漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

唯一無二の正解をかき集めることで逆に息苦しくなる関連

 世の中には沢山の人がいて、僕がするような経験を先にしている人がいたりする。そういう人たちから、色んな知見を教えて貰えることがある。それは例えば、自分のときはこうだったので、あなたもこうすればよいという内容で、僕はそれをありがたく聞くけれど、大抵の場合、そのままその通りにしたりはしない。なぜなら、それはあくまでその人たちの経験であって、僕が今いる状況とあらゆる条件が完全に一致しているわけではないからだ。条件が異なれば、回答も異なるはずだと思うのだ。

 だから、同じやり方をしたところで、僕も上手くいくとは限らない。話自体はありがたく聞かせてもらうけれど、結局、僕自身がどうするかは改めてイチから考える。そこで行きついた結果が、結局聞いたものと同じやり方になることもある。でも、それはきっと全然意味合いが違う。僕は「自分で考えて選ぶ」ということにこだわっていて、それこそが自分が生きる上でとても重要なことだと感じているのだ。

 

 僕はあまり器用な方ではなく、何かを習得するのに、普通の人よりも倍ぐらいの時間がかかることが多い。子供の頃から、みんなが終わってさっさと次に行っているときに、同じ場所に留まったまま試行錯誤を続けていたようなことが沢山あった。

 皆はとっくに帰っているのに、僕はひとり教室に残って、何かにずっと取り組んでいたりしていた。皆が先に帰ってしまうと、不安な気持ちにはなるし、小学生のときは、おしっこに行きたいようなそわそわした気分によくなった。ひどく落ち着かない気持ちで、早く僕も次に行かなくてはと思いながらも、でもまだ行けるとは思えないというような葛藤があった。

 中学生や高校生になれば、自分の不器用さにもある程度慣れてきたし、ある種の諦めもあった。僕は普通の人よりも同じことをするのに時間がかかるのだから、他の人より倍の時間がかかるなら、倍の時間がかかることを最初から見込んでおけばよいだけだと思うようにした。そんなだから、当然、他の人たちと歩調は合わないし、ひとりで黙々と、皆がとっくに終えたような何かに取り組んで過ごすことも増えた。

 でも、それでも、僕には自分で納得いくまでやって習得できたという実感の方が大事だったのだと思う。

 

 体育なんかでもそうで、例えばバスケットボールのフリースローなんかでは、投げ方に納得いくまで放課後にひとりでずっと練習していた覚えがある。僕は球技は全般あまり得意ではなかったけれど、高校のいつだったか、フリースローが何本入るかを先生がチェックするときに、その時は確か10本中7本入れた。先生からは本当にそんなに入ったのか?と失礼なことを聞かれた覚えがあるけど、それは本当だったし、そのとき上手く行ったのはきっと、他の人よりも何倍もの量を投げていたからだと思う。

 ただし、それはあくまで同じ場所から同じ角度でなら成功するというだけのことで、バスケに必要な他のことは当然全然練習が足りていない。だから、その練習をしたことは試合ではあまり役に立たなかった。でも、その時間は僕にとってはとても重要な時間だったと思う。ジャンプの高さや肘の角度、力の入れ具合、腕の軌道、それらを少しずつ変えて、上手く行ったときと上手く行かなかったときの差を考えて、延々と繰り返す。結局どういうやり方が最適かは上手く言葉にならないけれど、なんとなく「一致した」と思う感覚が得られるときがあって、そういうときに、成功率という数字で目に見えて良くなってくる。

 その瞬間がとても報われた気持ちになる。そういう体験が僕の人生の中ではとても重要だと感じている。

 

 そういえば、数学の試験なんかでも、物覚えが悪かったので、必要な公式をなかなかちゃんと覚えられず、あやふやなまま使うという不安を抱くことがあった。なので、僕がどうしていたかというと、テストが始まるととりあえず問題用紙の空きスペースで公式の証明をしてみて、記憶の中の公式が正しいらしいことを確認してから解いたりしていた。単純な暗記には実感が伴わなかったけれど、証明の方法という手続きには実感が伴っていて、自分の中でより信頼がある方法だったからだろうと思う。

 

 不器用ならば倍の時間をかければいい。倍の時間をかけさえすれば人並みになれるんだということが僕の信仰だ。それは今でもそうだ。

 

 このやり方が通用しにくいのは、他の人と同じ練習時間しか与えられないときや、数を繰り返すためにパートナーが必要だったりするときだ。例えば、運転免許の取得なんかでは苦労したと思う。なぜなら、教習所の規定の時間よりも多くの時間をかけないと上手くなれないと思うのに、追加でお金を払わないと回数を増やせなかったりするからだ(追加でお金のかからないコースもあったけど)。結局何回かは余分に講習の料金を払った覚えがある。あとは、他の人の車の運転にのるときに、どう動かすかを横でイメージトレーニングをしまくったりしてカバーをした。

 誰かに練習を付き合って貰わないといけないときは、地獄のような気持ちになった。僕が下手くそなせいで他人に迷惑が掛かってしまうことに辛さを覚えてしまうからだ。最初は気にしないと言ってくれていた人も、同じところで何度も間違える僕を見ると、みんなだんだんイライラしてくるのが分かる。一方でゲームなんかがよいと感じるのは、コンピュータさんは僕がどれだけ失敗しても一切イライラしないということだ。だから延々と回数をこなすことができる。

 ただ、以前バイオハザード5をネットのCO-OPで知らない人と一緒に遊んでいたとき、僕があまりに失敗ばかりするので、相手から「Wait!」と声をかけられ、僕を放置して勝手に攻略されたことがあった。僕があまりにどんくさくてイライラしたんだと思う。あと、タイミングよくボタンを押すQTEを失敗しまくったときは、先の「Wait!」の件もあって、ネットの向こうの人がイラついていないか気になって気になってしまい、プレッシャーで余計にミスをしてしまったような気もする。

 その日はそのまま手伝ってもらってクリアまでいった。最後に相手からは「お疲れ様でした」とメッセージがきたので、「ありがとうございました!」と返した。その言葉に偽りはない。でも、僕の心には、失敗をしてはいけないという緊張感からようやく解放されたという強い安堵も大きかった。

 あれは貴重な体験であったと思うと同時に、これからはネットで知らない人と一緒に遊ぶときには、ある程度上手くなっておこうという気持ちを新たにした。

 

 自分の無能を補うために使える十分な時間や環境がないと、なかなか生きることが難しい。僕のどんくささにイラついた人が、一足飛びに正解を教えてくれて、そうしろと言うこともある。でも、僕は頑固にそうしないし、申し訳ないけれどと思いつつも、僕にとっては、そういう自分でなんとか答えを見つける生き方を続けることが大切だ。

 

 そういえば、仕事を始めて最初の上司が、「君は最初は何も覚えているように見えず、非常に心配になったが、いつの間にか全部できるようになっていて不思議だった」というコメントをくれたことがある。僕はどんくさい人間なので、学習曲線が最初は全く動いていないように見えるのだと思う。そして何より、僕自身がそんな自分を認めて許してしまっているので、そこから無理に変えようとしていないし、それがなおさら拍車をかける。

 優秀な人たちの、すぐに目に見えて上昇する学習曲線を見慣れている人にほど、僕のどんくささは心配をかけてしまう。でも僕はそのうちできるようになるんですよ。ただ、倍の時間はかかります。

 

 さて、世の中には「正解」を教えてくれる人が沢山いる。冒頭にも書いたように、それを教えてくれること自体はありがたいけれど、僕は別にその通りにすることはない。それはその人の辿り着いた正解であって、僕の辿り着いた正解ではないからだ。僕が思うに、他人の言う正解を沢山集めても、場合によっては自分の正解を探す機会がなくなるだけで、あまりよくないんじゃないだろうか?

