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天狗についての読書メモ

 次回の文学フリマ東京(11/23)に出展することにしました。前も書いたように妖怪本を出しますが、以下は、そのための「天狗」に関する色々な本を読んだメモ書きです。

 

初期天狗

 天狗という言葉は古くは中国の歴史書「史記」に登場します。天狗とは夜空を駆ける流星、その中でも音が聞こえるものをそう呼ばれたそうです。流れ着く先には狗のような生き物がいると言い伝えられ、地理書である「山海経」にも「天狗」という名前の狗のような生き物が載っています。ちなみに、この、音のある流星というものは実在し、その原因のひとつは流星が大気圏突入したことによる衝撃波音、あるいは流星が発する電磁波音と言われています。同様の報告は「日本書紀」にも登場し、雷鳴のように鳴く天狗(あまつきつね)であると記述されています。これが日本における天狗に関する最初の記載です。ここで、天狗は災厄の前兆などと捉えられていました。

 

日本で天狗

 さて、天狗の名前が再び登場するのは平安時代です。「うつほ物語」では、山中で聞こえた不思議な音を「天狗のしわざか?」と疑うシーンがあり、ここでは音を出す謎の存在としての天狗であるようです。その意味で、初期の天狗の延長ではあるのですが、このあたりから徐々に天狗に新しい役割が生じています。

 その新しい役割とは「仏教にあだなす存在」としての天狗です。それは例えば「今昔物語」における天狗の記述に見て取ることができます。山岳信仰などの修験者たちや、あるいは修行に失敗した僧侶などが天狗となり、説話では調伏される存在などとして描かれはじめます。そして、ここで日本の天狗は初めて姿を持ち始めます。それは鳥のような翼と顔を持った、いわゆる烏天狗の形をしています。

 

鼻高天狗と烏天狗 

 現代で天狗と言えば、鼻の長い天狗、別名「鼻高天狗」や「大天狗」と呼ばれるものが一般的で、それとは別に「烏天狗」あるいは「小天狗」や「木の葉天狗」と呼ばれる存在があります。しかし、初期の天狗といえば「烏天狗」の方だったのです。これはおそらく、空を飛ぶという性質と、謎の音を出すという性質が鳥と結びついた結果ではないかと思われます。さらに、時代が進むにつれ、烏天狗の姿には修験者のイメージが付与されます。烏天狗の姿にはインド神話のガルーダや、そこから転じたカルラ天の姿が反映されているという説もあります。ただし、成立の仮定を追っている限りは、直接の祖であるとは言い難いのではないでしょうか。

 ただし、伝承というものは多くの分野でいい加減なもので、例えば、インドのシヴァ神が転じた大黒天が、ダイコクという言葉を接着剤として大国主尊と同一視されたり、後述しますが、鼻高天狗とサルタヒコも鼻が長いということから同一視されることがあります。古来より伝わるものは、ひとつの元ネタが変化してきたというよりは、色々な要素を取り込んで多くの元ネタがひとつの名前の元に合体した結果であったりします。

 例えば、河童には多くの別名がありますが、それらのひとつひとつを別の妖怪として取り扱ってもいいでしょうし、全てを河童として全ての特徴を集約させた妖怪としてもいいわけです。なぜなら、実在しないものについては適切な切り分け方というものは存在せず、どのように切り分けて取り扱うかはそれを考える主体の自由だと思うからです。

 もしかするとガルーダの要素を取り込んだ烏天狗も存在するかもしれませんし、それはもう既によく分からなくなっています。飯縄権現などは狐の上に烏天狗が乗った姿をしていますが、この姿は、狐の上に女性が乗った姿をしているダキニ天の影響を受けていると考えられています。このように、外から取り入れられた色々なものが、似た要素を見出して習合することで、概念は変化するのです。

 

仏教と天狗 

 天狗という存在は、修験道などと結びつきながら、例えば密教における仏敵としてと地位を確立し始めました。仏教は雑に言えば、「悟りを開いて輪廻から解脱し仏になること」を目指すものですが、悟りに至れない迷いを抱えた者が歩み続ける六道というものがあります。日本では、その六道からもはずれる外道(あるいは魔縁とも呼ばれる)として天狗道というものが生まれました。仏教の教えを知りながら、悟りにも至れず、六道にも戻れず、道を外れた修験者は天狗となります。天狗は鳥に似た姿をし、山に住まうのだそうです。このように天狗は、初期の特徴を残しながらも、修験者(山伏)と融合し、烏天狗の姿を得て、様々な物語や説話の中に登場し始めます。

