機動戦士ガンダムジークアクスを全部見て思ったのは、「なんでこれを12話でやろうとしたのか?」ということです。その理由は不明ですが、本来26話程度はかけて描くような話を半分以下に圧縮したように見えて、最初から倍速視聴のような感覚で見ていました。
それによって失われてしまうものもあると同時に、生まれているものもあると思ったのでその話をします。失われてしまうものは、結果良くわからないことが多いということで、埋めれているものは圧縮によって物語から目が離せなくなってしまうことです。
僕の考えとして昔からあるのは、「人間は自分がギリギリ処理できるかできないかぐらいの情報を目の前にしたときに夢中になってしまう性質がある」というものです。逆を言えば、目の前の情報量が少なすぎると退屈してしまいますし、目の前の情報が処理できないぐらい多すぎると最初から見るのを諦めてしまうものだと思います。
これは例えば、ニコニコ動画のようにコメントが流れるようにすると、コメントがない状態では退屈してしまうような映像も見ることができたり、音楽のテンポを速くすると単位時間の情報量が増えて聴けるようになったり、エヴァンゲリオンのオープニングのように追いきれない速度で沢山の絵を出すと見入ってしまったりするようなものです。
ゲームは人のこういった性質を意識して作られていることが多く、ボタンを押したら何かが反応する短期的な情報処理と、レベル上げ的な操作の積み上げで生まれる中期的な情報処理と、全体のストーリーなどの長期的な情報処理を組み合わせて、プレイヤーが退屈せず夢中になれるように設計されていることが多いと思います。
ここで問題は、人によって情報の処理能力や、何から情報を見出せるかが異なるということでしょう。
例えば、サッカーの試合を見る能力が高い人は、フィールドの状況から戦術や個々のプレイの情報を見出して退屈せずに見れますが、見る能力が低い場合、点数の増減ぐらいしか読み取れなかったして、数十分に一回ぐらいの頻度で数字の増減があるものとしか捉えられず、全く面白いと感じられないかもしれません。
話はやっと倍速視聴に戻ってきますが、倍速になることで単位時間あたりの情報量が増え、等速では退屈してしまうものを見れるようになる可能性があると思います。つまり、作劇そのものを倍速で行うことで、分かりそうで分からない領域を生み出すことができ、視聴者がそこに夢中になって見てしまうという人間の性質のハックとしての効果があるのかもしれないと思いました。
こう感じたのは、ジークアクスの物語の中で様々な出来事が起こり続け、それを自分が飲み込める前にどんどん展開しているので、そこで起こっていたことを自分が分かったとは思い難いですが、一方で退屈せずに最後まで見られたからです。
見ながら面白いなと思っていましたし、心が動いた場面も多々ありましたが、しかしながら、何が起こっていたかを分かっていたとは思い難いため、見終わったあとには、あれはどういうことだったんだ…という何も整理のつかない気持ちも残りました。
何度も見ていくと整理がつくのかもしれません。
さて、作劇の圧縮がどのような手法で行われていたかというと、不要な部分を徹底的に省略していくこと、外部の情報(過去作等)を使えるところはそちらに任せて作中では詳細に描かないこと、葛藤のパートをあまり描かずに決断を描くこと等だと思いますが、これらは全て「動き続ける」ことに繋がっているように思います。
つまり、立ち止まるような描写をできるだけ行わないことで、常に何かが動き続けている状態を維持するということ、それはつまり「アニメーション(動かすこと)をやっている」ということとも捉えられます。
確か「かぐや姫の物語」関連の高畑勲氏のインタビューで、アニメーションとは絵を動かすことで、ストーリーはそれらを繋ぐために存在しているに過ぎないというようなことが語られていたのを読んだ覚えがあります(うろおぼえです)。つまり、ストーリーにアニメーションが奉仕するのではなく、ストーリーがアニメーションに奉仕するという関係性です。そういう意味では、ジークアクスはそのような価値観に則っているように思えました。