 そして、教えてもらったそのひとつしか正解がないと思い込んでしまうことはよりしんどい話だ。

 

 唯一無二の正解は、それ以外のやり方を全て不正解にしてしまう。ネットで検索でもすれば、色んなことについて沢山の「唯一無二の正解」である言説に行き当たることができる。けれど、それらをいくら集めても、自分のとりうる選択肢の大半に不正解のレッテルが貼って消すはめになるだけで、実はむしろ不自由になるんじゃないかと思う。

 例えば「○○のときは××するのが正しい大人としての態度だ」というような正解の言葉があったとき、いざ○○になったとき、××以外のことをすれば正しくない大人になってしまう。だから、××をせざるを得なくなる。そして、本当に××をすることは自分にとって正しいことなのだろうか?という疑問が頭をよぎる。

 

 ひとつの正解を生み出すために他の全てを不正解にするような言葉を、僕はあまり集めたくない。それはきっと息苦しいからだ。つまり、僕が欲しいのは別解であって、無数にある正解の中で、自分が知らない種類のものを教えて貰うならば助かる気持ちになる。もちろん、その別解を選ぶとも限らない。けれど、選んでもいい可能性を得られることについて助かるという気持ちになる。僕は今の選択肢を手放した方がいいと気づいたとき、新しくそちらを選んでもよくなるからだ。

 

 何かをする上で選択肢を狭めるように働く、唯一無二の正しい答えについては、僕はいくら教えて貰えても拒絶気味だ。その代わりに、今あなたが思っているやり方だけでなく、他にはこんな別の正しさのある答えもあるんだよと教えてくれるものは優先的に受け入れている。

 僕がこのように考えているということは、別に正しいやり方と思っているわけではない。ただ、僕に都合がいいやり方であるというだけでしかない。

 

 生きていく上で、「自由」と「実感」が何より大切と感じてしまう。なので、より自由な方向に、より実感のある方向に向かった行動をするように生きている。それは誰かが教えてくれた唯一無二の正解を信じて生きていくこととはおそらく真逆にある。

 「二兎追うものは一兎も得ず」という言葉もあるけれど、「一石二鳥」や「一挙両得」というような言葉もあるわけです。二兎を追ったために失敗することもあるからといって、二兎を追ってはいけないということもないでしょう。好きにしたらいいと思う。好きにできることが重要だ。

 

 ただ、こんなことを言っていられるのも、ある程度余裕があるときだけかもしれない。自分で納得いくまで答えを考えるためには十分な時間が必要だし、それよりも先に決断を求められることもある。あと、僕は実感のために大量の時間を使うので、同じ時間を生きてきた他の人よりも、何かをやってる範囲が非常に狭いかもしれない。なぜなら、時間は誰にも平等だからです。

 でもいいじゃないですか。皆がポテトハーべスターでガンガンじゃがいもを収穫しているような中で、家庭菜園で小ぢんまりと育てたジャガイモを、たまに蒸かして食べて一生を送るという正解もあると僕は思っているわけなんですよ。

屏風から虎を追い出すのが大変な話

 まずこれはシステム開発のお仕事の話なんですけど、関わると非常に大変な気持ちになったりします。

 

 ここで言うシステムとは、何らかの目的を果たすためにコンピュータで作られた仕組みのことです。コンピュータは決まったやり方を繰り返すことにおいては人間よりはるかに優秀なことが多く、また、蓄えこめる情報量もすごく多かったりするので、それまで人間が頑張ってやっていたようなことをコンピュータに置きかえて効率化を図ったりします。それがシステムです。

 

 人間は沢山のシステムを開発して、世の中を効率化しようとしています。人間の仕事を機械に置きかえることで、同じ仕組みを回す上で必要な人間の数を減らすことに成功したり、今までなら受けられなかった量の発注を受けれるようになったりするからです。

 物やサービスの値段と言うものは分解して行けば全て人件費です(例えば材料費なんかは、その材料を発掘して加工した人々に支払われる人件費と考えることができます)。なので、物やサービスを安く提供するための分かりやすい方法は、関わる人間の数を減らすことです。なので安値を喜ぶお客様のため、人間を減らして機械に置きかえることで、様々な効率化を実現しようとしているのが歴史です。

 

 余談ですが、関わる人間の数を減らさず、人間をそれぞれ薄給にしたり、長時間労働させるという値下げの方法もあります。それにより、人間の耐久力が勝つか、機械の効率化が勝つかの戦いが繰り広げられているのが現代です。

 一見、機械に置き換えた方が効率がよいに決まっている、なんて思ってしまいますが、決まったやり方を繰り返すことしかできない機械と比べ、人間は少し変えたやり方に追従してくれやすいので(ここで労働者の勤勉性が役に立ってしまう!)、変化の激しい分野では、安くない費用をかけてシステムを開発することはリスクにも繋がります。ここに人間の付け入る隙があり、分野によっては人間を薄給でこき使った方が安いので、そうされ続けているというような現状があるのではないかと思います。

 

 さて、システム開発の大変さの大きなところを占めるのは、場合によってはあまり技術的なところではなく、どのようなものを作ればよいかとか、そのために今人間がどういうことをしていて、どういう置き換えをすればそれらを全部カバーできるかということを考えたり、データを持っている別のシステムとどのように連携するかをするかや、それをどのように継続運用できればよいか、ということを整理する部分にあったりします。

 前述のように、機械は決まったやり方を再現することは得意ですが、人間のように曖昧な指示では動けないので(人間だって曖昧な指示では動けないことが多い!!けど)、この辺を機械に分かりやすい整然とした形に翻訳する必要があります。そして、この辺でトラブると非常に大変な気持ちになります。

 

 例えば、後から変化するかもしれないところをガチガチに作り込んでしまって、変えなければならなくなったのに何も変えられなくなった場合、お金と時間のかかる大規模な改修をかけなければならなくなったりします。あるいは、せっかく作ったシステムを放棄せざるを得なかったり、間に入る人間が仲人として特殊なやり方を強いられたりすることになります。また、古くなったシステムをどうしても放棄できず、ダメだと分かっているやり方なのに、そのまま長い間辛い運用を続けないといけなくなったりもします。どれも大変辛い気持ちになります。

 何を作ればいいのか?それは、今のやり方を十分カバーできることなのか?そして、それは長期間の運用に耐えられるものなのか?ここに意思を持って最善の答えを用意することに、システム開発の重要な部分があるのではないかと思います。

 

 僕はこれを「屏風の虎」と呼んでいます。元ネタは、ご存じ一休さんの説話です。足利義満が「屏風に描かれた虎が夜な夜な抜け出して悪さをするので退治して欲しい」という、わけのわからない難題を一休さんに出すのですが、一休さんは「分かりました。ではまず屏風から虎を出してください」と、とんちで切り返します。

 「虎を屏風から出してくれれば捕まえてみせますよ」というのは、捕える技術の話ですが、世の中ではまず虎を屏風から出してみせることが難しいことも多いです。これを侮っていると、虎を出してもらえる前提で話を進めてしまい、いざ捕まえるぞと準備万端でやってきたのに、虎は屏風から出てはいないし、出し方も分からないこともあります。そして、もしかすると虎を屏風から出す方法なんてどこにもないのかもしれません。

 

 似たようなことを読み取れる伝説に、アルキメデスによるテコの原理の話があります。これは「足場さえあれば地球でも動かしてみせる」というテコの原理主義者のお話ですが、これも実際には足場がないので出来ない話です。前提条件を満たすことができない場所においては、立派な技術も宙ぶらりんとなり、その効果を実際に発揮することはできません。

 

 虎を屏風から追い出してしまいさえすれば簡単に思えることが、虎を屏風から正しく追い出せないことで頓挫することもしばしばです。システム開発を成功裏に収めるために必要な仕事の大半は、実は虎を屏風から追い出せた時点で終わっているのかもしれません。

 

 さて本題ですが、僕は今8月20日に開催予定のコミティアに向けてぼちぼち漫画を描いているのですが、屏風から虎を追い出す工程に四苦八苦しています。人間は追い出され済みの虎を見かけると、その捕まえ方についてああだこうだ言ってしまうものだと思っていて、僕も他人が描いた漫画であれば、自分だったらこうするとかをもっと気軽に考えつくことができます。

 でも、いざ自分で漫画を描こうとすると、パタリとそれができなくなってしまいます。おそらくそれはまだ屏風から虎が出ていないのだと思っていて、一方、何を描くべきかも定まっていない、つまり、虎が屏風に入ったままのうちは、それに対する改善提案や技術的な検討などもできません。このお話は何を描こうと思っていて、そのためにはどのような要素が必要で、それらをどのように演出して繋いでいくか?そして、読んだ人にどのような気持ちになってほしいか?など、物語を作る上では色々考えなければならないことが多く、ここでつまづくと、仮にどんな立派な表現上の知見を持っていたとしても、完成に辿り着くことができないのではないでしょうか?少なくとも僕はそこでつまづきまくっています。

 

 なので、今の方針としては、まず拙くてもいいので最後まで描き切ることが目標です。描き切ってしまえば、今度は読者として自分の作ったお話を読み返すことができるので、そこで初めてどう直せばいいかという技術的な検討ができるようになると思います。これは編集者が、漫画に対する知見をいくら持っていたとしても、自分では描くことがない理由だと思っていて、虎を屏風から出す仕事と、虎をどのように捕まえるべきかと考える仕事は、きっと全然種類が異なる仕事なのでしょう。

