中して作った「サイキックソーサー」による戦いです。劣った力しか持たない横島ですが、全霊力を手のひらに集中させれば、相手の攻撃を防ぐことはできます。そして隙を見てその塊を投げつけることで大ダメージを狙います。このような戦い方を選択し、集中させることで、本来は相手にならないような格上の相手との戦う力を手にすることができるのです。

 しかしながら、それ以外の所に相手の攻撃が当たれば、即死すらありえる状況となります。

 

 ああ、なんという恐ろしいことでしょう。結果的に横島は生き延びることができ、これは選択と集中に成功した例ではあります。でも、危険な話ですよ。それは、選択した部分以外に被弾すれば死ぬリスクを背負ってまですることであったのでしょうか?しかし、それをしなければ、戦うためのスタートラインにすら立てなかったという悲しい話でもあります。弱いからそうしなければならなかったわけです。弱いことは危険で、だからこそ悲しい。

 横島は、このあと段々とそんなことをしなくても戦える男に成長していくことができます。いい加減でちゃらんぽらんな性格のままで(シリアスパートもありますが)、徐々に使える男になり、ついにはなくてはならない男にすらなっていくという姿がとてもいいので、皆さんの中に読んでない人がいたら読みましょうね。

 

 さて、このような「選択と集中」の話は「HUNTER×HUNTER」でも登場します。作中に登場する念能力には「凝」という技術があり、人間が持っているオーラを、例えば目に集中させれば、普段は見ることができないようなものを見ることができたりします。このように、全身を一定で流れるようなオーラを一部に集中させる技術は、念による戦いにおいて必須の技術です。これを推し進め、例えば拳などの一部に完全に集中させ、攻撃に使う技が「硬」です。これは横島のサイキックソーサーと同じ原理で、全身の力を一点に集中させることでとても大きな力を発揮することができます。

 主人公のゴンの必殺技は、この「硬」を使ったジャジャン拳で、その類まれなる才能によるオーラを一点集中させた力は、新米ハンターながら、プロハンターとしての先達を恐怖させるほどの威力を発揮します。

 

 こちらの場合も、集中させているところ以外を狙われると大ダメージがあるリスクの大きな技なんですよね。幻影旅団のフェイタンも「硬」と、それを武器にまとわせる「周」という技を使いますが、その必殺のタイミングで相手からの軽い飛び道具のカウンターで大きなダメージを受けてしまいました。普段は微弱なオーラで守られている肉体を完全に無防備にさせてしまう以上、攻撃を受けてしまうことは即致命傷の危険性があるのです。

 

 念の世界では、常にこのようなリスクをとることができませんから、全身の精孔から一気にオーラを噴出される「練」を維持し続ける「堅」という技術を使い、その中で0か100の「硬」ではなく、攻撃と防御にどれだけの割合で集中させるかを「凝」でコントロールする、攻防力の瞬間的な振り分けが大切であることが説かれます(これを「流」と言います)。

 体の動きだけでなくそれに合わせた念のオーラの動きも適切な割合でコントロールすることが、念の戦いに置いては重要ということですね。大きなリスクを常にとらないで済むためには、その適切な判断が重要です。

 

 さて、「選択と集中」ですが、このように漫画の中では、相対的に弱い力しか持たない者が、格上と戦うためにリスクをとるための手段、あるいは必勝のタイミングで全部の力を一点集中するためのものとして描かれており、どちらにしても危険性を伴うものとして描かれています。しかしながら、仕事の話における「選択と集中」については、その危険性があまり説明されずに語られがちなのではないでしょうか?

 領域を選択し、資源を集中した場所以外にもし何かが来たらどうするのか?それを考えた「流」を行うことの重要性があり、そうでなく「硬」やってしまえば一点の突破力はあるかもしれませんが、一撃死の危険性があります。「サイキックソーサー」や「硬」をやらざるを得ないぐらいに追い詰められており、他に資源を振り分ける体力すらないという悲しい状況もあり得るでしょうが、本当にそこまで追い詰められているのか?ということは考えてみるといいかもしれませんね。

 

 そして、漫画に描かれていることを根拠にして、リアルな仕事のことを語ることは完璧に間違っていると言ってよく、これは僕という狂人の主張です。

漫画のランキングという概念についての雑感

 漫画に順番をつけて発表するみたいなものが世の中には色々あります。このような順番のことを、専門用語でランキングと言います。そのランキングの順位がよいものが注目を集めて世間で売れたりするらしいので、売れるのはよいですしよかったですね。ただ、最近はそういうのはもうあまり売り上げに影響がないみたいな話も聞いたりするので、難しい世界だなあと思います。

 

 さて、漫画をランキングするとはどういうことかというと、漫画を不平等に扱うということだと思います。世の中は平等だ!全てに価値がある!!なんてお題目が掲げられることもありますが、ところが悲しいことに世の中は基本的に不平等で、さらには、わざわざ偏りを作ることこそが人間の営み、みたいなところまであります。

 何かの漫画と別の何かの漫画を比較して、それより上とか下とか不平等な順番をつけていくということをわざわざするわけです。それが沢山の人の分だけ投票されて集まるとよくあるランキングになります。集まる人間の数が沢山になると、その順位には何かしら意味を見いだしやすくなるかもしれません。つまり、そういうことをしているんじゃないかと思うわけです。

 

 でも、そもそも考えてみると、そのような投票行動は、実は購買行動と似ているのではないでしょうか?購買行動でも、無数にある漫画の中から自分の好きなものだけを不平等に選んで買っているからです。一冊を買うということは一票を入れるということと同じと捉えることもできます。漫画を買っているからといってランキングに投票するとは限りませんが、投票する人の多くはさすがに漫画を買っていると思うので、じゃあ、人数の総数を考えるなら、投票をしてランキングを作るよりも、売り上げランキングを見た方がいいという話にはなる気がします。

 なぜなら、それがもっとも広く世間の声を反映した、投票によるランキング行為だと捉えることもできるからです。

 

 しかしながら、世の中には売り上げとは一致しないランキングも溢れていますね?それが意味するのは、売り上げはある種の偏った投票とランキングですが、その偏りはまだまだ生ぬるく、もっともっとよりもっと偏らせたいという欲求が存在するということではないでしょうか?