 天狗という言葉は、人心を惑わす悪のような使われ方を始め、例えば、初期のキリスト教宣教師は、「堕天使ルシファーの下に集う悪魔たち」の訳語として「天狗」を選択したということもあったそうです。また、仏教を弾圧した織田信長は、ルイスフロイスによって「第六天魔王」と表現されました。第六天魔王は、第六天神社に伝わる一部の伝承では天狗の姿をしているのです。

 天狗と化したと言われる有名人といえば崇徳上皇もいます。崇徳上皇もまた、仏教を学びながらも、その恨みから堕ちてしまった存在として、天狗と称されたのではないでしょうか?

 

鼻高天狗の登場 

 では、現代で一般的な天狗の姿である鼻高天狗の登場はいつでしょうか。現存する資料の中で、あの姿が天狗という名前で登場するのは「鞍馬寺」に存在する狩野元信の絵であるそうです。ただし、それ以前の資料の中にも類似する図柄が存在するという報告もあり、狩野元信の創作ということではないと言われています。

 この描写に伎楽のサルタヒコの面が影響を与えたという説もありますが、それを裏付ける証拠は特にありません。ちなみにサルタヒコ天皇の祖であるニニギノミコト天孫降臨の際に道案内をしてくれる存在であり、長い鼻に大きな身長、大きく光る眼を持っていたとされます。サルタヒコは後に天岩戸の際、天照大神を誘いだすための踊りをおどったアメノウズメと結婚し、その子孫の猿女君は、神楽を生み出したそうです。

 与太話ですが、神楽と言えば、渡来系の秦氏が伝えたものとも言われています。秦氏天皇に重用された一族としても有名であり、聖徳太子に仕えた秦河勝は、広隆寺の建立に手を貸しています。広隆寺のある太秦秦氏の縁の地です。同じく太秦にある秦氏木嶋神社には、珍しい三柱鳥居というものがあります。これは三つの鳥居が合体しており、上から見れば三角形となっているものですが、これをキリスト教の三位一体と関連付ける説があります。秦氏は大陸から渡ってきた景教キリスト教)の集団であり、例えば聖徳太子が厩で生まれたという伝説が、キリストの誕生に似ているのも、そのせいであるというのです。秦氏ユダヤの失われた十支族の末裔であり、古代日本にはユダヤ教が伝来し、食いこんでいたというのです(日ユ同祖論)。

 この辺りは、漫画で言えば原作:小池一夫、画:池上遼一の「赤い鳩」で取り上げられていますが、この漫画には天狗として、山伏の姿をしたユダヤ人が登場します。赤ら顔で鼻が高い存在として、天狗に漂着した外国人などが影響を与えたという説もあります。これらを裏付ける証拠も特にありませんが、とりわけ、宣教師が日本にやってくるようになった室町時代末期以降では、その後の描写に何らかの影響を与えたということもあるかもしれません。

 さらに脱線すると、秦氏は秦の始皇帝の末裔を自称していた一族であり、陰陽師蘆屋道満もその秦氏系譜だと言われています。蘆屋道満といえば安倍晴明のライバルとして物語に登場しがちですが、せがわまさきの漫画「鬼斬り十蔵」では、安倍晴明は実は、秦の始皇帝に命じられて不老不死の霊薬を求めて日本にやってきた徐福の生まれ変わりという設定になっています。日本で霊薬を見つけられなかった徐福は、連れてきた数多くの童男童女を使って人体実験を始めてしまうのです。その結果生まれた中に烏天狗もいました。この漫画の中では、烏天狗は不老不死の実験の哀れな失敗作なのです。あらゆる人体実験に失敗した徐福はその後、死を迎えますが、彼は意図せず生まれ変わり安倍晴明となります。そして、徐福はこの生まれ変わりこそが不老不死の法だという結論に至るのでした。一方、安倍晴明となった徐福は、蘆屋道満と出会うわけですが、彼の顔に、自分に苦難を強いた始皇帝の面影をみてしまいます。それゆえ、晴明は道満をもてあそぶのですが、どうなったかは漫画の方を読んでご確認を。