 評論家みたいなのもきっと同じで、この作品はここがダメで、こうすればもっと良くなるという知見を沢山持っていたとしても、いざ自分で作ることになった場合、今まではあくまで追い出された虎に対して言及していたのであって、虎を追い出す工程もやるはめになると上手くできないかもしれません。それゆえ、立派なことを言っていた評論家が、製作に最初から関わった作品が、別に上手くいかなかったりするケースが生まれるんじゃないかなあと思ったりします。

 

 そして僕は相変わらず特に漫画にして描きたいことがあるわけではないので、こういう屏風から虎を出すのは向いてないんだよなあと思いながらも(追い出された虎をどう捕えるのかにも自信がないけれど)、その向いてないことに取り組むのが今はなんか面白いので、やっていこうと思います。

 今の進捗は19ページ。32ページぐらいで終わるつもりですが、本当に終わるのかどうなのか…。

漫画雑誌のエロスとタナトス雑感

 漫画雑誌から強烈なエロス(性描写)を感じ始めると、その雑誌のタナトス(休刊への追い風)も感じることがあります。僕が好きで読んでいた漫画雑誌の中では、例えばヤングサンデーやアクションが顕著で、それまでの連載が次々に終わっていったあと、エロス風味の多い連載が次々に始まり、雑誌全体がエロスな雰囲気を醸し出し始めました。

 その後しばらくして、ヤングサンデーは休刊し、アクションも一時休刊の後に紙面を入れ替えて再創刊という形となりました。

 

 これらが起こった時期で言うと、ヤングサンデーはザワールドイズマインや度胸星、殺し屋1などの連載が終わった時期からしばらくです。ただし、エロスな連載だから面白くないということは別になく、アイドルが主人公のミステリ漫画「なんてっ探偵アイドル」や、各エピソードのどこかに女性の裸を無理矢理っぽく盛り込んできていた初期の「闇のイージス」などを僕はとても楽しみに読んでいました。ヤングサンデーの場合は、一時のエロス路線から再び軌道修正しつつも(というか思えば元々エロス感のある連載も多かったのですが)、結局は休刊し、それぞれの連載は増刊号での完結や、他誌への移籍での完結となりました。すごく好きな連載が沢山あった雑誌だったので、とても寂しい気持ちになりました。

 アクションの場合は、成年向け漫画雑誌で執筆していた作者を呼んできたという印象で(アクションピザッツとかの方面と雰囲気が近くなっていました)、継続連載していた軍鶏だけが異様に浮いている紙面となっていた記憶があります。とはいえ東京家族なども連載されていましたし、夕凪の街が読み切りで載ったのもこの時期だったと思います。

 

 エロスな連載が増えると、雑誌の先行きが厳しい感じの印象を感じ取ってしまいます。それは、エロスな連載が安易で面白くないとか倫理的に問題だとかいうことではなく、雑誌の売れ行きが悪いので、どうにかして新規読者を獲得するための施策としてエロス連載が増えているのではないかと解釈しているからです。エロス(生の衝動)を増やさなければ生き残れないぐらいにタナトス(死の衝動)が強いんだなと感じてしまうのです。

 

 性表現というものは、人間が繁殖して存在し続けるために必要なものですから、文化を超えるある種の普遍性を持ったテーマだと思います。それゆえに、人の心を良くも悪くも刺激したり、普段なら決して届かないような文化と文化の間の壁を貫通できたりします。

 新規参入の読者が増えず、雑誌の継続性が危ぶまれる場合、このように参入障壁を下げ、訴求力を高めるためのエロスな連載が増えることはよくあることです。そしてそれは、それまでの読者の信頼を失う諸刃の剣となることもあります。

 

 漫画雑誌もマイナーなものになるほど、固定客としての読者が大手より少ないため、エロスな連載が増えがちです(もちろん例外もあります)。例えばヤングアニマルヤングチャンピオンは、エロスあるいはバイオレンスを題材にした連載が多く、その増刊であるヤングアニマル嵐ヤングチャンピオン烈はよりいっそうエロスな漫画が多く載っています。ヤングアニマルにはさらに、グラビアアイドルの写真や動画がメインコンテンツであるプラチナ嵐なんて増刊も存在しています。

 最近ではグランドジャンプに載る漫画載る漫画、なんらかおっぱいが取り上げられているなあと思ったこともありますし、その増刊であるグランドジャンプPREMIUMにも近い傾向を感じています(話と関係ないですが、「ここは今から倫理です」が連載化されたので楽しみにしています!)。

 そういえば、今は亡きヤングマガジンアッパーズも、エロスを取り込んだ漫画雑誌でした。僕はこの雑誌がとても好きでしたが、例えばEオッパーズという企画では、普段そういう絵を描いていない漫画家さんにおっぱいの絵を描いてもらったり、士郎正宗のフルカラーエロス連載が載っていたりもしていました。でも、休刊してしまいましたね。休刊号では大市民に度々登場していた「池上タッチ(池上遼一のタッチをイメージして描かれた絵)」を池上遼一ご本人が描いて表紙となるというお祭り騒ぎ的な感じで、これでおしまいなのに、花火が上がった感じでとても印象深く思いました。本当にいい漫画が沢山連載されていたんですよ…。

 

 さて、電子書籍の読み放題ランキングなどを見てみても、男性向け女性向け問わず、エロスを取り扱った漫画がその上位を占めていることが確認できます。そのため、何を読めばいいか分からないときに、エロスがあるというものは強い道しるべとなる力があるのだなと思います。

 

 また、ウェブサイトの広告にも、エロスな漫画の広告がこれでもかと表示されることもしばしばです。

 エロスな漫画の広告が表示されることについては、求めていないときに見せられると嫌な気持ちになるということもあります。しかし、その広告が出てしまうことについては、このサイトを見ている人は広告を見ても購買行動に移ることが少ないが、エロスな漫画の広告の場合は、そこから購買行動に繋がる人もいるのかな?と捉えています。つまり、そのサイトが無料で運営されている影には、誰かがその広告を見て、エロスな漫画を購入しているという事実があったりするのではないでしょうか?

 そのような広告について「質が悪い」と表現されることもありますし、僕もあまり歓迎はしていませんが、実際問題として、もっと「質が良い」広告を出した方が、広告として意味があるのであればそうなっているでしょうし、結局広告が有効に機能している分野がエロスな漫画なのであって、それを買ってくれているどこかの誰かがいることによって、かろうじてそのサイトを無料で見ることができているのかなと思ったりします。そうでなければ、続けられないということです。

 

 そう考えれば、これだってネットの広告で運営されるサイトにタナトスを感じる部分なのかもしれません。広告で運営されているはずなのに、大半の人はその広告を見て購買行動に移ることがなく、つまり、広告を出す意味がないのであれば、誰も出稿しなくなります。そのビジネスは成り立たなくなるのです。そうなれば、少しでも買ってくれる人がいる分野に広告を出すべきだとなり、それがエロスな漫画の広告に行きついたのであれば仕方がないことです。そうしなければなくなるしかないのですから。

 

 このようなことは様々な分野で起こっていることだと思っていて、エロスが前面に出てくる状況が頻出するならば、その分野にはタナトスが蔓延している可能性があります。

 

 実際、漫画雑誌にエロスな連載が増えてきたとき、それを喜ぶ人もいれば、それを苦々しく思う人もいるでしょう。でも、そうなるということはどうしようもないものなのではないかと思っています。エロスに限らず、暴力的な表現や、倫理的に問題がある表現だったとしても、ある程度過激にやらなければ人の注目を集めることができないぐらいに、世の中には無数の選択肢があり、物が溢れてしまっているように思うからです。人の目に留まらなければ、続けることは難しくなります。

 

 なぜこうなったか?と問うとき、そうならないで済む道はとっくの昔に潰えていたということもある話で、漫画雑誌を開いて、エロス連載ばかりだなあと思ったときでも、そうでなければ、とっくの昔になくなってしまっていたのかもしれないじゃないですか。今の道しかないのだとしたら、それはもう仕方がないわけですよ。

 

 直近ではヒバナの休刊も発表され、漫画雑誌の存続は厳しい世の中です。その中で何かの漫画雑誌にエロスが増えてきたなと感じたとき、それが生を肯定するために生まれたエロスのためのエロスなのか、死に抵抗するために生まれたタナトスから逃れるためのエロスなのか、考えてみるのもいいかもしれませんね。

「HUNTER×HUNTER」のドキドキ2択クイズと今後の展開について

 「HUNTER×HUNTER」の第1巻、ハンター試験会場に向かうゴンたち一行の前に立ちふさがる人々がいました。その道を通るためには、5秒以内にある問いに答えなければなりません。それは、ハンター試験における選別の一環であり、「ドキドキ2択クイズ」という名前がついていました。