 

 300万人が好きで買っている漫画と、3000人が好きで買っている漫画があったとします。売上ランキングで言えばどちらが強いかは明らかです。でも、ひとりの人間の中での話になると違います。300万人が好きな漫画の方が3000人が好きな漫画よりもすごいということは個々人にとって別に確実ではありません。なぜなら、人間ひとりひとりの存在にも偏りがあるからです。

 自分の偏りに強く一致する漫画があるならば、それが世間一般では支持されていなくとも、自分の中では一番ということがあり得ます。この場合、売り上げによるランキングは何の参考にもなりません。

 

 でもそんな誰かひとりの中だけのランキングも、他の人にとってみれば同じわけです。僕が好きな漫画のランキングを作ったとしても、それが完全に正しいのは僕の中だけの話で、他の誰かにとっては全く意味のないものかもしれません。そこには何の保証もないわけですよ。

 

 つまり、世の中には人間の数だけランキングを作ることができます。そして、それぞれの人間の中から誰と誰を選んで重ね合わせるかによっても別のランキングを作ることができます。ランキングはそのような組み合わせ爆発した無限の可能性を内包していて、世の中で発表されているものは、実は、それがどの切り口であるかどうかという意味しか持たないのではないでしょうか?

 

 権威のあるランキングがあったとして、それはつまり、まずその選者として誰を選んだかということに権威の裏付けがあるのではないかと思います。平等で同じ権利を持っているはずの世の中の全ての人の中から、どれだけ適切に偏らせた選者を不平等に選ぶかということです。そして、それらの不平等に選ばれた人たちが、さらに不平等に選んだ漫画によってランキングが決まります。

 選者の選出に不満があるなら、そもそもそのランキングは、そのような不満を抱える人にとっては無意味でしょう。そして、一方、別の誰かにとってはすごく意味があるのかもしれません。

 

 世の中にあるランキングは、参加者が多くなればなるほどに売り上げに近似していくと思います。ランキング上位は既に有名なものが選ばれる可能性が高く、何故ならば、選者の中にその漫画を知っている人の割合が大きくなるからです。人は知らないものには投票できません。知らないからです。

 だから、世界中で自分だけがよいと言っている漫画が一位に輝くのは、選者が自分自身しかいないときだけでしょう。そういうものだと思うんですよ。だから、それは別によいとか悪いとかではなくそういうものです。

 

 一方、偏りをもっとさらに偏らせる選び方もあります。それは例えば、複数の選者で結託して組織票をすることや、ひとりで何票も投票することです。これはつまり、自分たちの評価による一票に、他人の評価による一票よりも強い影響力を持たせたいという願望の話です。

 他人の感性を否定し、他人のランキングを否定し、自分たちの中にあるそれで塗りつぶすことによって、自分たちと同じ形をしたランキングが生まれます。

 

 でもそれって、結局は世界を狭くしているだけなのかもしれません。

 

 自分の内面が、自分の外にある何かを塗りつぶしたとき、そこには自分しかいないことになるからです。他人が自分とは違う感性を持つということが苦しいなら、それによって楽になるのかもしれませんが、逆に他の人たちにとっては息苦しくなるかもしれません。だから、そこは自分にとっては意味があっても、他人のとっては無意味の広がりでしかないかもしれないんですよね。

 そうなれば、そのランキング自体からそもそも外部に発信できる意味が減っていくということです。

 

 自分たちだけの偏りが色濃く反映されたランキングは、「あなた」にとっては重要なランキングかもしれません。でも、他人が「あなた」に強い興味がなければ、それはやっぱり他人にとっては無意味な情報の羅列に過ぎないと思うんですよ。それが続くのならば、きっと誰もそんなランキングは見なくなってしまうでしょう。何も得られるものがないからです。

 宇宙のずっとずっと遠くにあるアルファケンタウリの明日の天候に興味がありますか?普通はないと思います。なぜなら、それがどうであったところで自分には関係ないからです。自分が知らない誰かが興味を持っていることも、そうなってしまうかもしれません。どこの誰とも知らない誰かの中だけのランキングが、仮に世の中に出てきたところで、実際はきっとどうでもいい話なんですよ。

 

 まとめですが、ランキングという概念は、場所に無理矢理作られた偏りであって、その切り口は無数にあります。上手く切り口を選べば、無数の選択肢の前でまごまごするよりも、分かりやすく世の中を捉えることができて便利でしょう。

 でも、それは唯一無二の権威みたいなものではなくて、無数の中からたまたま選ばれた偏りのひとつでしかないと思うんですよね。だから、そんなものに囚われても仕方ないじゃないかというような感覚があります。

 

 なので、何かのランキングが発表されたとして、こんなランキングはおかしいと言う必要もないんじゃないかと思ったりしますし、そのランキングの切り口が自分に合わないと思うなら、自分の切り口を提示すればいいですし、そのランキングが多くの人に合わないものになるなら、人はその切り口を参考にしなくなっていくと思うので、そんな感じの諸行無常って感じがします。

 

 いや違うか、みんなそういうのにかこつけて、自分が好きな贔屓したい漫画が世の中でもっと受けてくれ!!って思っていたりするんですよね?きっとそうでしょ?僕は、それは、めちゃくちゃ分かりますね。この前もお友達と、どうすればこのよい漫画が世間でめちゃくちゃ受けてくれるのか?というのを一読者でしかないのに、延々話したりをしました。

 

 さて、最後にそのとき結論した、僕が好きな漫画が世の中にめちゃくちゃ知られて、めちゃくちゃ受ける方法についてのランキング第1位を発表します。

 

 「ジャスティンビーバーに期待」

 

 以上です。参考にならないでしょうね。

「ちひろさん」と1日が24時間ではない時計関連

 安田弘之の「ちひろさん」は、前作の「ちひろ」を含めてすごく好きな漫画で、前にも感想を書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ちひろさんは、ちひろと名乗る元風俗嬢のお話です。ちひろさんは、ある日ある街にやってきて、お弁当屋さんで働きながら様々な人たちと出会い、生きる様子の様々を毎月見せてくれていました。

 そして今月出た第9巻をもって、ちひろさんはまたどこかに行ってしまいました。でも、それは悲しい別れではないわけですよ。ここにちひろさんがいたということが残っていますし、そして、ちひろさんがここを捨てたというわけではないことを感じるからです。「ちひろさん」の連載が始まったとき、ああ、この人は「ちひろ」の完結からも生きていたんだなと思ったことがあり、今回も、ああ、またどこかでこの人は生きているんだろうなと思っているところです。

 ここからは、前に書いた感想文の繰り返しになる部分もありますが、今の気持ちを書いてみようと思います。

 

 さて、第一部完という感じになったところで、ちひろさんという漫画がどう良かったのかという話なんですが、ちひろさんは色んな生き方を見せてくれるんですけど、それが必ずしも「べからず」ではないというところがあると思うんですよね。

 

 世の中にあるノウハウの共有やアドバイスみたいなものは、「べからず集」になってしまいがちです。あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、人の選択を縛り、歩むべき道を限定することが指南法としての有効性が高いのか、そういう情報ばかりを目にしてしまいます。

