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漫画皇国

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京極夏彦の「百鬼夜行シリーズ」について

 電子書籍が世に普及し始めて、僕にとっての最初の恩恵は、昔一回読もうとして挫折した京極夏彦の「姑獲鳥の夏」を読み切ることができたことでした。昔、友達から借りて読もうとしたものの、本を持ち歩くのが面倒で途中で読まなくなってしまい、筋が分からなくなり、また最初から読もうとするものの、また挫折みたいなことを繰り返していたのですが、そこはさすがの電子書籍、全てスマホに入れて持ち歩くことができるようになりました。そうなるといつでも読めますから、読み切るハードルが低くなり、一回読み切ってしまえば先を読み進めるのはすごく楽になります。

 

小説を読むのは最初が難しい話

 小説は最初に読むときは一番難しいと思います。なぜならば、登場人物たちのことをよく知らないからです。彼らがどのような顔をして、どのような性格で、過去どのような行動をとってきたかを蓄積することで、その文字に書かれた架空の人々を読者の僕は認識するわけなのですが、最初の最初では、名前という記号しか分からないので、他がひどくぼんやりとしています。ひどくぼんやりとしたものを憶えるのはとても難しい。ですが、一回読み終わって、その登場人物の人となりを理解してしまえば、あとはそれを参照すればよいですから、再読はとても楽になります。初見はよく分からなくてしんどく感じても二度目以降は全然そういうことがなくなりますし、なぜ最初はあんなに読むのが難しかったのか??という風にすら思ってしまうでしょう。

 姑獲鳥の夏もそのような感じでした。一回認識してしまえば読み進めるのは楽ですし、続編もそれなりに楽に読み進められるようになりました。知らなかったことを知るというのは、自分を変革することですから、それはそれなりに苦痛を伴うのだと思います。頭の中の領域にあった情報を再配置しなければいけませんし、関連情報も整理しなければいけません。姑獲鳥の夏には大変面白い概念や、時代風俗の描写、個性的な人々が登場し、それらの情報を整理するだけでやっとのことでした。なので、初見は大変でしたが、今ではするすると読み直せます。そして、読み直すたびにそれまでは拾えていなかった情報を読み取ることができる気がしていて、これは大変楽しいなと思いました。

 

百鬼夜行シリーズ」とは

 百鬼夜行シリーズは、営む古本屋の屋号「京極堂」のあだ名で呼ばれる中禅寺秋彦が、作中の物語を解体するという物語だと思います。いつも最後に満を持して登場する京極堂が、これまで起こった出来事の意味を(憑き物落としという形で)丁寧に解説してくれるまで、そこには理由の分からない謎しか存在しませんし、分厚く長大な小説を謎を抱えたまま、解決されぬまま、ひたすら読み進めるという頭の中にもやもやとしたものが延々と広がるという、不安とストレス、そしてそれが、最後に綺麗に解体されるというスッキリ体験があり、とても気持ち良く感じました。「ああ、そうだったのか」という気持ちが、焦らされまくったからこそカタルシスとして存在するのです。そして、途中で延々と語られ続けたあの妖怪ウンチクは、物語の筋とはほぼ関係なかったのか!という別の驚きもあり、しかし、あれがなければきっと小説に物足りなさを感じてしまうので、あった方がよいと思います。

 

百鬼夜行シリーズの面白さ

 「妖怪」というものは「ある現象が存在し、その説明のために生み出される」というのが出自のひとつと言われています。例えば、川で人が死ぬと、河童に尻子玉を抜かれただの、山で人が行方不明になると、天狗にさらわれただのいう感じです。これら物語の中で起こる現象は、解体されればある種の殺人事件ですが、解体される前はある種の妖怪です。その不可思議な事件は、各小説のタイトルに含まれた妖怪の様相を呈しますが、京極堂の手にかかれば、「不思議なことなどなにもない」理路の整然とした事件となるのです。ただし、それを解体するためには多くの民俗や宗教や科学に対する前提知識がなければいけません。読者には、その前提知識が延々と与え続けられ、最後の最後に、それが何であったのかということを理解することができます。その過程こそがこれらの小説を読んでとても面白いと思った部分なのでした。

 特に「絡新婦の理」では、冒頭で京極堂が犯人を特定するシーンから物語が始まります。時系列的に言えば、それは実は最後のシーンとなるため、読者にはそのシーンの意味を理解する材料が足りません。彼らが喋っている内容もちんぷんかんぷんで、まるで意味の分からない文章なのです。しかしながら、最後まで読み終わってまた冒頭に戻ってくると、最初は分からなかった意味が全て分かるようになります。それがこの小説そのものを表しているようで大変面白く感じました。目の前の分からないものは、分からないなりに受容されるというか、分からないものには適当な名前をつけるか、スルーするというのが人間がやりがちなことだと思われますが、それは実際は物事を理解するということを放棄しているだけで、理解できれば、不思議なことなど何もないのだということです。

  また、京極堂のやり口が宗教的な雰囲気とは裏腹に非常に整然とした論理的であるというのもとても印象深いものでした。彼が使うのは「言葉」です。言葉による解説だけで、それまで人が見ていた風景を全く別のものに変えてしまいます。そして、言葉による呪いで、人を罰したりもします。彼の言葉は超常的なものではありません。しかしながら、人を動かしうる凄みがあります。それは、フィクションの中ではオカルト的な装飾によって覆い隠されがちで、神秘的で超常的なものとして描かれがちな宗教的なものについて、より原初で根本的な原理として描かれます。つまり、京極堂の言葉は、魔法の杖ではなく、物理的な鈍器です。不思議なことなど何もなく、鈍器で殴られれば人は怪我をします。そういうことです。それが読む前には、オカルト的な要素を想像していた僕にとって、とても新鮮で魅力的なものに映りました。

 

読んだ結果について

 「百鬼夜行シリーズ」を読む過程で、僕は沢山の情報を手に入れました。それは自分の宗教に対する理解や、妖怪に対する理解、人間に対する理解に対しての大量の情報であり、それを手に入れることがこれらの物語を理解するための必須条件であったのです。前述のように、新しい情報を手に入れるということは自分自身を変革するということだと思います。そこで得た情報は、また別の何かを理解するために再利用されたり、その別の何かのフィードバックを得てまた別の理解に変わったりもします。影響を受けて自分が変わる本というのはある種の良い本の条件ですが、少なくとも僕にとってこの百鬼夜行シリーズはそのような本であったと思います。何しろ毎月電子版が刊行されていた時分には、毎月その小説の話を延々としていたからです。

 各小説の細かい感想も書きたいところですが、未読の方がいらっしゃる場合、そんなものを読まずに何はなくとも読み切るということが重要だと思うので、今回は書きません。既読の方は、僕とこっそりと話して下さると嬉しいです。

 

 さて、次回作の「鵼の碑」はいつでるのか…。