 

「どちらか一方しか助けられないとき、母親を助けるか恋人を助けるか」

 

 その問いには単純な答えがありません。であるがゆえに答え方は様々でしょう。ある男は、クイズを出したのがお婆さんであることから、ウケが良さそうと考えて「母親」と即答し、その道を通ります。そしてレオリオは、どちらであろうと、自分のとって大切な誰かを犠牲にするようなものを選択させとするお婆さんに怒り、問いに答えずに殴りかかろうとします。クラピカはそんなレオリオを制止し、このような答えのない問いには「沈黙」こそが正しい答えであるという結論に至ります。

 お婆さんは、安易な答えを出さなかったゴン、クラピカ、レオリオの3人にハンターの資質があることを認め、目的地への道を通してくれました(ちなみに安易な答えを出した男は、通された道の先で魔物に襲われてしまったようです)。しかし、ゴンは道を通してくれたあとも考え続け、それでもやはり答えが出せないことを嘆きます。

 これはただのクイズであるかもしれません。でも、そんなシチュエーションに実際に遭遇してしまう可能性はあるはずです。両方を選ぶことができないという残酷な状況が、この先の人生で来ない保証は全くありません。これは試験の道程です。試験とは、ある目的に対して条件を満たす者を選ぶ工程です。であるならば、2択のクイズに安易な答えを出さないこと、そして、それが起こりうることに想像を広げることは、ハンターの資質にどう関わるというのでしょうか?

 このクイズはハンターハンターという物語の中で非常に重要な要素を示唆しているのではないかと僕は思っています。

 

(この先、現時点での最新である34巻のネタバレがあるのでご注意)

f:id:oskdgkmgkkk:20170703225501j:plain

 

 ハンターハンターは、ある種の選択の物語ではないかと思います。登場人物たちに、どちらか一方が正しいとは言いにくいAとBの2つの選択肢が存在する状況がもたらされ、多くの場合、そのAでもBでもない、その問いそのものをぶち壊すような答えCが掴みとられて実践されるという形式で進行します。

 ハンター試験の中では、多数決によって扉が開くゲームや、不自由な2択、残り時間を賭けるゲームなどの形式で、模式的に選択の構造が繰り返されました。そして、プロのハンターとして世界を冒険するようになったあとでは、これらの選択が実戦の中で実践されるようになります。

 例えば、小さな部屋に拘束され、目の前には扉と敵という状況があります。敵は強く正面から戦っても勝てる可能性は低いです。戦って逃げるか、戦わずに拘束され続けるか、その2択を迫られているように思うでしょう。しかし、ゴンが出した結論は違います。壁を蹴破り、扉以外の出口を作ることでそこから逃げます。どちらか一方を選ばなければならないようなシチュエーションで、そのどちらも選ばないということがまさに実践されます。

 

 「選択」とは何かというと、そのひとつの解釈は「誰かが誰かに提示するもの」でしょう。相手に対してAかBを迫るとき、問いを作成する立場ならば、相手がどちらを選んでも自分が有利になるものを考えるはずです。つまり、2択を迫るということは、本当はあるはずだった無数の選択肢を大幅に刈り取り、目の前には2つの道しかないように錯覚させるテクニックです。であるからこそ、選択肢を提示する権利を相手に認めた時点で、既に負けていることもしばしばです。

 最新の34巻で行われたヒソカvsクロロの戦いは、まさにそのようなシチュエーションでした。ヒソカはクロロに十分な準備の時間を与え、クロロは入念な準備をもとにヒソカの前に選択肢を提示します。自分が使っている能力が何であるかを特定するための沢山のヒントをばらまき、ヒソカにそれを類推させるための手がかりを与えます。ヒソカが、その選択肢を読み取ることで、クロロの状況を特定しようとします。つまり、その時点ですでに非常に不利な状況です。

 ヒソカは、クロロが喋ったことに嘘はないという前提での解釈を試みますが、嘘とは言っていなかったとしても曖昧な表現が混ざっています。暑いの反対は暑くないであって、寒いではないというような、論理の隙間を利用し、ヒソカの思考を誤誘導することで、罠がかけられています。思考の瞬発力に優れたヒソカは、クロロの言葉と目の前の光景から瞬時に正解に辿りつきますが、それはあくまで用意された正解であって、真実とは異なります。この戦いにおいてヒソカはクロロに敗れますが、それはつまり、クロロの用意した選択の中から正解を選ぼうとしてしまった時点で既に概ね負けていたのではないでしょうか?

 

 選択を提示するということは、それは用意された道です。ハンターの資質を、未知のものを追い求めること、未踏を舐ることとするならば、用意された正解のある問いに取り組む時点で、その資質に欠けると考えるしかありません。新しいことに取り組むとき、そこに誰かが用意してくれた正解はありません。なぜなら、誰かが用意してくれた時点でそれは新しくないからです。

 学生の勉強でもそうでしょう。学校が用意してくれた試験には、採点のための正解があります。それはその時点で取り組む学問が新しい道ではなく、今まで誰かが切り開いてくれた道を辿る行為でしかないからです。場合によっては出題者の意図を読むことが試験に合格するための最適解であるでしょう。しかし、それは新しいことに挑戦する上ではむしろ不利なことかもしれません。なぜなら、今まで誰もやったことがないことについては、出題者がおらず、読むべき意図がないからです。それまで手がかりになっていたものが、まるで役に立たない状況がやってくるからです。

 

 大学の研究では、このギャップがしばしば学生を苦しめます。それまで誰かが用意した答えがある問いを解いてきた経験から、自分の取り組むことになる研究の正解を、先生が既に知っていると誤解してしまったりするからです。立てた仮説が間違っていた分かることは、研究における重要な進捗ですが、ここを誤解し、立てられていた仮説こそが正解であって、その結果がでないことを悪いことのように考えてしまう人もいます。その考えは、出た実験結果をごまかし、仮説の立証に使えるような結果の捏造に手を染める道にも繋がります。

 研究には誰かが用意してくれた正解がないということ、もし誰かが仮説を用意してくれたとしても、それはあくまで仮説であって事実かどうかを確かめるには実験検証が必要であるということ。そのような考えに実感を伴って至るためには、それまでの誰かが用意してくれた正解がある道から、別の道への方向転換が必要で、学部の研究ではそれに躓く人もいて、修士でなんとかやりきれるようになり、博士ならようやく完全にやれるようになるというような、そういった難しいものではないでしょうか?

 それゆえ、学部の頃の成績が良かったからといって研究者として大成するとも限らず、学部の頃の成績が合格ギリギリであったのに研究者として大成するような人もいます。なぜなら未踏に取り組む資質は、試験では測りにくい分野だからです。

 

 ドキドキ2択クイズが示唆するのは、その2つからどちらかの選択を選ばなければならないと思考を狭窄してしまう時点で、未知のものに取り組むに適した感覚が乏しいということではないでしょうか?クラピカが、マフィアのノストラードファミリーに入るために受けた試験では、敵の姿を勝手に想像したせいで、その誤解から組織を危険にさらしてしまった男が処刑された姿が登場しました。想像するということは、その想像における正解を模索するということです。もしその想像が的外れであった場合、それまで手にあった正解はむしろ不正解かもしれません。相手が何であったとしても勝つということは、安易な正解を手に入れて安心しないということでもあるのです。

 

 さて、最新34巻では、カキン王国の王位継承のための戦いが始まります。このエピソードでは、クラピカに焦点が当たっているのではないかと僕は思っていて、なぜならカキンの第4王子ツェリードニヒは、猟奇的な人体収集家であり、クラピカが探し求めている仲間たちの目もその中に含まれているからです。ヒソカとの戦いを終えたクロロもその場にやってこようとしています。クロロは幻影旅団のリーダーであり、幻影旅団はクラピカの仲間たちを皆殺しにし、その美しい輝きをたたえた目を奪った張本人です。

 クラピカにとって因縁のある人々が同じ場所に集結しようとしてします。奪われた仲間たちの目の多くを取り返しつつあるクラピカは、その復讐と奪還を人生の糧としてきた経緯から、仮に目的を達したとして、その後、どう生きればいいかも見定まっていません。

 また、ハンターハンターのアニメ映画において配られた小冊子において、作者から「旅団もクラピカも全員死ぬ」という言葉が提示されています。それは人はいずれ死ぬということなのか、物語上でそこに至るということなのか解釈の幅はありますが、それが何らかの結論に至るのかこのエピソードではないでしょうか?