 皆さんも覚えがあるんじゃないでしょうか?新しい何かに飛び込んだとき、してはいけないことばかり教えられるという経験が。あるいは、それ裏返してこれをしなければならないと一本の正解の道筋しか教えてもらえないこともあります。

 もちろん、「やってはいけないこと」の共有は有用なことです。やってはいけないことをやってしまうと、とんでもない不幸な結果を招くかもしれないからです。ガソリンスタンドで給油しながら、煙草を吸ってはいけませんよね?世の中には無数のやってはいけないことがあり、それをノウハウとして共有することで、人が安全に生きられているというようなこともあります。

 

 でも、それだけだと世の中は窮屈かもしれません。自分が歩むべきとされる道以外には地雷が埋め込まれているようなものだからです。地雷を避けて歩く道筋は、本当に自分の人生と言っていいのでしょうか?あるいは、してはいけないことで、周囲を埋め尽くされた結果、一歩も動けなくなってしまう人だっているかもしれません。

 

 一方、ちひろさんには「してもいいんだよ」ということが沢山描かれています。沢山のやってはいけないことの中で押しつぶされそうになってしまっている人に、他の選択肢を与えてくれます。「そうしなければならない」と言われているわけではなく、「そうしてはいけない」と言われているわけでもなく、「そうしたっていいんだ」という姿を見せて貰えることが、ホッとするわけですよ。

 消えたように思えていた選択肢が、また目の前に現れるように思えるからです。

 

 話は飛ぶんですが、NHKでやっていた「漫勉」という番組が好きで、これは漫画家が漫画を描く様子を記録し、それを本人と浦沢直樹が見ながら話をするという内容なんですが、この番組にも「してもいいんだよ」が詰まっていたのがすごく良かったんですよ。

 

 漫画を描くみたいなことも、すぐに「道」になっていまいます。その証拠に、ネットで漫画の描き方の指南情報なんかを探してみると、「何かをしてはいけない」という情報が無数に見つかります。「こういう漫画の描き方はよくない」いう、誰が書いているのかも分からない情報と無数に出会ってしまい、目の前の選択肢が減った結果、描いてみるということがすごく厳しい道になってしまうようなところがあると思ってしまったりします。

 でも、漫勉では、実際の漫画家さんたち、それも僕がめちゃくちゃ好きな漫画家さんたちが、ものすごく色々な、限定なんてされないやり方で漫画を描いているんですよ。それを見ると、それまで囚われていたのはいったいなんだったんだ?というような気持ちになりました。

 何か描きたいものがあって、その目的に近づくための方法であるなら、そこには別にやってはいけないやり方なんていうのはなく(さすがに法に触れたりするとアレですが)、どんな手を使ってでも、それが今まで誰もやってないことでも、描きたいものをどうにかして描いたもん勝ちなんだなと思えたのが、すごく良かったです。

 

 ちひろさんを読んでいると、日々の生活の中で同じことが起こったりします。世間や、周囲の人たちに求められることの狭間で、自分が自分の通りに生きているのか、それとも、誰かの思い通りに生きさせられているのか、曖昧になってしまうようなことはあって、あるいは、どこに自分の足を置いていいのかが分からなくなって、一本足で必死で耐えているようなことだってあるわけじゃないですか。どこにも足を降ろす場所を見つけられず、片足がプルプルした状態で耐え続けるのは、とても辛いですよね。

 ちひろさんは、そこで足を降ろしてもいい場所を教えてくれます。こういう在り方だっていいんだと作って貰えた場所に足を降ろせば、一息つくことができます。それだってノーリスクではないかもしれません。そこに足を降ろすことで起こる問題もあるかもしれませんし、いつまでも足を置いておける場所でもなかったりもするかもしれません。

 でも、そのままこけてしまうよりはずっとよいですよ。そして、自分で足を置ける場所を見つけられながら、歩いていくことができればなおよいですよね。

 

 自分が歩くと決めた道を、それが世間で言われる正しい道とは異なったとしても、そこを歩くことにした人がちひろさんじゃないかと思います。そして、その源氏名のもとになった、ちひろと名乗る女性が、ちひろさんに影響を与えたように、ちひろさんの存在も、周囲の人たちに沢山の影響を与えます。

 その中には読者もまたいるのでしょう。

 

 効率のいい生き方や、周りに求められる生き方というのはきっとあるでしょう。それに寄り添うことだってきっと悪いことではないですよ。社会はそういう人たちによって主に動いていて、僕はそこにしがみついておこぼれにあずかっているという自覚もあります。

 でも、僕自身もそうなんじゃないかと思っているように、そういう生き方が自分の本来の性質に合わないことだってあるじゃないですか。放っておくと一日に何十分も狂う時計が、必死で1日に何度も時間を合わせて、みんなと同じ時間を生きようとすることのしんどさもあるわけですよ。

 でも、その時計って本当に狂ってるんでしょうかね?例えば、一日が25時間の時計を持っていれば、毎日1時間狂いますが、本人の中では毎日25時間で正確なわけじゃないですか。それを無理矢理24時間に合わせることが生み出す辛さの話です。

 

 ちひろさんは、世の中で標準とされているもの以外の沢山の時計を見せてくれます。それは一日が25時間の時計かもしれませんし、ことによると毎日時間のサイクルが変わる時計かもしれません。世の中は基本的に24時間かもしれませんが、別の時計に合わせられることもあることを知ることで救われる人もいるでしょう。

 全ての人に必要なわけではないかもしれません。でも、それが必要な人が絶対にいるわけです。

 

 僕はもう出会ってしまいましたからね。色んな時計があることをもう知っているわけです。どれに合わせたっていいですし、自分にしか合わせなくたっていいと思っています。だから、ちひろさんが目の前にいなくなっても割と平気です。

 ただ、もしいつか帰ってきたときには、「ちひろさん」が始まったときのように、ああこの人は見えない間もどこかで生きていたんだなと思うだろうなと思いました。

「聖闘士星矢」の瞬の性別変更とかポリコレとか多様性とか関連

 Netflix様のマネーで、聖闘士星矢がCGアニメ化されるぞ!!との報せを聞き、聖闘士星矢大好きっ子としては、やったぜ!!という気持ちでいますが、情報を読んでいると、アンドロメダの聖闘士である瞬が、性別を女性に変更されるのだそうです。まだ初報なので、他にも色々あるかもしれません。

 僕はメディアや想定客層が変わるときに、原作から何かしら変更点があること自体にはさほど抵抗がなく、今回のことも、特に抵抗はなく見るのは見ると思います。

 

 今回の件については、ネットで見た脚本家(?)の人の書いていることを読む限り、「戦うのが男だけでいいのか?」という話による変更だという認識です。原作が描かれた30年前はそれでよかったのかもしれないが、現代においてもそれはそのままでいいのか?という話です。

 ちょうど最近も、プリキュアで「男の子だってプリキュアになれる」というお話が話題になっていて(僕は見ていないので、正確ではないかもしれません)、そういう世間の風潮なんだなと思っています。

 

 僕は、このような考えに関しては肯定的で、それは、「自分は立場や属性によって、何らかの役割に合わせた振る舞いをするしかない」ということに対する抵抗感を持っているからです。「○○だからと言って、××でなければいけないということはないんだよ」というのは、個人的にとても助かる発想で、僕は大いに利用しています。

 そもそも「○○だから××でなければならない」ということは、そういう役割を担わせる世相があり、それらはフィクションの中にも反映され、それらに取り巻かれて育つことで、なんとなくそれが当たり前だと思ってしまうことだと思っています。

 当たり前なんだから、そうするだろうし、そうしないことはおかしいとか思ってしまうことは、よいことでしょうか?

