漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画を描くことを趣味にできないかという試み関連

 去年の今頃あたりから、なんとなく起承転結がちゃんとあるような漫画を描きたいなあと思って、いい歳して急に漫画を描き始めたりしました。それで同人誌を2回作って2回コミティアに参加しては、お友達やインターネット関連知人に呼びかけて買ってもらったりしたのですが、今のところ楽しい感じなので続けたいなあと思っています。

 

 漫画は読む立場で言えば、結構読んでいる方だと思うので、ひょっとしたら知らぬ間に漫画を描くのもなんとなくできるんじゃないかな?と思いましたが、まあやってみると当然のようにできないわけで、でも幸か不幸かもういい歳した大人なのでそこで終わりにはなりません。

 できないときはなんでできないのかな?ということを考えます。僕が経験上持ち合わせている理屈では、何かが出来ないときは、出来ない理由を全部取り除いてしまいさえすれば出来てしまうと思うので(ただ出来ない理由がどうしても取り除けない場合もある)、描こうと試みながら、なんでできないのかなあと考えて、思いついた理由を都度潰していきました。その結果描きあがったので、ひとまず良かったですね。

 

 一番重要なことは、できないことをいきなり完璧にしようとしないことだと思っています(なぜならそんなことはできないから)。1回目に描いたときの目標は「最後まで描き上げる」ことだったので、それ以外のことは全部優先度を下げました。2回目は、1回目で出来なかったことのうち、今回はやってみたいことを3件ほど考えて、それだけを達成することを目標としました。2回目は特にお仕事の繁忙期と時期が被ってしまったので、目標としたこと以外ではたくさん妥協もしました。ただ、妥協をすることで完成に近づきますし、妥協がなければ持ち時間を超えて無限に直し続ける羽目になっていたので、完成しなかったかもしれません。段々良くしていけばいいと思っているので、今は精一杯のこれでよしとしています。

 物事は大体回数を重ねれば上手くなっていくので、漫画もとりあえず4回ぐらい描けばある程度こなれてくるかなと思っていて、2017年度も2回描けば目標達成かな?という気がしています。そこでようやくスタートラインです。なので、やっていきましょう。

 

 さて、漫画ですが、今はまだあまり誰がどのように読むかを想定していなくて、自分が思っていることを、漫画というフォーマットで描けないかな?ということを模索している感じです。つまり、自分自身という最低限の読者のみを確保しているという状況で、それがある程度できるようになったら他人のことも考えれるようになるのかな?と想像しています。ただ、僕の拙さによってどこまでいっても自分のことしか考えられないかもしれません。

 

 自分の思っていることをわざわざ物語の形式にする意味ってあるのかな?、文章で書けば十分じゃないのかな?と当初は思っていたんですけど、とりあえず色々悩みながら描いてみた結果、物語の形式でなければやりにくいこともあると思いました。

 例えば、今書いているような文章は、僕の中で一気通貫した理屈が定まっているので、書き始めた時点で既にあらゆることが自明であり、それに従って迷いなく一気に書き流しています。

 ですが、物語の場合は複数の登場人物の会話と行動が描かれることで、一貫しないものを描きやすいという良さがあると思います。登場人物たちの言葉も行動も僕が考えているので、いわば中身は全部僕自身なのですが、だからといって彼らの全てがひとつの同じ意思のもとに、僕自身が持ち合わせている結論に至るために動かされているとしたら、この人たちは複数人いるのに実質ひとりじゃないかと思ってしまうと思います。

 

 僕の頭の中では、だいたいのことは最終的にひとつの考えにまとまっているのですが、そこに至る過程には複数の方向性があったりもするわけです。どこにご飯を食べに行こうかを考えて最終的に餃子の王将に至ったとしても、その過程で吉野家に行こうかとかやよい軒に行こうかとか、もうやんカレーに行こうかとか、タカマル鮮魚店に行こうかとか、色々考えていたわけですよ。結論だけ書くなら餃子の王将だけで十分ですが、僕がなぜその日は餃子の王将にしたのかという過程を描く上では複数の同時に選べないような候補があり、それらがその時はなぜ選ばれなかったのかというところには何かしらの葛藤があったはずです。

 であれば、そのような個別の欲求に対してそれぞれ登場人物に割り当てていけば、お話になるんじゃないかと思ったということです。登場人物たちはそれぞれ矛盾したようなことを言えたりもしますが、それでもそれらは全て僕自身の考えの一部であって、それらの大半が最終的に捨て去られたものだとしても、やっぱり僕自身がそういうことを考えていたのは事実ということでしょう。

 僕の中にはどうしても漫画にしたいお話が特にあるわけではなかったので、とりあえずこのように、普段考えているようなことを漫画という形式にしてみたというのが今の状況です。

 

 2回目は1回目よりは楽に描けたような気がするので、この次も、もうちょっとだけ楽に上手く描けるようになりたいですね。とりあえず2回目のもネットにアップロードしてみました(ようやく今回の本題に辿り着きました)。

 

 こちらが2回目に描いた「爆弾の作り方」という漫画です。

www.pixiv.net

 

 ついでに一回目の「つじつま会わせに生まれた僕等」の方もリンク貼っておきます。

www.pixiv.net

 

 そういえば、描いている途中で、漫画の描き方みたいなのをネットで軽く検索してみたりもしたのですが、そこで参考にしたものは結局あまりなく、その理由のひとつは「べからず集」になっているものが多いように思ったからです。「こういう漫画を良くないので描いてはいけない」というお話は、描ける人にとってさらなるクオリティアップのためにはいいのかもしれませんが、僕のような右も左も分からないうちに「やってはいけないこと」ばかりを目にしても、それを十分満たせる解が見つからず、手が止まることに繋がってしまうので、完成をより遠くしてしまうものなんじゃないかと感じています。また、「こう描くべきだ」という話だとしても結局、取りうる手段を限定するという意味では同様に「べからず」の範疇だと思います。なので、それもほとんど参考にしませんでした。

 反面、すごく参考になったのは「漫勉」ですが、これは「やってもよい集」になっていたからではないかと思います。「漫勉」は様々な漫画家さんが漫画を描く様子をテレビ番組にしたものですが、ひとりとして同じ描き方をしている人はおらず、それぞれの人が自分が納得する漫画を仕上げるために色んな手段を使っています。つまり、各々が考える目標として到達すべきところがあって、そこに到達するためであるならば、一見禁じ手と思えるようなことであったとしても、色んな手段をとってよいということが示されているように感じたということです。プロの人たちがどんな手を使ってでもとやっているのに、なんで初心者の僕がが最初から縛りプレイをしているのか?と思ったことは、無意識に自分に課していた厄介な枷をいくつか取り払うことに活用できました。

 

 何かをやれないときには、それをする上でやってはいけないことを抱え込み過ぎていることも多いような気がします。それは先人からのアドバイスという形でやって来ることもあり、それはきっと正しさを持った意見なのでしょうが、そのアドバイスを受ける自分の側が、まだそれをできるような態勢になっていなければ、とりあえずは聞かないでおいてもいいんじゃないでしょうか。