 

 ドキドキ2択クイズには、選択することの意味の他に、もうひとつの読み取り方があると思います。それはつまり「人の命に価値の差をつける」ということです。「母親」と「恋人」、あるいは「息子」と「娘」、どちらか一方しか助けられないということは、残りの一方を犠牲にするということです。これはどちらかに価値があり、どちらかに価値がないということを決断しなければいけない行為です。

 このクイズにおいてレオリオが怒ったのは、ここにポイントがあるのではないでしょうか?なぜならば、レオリオがハンターを目指した根本には、「命の価値に差がつけられた」ということがあるからです。レオリオは金のためにハンターを目指しました。それは、金がないために親友が死を迎えたからです。決して治らない病気ではなかったのに、金がないために治療を受けることができませんでした。だからレオリオは医者になろうと思いました。そうすれば、同じ病気で金がない人でも自分が助けてあげられると思ったからです。それは命の格差を埋める行為です。しかし、医者になるためにも多額の金が必要でした。金がないためにその道も阻まれてしまいます。金があるかないかだけで、命の価値に差がつけられてしまいます。誰かの命に価値があり、誰かの命に価値がない、その考えに一番憤っているのはレオリオでしょう。

 物語の冒頭でゴンは、その人を理解したければ、その人が何に対して怒るかを知るべきであると教えてもらったと言います。レオリオは命の格差に怒ります。何かの条件があるかないかだけで、人の命の価値に差がつけられています。許せるわけがないでしょう。「人の命は平等である」、それはきっとレオリオの生き方の根幹にあるものだからです。

 

 一方、カキンの第4王子ツェリードニヒ・ホイコーロは、その真逆に位置する男です。命には貴賤があり、人には価値のある存在と価値のない存在があるという認識を持っています。価値のある存在とは自分自身、価値のない存在とはそれ以外の全てです。ツェリードニヒは、自分の快楽のために、他人の命を消費します。王子と言う強権的な立場を利用し、まるで他人の命をぞんざいに扱えば扱うほどに自分の命の価値が上昇するとでも思うかのような行動をとります。ツェリードニヒは同じ立場の他の王子たちも無価値であると思っています。人は平等ではない。人の価値には差がある。そして価値ある命とは唯一自分自身である、という強大なエゴの権化である存在こそがツェリードニヒです。

 幻影旅団のリーダーであるクロロもまた、命の価値を認めない男のひとりです。しかしながら、彼はツェリードニヒとは異なります。なぜならば、自分自身を含めて、命は平等に無価値であるというような思想を持っているからです。自分が人質になったときにも、自分を犠牲にして旅団を生かすという結論にすぐに至ります。旅団の生まれた土地である流星街は、人間の価値がとても低い場所でした。流星街の長老は人間を爆弾に変える能力を持っていました。長老は、流星街にあだなす存在に、住民を爆弾に変えて送り届けます。たった1件の出来事のために、30人以上の住民を爆弾に変えた自爆テロを引き起こしました。長老は人間の命に価値を認めていません。そしてクロロもそんな長老から盗んだ能力を携え、その考えに共感を示します。

 旅団は盗むために殺しも行います。殺すことに胸を痛ませることはありません。旅団のメンバーはなぜそうなのか?クロロはそのリーダーとして、自分がなぜそうであるのかを探求するような生き方をしています。

 

 彼らと対比して、クイズに「沈黙」を選んだクラピカは人間的です。この場合の「人間的」とは、「どちらかを選ぶということに迷いがある」ということです。それが例えばツェリードニヒやクロロならば、選ばされる2択はどちらも価値がない命として、迷いなくどちらかを選び取ることができるでしょう。クラピカは復讐のために冷徹な人間になろうとしても、その心の中には迷いがあります。ヨークシンシティでも旅団との戦いでは、「復讐」と「仲間の安全」を量りにかけ、仲間を選び取ってしまう迷いと優しさを持っていました。

 

 ツェリードニヒは人に命に格差があり、価値のある命と価値のない命があるという考えに疑いを持ちません。一方、クロロは人の命には平等に価値がないと思っています。そして、レオリオは人の命は平等で、全てに価値があるはずという考え方です。今後、クラピカはこの中で何かしらの結論に至るのでしょうか?

 ドキドキ2択クイズでは沈黙し、何も選ばなかったクラピカが、その後の残酷な現実の中で、来るべき「選ばざるを得ない状況」についに到達してしまうのかもしれません。それが苦しみを抱えて生きてきたクラピカにとって、何らかの安寧をもたらす結果に繋がることをただただ願ってやみません。

「シェンムー」と「龍が如く」の繋がりを妄想をしたけど特にそんなことはなかった話

 セガのゲーム機、ドリームキャストで発売された「シェンムー」がすごく好きで、学生時代に色々な遊び方をしながら4回通りはクリアしたと思います。シェンムーとは、格闘ゲームバーチャファイターをベースにしたRPG、として企画されたゲームで、中国人マフィアに父親を殺された主人公が、父が殺された謎とその仇の男を追って中国(まずは香港)に渡るというストーリーなのです。このゲームは章立ての物語として発表され、第一章として発売されたゲームは、昔の横須賀の町を舞台に、香港に渡るまでを描いたものでした。

 シェンムーの何がよかったかというと、いまひとつ上手く説明ができないのですが、僕はあのゲームの中で生活をしていたという気持ちがあります。本筋の物語として用意されていた目標もそこそこに、街を歩き回り人と会話し、バイトにせいをだして、ゲームセンターに入りびたったり、ガチャガチャを回したりして生活していたのです。僕はこのゲームを大学の部室でやっていることも多かったので、「いつもシェンムーをやっている人」と後輩に思われていたということもありました。

 何年か前のあるとき「そういえば学生時分はよくフォークリフトを運転したなあ」などと思い出したものの、それは実はシェンムーの中の体験であると、ワンテンポ遅れて気づいてしまうというようなことがありました。ゲームの中の話ですが、それは既に思い出なのです。あの夕暮れの公園で、ベンチに座っていたご老人に掌底重ねの技を教えてもらったのも、僕が現実に体験したことではなくシェンムーだったのです。

 

 シェンムーは香港から中国本土に渡るまでを描いたシェンムー2もやったのですが、こちらは1ほどはやり込まず、1回クリアしたぐらいでした。しかし、遂に正ヒロインが登場し、謎の一端が明らかになるというラストシーンの展開から、まさかその続きが出ないとは思わず、それからずーっと待っていたのです。

 シェンムー3の開発のためのクラウドファンディングが開始されるという報せを見た瞬間、僕はお金を出すという決断をしました。金額は少し考えましたが300ドルを投げ込みました。

 ただ、この金額は、僕の中では「新作のゲームを手に入れるための対価」ではないのです。僕はシェンムーを中古で980円で買ったので、あれだけ遊んだにも関わらず、ゲームの全体の売り上げには直接貢献しておらず、そして、売り上げに貢献しなかったゲームの続編が出ないことにずっと引っかかるものを抱えていたのでした。だから、その300ドルはこれまでの感謝と、このゲームが好きであるという自己表現の手段であったのです。浄財です。だから既に目的は完遂しています。さらにおまけにあの物語の続きが新作ゲームとして遊べるということなので、非常にお得な感じだなあと思いました(当初予定から発売の延期が発表されましたが、気長に待ちます)。

 

 さて3の開発が発表に至るまで、僕はシェンムーの続編をずっと待っていたのですが、モバゲータウンにおける「シェンムー街」のリリースや、中国で「シェンムーオンライン」が開発中であるという話を聞きつけ(立ち消えたようですが)、それがシェンムー3には続かなかったことでがっかりを繰り返していました。それだけに、3が発表されたときはとても嬉しくなってしまいました。

 しかし、僕は感情表現があまり得意ではないので、それに実際に大声を上げて喜ぶということは苦手で、できません。ただ、ネットの配信で見知らぬ外人がシェンムー3の発表に大声を上げて狂喜乱舞していた様子に、なんだか大変救われた気持ちになりました。僕は喜んだ顔も思うほどできず、嬉しい声も思うほどあげられませんが、こんなにも喜んでくれている人がいる。この人だけじゃなく、他にも沢山喜んでいる人がいるということをとても嬉しく思いました。クラウドファンディングのお金がみるみる集まって行く様子を、わがことのように喜んでリロードして確認をしました。本当に嬉しい気持ちになったんですよ。

 

 さてようやく本題ですが、シェンムー3が発表される前までの間、僕が抱えていた妄想があります。それは、シェンムーの単独続編の製作が難しいなら、同じセガから販売されている「龍が如く」シリーズが世界観としてどうにかして繋がってくれないかというものです。