 

 20年前とかに笑っていた漫画の内容を、現代に読み直してみて、これは今となっては笑えないなと思えるものがいくつかあったりします。それらは、かつてはそれは笑っていいものという箱に入っていたんですけど、今はそうでもないというか、これを笑うことで、その属性を持つ誰かが傷つく可能性があるのでは?と少しでも思ってしまえば、態度にもその影響が出ます。表に出すことに躊躇してしまいます。

 一方、昔にそれを笑って見ていた自分は間違っていたのか?ということもあるわけです。でも、面白いのは面白かったんだよなというのは、やっぱりあるんですよ。それで、今の感覚に照らせば、それはよくないことだったのかもしれないけれど、でも、やっぱり当時は面白かったんだよなという気持ちもあります。

 良い悪いで言うと、悪いのかもしれません。でも、そうなんですよ。自分には悪い部分があります。

 

 ポリティカリーコレクトネスとか、ダイバーシティとか、そういうのは「豊かな文化」なんだろうなという気持ちがあります。なぜなら、世の中はそれをせず、最大公約数だけに向いていた方が効率がよいからです。「効率を犠牲にしてでも選べる」という豊かさがあると思うわけです。

 入力データのフォーマットが揃っていれば、プログラムで処理するのは比較的簡単です。でも、そのデータがバラバラのフォーマットで送られてきた場合はどうでしょうか?条件分岐や例外処理をその変換のために無数に作らなければなりません。百万人に適用される処理と同じだけ手間がかかるものを、百人のためだけに作らなければならないかもしれないということです。それによって増加し複雑化した処理は、その隙間に不具合も生み出しやすくなるかもしれません。

 

 だから、合わせてくれよ!と思うわけじゃないですか。あなたの抱えるものが、最大公約数から外れていたとして、そのための処理を作る手間が効率が悪いから、それぞれの人が頑張って最大公約数的なものにフォーマットを合わせてくれよ!と思っちゃうわけじゃないですか。でも、人間ひとりひとりの存在はそもそも何かしら多様なものです。だから、それを同じに合わせるためには、その差を埋めるための労力が常に求められるわけです。

 社会の側が省力したいために個人の側に努力を求めるということは、つまり、多様性を許容せずポリティカリーにインコレクトなことだと思います。だから、そこから抜け出るという発想ができるようになるのは、社会の側が豊かになったということなんじゃないかと思うんですよね。社会が豊かになり、複雑になることを許容すれば、個人が楽になるということです。

 ただ、それができるよと思える人は、今既に豊かな人で、自分はまだまだ豊かではないと思う人は、それを許容できないかもしれません。大変だからです。そして、人が豊かであるかどうかは運の要素が強いので、だから豊かでない人が悪いというわけではないと思うんですよ。でも、豊かでありたいよねというような気持はあるわけです。

 

 だって、自分がどんな属性を抱えていたとしても、そのままで気楽に生きたいじゃないですか。

 

 さて、瞬の性別が女性に変わるという話にやっと戻りますが、これはこのような考え方に合っているでしょうか?「このような考え方」とはつまり、「人間ひとりひとりの在り方が、その属性によって最初から規定される必要はない」という考え方です。

 この意味で、アンドロメダ瞬が選ばれたことには引っかかりがあります。瞬は、一見女性と見間違られるような容姿の男です。そして、戦うことを好ましく思っておらず、その感覚は当時の常識に照らして、男でありながら女性的であると言っていいかもしれません(一方、その戦いを好まないメンタルとは裏腹にめちゃくちゃ強い)。肉体の性別は男性でありながら、(当時として)女性的な感覚を持つということ、これは既に多様性なんじゃないかと思うんですよね。「男だからといって、男らしくある必要がない」ということだからです。

 だからこそ、男だけが戦うのは多様ではないということを理由にして瞬を女に変えてしまうのは、既にあった多様性をひとつなくしてしまうことでもあると思っていて、そこに両方はとることができないという引っかかりを感じてしまいます。別に、キグナス氷河やフェニックス一輝を女性にしたっていいわけじゃなないですか。ドラゴン紫龍は、すぐに裸になるので、扱いづらいかもしれませんが。それだって、男は上半身裸になっていいけど、女がなってはめんどくさいのかよ?というような話もあると思います(まあ、実際めんどくさいでしょうが)。

 

 「The Mark of Watzel」という漫画があります。これは難病を患う女の子が、イメージの中で病魔と戦うサイモントン療法に挑戦するという話なのですが、これは多様性の話でもあったと思うんですよ。なぜならば、女性が女性的であるということもまた多様であることを描いているからです。

 女の子は憧れのテレビのヒーロー、ワッツェルに成り代わり、病魔と戦うイメージを育てますが、これらは全て敗北に終わります。それは、彼女が心から戦うことを望んではいないからです。彼女はワッツェルに守ってほしかった。つまり、彼女はお姫様になりたい少女だったのです。

 病魔と戦うイメージを持つという目的のために、彼女は自分の特性とは異なる、ヒーローとなって戦うという役割を背負うことになりました。でも、本当の道は他にもあって、女の子だから(いわゆる)女の子の望むようなことをしたって別にいいんだということを描いていて、それを「どちらかに限定して強いること」こそが、間違いであったということが分かります。

 そういう意味で言えば、「女だって戦っていいはず」ということが、「戦いの中に女がいなければならない」となってしまうのは、場合によってはむしろ窮屈と言えるかもしれません。それが多様性を認めることでもあるとは思いますが、逆に多様性を減じてもいるようにも思うからです。

 

 この辺は、塩梅だと思うんですよ。だから、どこに線を引くかということもまた一意に決まるわけでもないと思います。僕の感覚が正しいわけでもなく、誰の感覚が正しいわけでもなく。

 