 それは喩えるなら、バスケットボールでドリブルを初めてやった子供にダブルドリブルをしてはいけないとかトラベリングをしてはいけないとか言うような話で、それは正しいことですが、意識するのは試合に出るようなレベルに達してからでもいいような気がします。それ以前の段階では、まずはドリブルだけに慣れることを優先してもいいんじゃないかと思っているのです。

 

 歳をとると新しいことを始めにくくなるのは、こういう「べからず」ばかりを最初に集めてしまうのが一因なんじゃないかと思っています。世界でトップになりたいとかなら、若年から始めた方が有利かもしれませんが、趣味でやるなら、何をいつ始めたところで別にいいんじゃないでしょうか。少なくとも僕はその考え方なのです。目に見えて分かる自分の拙さが、回数を増やすごとにちょっとずつましになっていくのも面白いじゃないですか。

 

 そしてまた、自分で考えた何かを実際に作ってみるのが面白いということもあります。「何が嫌いかよりも、何が好きかで自分を語れ」みたいな話がありますが、この話が個人的にピンとこなくて、自分を語るために使っているその「何か」は自分ではないものなので、自分という存在を規定しているはずなのに、他人や他人の作ったものの話をしてしまっているのが変じゃないかな?と思います。

 そのように、自分の存在が他人の存在に依拠してしまっている場合、その他人がいなくなれば自分もなくなってしまうのでしょうか?その場合、自分とはいったいなんなのでしょう?

 一方、自分の中から出てきた何かを作ってみるという行為は、それは自分そのものを語る行為であるように思います(そこに他の何かの影響はあるにせよ)。なので、作ってみると、ああ、これが自分なのかなあという気持ちになります。

 

 あとあんまり関係ないですが、連想したので書いておくと、「叱って育てるより、褒めて育てる」みたいなのも個人的にまるでピンときません。その「育てる」というのは、自分の考える理想にその育てる相手が沿ってくれれば成功という話なのでしょう?その場合、育てられる側の精神の主体性が剥ぎ取られているように感じて可哀想な感じに思ってしまいます。

 他人に褒められたり叱られたりすることによって、自分の中のどうこうが左右されてしまうようになってしまったこと、それを成功と言っていいのでしょうか?それはつまり、周囲の望むように振る舞うことを内面化してしまっているということで、運が悪ければ、よくない人にいいように扱われてしまう悲しいことに繋がる可能性を考えてしまいます。

 

 適当に書いていたら、話が逸れてしまいましたが、ともあれ漫画描いてみたりするのは面白いなあということです。ここのところゲームばかり延々していましたが、そろそろ3回目を描こうとしているところです。

「D-ASH」を読んで思い出す無敵の小学生の話

 多くの人の場合、大人になると自分が今どれぐらいの速さで走れるかどうかにあまり興味が持たなくなると思う。そもそも全力で走る機会もほとんどない人も多いんじゃないだろうか。世界のトップレベルの話でもなければ、他人より何秒か速く走れることで、得をすることもないし、移動するときには車や電車に乗ればいいという話だ。でも、小学生は違う。小学生にとって足が速いかどうかは天地がひっくり返るかというほどの重要な問題だ。

 

 原作:北沢未也、画:秋重学の「D-ASH」は、足の速い男の子の物語だ(最近電子版で読み返しました)。それは特別な存在で、そんな特別な存在が、特別であるということを描いた物語だと思う。あるいは、そんな特別な存在は、未来永劫特別であってほしいという願いを描いた漫画かもしれない。

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 学校で一番足が速い少年は、最強で無敵だ。勉強ができなかろうが、下ネタを連発して顰蹙を買おうが、誰よりも足が速いというその一点だけで、誰しもが目を背けることができなくなる。主人公の司はそんな少年だ。事故で片足が不自由になった少女、紗英は、そんな少年の駆け回る姿に憧れる。少年もまた、そんな影のある少女に惹かれることになる。

「目ェつぶって…10秒数えて!」

 少年は少女にそう言ってのける。次に目をあけたとき、あの遠くの橋の上に自分がいるからと。その10秒の暗闇は魔法のような時間だ。たった10秒、息を止めて待ったその時間で、少年は言葉通り遠くの橋の上にいる。さっきまで目の前にいたのに、大声を出さないと声が届かないような遠くにいる。得意満面の表情でピースサインを決める小学生男子は、この世で最も無敵な存在だろう。

 

 そんな足の速い少年は、否応なしに多くの人々の注目を集め、その人生を駆け抜けていく。息を止めて待つ、その魔法の10秒が、近所の河川敷なのか、オリンピックの100m走の決勝トラックなのかはただの時間と場所の違いでしかない。

 

 さて唐突に僕が小学生だった頃の話ですが、学年で2番目に身長が低くて、そして、学年で4番目ぐらいに足が速かった(なので学校代表で陸上大会にリレーで出たりしました)。そんなしょうもないことを今でも憶えているのだから、身長が低くて困ったことと、足が速くて誇らしかったことは、小学生の僕にはとても重要なことだったのだろう。運動会の組体操では、何人もが折り重なった一番上に立ち(身長が低くて軽いので)、リレーでは追い上げの要員として順番を決められた(足が速い方なので)。

 だから、僕は運動会も、その前に延々続く練習も全然嫌いではなかったけれど、今思えばそうではない人たちがいたことも思い出す。友達のMくんはクラスで一番足が遅かった。全員リレーの練習では、Mくんが走るところで他のクラスの人たちにどんどん抜かれてしまう。その光景に、リレーで勝ちたい同じクラスの少年少女は、あからさまな溜息を漏らした。そして、そんなMくんは運動会の数日前から怪我で学校を休んだ。先生からは「釘を踏んだ」と聞いた。それが嘘だったのか、本当に釘を踏んでしまったのかを僕は確認しなかった。ただ、その報せを聞いたとき、クラスで起こったことを今でも憶えている。歓喜だ。同じクラスにいた、学年で一番足が速いTくんが、休みのMくんの代わりに2回走れることになった。そして、その年の運動会のリレーでは、僕たちのクラスは優勝をした。みんな喜んだ。僕も喜んだ。今思い出せば、それはなんとおぞましい光景だろう。

 

 それが直接関係したかどうかは知らないけれど、その後、リレーはクラス全員ではなく選抜で行うようになった。個人の徒競走も、障害物競走となって、大きなサイコロを振って出た数だけバットを視点にしてぐるぐる回ってから走ったりするようになった憶えがある。それはきっと、単純に走るのが早いということが、そのままレースの結果に繋がらないようにするための措置だろう。

 

 走るのが速い小学生は最強無敵だ。走るのが速い小学生はみんなの羨望を集めてしまう。そして、その光が強すぎるせいで、影もまた鮮明になってしまう。それを緩和するために、僕がいた小学校では走るのが速いことがあまり意味を持たないようになるルールが作られたのだと思う。ただ、運動だけでなく、勉強だってそうだ。僕が子供の頃には既にテストの順位を貼りだしたりはしなくなっていた。

 人の能力にはばらつきがある。人より秀でていることは素晴らしいことかもしれないが、その視点は、秀でていない大多数の心を傷つけかねないものだ。子供を取り巻く世の中は優しくありたいから、序列をつけないような方向に動いている。それはきっと正しいことだと今は思う。でも、じゃあ、あの頃、僕らの心にあった、走るのが一番速い少年への羨望の気持ちは間違っていたのだろうか?

