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「甘い水」におけるエントロピー増大に抗う力関連

 僕は、全ての人間は与えれた環境にその能力の範囲で順応して生きていると思っています。人間がその環境に対して能力が足りなかったり、能力があるのに環境がそれを許さなかったりする状況においては齟齬が発生し、その結果、悩み苦しんだりするものではないかと思っているのです。

 僕が思うに、自由意思というものは、もしあったとしてもとても小さいもので、多くの場合は環境に選ばされているのだと思います。医者の家の息子は、子供の頃から「将来は医者になる」と言うかもしれませんが、それはその子の選択というよりは、周囲の家業を継いで医者になって欲しいという期待に応えているだけであることも多いのではないでしょうか?

 一方、「せっかくだから俺はこの赤い扉を選ぶぜ」というような、他の何かの根拠があるようには全く思えない選択もあって、もしかすると、そういうのは自由意思なのかもしれません。

 

 「物語」という概念を定義するには色んな方法があるでしょうが。僕の持っている印象のひとつは、「環境」と「能力」と「自由意志」に齟齬が生じた状態から、徐々にそれが解消していく過程を描いたものというものです。不安定な状態が安定した状態に移行するということです。自然現象と同じです。エントロピーは増大します。

 

 悩みや苦しみは、「こうありたい」と思うことと、しかしながら、「そうはなれない」ということの差から生まれるものだと思いますが、そういった不安定な状態は、時間が経てばそれは大体解消されるものです。たとえ、それが最良の形ではなかったとしても。というか現実には最良の形ではないことの方が多いでしょう。多くの人は、自分の意志と能力と環境に折り合いをつけてそれなりに生きているのだと思います。齟齬に反発をし続けられるほどのエネルギーを持った人もときにはいるのかもしれませんが、諦めたり考え方を変えて受け入れたりする人の方が多いのではないでしょうか。

 

 思春期というのは、その意味で物語に満ちています。なぜならば、その時期には誰しも能力が変化し、環境も変わることが多いからです。それゆえに周囲との軋轢が生まれやすく不安定になります。そしてそれは多くの衝突を経つつ、自然の流れに沿って安定した状態に解消されていきます。

 

 さて、本題ですが、松本剛の「甘い水」はそんな思春期の物語だと思いました。この物語の中で少年は少女に出会います。少年には夢がありました。狭く閉塞的な田舎町を出て、遠い世界(タンザニアの自然保護)に行きたいというものです。しかし、少年にはその能力がありませんし、環境が許しません。なので、少年の心には不満がありました。一方、少女には諦めがありました。親に強要されて体を売らされていた少女は、そのどうしようもない環境と、そこから逃れる能力がないために、そこを飛び出るということを諦めてしまっていたのです。そんな少年と少女が出会うことで、新しい環境が生まれます。少女は自分の閉塞感を打破する手がかりを少年に求め、少年は叶うあてのない夢を少女に打ち明けます。

 

 少年と少女の関係性は完璧です。欠けたものを補い合うような関係だからです。しかしながら、そこには不安要素がひとつありました。それは、少年は少女の境遇を知らないということです。そして、それがバレてしまえば、その補い合うような関係性は破壊されてしまうであろうと予想されることです。少女の期待を全て受けとめるには少年は幼すぎ、そして少女はそれを察するがゆえに隠そうとします。砂で出来たお城は美しくとも、外からの波で容易に壊されてしまうのです。

 

 この物語では秘密が最悪の形でバレ、その砂のお城が崩壊してからが本番だと思います。少年の意志は混乱しますし、少年には大した能力もありません。そして、取り巻く環境はそれらでは手に負えないほどに強固に立ちふさがります。世の中は大体どうしようもありません。僕の経験では、大きな流れに抗っても疲弊が進み、力尽きたところで再び流されます。それはどうしようもありませんが、ならば抗うことに意味はないのかということです。流れに一石を投じたとしても、上流から下流へ流れるということは変わりません。でも、少しはその軌跡が変わるかもしれません。

 時間とともに収束するであろう物語を、少しでも自分の思ったとおりに変えようとすることは、仕方のないもので溢れている世の中であるからこそ、強く求めてしまうのかもしれません。

 

 少年と少女のボーイミーツガールのお話は一般的に綺麗な物語です。しかし、甘い水の物語の中では他人の幸福に配慮しない、無思慮な他人たちのせいで、その綺麗なものが傷つけられてしまいます。綺麗な場所に汚れたものを置くと、そこは汚れた場所に変わってしまいますが、汚れた場所に綺麗なものを置いても、そこは汚れた場所のままです。つまり、綺麗なものを綺麗なままにしておくためには、そこから汚いものを徹底的に排除する必要があります。

 それは言うなれば暴力であり、綺麗な物語というものは、それを邪魔する汚いものを排除する暴力をもってしてしか成立しないのではないでしょうか?綺麗なものを守るためには、そこに暴力的に抗うしかなく、戦わなければなりません。

 

 松本剛の漫画を読んでいてとても良いと思うのは、その過程のそれぞれの登場人物の感情の解像度です。微細な心の動きが、言葉と絵でさりげなく、しかしくっきりと綴られます。甘い水の主人公である少年と少女の繊細な心の動きが、ままならない環境の中で、思い通りに動かないもどかしさと、喜びと悲しみと、期待と不安と衝撃と絶望とが、ただただ描かれ、読者の僕はそれを咀嚼することになります。

 なぜ人間は物語を読むのだろうかということは前々から考えているのですが、これだ!という答えにはまだ辿り着いていません。しかし、確かなのは読みたいから読んでいるということです。それが、嬉しく楽しい話だけでなく、悲しく辛い話であったとしてもです。物語を読むということは、とても個人的な行為だと思っています。作者にはその作品を通じて、何かしら伝えたいことがあるのかもしれませんが、あらゆるコミュニケーションがそうであるように、それが100%伝わることはとても難しいです。

 なので、読者はある種の勘違いをしながらその物語を読んでいて、それは、もはや作者の手を離れた個人的な体験です。漫画で言えば、あるコマとあるコマの間には差分がありますが、そのコマ間に込められたものは、描かれてはいないので自分で埋めるしかありません。最近の考えでは、その隙間を自分で埋める行為こそが、物語を読み進める原動力ではないかと思っていて、物語を読むという状況に合わせて必要なピースが自分の中に沢山の生まれてくるという状態に快楽を得ているのかもしれません。

 

 甘い水は、語り出しの時点から、その結末が別れであることが示唆された物語です。それは猥雑に安定してしまった大人になってから振り返られる青春のひとときです。様々な大人たちの事情によって汚されてしまうものの中から、ほんの僅かな時間だけでも、暴力的にでもそれらを排除して生まれた、つかの間の綺麗な場所の記憶であるように思います。

 気を抜けばすぐに猥雑になってしまう世の中において、少年と少女が作り出した、一瞬の綺麗な場所がそこにあり、そして、それが永遠に続くわけではないという儚さを思うわけです。誰しもがどうしようもなく埋もれてしまうような増大するエントロピーに、その一瞬抗う力が存在したということを感じるために、この物語を読んだような気がしました。