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「双亡亭壊すべし」と「サユリ」と「パックマン」に見る、非対称な関係性が生む恐怖について

 「双亡亭壊すべし」の坂巻泥努さんがすごく好きなので、今週のサンデーなど、泥努さんがとても魅力的に描かれている回は、めちゃくちゃ楽しくなってしまいます。

 双亡亭壊すべしは、足を踏み入れたものを不幸に陥れる謎の建物「双亡亭」を巡るお話で、連載が進むにつれ、その正体が何であるかということが明らかになっていきます。

 

(ここからネタバレがあるので、未読の人は判断して読んでください)

 

 さて、双亡亭に巣食う者の正体は、遠い異星よりやってきた侵略者です。彼らはある星を食い尽くしたのちに、次のターゲットとして地球にやってきました。そのゲートとなる場所にたまたまあったのが双亡亭です。しかしながら、彼らにとって不幸であったのは、その風変りな建物に住んでいた絵描き、坂巻泥努という男が、人智を超える強大なエゴを持った存在であったことです。

 水で満たされた異星よりやってきた侵略者たちは、地球の空気に含まれる窒素を弱点とします。彼らは地面から染み出る水の中にその身を隠し、双亡亭に現れます。彼らは窒素からその身を守るために、人間の体も利用します。その心を恐怖によって破壊し、その隙間に入り込むことでその体を奪ってしまうのです。

 彼らは当然のように泥努の肉体も奪おうをしました。しかし、それは失敗してしまうのです。なぜならば、泥努の心はそんなことでは壊れなかったから。侵略者に支配されなかった泥努は、逆に侵略者たちを支配してしまいます。そして、彼らを自分の思った色を映す絵具として使い、時間の流れも曖昧になった双亡亭の中で、絵を描き続けているのです。

 

 人間の心を破壊するために恐怖の感情を使う、脅す側だったはずの侵略者が、凡百の人間たちがその恐怖に心を破壊され、思うがままに動かされ続ける哀れな人形に仕立てられてしまうにも関わらず、泥努に対しては、逆に脅されてしまうというところに、ある種の痛快さがあります。

 

 さて、この構図に思い当たる他の漫画として押切蓮介の「サユリ」があります。

 

 こちらは家に憑りついたサユリという霊が、そこに引っ越してきた家族を理不尽にも呪うという内容の漫画です。ホラーでありがちなように、家族は次々をサユリに呪い殺されます。そして、残るは主人公とボケた祖母だけになりました。しかしながら、次は自分たちかもしれないという恐怖の中、すっかりボケていたはずの祖母が突如として正気をとりもどすのです。それだけでなく、自分の家族を殺したサユリに対して復讐の宣戦布告をするのでした。

 祖母と主人公はサユリの抱える因縁を明らかにしながら、逆にサユリを精神的に追い詰めていきます。今までなすすべがなく、あちらからは攻撃できても、こちらからは攻撃も防御もできないような非対称な関係が逆転し、無理やりこじあけた隙間から、サユリに怒りのこもった攻撃を当てられるようになります。すると、それまであんなにも恐ろしい存在であったサユリは、弱々しく哀れな存在にも見えるようになってきました。

 サユリの強さは、自分には攻撃が当たらないという非対称なルールという虚飾に守られたものでしかなかったように思えるようになりました。対等に殴り合うならば、それほどではないのです。

 

 「サユリ」と「ばあちゃん」、「侵略者」と「坂巻泥努」の関係性は似ているように思います。一方的に殴られるだけだった非対称な関係性を、逆転し、こちらから殴ることができるように転換させられるほどの巨大なエネルギーを抱えた存在のすごさです。

 

 それはあるいはゲームの「パックマン」にも似ているかもしれません。敵に触れば死ぬ状況で、追われて逃げるしかないはずの関係性が、パワーエサをとることで逆転します。今度は今まで自分を追いかけてきた敵たちが逃げ回る番で、こちらが接触すれば食べることができるようになるのです。

 それは痛快な話だと理解できるでしょう。しかしながらそれは、自分を苦しめていたものと同じ感覚を自分が追体験してしまうという倒錯したものでもあるかもしれません。なぜなら、自分がその一方的な蹂躙を楽しいと感じるのであれば、自分がそれまで苦しめられてきたことも、相手からすればただ楽しかったのかもしれないと思えてしまうからです。

 

 いや、泥努やばあちゃんはそんなことを感じないかもしれませんが。

 

 もしかすると恐怖とは、それに対する抵抗不可能性と密接に関係しているのかもしれません。敵を殲滅できるほどの弾薬が供給されるようになった頃の「バイオハザード」では、弾薬の節約のためにゾンビから逃げるしかなかった頃よりも恐怖心を感じずにプレイできるようになっていたように思います。

 坂を下るとき、ちゃちなブレーキしかついていない自転車と、しっかり止まれるバイクでは、同じ速度で下っていても、感じる恐怖心が全然異なります。それは恐怖心の源泉が速度そのものではなく、止まれるか止まれないかと関係しているからではないでしょうか?