 

 司は、走るのが速い。見た目も格好いい。彼は色んな人の好感と羨望を集める。それが、多くの人の反感も買ってしまう。けれど彼はそのまま生きるのだ。ワガママで傲岸不遜である。ただ、目の前には困難も立ちふさがる。傷ついたり、失ったりもする。しかし、それでも彼は求める。そして手に入れてしまう。それは彼が特別な存在だからで、なぜ彼が特別かというと、走るのが速いからだ。無敵の小学生が、大人になっても無敵のままに生きようとするのがこの物語なんじゃないだろうか?

 

 GOING STEADYの「青春時代」という曲では、子供の頃のかつてのヒーローが、普通の大人になっていくことについて歌われている。

「PKを決めて 英雄だったあいつが 今じゃあちっちゃな町の郵便屋さんさ」

 世の中は多くはそういうもので、ほとんどの人は、普通より遥か上の一握りの特別な存在にはなれやしない。たまたま学校で一番だったからといって、広い世界に出れば、井の中の蛙であることの方が多いはずだ。だから、あの頃、特別な存在に見えていた人も、歳をとるにつれて普通の範囲に収まって見える。かつて、あの特別さを持っていた、走るのが速いということで、学年中の誰もからの注目を集めて居続けていた日本中の学校の一学年にひとりずついた特別な彼らも、ほとんどは普通になってしまうんじゃないかと思う。

 

 では、あの特別さは何だったんだろう?あの特別さが失われないままに続いたとしたら、それはどこに繋がるのだろう?そんな司はついにはオリンピックに行くのだ。あの頃の無敵の少年のままで。

 

 一方、「D-ASH」には、もう一人の印象的な登場人物がいる。彼は三木という名前の男で、司の後輩だ。そして、司よりも走るのが速い。彼はあとからやってきて、司を追い抜いてしまう。走ることが速い司が、三木の前では走るのが遅い司になる。一度は腐ってしまった司だが、立ち直り、三木はライバルであり仲間となる。

 

 三木は走るのが速いにも関わらず、司のような人気者にはならなかった男だ。走るのが速くて目立つ一方、一番になっても無表情で、人付き合いも疎遠だ。三木は速くありたかった男だ。なぜなら注目を集めたかったからだ。自分が速く走ったときのみ、周囲の人間は三木に関心を持つ。三木は走るのが速い小学生が持つ無敵さに、誰よりも憧れた男かもしれない。三木はその静かな表情からは窺い知れぬほどに、走ることで人々を熱狂させたかったのだ。

 だから彼は速くあり続けなければならない。日本人として100m走を9秒台で走る記録を作るため、周囲の人間も、彼に速くあることを望む。速くあり続けるため、より速くなるため、彼はドーピングに手を出してしまう。

 三木は司よりも速かった男だ。しかし、司のような、速く走れる小学生が持つような、特別な無敵さをついぞ得ることができなかった男だと思う。彼が迎えた結末は悲しいものだ。三木は自分よりも遅い司に憧れていたように思う。だから三木は、司がコーチに渡された、筋肉の消炎剤と偽られたドーピング薬を飲もうとしてしまうのを半狂乱になって止める。そんなものに頼って得られるものは偽物だからだ。それはつまり、三木がその時点で手に入れていたものは全てまがい物であるという苦しみであったのかもしれない。

 司の持っている、本物の特別さに憧れた三木は、それが傷つくことに耐えられなかったのかもしれない。だとすれば、三木こそは司になれなかった人々の最先端だ。

 

 「南国少年パプワくん」にこう書いてあった。 

「完全無欠の少年はコンプレックスだらけの大人になります」

 しかし、もし完全無欠な少年のままで大人になった男がいたとしたらどうだろうか?

 「エアマスター」に登場する坂本ジュリエッタは、一度は敗れながらも再び立ち、愛する摩季の視線を感じながらこう言った。

「俺は好きなコの前で張りきる小学生だ…さっきの倍の力はでるぞ」

 好きな子の前で張りきる小学生はこの世で最も強い存在のひとつだ。

 誰だって多かれ少なかれ無敵の小学生の時代があったんじゃないだろうか?その中の頂点が、走るのが速い小学生男子なんじゃないかと思うわけです。「D-ASH」はそんな無敵の小学生の漫画なんじゃないかと思っていて、だから、陸上のシーンは今読めば、そのリアリティが曖昧でおぼろげであるようにも読めるけれど、そこで描かれている気持ちは本当で、最強で、それがそう思えるのは、僕にも最強の小学生であった時期があって、そして、自分よりもずっと最強で無敵な、走るのが一番速い小学生に憧れる気持ちがあったからなんじゃないだろうか?

 それに価値があったのであれば、それはずっと価値あるものであってほしい。小学校で一番足が速かった男の子に無敵の価値があるならば、それはオリンピックの100m走における決勝トラックだったとしても、絶対無敵のままであってほしい。

 

 「D-ASH」はとても好きな漫画で、それは僕の中にそんな気持ちがあるからかなと思ったりしました。

「高3限定」と人柱について

 うらびれた田舎町にある全寮制の一貫校、その閉鎖的な世界に生きる少年、小野はある噂を耳にする。「高3限定」、教師の池田が毎年ひとりの生徒と、高校3年生の1年だけを限定に恋人関係になっているという話だ。池田は綺麗な顔をした男性で、そして、いつも怪我をしている。その怪我は、その1年だけの恋人の手によるものだと囁かれていた。傷ついた池田に憐憫の情と、恋心を抱いていた小野は、そんな高3限定に立候補する。

 

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 これが梶本レイカの「高3限定」の冒頭部分だ。そして、この冒頭部分からは思いもよらない方向に物語は展開する。そして、物語を読み終えた後でも、何が真実であったのかが曖昧な部分がある。それは、この物語が各々の主観でのみ語られたことで、そして、主観とは時に矛盾するものだからだと思う。つまり、誰かが嘘をついていたのかもしれないし、誰も嘘をついていないのに、別の真実が見えていたのかもしれない。

 例えば、小野にはとても綺麗な男に見えていた池田が、その友達のトミーの回想によれば、怪我の後遺症で無残な姿の男として語られる。それは、小野に仄かな感情を抱いていたトミーによる嘘かもしれない。あるいは、小野とトミーには本当に別々のものが見えていたのかもしれない。

 

 この物語では、徹底的に痛みと喪失が描かれる。池田はかつてある出来事によって、沢山のものを奪われてしまった男である。その喪失は背中に残るアイロンの形のやけどが象徴するように、痛々しい形で池田の肉体に刻みつけられている。そして、何より悲しいことは、池田はその痛みに意味があると思っているところだ。義眼となっている片目にも、若くして総入れ歯になっている口にも、それらの喪失には意味があったと思い込んでいる。そして、物語が進むにつれて、その思い込みが、この池田町という異常な町を支えているという事実が見えてくる。

 

 この物語が許容するリアリティの線引きは、比較的曖昧だ。何が登場することは許されて、何が登場することは許されないのかが曖昧なままで物語が進行する。例えば、死んだはずの犬が再登場したとき、それは実は死んでいなかったのか、別のよく似た犬だったのか、あるいは死んだ犬がなんと生き返ってしまったのかを上手く区別することができない。何があり得て、何があり得ないかがよく分からないからだ。