 龍が如くシリーズは、歌舞伎町をモデルにした街を舞台に、ヤクザの抗争をモチーフにしたゲームです。僕はこちらもとても好きで、昨年末に発売された最新作である龍が如く6もクリアしました。6はシリーズ主人公の桐生一馬の物語としては最終章だったのです。とても面白かったのです。

 龍が如くシリーズには、シェンムーの遺伝子のようなものを感じています。まず街を作り込んで再現するということ、そしてそこに登場する日本人の普通の(そして奇妙な)老若男女との交流の中で、多くのストーリーを体験するということ。ゲーム内ゲームセンターの存在や、多人数を相手にした格闘アクションなど、シェンムーに存在したものを、膨らませたり簡素化したりして取捨選択し、そこに新たな要素も付加してより多くの人に届けるゲームとして再構成しているように思いました。

 龍が如くには、シェンムーの一章にあったような、町中の登場人物たちが時間や曜日に応じた生活パターンで独自に行動したり、家の中のタンスを隅々まで開けられるような、偏執的な作り込みはありません。それらは、当時としてはやり過ぎと言ってもいいほどの作り込みと思えるからです。しかしながら同時に、そのやり過ぎた作り込みこそが僕がシェンムーにとても心ひかれた部分でもあります。

 ゲームにおける大規模プロジェクトをマネジメントするための方法論からしてまだ手探りであっただろう時代に、数十億円の開発費をかけて偏執的な作り込みがされたゲームが誕生したこと自体を僕は素晴らしいことだと思っていて、それがあったという事実をとても愛しく思っているのです。

 そこから比較すると、龍が如くシリーズは良くも悪くも洗練されているように思います。どこに力を入れてどこに力を入れないかの取捨選択がきっちりされています。作り込みは必要な部分にのみ注力されていて、シリーズとして毎年のように新作が出るというきっちりとした製作の管理がされています。

 僕は龍が如くのストーリーが好きで、細部のばかばかしさが好きで、アクションゲーム部分が好きで、ミニゲームも好きで、ひたすらちまちまと色んなことを達成していくというゲームの構造が好きなので、毎年のようにその新作を遊んでいます。その一方、僕はシェンムーのことも少し思いだし、それがなくなってしまったことに胸を痛めていたのです。

 

 で、この龍が如くシェンムーの物語が繋がってくれさえすれば、シェンムーの続編を待望する僕の願望が叶えられるのではないかと考えていました。そして、僕はそこにいくつかの関連性を強引に見出していました。

 龍が如くの主人公である桐生一馬は背中には「応龍」の刺青が入っているのですが、応龍とは、中国の古代の王である黄帝とともに蚩尤と戦ったとされる龍です。そして、なんとシェンムーにおける敵役が属する組織の名前が蚩尤門というのです。蚩尤と戦うシェンムーの主人公、芭月涼黄帝になぞらえるならば、共に戦う桐生一馬はその仲間となります。この事実に気づいたとき、これは来たな!と思いました。

 

 そして、龍が如く0では、時系列が巻戻ってバブルの時代であり、それは時代的にシェンムーの一章と比較的近く、これはひょっとすればひょっとするのではないか?と思っていました。龍が如くシリーズには中国マフィアも出てきます。その流れの中でシェンムーにつながってくれーと思いましたが、結局そういうことはない感じでした(ただ、龍が如く0自体はめちゃ面白かったですが)。

 

 結局その妄想はてんで的外れであって、それとは別にシェンムー3が出ることになったので、もういいといえばいいのですが、ただ最新作の6には、中国マフィアと手を組んだ広島ヤクザの陽銘連合会が登場し、そこに巌見恒雄という男がいます。彼の背中に入った入れ墨で「白澤」なのです。白澤とは中国の妖怪で、この妖怪には伝説があるのです。黄帝に出会って知恵を授けたという伝説が。

 出ました!またしても黄帝です。蚩尤と戦う存在です。それはもしかしたら芭月涼のことなのではないでしょうか?これにより、龍が如くの物語の裏に芭月涼が実は存在している可能性を僕はまだ捨て切っていません。

 

 このように、彼らの背中の刺青には、シェンムーとの繋がりを強引に見出せそうなので、今後もシリーズとしては続くだろう龍が如くシェンムーが、なんらかの形で交錯するという期待を僕は持ち続けています。

 そのためにもシェンムー3がなんらかの成功を見せてくれるとよいのですが、今のところ僕にはその発売を座して待つしかないのです。

漫画のサイン本の入手関連

 漫画家さんのサインの入った本、たくさんは持っていないですけど、いくつか持っているのでその入手の話をします。

 

 僕が最初に入手したサイン本は、学生時代にこうの史代さんに書いて貰った「夕凪の街・桜の国」の単行本です。これは直接貰ったわけではなくて、当時所属していた漫研の卒業生で映画会社に勤めていた方を経由して貰ったものです。この経緯をもう少し具体的に書くと、僕がアクションに載った「夕凪の街」にすごく感じ入るところがあったので、単行本が出たときには即日買って、インターネットで「すごくよい漫画の単行本がでましたよ!」という話を書いていたら、その映画会社に勤めていた方の目に留まり、そのまま映画化の話が進んだということで、その関連でサイン本を頂くことができました。

 

 世の中どのような経緯でサイン本が貰えるか分かったものではありません。

 

 次に入手したのは、確か五十嵐大介さんのサイン本で、こちらはオーソドックスにサイン会に参加しました。僕は五十嵐大介さんの漫画がめちゃくちゃ好きで擦り切れるぐらいに読み返しており、単行本と画集の発売に合わせたサイン会があると聞きつけて、えいやと会場の本屋で買って参加権を得たという経緯です。

 しかしながら、サイン会ですが、基本的に行くのが気が進まないという気持ちがあります。なぜなら、僕は漫画家さんのことを全般非常に尊敬しているというか、好きな漫画を供給してくれる大変ありがたい存在と思っていて、少しでも不快な思いをさせてしまったらいけない、もしそうなってしまったら巨大ないたたまれなさに苛まれてしまうのではないかという恐怖があるからです。人間は失敗を禁じられたときに自然に振る舞うことができなくなり、おかげで珍奇な行動をとってしまったりします。

 実際、かなりキョドってしまった憶えがあり、なんでもっとちゃんとコミュニケーションをとれないのかという後悔がすごくあります。ただ、名前を書いてもらうときに、「いい名前ですね」と言ってもらったので、この日から僕の本名はいい名前ということになったので、とてもありがたい思い出でもあります。

 

 その次のサイン本は多分、安田弘之さんに書いてもらったものです。インターネットで漫画の感想を喋ったり書いていたということから始まった諸般の経緯によって接点ができたので、このチャンスを逃すな!と飲みに誘ってしまったのですが、そのときに「ちひろ」の単行本を持って行ったので、サインをしてもらいました(絵も描いてもらいました)(うれしい)。ただ、あまり保存環境のよくない大学の漫研の部室に置いていた本だったので、かなり日に焼けていて、ご本人に見せる機会があるなら、もっと丁寧に保存しておけばよかったなという後悔もあります。

mgkkk.hatenablog.com

 

 人付き合いがあまりない生活をしているので、人とのつながりの多くはインターネットによってもたらされていて、インターネットはすごいなあと思っています。

 

 榎本よしたかさんともインターネット経由で知り合いました。ウェブ漫画として公開されていた「トコノクボ」の単行本が出たときに、いち早く買ったので、飲みに誘ってしまったとき(いや、誘ってもらったときだったかも)にカバンに忍ばせて、サインを書いてもらいました(やったね!)。

 ウェブの漫画だったものですが、紙の単行本になることで、こういうことをしてもらうことができるので、物理的なものとしてあることの強さがあります。

mgkkk.hatenablog.com

 

 また、寺沢大介さんの原画展で、「将太の寿司」の原画を十数枚買いあさったところサイン会の参加資格を得たということもありました(確か5枚以上で資格が発生したと思います)。こちらは厳密にはサイン本ではなくサイン色紙なのですが、好きな絵も描いてもらえるということで、サイン会という概念には前述の理由で参加する気が進まないのですが、こんな機会は二度と訪れないのでは?あと僕は「将太の寿司」を人生のバイブル的に崇めているので、絵を描いてもらえるだなんてもうこの機会しかないのでは?と頑張って自分を説得し足を運びました。

 描いてもらったのは散々悩んだあげく「将太くんにもらったネクタイを締めている大和寿司の親方」の絵で、これは僕がめちゃくちゃ好きなエピソードなのですが、おずおずとそれを描いてほしいと伝えてみたところ、困惑させてしまい、また大和寿司親方を資料なしでいきなり描くのが難しそうということがありました。しかし、僕は「そんなこともあろうかと」と、原画展でその日に買った大和寿司の親方のエピソードの原画を出すという行動に出て、それを参考に無理を言って描いてもらうことに成功しました。とてもありがたく、嬉しい話です。自宅に家宝として飾ってあります。

mgkkk.hatenablog.com

 