 

 鼻高天狗のイメージがどこから来たかについては、明確な答えはありません。他にもっとストレートな説では、烏天狗のクチバシが高い鼻に変化したというものもあり、実際その中間となる絵も存在しています。

 

 ともあれ、室町時代以降、鼻高天狗という描写が登場したことは事実です。ただし、依然として主流は烏天狗であり、また、その姿にも多様な形が残っています。参考になるのは滝沢馬琴の「烹雑の記」に残されている絵ですが、江戸時代にも、まだ多様な天狗が残っていたことが分かります。

 では、なぜ鼻高天狗は烏天狗に優越する立ち位置を現在獲得できているのでしょうか?そこには、天狗の立ち位置の変化があるのではないかと思います。つまり、仏敵としての天狗から、人に知恵や能力を授ける存在としての天狗です。

 

義経と天狗 

 源義経鞍馬寺にて天狗に手ほどきを受けたという話は有名です。義経は命を助けられる代わりに鞍馬寺に預けられ、僧になることを強いられますが、僧になることを拒否し、力を蓄えて、後に都に降りることになります。ここで登場するのが義経を鍛えた鞍馬天狗です。このお話は「平治物語」や「太平記」に登場し、室町時代に成立する「義経記」では鬼一法眼がこの鞍馬天狗と同一視されます。これらの物語は義経の死後、時間が経ってから成立したものであり、創作の要素が強いと考えられますが、ここに人間に力を授ける天狗の姿が描かれていると読み取れます。また、一方、仏敵である天狗とも矛盾しないのです。なぜなら、義経は僧になることを拒否し、仏の教えに背いたからです。その意味で、義経は天狗であり、それに力を貸した存在も天狗であるわけなのです。

 仏教にあだなす存在として広まった天狗像は、義経というヒーローを経由して、より肯定的な立場を得たのではないでしょうか?

 

 一方、義経は天狗のモチーフのひとつである山伏との繋がりが深いという説もあります。京都から奥州平泉に逃げ延びる際に山伏に身をやつしたということが「吾妻鏡」にも書かれていますが、そこで山伏たちのネットワークが生きてきたのではと考えられるのです。ちなみに漫画の「修羅の刻」では、この役目を陸奥鬼一が担っており、鬼一は前述の鬼一法眼と同一の存在だと考えられます。「修羅の刻」は格闘漫画「修羅の門」の外伝で、千年の歴史を持つ格闘技、陸奥圓明流の歴史を巡る物語ですが、陸奥の名の通り、その出自に奥州に深い繋がりを持つことが示唆され、義経に手を貸すことになるのです。

 

 このように天狗は民間伝承や物語に数多く登場し、沢山の姿と沢山の役割を担っていくことになります。姿の見えない怪音、鳥のような姿、烏天狗、鼻高天狗、あるいは崇徳上皇が恨みの末に変身したという魔王のような存在として、山で起こった不思議な現象や、仏教の敵としての説話、人に何かしらの力を授ける存在、あるいは何かしら強大で恐ろしいものの象徴として、受け入れられていくのです。

 

天狗と神隠し 

 このように受け入れられた天狗が民間伝承において担う、大きな役割が「神隠し(天狗隠し)」です。山で人間が行方不明になると、天狗のしわざということになり、また、行方不明から帰ってきた人が話す話は、天狗に連れられて巡った他の土地の話とされるパターンもあります。これらの伝承において天狗が担う役割は、「外」ではないでしょうか?天狗が現れるのは、人が住む土地と、それ以外の境界であり、人を「境界の外」に連れ出す役割を持っています。そして、人が内にはない知恵を授かって戻ってきたり、二度と戻らなかったりするのです。そのような出来事の多くが天狗のせいにされます。そして、天狗のせいにされることで、天狗がより大きな役割を担うことになるのです。

 

 天狗による人さらいで言えば、「天狗小僧寅吉」が有名でしょう。平田篤胤は、江戸の町で天狗にさらわれたと証言する少年、寅吉と出会い、養子に迎えます。寅吉の弁をまとめた本が「仙境異聞」です。ここでは、寅吉がさらわれた先、天狗の世界のことが語られます。平田篤胤といえば、国学者であり、「復古神道」を唱え、儒教や仏教と習合した神道を、それらを排除したものに回帰させようとした人間です。彼が天狗に興味を持ったのも、天狗に仏敵の要素があったからではないでしょうか?天狗の世界を肯定的に詳述することが、神道から仏教の影響を排除することに繋がった可能性があります。