 だからこそ、物語の後半に起こることの意味を僕は初読では上手く捉えられなかった。物語の終結を間近に控えるあたりになって、ようやく僕はそこで巻き起こった出来事の意味をおぼろげに感じることができたように思う。

 

 池田の異常な思い込みが生み出した誇大妄想のように思えるものを、小野は高校生の純真な眼差しで解き放とうとする。読者である僕の視点は小野と同じで、池田が何にこだわっているのかがまるで理解できない。僕の目線では、その思い込みは思い込みでしかなく、閉じた目を開くように、純然たる事実だけに目を向ければ、囚われていたことが無意味に思えるようなことだと思えたからだ。

 池田は自身が受ける痛みに意味があると思っている。何かの願いを叶えるためには、その代価として痛みが必要なのだと思い込み、だからこそ、その痛みを受け入れて耐え続ける。小野にはそれがまるで理解できない。小野の純真な池田の幸せを思う心は、池田の人生からその痛みを取り除こうとする。そして、それはとても正しいことであるかのように思う。にもかかわらず、小野の思う通りに行動しない池田のことを、なんて無意味なことに囚われている哀れな人間なのであろうかと思ってしまう。

 

 けれど、この物語において、少なくともその時点では、その痛みに、喪失に、犠牲に意味はあったのだ。そんなものに意味があってしまったという悲しい話なのであって、それを否定してしまうということは、そこに存在したおとぎ話を瓦解させてしまうことになる。痛みを代価として池田の願いがある。それが無意味だという事実を池田が受け入れたとき、かろうじて辻褄が合っていた世界が崩壊してしまう。その結果、小野は池田を失ってしまうのだ。奇しくも池田の犠牲という事実によって、小野はその先の生を得てしまうことになる。呪いは解けたが、まだ解けてはいないのだ。

 歳を経て大人になった小野は、その喪失を埋め合わそうとやっきになってしまう。それこそが、また、別の呪いであり、小野もまたその地に伝わる因習の巻き起こす呪いの渦中の人物となってしまう。これによって、トミーのように、その呪いに囚われていない人間から見れば、小野はひどく曖昧な存在になる。はっきりとその目の前にいるのに、その実在も分からないような曖昧な存在である。それは小野にとっての池田のような存在であると言えるかもしれない。

 

 物語のクライマックスにおいて、小野は自身の命を代価として、再び交渉の場に立つことになる。彼が望むことは唯一、池田の救済であって、それは、池田の持ち合わせていた「痛み」と「願い」の等価交換を否定することを目的としたものである。つまり、その犠牲に意味を持たせないということだ。何かの願いが叶うことは、決してそれに相当する痛みや、喪失や、不幸があるからではない。小野が池田に示したかったのはそういうことで、だから、これはとても優しいお話だ。

 何かの願いを叶えるために、犠牲となる生贄のイケダを必要としてはならないという、戒めのようなお話だ。

 

 世の中のそこかしこに、不幸を燃料にして駆動するような地獄の機械があると思う。何かの変革をもたらすには、相応の大きな根拠が必要だと思われがちであるからだ。僕個人の体験レベルで言えば、例えば、壊れかけた機械を補修しつつぎりぎりの人数で動かしているとき、にもかかわらず、それを根本から刷新することがなかなかできないことがある。その刷新には大きなお金や労力がかかり、今まだかろうじて動いている機械をそのまま動かし続けるということには、それだけのお金を使える根拠がないからだ。

 いつか壊れることが分かっていて、それは決して遠くないことで、しかも、壊れたら多くの人が困るということも分かっていて、でもぎりぎりで動いているからそのままになる。そして、それがいざ壊れたら途端に問題視される。そこに損失が生じるからだ。動いて当たり前であると思われていたものが動かなくなったとき、なぜ壊れることを予期していなかったのか?という疑問が挙がり、早急に対策が講じられる。それまでどれだけ頑張ってギリギリで動かしていても、どれだけ必要性を訴えて説明しても、変えることができなかったことが、ひとつの大きな不幸の存在で一転する。

 ならば、必要なのは不幸だったのだろうか?それまで無関心であった人々の目を、そこに向けさせるために必要な不幸がそこにあったことが重要だったのだろうか?そのような不幸が根拠となり、ようやく無理のあった状況にメスを入れるきっかけとなることもしばしばだ。本当は、そんなものが起こる前に手を打つべきだったのだろう。しかしながら、何も起こっていないときには、それをするに足る根拠がない。十分な根拠がなければ何かを変えることは難しい。

 誰かの不幸によってようやく状況が変わるのであれば、この世が上手く回るには生贄が必要だ。

 

 例えば、AとBの対立する集団があったとする。そして、Bの集団にAの一員が傷つけられたとき、Aの集団の一部が喜んだような行動を見せることがある。なぜならば、それによって大義名分が手に入るからだ。Bの集団にAの一員が傷つけられたという事実は、Bの集団を糾弾するために十分な根拠となる。身内の不幸を餌にして、AはBに対する優位な立場を得ることになる。

 前に進むために誰かの不幸が利用される。その燃料となるための不幸が暗に求められているんじゃないか?という疑念を抱く。不幸に価値があるのなら、その価値ある不幸は無くすどころか望まれすらするだろう。しかし、その不幸を一手に担うはめになる存在はどうなのだろうか?多くの人々にとって有用に働いたその人の不幸は、何によって償われるだろうか?その後、よりよい世の中に変わったとして、尊い犠牲であったなどと評されるのだろうか?その生贄になった人自身にとって、その事実は本当に何かの意味があるのだろうか?

 

 犠牲を糧にしなければ変わらない状況を維持するという世の中の在り方が、その不幸に意味を付与してしまい、価値あるものに仕立て上げてしまうとするならば、それはとても悲しいお話だ。橋を立てるために、人柱を立てたという昔話と変わりなく、その不幸は無意味だが、必要であったという話になる。

 この物語は、そのような悲しさに向き合った話で、そこから意味を剥ぎ取り、そんな哀れな生贄の存在が、ただただ救済されることだけを願ったお話だと思う。それは世の中を変えるほどの大きな根拠の伴わない、無力でしかない願いかもしれないが。

 ただ、この物語が最後まで描かれたことにとても意味があるように感じた。

 

 それはそうと、最近よく聞いているamazarashiの「命にふさわしい」という歌の歌詞が、この「高3限定」の物語とちょっと似てるところあるなと思いました。歌詞は書かないのでググってみてください。

「BEASTARS」に感じる共同体の抱える矛盾の話

 チャンピオンで連載中の「BEASTARS」を毎号楽しみに読んでいます。

 この物語は様々な動物が人のような社会を構築した世界のお話です。主人公はハイイロオオカミのレゴシくん。物静かで言葉少ない少年で、肉食獣の大きな体を猫背にまるめて、多種多様な動物の子供が集まった学園で生活をしています。僕はこのレゴシくんのことをすぐ好きになったのですが、きっかけになったのが「悲劇が好きなんだ」とポツリと友達に語った場面です。レゴシくんは悲劇的な物語を読みながら、それに同調して心が沈んでいく感じを体感することが好きであると語ります。そして、僕もそうなのです。悲しい物語を読んで悲しい気持ちになったりします。それが好きというのもどうだろう?と思うのですが、自分が山ほどそういう物語を読んでいることを鑑みて、どう考えてもそれが好きなんだろうと思ってしまったりしています。