 

 人が恐怖と対峙するとき、それは、自分には抗うことができないかもしれないものと目を合わせることと似ていると思います。恐怖を克服するとは、それに抗えるようになったことを意味するのかもしれません。

 

 双亡亭壊すべしでは、泥努の存在によって、当初侵略者たちの持っていた恐怖は薄れてきたように思います。なぜなら、侵略者たちも無敵の存在ではなくなったからです。しかしながら、今度は泥努が、双亡亭を壊すべしと訪れる人々にとって、抗うことができない恐ろしい存在として立ちふさがります。そこに立ち向かえるのは、抗うことを諦めず戦うことを選ぶ「勇気」かもしれません。もしくは、相手を「理解」することで、自分を脅かす存在ではなくしてしまうことかもしれません。

 

 双亡亭壊すべしでは、絵描きの凧葉が、絵描きの言葉で会話するときだけは、泥努の持つ恐怖が薄れるような印象もあります。戦って打ち倒すことと相手を理解すること、どちらの先に、双亡亭壊すべしの結末があるこかは分かりませんが、僕はなんとなくそういうことを思いながら連載を読んでいます。

批判は何も生まれない?関連

 インターネットに何かを書いたり、何かを作って公開をしたりすると、反応を得られることが増えてきた感じがします。

 

 僕はずっとポリシーとして、「趣味でやってることについては他人の反応を無視する」ということを心がけていて、それは、自衛のためでした。なぜなら、僕は自分の振る舞いが他人の目にどのように映っているかを過剰に気にしてしまう子供時代を過ごしてきたからです。他人の目に良く映ろうと思い過ぎるのがしんどくて嫌だったんですよね。頑張り続けることもできず、他人の目に映らないように行動したりして。

 ネットでも他人の反応を見始めてしまうと、それに応じて、自分側の出し方を色々変えようとしてしまいそうなのが怖いと思っていました。だって、それはそのうち、「他人に怒られない」とか、「他人に良く思われる」ことを基準にして自分の立ち振る舞いを決めることになると思ったからです。つまり、自分の行動を全て他人が決めることになります。なんで他人の思う通りに生きなければならないのでしょうか?

 その相手が、自分が大切に思っている人たちではなく、ネットで目にする知らない人たちであるとき、その意味はないなと思っていたんです。自分がしたいことをしたいようにする自由さの方がよほど大事だと思っていました。いましたというか、今も思っていますが。

 

 でも、ここのところ、なんらか話題にしてもらえるタイミングがいくつかあったので、エゴサとかをするように頑張ってみました。届いた感想も全部読みました。そしたら、さすがにもう中年になって若い頃ほど感覚が鋭敏でなくなってしまったのもあるのか、意外と平気だったんですよね。あれ?なんか平気になっているなと思ってびっくりしてしまいました。

 僕は褒められるのも貶されるのも見たくなかったんですよ。褒められたらより褒められるように振舞わなければならないとか、貶されるなら貶されないように振舞わなければならないとか、自分がどうしても思ってしまっていたからです。

 でも、今は「ああ、この人はこう思ったんだな…」と思って、それで終わりになりました。

 

 褒めるとか貶すとか、それは結局「その人が持つ価値観」と、「その人が比較対象として見ている何らか表現」との差分でしかないんじゃないのかなと今は思っています。

 作った人が、その人が自身で抱える価値観をガイドラインにして良しとなるものを作ったとき、それとは異なる価値観を抱えた人がそれを見ると、自分の価値観と「合致している」とか、「異なっている」ということに気づくはずです。

 甘い食べ物が好きな人が、甘い料理を作ったとき、辛い食べ物が好きな人がそれを食べると、これは辛くなくて甘すぎると思ってしまうでしょう?それだけのことだと思います。甘いものが好きなら、「甘くて良い」と思いますし、辛いものが好きなら、「これは辛くないので良くない」と思ってしまいます。仕方ないじゃないですか。自分が辛いものが好きなのを無視するわけにもいきません。

 

 もちろんそれだけの話だけではなく、人は何らかの作品に出会うことで価値観を変化させることがあります。それまで甘いものが好きではなかった人が、とても美味しい甘いものに出会ったときに、甘いものが好きになってしまうかもしれません。そのように個々人の価値観は流動的で、自分の人生のどのタイミングで何かの作品に出会うかで、その感想は変わってしまうかもしれません。

 

 ただ、それでも、結局その場その時に限定してみれば、何かの作品にであって思うことは、その場その時の自分の価値観と合っているかどうか?ということだと思います。つまり、自分の話なんですよ。その価値観が、世界の全てで共有されている唯一無二のものであることはありえないんですから。

 誰かが作った何かが、自分の感覚と合致しているとか異なっているとかを表明することが、褒めるとか貶すなんじゃないでしょうか?それはあるでしょうし、それを表明することも別に悪いことじゃないですよね。

 

 さて、僕が作ったものに対して、批判的な意見があったとします。僕はいつからか上記のように物事を解釈するようになったので、「ああ、この人は僕とは異なる感性を持つ人で、それを教えてくれているんだな」と思います。

 その上で、その人に褒めてもらいたければ、その人の感覚に合わせたものをその後作るでしょうし、特に褒めてもらいたくなければ今まで通り自分の感覚に即したものだけを作ると思います。これが趣味ではなく、商売なら、どれだけの人の感覚に即したものを作れるかも重要な要素となってくるかもしれません。なぜなら、より多くの人に受け入れられる価値観に即しているかどうかが、自分の報酬に跳ね返ってくるからです。

 だから、他人の感覚に即して物を作ることも別に悪いことじゃないですよ。僕も仕事では、他人に頼まれたものを、他人に喜んでもらえるように作っています。ただ、世の中には全ての人間で共有されている価値観はないということで、人間の数だけある価値観の中で、どれに合わせたものを作るかは、作る側に選択権があると僕は思っているんですよ。

 

 「世の中には批判ばかりが溢れていて、そのために作る側が萎縮してしまうのは良くないから、もっと褒めるようにしよう」というような意見を目にします。一方、「世の中にはぼんやりと褒めるような意見ばかりで、もっと適切に批判がなければ良くならない」という意見も同時に目にします。

 そのそれぞれは、それぞれの発言者の主観において正しい認識なんだと思います。ただ、目の前に自分の価値観に合致した作品があるなら、それに対する批判を不快と捉えてしまうかもしれませんし、目の前に自分の価値観と異なった作品があるなら、それに対する賞賛を不快と捉えてしまうかもしれません。

 つまり、同じ話をしているわけです。今目の前にあるものが、自分の価値観と合致していて欲しいという願いの話です。そして、それが他の価値観に邪魔されず続いてほしいということでしょう。

 

 だから、「批判があったっていいじゃないか」と僕は思っています。その矛先が僕に対して向けられるものでもです。なぜなら、それは発言者のある種の悲鳴のようなものだと思っていて、その作品が自分の方を向いてくれていないということが不快だったり、悲しいんじゃないかなと思うからです。だから、もっと自分の価値観に合致したものを作って欲しい!と主張してしまうのではないでしょうか?

