漫画皇国

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屏風から虎を追い出すのが大変な話

 まずこれはシステム開発のお仕事の話なんですけど、関わると非常に大変な気持ちになったりします。

 

 ここで言うシステムとは、何らかの目的を果たすためにコンピュータで作られた仕組みのことです。コンピュータは決まったやり方を繰り返すことにおいては人間よりはるかに優秀なことが多く、また、蓄えこめる情報量もすごく多かったりするので、それまで人間が頑張ってやっていたようなことをコンピュータに置きかえて効率化を図ったりします。それがシステムです。

 

 人間は沢山のシステムを開発して、世の中を効率化しようとしています。人間の仕事を機械に置きかえることで、同じ仕組みを回す上で必要な人間の数を減らすことに成功したり、今までなら受けられなかった量の発注を受けれるようになったりするからです。

 物やサービスの値段と言うものは分解して行けば全て人件費です(例えば材料費なんかは、その材料を発掘して加工した人々に支払われる人件費と考えることができます)。なので、物やサービスを安く提供するための分かりやすい方法は、関わる人間の数を減らすことです。そこで安値を喜ぶお客様のため、人間を減らして機械に置きかえることで、様々な効率化を実現しようとしているのが歴史です。

 

 余談ですが、関わる人間の数を減らさず、人間をそれぞれ薄給にしたり、長時間労働させるという値下げの方法もあります。それにより、人間の耐久力が勝つか、機械の効率化が勝つかの戦いが繰り広げられているのが現代です。

 一見、機械に置き換えた方が効率がよいに決まっている、なんて思ってしまいますが、決まったやり方を繰り返すことしかできない機械と比べ、人間は少し変えたやり方に追従してくれやすいので(ここで労働者の勤勉性が役に立ってしまう!)、変化の激しい分野では、安くない費用をかけてシステムを開発することはリスクにも繋がります。ここに人間の付け入る隙があり、分野によっては人間を薄給でこき使った方が安いので、そうされ続けているというような現状があるのではないかと思います。

 

 さて、システム開発の大変さの大きなところを占めるのは、場合によってはあまり技術的なところではなく、どのようなものを作ればよいかとか、そのために今人間がどういうことをしていて、どういう置き換えをすればそれらを全部カバーできるかということを考えたり、データを持っている別のシステムとどのように連携するかをするかや、それをどのように継続運用できればよいか、ということを整理する部分にあったりします。

 前述のように、機械は決まったやり方を再現することは得意ですが、人間のように曖昧な指示では動けないので(人間だって曖昧な指示では動けないことが多い!!けど)、この辺を機械に分かりやすい整然とした形に翻訳する必要があります。そして、この辺でトラブると非常に大変な気持ちになります。

 

 例えば、後から変化するかもしれないところをガチガチに作り込んでしまって、変えなければならなくなったのに何も変えられなくなった場合、お金と時間のかかる大規模な改修をかけなければならなくなったりします。あるいは、せっかく作ったシステムを放棄せざるを得なかったり、間に入る人間が仲人として特殊なやり方を強いられたりすることになります。また、古くなったシステムをどうしても放棄できず、ダメだと分かっているやり方なのに、そのまま長い間辛い運用を続けないといけなくなったりもします。どれも大変辛い気持ちになります。

 何を作ればいいのか?それは、今のやり方を十分カバーできることなのか?そして、それは長期間の運用に耐えられるものなのか?ここに意思を持って最善の答えを用意することに、システム開発の重要な部分があるのではないかと思います。

 

 僕はこれを「屏風の虎」と呼んでいます。元ネタは、ご存じ一休さんの説話です。足利義満が「屏風に描かれた虎が夜な夜な抜け出して悪さをするので退治して欲しい」という、わけのわからない難題を一休さんに出すのですが、一休さんは「分かりました。ではまず屏風から虎を出してください」と、とんちで切り返します。

 「虎を屏風から出してくれれば捕まえてみせますよ」というのは、捕える技術の話ですが、世の中ではまず虎を屏風から出してみせることが難しいことも多いです。これを侮っていると、虎を出してもらえる前提で話を進めてしまい、いざ捕まえるぞと準備万端でやってきたのに、虎は屏風から出てはいないし、出し方も分からないこともあります。そして、もしかすると虎を屏風から出す方法なんてどこにもないのかもしれません。

 

 似たようなことを読み取れる伝説に、アルキメデスによるテコの原理の話があります。これは「足場さえあれば地球でも動かしてみせる」というテコの原理主義者のお話ですが、これも実際には足場がないので出来ない話です。前提条件を満たすことができない場所においては、立派な技術も宙ぶらりんとなり、その効果を実際に発揮することはできません。

 

 虎を屏風から追い出してしまいさえすれば簡単に思えることが、虎を屏風から正しく追い出せないことで頓挫することもしばしばです。システム開発を成功裏に収めるために必要な仕事の大半は、実は虎を屏風から追い出せた時点で終わっているのかもしれません。

 

 さて本題ですが、僕は今8月20日に開催予定のコミティアに向けてぼちぼち漫画を描いているのですが、屏風から虎を追い出す工程に四苦八苦しています。人間は追い出され済みの虎を見かけると、その捕まえ方についてああだこうだ言ってしまうものだと思っていて、僕も他人が描いた漫画であれば、自分だったらこうするとかをもっと気軽に考えつくことができます。

 でも、いざ自分で漫画を描こうとすると、パタリとそれができなくなってしまいます。おそらくそれはまだ屏風から虎が出ていないのだと思っていて、一方、何を描くべきかも定まっていない、つまり、虎が屏風に入ったままのうちは、それに対する改善提案や技術的な検討などもできません。このお話は何を描こうと思っていて、そのためにはどのような要素が必要で、それらをどのように演出して繋いでいくか?そして、読んだ人にどのような気持ちになってほしいか?など、物語を作る上では色々考えなければならないことが多く、ここでつまづくと、仮にどんな立派な表現上の知見を持っていたとしても、完成に辿り着くことができないのではないでしょうか?少なくとも僕はそこでつまづきまくっています。

 

 なので、今の方針としては、まず拙くてもいいので最後まで描き切ることが目標です。描き切ってしまえば、今度は読者として自分の作ったお話を読み返すことができるので、そこで初めてどう直せばいいかという技術的な検討ができるようになると思います。これは編集者が、漫画に対する知見をいくら持っていたとしても、自分では描くことがない理由だと思っていて、虎を屏風から出す仕事と、虎をどのように捕まえるべきかと考える仕事は、きっと全然種類が異なる仕事なのでしょう。

 評論家みたいなのもきっと同じで、この作品はここがダメで、こうすればもっと良くなるという知見を沢山持っていたとしても、いざ自分で作ることになった場合、今まではあくまで追い出された虎に対して言及していたのであって、虎を追い出す工程もやるはめになると上手くできないかもしれません。それゆえ、立派なことを言っていた評論家が、製作に最初から関わった作品が、別に上手くいかなかったりするケースが生まれるんじゃないかなあと思ったりします。

 

 そして僕は相変わらず特に漫画にして描きたいことがあるわけではないので、こういう屏風から虎を出すのは向いてないんだよなあと思いながらも(追い出された虎をどう捕えるのかにも自信がないけれど)、その向いてないことに取り組むのが今はなんか面白いので、やっていこうと思います。

 今の進捗は19ページ。32ページぐらいで終わるつもりですが、本当に終わるのかどうなのか…。