漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

言葉は今のことしか語れない感じがする話

 人間には記憶があるので、それを使えば昔の話を書くことはできます。しかし、その昔の話は、今から振り返った昔の話でしかないのではないかと思います。つまり、それらの過去の記憶は、今何らかの理由で振り返る必要があるからという都合によって、ピックアップされてくるものであることも多いのではないでしょうか。つまり、純粋な過去ではなく、今から見て、何らかの意味で都合がよい過去を都合がよく切り出しているだけなのではないかということです。

 

 だから、今、この時点から振り返る過去は、何らかの意味で嘘です。嘘という言葉が強すぎるなら、不正確でもいいかもしれません。あるいは、そこに当時には存在しなかった別の意図が混じりこんでいる可能性もありますね。

 

 例えば、「昔のオタクは○○だった」という過去の話が出てくるのは、「今のオタクが××である」という話をしているときだったりするでしょう?昔の記憶を引っ張り出すにはそれが必要なタイミングとしての今があり、そして、その過去の記憶をわざわざ引っ張り出すための意図があるでしょう。

 つまり、「今のオタクが××」であるということを批判するために、過去を取り出すのかもしれませんし、今も昔もあまり変わりないということが言いたいのかもしれません。何にせよ、その過去の切り出し方は、今している話の文脈に依存し、純粋な過去の情報から比較すると、大いにねじ曲がっている可能性があります。

 

 そして、場合によっては何らかの主張を否定や正当化するために、過去が何度も不正確に切り出されすぎ、ついには事実に成り代わって認識されてしまうこともあります。世の中はそんなものかもしれません。でも、それ嘘じゃん、とも思います。

 

 ムーミンスナフキンが「大切な思い出は他人に話してはいけない」というようなことを言っていました。僕の記憶を正確になぞるなら、エアマスターの時田がスナフキンがそんな感じのことを言っていたと言っていました。

 これは近年よく分かる気がします。思い出を話すとき、そこにはその時の意図が重なってしまうために、純粋な記憶に何らかの色がつけられてしまうように思うからです。人に話せば話すほど、自分の中の大切な思い出の形が、もともとの姿から歪に変容して、いつしか、全然違うものに変わってしまうかもしれません。大切だから、話してはいけません。大切だから、思い出すのも控えた方がいいのかもしれません。大切なものを大切な形に保っておくために。

 

 このスナフキンの話も、今の話に都合がよいように記憶の中から引っ張り出したので、本当の本当は、こんなこと言ってないかもしれないんですよ。

 

 記憶を思い出すことは、感覚的には夢から覚めたときと同じように感じます。さっきまで覚えていたはずの夢が、掴んだと思った指の間から、するりと抜けて消え去ってしまう感覚です。そして、それを夢日記として残しておこうとするとき、いくらかの加工が入ります。文章にするときに、そのまま記述するには、夢というものはあまりにも支離滅裂だからです。

 夢の中であったことの中から、筋が通って認識できる部分を抜き出し、つなぎ合わせることで、面白い夢をみたということを他人に伝えることができるようになります。でも、それは自分が実際に見た夢の中の、多様な要素の中から少しの領域を切り出しているにすぎません。夢そのものは整然とした文章には書けませんし、だからこそ、覚えておくことも難しいのかもしれないのかなと思います。

 

 僕自身の実感ですが、記憶はどんどん変わっていきます。僕の場合、沢山の記憶が緩やかで穏やかなものに変わっていきます。色々辛いこともあったような気がしますが、喉元を過ぎたそれは、なんとなくぼんやりと、良かった記憶のようになっています。それは調子がよいときに思い出しているからかもしれません。

 嫌な記憶も沢山あります。失敗の記憶は無数に覚えています。2歳や3歳ぐらいの記憶から、失敗談だけはやけに覚えていて(何度も反芻してしまうからでしょう)忘れることができません。うわっ辛いなあと思いますけど、自分の失敗体験を面白い話として引用しまくったおかげで、樽に入って保存されているお酒のように、だんだんと味にとげがなくなって、よくなってきたような気もしています。

 そもそもそれらの失敗の記憶、もはや正確じゃないんですよ。だって、絵として覚えている光景に、自分自身の第三者視点の姿があったりするからです。それはきっと、思い出したときに付与されたものでしょう。もはや、大筋が合っているだけの偽記憶かもしれません。

 

 小さい頃、同じ団地に住んでいた友達のお父さんの出張お迎えに、自分も行きたい!!と主張して、その家のお父さんに「この子は誰?」と怪訝そうな顔をされてしまった思い出も、お菓子をおばあちゃんの買い物かごにこっそり入れたと思ったら、全然別人のかごで、「おばちゃん、そんなのいらんよ」って言われて、恥ずかしくなって走って逃げた思い出も、失敗したなあと何度も何度も思い出しては上書きしているので、もしかするとパーツが徐々に入れ替えられたテセウスの船のように、純粋な記憶の部分はもう残っていないのかもしれません。

 

 漫画の話もそうです。好きだった漫画の話を、読み返しもせずに何度も何度もし続けていると、いざ、読み返してみたときに、全然記憶と違っていて、じゃあ、僕が喋っていたのは何だったのか??という気分になったりすることもあります。それは、きっと漫画そのものの感想だけではなくて、そう言えば話として面白いだろうと思ったこととか、それにかぶせて何か言いたいことがあったとかの、不純物が混じったものだったのでしょう。確認すれば分かるわけです。自分の記憶に色々なものが混じってしまっていることに。

 

 これが漫画だと読めば訂正もできますが、自分の人生の記憶ならかなり難しい。

 

 学生時代、日記を書いていたので、それをたまに読み返します。最近では、Twitterで自分の書いたことを検索して読んだりすることもあります。これだってその時々で正確なことを自分が書いているかは分かりませんが、少なくとも後年思い出して書いたことよりは、そのときどきの今がちゃんと記載されているんじゃないかと思います。

 漫画の感想を書いているのもそうですね。そのときの自分が、その漫画を読んで何を思ったのかを書き残していれば、漫画のことも分かりますし、そのときにそれを書いた自分のことも分かります。それは結構面白くて、だから自分が面白がるために書いていたりもするんですよ。

 

 結局のところ、人は今のことしか語れないのかもしれません。自分自身ですらそうですから、他人が語っていることが本当に正確な過去なのかどうかを判別することはとても難しい。別に正確であろうがなかろうが、問題がないことが多いのだから、世の中はそんな感じに回っているのでしょう。

 

 自分の成功体験の話をしているときと、その前後で失敗体験の話をしているとき、同じエピソードを引用したとしても、その語られ方は全然違うかもしれません。意図が異なるからです。過去は、常に今のために便利な道具として使われるのみです。純粋な過去を知りたいなら、そのときに書かれたものを読み直すしかありません。だから、過去の偉人の人の伝記なんてちっとも信用できないですよ。数ある過去の情報から、ピックアップしたものを繋ぎ合わせて、その間をなめらかにすれば、そういう認識ができるって話でしかないと思うからです。そういう解釈を選び取っただけであって、過去そのものであるかどうかは疑わしい。そして、疑わしいけれど、別にそれで困るわけでもありません。

 

 個人的に避けているのは、自分自身の今までの生き方を物語のように解釈することです。偉人の伝記がそうであるように、上手い具合に記憶や記録をピックアップして繋ぎ合わせれば、なんらかの意味のある解釈が生まれるかもしれません。それはさながら夜空に無数にある星と星を結んで、星座を作るようなものです。その星座はペガサスや、ヘラクレスのような姿をしているかもしれませんが、その星座に選ばれなかった無数の星も残っています。そして、自分自身とは、その星の全てでしょう。どんな形にしたってそこに選ばれないものが残るわけですよ。

 

 有名人の話なら別にいいですが、自分自身の場合、選んだ星座としての物語は、自分の未来を縛ってしまう可能性があります。今この場この時の最善ではなく、自分自身という存在の解釈を逸脱しない範囲に選択肢が狭められてしまうからです。それをすれば、過去と現在と未来を、同じ解釈で理解することはできるかもしれませんが、そこで選ばざるを得ない未来がドブだったときに、みすみす選択肢を捨ててしまい、自分の首を絞めているだけになるかもしれません。

 

 結局のところ、人には今しかなく、今についてしか語れないんじゃないかと思ったりするわけです。なので、今も、今の気分について書いています。竹原ピストルも「LIVING(HIGHWAY61「Living」をモチーフにして)」という歌で歌っていました。

 

ベイビー 歌いたいことが一つだけあるんだ
いや本来 歌うべきことは一つだけのはずなんだ
それは“今”だ 

 