 そして、その願いを聞いて、そのようにするかどうかは作る側の判断です。聞いてもいいし、聞かなくてもいいでしょう。

 これは褒める場合でもそうです。あなたの作るこれが良かったからこのようなものを今後も作って欲しいという願いが届けられたとき、そのように作り続けるかどうかは作る側の判断です。もし、それを裏切るようなものを次に作れば、それまでの賞賛は、一転批判に変わるかもしれません。

 だから、きっと賞賛も批判も実は同じことだと思っています。価値観の話です。そして、繰り返しますが、世の中には共有される唯一絶対の価値観があるわけではありません。だから、その違いが、生じることは自然で、それが表明されることも悪いことではないと思っています。

 

 だから、批判ばかりでは何も生まれないわけではないということはないでしょう。その批判をしている人たちが、そういう価値観で生きているんだなという理解が生まれるからです。

 しかしながら、その批判は、そして賞賛も同様に、立場の表明でしかなく、それをしたところで、対象の作品やら人やらが、その批判や賞賛に合わせて行動しなければならない理由は基本的にないと思うんですよ。自分が出資して作って貰っているとかなら別ですが。

 僕が嫌だなと思っていることは、自分がその価値観の合致や相違を表明しているのに、相手にそれに合わせてもらえないとき、どれだけ主張しても相手がそうならないことが怒りに変化してしまうことです。怒りによって相手に精神的な重圧を与えることで、そこから逃れる動きを利用して自分の思い通りに相手を動かそうとすることは、相手の自由意志の否定であって、とても、暴力的な話だなと思うからです。それはやっぱり嫌ですね。

 

 ともあれ以上の理由から、何かを作っている人は、その作品に対する批判賞賛に対して、その批判賞賛は話者個人の価値観の表明であると認識して、間違っても世界の全てだと誤認しない方がいいんじゃないかと思っています。そして、そこで表明してもらった個々人の価値観に、自分が合わせたいかどうかを考えるという一拍を置くと楽な気持ちになるんじゃないかと思っています。

 また、批判も賞賛も価値観に多様性があり、そこに違いがある以上、自然に生まれてくるものなので、その表明は妨げられるものではないだろうなと思います。

 

 何かを賞賛ばかりしている人は、世間に溢れているものが自分の価値観と合致していて楽しいんだろうなと思い、何かを批判してばかりいる人は、世間に溢れているものが自分の価値観と相違していてしんどいんだろうなと思います。

 そういうものだなと思うことで、自分が作っているものに対する反応も、なんか他人事のように思えるというか、実際他人事なんだろうなと思って、それが自分がいつの間にか他人の反応が平気になってしまっていた理由なのではないかと思いました。

漫画を読み返して以前と違うことを思う関連、あと痛みが怖いという話

 ここ数日、「Dr.コトー診療所」を読み返しています。で、17巻にこのようなセリフがあります。

 

「痛み」は、人間のすべての気力を失わせる。楽しむ、喜ぶ、働く、生きる… …

その気力すべてを奪って、人の一生を「痛み」に耐えるだけのものに変えてしまう。

 

 これは鳴海という医師の言葉で、ある患者の手首を切断する手術をするかどうかの話の中で登場する言葉です。手や足を切断するということ、それは生きるために必要であったとしてもショッキングなことです。コトーは、その手術の技術によって、普通なら切断するような状態でも温存することができるかもしれません、 しかしながら、完全に元どおりにすることは困難で、ただ残しただけで上手く動かない体は、むしろ人の生活に不便を生じさせてしまうかもしれません。

 自身も右足の切断を経験し、義足の使用して生活している鳴海は、むしろ切断の方がいいと主張し、それはコトーの判断と対立してしまいます。

 

 連載時にこのくだりを読んだ時、コトーが正しく鳴海が間違っているというような印象で読んでいたように思います。この先の展開でも、鳴海の方が正しいというふうにはなりません。自分が抱える幻肢痛の痛みを、再建可能かもしれない他人の四肢を切断する判断をすることで誤魔化そうとするような鳴海の姿が描かれ、そして、その幻肢痛の原因自体は、切断するという事実とは関係ないことで取り除かれます。

 

 しかしながら、終わりのない痛みが続くことと、それによって気が狂うような気持ちになってしまうことについては、今読むと分かるような気持ちになりました。それは、自分がそれを経験したからです。

 歳をとってきたことから、たまに病気をやることがあり、それによってすごく痛いことになったりしました。そのときは、何日もの間、痛みが断続的に来ることで、眠ることもままならず、ひたすら呻いているような状態で、たった数日で、生きる希望が失われたりした気分になりました。

 生活する上で、何も困ったことはなかったわけです。あらゆることが順調で、将来の不安も特にないぼんやりとした毎日でしたが、それでも終わらない強い痛みが少しの間続いただけで、全てがおしまいのような気分になります。健康ですよ。健康がすごく大事です。

 

 鳴海は悪い医師だったし(その後改心しますが)、彼は嘘を並べ立ててとんでもないことを巻き起こしてしまったりもしますが、それでも、彼が「痛み」について語ったことは、何も間違っていないし、僕自身の経験と照らしても、真実だなというような気持ちになったりしました。

 彼は彼なりに苦しんでいたということが、自分の経験が合わさることで、分かるような気持ちになったということです。

 