 また、直近で目の前で描いてもらったサイン本と言えば小林銅蟲さんです。「めしにしましょう」の1巻が出たときのイベントに参加したという経緯です。イベント会場で漫画に登場した肉料理(ローストポークとマッシュポテト)を食べられると聞いて、とても食べたかったので参加し、最後に参加者が列を作って流れ作業でサインを描いてもらうという感じになり、僕はねぎ姉さんの絵を描いてもらいました。流れ作業でどんどん進む感じだったので、機械的に希望を伝えるだけとなり、緊張し過ぎないで助かりました。

 

 また、都会に棲息していると、特定の書店であらかじめサインの入った単行本を売っている状態に遭遇することがあります。例えば、僕の家にあるイシデ電さんの「逆流主婦ワイフ」の単行本にはサインが入っているのですが(これめちゃいい漫画なんですよ)、そのサイン本を書店でたまたま見つけたので、欲しくなり、その前日に既に1冊買っていましたがもう1冊買ったということがあります。

mgkkk.hatenablog.com

 

 そして昨日、池辺葵さんのサインの入った「ねぇ、ママ」の単行本が、下北沢のヴィレッジヴァンガードにあるという話を聞きつけたので、ほとんど行った記憶のない下北沢に行ってきました(もしかしたら東京に十年以上住んでいて初めて行ったかもです)。下北沢と言えば漫画「ホーリーランド」の舞台であり、カツアゲにあった神代ユウくんがヤンキーを殴り倒したことて、下北ヤンキー狩りボクサーなどと呼ばれ恐れられてしまったほどの土地。カツアゲが盛んという偏見があったので、オヤジ狩りなどにあいはしないかとどきどきしながら行きましたが、特にそういうことはありませんでしたし、無事サイン本も買えました。まだ残っていたので行けばあるかもしれません。

 こらえしょうがない人間なので、帰りの駅のホームでばりばり梱包のビニールを破ってサインと添えてある絵を見ましたが、非常に徳が高くありがたい絵が入っておりましたので、拝むような気持ちになりました。

mgkkk.hatenablog.com

 

 サインの入った本、色んな入手の方法があります。絵を描いてもらえたりすると、それは僕だけが所有しているものであって、それを独占してしまっているので、本当に贅沢な気持ちになります。なので、手に入るなら欲しいという気持ちがありつつ、一方、尊敬して崇めてしまっている漫画家さんに人として直接対峙するには気おくれする気持ちがすごくあるので、その過程で色んな精神的なハードルを乗り越えていかなければなりません。

 サイン会の場合、意を決して参加すればサインが手に入るので嬉しくなりますし、参加しなければ変にキョドってトラウマる感じの体験を事前に回避できたのでよかったという気持ちになるので、どっちに転んでも得をするのでは?と思います。なので、サイン会などのイベントは非常によいものではないでしょうか。

 そういうものに参加できる可能性があるのは、田舎の山奥から街に降りてきてよかったことのひとつだなと思いました。

「ねぇ、ママ」を読んで思ったこと関連

 池辺葵の「ねぇ、ママ」はエレガンスイブにたまに載っていた、母と子をテーマとした連作短編の物語です。この前、単行本が出て、電子書籍でも出ています。僕はこの漫画にすごく感じ入るところがあったので感想を書きますが、それはそうと、僕の感想からではなくまず最初は漫画を読んだ方がいいのでは…という気持ちが強いので、まずは買って読んでくださいよと思います。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20170619233206j:plain

 

 さて、素直な皆さんは買って読んで頂けたということで続きを書きますが、池辺葵の漫画で描かれることが多いのは、なんとも言えない状況です。すごく曖昧な言葉を使いましたが、もうちょっと具体的に言うなら、人と人の関係性の中で、必ずしもどちらかが悪くどちらかが正しいとは言えない状況ではないかと思います。そんな状況において、人が何をどう感じているかということです。

 人間は主観で考えれば、物事を自分にとって都合よく捉えがちでしょう。仮に自分にとって悲観的な想像をしてしまいがちな人も、その悲観的な想像が自分にとって何らか都合がよいからしているのだと僕は思っています。主観は常に歪んでいるのです。

 例えばとても悲しい気持ちになった人がいたとして、その人にそう思わせた相手は悪い人なのでしょうか?あるいは、とても正しいことを言う人がいたとして、その正しさは本当に人を幸せにするものなのでしょうか?

 人の選択の裏には、その人の主観的な正しさがあるものだと思います。しかし、それは別の人の視点からすれば間違っていると捉えることもできるものです。なら、客観的な正しさとは何なのか?そんなものは実は存在しておらず、誰しもそんな幻に囚われているだけなのではないか、などということを考えてしまうのです。

 

 「ねぇ、ママ」に収録されている物語には、「間違っている」と分類できそうな人たちが出てきます。しかし、それらの人は単純に悪として断罪されているわけではありません。この単行本においてそれが特に色濃いのは「夕焼けカーニバル」と「カラスの鳴く夜にヤニクは」の2作です。そこのあるのは自分の都合で子を捨てる母親の姿です。

 

 僕はこれらのお話を個人的な体験との類似によってあまり冷静には読めないので、これは僕個人の特殊な思い入れなのかもしれません。僕は「子を捨てる親」の姿に、必ずしも間違ったものだけを見出してはいません。

 世の中には、そのような、子を捨てる親の姿を責める風潮はあるでしょう。そして、それを責めることも社会的な規範を考えれば間違ってはいないだろうとも思います。でも、そこになんだか割り切れないものがあるわけです。そんな自分の中で整理もついていない、肯定的なものなのか、否定的なものなのかも分からないその感情が、この物語の中で描かれている気がしていて、その感情はずっとあったはずなのに、気づいていなかったものに気づかされたような気持ちになります。

 

 「夕焼けカーニバル」では、親に捨てられた子供の姿が描かれます。その子、ワカちゃんはなんとその事実に気が付かず、机の上に残してくれたわずかなお金でパンを買い、毎日学校に通っています。ワカちゃんは自分が捨てられてしまったなんて少しも考えていません。母親の書き置きを読んで、母親に感謝して毎日100円のパンを買って、それだけで生きています。

 周囲の大人たちはなんとなく異変を察しつつも深入りできない状態で、ワカちゃんを見守っています。ワカちゃんの次の居場所を見つけてあげるのは、その見た目から魔女なんて呼ばれた、骨董屋を営むひとりのおばあさんです。厭世的で、家族を持とうとせず、ひとりで生きているおばあさんです。いや、彼女にも家族はいます。それは血のつながりではなく、生まれ育った孤児院の人々で、それは血のつながりが生んだ関係性ではありません。ワカちゃんは捨てられました。血のつながりのある実の親に捨てられました。果たしてそれは不幸なばかりのことでしょうか?

 

 ワカちゃんがひとり残された家に立ち入ったおばあさんが見たものは、子供のために買ったであろう沢山の本や、角にぶつかっても怪我をしないように補修された机、そして、沢山の服(おそらくは手作りの)です。その痕跡に、たったひとりで子供を育てようとした母親の姿が浮かびます。

「愛情がなかったわけじゃないさ」

 おばあさんはぽつりと呟きます。きっとそうでしょう。愛情がなかったわけじゃないでしょう。でも、疲れてしまったんじゃないでしょうか。それは悪でしょうか?悪かもしれません。でも、世の中こんなことばかりじゃないですか。辛い状態に追い込まれて逃げられず、逃げれば責められることが分かっている。どちらにしたって辛いばかりです。ついに母親の立場という荷を下ろしてしまった彼女には、他にどんな選択肢があったのでしょうか。

 何かを悪と責め立て断罪するのは楽な話です。それは当事者ではない人にとっての楽な話です。辛さや悲しさは他人に押し付けて、自分のせいではないということを証明するための正義です。ああすればよかったのに、こうすればよかったのに、やるべきだったことを沢山賢しらに教えてくれるでしょう。それをするのが、自分ではないことほど、人は気軽に言ってのけるものです。世の中は、言えば単純だが、するのは困難なことばかりです。そして、それを続けることはもっともっと困難でしょう。

 

 あのおばあさんが家族を持とうとしないことは、意図的に選んだ生き方ではないかと思いました。彼女もまた捨てられた子供だったからです。親と子の繋がりというものに大した価値を見出していないのかもしれません。あるいは、それを自分が持つことが怖かったのかもしれません。