 目の前にあったかと思えば、すぐに消え去ってしまう今を残しておく方法は、言葉にしておくことです。言葉は今を保存することができる方法のひとつで、映像に映らず、音声にも残らないような、頭の中のことでも、言葉に出しておきさえすれば保存しておいてくれます。今のこと以外、世の中は全て曖昧なのでは??と思うことも自分の記憶力が低下してきた中年の脳では思うこともあって、かつての自分が書いていた、かつての今の情報を読み直して、足場を固めているみたいなところもたぶんあるんですよ。

 

 わかんないですけど。

 

 ともかく今がそういう気分なんで、それを記録しておくことにします。

合法の無料と違法の無料を見分ける難しさ関連

 昨今、漫画がネットで無料が当たり前の雰囲気も出てきた気がしており、色んな漫画が(期間限定であったりはするものの)、合法的に無料公開されたりもしまくりな昨今です。

 

 無料というのは摩擦がないみたいな感じなので、情報としての流通が爆速になります。誰でもリンクをクリックすればすぐに読めるからです。会員登録をしたり、決済手段の登録をしたり、お金を支払ったりすることなく、ネットに繋がる端末さえあれば簡単に読めます。人から人に広がりやすく、沢山の人が読むようになります。だから有料の場合と比べてすごく沢山読まれるようになりますが、問題は読者にとっては無料なので、読まれることそのもので収益を上げることには向きません。

 つまり、もう既に市場ではあまり動かなくなった古い漫画に広告をつけることで少額でも収益化することや、アニメ化やドラマ化、あるいは新刊発売に伴うプロモーション的な意味で、それ自体が広告になることなどが理由として読み放題になることが多いと思います。

 読み放題そのものから大きな利益を得るのはまだ確立した方法がありません。

 

 さて、漫画がネットで無料というと、違法な手段でもそれが行われることがあります。むしろ、そちらの方が目につきやすいかもしれません。今でも漫画のタイトルと一緒に検索されている単語には、違法アップロードされた作品を探すための言葉であることも多いですし、この前話題になった漫画村などもそうでしょう。

 無料で読み放題というものは、漫画を作っている人に収益として還元されることを無視すれば、誰でもいつでも大量の漫画を好きなだけ読める、自由で便利で豊かな環境が提供できる素晴らしいものかもしれません。僕自身合法なものについては、嬉々として色んな人に読んでもらおうとしているので、そのメリットは分かります。でも、それはやっぱり違法な手段で行われていてはダメだと思うんですよ。それは持続可能ではないから、あるいは、持続するために誰かを踏みつけ続けるものだからです。

 無料で公開するということに沢山のメリットもあるとは思いますが、それはある種の損害もある行為なので、もしそれをやるならば、作者が自分の意志をもってするということが大前提になる必要があるのではないでしょうか?

 

 さて、同じようなものを提供するにしても、「作者の意志を伴った合法」ならよく、「作者の意志を無視した違法」ならダメという基準があったとします。しかしながら、何が合法で何が違法であるかということを見分けることはそんなに簡単なことでしょうか?

 

 以前、マンガ図書館Zで「皇国の守護者」の漫画版が公開されるということがありました。僕はSNSでそれを知りましたが、これはおそらく違法だろうと思ったので言及はしませんでした。ではなぜ僕はそう思ったのでしょうか?マンガ図書館Zは、絶版になった漫画に広告をつけて合法的に公開をしているサイトです。ならば、合法的に公開されたと思ってしまっても仕方ないかもしれません。

 当時の僕が、これは作者の許諾によって始まったものではないのでは?と判断した根拠は2つです。ひとつはマンガ図書館Zは漫画におけるYouTubeのようなものを目指すと宣言しており、著作者以外の人間がデータを上げて公開できる仕様となっていたことです。参考までに、このような仕組みは、いくつかの条件を満たせば、違法ではありません。なぜなら、プロバイダ責任制限法においては、このようなアップローダに上げられたデータに対して、著作権を侵害していることの指摘があった場合、速やかに対応してデータを消しさえすれば罪に問われないことになっているためです。事実、YouTubeも著作者以外が勝手にアップロードしたデータが溢れていますが、違法サイトとは扱われていません。それと同じです。

 ここで言いたいのは、マンガ図書館Zで公開されているからといって、必ずしも合法とは限らず、違法だがまだ指摘されていないだけの可能性があるという前提を僕が持っていたことです。

 もうひとつの根拠は、「皇国の守護者」の漫画版は、以前出版社の人から聞いた限り、原作者が自らの意志を持って連載を途中で終了させたものであり、それによって電子書籍版も出ていないというものだったからです。その問題がもし解決したとして、まず行われるのはきっと電子書籍版の販売でしょうし、いきなり無料公開のサイトにアップロードされるようなことがあるでしょうか?

 この2点から、マンガ図書館Zで当時公開されていた漫画版皇国の守護者は、権利者の意志とは無関係に違法にアップロードされたものである疑惑が強く、だから、はっきりするまでは言及することを避けたわけです。

 

 結果的に、話題になってほどなくデータの公開は止まり、上記の推測は細部までは不明ですが大筋は正しかったことが分かりました。

 

 僕はこのような理由から思いとどまりましたが、それを作者の意のもとに合法的に公開されたものと勘違いして宣伝をしてしまった人たちもいたわけですよ。それをダメなこととして非難するような気持ちは僕にはありませんが、結果的に、作者の意志を無視し、権利を侵害する行為を、むしろ良かれと思ってやってしまったということは結構しんどい状況なのではないでしょうか?人によってはこれを「合法で提供しない方が悪い」というような怒りを表明しているのも目にしました。作者の権利なんてどうでもいいという考えの人も当然いるようです。

 一方、漫画版皇国の守護者については、原作者の意向により、漫画家が自分の描いた漫画版の公開を制限されているというしんどい事情があります。なので、色んな思惑が絡まっている厄介な事例です。ただ、基本的に作者の権利を守るという意味では、合法的な動きの結果の状況であり、その解決は個別に交渉するしかないようなものだと思います。漫画版皇国の守護者は好きな漫画なので、そのような状況になってしまうのは悲しいですね(まあ僕は単行本を持っているのでいつでも読めますが)。

mgkkk.hatenablog.com

 

 話がそれましたが、皆さんは合法と違法をどうやって区別しますか?という話ですよ。上記のような理路は特殊なので、パッと見でそう判断するような人は少ないかもしれません。これはなんだか分からないけれど無料で、なんだか分からないけど作者にお金が入ってるんだろ?と思ってしまうことはそこまで不思議なことではありません。例えば、テレビなんてその最たる例だからです。

 

 ネットで無料で読める漫画には、合法なものと違法なものが入り混じっています。それはパソコンやスマホのブラウザやアプリから読めるという意味では違いはありません。それを合法か違法かを区別するのは、その後ろで、適切な権利処理を行っているかの違いであって、それは読者からは見えにくい場所でもあります。

 合法に公開されているサイトだからといって、そこに違法なものが混じってしまうケースもあります。マンガ図書館Zもそうですし、Kindleでも、その漫画の著者ではない人が勝手に登録している漫画も発見することができます。

 だから、100%明確に判断する根拠は、現時点ではないと言った方がいいような気がします。僕自身、あらゆるケースにおいて見分けられるという自信はありませんし、出版社が自分たちでやっているようなこれは絶対合法だろうと思えることでも、実は作者にちゃんと確認をとっておらず、事後承諾となったり、揉め事に発展したりしたケースも見聞きします。それだって違法に分類されるわけでしょう?

 その権利処理の実態が、自分の目の前に公開されているわけではない場合、完璧な確認手段というのはありません。だから、なんらかの合法違法の判断は、何らか適当なものを根拠に、これは本当に合法か?とそれ以上考えることを止めてしまうことによってのみ成し得るものかもしれません。

 

 例えば、子供にこのYouTubeの動画はこのユーザが勝手にアップロードしたものだから違法で、同じサイトで同じ検索に引っかかるけど、これはオフィシャルのアカウントだから合法、ということを上手く説明しろと言われると弱ってしまいます。説明はできても、納得してもらえるかの自信がありません。(なおストリーミングなので、現行法上は視聴自体は違法ではありません)。

 テレビでも無料で流して合法なのに、それがネットになると無料で見るのは違法なのはなぜ?という問いに、誰もが簡単に納得してもらえるように説明ができるでしょうか?それが音楽なら?漫画なら?映画なら?ゲームなら?