 物語は、人が物語を描くということで終わるのではなく、それを別の誰かが読むことでようやく完成するものなんじゃないかと思っていて、どんなに素晴らしい物語があったとしても、それは100人が100人素晴らしいと感じるものではなく、読む側にそれを解釈する素養がなければ届かないものだなというふうに思います。もしかすると、世の中には100人のうちの1人しか上手く理解できないものもあるかもしれません。でも、それが99人が分からなかったとしても、1人が分かるなら、それはその1人にとっては掛け替えのないものだったりすると思うんですよね。

 年齢を重ねることで、経験が増え、解釈できるものも増えたように思っていて、だから、大人になってから読んだ方が面白い漫画なんていうのもすごくたくさんあるわけです。歳をとると目が肥えてきて、面白がれるものの範囲が減る、というような話も聞くんですが、別にそうとは限らないというか、昔は面白さがよく分からなかったものについても、今は分かると思うことがよくあります。

 

 なんかまたややこしいことを書き始めてしまいましたが、そういうことではなくて、「痛み」マジやべえよ…という気持ちがあり、ちょっと痛いだけで、あらゆる人生の調子よさが徹底的に破壊されてしまうみたいな気持ちがあり、そんだけ痛いときに何か言われたら、僕はめちゃくちゃ嫌な人間になってしまうだろうなという想像があります。

 極限状態になったときに人間の本質が出てくるみたいな話もありますけど、ほんとそうか?と思っていて、めちゃくちゃ痛いときに、何か言われて、めちゃくちゃ痛いがゆえに余裕がある対応をできなかったときに、それがお前の本質だ!!とか言われたらめちゃくちゃ嫌じゃないですか?もうほんと嫌なんですよね。痛いの。

 

 だから、鳴海先生、僕はめっちゃ言ってること分かりますよと思いました。痛くない感じに生活していきたいと希望しています。

自分の思考方法がまったく論理的じゃない関連

 「論理的な思考能力が重要」みたいな話があると思うんですけど、困ったことに僕は日頃から全く論理的に思考をしていません。「元になる何か情報があって、それを信頼できる論理をガイドラインにしながら筋道立てて展開していくことで最終的に結論に至る」とかではなく、初手でいきなり結論を得ています。

 とりあえず結論を得てから、それを正当化するための適当な理屈を選び、それっぽく装飾して話すのが僕の日常的なやり方です。理屈なんて後付けの嘘です。言わば詐欺師ですよ。

 

 でも、僕が思うに、これが多くの人の基本的な思考形態です。神秘的なのは、なぜ最初にいきなり結論を得られ得られるかということです。今のところの僕の解釈では、そこには利害関係が強く関わっています。つまり、自分にとって一番都合がよいと思われることを無意識に選び取っているんですね。一番利が大きく、一番害が少ないものが、その結論と近いはずです。そして、その自分が得するはずと思った結論を、あたかも場にいる全員が得をするとか、一番正しいことだとかという風に飾り立てて、皆もそれにしようよと騙していったりするわけです。

 

 あたかも自分が、論理を使ってそこに辿り着いたかのように説明する人は沢山いますが、僕の偏見では大半は実はコレじゃないかと思っています。論理は後付けで、それもパターンマッチングです。それっぽい理屈をあらかじめ色々用意しておいて、それに当てはまりそうなものを適当にピックアップして、ほら、これで辻褄があるから正しいでしょう?って言ったりなんかするわけです。でも、そんなもの多くの場合、全くに虚飾で無意味ですよ。それっぽいだけで再現性もなく、論理の接合部分を適当に誤魔化し、データも適当に都合がいいものだけピックアップしてこじつけているだけで、茶番であることがとても多い。

 その証拠に、自分が抱えている結論に合致している事例が出てくると、人は反射的に喜んでしまいます。その事例にどれほどの信憑性があるかどうかの検証もせぬままに、その事例を根拠にすれば、自分にとって都合がよい結論に至れることが分かれば、拙速に引用してしまったりします。ちゃんとした論理じゃないんですよ。その場その瞬間だけ妥当性があるように見せかけられればいいということを優先させてしまうから、人はそういうことをしてしまうわけでしょう?

 それを論理的だと思い込んでいることが邪悪です。ホントはやめたほうがいい。そんなものに身を任していては、きっとどこかで転んでしまうじゃないですか。

 

 だってそれは、科学のふりをした科学ではないものとも強く親和性があるものだからです。

 

 「このNASAが開発したロズウェルXサプリを飲めば、寝ている間に脂肪が燃焼してみるみる痩せる!!」って言われたときに、なんと、NASAが開発したサプリを飲めば、寝ている間に脂肪が燃焼してみるみる痩せるんだよ!!これはとても論理的で、NASAが言っているということはエビデンスもあるんだよ!!みたいなレベルの説明に飛びついてしまったりするわけですよ。

 なんで飛びついてしまうか?それは運動をしろとか、食事制限をしろとかいう面倒で厄介で再現性のある正しい方法よりも、楽に痩せるという結果に至れそうという、一番得しそうな結論を示唆してくれているからではないでしょうか?その機序が本当に正しいかの検証を何一つせずにする判断はつまり、信じるか?信じないか?ということだけです。何の材料もないのにしたその判断に、どれほどの意味があるというのでしょうか?

 

 「日本人は現場は優秀だが、マネジメントが無能だ」というような理屈を見たときに、そうだそうだと飛びついてしまったりしませんか?もし、飛びついてしまったときに、アナタは現場の人ではありませんか?あるいは、そんなことはないだろうと思ったときに、アナタはマネジメントをやっていたりはしませんか?そう思った理由は、「自分にとってその方が都合がよい」ということだったりはしないでしょうか?