 子を捨てる親は悪いかと問われれば悪いと答えるしかないでしょう。自分がそうならない自信がなく、悪くなりたくない人は、初めから子を持とうとは思わないかもしれません。そこに、幸福な未来が想像できないのであれば、踏み出せば最後、何が起きても自己責任と突き放されるのであれば、無邪気に踏み出すには遠い一歩です。その辛さを知っていればなおのことでしょう。おばあさんは、そのまま歳をとったのかもしれません。

 しかし、ワカちゃんは、その捨てられた子は、親のことをちっとも恨んでいません。今は気づいていないだけで、将来恨むようになるのかもしれません。でも、孤児院に引き取られて行くそのときまで、一切濁らず、母親を好きなままでいるワカちゃんの姿に、厭世を気取っていたおばあさんがその胸の内を吐露します。

「お前はなんていとしい子だ」

 その言葉は、ワカちゃんの目の中に自分が失ってしまったものを見たからではないかと思いました。親を恨み、親子の関係性を拒絶して生きることは、何より親子という関係に囚われている生き方であるのかもしれません。無邪気な目線には、そんな胸の内に残ったわだかまりに目を向けさせる力があったのではないかと思いました。

 

 この物語を読むとき、僕はあのおばあさんであり、僕はあのワカちゃんでもあります。両方の気持ちが分かる気がします。ここから自分語りが始まりますが、母が僕を祖父母の家に預けていなくなったとき、僕はしばらく誰かが家に来るたびに玄関まで走って行っていたと聞きました。また別のとき、ひとりぼっちでずっと入院していたとき、ベッドを何度もこっそり抜け出しては両親が来ないかとエレベーターの前でずっと待っていたのだそうです。親が好きだったのでしょう。僕自身はそのことをおぼろげにしか憶えていませんが、祖母が何度も聞かせてくれました。しかし、ついに親が迎えに来てくれたとき、僕はもはや警戒してちっとも寄りつこうとしなかったのだそうです。

 それもあってか、小学生のときの僕はすっかり親もまた他人だと思っていました。それは嫌いということではなく、他人と接するように親と接していたということです。赤の他人が、住む場所や学費を出してくれているのと同じように、そんないわれもないのにそうしてくれているという、そういう種類の親への感謝の気持ちがありました。怒ったこともありません。親に無償の何かを期待をするという気持ちは幼少期に使い切ってしまっていたからです。それは別に恨んでいるということではないんです。食う物も寝る場所もあるだけで十分感謝するべきことだと心から思っていました。

 なので、子供の頃、「親が自分のために何かをしてくれない」と怒ることのできる人を羨ましく思う気持ちがありました。それは自分には決してできないことだからです。親だからといって子に何かを与える義務があるなんて、そんないわれはそもそもないだろうと感じてしまっているからです。

 

 書いていて、自分の中にまだ色々しこりは残っているのだなとは感じます。しかし、本当に恨み言はなく、そう育ったことも、今の自分の状態も気に入っているんですよ。

 

 「カラスの鳴く夜にヤニクは」もまた、親に捨てられた子のお話です。娼婦の母親に捨てられたヤニクを、ザザはたったひとりの家族だと思います。修道院の中で、血のつながりではなく、主への信仰によりつながった彼女たちにとって、親はもういなくなった存在です。ザザはヤニクを初めての家族と思い、一方ヤニクは自分を捨てた母のことを想います。ヤニクは自分を捨てたはずの母のことをまだ慕い続けているのです。そしてこの物語は、「夕焼けカーニバル」とは異なり、結婚して生活が安定した母がヤニクを迎えにくるところで終わります。そんなヤニクを見送るザザの姿で終わります。

 

 ザザには親の記憶はないのでしょう。修道院の中でヤニクだけがザザにとっての特別です。文字の覚えが悪く、仕事も上手くやれない、表情も乏しいヤニクに、ザザはお姉さんのようにかまい、はじめてできた家族だと言います。そして悲しいことに、ヤニクにとってはそうではありません。ザザの元を去るとき、つまり母親が迎えにきたとき、ヤニクは今まで見せたことのない笑顔を見せます。

 ヤニクにとっては母親が特別で、自分を捨てた身勝手な母でさえ慕う対象です。自分の都合で捨てた母なのに、都合がよくなればそれがなかったことであるかのように振る舞うのです。そんな母をヤニクはまだ慕うのです。

 ヤニクの笑顔で去っていく姿を見て、ザザは「よかった」と呟きます。このときの表情がすごいわけですよ。見ればわかるわけですよ。「よく」なんてないわけですよ。ザザは自分の家族を奪われたのですから。それもあんな身勝手な女に、ただ血がつながった母親だと言うだけで。そして、それをヤニクが嬉しく思っているということもまた理解してしまっているわけです。

 

 ザザは自分の中のどす黒い感情と、それを表に出すことが何も生まないという「正しさ」を分かっている賢い子です。そして、であるがゆえに悲しく哀れな子です。ザザは自分の気持ちよりも、ヤニクの気持ちを優先させます。なぜなら、ヤニクはザザにとってたったひとりの家族だからです。

 

 あの身勝手な母親とは自分は違うという正しさが、ザザを縛り、家族を失うことを受け入れさせます。自分の望みが不幸を招くと知ったとき、それでも望むことは罪でしょうか?あるいは、そこで我慢することは正しいのでしょうか?どちらにしたって完璧な正解はありません。正しさが人を救うとは限りません。間違ったことだって不幸を招くとは限りません。

 どうすればよかったと問われるとき、どうしようもなかったことだって山ほどあります。この物語の中で、ザザがたったひとりで受け止め、自分だけで処理しようとした感情の大きさを思います。それを読む自分の中に強く大きな感情があることを確認します。

 

 正しいことが正しいわけでもなく、間違っていることが間違っているわけでもないのが世の中なんじゃないかと思います。みんなが正しくても不幸は生まれうるし、間違いが残っているからといって幸福が訪れないわけではありません。正しさと間違いの交錯する曖昧な一点を池辺葵の漫画はするりと通過していきます。それは取りこぼされていることすら気づきにくいような場所です。

 

 唯一無二の正しさというものは、それにそぐわない残りの全てを間違ったものにしてしまいます。正しさは色んなものを傷つける可能性も高いんじゃないかと思います。もちろん間違いだってそのまま他人を傷つけます。誰しも幸福になりたいだろうに、その過程で別の誰かを不幸に落とし込むような言葉ばかりを選んでしまったりもします。

 悪者を見つけて、全て消し去った先に、清浄で正常な素晴らしい未来があるのだろうか?と思います。そこにあるのは、傷ついた人々の残骸だけなんじゃないだろうかと。

 

 僕は親に対してずっと他人行儀で、それは十分大人になった今でもそうです。頼られれば応えますが、こちらからは頼らずに生きたいと思っています。その意味で、本当に他人とあまり距離感が違わないのです。ワガママを言ったり、怒ったりもしません。そんなに距離が近くないからです。それは意思の力でそうしているわけではなく、そうなってしまうのでどうしようもないのです。

 でも、大学進学で実家を出る少し前に、珍しく母と2人で出かけて(大家族なので普段は他の兄弟の誰かがいる)、必要だろうからと作ってもらったスーツと、買ってもらった靴を、十何年経った今ではもう着ることはないのに、靴も履きつぶしてしまったのに、いまだに家に置いてあって捨てられないような可愛いところが僕にはあるわけですよ。

 具体的に書けば責められるところなんて無数にあった家庭で育ちましたけど、それを見ず知らずの他人に責められたとしたら、僕はきっと怒るのだと思います。それは僕の家族に対する侮辱だと思うからです。人間は完璧ではないですし、責めようと思えば責められるところはきっと無数にあります。その中で、そんなことがある上で、なんかいい感じにやっていくのが人生なわけじゃないですか。

 完璧でないことを責められるのだとしたら、世の中の全ての人はきっと何かしら罪を抱えています。あるいはそう思われないための嘘でもついていなければならないでしょう。ならば完璧じゃない中で、なんとかおっかなびっくりいい感じに生きていきたいじゃないですか。

 

 amazarashiは現代の人々が持ちやすい厭世観とその向き合い方を端的な言葉で歌うバンドだと思いますが、その「空っぽの空に潰される」という曲にこういう歌詞があります。

 「恒久的な欠落を 愛してこその幸福だ」

 

 世の中が、自分のいる場所が、完璧ではなくともその中で生きていくしかありません。そこにはは辛く悲しいこともありますが、決して不幸ばかりとは言えないのではないでしょうか?これがこの漫画の描きたかったことかは分かりません。ただ、読んでいて僕はそういうことを思ったわけなのです。