 最初に書いたように、僕は別に変更がダメとも思ってはいませんし、そもそも「聖闘士星矢」はアニメから原作への変更点だけでも無数にあって、それを全然許容して生きてきているので、この漫画にはそれぐらいの懐の深さはあるだろうなと思っています。

 僕は「オーロラサンダーアタック」も「氷結リング」も「師の師と言えば師も同然」も、全然許容していますし(全部氷河の話だな…)、「ドクラテス」も「鋼鉄聖闘士」も「アスガルド編」も全然許容しているというか好きですからね。あと、何年か前に3DCGで劇場公開された「レジェンドオブサンクチュアリ」もめちゃくちゃ楽しんで、劇場と配信レンタルで3回は見ているので、それは別にいいんですよ。

 

 なので結局のところ問題なく見ますけど、説明と内容がイマイチかみ合ってないように思ったので、そこが気になるなと思ったので、これはそういう文です。

 とにかく、2019年の夏を待ちます。

物語における犯人の、その後の人生について

 スキマでの「喰いタン」の無料読み放題も終わったところでタイミング悪く「喰いタン」の話なんですが、僕がこの漫画で好きなところのひとつに、犯罪者のその後が描かれているというところがあります。

 その犯罪者とはケーキ屋を営む女性で、殺した相手は好きな男と結婚した若い女性です。でも、犯行動機は嫉妬ではありません。人を守るためです。なぜならその若い女は、男の持病に対してあえて健康に悪い食事を作ることで早死にさせようとしていたからです。ただ、守るためとはいえ、人殺しは人殺し、喰いタン(喰いしん坊の探偵という意味だよ!)こと高野聖也によって真相は解明され、裁かれて刑務所に収監されてしまいます。

 

 この話の面白いところは、その後そのケーキ屋の女性が仮釈放されて、またケーキ屋を再開するところです。しかしながら、殺人事件の犯人であった女性は、世間から簡単には受け入れられません。人殺しが作ったケーキなんて食べたくないと、お店は閑古鳥、店の壁には刃牙の家のようなひどい落書きをされまくってしまいます。

 ケーキ屋の女性を何より悲しませたのは、溺愛している姪っ子までも自分を拒絶したことです。それは、そのケーキ屋の女性がその姪っ子の誕生ケーキを作ることが知れてしまったために、その友達の親たちが拒否感を示したからです。その結果、楽しいはずの誕生会に誰も来てくれなくなってしまったという悲しい事情があるんですよ。

 

 でも、姪っ子も本当は知っています。ケーキ屋のおばさんがとても優しい人であることを。でも、それを簡単には認められないわけですよ。「将太の寿司」の奥万倉さんもそうでした。育ての親に素直に感謝の気持ちを伝えることができませんでした。

 気持ちが一致しているからといって簡単に素直になれるなんて限りません。しかし幸いなことに、その難しいわだかまりを解消できる出来事がありました。それに何が関係しているか分かりますか?将太の寿司では「イカの寿司」でした。では喰いタンではなんでしょうか?

 

 それは「粉塵爆発」です。

 

 未読の方がいる場合、具体的なところは読んで確認してほしいですが、こんなふうに「粉塵爆発によって強くなる人と人との絆」もあるんですね、と思いました。これが漫画の粉塵爆発の中で、僕が最も好きなもののひとつです。

 話が逸れましたが、このケーキ屋の女性は、その後もたびたび登場し、弟子入りする女の子が出てきたり、お店も普通に繁盛するようになって、彼女は完全に社会復帰することに成功しました。作中で犯罪者になった人のその後がここまで描かれるケース、意外とない気がするんですよね。

 

 物語には様々なタイプの犯罪が登場します。特にミステリではそうでしょう。それらの犯罪にとって重要なことは何でしょうか?それはもちろん「トリック」ですね。しかしながら、もうひとつ存在します。それは「動機」です。

 犯罪という結果には、そこに至るまでの動機が存在することが多いはずです。原因があって結果があるなら、動機があって犯罪があります。しかし、本当に犯罪は最終的な結果でしょうか?もしかしたら中間地点の過程でしかない可能性もあります。犯罪に至るほどの動機があった人が、探偵によって暴かれ、捕まり、裁かれたとき、その犯人たちの物語はちゃんと描かれたと言っていいのでしょうか?

 

 犯罪には私利私欲のために行われるものもあれば、やむにやまれぬ理由があるもの、あるいは理不尽に何かを奪われた人々による復讐もあり得ます。その犯行が、探偵によって真相を暴かれてしまったとき、それは犯人たちにとっても納得がいく結末となったのでしょうか?

 犯行の時点で目的は遂げたのかもしれません。探偵に未然に防がれ、犯行を実行できなかったかもしれません。あるいは、動機が復讐であったとき、その喪失が本当にその犯行で埋められたかどうかという問題もあるわけです。

 何かしらの事情により犯罪者となった犯人たちの物語が、ひとりの登場人物として完結を迎えるのなら、刑に服して社会復帰する過程は、実はとても重要な部分なんじゃないでしょうか?そこにはまだ何かを描く余地があったりするんじゃないでしょうか?

 

 日本には多様な漫画が存在しますから、当然ながら、刑に服したあと、娑婆に出てきた前科者を扱う漫画も色々あります。例えば「地雷震」には、世間に居場所がない元犯罪者たちが、互助で暮らす集団が描かれました。彼らと一緒に生きようとした男は、前科者の権利を認めてもらうために選挙にも出ようとします。結果は読んでほしいですが、悲しい話でした。

 「ギャングース」は少年院を出てきた親や社会の庇護のない少年たちの物語です。彼らはもはや世間で言う真っ当に生きるためのルートを得ることができず、他の犯罪者がため込んだお金を横取りすることで、そのお金を使って世間の表を歩けるようになるために奮闘したりします。

 そういえば、まさに犯罪者の更生を手助けする「前科者」という漫画が、このまえ単行本が出ましたね。

 

 何かしらの事情を抱えて罪を犯し、その応報として刑に服し終えたとして、その後に彼らには何かしら納得のいく未来があるのでしょうか?自分が犯した罪に向き合うことはとても辛い話です。

 世の中が罪と罰で釣り合うようにできているのだとしたら、人を殺した罪を抱える人には、幸福になる権利が認められないかもしれません。

 だから、犯罪者は自分が理解できないような人間だった方が楽ですよね?それならば、彼らを社会に復帰する権利を持つべき同輩と思わなくてもいいように感じるからです。そうやって「同じ人間」というくくりの範疇から外に追いやることで、悲しいことに、納得がいってしまったりするかもしれません。

 

 でもあるじゃないですか。「人間」がうっかり「罪を犯してしまった人間」になってしまうことが。でもそこで人生が終われないことだって多いわけです。

 ヤンマガでこの前再開した「マイホームヒーロー」も、娘を守るためとはいえ、人を2人殺しています。それが見つかりそうになると、逃げきってくれ!!みたいな感情が僕に生じるんですが、倫理の話から言えば、自首して償って!!ってなるかもしれませんし難しいです。