 そこに何のデータ的な裏付けもないのに、目の前にある適当な状況から、自分が一番得する結論にいきなり飛びついて、その後、それがあたかも正しいかのように説明する適当な理屈を探し始めていたりはしないかって話ですよ。

 

 そんないい加減なことをしているような人が、「自分は論理的だ」とか思い込んでいることだって多いです。僕は自分がそうなっていないか日々ビクビク怯えています。でも、真面目に考えた方がいいことじゃないですか?だって、それは個人の利害の問題でしかないんじゃないのに、それを誤魔化しているだけかもしれないからです。だから、可能な限り自分の判断の根拠は正確に理解した方がいいですよ。自分は自分にとって都合がいいことを言っているだけなんじゃないかと疑って。

 

 僕は仕事で論文を書いたりもするんですけど、論理的に考えてデータを検証して書くのってすごく大変だと感じています。でもちゃんとやるわけですけど。ただ、そういうことをしていると、逆に、自分は日常的に判断していることは、なんて無根拠なんだろうということにも気づいたりします。

 

 僕は基本的に日々の生活を利害関係で判断していて、自分が得するように動いています。別に悪くはないですよね?人間は自分が得をするように生きていいと思うんですよ。

 でも、それを「自分は利害関係で動いているな」とちゃんと認識することが生活を具合よくする感じに思っています。なぜならば、「自分が得だからこうしたい」ということが、「他人の自分が得だからこうしたい」ということと対立したとき、人間と人間が対等という認識があれば、自分の要求が単純に通ることはないな!と納得できるからです。自分の要求と他人の要求がかちあうとき、そこに調整する必要があると思えます。しかしながら、これを「正しさの話」だとしてみてしまえば、目の前の他人が自分の思った通りに行動しないことは「間違っている」と思ってしまうじゃないですか。

 それは他人に対して一方的に損をしろと命令しているようなもので、めちゃくちゃ他人の尊厳を傷つけることだと思うんですよね。

 

 自分を正しく理解することで、むちゃくちゃなことを言う人にならなくて済みますし、それによって周囲の人間との軋轢が減るので、ストレスも減ります。これは「自分は論理的じゃないな」と思いながら日々の生活をしていて、それをそのまま認識することで日々の生活が具合よくなっているという僕の話でした。

 なんかいい話っぽく締めようとしてしまいましたが、これも嘘です。この本心を正確に記述するなら、インターネットを見ていて、こいつらも僕と同じでまったく論理的に考えて得た結論ではない話をしているだろうに、自分が論理的で普遍性のある考え方をしている風に主張しているのがなんかムカつくなあ~という気持ちになったという話です。

男性の生きづらさを描いた漫画関連

 「女性の生きづらさに関する漫画は近年数あれど、男性の生きづらさに関する漫画はあまりないように思う」という話を目にしました。

 

 そもそも「生きづらい」というのはどういうことか?という話があるのですが、僕の認識では「自分が周囲から求められている姿と、自然な姿の自分にギャップがある状態」のことだと思っています。だから、そのギャップを表面上無くすために、日々無理矢理合わせて頑張っていることに息切れをしてしまうのでしょう。だから辛い。

 

 このように考えたとき、「生きづらい」ということには2種類あるのではないかと思います。それは、「求められる姿に合わせることはできるが辛い」のか、「求められる姿に合わせることすらできなくて辛い」のかということです。後者は、場にある価値観において自分が劣っている立場にあることも含まれます。

 「金を稼ぐ男は偉いが、自分には金を稼げない」とか、「モテる男は偉いが、自分はモテない」とか、「強い男は偉いが、自分は弱い」とか、そういった生きづらさを描いた漫画は沢山あるでしょう。しかしながら、それらが即、「生きづらさを描いた漫画」に分類できるかというと、そうではないと思います。つまり、そのギャップを「金を稼ぐこと」や「モテること」、「強くなること」のような直接的なやり方で克服してしまうと、抱えていたその苦しみは解消できたとしても、結局自分を苦しめた価値観自体にむしろ依存してしまうことになるからです。

 

 いわゆる「生きづらさの解消」とは、「自分を苦しめる価値観そのものとの付き合い方を変える」ということだと僕は思っています。

 そこで、この認識において、男性の生きづらさを描いた漫画とは何かということを例示してみます。

 

 「最強伝説黒沢」は、男性の生きづらさを描いた漫画だと思います。主人公の黒沢は、人望や出世、家庭を持つことなどの、世の中によくある男性がステータスとして評価される項目を何一つ満たしていない男です。だから、自分が他者と比較して劣っているということに傷つけられています。そして、そのギャップを減らすための行動を何もせぬままに歳だけをとり、もはや手遅れで、自分が思い描く理想の自分像には決して届かないのではないかということに絶望しています。

 黒沢は、物語の中でそのギャップに苦しみ、その解消のためにあがきますが、そのためにとる行動はいちいち的外れで、決して望んだ自分に到達することができません。そんなみっともない姿の黒沢から出るのが「俺を尊敬しろ」という言葉です。でも、そんな言葉を発しても当然誰も尊敬してくれません。尊敬してもらおうと行動しても、決して尊敬してもらえるような存在になれず、あげく「尊敬しろ」と悲鳴のように他人に命令してしまうような人間を、誰が尊敬するというのでしょうか?自分が望み、そこに手を伸ばす行動が、何よりもそれを失わせるような結果に繋がるということは、人間の悲しみの中でも大きなものだと思います。求めれば求めるほど、求めたものが遠ざかるのですから。

 黒沢は、様々な状況に遭遇し、とんちんかんな行動を見せながらも、想定とは異なる方法で徐々に人の信頼を勝ち得ていきます。なぜなら世間的な尺度では立派な人ではないけれど、根っこのところで黒沢はいいやつだからです。得られた人望は、黒沢が最初に望んだ種類のものではないかもしれません。仕事場での出世なんて望むこともできず、結婚相手も見つからず、家庭を得ることもできません。

 それでも黒沢の生き方は、最終的に彼の中に大きく欠けていたものを埋め、温かさの中で眠りにつくことで最終回を迎えます。

 だから、これは男性の生きづらさと、その中で生きることを描いた漫画と言っていいのではないでしょうか?