 著作物における作者の権利という概念と、それが法律にどのように記述されているか、そしてその解釈は?判例は?それぞれ誰でも即座に簡単に理解できるものではないように思います。だから、一番楽なのは、ネットに上がっていて、それを見ること自体が違法でないのなら、何も考えずに見てしまえばいいというあたりになってしまうんじゃないかと思うんですよね。それが谷の底です。流れた水をせき止めるものがないなら、全て谷の底に流れ着いてしまいます。

 

 その谷に流れてしまうことを前提で戦うなんて方法もありますよ。例えば、音楽そのもので収益が得られないならライブやグッズで収益を得ればいいとか、違法ダウンロードを潰すのではなく、競争をするだとか。合法でもっと安く便利に提供すれば競争力があるとか。でも、個人的には音楽でのそれは失敗しているように見えてしまいます。なぜなら音楽市場は、ネットで無料の圧力がかかるまえと比べてすごく小さくなっているからです。ライブやグッズで収益を上げられるような既に大きくなった音楽家ならいいかもしれません。でも、新人ならどうでしょうか?市場規模というのは単純に食える人の数も意味すると思います。その市場で食べていける人は減っていくんじゃないかと思うんですよね。

 何年か前に行ったバンドのライブで、ボーカルがMCで、「どうやったら音楽で食えるようになるんだ!?」と絶叫していました。そのライブは2つのバンドのツーマンで、片方は早くからネットの生配信などを駆使し(それを見て僕も行きました)、もうひとつは昔ながらのやり方です。「配信とかをすればいいのか!?それで食えるようになるのか?」とステージ上ですごく嘆いていて、今調べてみたら活動休止していました。時代の流れに乗れなかったのが悪いと言うこともできるかもしれません。でも、それは時代の流れというものに乗れないものは、それがどんなに好きな感じの音楽だったとしてもいなくなってしまうということです。それは悲しいなという気持ちがあります。

 そういう意味で、音楽は今のところビジネスとしては特段上手くは行っていないんだろうなという認識です。

 

 でもまあ、ネットによって低コストで全世界に流通させることはできるようになったので、収益化はめったにできなくても、音楽を聞く環境は豊かになる可能性だってありますね。

 

 そんでもって、漫画はどうなるのって話じゃないですか。合法なやつをちゃんとやっていければ大丈夫なのかも不明瞭ですが、でも、音楽みたいに違法なんかと正面から競争して、自分たちの得られるはずだった利益を切り下げていって、収入を大きく減らした状態で「勝負に勝った」なんて言うの、なんか悲しすぎやしないかなと思い、そうはならないでほしいみたいな気持ちがあります。

 漫画も、今は描いてネットで無料で公開している人も無数にいます。それで食うわけでもなく、同人誌を作って楽しんでいる人もたくさんいます。それも別に悪くはないかとも思いますが、僕は商業漫画に囲まれて生きてきたので、それに対する郷愁みたいなものがあるわけですよ。

 

 話を戻します。合法違法の見分け方の話です。漫画を無料で公開しているサイトは出版社直営のものも多く、それは出版社直営なのだからきっと合法だろういう信頼性が得やすいでしょう。では、それ以外の場所ならどうでしょうか?例えば「スキマ」というサイトがあります。このサイトを見て、合法か違法かをどのように判断するでしょうか?

 ネットで「スキマ 合法 違法」なんて検索してみる、なんて方法もあります。Yahoo知恵袋に回答が書かれていたりしますね。でも、Yahoo知恵袋に書かれているから合法に違いない!!と思うのは正しいでしょうか?スキマの漫画のデータを見ると、あまり綺麗ではありませんし、場合によってはスキャンしたページが破れているなんてこともあります。キャプションに誤字が含まれていたり。一見すると怪しさも沢山あるわけです。

 なので、僕は最初サイトを知ったときには多少警戒したのですが、運営会社が普通に商売をしている漫画全巻ドットコムと同じであるということや、オリジナルの連載も行われており、そこでは漫画家のTwitterなんかを見る限りちゃんと仕事としてやっているだろうことが分かります。合法のビジネスをやっている以上、違法性のあるものを公開するのはメリットよりデメリットが多いだろうなどことが推察されます。

 スキャンの品質が悪いのも、漫画全巻ドットコムと関係性があるため、コスト削減のために自前でスキャンしている本があるのかな?と説明できると思いました。あとは、権利を持っている漫画家から指摘がない状態で継続的に公開され続けているので、それならきっと大丈夫だろうという結論に至りました。しばらく時間をかけて。

 でも、結構難しくないですか?その判断。僕は最初結構悩みましたよ。ここが違法サイトなのか合法サイトなのか。

 

 違法サイトにだって「この漫画を読むのは合法です」みたいな書き方がされていたりもします。それを読んで「そうか!合法なんだ!」って思ってしまうことだってあるんじゃないでしょうか?それはすごい雑な話ですが、それぐらいで信じてしまうことだってあるわけですよ。だって、SNSで書き込みされた真偽を確認する手段がまるでない情報でも、すぐに事実として扱われてしまったりもするじゃないですか。

 何をもって信じるか、なんて人それぞれです。詳しい分野では騙されなくても、詳しくない分野ではコロっといってしまうかもしれません。結局のところ具体的に何がどうなら合法なのかを確認するのって、結構しんどいですよね。しんどいからどれだけの人がどれだけやれるかも分かりません。だからもう、しんどい状況だよなあと思ったという話です。

 

 そうなると、ネットを分かりやすくするためには違法サイトをネットからブロッキングしてしまいたいという発想も出てくるよなあと思っており、個人的には立法という筋道と運用の透明性が確保されるなら、そういう解決方法もあるだろうなと思います。ただ、今いきなりそれをやるのは無理筋だとは思いますが。

 

 さて、ようやく本題ですが、僕が大好きな漫画こと「将太の寿司」が、しばらく前からスキマで期間限定無料公開されており、あと2週間弱で読めなくなるそうなので、まだ読んでない人はこれを機に読んでみるのもいいのではないかと思います。

www.sukima.me

 以下は、ご参考までの僕の将太の寿司に対する気持ちの文章です。

mgkkk.hatenablog.com

「からくりサーカス」から「月光条例」に繋がる地獄の機械関連

 からくりサーカスとはどんな漫画であったのかを一言で選べと言われたら、僕は「運命とは、地獄の機械である」という言葉を選びます。これは作中でジャン・コクトーの言葉として紹介されるものです。僕はこの言葉がジャン・コクトーによってどのような文脈で語られたかを知りません。なので、すごく見当はずれな理解をしているかもしれませんが、からくりサーカスを読んでいると、ああ、運命とは地獄の機械だなと思うわけです。

 

 機械というものは意図して設計され、様々な部品が絡み合い、動力を得て動作するものです。運命という機械を動作させるためには、様々な人々がその部品として組み合わされ、その部品は外部から導入された動力で動くでしょう。いや、動かされるでしょう。そこには選択の余地がありません。決められた役割に応じて決められた通りに動くのが機械の部品に求められることです。部品が壊れたなら、別の似たような部品がそこにまたおさまるだけです。部品となった人は壊れるまでそれを動かし続けなければいけない。そのために動かされつづけなければいけない。それは地獄、ではないでしょうか?

 

 僕が得たのはそのようなイメージです。

 

 からくりサーカスは「選択」の物語でしょう。物語の冒頭、悪い奴らに追われる少年、勝は、サーカスの宣伝の着ぐるみに「話かける」か「話かけない」かの選択を迫られます。ここで話しかけなければ、この後に起こる全てはなかったはずです。でも、話しかけてしまった。これはそういう物語です。選択にはそれを選んだ責任が付きまといます。選択したために起こってしまった悲劇は、選択した人自身に責任としてその代価を要求してくるでしょう。勝はそのあと、大きな喪失を経験します。それは自分が選んだからこそ起こったものであると思わされます。

 

 からくりサーカスには選択を迫られる場面が何度も出てきます。何かを「する」か「しない」か。しかし、そこに本当に選択の余地はあるのでしょうか?どちらかを選ばざるを得ないのであれば、選択肢が登場することは、登場しないことよりも残酷かもしれません。そこには勝のように責任が生まれるからです。人は責任によって身動きがとれなくなり、より一層機械の中に取り込まれてしまうものかもしれません。

 本作の主人公の一人である鳴海もまた、運命という地獄の機械に引きずり込まれ、歯車の一つとして身動きが取れなくなってしまいます。彼の体は、彼だけのものではなく、彼がそこまでくるためにその死を看取ってきた沢山の人々の意志によって動かされます。誰よりも自由意志のある人間であろうとした鳴海でさえ、数々の仲間の死を背負い、自分を失ってしまいました。

 

 自動人形の破壊者である「しろがね」もそんな地獄の機械の一つです。

 彼ら彼女らは、元々は一人の男の意志であったものを継ぐ者たちです。それはある種の呪いです。「自動人形を破壊せよ」との呪われた機械の部品と化した悲しい人々です。

 全ての元になった男、「白銀」は、自身の生み出した錬金術の最大の成果「生命の水」を使い、病に苦しむ人々を救う代償として、人々に「しろがね」という呪いをかけました。なんでも溶かす生命の水にその身を溶かし、飲んだ人々は皆、心の一部に彼の意志を宿すようになってしまったのです。これは地獄の機械ではないですか。

 