 主観をそちらに設定されてしまえば、どんな犯罪者にも理解できる余地が生まれてしまうかもしれません。

 

 沢山の物語には、罪を犯した人たちが沢山登場しますが、その後の彼らがどうなったかについては描かれないことも多いです。

 

 そう思うと、これまでのミステリで読んできた犯人たちが、その後いったいどうなったのかな?と思うような想像力があるわけです。

 裁かれることなく自殺してしまった人もいます。獄中死した人や、脱獄して再び犯罪に手を染める人だっています。死んだと思ったら記憶を失って別人として生きていたなんでのもあります。でも、そんな目立つもの以外の、そのまま刑に服してどうにか社会にまた出てきて、どうにか社会と折り合いをつけて生きている人たちもいるんだろうな?と思うわけです。

 

 「名探偵コナン」の最初で、ジェットコースターで人を殺した女性は、結局懲役何年だったんでしょう?コナンの時空は歪んでいるので、もしかすると、その期間が数字通りでなく実質的にはすごく引き伸ばされているのかもしれません。

 ジェットコースターの上で横に流れた涙が十分渇いたあとに、彼女の心はどのような動きを見せたのか?それは語られないわけです。でも、気にはなるわけですよ。それが目の届くところにはもう出てこないと思うから、なおさらです。

 

 そういうことをぼんやり考えていて、「犯人たちの事件簿」や「犯沢さん」があるのだから、これまで出てきた沢山の犯人たちが罪を償う様子を描いたスピンオフとかも全然イケるんじゃないですか??とかちょっと思ったんですけど、軽く想像しただけで全然盛り上がる話ではないなと思いました。

 

 ないな。

 

 そういえば、「ビースターズ」では、食殺事件(肉食獣が草食獣を食い殺す事件)を独自に追うパンダの医者が、罪を犯したスナギツネの女性の精神を救う話がありました。

 彼女は結局、罪を償うことを選択しますが、彼女がその後どうなったのかを知りたい気持ちが僕にはありますね。読みたいな。

インターネットでの漫画の広まり方、あるいは「将太の寿司」はなぜネットで流行ったか?関連

 「将太の寿司」がネットで無料読み放題になったことから、今まで読んでなかった人が読んで、話題にされている状況について、僕はとてもにっこりしています。なぜなら僕は「将太の寿司」がすごく好きだからです。ただの一読者でしかありませんが、将太の寿司を読む人たちの感想などをわざわざ検索して読みながら、そうだろうそうだろうと、「うむ」と頷いたりしています(なおスキマでの読み放題は今日で終わります)。

 

 それは良かった話なんですけど、今回は、なんでこんなに流行ったのかな?という疑問はあって、例えば、「喰いタン」や「ミスター味っ子」も同時に無料公開されているのに、いや、そちらもそちらで話題になっているとはいえ、「将太の寿司」ほどではないように見えるからです。その違いは何でしょうか?

 

 ここからは僕の考えを書いていきます。

 

 インターネットで話題になりやすいのは、「ツッコミどころ」ではないかということを前々から思っています。それはデータとして残しているわけではないので、僕の印象でしかありませんが、「将太の寿司」が話題になり始めた頃は、そこだけ切り出せば(まあ、切り出さなくてもありますが…)異常に見える描写のキャプチャ画像とともに、こんなにおかしな描写があるというような方面で話題になっていました。

 例えば、笹寿司による嫌がらせの過熱具合や、柏手の安による柏手を打つか打たないかにしか興味が移らなくなっていくところ、審査員たちの顔芸によるリアクション、あとは大年寺三郎太という偉人の行動のようなあたりです。

 

 ツッコミどころを指摘して面白がるということは、つまり「読者側が話題の主役」ということではないかと思います。これは同語反復的なものなのかもしれませんが、インターネットでは、参加する皆が主役のものが盛り上がるような印象があります。何かの作品が話題になるとして、主役は「その作品そのものではなく、それを読んでいる読者であること」が重要なのかもしれません。

 

 自分が主役である話題においては、人は雄弁になるように思います。将太の寿司の中から自分が見つけたツッコミどころを披露するということは、それぞれが自分の話として広げていくために、感染性が強いように思うからです。他の人がやっているのを見て、自分もやってみようとすることが続けば、ひとつの作品そのものや、ひとりの人間の感想などと比較して、より強く繰り返し伝えられ続けるサイクルが生まれると思います。

 

 漫画以外でも基本的にそうだと思います。例えば、Webの記事で強く話題性を獲得するものは、有用で役に立つ情報ではなく、多くの人が自分にも何かツッコミができると感じるものが多いように思います。

 だから、書かれている内容に隙があるようなものや、誰にでも分かりやすい間違いが見つかるものが目立ちやすいですし、例えば、タイトルや本文におもしろい誤字があれば、内容よりも誤字に対するコメントが多くなってしまうこともあります。これは、とにかく何かに一言を言うことが重要視されているからではないかと僕は思っています。

 

 でも、世の中にはツッコミどころがある漫画自体は結構あって、ただ、その全てが流行るわけではありません。仮に一瞬流行ったとしても、すぐに終息してしまうものもあります。でも、将太の寿司は2ヶ月以上流行ってるんですよね。その差は何なのでしょうか?

 

 僕は、将太の寿司に登場する大和寿司の親方という人が好きで、Twitterを検索すると2011年から2018年の9月までは、大和寿司の親方に言及するツイートの大半は僕の発言なのですが、ここしばらくは一日に何人もの人が大和寿司の親方の話をしていることが確認できます。そんなことってある??って話ですよ。

 

 やったー、嬉しいー、みんなもっと大和寿司の親方の話をしてくれー!!!

 

 こんなことになるわけですよ。盛り上がっているわけですよ。なぜでしょうか??