 

 「hなhとA子の呪い」もまた別の種類の生きづらさを扱った漫画だと思います。その生きづらさの理由とは「性欲」、男性として自分に備わっている性欲が、異性を傷つける種類のものであることを自覚しながらも、決して手放すことができず、目を背けてもそこにあることを自覚せざるを得ないという苦しみがそこにあります。

 自分が心から慈しむ存在を、他方で淫らな妄想で汚してしまう自分自身に対する嫌悪感との付き合い方を、主人公の針辻くんは模索します。

 この物語でも、針辻くんはあれだけ嫌悪した自分の性欲を捨てることはできません。だって、腹が減るのが嫌いだからといって、腹を減らさないようにすることはできないし、眠ることが嫌いだからといって、眠らないように生きることもできないからです。それを外に出すかどうかはコントロールできるかもしれません。でも、性欲は他の欲と同様にそこにあるものです。針辻くんは物語の中で、自分の性欲を抱えたまま、それから目を背けることなく生きる方法を獲得していきます。

 針辻くんは自分が一番好きな相手からの好意を獲得することに成功しますが、それは針辻くんを苦しめたものを解消する手段ではありませんでした。誰かの性欲によって傷つけられた人を、心配することと同時に、彼女を傷つけたものと同じ性欲が自分の中にも確固と存在していることにも気づいてしまうからです。それを手放すことはできず、あることを認識しながらも、それでもそれで生きていくしかありません。

 これも、男性という性に内在する暴力性を自覚することと、それを決して発露してはいけないという狭間で苦しんだ生きづらい男が、生き方を獲得していく真面目で悲しく、希望ある物語です。

mgkkk.hatenablog.com

 

 男性という存在は、傾向として女性よりも体が大きく力が強い存在です。そして、その強いということがむしろ自分自身を傷つけることがあります。なぜならば、その強い力があっても、それを外に出すことは社会的に咎められるケースが多いからです。生来強い者が強いことで何かを得ることが不平等だということ、それは当たり前のことだとは思いますが、その当たり前を実現することが人に負荷を与えないわけではありません。

 

 様々な動物たちが人間のように暮らす世界を描いた「BEASTARS」は、力が強い者の苦しさや悲しみも描いていることが特徴的な物語です。

 大型肉食獣の熊は、その強い力を抑えるために薬物の摂取が義務付けられています。その膂力は容易に他人を傷つけることができるために、事故の防止のためにも強制的に封じられる必要があるからです。作中で大きな事件を起こしたある熊もそんな存在でした。彼は、強く生まれてしまったがゆえに、薬物を投与されるという大きなストレスを強制され、自分があるがままに生きることも許されず、ついには凶行を起こしてしまいます。

 大型草食獣では、象もまた同じような悩み苦しみを抱えていました。自分が生来強いがゆえに、平等な世界では、その強さが忌避されます。世の中の平等に合わせるためには、常に我慢を強いられるということが精神を蝕んでいくわけです。

 弱き者が、その弱さゆえに強者に怯えてあるがままにいられない苦しみの対極に、強き者が、その強さゆえに弱者に配慮してあるがままにいられない苦しみが描かれています。

 これらは、男女の関係としても読み取ることもできますが、他の様々なものになぞらえることができる関係性です。不平等な生来の特性を持つ者たちが集まった社会において「平等である」ということは、そこに参加する人々のたゆまぬ努力のもとに達成される状態であって、それは、そこに関わる様々な立場の人たちがある程度の生きづらさを与えてしまうものなのかもしれません。

 現在の「BEASTARS」では、そのどちらにも属し、どちらにも属せない社会の隙間の存在の悲哀が描かれています。それは男性の生きづらさでもあり、女性の生きづらさでもあると捉えることができるかもしれません。あるいは、それとは全く別の分類に置き換えても理解できる問題です。性による隔てに限らず、人が同じ社会を営むということは、様々な側面で生きづらさを生み出してしまうものなのかもしれません。

mgkkk.hatenablog.com

 

 例をあげればまだまだ見つかるかもしれませんが、男性の生きづらさに寄り添った漫画もあると思います。しかしながら、それ以上に、その生きづらさの解消を、その価値観との付き合い方を変えるのではなく、自分を生きづらくした世界のルールをそのままにして、その中の立場転換によって解消しようとする漫画の方が目にしやすいのかもしれません。

 つまり、弱い男が弱いままで生きる道を探るより、強くなることで克服する物語の方が多いということです。それだって解消方法としては間違っているとは言えないでしょう。何にせよ生きることの辛さをなくして生きることができればよいと僕は思うからです。ただ、それしか方法がないと思い込んでしまうのが、男性的な生きづらさの根源にあるのかもしれませんが。

 そういうある価値観の中で強者になることができないときに、そこに寄り添ってくれる漫画もあります。これからさらに増えていくのかもしれません。

 

 何かの物差しを採用して優れているとか優れていないとかの話をすれば、優れている人の数だけ、その他方に置かれた優れていない人が生まれてしまいます。つまりそれは、100人いて100人が幸福になれる方法ではないわけです。様々な特性を持った人々がひとつの社会を維持する上では、少なからず、その人々が自分の生来の特性とは異なる何かしらに合わせて生きなければならないかもしれません。そこから完全に自由になることは一生あり得ないのかもしれません。

 それでも、自分が何に合わせて生きているのかを自覚し、そこに何のためにどれだけ合わせるべきなのかを上手く調整することが、生きづらさを解消するための道なのかもしれませんね。そういう物語が生まれているということは、それを求めている読者がいるということだと思います。