とにかく動かし続けることで、普通にやろうとしたら入らないような情報量を全12話に圧縮してみせたように思います。
そう思ったときに、マチュという主人公はこの物語を牽引する存在であったことに思い至ります。彼女は「よく分かんないけどなんか分かった」という言葉を口にしますが、物事の論理的な理解や整理よりも感覚的に掴んだことを元に身体を動かしていく人であったように思います。つまり、彼女は葛藤の中で動けなくなることがなく、とにかく動いていく中で何かを掴んでいくという存在です。
つまり、ジークアクスの超速の作劇は彼女が主人公であったからこそ成立したものであるように思いました。
最終話で分かったと思ったのは、これがニュータイプの物語であったということです。そして、この物語で提示されたニュータイプ像を象徴するのがマチュです。ニュータイプとは宇宙に飛び出た人類を、牽引していくような新人類です。そこに必要な性質は、戦闘能力でしょうか?心で通じ合う超能力でしょうか?ジークアクスで描いた答えは「人を先に連れていくための誰よりも早く先に進んでいく力」ではないかと思いました。
マチュはそんなニュータイプとして描かれていたように思います。誰よりも先に行ける者は、理屈に納得したから先に進むのではなく、それよりも先にもう進んでいる者だと思います。その意味ではエヴァンゲリオンのシンジくんとは真逆です。シンジくんは現状への納得と未来への確信が示されなければ先に進みたくないような人間でした。だから、シンジくんを中心とした話はなかなか動かないこともあったと思います。
しかしマチュは今に納得がいかなくても、未来に確信がなくても先に走っていける人間であったと思います。その代償として頻繁に間違い、軌道修正をして、また間違い、そして軌道修正を続けて行きます。
その結果、ゴールテープを誰よりも早く切ったような話だなと思いました。そこが面白かったです。
この物語についてもう一つ思ったのは、ガイナックスの時代から、自作品の中にパロディを入れ続けて来たような人たち(スタッフはその時期からの人だけではないですが)が作った作品であるということです。人は過去の何かに影響を受けるものなので、何かを作っている人たちは自分がこれまでの何かに影響を受けていることへの自覚はあるはずです。でも、その何に影響を受けて来たかを見る人に分かるように描くということは、自覚的である態度だとも思っていました。
自分が何に影響を受けて来たかを分からないようにして、オリジナルのように見せることもできるはずなのに、自分たちはこれに影響を受けてきたということを誇示するように描くのは、自覚的である、言い方を変えればそこから目をそらすことが不得手なやり方だと思います。そこには自分たちは新しいものではなく、過去の再生産をしているだけというような屈託もあるのではないか?と僕は思います。
その意味で、ジークアクスは、その先を描こうとした物語なのではないかと感じました。過去にあったものを模倣し続けた先に破壊し、過去にはなかった自分たちの生み出したものとしてのマチュたちニュータイプをこの作品世界に残したと捉えられると思ったからです。
ララァの夢でしかなかった世界が、元々はいなかったはずのマチュたちの世界として壊されずに残ったということが、過去作の模倣を自覚的に繰り返してきた作り手が、それらの先にオリジナルの世界と人を残した物語として捉えることができ、その場合、これは創作活動そのものの話のように思えました。
そう考えるとジークアクスが過去のガンダムを元にする必然性のある物語であり、マチュたちがその中でオリジナルの主人公として駆け抜けた様子がよかったなと思いました。ただし、その場合、ここまでやってようやくプロローグだったようにも思えます。マチュたちがあの世界で生きる話がようやく始まったところであるようにも思ったからです。
結局なんでたった12話であんな話をやろうとしたんだろう?という疑問は残りましたが、12話で成立させるための作劇圧縮技術を徹底的に見せられたような気がしていて、その部分も面白かったです。
マチュとニャアンとシュウジの今後の物語を見たいと思いますが、それは別に作られないような気もしますね。とにかく毎週面白かったですし、見てよかったです。