 寅吉は自分をさらった天狗について雄弁に語りますが、自分の師は正確には「天狗」ではなく「山人」であると語ります。天狗とは、鳥に手足が生えたものや、獣に翼が生えたものであり、自分が師事したのは「山人」、中国でいえば「仙人」にあたる存在だというのです。人は、山で不思議な現象が起これば、全て天狗のものとして扱いますが、実はそれらは異なるというのです。これは、「烏天狗」と「鼻高天狗」の違いに通じます。これらもまた、人に知恵を与える存在としての、天狗の神格化に寄与したのではないでしょうか?

 

現代の天狗 

 現代では「天狗」という言葉に邪悪なイメージが強いことはあまりないのではないでしょうか?大東流合気柔術の実質的な創始者、武田惣角は、その強さから「会津の小天狗」と呼ばれました。講道館柔道の四天王のひとり、横山作次郎は「天狗投げ」という技を使ったと伝えられます。どちらも、「常識を超えたすごいもの」というイメージをまとっていると思われます。

 天狗を題材にした漫画では「大日本天狗党絵詞」「町でうわさの天狗の子」「テングガール」「ベムベムハンターこてんぐテン丸」「天空之狗」、などなどがありますが、ここで描かれる天狗も、存在それ自体に悪いイメージはないと思われます。むしろ、特殊な能力を持った特別な存在として描かれています。

 昔々には凶兆として捉えられていた天狗は、長い年月をかけて、様々な要素が付け加えられ、様々な姿と役割を得て、今のような受け入れられ方をするようになったのです。

 

うしおととらと天狗 

 一方、漫画で、流星であり天狗(あまつきつね)という初期天狗の姿を思い浮かべると、「うしおととら」における白面の者を思い出します。白面の者とは、伝説上の白面金毛九尾の狐をモデルにした存在で、世界の原初の混沌において陰の気が集まって生まれた本作のラスボスです。白面の者は最初は姿を持たず、人を操って殷や周の国を滅ぼしたとされますが、その後、流星の姿でインドに飛び、シャガクシャという赤ん坊に憑りつきます。そして、シャガクシャの憎しみを食べて成長し、狐の実体を手に入れることに成功するのでした。これは、初期天狗の存在と類似しています。天狗を「あまつきつね」と呼ぶのは、別の文献で天狐とも書かれているからだそうですが、そうなれば、天狗は流星であり、凶兆であり、狐でもあり、つまり、白面の者であるという風に繋げることができます。

 もう少し言えば、シャガクシャは後に獣の槍を使って魂を削られ、字伏という妖怪になりますが、その別名を雷獣と呼ばれたとあります。雷獣とは、雷が落ちた先に現れる妖怪です。雷を流星に置き換えれば、シャガクシャの元に白面の者が落ちてきたことと符合します。そして、雷とともに現れる雷獣の特徴は光と音、雷獣は鵺とも同一視され、鵺もそもそも正体不明の音の妖怪です。そして、天狗もまたそもそもは光と音の妖怪なのでした。となればのちに「とら」と呼ばれることになる元シャガクシャもまた天狗の眷属であると繋げることができます。

 そして、「うしおととら」における天狗と言えば、山ン本五郎左衛門、東日本の妖怪を束ねる長であり、また西の長、神野悪五郎とともに、平田篤胤が広めた「稲生物怪録」に登場する妖怪です。稲生物怪録の中ではいわゆる天狗の姿はしていませんが、前述の「仙境異聞」では、双方とも天狗として紹介されています。彼らが束ねるのが日本の全妖怪であり、白面の者と戦うことになるのでした。

 つまり、白面の者と日本の妖怪(+とら)の戦いは、味方を変えれば初期天狗と後期天狗の戦いであると見ることもできるのです。

 

まとめ(まとめてない) 

 ということで、天狗の歴史を追っていくと、天狗とはうしおととらだなという結論が導かれたので、またいい加減なことを書いてしまったなと思って、反省しようと思います。ここにメモったことを、もう一回考え直して、文学フリマで出す本の1項目にする予定です。