 書いててよく分からなくなってきたので唐突におしまいです。

感想を書きにくい漫画がある関連

 面白い漫画なのに感想が書きにくいっていうことあると思っています。例えば、1話完結のオムニバス漫画の感想などはそれがどれだけ面白くても書きにくいです。なぜならば、ひとつひとつのお話が短いので、仮にその中のひとつの感想を書いたとしても、単行本や連載全体を言い表したことにならず、その漫画が持つ100の魅力のうちの1しか書いていないような気持ちになったりするからです。

 書き終わった感想文が、足りないものであるという気持ちになります。あんな魅力もこんな魅力も、この漫画は持っているのに、自分はその大半について書いていないということが疑問として残ってしまいます。

 

 僕がこう思ってしまうことには謎の前提があると思っていて、つまり、感想は、その1回の感想によってその漫画全体の魅力のできるだけ多くを語らなければいけないと思い込んでいるということです。別に100分の1だけでもいいじゃないですか。それを100回書いてもいいはずです。

 

 漫画に限らず、映画やテレビドラマや小説の話をするとき、ついついストーリーの話をしてしまうことがあります。なぜそうなってしまうかというと、その物語が何であるかということについて、できるだけ簡潔に多くの要素を語れる手段がストーリーについて語ることだからではないでしょうか?もしくは、それはテーマでもいいかもしれません。その物語全体の裏側に流れる共通する要素をテーマとするならば、テーマについて語れば、その物語の全てを語ったことと同じと考えることもできるからです。

 

 しかしながら、ストーリーやテーマなどは、漫画が完結しなければ完全に語ることが難しいエリアでもあります。「寄生獣」を序盤だけ読んで、「この物語のテーマは愚かな人間に対する警鐘だ!」と語ってみたとしても、その後を読み進めれば、違う意見となってしまうかもしれません。となれば、漫画の感想は完結するまでは十分には語ることができないことになってしまうじゃないですか。

 でも、本当はそんなことはないですよね?

 

 「あるページのあるコマに出てきた一言や、人間の表情なんかがめちゃくちゃ好き」だって立派な感想だと思うわけですよ。それがその漫画の持つ魅力のうち、0.01%しか語っていないとしても、それはきっと立派な感想です。あるキャラが好きとか、特定のギャグが好きとか、自分が読んでそう思ったのなら、そうだけをそう書けばいい話で、でも、いざ感想文という形でかしこまってしまうと、それだけのことを書きづらかったりもします。

 

 「ジョジョの奇妙な冒険」の魅力について語っている人が、「ジョジョ立ち面白いよね!ジョジョ立ち!!」とか作中に登場する特異なポーズのみを語っていたとしたら、君はジョジョの持つ沢山の魅力について、全然わかっていない!!なんて言ってしまいたい気持ちが湧いたりもするんじゃないでしょうか?

 でも、ジョジョ立ちが好きとかって別に全然悪くないわけですよ。それが沢山あるうちのたったひとつだったとしても、それを読んだ人が、それを面白いと感じ、それが良かったと表明することに対して、他人が言えることなんて、きっと何もないでしょう?

 

 そういう「感想たるもの、こうあるべし」、みたいな謎の規範意識が自分の中にもあり、それを守ろうとしてしまうことが結果的に筆を止めてしまったりします。この漫画は何の漫画だったのか?とか大上段に構えた立派な感想文だけが良いということもなくて、なんかよく分からないが自分はとてもよく感じたという事実だけを記録したっていいですし、それは十分意味があることだとも思うわけです。

 

 この前、「海獣の子供」の映画を観ましたが、五十嵐大介の絵をそのまま動かそうという試みの時点で、僕はもう観に行ってすごくよかったなという気持ちになりました。でも、ストーリーについて語ろうと思うと上手く語ることができません。そもそも原作漫画自体が、言葉では語り得ぬものを描こうとする試みであるからです。

 「星の、星々の、海は産み親、人は乳房、天は遊び場」、海獣の子供で描かれているストーリーは、作中で語られる言葉で言い表せられるこれだけのことだと思います。この言葉だけでストーリーは語り切っていると言ってもいいかもしれません。だから、他の多くの漫画のように、ストーリーを基軸として、何があって何があってどうなったということを語ること自体に特に大きな意味がないと僕は思っています。

 そして、ストーリーを上記の言葉で語り切ったとしても、語られていない残りの無数があるわけでしょう?ストーリーではなく、言葉で語ることも難しい領域がそこにはあって、だから、それを他人に伝えることも難しいですけど、それに価値があることは読んだり観たりした自分には確証があるわけです。

 

 バレエ漫画の「昴」において、主人公の昴と、作中バレエ界の頂点にいるプリシラロバーツが、同じボレロという演目で同じ時期に舞台立ち、対決するという下りがあります。

 プリシラロバーツのボレロは、人間の動きの中に音の要素を取り込むことで、徐々にオーケストラの音が小さくなっても、人の耳には音が認識されるという内容でした。そのボレロは当初上手く行かず、帰宅後の人々の脳の中で、延々と聞こえていないはずの音楽を流し始めます。

 この実験とも言える体験を批評家が否定的と賞賛を入り混じるように語った内容が評判となり、プリシラロバーツの舞台は連日超満員となりました。

 一方、昴の舞台は違います。それは自身が踊る中で到達するゾーンの精神性に、観客全員を引き込むというような内容です。才能あふれるトップダンサーが、ようやく到達できるゾーンに、ただ見ているだけの観客を引き上げ到達させることができるのです。ある観客は、その体験を麻薬に喩えました。

 昴の舞台にも沢山のお客さんが入ります。しかし、舞台自体は世間でそれほど話題にはなりません。席を埋めるのはリピーターです。彼ら彼女らは、その体験を他人に十分に語ることができず、その必要性も感じておらず、ただ、再び体験したいと思って何度も足を運びました。

 

 この2つの舞台は、両方とも特異な魅力を持つものですが、前者は語れるがゆえに多くの他人を巻き込むことができ、後者は語りにくいがゆえにリピーターは増えても広がりは狭くなってしまいます。どちらに優劣があるという話ではありませんが、商売としての切り口で考えるなら、前者の方が儲かるものになりやすいかもしれません。