 僕が思うに、ツッコミは面白いかもしれないですけど、瞬間の話だと思うんですよね。伝えるのも瞬間ですし、伝わったものを理解するのも瞬間です。それは喩えれば花火のようなもので、一瞬で飛び散って消えてしまうような儚いものでもあります。

 だから、きっと話題として持続し続けるためには、瞬間では伝わらないものがその背後に控えていなければならないのではないでしょうか?そして、将太の寿司は瞬間瞬間を見れば狂っているような描写もあるんですけど、真っ当に王道として面白い部分があるんですよ。僕はそこがすごく好きなんですよ。

 登場人物たち同士の関係性や、それぞれが抱える想いや、寿司勝負そのものの面白さだってあるわけです。瞬間的に広がったツッコミどころから、その辺に気づき始めた人たちが増えたのが大きかったのではないかと僕は思っています。

 

 僕は、最初にツッコミどころを笑うみたいなのが始まったとき、「それは別に確かにそうかもしれないけれど、それだけじゃないんだ!!それだけじゃないんだよ!!」ってちょっとおかんむりだったようなところもあって、でも、それを言っても仕方ないじゃないですか。何がきっかけでもいいから、より多くの人がその人たちなりに面白く読んだりすればいいわけですよ。

 他人の漫画の読み方に干渉して、自分好みに矯正するなんてのは傲慢な考えじゃないですか。だから黙っていたんですけど、でも、色んな人の感想を読んでいると、だんだん潮目が変わってきたんですよね。

 

 それは、だんだんと最後まで読み切った人たちが沢山出てきたからです。

 笹寿司の笹木は、まあ、嫌なやつなんですけど、最後の最後ですごい良い役回りをするんですよ。佐治と将太の最後の戦いの中で、武者修行の旅でとんでもないすごさを身に着けた佐治に、これは将太は不利かな?って雰囲気が出てきたところで、笹木はぽつりとつぶやくわけです。「あいつは諦めねえよ」と。

 それは、数々の嫌がらせを将太にし続けてきた男の口から出てきた言葉じゃないですか。対決の現場にも行かず、テレビ中継の向こうで、誰に聞かせるわけでもなくポツリと出てきた言葉がそれでしょう。笹木は一番それを知っているわけです。なぜなら、自分がどれだけどれだけ手間暇と金をかけても、何度も何度も潰そうとしても、決して潰れることなくそのたび強くなって負けなかった男が将太だからです。そう、将太は諦めない。それをこの世で一番知っているのが笹木なわけですよ。

 笹木は別にいいやつじゃないですよ。卑怯で卑小で、それゆえの虚勢にまみれた、悲しく愚かな男ですよ。でも、その場その時において、世界で一番将太のしぶとさを知っているのが笹木じゃないですか。その笹木から、その言葉が出るわけですよ。

 

 この物語は、そんな笹木が将太の寿司を食べるところで終わります。数々の人を救ってきた将太の寿司を、笹木は一度も食べたことがなかったわけです。だからこそ、笹木は将太を理解せずに済んだんです。寿司を食べなかったからこそ、笹木は将太に敵対し続けることができました。その寿司を食べたら、もうこの戦いは終わりですよ。でもまあ、これはそういうお話じゃないですか。

 

 この最後の笹木を読み終わったあとになれば、これまでの笹木への見方は大きく変わります。物語は多くの場合、悪役が駆動するものです。なぜなら、悪役がいなければ、何も起こらないから。何も起こらなければドラマは生まれないからです。笹寿司がいなければ、マグロ尽くしは生まれなかったかもしれません。紺屋碧悟が冷蔵庫のコンセントを抜いたりしなければ、腐敗しにくい黄金サバの特性は、知られないまま終わったかもしれないじゃないですか。

 だから、この物語は将太のお話であって、そして、悪役たちの、中でも特に笹木のお話でもあるわけですよ。

 

 そういうところで感情が高まってみれば、「笹寿司がクズ過ぎるwww」みたいなのを見ても、「でも、それだけじゃないんだよ!!」って言いたくなるじゃないですか。僕が最初そうであったように、今回将太の寿司を初めて読んだ人たちが、同様に「それだけじゃないんだよ!!」ってなっていく様子を見ていて、僕は本当に「うむ…」ってにっこりしていたわけなんですよね。

 

 このように、ツッコミという瞬間的なパルスでしかなかった話題としての接続性が、最後まで読んだ人たちの理解のプロセスによって、持続可能な話題に変化していったということがあるのではないかと思います。また、この過程で、色んなネットの有名人や、VTuberなんかも巻き込んでいったのも強かったみたいです。

 

 でもって、結局のところ、最終的には量の勝利みたいなところがあると思うんですよ。

 

 ネットワーク外部性という話をご存知でしょうか?これはサービスの持つ便益性が加入者数に依存するという話で、例えば通信ネットワークの便益が加入者数の二乗に比例するなんて話は「メトカーフの法則」と呼ばれています。

 相互接続のある電話網にたったひとりで加入していも、誰とも電話できないわけですから、便益はゼロです。でも、数が増えれば増えるほど、電話できる相手が増えていくわけですから、その便益は上がっていくわけですよね?ネットのサービスなどでも、加入者数が増えれば増えるほど、自分がコミュニケーションをとりたい相手も同じサービスに加入している確率も上がり、より便利になっていきます。

 これは類似するネットサービスの中では、加入者数が一番多いものがより強くなっていくことを意味しており、一強と沢山の敗者を生み出すような構造の説明として登場します。

 

 そしてこれは人と人との話題に関しても適用できる話です。例えばSNSのタイムラインに将太の寿司の話をする人が増えていけば、ネットワーク外部性の正の効果により、将太の寿司の話をすることの便益が上昇していきます。

 僕がたったひとりで将太の寿司の話をしても意味はなかったのに、たくさんの人たちが同時に言及すればそうなるわけです。その壁を越えるぐらいにまで話題が広がったことが、このブームを下支えしているように思っていて、だから、これは結構たまたまの要素が強い気がするんですよ。

 

 同じぐらいのポテンシャルを秘めていても、便益が十分になるほどに話題にする人が増えなければ、効果を得ることができません。タイミングがずれただけでもダメなわけです。

 なので、今回の将太の寿司は、ツッコミどころが多くある漫画で広がりやすかったとか、とはいえ真っ当に面白い要素が詰まっていて持続的な話題になる漫画であったとか、読み終わるまでの時間をそこそことれるぐらいに冊数が十分多いだとか、様々な要因が考えられるものの、同じ要素を満たした別の漫画があっても、タイミング次第では同じようには流行らないかもしれません。

 その盛り上がり方がたまたまダムが決壊するように壁を越えられて、それによってネットワーク外部性の正の効果が高まった状態になれるかどうかで、持続的に話題にし続けられ、それによってさらにより多くの人を呼び込む状態になれるかという話です。それを全て主導するのは結構難しい話なんじゃないでしょうか。

 

 僕はとりあえず、逐次手持ちの話題を投入して、もっと持続的に盛り上がってくれよな!!みたいなよく分からないところに足場を置いてほんのり煽っていたんですけど、でもまあとにかくここ2ヶ月ぐらいは思う存分、将太の寿司の話をしても褒められることはあっても怒られなかったですし、沢山の人が将太の寿司について色んなことを言っていたのを検索して沢山読めたので、すごくよかったです。