 ジョージ・ラローシュの話をしましょう。

 彼はピアノを練習する少年でした。そこでは、厳しい父により、自分がただ譜面を再生する機械であると指摘されます。ジョージにはしろがねになったことに抵抗が少なかったかもしれません。既に、過去の誰かが作った譜面を、再生する機械でしかないなどと言われてしまっていたからです。そしてジョージは、あやつり人形なしでも単独で戦える力を得るため、体の一部を機械に置き換えたしろがね-Oとなる決断もしてしまうのです。

 しかし、果たして彼に選ぶ権利はあったのでしょうか?彼はベルトコンベアに流されるように、機械となる運命に取り込まれてしまいます。そして多くの人がそうであるように、自らに求められた役割と、自分自身の意志を混同し、自分がそうであるということを受け入れ疑問を持つことができません。

 彼は敗北を機に、自身が超人間しろがね-Oの一員であるということも否定されます。彼は、しろがねと自動人形の最後の戦いにおいて戦力外通告され、伝令役としての役割しか与えられないのです。幸か不幸か、それによって最終決戦を生き延びたジョージは、その様子を「くだらねえ戦い」と言います。それは日本人の人形繰り、阿紫花の言葉を借りたものでしたが、この戦いは、病気にさせられた者たちが病気にさせた者たちに仕返しをしただけの、くだらない戦いだったと言うのです。自分たちを駆り立てた最後の戦いは、自分を支配した運命は、とてもくだらないものでした。

 その後、終わったはずの戦いに再び身を投じたジョージは、その幕間にサーカスを手伝います。ジョージは、お世辞にも上手いとは言えないジジイの芸の手助けに、ピアノを弾いてあげるのです。そのとき、彼に初めての賞賛が舞い降りました。子供たちの拍手がジョージのピアノに向けられるのです。それだけではなく、ジョージは子供たちにせがまれました。「また、ピアノを弾いてね」と。この出来事が、歯車と化していたジョージの心にヒビを入れます。

 ジョージは合理的に生きてきた男でした。合理性とは、しばしば不自由のことを意味します。なぜならば、合理的に考えるならば、合理的な結論を選ばざるを得ないからです。譜面の通りにピアノを弾く機械になるのが合理的。病から逃れるためなら、しろがねになるのが合理的。しろがねとして戦い続けるなら、改造されてしろがね-Oになるのが合理的。しかしその合理性は、果たしてジョージを救ったでしょうか?

 Oという存在がいます。それは体を完全な機械に置き換えた、ついにはしろがねですらなくなった合理化の権化です。Oの男を前に、ジョージは煙草を吸って見せます。目の前のOにジョージはかつての自分自身を見ました。煙草を吸う合理的なメリットなんてありはしません。つまり彼は、そこから降りたのです。いや、外に踏み出たのかもしれません。

 先ほど、ジョージはついに自分の得たかったものを知りました。ついに自分の望む生き方を見つけました。自分のピアノへの子供たちの拍手が、それに気づかせてくれました。「私はピアノを弾いてねと言われたんだ」。その記憶をジョージはひたすらに反芻し続けます。合理に囚われ過ぎ、ついには自分の生き方をも見失ったOに対して、自分がもはやそうではなくなったことを誇らしげに語るのです。

 「こんな私にだぞ」、ジョージのこの言葉は何よりも悲しい。ジョージは誰にも求められてこなかったわけです。ジョージは。人に見捨てられないために、それが合理的と目を背け、自分の選択だと自分自身を騙してきました。しがみついてきたその道の先にいるOでしょう。その姿はとても空虚でした。それは結局、誰かの意志を再生する部品の一つでしかないからです。

 ジョージはまた子供たちのためにピアノを弾いてやりたいと思います。ジョージはついにその身を捕らえる地獄の機械を破壊し、その外に出ることができました。しかし、戦いの中で力を使い果たしたジョージに待つのは死です。でも、それは悲しいばかりの死でしょうか?誰かの作った運命にもてあそばれて生きてきた今までは、本当に生だったのか?ジョージはその肉体的な死を前にして、ついに生きることができたのではないでしょうか?だから、ジョージ・ラローシュは本作を象徴するような男ですよ。彼は運命という地獄の機械に打ち勝つことができたからです。

 

 ドットーレという自動人形の話をしましょう。

 フランシーヌという人形を笑わせるためだけに生まれたドットーレは、その目的のために、人間に対しての様々な悪行をやってきました。最初にやったのはジャグリングの芸です。年に一度の祭を楽しみにしてきた田舎の村の子供たちが、自分に向かって走ってきたのを、ドットーレは優しく出迎えます。その腕は子供たちの頭や手足をこともなげに切り落とし、まるでボールやピンのようにジャグリングしてフランシーヌ人形に見せるのです。どうです?おもしろいでしょう?笑えるでしょう?

 ドットーレたち自動人形は、決して許されない悪行を繰り返してきました。人を笑わせないと苦しむ病気、ゾナハ病をばらまき、人の血液を吸って生きる、忌まわしき人形たちです。しかしそれは全てフランシーヌ人形のためです。彼女を笑わせるためなら、自動人形たちはなんでもやってのけます。フランシーヌ人形は、彼らの存在価値そのものなのです。

 遠い昔、自分の子を、ジャグリングの道具にされた女がいました。彼女はゾナハ病のせいで死ぬこともできない苦しみの中、自動人形を憎み続けます。その気持ちは、しろがねになることでさらに増幅され、自動人形の破壊のため、彼女はたくさんのものを犠牲にしてきました。その女の名は、ルシールと言います。彼女の最後の武器は、フランシーヌ人形そっくりの人形です。その人形をあやつることで、ルシールはドッドーレたちを行動不能にしました。

 目の前の人形はフランシーヌ人形ではない。頭ではわかっていてもドットーレたちは動くことができません。なぜなら、フランシーヌ人形とは彼らの存在意義そのものなのだから。同じ形をしたものを、無視することなんてできはしません。

 ルシールはドットーレに挑発的に囁きます。「フランシーヌ人形など自分には関係ないと思ってごらん」と。それが唯一、彼が動くために必要な方法だからです。ルシールはドットーレをさらに挑発し続けます。そしてついに、ドットーレは動きました。目の前のしろがねを殺すため。フランシーヌなど自分には関係ないと宣言して、動けない体を無理矢理動かしたのです。

 自分を縛る不自由な法から抜け出たドットーレに与えられたのは、死でした。なぜなら、フランシーヌ人形は彼の存在価値そのものなのだから。そのために彼は作られた存在なのだから。それを否定しては、生きていくことができはしないのだから。ルシールは、ドットーレに自由を与え、それによって復讐を遂げたのです。

 

 ジョージ・ラローシュとドットーレは、お互いに課せられた機械の部品という運命から外に出ることができた存在です。そして彼らに訪れたのは死でした。前者は自分を取り戻した満足の中の死であり、後者は自分を見失った絶望の中の死です。しかし、彼らにともに死が訪れたのは果たしてたまたまでしょうか?

 運命というものがそれまでに残酷で、恐ろしい力を持つからだったりはしないでしょうか?

 

 からくりサーカスは「選択」の物語だと書きました。しかし「選ぶ」「選ばない」に影には、「選べない」があるのではないでしょうか?物語に登場した人々の多くは、選ぶことができない運命に翻弄された者たちです。ゾナハ病の患者はしろがねになるしかなく、しろがねは自動人形を壊すしかなく、自動人形はフランシーヌ人形を笑わせるしかなく、フランシーヌ人形は造物主に笑顔を見せるしかありませんでした。全てはそのために、起こった出来事です。

 全ての発端となった造物主、白金の選択が、他の沢山の人から選択肢を奪い、世界中を巻き込む悲劇に発展したのです。

 

 なら、彼に訪れた選択とは何だったのか?フランシーヌ人形のモデルとなった女性、フランシーヌを求めることを「選んだ」ということです。そしてそれは、フランシーヌに選ばれなかったという悲しみから生まれた行動です。彼女は兄の白銀を選び、自分を選んでくれなかったのです。

 

 からくりサーカスの物語は、白金の自分がその道を選んだことが間違いだったという言葉によって終幕が始まります。フランシーヌが白銀を選んだとき、自分が選ばれなかったという悲しみから、強引にフランシーヌを奪い取ったという選択が全て間違っていたという結論に至ります。

 白金が、流されるままに我慢をすることなく、自分の望む未来を強引にでも選ぼうとしたことが間違いだったなら、これもまた地獄の機械なのではないでしょうか?自由を勝ち取ったジョージ・ラローシュやドッドーレに死が訪れたように、彼には「我慢する」か「悲劇を起こす」しかなかったのですから。

 

 運命に定められた人生を歩まざることを得ないことは悲劇です。しかし、それを抜け出すことが、さらなる悲劇を生み出すのであれば、そこはきっと地獄です。だから、からくりサーカスは、運命という地獄の機械の物語だと思うわけです。

 

 この地獄の機械に翻弄される人々という構造は、次の長期連載である「月光条例」で繰り返されます。ここに登場するおとぎばなしはしばしば悲劇です。おとぎばなしの筋を運命とするならば、その登場人物たちにとって地獄の機械と言えるかもしれません。物語を狂わせる青き月の光は、物語の登場人物に月打(ムーンストラック)という暴力的な自由を与え、その本来の筋を破壊します。月光条例の青き月の光は、地獄の機械を破壊する力であるのです。

 それを抜け出た登場人物たちは、ジョージ・ラローシュではないでしょうか?ドットーレではないでしょうか?白金ではないのでしょうか?