 

 昨今のSNS等で目にする何かの作品を語る方法では、後者のような「感想を体系立てて語りにくいもの」に対して「良いものであるという体験的な確信」だけを得た人が言及するものを目にすることが増えてきたように思います。それはある程度定型的な文言だったりもしますが、上手く語れない確信だけの話をする上でのジレンマを乗り越えるための方法としては、意味がある行動のように思います。

 だって、語れないのだからと沈黙していては、そのような作品が続かないかもしれないじゃないですか。

 

 もうひとつ、そのような定型句による褒めが発生する要因としては、少しでもネタバレをしてしまうとその体験を棄損してしまう可能性があるので何も言うことはできないが、とにかく見てくれという気持ちだけを伝えたいというものもあるかもしれません。

 

 オタクは自分が良いと思ったものをとにかく他人に伝えたいという気持ちを持ちがちじゃないかと思うわけですが、その中でも上手く伝えやすいものと、上手く伝えにくいものがあると思います。だからと言って、上手く伝えやすい内容の作品ばかりが知られ、そうでないものが知られないということは悲しいし、それゆえに、知られるものだけに世の中が特化してしまうのも悲しく感じてしまいます。

 とりわけ漫画は、複数人で同時に読むということが基本的にできないメディアですし、言葉以外の共時的な体験で他人と繋がるのが、難しい前提があるようにも思います。その中で、どのように伝えればいいのかということを、たぶん沢山のオタクたちが模索しているのではないかと思っていて、その結果、受容のされ方や広まり方はこれからも変わっていくのではないかと期待していたりもします。

ちばてつや賞ヤング部門で佳作を受賞しました報告

 皆さんにご報告です!僕の漫画がちばてつや賞のヤング部門で佳作を受賞だそうですよ!!

yanmaga.jp

 以下で読めるので、まあ読んでください。ただ、これはコミティアに出してた漫画なので、読んでいる皆さんもいるかもしれない。

comic-days.com

 

 経緯ですが、2月のコミティアにいつものように出ては、ぼんやりと本を売っていたら、編集さんに声をかけてもらい、漫画を買って読んだんですけど連絡していいですか?というやりとりがあって、その後、この同人誌をそのままでいいのでちばてつや賞に出してみませんか?という提案をして頂いたので、原稿を送りました。

 結果的には漫画はそのまんまではなく、気が付いたところをちょこちょこ修正をしています。僕はいつもネームもなくいきなりペン入れをしているでの、自分で見ても明らかに雑過ぎるところがあったからです。台詞もちょっとだけ修正して、投稿規定に1ページ超過していたので、それも圧縮してみました。

 

 それが佳作を受賞をしたそうなんですよ。

 

 さて、僕は人間をなかなか信じないタイプの人なので、編集さんに声をかけてもらったときも、確かにロゴが入っている名刺だが偽造だったらどうする?とか、でも出版社のドメインからメールが来ているので、それは信じてもいいのかな…送信元偽装もなさそうだし…などと、めちゃくちゃ失礼な疑いをしており、受賞したと聞いても、本当に本当のそうなのか?騙されているのでは?と思ってあんまり現実感が持てなかったのですが、先週の日曜の夜にコンビニでヤンマガを手に取ったら、自分の名前があったので、マジだったのか…と驚いて、仕方ねえからはしゃぐぞ!!と思ってはしゃぎました。

 インターネットではしゃぐと、インターネットのお友達が応援してくれるので、結構色んなところに広がって沢山読んでもらったみたいです。感想も色々頂いていてありがてえなと思っています。僕は漫画を読むのは好きで、漫画の感想をよく書いているおかげで繋がりのある漫画家さんたちが、今回我がことのように喜んでくれたりして、なんかそれがまず嬉しかったなと思いました。

 だって、自分のことで他人が喜んでくれるの、めちゃくちゃ嬉しいじゃないですか。

 

 この本は、11月のコミティアでは新刊で出したときには28冊売れ(僕基準ではかなり売れたな!と思っています)、2月と5月のコミティアでも、10冊ぐらいちょっとずつ売れてたので(あと友達にもあげた)、この前の日曜の時点まであの本を読んでた人は全世界で50人ぐらいでした。その中のひとりが今やりとりをしている編集さんだったおかげで、この色んな人に沢山読んでもらえる流れになったので、なんか不思議なことだなあと思いました。

 ちなみに11月のコミティアに出るときの告知はこれです。

mgkkk.hatenablog.com

 

 僕が漫画を描き始めたのは、30代も半ばにさしかかってからで、大学のときには漫研にいたものの、そこは漫画を描く活動をろくにしない漫研で(でもすごくいいところだった)、しかも僕にやる気がなくてちゃんとお話を描き上げられたことがなく、自分には漫画を描き上げるとかできないなと思っていました。

 でも、おっさんになってから、やっとなんとなく描き始めて、なんとなく続けて、なんとなく褒められる感じになってきたので、なんかそういう変化が嬉しいなとも思っています。

 

 また、僕は結構忙しくしている仕事もあるし、年齢が年齢だけに、商業誌に漫画を載せるのを目指すことはないなと思って同人誌を作っていたんですけど、いざ、こういうチャンスが巡ってくると、あ、なんか描けるなら描きたいなという気持ちになっていて、なので、今後デビューできるように動いてみようかなと思っているんですよ。ただ、思っているだけで具体的な何かに繋がるところまではいけないかもしれませんが…。

 

 とにかく、多少、欲が芽生えてしまったので、その欲をなんとか形にしたいなと思っています。それは自分に起きた割と大きめの変化で、その変化もなんか人生が面白く変わる感じで嬉しいなと思っているんですよ。

 人生が面白くてよかった。