漫画皇国

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「ちひろさん」と1日が24時間ではない時計関連

 安田弘之の「ちひろさん」は、前作の「ちひろ」を含めてすごく好きな漫画で、前にも感想を書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ちひろさんは、ちひろと名乗る元風俗嬢のお話です。ちひろさんは、ある日ある街にやってきて、お弁当屋さんで働きながら様々な人たちと出会い、生きる様子の様々を毎月見せてくれていました。

 そして今月出た第9巻をもって、ちひろさんはまたどこかに行ってしまいました。でも、それは悲しい別れではないわけですよ。ここにちひろさんがいたということが残っていますし、そして、ちひろさんがここを捨てたというわけではないことを感じるからです。「ちひろさん」の連載が始まったとき、ああ、この人は「ちひろ」の完結からも生きていたんだなと思ったことがあり、今回も、ああ、またどこかでこの人は生きているんだろうなと思っているところです。

 ここからは、前に書いた感想文の繰り返しになる部分もありますが、今の気持ちを書いてみようと思います。

 

 さて、第一部完という感じになったところで、ちひろさんという漫画がどう良かったのかという話なんですが、ちひろさんは色んな生き方を見せてくれるんですけど、それが必ずしも「べからず」ではないというところがあると思うんですよね。

 

 世の中にあるノウハウの共有やアドバイスみたいなものは、「べからず集」になってしまいがちです。あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、人の選択を縛り、歩むべき道を限定することが指南法としての有効性が高いのか、そういう情報ばかりを目にしてしまいます。

 皆さんも覚えがあるんじゃないでしょうか?新しい何かに飛び込んだとき、してはいけないことばかり教えられるという経験が。あるいは、それ裏返してこれをしなければならないと一本の正解の道筋しか教えてもらえないこともあります。

 もちろん、「やってはいけないこと」の共有は有用なことです。やってはいけないことをやってしまうと、とんでもない不幸な結果を招くかもしれないからです。ガソリンスタンドで給油しながら、煙草を吸ってはいけませんよね?世の中には無数のやってはいけないことがあり、それをノウハウとして共有することで、人が安全に生きられているというようなこともあります。

 

 でも、それだけだと世の中は窮屈かもしれません。自分が歩むべきとされる道以外には地雷が埋め込まれているようなものだからです。地雷を避けて歩く道筋は、本当に自分の人生と言っていいのでしょうか?あるいは、してはいけないことで、周囲を埋め尽くされた結果、一歩も動けなくなってしまう人だっているかもしれません。

 

 一方、ちひろさんには「してもいいんだよ」ということが沢山描かれています。沢山のやってはいけないことの中で押しつぶされそうになってしまっている人に、他の選択肢を与えてくれます。「そうしなければならない」と言われているわけではなく、「そうしてはいけない」と言われているわけでもなく、「そうしたっていいんだ」という姿を見せて貰えることが、ホッとするわけですよ。

 消えたように思えていた選択肢が、また目の前に現れるように思えるからです。

 

 話は飛ぶんですが、NHKでやっていた「漫勉」という番組が好きで、これは漫画家が漫画を描く様子を記録し、それを本人と浦沢直樹が見ながら話をするという内容なんですが、この番組にも「してもいいんだよ」が詰まっていたのがすごく良かったんですよ。

 

 漫画を描くみたいなことも、すぐに「道」になっていまいます。その証拠に、ネットで漫画の描き方の指南情報なんかを探してみると、「何かをしてはいけない」という情報が無数に見つかります。「こういう漫画の描き方はよくない」いう、誰が書いているのかも分からない情報と無数に出会ってしまい、目の前の選択肢が減った結果、描いてみるということがすごく厳しい道になってしまうようなところがあると思ってしまったりします。

 でも、漫勉では、実際の漫画家さんたち、それも僕がめちゃくちゃ好きな漫画家さんたちが、ものすごく色々な、限定なんてされないやり方で漫画を描いているんですよ。それを見ると、それまで囚われていたのはいったいなんだったんだ?というような気持ちになりました。

 何か描きたいものがあって、その目的に近づくための方法であるなら、そこには別にやってはいけないやり方なんていうのはなく(さすがに法に触れたりするとアレですが)、どんな手を使ってでも、それが今まで誰もやってないことでも、描きたいものをどうにかして描いたもん勝ちなんだなと思えたのが、すごく良かったです。

 

 ちひろさんを読んでいると、日々の生活の中で同じことが起こったりします。世間や、周囲の人たちに求められることの狭間で、自分が自分の通りに生きているのか、それとも、誰かの思い通りに生きさせられているのか、曖昧になってしまうようなことはあって、あるいは、どこに自分の足を置いていいのかが分からなくなって、一本足で必死で耐えているようなことだってあるわけじゃないですか。どこにも足を降ろす場所を見つけられず、片足がプルプルした状態で耐え続けるのは、とても辛いですよね。

 ちひろさんは、そこで足を降ろしてもいい場所を教えてくれます。こういう在り方だっていいんだと作って貰えた場所に足を降ろせば、一息つくことができます。それだってノーリスクではないかもしれません。そこに足を降ろすことで起こる問題もあるかもしれませんし、いつまでも足を置いておける場所でもなかったりもするかもしれません。

 でも、そのままこけてしまうよりはずっとよいですよ。そして、自分で足を置ける場所を見つけられながら、歩いていくことができればなおよいですよね。

 

 自分が歩くと決めた道を、それが世間で言われる正しい道とは異なったとしても、そこを歩くことにした人がちひろさんじゃないかと思います。そして、その源氏名のもとになった、ちひろと名乗る女性が、ちひろさんに影響を与えたように、ちひろさんの存在も、周囲の人たちに沢山の影響を与えます。

 その中には読者もまたいるのでしょう。

 

 効率のいい生き方や、周りに求められる生き方というのはきっとあるでしょう。それに寄り添うことだってきっと悪いことではないですよ。社会はそういう人たちによって主に動いていて、僕はそこにしがみついておこぼれにあずかっているという自覚もあります。

 でも、僕自身もそうなんじゃないかと思っているように、そういう生き方が自分の本来の性質に合わないことだってあるじゃないですか。放っておくと一日に何十分も狂う時計が、必死で1日に何度も時間を合わせて、みんなと同じ時間を生きようとすることのしんどさもあるわけですよ。

 でも、その時計って本当に狂ってるんでしょうかね?例えば、一日が25時間の時計を持っていれば、毎日1時間狂いますが、本人の中では毎日25時間で正確なわけじゃないですか。それを無理矢理24時間に合わせることが生み出す辛さの話です。

 

 ちひろさんは、世の中で標準とされているもの以外の沢山の時計を見せてくれます。それは一日が25時間の時計かもしれませんし、ことによると毎日時間のサイクルが変わる時計かもしれません。世の中は基本的に24時間かもしれませんが、別の時計に合わせられることもあることを知ることで救われる人もいるでしょう。

 全ての人に必要なわけではないかもしれません。でも、それが必要な人が絶対にいるわけです。

 

 僕はもう出会ってしまいましたからね。色んな時計があることをもう知っているわけです。どれに合わせたっていいですし、自分にしか合わせなくたっていいと思っています。だから、ちひろさんが目の前にいなくなっても割と平気です。

 ただ、もしいつか帰ってきたときには、「ちひろさん」が始まったときのように、ああこの人は見えない間もどこかで生きていたんだなと思うだろうなと思いました。