 その月打は、月光条例の執行によって正されることになりますが、物語の登場人物たちはその一瞬見ることができたように、誰しも地獄の機械に抗い続けているということではないかと思いました。

 

 これは言うなれば物語という地獄の機械と、登場人物たちの全面戦争です。そして、多くの物語は、そのせめぎあいの中で生まれているのではないかと僕は思います。浦沢直樹の「ビリーバット」もそれを描いた漫画ではないかと僕は思いました。

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 物語の筋を破壊してしまうほどの強力な意志を感じ取れる登場人物と、そんな強力な登場人物を使役するほどの強い物語のせめぎあいが、漫画の持つある種の強い力の正体なのではないかと僕は感じています。

 

 そのすさまじい戦いを、ある意味、地獄の機械側の勝利でねじ伏せたからくりサーカスが、その次に月光条例に辿り着くのは必然であったのかもしれません。

当然知ってるでしょ?関連

 人間には知っていることと知らないことがあり、知らないことは知らないので知らないし、知っていることは知っているので知っています。でも、何を知っていて、何を知っていないかは人それぞれで違います。

 テレビでやっている街頭アンケートでの認知度調査なんかでは、誰でも当たり前に知っているだろうと思うような有名人でも100%知っているということにはならないことに驚きますし、日本で生きていて、本当にそれに一切触れずに生きて来れることはあるのだろうか?などとまで思ってしまったりしますが、これは完全に人それぞれなのでしょう。

 

 ですが、何かについて当然知っているだろうというていで、自分から他人に話を振ってしまうことはありますし、他人から自分に話を振られてしまうことがあります。でも、知らないものは知らないので、当たり前のように話されても知らないのだから仕方ありません。それは起こり得ることです。

 

 芸人のダイアンの漫才に、「サンタクロースを知らない人」というネタがあって、ボケの「サンタクロースって何?」という発言に対して、ツッコミが「サンタクロース知らんの?」と驚いて、そんな人がいるのかとはしゃぎ続けます。しかし、会話が攻守交替し、こんどはボケの方が「ファナスティって知ってる?」と発言します。そんな言葉は知りません。その後、もう嫌になるぐらい「え?ファナスティ知らんの??」と言い続けられたあと、「…これをずっと言われてるようなもんやぞ」と終わるのを見て、理解するわけですよ。自分が一切知らないものに対して、え?知らんの??と言い続けられても、そもそも知らないものは知らないので、相手のはしゃぎっぷりも含めてわけが分からないし、困惑しか残らないということを。

 

 自分が理解できないことで驚かれたり、笑われるのはストレスです。

 

 例えば、海外に行ったときなんかに、これを強烈に感じたりします。僕の場合基本的に仕事で行っているので、仕事関係の話題は分かるわけですが、それ以外のことはさっぱり分かりません。雑談中に彼らが何について話していて、何で笑っているのかもさっぱり理解できないことも多々あります。そして、さっぱり理解しないままに発言をしてしまうと、僕のそのとんちんかんな発言に皆が笑ってしまったりします。僕にはその笑いの意味も分からないので、どうしたもんかなあと思ってしまいます。

 逆に、日本で外国の人とテレビを見ていて、どつき漫才の話になったことがあります。漫才のボケが頭を叩かれていて、笑いが起こります。そこで外国の人に聞かれました。「彼はなぜ頭を叩かれたのか?」「間違ったことを言ったからだ」「間違ったことを言わなければ叩かれないのではないか?」「彼はわざと間違ったことを言っているんだ」「なぜそんなことをして叩かれようとするのか?」「…それが面白いから」「なぜそんなことが面白いのか?」「…」みたいな感じのやり取りが発生し、結局上手く説明することができませんでした。

 

 何かが分かる側からすると説明不要で当然であることが、説明なしには分からないかもしれませんし、説明をされたとしても分からないままかもしれません。つまり断絶です。

 

 「ONE PIECE」が1巻あたり300万冊売れたとしても、日本人口の97%以上は買っていないということになります。1万冊売れる漫画なんて、99.99%以上の人が買っていない漫画です。そんな世界です。自分が読んでいる漫画を、当たり前に相手が読んでいるということを想定していいのでしょうか?好きな漫画の話をするときにはそういうリスクがあります。漫画以外だってそうです。皆で共有できるものは多くありません。

 ただ、人との会話というものはいきなり1億2000万人の前で始める演説ではありませんから、その中の誰と話すかによって当然知ってるでしょ?を導入してもいいケースもあります。その方が話が早いですし、前提の説明を省略しても楽しくなってしまうわけです。これがオタの会話でしょう。伝わる範囲なんて狭ければ狭いほど分かる方からすれば良いですから、その中だけで通用する話題もガンガンしますし、結果、それは外から見ればどんどん歪で意味が分からないコミュニケーションとなってしまいます。

 なので、こういうところに外からやってきた人が入ると問題が起こります。他の人が当たり前に分かっているので説明してもらえないし、その狭い界隈だけで通用するものなので、何かを参考にして理解する方法もありません。分からない人とのコミュニケーションはとても疲れますから、嫌になってしまうかもしれません。

 

 「あいしゃんどん」、これは意味が分からない言葉だと思いますが、僕の家族には当たり前に通じる言葉です。これは僕の妹が小さい頃「しょくぱんまん」を上手く言うことができずに使っていた言葉で、なので、僕の実家では「しょくぱんまん」のことを「あいしゃんどん」と言ってもコミュニケーションが取れます、でも、外から来た人には無理でしょう。こういうことが無数にあるわけですよ。自分が属していなかった場所に足を踏み入れたときには。

 そういうときに理不尽さを感じてしまったりしないでしょうか?分かる人にしか分からないコミュニケーションの場に足を踏み入れることは大変です。

 

 なので、そういうことに気を遣って話すならば、場で一番前提を共有できていない人に向けた言葉を選ぶとよいことになります。僕もブログで書いている文の場合、固有名詞やそれが意味する別の何かを知らない人でも、なんとなく意味が分かるように簡単な説明とともに書いています。上記で言えば、「ダイアン」という言葉が出てきたときに、それが何か分からない人がいることを考えて「芸人の」という言葉を付けました。その後のやりとりも、知らなくても分かるように書いたので、ダイアンのそのネタを見たことがない人でも意味は分かってもらえるのではないでしょうか?

 ただ、「ONE PIECE」という言葉が出てきたときには、仮に読んだことがない人であっても、それが日本でめちゃくちゃ売れている漫画であるということぐらいは知っているだろうという判断で、余計な説明は省いています。

 この文章を読む人を強く限定してもいいなら、そんなことは気にせず、自分が分かるようにだけ書けばいいわけですが、ここに書いてある文章は、誰が読んでもだいたいの意味ぐらいは分かることを基準にして書いているのでそうしている感じです。

 

 IDA-10さんとみやおかさんがやっているpodcastの「ピコピコキャスト」で(ほら、こういう説明的な書き方をしがちです)、みやおかさんがゲームの話をしているときに、IDA-10さんが「今録音してる?」って確認したことがありました。それは2人だけの会話であるならばわざわざ説明しなくてもいいような、当たり前に共有できていることを、わざわざ口にだしていることが気にかかったからです。つまり、その言葉は自分たち以外の誰かに聞かせることを意識して喋られていて、それはつまり、その会話を録音してpodcastにするためだろうと察したからでしょう。

 これはすごく面白い話だと思うんですよね。人は会話の中で、聞く意味のあるところとないところ区別して認識していたり、その発言が登場した意図を細かく考えたりをしているということだからです。相手が何を当たり前に知っていて、だから何を省略しても問題なく伝わるか?あるいは、何を明示的に言わなければ伝わらなかったり、誤解を生む可能性があるかを意識して会話をしている人は多いのではないでしょうか?