 

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 人間は、目の前の人と同じ感情になるということがあるんじゃないかと体感的に思っていて、違う温度の水を混ぜ合わせると同じ温度の水になってしまうように、人と接することで、自分の持っているものと相手の持っているものを混ぜ合わせて同じ温度、つまり同じ感情になったりするんじゃないかと思います。もちろん相手との間に心理的なついたてを立てることで、それを拒否することもできるでしょうが。

 僕は本で読む多くの物語に対してそういうことをしていると思っていて、楽しい物語を読んで楽しい気持ちになったり、悲しい物語を読んで悲しい気持ちになったりします。その行為には自分ひとりでは生まれてこない何かを、外部から取り入れるという意味もあるでしょうし、相手の持つものの中に、自分と同じ温度の部分を発見することで、同じ温度ならば変わらずそのままでよいと思えたりします。自分より高い温度や低い温度のものと接するならば、自分自身の温度を少なからず変えなければなりません。でも、相手も温度ならば自分は変わらなくて済むわけです。それは刺激的ではないかもしれませんが安心します。

 

 レゴシくんの「悲劇が好きなんだ」という言葉について感じたのは、悲劇の物語という違う温度のものと接することに対する感情と、それが好きだという同じ温度のものに接することに対する感情の両方なのです。

 

 さて、BEASTARSには様々な動物が登場します。大別すると肉食獣と草食獣で、彼らは同じ共同体の中で生活をしています。この手の物語で気になるのは彼らが何を食べているかでしょう。かつて、喰って喰われるという関係性が生態系のシステムであった肉食と草食は、十分な文明と(少なくとも表面上は)わけ隔てのない社会を獲得した後でも、焼きゴテで押し当てられたようにくびきとして残っています。

 似た環境を取り扱ったディズニー映画の「ZOOTOPIA」では、その本能が肉体にあることと、それを克服できる社会が存在すること、それによって誰もその本能があるということだけで差別的に扱われないという希望が描かれます。

 一方、BEATSTARSでは、その本能を持つがゆえに苦悩が描かれます。社会的に許されない肉食を求めてしまうことは、自分の意志だけではどうにもならないという苦悩です。同様のテーマについては、「レベルE」にも取り扱ったエピソードがありました。ある異星人の少年にはある本能があります。それは過酷な母星の環境の中で獲得したもので、生き延びる体力のあるオスがメスを喰うことで体内で受精をするという生殖形態です。その本能のせいで、彼は好きになった女性を食べてしまうのです。好きなのに、好きであるからこそ、殺して食べてしまうのです。地球にやってきて、地球人に擬態し、もはやその過酷な環境とは決別したはずなのに、そして、地球人を食べたところで子供を残せやしないのに、彼は本能に抗えず食べてしまうのです。結局その物語の中では、彼の苦悩が描かれはすれど、救済はされません。

 果たして、BEASTARSでは今後どのような過程と結末を迎えるのでしょうか?

 

 レゴシくんは、その控えめな性格とは裏腹に、肉体が持つ強い暴力の才能と、そして時折どうしようもなくなる狩猟の本能に苛まれてしまいます。温厚な彼が怒りの表情を見せるのは、他の肉食動物が、肉食に対する肯定的、容認的な感情を吐露したときです。自分が必死で抑え込んでいるものを、表に出してしまうということに対する行為に許しがたいものを感じるのでしょう。

 この物語の中には聖域がなく、全てが語られる可能性があるものとして描かれていると思います。草を食べるだけでは生きられない肉食の動物が、一体何を食べているのか?という疑問、そして、都会の闇の中に存在する、肉を売る裏市の存在、同じ社会を構築する上で生まれてしまう矛盾が、社会の中でどのように解消され、辻褄が合わされているかが語られます。

 しかしながら、それは必ずしも暗くて陰惨な話ばかりではありません。例えば、ニワトリの女の子が、自分の生んだ無精卵を学校の購買に売るというアルバイトをする話は、とてもよい話でした。肉食獣に対する貴重なタンパク源を供給する役割を持つ、自分たちにしかできない仕事をしているということに誇りをもって従事している姿は、とても微笑ましく美しく感じるものでした(それでいて、本当にそうだろうか?というしこりも残りますが)。

 

 彼ら動物たちはは、生まれつき温度の異なった水でしょう。それも強く温度の異なった水です。しかしながら、共同体を形成するためには、同じ温度であることが求められます。その基準となるべき温度がどこにあるかによって、苦悩の幅は異なるでしょう。より高い温度のものが、低い温度になるには苦痛が伴うかもしれません。より低い温度のものが、高い温度になるには強い努力が求められるかもしれません。そして、社会的共同体は、それらの多くの人々の苦痛の我慢や強い努力があることで達成されているものです。そして社会では、それが表面上達成されたかのように見せかけられるだけのこともしばしばです。

 何を表に出して何を表にださないか。自分の中の高い温度の部分はついたてで囲って温存しておき、出せる部分のみを混ぜ合わせて共同体に参画する、それは多くの場所で行われていることです。僕自身がそうです。自分自身の抱えているものの中で、自分が属する共同体の前で見せるのは、そこに合わせても問題ないものだけで、おいそれと表には出さないものもあります。あたりさわりのないもので具体的に言えば、オタク趣味を仕事場で公言しないというような感じの話です。ただ、同じ趣味の人が相手であれば温度差が少ないので、表に出すことに躊躇がないかもしれません。

 

 何かしらの社会的な共同体に参画するということは難しく、その共同体で求められる温度に合わせられなければ糾弾されてしまうことがあります。であるがゆえに、その合わない共同体を離れたり、自分と温度差のない共同体を探したり、自分の中の部分部分を切り出して、かろうじて共同体に合わせられる部分だけを合わせたりを、皆がしているのではないでしょうか?

 それは大変なことですが、だとしても、共同体を育むということにそれ以上の意味があるからしているのでしょう。しかし、そこにあぶれてしまった共同体の理念に矛盾する何かしらを抱えてしまった場合に、人はどうすればいいのでしょうか?

