漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

漫画を描くことを趣味にできないかという試み関連

 去年の今頃あたりから、なんとなく起承転結がちゃんとあるような漫画を描きたいなあと思って、いい歳して急に漫画を描き始めたりしました。それで同人誌を2回作って2回コミティアに参加しては、お友達やインターネット関連知人に呼びかけて買ってもらったりしたのですが、今のところ楽しい感じなので続けたいなあと思っています。

 

 漫画は読む立場で言えば、結構読んでいる方だと思うので、ひょっとしたら知らぬ間に漫画を描くのもなんとなくできるんじゃないかな?と思いましたが、まあやってみると当然のようにできないわけで、でも幸か不幸かもういい歳した大人なのでそこで終わりにはなりません。

 できないときはなんでできないのかな?ということを考えます。僕が経験上持ち合わせている理屈では、何かが出来ないときは、出来ない理由を全部取り除いてしまいさえすれば出来てしまうと思うので(ただ出来ない理由がどうしても取り除けない場合もある)、描こうと試みながら、なんでできないのかなあと考えて、思いついた理由を都度潰していきました。その結果描きあがったので、ひとまず良かったですね。

 

 一番重要なことは、できないことをいきなり完璧にしようとしないことだと思っています(なぜならそんなことはできないから)。1回目に描いたときの目標は「最後まで描き上げる」ことだったので、それ以外のことは全部優先度を下げました。2回目は、1回目で出来なかったことのうち、今回はやってみたいことを3件ほど考えて、それだけを達成することを目標としました。2回目は特にお仕事の繁忙期と時期が被ってしまったので、目標としたこと以外ではたくさん妥協もしました。ただ、妥協をすることで完成に近づきますし、妥協がなければ持ち時間を超えて無限に直し続ける羽目になっていたので、完成しなかったかもしれません。段々良くしていけばいいと思っているので、今は精一杯のこれでよしとしています。

 物事は大体回数を重ねれば上手くなっていくので、漫画もとりあえず4回ぐらい描けばある程度こなれてくるかなと思っていて、2017年度も2回描けば目標達成かな?という気がしています。そこでようやくスタートラインです。なので、やっていきましょう。

 

 さて、漫画ですが、今はまだあまり誰がどのように読むかを想定していなくて、自分が思っていることを、漫画というフォーマットで描けないかな?ということを模索している感じです。つまり、自分自身という最低限の読者のみを確保しているという状況で、それがある程度できるようになったら他人のことも考えれるようになるのかな?と想像しています。ただ、僕の拙さによってどこまでいっても自分のことしか考えられないかもしれません。

 

 自分の思っていることをわざわざ物語の形式にする意味ってあるのかな?、文章で書けば十分じゃないのかな?と当初は思っていたんですけど、とりあえず色々悩みながら描いてみた結果、物語の形式でなければやりにくいこともあると思いました。

 例えば、今書いているような文章は、僕の中で一気通貫した理屈が定まっているので、書き始めた時点で既にあらゆることが自明であり、それに従って迷いなく一気に書き流しています。

 ですが、物語の場合は複数の登場人物の会話と行動が描かれることで、一貫しないものを描きやすいという良さがあると思います。登場人物たちの言葉も行動も僕が考えているので、いわば中身は全部僕自身なのですが、だからといって彼らの全てがひとつの同じ意思のもとに、僕自身が持ち合わせている結論に至るために動かされているとしたら、この人たちは複数人いるのに実質ひとりじゃないかと思ってしまうと思います。

 

 僕の頭の中では、だいたいのことは最終的にひとつの考えにまとまっているのですが、そこに至る過程には複数の方向性があったりもするわけです。どこにご飯を食べに行こうかを考えて最終的に餃子の王将に至ったとしても、その過程で吉野家に行こうかとかやよい軒に行こうかとか、もうやんカレーに行こうかとか、タカマル鮮魚店に行こうかとか、色々考えていたわけですよ。結論だけ書くなら餃子の王将だけで十分ですが、僕がなぜその日は餃子の王将にしたのかという過程を描く上では複数の同時に選べないような候補があり、それらがその時はなぜ選ばれなかったのかというところには何かしらの葛藤があったはずです。

 であれば、そのような個別の欲求に対してそれぞれ登場人物に割り当てていけば、お話になるんじゃないかと思ったということです。登場人物たちはそれぞれ矛盾したようなことを言えたりもしますが、それでもそれらは全て僕自身の考えの一部であって、それらの大半が最終的に捨て去られたものだとしても、やっぱり僕自身がそういうことを考えていたのは事実ということでしょう。

 僕の中にはどうしても漫画にしたいお話が特にあるわけではなかったので、とりあえずこのように、普段考えているようなことを漫画という形式にしてみたというのが今の状況です。

 

 2回目は1回目よりは楽に描けたような気がするので、この次も、もうちょっとだけ楽に上手く描けるようになりたいですね。とりあえず2回目のもネットにアップロードしてみました(ようやく今回の本題に辿り着きました)。