 

 それができれば、説明が必要なものとそうでないものが区別できるわけですよね?なら、目の前の人が自分が当然知っていることを知らないときであっても、そこを説明しながら伝えれば、割となんとかなることが多い気がします。コミュニケーションはそれでいいじゃないですか。

 あとは目の前の相手が何を把握していて、何を把握していないかをどれだけちゃんと察したり確認したりをできるかですよ。

 

 今ちょうどやってる展示会に今僕が働いている仕事場が出展したりしているんですが、説明員が足りないというので昨日ヘルプでやったりしました。そう、僕は説明をしに行ったわけです。

 そこで、ある技術について「詳しいことは分からないんですけど」と言いつつ質問をしてくれた人がいました。これは結構な難しい状況です。その詳しくないことがどの辺まで分からないのかの判別が瞬間的には難しいからです。なので最大限の想定をして、あらゆる専門用語は避けて説明をし始めたら、相槌から基本的な用語や概念は分かるということを察し、認識を途中で修正しつつ言葉を選び直して説明しきったりしました。説明相手が、何をどこまで知っているのかを事前に把握できないときが一番難しいということです。しかも一期一会なのでやりなおしもきかない。

 

 何かについて「当然知ってるでしょ?」っていうことを期待できるの、非常に狭い狭い範囲のことで、それを少し外に越えてしまえば、そんなことを期待する方がおかしいんじゃないかと思ったりします。

 こんなことも知らないのか?と他人に思っても、一方、その相手が当然知っていると思っていることを自分が知らないことだって絶対あるじゃないですか。あらゆる基本はそれで仕方ないんだと思うんですよね。相手に知ってて当然を期待する方が特殊な状況ですよ。なので、長々書いたんですけど結論は普通で、「人と人はおそるおそる情報交換しつつちょっとずつ相互理解をやっていくしかないんだろうな」という感じがします。

 やっていきましょう。

「若おかみは小学生!(映画版)」と獅子咆哮弾について

 昨日、「若おかみは小学生」の映画を観て来ました。近所のショッピングモールの映画館だと朝しかやっていなかったので、朝にバイクでブリブリと行ってみたら、朝イチだとショッピングモール全体がまだちゃんと開いてなくて、限られた入口からしか映画館に行けないんですね…(知らなかった)。上映時刻に間に合わないかと思って、中年男性が入口まで走ってしまいました。若おかみは小学生を観たさに中年男性が走るわけです。でも映画は良かったのでオッケーです。

 

 原作も読んでないですし、テレビアニメ版も観てないので、これがどの程度映画向けに作られたお話なのかは分かっていないのですが、児童文学にしてはとてもしんどい状況を描いていて、子供がしんどい状況になることに、すごく胸が痛む気持ちになってしまいハラハラしながら観ました。

 

 免責:以下、ネタバレが含まれます。

 

 主人公のおっこちゃんは交通事故で両親を亡くし、旅館を営むおばあちゃんに引き取られます。また、その旅館にはおばあちゃんの幼馴染の少年の幽霊がいて、ずっとおばあちゃんのことを見守ってきたわけですよ。そして少年の霊は、後継ぎのいない旅館と働き続けるおばあちゃんを見て、おっこちゃんに若おかみとなることを勧めるのです。そこで、おっこちゃんは、うっかり小学生ながらに旅館の若おかみになります。

 おっこちゃんからすれば成り行きで、別段強い意志があったわけでもなくなった若おかみです。でも、物置に封じられていた小鬼を解放してしまったため、引き寄せられる様々なお客さんのおもてなしをする中で、徐々に立派に若おかみの仕事をしていくようになります。

 おっこちゃんは、どんな人であろうとも拒むことなく癒す温泉、花の湯で、お客さんに満足して帰ってもらいたいという気持ちから、小学生ながらに若おかみとしての自分を獲得していくわけです。

 

 さて、映画のクライマックスでは、おっこちゃんはお客さんとしてやってきた家族をもてなすわけですが、そのお客さんこそが、なんと自分と両親が遭遇した事故における対向車側の当事者であることが分かってしまいます。それに気づいたおばあちゃんも、その事実を知らずに偶然お客さんとしてやってきたそのお父さんも、加害者と被害者という立場の人間が、若おかみとお客さんという立場で接することの重圧に耐えきれず、別の旅館に移るという判断をします。でも、おっこちゃんは「自分は若おかみだから」と、それを慰留し、まだおそらくは自分の中で解決していないだろう私情を乗り越えて、仕事人として振る舞うわけです。

 これは見方によれば残酷ともいっていい状況でしょう。この場面でも、僕の感情は溢れてしまったわけですが、それは良いと感じることも悪いと感じることも、ごった煮にした量の感情が、自分の平静でいられる許容量を超えてしまうからこそなってしまう状態で、色々整理がつかないことなわけです。

 

 僕が気になったのは、果たして、このときのおっこちゃんは、「若おかみである」という自分で「事故の被害者である」という自分を上書きして飲み込んだのかどうかということです。若おかみであるということが、その私情を塗りつぶしてしまうものならば、若おかみであるということは、果たしておっこちゃんにとって良いことなのでしょうか?

 

 思い返せば、おっこちゃんは仲の良い家族の幸せな生活を奪われてしまったにもかかわらず、それをおくびにも出さず、普通に暮らしてきました。その普通でいることが普通じゃないと思います。でも、そういうことについては僕自身も経験があるので分かる気がします。そういうとき、普通に振る舞ってしまうわけですよ。だって、周りが悲しむ様子を見てしまうからです。

 でも、やっぱり平気なんかじゃなかったということを、物語の中で少しずつ見て取ることができます。その様子を周囲の大人たちも優しく見守ってくれます。でも、自分の中で失われてしまった大切なもののことを、素直に心から悲しみ、乗り越え、その先へと進んでいくことは、やっぱりしんどいことですよ。誰しもどこかで経験することなのかもしれませんが、それが人生の早い目の頃に来てしまうのはとてもしんどい。

 

 嫌な言い方をしますが、不幸にも親が亡くなってしまった子供という状況は、対人関係において強いカードです。なぜなら、それを出されてしまうと、相手は何も言えなくなってしまうからです。少なくとも良識のある人間ならば。可哀想な子供には優しくしてあげないといけない。可哀想な子供なのだから言うことを聞いてあげなくてはいけない、こんなに可哀想な子供でも頑張っているのに、そこまででもない自分はそうでもいいんだろうか?などと思ってしまうんじゃないでしょうか?

 可哀想な経験をしている子供であるということは、可哀想でなかった場合に比べて、様々な事柄で優先されてしまう場合があります。それを当事者が望むかは別として。

 

 おっこちゃんが若おかみになってすぐの頃、宿にお母さんを亡くしたばかりの父子が来ました。男の子は、優しかったお母さんを失ったことにまだ整理がつかず、ワガママを言っては周囲の人を困らせます。そこで、おっこちゃんはそのカードを切ってしまいました。自分も両親ともに亡くなっているというカードです。それは、「あなたの気持ちが分かる」という共感から出てきたものかもしれません。でも、言われる側からすれば、「両親とも亡くなったより不幸な自分でさえ、こんなに頑張っているのに、まだ片方親が残っているお前は何だ?」と読み取ることだってできるでしょう?

 そのとき、より多くの不幸を抱えた方が、強いことになってしまうという悲しい構図が生まれます。より大きな不幸を抱えた自分というカードは、それよりも不幸でない人の行動を制限する力があることを知ってしまいます。幸いなことに男の子は、まだ男の子であるがゆえにそれに反発してくれますが、これが大人なら黙ってしまうかもしれません。彼女ほど不幸でない自分にはそれを言う権利がないと。

 

 でもきっと、そんなのおっこちゃんは嬉しくはないですよね。

 

 自分が不幸であるということが、強い力を持ってしまうということがあります。であるならば、その強さを維持したければ、不幸なままでいるしかありません。それはきっと悲しいことでしょう?少々のルール違反や、他人に対する抑圧も、自分の不幸という体重を乗せればそのまま通ってしまうかもしれません。それに味を占めると、いかに自分が不幸であり続けるかに拘ってしまうかもしれないじゃないですか。

 

 これは「らんま1/2」に登場した獅子咆哮弾という技に似ています。獅子咆哮弾は、気を放出して相手にぶつける技ですが、その威力を高めるには「気が重い」必要があるのです。自分の身に降りかかった不幸によって、より重たい気を作ることができれば、それを相手にぶつけるときに強い力を発揮することができます。でも、獅子咆哮弾の使い手同士の戦いは泥沼です。より不幸な方が強いわけですから、わざと自分を不幸に落とし、不幸自慢をするかのような戦いになります。

 それで勝って、何を得るのでしょうか?強くあるためには不幸でなければいけないなら、その強さを使って得たいものは何でしょうか?