 

 BEASTARSは、そこに対して曖昧な部分を残さないような物語となっているところがとても格好良く感じ、そして、それはもうどうしようもないんじゃないかという問題に対して、どのような態度がとられていくのかということが気になっています。

 「ヒメアノ~ル」という漫画では、連続殺人鬼となった森田という男が、彼がやってしまったえげつない行為と、自分がそれをしてしまう他人とは決定的に違う存在であると気づいてしまうという悲しみが描かれました。「コオリオニ」という漫画ではヤクザと元刑事が、反社会的な行為に身を落としつつ、自分たちが他人とは決定的に異なる感性を持った異常者であって、その感性の通りに行動することが社会では決して認められるものではないという苦境が描かれます。

 反社会的な欲望は、反社会的であるがゆえに社会の中で居場所がありません。そして、社会に受け入れられないということはとても悲しく感じてしまうことです。果たして自分がそのような立場となったとき、その矛盾するものにどのような答えがあるのだろうか?と、悲しい物語を読んで、悲しい気持ちになってしまったりするのです。

 

 果たしてレゴシくんにの前には今後どんな困難が待ち受けていて、いかなる結末に辿り着くのでしょうか?それは悲しい諦めであるのか、夢ある希望であるのか、はたまた、そのどれとも異なるのか。僕は漫画を読んでレゴシくんと同じ気持ちになりながら、なってしまうからこそ、その先が気になってしまってたまらないのです。

僕が考えた漫画ことわざ

 「泣いて馬謖を斬る」とか「髀肉の嘆」など、三国志由来のことわざ(というより故事成語なのでしょうか?)があるのだから、漫画由来のことわざもあってもいいんじゃないでしょうか?と思って、適当に作ったやつを実際に使ってみたりするんですけど、そもそも、ことわざなどの言い回しは、みんなが既に知っているからこそ伝わるのであって、自分で勝手に作ったやつは全く意味が伝わらないですし、イチイチ解説しないといけないという当たり前の事実にぶつかります。

 なので、完全に僕の都合で、僕が考えて日常生活に混ぜ込もうとしている漫画ことわざの一部を紹介します。

 

 「秘拳伝キラ」という漫画があって、これは琉球空手の「南王手八神流(はおうでいやがんりゅう)」の使い手である八神雲(やがみきら)という少年が、門外不出の古流空手の使い手でありながら、異種格闘の世界に足を踏み入れていくという感じの漫画です。僕はこの漫画がすごく好きですが、それはいいとして、作中に「火神(ヒヌカン)」という技があります。これは纏糸勁(らせんの動き)を蹴りに応用したような技で、相手との距離をとったスタンスで、後ろに引いた足でのみ繰り出せる、回転を加えた前蹴りです。古流空手由来の鍛え上げたつま先によって、達人ともなれば相手の肋骨をばらばらに砕くほどの威力を見せるそうです。

 この火神はとても強力な技である一方、それを出すことができるシチュエーションはごく限られています。うかつに出しても相手に避けられてしまうでしょうし、正面にいない相手には使うこともできません。

 しかし、キラくんは、戦いの中で火神が成立する条件を一切満たしていないシチュエーションであるにも関わらず、使ってみせます。これがすごくカッコいいんですね。その故事によって生まれたことわざが「キラの火神(ヒヌカン)」です。

 

 意味は「成立する条件が一切整っていないにも関わらず、使えないはずのそれを使って見せるのですごい」というものです。

 

 どういうときに使うかというと、例えば、以前、発売前の漫画雑誌のキャプチャ画像を貼りまくっていたサイトのコメント欄に「著作権法違反では?」というコメントが書かれていたということがありました。そして、そのコメントに対してサイト運営者が「私はこれを引用と解釈しています」と返事していたときに、「キラの火神や!!」と僕は思いました。

 引用が成立する条件としては、本文と引用文の主従がはっきりしていること、出典が明記されていること、批評等を目的とした必然性があることなど、様々な要件があるにも関わらず、それを一切満たしていない行為を「引用」と言っているので、これは完全に「キラの火神」だなと思いました。

 

 「スラムダンク」の三井寿は中学生時代は有望なプレイヤーであったものの、高校入学後に怪我をきっかけとしてバスケ部を辞めてしまい、不良になってしまいます。色々あってバスケ部に復帰した三井は、不良をやっていた期間に落ちてしまった体力から、試合の途中で限界を迎えて交代してしまうことになるのです。

 コートから引っ込んだ三井は自分の過去を思い出し「なぜオレはあんなムダな時間を…」と嘆きます。この故事をもとに考えたことわざが「三井寿の裏ベンチ」ですが、今念のため確認したら三井寿が座っているのはベンチじゃなくて階段ですね。でも、語感が良いのでベンチということにさせてください。

 

 意味は「いざ必要になったとき、過去の自分の所業が立ちはだかって後悔する」というものです。

 

 どういうときに使うかというと、〆切前に一秒も時間を無駄にできないぐらいに追い詰められているとき、過去の自分が無駄に使っていた時間が思い起こされてしまう辛い時間に使います。僕もこの前色々逼迫していたときに、なんでこんなに忙しいんだ!!と思っていた脳裏を、「FF15」と「龍が如く6」と「人喰いの大鷲トリコ」をクリアするのに使った百時間以上の時間のことがよぎったときに思いました。完全に「三井寿の裏ベンチだ!」と思いましたが、ただ無駄ではなかったですし(面白かったので)、別に後悔もしていませんが(なんとかなったので)。

 

  • 「チャオズの心、天津飯知らず」

 「ドラゴンボール」のチャオズは、サイヤ人襲来の戦いの中で、強敵ナッパの背中に貼りつき自爆します。最期の言葉は「さようなら天さん、どうか死なないで」です。兄弟子である天津飯を生かすため、自ら死を選んだのがチャオズです。しかし、そんなチャオズの死を目の当たりにした天津飯の言葉が「カタキは討ってやるぞ、そしてオレもいく、おまえだけにさびしいおもいはさせんぞ」というものでした。そして死にます。チャオズの命をかけた「死なないで」というメッセージが、全く通じていないことが物悲しいということを指す言葉です。

 

 どういうシチュエーションで使うかというと、例えば、若者が仕事ですごく困っていたときに、長時間労働となっていたので、とりあえず僕が代わりにやっておくので、今日は帰ってゆっくり休みなよと言ったにも関わらず、謎の責任を感じたらしくなかなか帰ろうとしなかったので、そんな「チャオズの心、天津飯知らず」みたいな…と思いました。

 

  • 「涼母参戦」

 完全に「孟母三遷」の語感から来ているやつですが、元となっているのは「ARMS」です。主人公、高槻涼が謎の組織エグリゴリに狙われるようになり、エグリゴリの刺客であるサイボーグたちは涼の家までやってくるのですが、そこで人質に取られたのは、涼のお母さんです。涼は狼狽してしまうわけですが、ところが涼の母は実は「笑う牝豹(ラフィングパンサー)」と呼ばれた凄腕の元傭兵、生身の体でありながらサイボーグたちを赤子の手をひねるように倒してしまうのです。

 

 このように、自分が守ってやらないとと侮っていた存在が、知らない事実によって実は自分よりすごいことが分かってしまい、あまりの落差に笑ってしまうほどびっくりすることが「涼母参戦」です。

 ところで「赤子の手をひねる」ってすごい言葉じゃないですか?実際の赤子を目の前にして、手をひねることができますか?なんでそんなひどいことをすることを想像できるんだろう?と思ってしまいますね。

 

 さて、「涼母参戦」の使いどころというと、何か技術的なことを説明するときに、相手がどれぐらい事前知識があるのか分からないので、すごく基本的なことから説明していたら、実はその道のすごい詳しいだったということが分かり、ウワッ、なんか僕の方が詳しい然として説明してしまったので恥ずかしい!って思ってしまったやつとかです。

 

 とりあえず今回は紹介する漫画ことわざはこんな感じです。色々勝手に考えて勝手に使っていきたいですね。

キャラ立ちの向こう側

 「キャラが立つ」という言葉がありますが、その言葉が意味するところはどういうものであるのか?というのを自分なりに考えてまとめたことがあります。

mgkkk.hatenablog.com

 