 

 こちらが2回目に描いた「爆弾の作り方」という漫画です。

www.pixiv.net

 

 ついでに一回目の「つじつま会わせに生まれた僕等」の方もリンク貼っておきます。

www.pixiv.net

 

 そういえば、描いている途中で、漫画の描き方みたいなのをネットで軽く検索してみたりもしたのですが、そこで参考にしたものは結局あまりなく、その理由のひとつは「べからず集」になっているものが多いように思ったからです。「こういう漫画を良くないので描いてはいけない」というお話は、描ける人にとってさらなるクオリティアップのためにはいいのかもしれませんが、僕のような右も左も分からないうちに「やってはいけないこと」ばかりを目にしても、それを十分満たせる解が見つからず、手が止まることに繋がってしまうので、完成をより遠くしてしまうものなんじゃないかと感じています。また、「こう描くべきだ」という話だとしても結局、取りうる手段を限定するという意味では同様に「べからず」の範疇だと思います。なので、それもほとんど参考にしませんでした。

 反面、すごく参考になったのは「漫勉」ですが、これは「やってもよい集」になっていたからではないかと思います。「漫勉」は様々な漫画家さんが漫画を描く様子をテレビ番組にしたものですが、ひとりとして同じ描き方をしている人はおらず、それぞれの人が自分が納得する漫画を仕上げるために色んな手段を使っています。つまり、各々が考える目標として到達すべきところがあって、そこに到達するためであるならば、一見禁じ手と思えるようなことであったとしても、色んな手段をとってよいということが示されているように感じたということです。プロの人たちがどんな手を使ってでもとやっているのに、なんで初心者の僕がが最初から縛りプレイをしているのか?と思ったことは、無意識に自分に課していた厄介な枷をいくつか取り払うことに活用できました。

 

 何かをやれないときには、それをする上でやってはいけないことを抱え込み過ぎていることも多いような気がします。それは先人からのアドバイスという形でやって来ることもあり、それはきっと正しさを持った意見なのでしょうが、そのアドバイスを受ける自分の側が、まだそれをできるような態勢になっていなければ、とりあえずは聞かないでおいてもいいんじゃないでしょうか。

 それは喩えるなら、バスケットボールでドリブルを初めてやった子供にダブルドリブルをしてはいけないとかトラベリングをしてはいけないとか言うような話で、それは正しいことですが、意識するのは試合に出るようなレベルに達してからでもいいような気がします。それ以前の段階では、まずはドリブルだけに慣れることを優先してもいいんじゃないかと思っているのです。

 

 歳をとると新しいことを始めにくくなるのは、こういう「べからず」ばかりを最初に集めてしまうのが一因なんじゃないかと思っています。世界でトップになりたいとかなら、若年から始めた方が有利かもしれませんが、趣味でやるなら、何をいつ始めたところで別にいいんじゃないでしょうか。少なくとも僕はその考え方なのです。目に見えて分かる自分の拙さが、回数を増やすごとにちょっとずつましになっていくのも面白いじゃないですか。

 

 そしてまた、自分で考えた何かを実際に作ってみるのが面白いということもあります。「何が嫌いかよりも、何が好きかで自分を語れ」みたいな話がありますが、この話が個人的にピンとこなくて、自分を語るために使っているその「何か」は自分ではないものなので、自分という存在を規定しているはずなのに、他人や他人の作ったものの話をしてしまっているのが変じゃないかな?と思います。

 そのように、自分の存在が他人の存在に依拠してしまっている場合、その他人がいなくなれば自分もなくなってしまうのでしょうか?その場合、自分とはいったいなんなのでしょう?

 一方、自分の中から出てきた何かを作ってみるという行為は、それは自分そのものを語る行為であるように思います(そこに他の何かの影響はあるにせよ)。なので、作ってみると、ああ、これが自分なのかなあという気持ちになります。

 

 あとあんまり関係ないですが、連想したので書いておくと、「叱って育てるより、褒めて育てる」みたいなのも個人的にまるでピンときません。その「育てる」というのは、自分の考える理想にその育てる相手が沿ってくれれば成功という話なのでしょう?その場合、育てられる側の精神の主体性が剥ぎ取られているように感じて可哀想な感じに思ってしまいます。

 他人に褒められたり叱られたりすることによって、自分の中のどうこうが左右されてしまうようになってしまったこと、それを成功と言っていいのでしょうか?それはつまり、周囲の望むように振る舞うことを内面化してしまっているということで、運が悪ければ、よくない人にいいように扱われてしまう悲しいことに繋がる可能性を考えてしまいます。

 

 適当に書いていたら、話が逸れてしまいましたが、ともあれ漫画描いてみたりするのは面白いなあということです。ここのところゲームばかり延々していましたが、そろそろ3回目を描こうとしているところです。