 

 おっこちゃんの手の中にはそんな強い力があります。不幸にもそんな強い力を与えられてしまったわけです。可哀想で可哀想な子供であるということは、周囲の良識的な大人に気を遣わせ、黙らせることもできます。でも、それは本当に嬉しいことでしょうか?自分に対して罪悪感を感じてしまう人たちを目の前にして、彼らに責められるような気持を植え付けてしまうことは、幸福なことなのでしょうか?それはもしかすると、自分から忌避すべき不幸な過去や失われてしまった悲しみに意味を持たせてしまうような、もの悲しいことなんじゃないでしょうか?ならば、そこを抜けることこそが、良い道なのかもしれません。

 

 このお話は、死者の心残りの執着を描いた物語でもあるかもしれません。おばあちゃんの幼馴染の少年は、おばあちゃんを長年見守ってきました。それは心配だからでしょう。もうひとりの幽霊の少女は、頑張り屋の自分の妹を影ながら見守ってきたわけですよ。エンディングの中には、小鬼がまだおっこちゃんがお腹の中にいるお母さんと出会っている絵がありました。それはひょっとすると、旅館や娘のことを頼んでいたのかもしれません。あの世にいくはずの人々が、現世に留まるのには意味があるはずです。

 幽霊たちは皆、残された人たちのことを心配しています。自分たちがいなくなったあとでも、その人たちが問題なく生きていけるのかと。夢の中にしか登場しなかったおっこちゃんの両親も、もしかするとおっこちゃんには見えないだけで周囲にいたのかもしれません。

 死してなお現世に留まった彼ら彼女らが去るということは、その役割がなくなったということだと思います。それは、現世に残した心配事が解消したということじゃないでしょうか?ならそれは良いことなんだと思います。

 なぜなら、悲しみの過去に囚われ続けることを止め、明日を生きることができるということだからです。

 

 起きてしまったことを許さなくてもいいでしょう。強く乗り越えなくてもいいでしょう。でも、ただ、そんな過去に囚われ続けることが、正解ということになってしまうと、悲しい気持ちのままずっと生きていかないければいけないじゃないですか。

 それこそが幽霊たちを、現世に留め続けてしまうような心残りじゃないですか。

 

 このお話の最後、おっこちゃんが滅私な仕事人としての立派な若おかみになったのかどうかは僕には分かりません。でも、少なくとも彼女は、その身に起きた悲しい過去から一歩外に出て、みんなに心配され気を遣われるような人ではなくなったんじゃないかなと思いました。だから、みんなはおっこちゃんの将来を心配しなくていいし。幽霊たちも安心して成仏するわけです。

 過去の悲しいことに囚われ続けること、本人の意志ではどうにもならないかもしれないけど、そこに意味が出てきてしまうと、なおさら囚われ続けてしまうので良くないよなと個人的に思うことがあり、そういう意味ではこれは良い結末だったのではないかと思いました。

 

 まだ、観たあとの気持ちの整理が十分ついているかは分かりませんが、とりあえず今の僕の頭の中ははこんな感じです。

 

 それはそうと別な話、ピンふりの真月ちゃんがすごく良い子ですごくよかった。すごくすごくよかった。

「hなhとA子の呪い」と自分に内在する暴力性との付き合い方関連

 中野でいちの「hなhとA子の呪い」は、性欲を巡る物語です。主人公の針辻くんは、ブライダル企業の若社長でありながら、性というものに嫌悪感を表明する男です。なぜならば、人間の3大欲求の中で性欲のみが、唯一、他者に向けられるものだからです。

 だから、その欲望の発露は他人を傷つけるかもしれません。人を傷つけるものは悪いことでしょう?その相手が自分にとって大切な人ならばなおのことです。ならば、その欲望は素直に発露してはいけないものかもしれません。欲望を抱えながらも、その発露が許されないのは辛いことです。ならば、そんな欲望なんてなくなってしまえばいい。持たないで済ませたい。だから、性欲を否定することでしか、人と人とは上手くやっていけないのではないかという妄執に囚われてしまっています。

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 「あなたの抱える欲求は、人が本来誰でも持ち合わせるものなのだから、だから、それは悪いことではないんだよ」というような許しの言葉は甘美でしょう。誰しも罪悪感を抱えながら生きることは辛いわけでしょう?だから、それを肯定してもらえばきっと助かるはずです。

 性欲の罪を感じる人が日々辛い毎日を過ごす一方で、それを罪と考えず、よしんば他人を傷つけたとしても気にせず生きられる人が自由に生きられるのだとすれば、それはいいことなのでしょうか?だとすれば、他人に優しくあろうとする人ばかりが辛いじゃないですか。だから、「そんなに自分を責めなくたっていいんだ…」という言葉は、その辛さを抱える人にとっては優しいかもしれません。

 でも、結局のところそれでは最初に危惧した、自分の性欲が他人を傷つけるかもしれないということは何にも解決はしないわけです。だから針辻くんはそんな言葉は受け入れません。

 

 自分たちの欲求を肯定するためにあなたは我慢をしろと言われた人たちは、その通りに我慢するか、それに反発するしかありません。そして、その反発はことによると別の他人に我慢を強いるものであったりもします。そうすれば出てくるのは反発への反発でしょう。そのように、様々な人々の自分は我慢をしたくないという、個人のレベルでは正当なはずの欲求が矛盾しあい、互いを傷つけてしまったりするわけです。

 「こんなに苦しいなら愛などいらぬ」と言った「北斗の拳」の聖帝サウザーのように、性欲の存在が無くなることこそが、それを根本的に解決することではないかと思ってしまう道筋がそこにあるわけですよ。

 

 だから、自分の性欲を許してはいけないという話になります。だから苦しいという話になります。なぜなら、どれだけ否定したとしても、自分の中には性欲が確実に存在しているということに気づいてしまうからです。性欲を排除した「真実の愛」、それがいつまでも続く「永遠の愛」を謳ったとしても、その言葉を発する口とは裏腹に、その目は、目の前の異性に対する淫らな欲望を衝動的になぞってしまっているかもしれません。

 それは知られてはならないわけですよ。それを知られるということ自体が相手を傷つけてしまうかもしれないからです。だからこそ、それをひた隠すわけですよ。でも、それは相手に嘘をついていることでもあります。だから、こんなにも他人のことを思いやっているはずなのに、罪の意識ばかりが積み重なってしまいます。いや、他人を思いやっているのではなく、自分のそんな部分を知られたくないだけかもしれません。自分の欲望を誤魔化すのは得意なのですから。そう思ってしまうからこそ、罪の意識はなおさら積み重なってしまうのです。

 

 それは仮に相手に受け入れられ、それでいいんだよと言われても、根本的には解決しないこともある厄介なものです。なぜなら、それは相手にそう言わざるを得ない状況が強いているのかもしれないのだから。そして、その状態が永遠に続く保証もないのだから。

 

 針辻くんは、自分の中にある性欲という名の暴力性を認めて肯定することもできず、かといってそんなものは持ち合わせていないと否定することもできず、そのどちらにも行けない狭間で、無数の問いかけを常に突き付け続けられているかのように重圧を抱え続け、どんどん追い込まれてしまいます。

 自分を肯定する言葉を前にしても、それを否定する言葉を探し当てて無効化していきます。好きな女の子のことを大切に思う気持ちと、それを淫らに傷つけるような性欲の妄想の、相反するものを抱え続けた先にあるものは、どちらも選べない選択の放棄であって、それは自死に繋がる道でもあります。

 でも、死にたかったわけじゃないでしょう?上手く生きたかったはずなのに、上手く生きられないからこそ、その先を歩くのが辛くなってしまったんでしょう。自分が理想とする歩むべき美しい愛の道を、汚い性欲の足が踏み外すわけですよ。そんなことはないと、強い言葉でそれを否定しようとしても、どうしても踏み外している足元に気づいてしまうわけじゃないですか。

 

 この物語は誤魔化しができない人の物語だと思います。自分を正当化してくれる言葉も、ひょっとして、その下にある欲望を肯定するために後付けて選び取っている誤魔化しなんじゃないかと気づいてしまう真面目で厄介な人の物語です。

 だから自分が口にする愛は、性欲の誤魔化しじゃないのか?とどうしても気づいてしまいます。そして、それは愛と性欲は完全に不可分になるとは限りませんし、そもそも性欲を伴わない愛こそが、伴うものよりも価値が高いと思ってしまうこと自体に罠があるでしょう?そう思ってしまう時点でかなり詰んでしまうわけですよ。

 

 そして、目の前には誰かの性欲によって既に傷ついてしまった異性がいるわけです。その人たちを傷つけたものは、自分が持ち合わせているのと同じものです。同じものを持ち合わせていながら、想像の中では同じようなことをしてしまいながら、自分はあいつらとは違うとどう思うことができるのでしょうか?