 ざっくり言うと、キャラが立っていないというのは、「そのキャラクターが物語を決まった通りに展開させるための役割をのみ背負っていて、物語の都合上求められているふるまいのみをしている」ということです。そして、キャラが立っているというのは「お話の都合で動かされているわけではなく、一個の意思のある存在として読者が認めることができる」ということではないかと考えています。

 例を挙げるなら、「主人公に倒されるためだけに登場する悪」などは立っていないキャラの典型例です。さらに具体的に言うなら、物語の序盤に主人公の性格や強さ(あるいは弱さ)を読者に紹介するために、大した理由もなく因縁をつけてくるヤンキーキャラなどです。彼らは多くの場合、その役割を果たすと退場してしまいます(ただ、それが悪いということではないです)。

 「お話の都合」というものがあまりにも見え隠れしてしまうと、それに沿って行動するキャラクターたちの葛藤も幸不幸も、全て作者の考えたお話の都合でどうにでもなることだと認識してしまいます。だからこそ、物語上立ち現れる様々な出来事の渦中のキャラクターたちがどうなるのかを見守る上で、キャラクターが自分の足で立ち、自分の行先を自分で決めているかのように思えることはとても重要なことだと思います。

 

 さて、キャラクターが立っていると、そのキャラの人となりが自分なりに理解できますから、あるシチュエーションを与えたときに、そのキャラがどのように振る舞うか?ということを読者は想像しやすくなるはずです。

 これは漫画の作者以外の手による二次創作が盛んであるということとも繋がっていると思っていて、キャラクターを立たせるということがそう簡単にはできないことだとすると、とりわけページ数の少ない同人誌などでは、そのために紙幅をとることも難しく、既に立っているキャラクターを他所から持ってくるというのはひとつの合理的な方法と考えられます。

 これはまた例えば、歴史ものの漫画などでも同じだと解釈できます。キャラの立った戦国武将をゼロから考えるのは困難ですが、織田信長ならば、読者に既に共有されている人物像やエピソードをそのまま利用することができるでしょう。さらに、多くの二次創作を経てきた歴史上の有名人たちならば、史実には本来は持っていなかった属性が付与されたりすることによって、より戯画化され、利用しやすいキャラとしての属性が付与されたりします。その逸脱が、史実とは異なると責められることもあるでしょうし、より二次創作的に扱いやすいキャラとなったことを喜ぶ人もいるでしょう。

 

 このようにその存在が実在の人物像のように認識される(あるいは元は本当に実在した人物であった)キャラクターは、「そのキャラクターらしさ」というものを身にまとい始めます。例えば、原作を知らない人が描いた二次創作が、キャラクターの特徴を掴み切れておらず、そのキャラクターが原作ではとらないような言動や行動をとったとき、原作を知っている読者はきっと違和感を覚えるでしょう。

 それはきっとキャラクターが立っていれば立っているほどにそうであるはずです。逆を言えば、一度も喋らず、登場コマ数も少ないモブキャラであったならば、そういう違和感は持ちにくいでしょう。つまり、キャラの立ち方に「強さ」というものがあるならば、その強いということは、そのキャラクターの個性が広く具体的に共有されているという意味ではないでしょうか?それによって、そのキャラクターが何らかのシチュエーションに遭遇した時に、どのように行動するかについて多数の読者の間で共通の理解が生まれやすくなるのではないかと思います。

 

 しかしながら、このキャラであるならば、こういったときにこのような行動をとるはずだという共通理解は、そのキャラ立ちの強さを示すとともに、反応がパターン化されてしまっていると考えることもできます。「○○はそんなことを言わない」という指摘がされる一方、そういった二次創作的なネタとしては「○○は××なとき△△という」というような扱われ方をしてしまったりします。これらはキャラに限らず、有名人がモノマネされるときなどにも起こっています。

 ここで疑問としてあるのは、キャラクターに自我があるように思うことがキャラ立ちであると思っていたはずが、その個性を強調するあまり、いつの間にか、キャラクターが特定の行動しかとらないという、まるで自我がないようなところに収斂してしまうことがあるということです。そういった認識は、「大阪人がマクドナルドをマクドと呼ぶ」という認識が、いつの間にか「大阪人だからマクドナルドをマクドと呼ばなければならない」に変化してしまい、なんとなく大阪に住んでいるとマックとは言いにくくなるような窮屈さを生じさせるのではないでしょうか?

 

 では、キャラが立ちつつもそうならないということはありえるのか?キャラ立ちの強さにキャラの固定化という限界があるのだとしたら、その向こう側とは何なのか?という疑問が湧いてきます。長い前フリでしたが、今書いている文章の目的は、そのひとつの答えが、今月のエレガンスイブに載っていた「ちひろさん」の最新話ではないかと思ったということです。

 ちなみに、ちひろさんについては、前にこういう感想を書きました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 今月号で何が起こったかは具体的には書かないんですけど(雑誌で読むか、単行本を待って読んでください)、それまでのちひろさんならやらなさそうだと僕が思っていたことをやっていました。しかしながら、いざそれをやっているちひろさんを見ると、あまりにもちひろさんだなあと思えたということで、それこそがちひろさんの持つ「存在の強さ」だなあと思ったのです。

 やる前にはそんなことをするとは想像もしていないのに、やった後には、この人であるならば、やりかねないことだとしみじみ思えるということが、強いキャラクター性を持ちながらも、固定化されてしまわないという、キャラ立ちの向こう側と呼べるものなのではないかということです。

 

 つまりは実在の人間、それもメディアを通した有名人などではなく、近所に住んでいるような人と同じように思っているということではないかと思います。キャラ立ちの向こう側とは、すなわち現実のことなのかもしれません。

 そして一方、現実にいるはずの人間が、なんらかの個性を追求するあまり特定の型にはまったキャラっぽくなり、むしろキャラ立ちのこちら側に来てしまうことがあったりするのもなんだか不思議で、面白いことだなあと思っています。

「雑草たちよ大志を抱け」と真面目な子、そして笑顔について

 学校の掃除を真面目にやる子供を見て思う気持ちみたいなのがあります。他の子供たちが先生が見ていないのでサボっているときに、一人でもくもくと掃除を続けているような子供です。

 そのような子供がそうしている理由は様々でしょう。見られていないからといってサボっていると気づかれると怒られるかもしれないと過剰にビビッている子供かもしれません。決められたことなのだからやらないといけないと自分の中でやるべき理由を見つけられている子供なのかもしれません。

 でもまあ、学校の掃除なんて、めんどうくさいじゃないですか。そして、周りはちっとも真面目にやっていないという、自分だってやらなくてもいいんじゃないかという状況なのに、それでも真面目に掃除をするという、その子供の在り方に、なんだか色々感じ入ってしまうことがあるんですよ。

 

 さて、今した話はこれからする話と通じていないようで僕の中では通じているのですが、この前、池辺葵の「雑草たちよ大志を抱け」の単行本が発売されました。これはFEEL YOUNGにたまに載っていた関西圏の高校に通う女の子たちを主人公とした連作短編なのですが、僕はこの漫画がとても好きなので、その話をします。

 ここからは僕の解釈含みのネタバレが入ってしまうので、まずは買ってきて読んでください。

 

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 買ってきましたか?読みましたか?クリームを耳にも塗りましたか?