 好きな漫画、昔のも今のも、とにかくめちゃくちゃ流行ってほしい。流行ってほしい!!と僕はすごく思っているわけなんですよ…。なので、すごく楽しかったし、こういう楽しいやつが、もっと色んなところで起こりまくってほしいなと思っています。

 

 あと、これは関連の文です。

mgkkk.hatenablog.com

「サンダーボルト」の完結編がめちゃくちゃ良かった話

 タオルまるめちゃおさんのサンダーボルトの最終巻が、11/25(日)のコミティア126で出ました。気持ちが高まっているうちに書くべきだなと思ったので感想を書きます(ネタバレが含まれてしまうが、それを書かないことには感想を書けないので、どうにかしてサンダーボルトを全部読んでから読んでくれた方がいい…)。

 以下、通販ページですが、全5巻の3巻までしかまだなく購入不可になっていますが一応。

COMIC ZIN 通信販売/商品一覧ページ

 

 この物語は、何がどうなれば終わるのかということについて、全然予想がつかなかったんですけど、終わってみれば、これ以外ないというほどの終わり方をしていて、めちゃくちゃ良かったです。コミティアの会場で読んで泣いてしまいました。

 

 サンダーボルトは、ヒーローになろうとした少女の物語です。過去の戦えなかった自分を後悔し、過去の救えなかった人々を、今度は救うために戦う物語です。金色の髪を携えたマスクに身を包み、両腕には電撃の武器を装着して、みっこちゃんはヒーローになろうとします。

 以下は、前に途中の段階で書いた感想。

mgkkk.hatenablog.com

 

 この物語は勝ち目のない戦いの物語です。どんなに体を鍛えても、どんなに秘密の武器を作っても、ひとりの少女でしかないみっこちゃんの力には限界があります。いや、少女ではなく屈強な男だったとしても、ひとりで出来ることにはきっと限界があるんですよ。世の中は一対多になってしまったとき、ほぼほぼ負けてしまうものだからです。

 そもそも暴力で人を救えることなんて、ごく限られた場合のみです。悪を倒すよりも、傷ついた人に寄り添うことの方が多くの人を救えるかもしれません。

 

 でも、違うでしょう?みっこちゃんの根本は、あの日の出来事です。ダンボールで作った鎧を身にまとい、イナズマ仮面として最強だった小さなみっこちゃんが、友達のピンチに駆けつけることができなかったわけですよ。暴力に怯えて、友達が傷つくのを知りながら、隠れていることしかできなかったわけですよ。

 暴力で人を救えることは少ない。でも、相手が暴力を行使するとき、その場、その時には暴力でしか立ち向かうことができません。あの日の自分を振り切るため、今度は絶対に立ち向かうため、サンダーボルトは悪と戦うわけです。じゃあその悪とは何なのか?サンダーボルトは、何と戦えばいいのか?そして、その結果はきっと敗北になってしまうんじゃないでしょうか?

 

 世の中に正義と悪がいたとしたら、皮肉なことに悪の方が持続的です。持続的な悪が、人を追い詰め疲弊させ、それでも、人と人とがその歯車の中にがっちりと嵌められてしまうからこそ、抜け出すことができません。対する正義は、多くの場合、残念ながら瞬発的です。その瞬発力は、瞬間的になら悪を上回る力を見せることもあります。でも、その悪を倒した後の世の中で、持続的に正義をやっていくことは実は難しい。

 だから、世の中では正義が悪を打ち倒しても、その後に、またじわじわと悪が世の中を蝕んでいきます。繰り返し続く悪にまみれた日常の中を、たまに起こる一瞬の正義のきらめきだけで生きていくことになります。でもそのように生きることは本当に幸せでしょうか?

 

 みっこちゃんは、サンダーボルトは、その一瞬のきらめきのひとつです。そして、それは悪を一瞬倒せるほどにも大きくない、小さな小さなきらめきです。だから勝てっこない戦いなわけです。敗北必至な戦いなわけです。でも、それでも戦うわけでしょう?だって許せないから。そんな悪がはびこる世の中が当たり前であっていいはずがないのだから。

 

 この世にはびこる悪を象徴するような男は、とても正しいことを言います。その正しさが、多くの人を巻き込み、盤石で、損得で考えればそこにすがるしかないような人たちを沢山生み出しています。それがじわりじわりとその身をこそぎ取られるようなものだとしても、目先の損得を放棄できない普通の人々は、その中に、自分の意志とは関係なく絡めとられてしまうのです。

 こんなものは正しくなんてないと思いながらも、そこを抜け出せない人がいる。それは、それでもきっと、そこに留まることが自分にとって最良と思えてしまうからでしょう。一番ましな選択をすることが、自分自身をどぶの底から抜け出させる可能性を放棄させるように働きます。それはとてもとても悲しいことです。

 

 サンダーボルトは、それに抗うイナズマのように戦い、そして、負けてしまいました。いや、もしそこで勝っていたとしても、その後の結果は同じでしょう。サンダーボルトが倒さなければならない悪は、サンダーボルトひとりの力では決して倒すことができません。

 

 これは敗北の物語です。それは最初から分かっていたことかもしれません。世の中は分かりやすい悪党を倒して、平和になるような構造をしていないからです。瞬間最大風速としてしか機能しない正義よりも、地道に時間をかけて世の中に浸透する悪の方が、ある意味真っ当かもしれません。なぜ正義にはそれができないのか?なぜ正義は一瞬にきらめく、イナズマでしかないのか。

 

 この物語が見せてくれるのは、そんな敗北でしかない戦いの中で、それでも生まれてくる持続可能な正義の萌芽です。勝ち目のない戦いかもしれない。でも、決してそれは無駄ではなかったという話です。意味のない戦いではなかったという話です。

 しかしながらそれは、サンダーボルトがようやく対峙した悪の権化のような存在との戦いとは、全く関係のないところから起こったものでした。

 

 それは悪を打ち倒すことそのものではなく、弱き者を守ったことから繋がった先のお話です。サンダーボルトは負けました。サンダーボルトは消えてなくなりました。でも、意味はあったわけです。それがみっこちゃんのあずかり知らぬ場所で起こったことだとしても。

 そして、みっこちゃんにはまだサンダーボルトではない未来が待ち受けています。それは、もしかすると、サンダーボルト以上に困難な道かもしれません。

 

 サンダーボルト、2巻目が出たときに、コミティアでたまたま買ったんですけど(何がきっかけかは忘れました)、ほんとすごい良くて、そして3巻目が思ってもみない話だったので、これは絶対すごいやつだぞ!!と続きを待っていて、最終巻がもうホントホント良かったんですよ。いやあ、ホント良かったなあ。

 この感想も、今の僕の瞬間最大風速でしかないので、もうちょっと何回も読み直して書き直すかもしれません。

 

 とにかく皆、何とかして読んで!!