 それは、弾の込められた拳銃の引き金に指をかけながら、それを死ぬまで引かないことでのみ許されるような話じゃないですか。その拳銃を捨てることはできない苦しみの中で生きるお話じゃないですか。

 

 針辻くんは生きる道を選び取ることができます。でも、それは彼が抱えていた悩み苦しみが解決したわけではないでしょう。それでも生きることを選択したというだけの話ですよ。それまでの自分が何を誤魔化して見ないようにしていたのかに気づかされ、それを直視してしまうことで、消え去りたいような気持になりながらも、それでも生きていくことを選んだというお話だと思います。

 

 性欲の持つ暴力性は、それを向けられる異性だけでなく、それを抱える自分自身をも傷つけてしまう可能性があります。社会のルールと肉体のルールが矛盾してしまう狭間では、それを誤魔化さずに直視するならば、どちらかの意味で自己否定が生まれてしまうからです。

 そういう誤魔化さない視点に対して、真面目過ぎる!!と思ってしまいもしますが、その真面目さは美徳であってほしいなという気持ちもあって、そのままで上手く生きられりゃいいのになとということを思いました。

「フリクリ」のフリクリ感とは何か??

 アニメのフリクリが好きなんですけど、何が好きかというとおそらく複合的なので、いまいちコレ!と言いにくいようなところがあります。なので、この文ではまずその中のひとつだけを抜き出して話をします。それは、主人公のナオ太くんが置かれている状況が好きというものです。

 

 陰気な小学生のナオ太くんは女子高生のマミ美や、突如現れ自分の家の家事手伝いに収まったハル子、同級生のニナモなど、沢山の人が「自分に好感を抱いているんじゃないか?」と思えるような境遇にいます。また、どうやら宇宙人らしいハル子にベースギターで頭を殴られたことによって、ナオ太くんの頭は外部とのチャネルを開く特異点となり、色んなものが頭から出てきます。そして、その頭から出てきたロボットと合体して大活躍もしてしまうのです。

 僕はフリクリの物語を思春期の少年の物語だと思っていて、そして、少年がもう少年ではいられなくなる瞬間までの過程を描いたものではないかと思っているのです。それが好きなわけなのです。

 

 では、思春期の少年とは何か?僕はそれをシュレディンガーの猫に似ているものだと思うんですよね。

 

 シュレディンガーの猫は、量子力学に関する思考実験です。仮に量子の状態によって毒ガスが出たり出なかったりする箱があったとして、そこに入っている猫がいるとします。量子の状態が「観測されるまで確定しない」という性質が本当に正しいのなら、それをまだ観測していない状態では、猫が生きているか死んでいるかもまた不定となってしまうのではないか?という話です。

 箱を開けてみるまでは生と死が重なった状態にあり、開けて観測したときに初めて確定してしまうという感覚は、現実的には違和感があります。しかし、このそもそもの思考実験の命題とは全く関係のないところで、似たものを感じることはあるような気がしています。

 

 それは人の心の問題です。

 

 僕個人の感覚では、結果をちゃんと確かめるまでの未確定な状態のままでいることを好むということがあるんですよね。例えばテストの自己採点とかをしなかったりしたんですよ。なぜなら、自己採点をしてしまったら、点数がだいたい確定してしまうからです。そして確定さえしなければ、無限の可能性を想像することができます。どれだけ失敗したテストであったとしても、その結果を確認するまでは、もしかしたら良い点数なのでは??という想像をすることができますし、少なくとも僕は、そのように猫の入った箱を開けずにとっておくような子供だったわけですよ。

 

 結果の話をすると、フリクリでは、マミ美にとってのナオ太くんは、いなくなったナオ太のお兄さんの代わりだったりします。ハル子にとっても長年追い続けている宇宙海賊アトムスクへの手がかりであったりします。ニナモは…よく分かりません。でも、彼女もナオ太くんに対して見せる顔が本当か嘘かもよく分からないわけです。

 箱を開けて見れば、彼女たちから自分への好意は、全部勘違いかもしません。相手に好意を抱かれているかもしれないというのは、ナオ太の頭の中にだけあった都合がよい想像かもしれません。

 

 フリクリは、箱を開ける物語なんじゃないかと思います。そして、開けてみたら猫が死んでいたとして、その先に足を進めることで大人に近づく物語だと思うわけです。

 

 皆が自分に好意を抱いていて、自分は人間関係の中心であるという認識が勘違いだと知ったこと。ロボットと合体して活躍していたと思いきや、活躍していたのはロボットだけで、自分はそのロボットが撃つ弾として使われていただけと分かったこと。自分が特別ではなく、なんでもないひとりだと知ってしまうこと。それは、多くの思春期の少年のとっての通過儀礼ではないかと思います。

 

 ナオ太くんは、自分は誰かの代わりではないし、自分は自分だから、自分を見て欲しいという一歩を踏み出しますが、結局のところ至るのは失恋です。いつまでも勘違いはしていられない。自分の足で前に進み、何かを求めなければいけない。それが大人になるということだ。そうかもしれません。でも、それでも、勘違いしていられた時期の特別さみたいなものもあるわけですよ。

 それは否定して捨て去るものではなくて、そのときはそういう時期で、それはそれで大切な時間であったということを思い出せる特別な思い出です。それが僕の中でのフリクリフリクリ感みたいなものではないかと思いました。

 

 箱は開いてしまうし、開いてしまった以上は、そこから歩みだすしかないけれど、その箱が開いていなかった時間はそれはそれで特別だっただろ?というものは、誰しもスネに傷のようにあったりするものなんじゃないでしょうか?

 

 さて、フリクリの新作こと「オルタナ」と「プログレ」を観ました。

 

 前述の、箱を開けなかった特別な時間への憧憬と、その箱が開いてしまったことによる物語の終結のことを「フリクリ」と呼ぶなら、「オルタナ」は割と「フリクリ」で、「プログレ」はあまり「フリクリ」ではないと感じました。つまり、タイトル通りなわけです。「オルタナ」は最初の「フリクリ」の「オルタナティブ」としての対比的な物語であり、構造的には新しい要素はなく、同じ流れの中のもうひとつの可能性という感じの物語です。そして「プログレ」は、「フリクリ」の「プログレッシブ」としての、新しい可能性のお話であったと思います。

 なので、「プログレ」を経たおかげで、これからも「フリクリ」を冠する作品が続いていけるような感じになったのかな?というような感想です。というか、閉まっていたフリクリの物語を今回無理くり開けておいて、開けっぱなしにしていきおったわ!という印象で、でも、今回の興行が上手く行って、新しいのがどんどん生まれるなら、それはそれでまた観るかなあというような気持ちですね。

 

 この2作を観たのは、個人的にすごく良くて、それによって僕の中で「フリクリって何なのよ?」ということについての言葉が出てきたような気がしたからです。友達とも話したのですが、これはフリクリか?それともフリクリじゃないか?という話をするなら、じゃあそもそも「フリクリって何なのよ?」って疑問に自分なりの回答を持つ必要があります。

 自分はこれまで何をフリクリだと思っていて、それと比較して今回のものは何なのかというのは、当然人それぞれ少しずつ異なるものでしょう。それぞれの人の心の中にある「フリクリ」に照らし合わせて、この新しいお話が、フリクリなのかフリクリじゃないのか、もしくはフリクリを再定義するものなのかが感じられたのなら、それはそれでよかったというような感じがするんですよね。

 

 で、僕は前述の理由により「オルタナ」は「フリクリ」だなと思ったし、「プログレ」は「フリクリ」じゃないなと思いました。でも、これは別に「オルタナ」が面白くて「プログレ」がつまらないって話ではないんですよ。全く関係ないんですよ。面白い面白くないで言えば両方面白かったからです(ただ、次もう一回見るならまずは「プログレ」かなという感じです。一回では掴み切れなかった物がすごく多かったように思ったため)。

 

 そしてまた「フリクリ」というものを別の定義にして、「なんだかよく分からないものが自分の中を駆け抜けた体験」みたいに思うなら、「オルタナ」は「フリクリ」でなかったし、「プログレ」は「フリクリ」だったと思うこともできます。

 最初のフリクリも何回も何回も見たことで、ようやく自分の中で腑に落ちたところがあったわけですし、自分にとって「フリクリとは?」ということに答えを出したのは見てからどれだけ時間が経ったんだよという今なわけじゃないですか。よく分かんないけど面白かったし、よく分かんないけど好きだったわけですよ。

 

 何があったら「フリクリ」で、何がなかったら「フリクリ」じゃないのかみたいな話、他人としても全然合わなかったりするんですけど、とりあえず友達と色々な要素についてフリかクリかを話して重要な点として合意が得られたのは「おねショタ感」であって、マミ美に後ろから抱きすくめられた状態で河原にいる時間や、ハル子と一緒にベスパに乗ってまずいラーメン食べたりする時間がそれでしょ!!ってなったので、握手したところ、じゃあ、「オルタナ」も「プログレ」も「フリクリ」じゃないじゃんよ!!ってなりました。

 

 結局、フリクリ感っていったいなんなのよって感じなんですけど、その取り方によって、オルタナプログレフリクリであったと言えるし、フリクリでなかったとも言えるし、そもそもフリクリフリクリである必要性ってあるのだろうか??そんなのどうでもいいじゃん!!と思うようなところもあり、ともあれブルーレイは買うかと思った次第です。