 

 それでは書きますが、この物語は、クラスの中心にはいない子たちのお話です。この物語の中で描かれていることは、僕が思うには、自分がありのままでどういう人間であるかということと、それは他人と比較してどうであるかということ、そして、他人との違いがあるときどのように振る舞うかということなんじゃないかと思います。

 

 物語の中心人物であるがんちゃんは、眉毛が太い女の子で、それを気にしています。ただ、眉毛が太いことを気にしているとは口にだすわけではなく、朝起きたとき、鏡を見て、手でそっと眉毛を隠してみてみるわけですよ。太い眉毛ではない自分の顔を見てみるわけです。気にはしているけれど、眉毛を整えたりはしなくて、そうしてしまうのはむしろ気にしているからこそ、そのままにしているんじゃないかと思います。そこに手を加えることは、自分のコンプレックスと正面から向き合うということだからです。

 がんちゃんは、自分の想いを相手に口に出すこともないままに失恋を経験したあと、その後も続いていく物語の中で、前髪を作って眉毛を隠そうとしたり、頑張って整えようとしたりします。でも、毎度それに失敗してしまうわけなんです。前髪は切り過ぎ、眉毛は抜き過ぎます。そして、それを周囲に指摘されて、驚かれたり笑われてしまったりもします。でも、がんちゃんはそれでへこたれたりしません。それは、そうできなかった自分から、そうしようとする自分に転換したからでしょう。変に思われるのは想像した通りで、それはだからこそ踏み出さなかったことで、でも踏み出すことに心を決めたのだから、他人の奇異な目があるのは仕方がないことです。

 この物語は、そんな控えめで、自分は物語の中心にある資格がないと思い込んでいるような、がんちゃんの周囲で起こる出来事で、そんながんちゃんだからこそ持ち得る優しさに包まれていることで、他の子たちも何らかの形で救われ、前に進んで行くことになります。

 

 中でも特に感じ入ることがあったのが2つ目のエピソードで、頑張って勉強して入った学校を、親の都合で転校することになり、それでも文句ひとつも言わずに、家事も勉強もこなす女の子、たえ子ちゃんの話です。しかし、彼女は太っていて、運動が苦手、このお話は、体育のマラソンの話です。このエピソードの主人公である彼女は、ほとんど言葉を発しません。読者は、彼女のそぶりから、彼女の心を推察する必要があります。

 マラソンを走る彼女の週には周囲には要領のよい子たちがいて、真面目に走るのではなく、先生が見ていないのだからと適当に抜け道をショートカットしていきます。その光景を見るわけですよ。でも、この子はちゃんと走るんですね、決められた道を。そういう子だからです。苦手なことだってルールを守るような子なわけです。

 そこで目にするのはがんちゃんたちです。がんちゃんたちも運動は苦手で、走りたくないし、走るのも遅いのに、ズルをせずに走っています。それを見て、この子は救われているのではないかと思います。他の自分よりも走るのが苦手ではない人たちが、当たり前のように手を抜いているところを、自分は手を抜くことができないということがあるからです。その感覚はもしかすると恐怖なわけですよ。

 僕は「真面目であること」には、真面目でいなければならないと脅迫的に思い込まされていることと、真面目という生き方がたまたま自分に合っていることの2つの側面があると思っていて、それは自分が真面目な生き方をしていると思っている本人にも明確に区別がつかないことなんじゃないかと思っています。つまり、自分の抱える真面目さが「美徳である」ということに自信が持てないということです。

 だから、真面目な子が自分が真面目であるということに対する悩みを抱えるということがあると思っていて、自分はなぜこんなに真面目という生き方をしてしまうのかという葛藤を抱えてしまったりもするんじゃないかと思います。少なくとも、漫画を読んでいて僕が思ったのはそういうことで、自分の生き方を自分で真っ直ぐに肯定できないときに、あまりにも自然体で、同じ道を歩いているがんちゃんたちを見て救われるということがあるんじゃないかと思いました。

 

 がんちゃんの友達で、いつも無表情だけれど走るのが得意なひーちゃんは、周回遅れのこの子に声をかけていきます。背筋を伸ばして、胸を張って走るということを一声伝えます。たえ子ちゃんにとって苦手な体育、いつもビリになります。やりたくはないけれど、ズルはしない、最後まで走るということ。他人の目線を気にせず、自分が走っている方向を見るわけです。目の前に広がる空へと目を向けるわけです。へとへとになりながら走り切って、それはやっぱりビリなんですけど、それはいつものビリとは意味が違うことでしょう。自分が抱えているしんどさとの新しく、もう少し気楽な付き合い方を覚えて、彼女もまた少し先へと進むわけです。

 

 この物語に登場する人々は、皆それぞれ何かを抱えていて、それは他人からすれば、しょうもないことかもしれません。でも、そんなしょうもないことなのに、他人から言及されると、自分の心の中に楔のように刺さって抜けないことがあります。

 笑い方が気持ち悪いと一度他人に言われただけで、人間は笑えなくなったりするのです。

 

 体の特徴や、自分の好きなこと、性格、しぐさ、誰だって他の人とは違う部分を抱えていて、それが違うということを違うがゆえに気にしてしまいます。自分が他人と違うということ、それを誇ることが出来る人もいれば、押し隠して、ないもののようにしてしまうことだってあるかもしれません。人間である以上、他人と違うところはあります。それは、それぞれの人がそれぞれのやり方で、それらとの付き合い方を模索していくわけです。

 

 この物語の全体を包んでいるのは、がんちゃんの持つ優しさで、彼女の笑顔が言葉が全てを許してくれる力を持っています。彼女の持つ優しさは、ともすれば彼女の抱えてしまっているしんどさにも関係していることじゃないかと思っていて、自分のような人間が、あのきらきらとした人々と同じようなものを得られるわけがないという、最初から抱えた諦めによるところもあるのかもしれません。自分が持たざる者であるという自覚が、皆の抱えるものと同じ目線に立ち、味方するということに繋がっていて。

 単行本で追加されたエピローグには、そのがんちゃんの抱えているしんどさに対してかけられる言葉があるわけですよ。それがとてもよかったわけです。

 

 最近、人間の笑顔の絵はすごい力を持っているなとよりいっそう思うことが多くて、人間が笑っているだけの絵で感極まって涙が出てしまうことがあります。「雑草たちよ大志を抱け」の最終話が載ったFEEL YOUNGでは、「13月のゆうれい」も最終回で、両方とも笑顔で終わるんですね。もう、それがよくてよくて、雑誌を読みながら感情が昂ってぐずぐずになってしまいました。

 心からの笑顔は、人間が自分や他人を心から肯定することを示しているのかもしれません。そういえば、他人を笑わせないと呼吸困難になるゾナハ病というものが登場する「からくりサーカス」にも沢山のいい笑顔が登場しました。上手く笑うことができない人や、笑いという感情が分からない自動人形が、笑うべき時を知って、笑う場面がとてもよい漫画です。その中に登場する言葉に「笑うべきだとわかった時は、泣くべきじゃないぜ」というものがあります。

 そんな言葉を思い出しながら、人が笑う場面を見て、自分が泣いてしまうというのは不思議な話だなと思ったりしました。