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メタルギアサヴァイブはいいゲームだった

 この前、「メタルギアサヴァイブ」をクリアしました。既に買うことを決めていた「北斗が如く」の発売までのつなぎで何かゲームをしようと思って買ったんですけど、買う前は「メタルギアソリッドV」で使われたゲームエンジンであるFOX ENGINEや各種素材を再利用して作られたゾンビゲームという2つの印象だけしか持っていませんでした。

 

 思ったよりも難しいゲームだったので(僕にとっては)、なかなかクリアまで行かず、結局北斗が如くが発売してからもそちらに移らずにしばらく遊んでいたのですが、クリアしたときに、いい思い出がたくさんできたなと思ったので、これはいいゲームだったと思います。

 

 最近、僕がゲームに求めているのは思い出という感じがしています。以前、探偵ナイトスクープかなんかのテレビ番組にゲームが大好きなおじいちゃんが出ていました。そのおじいちゃんがゲームの話をするとき、ゲームの中であった出来事について、あんなことがあった、こんなことがあったと嬉しそうに思い出として語るのがすごくよくて、僕もそういう感じに遊ぶようにできるといいなと常々思っています。そういう意味で、メタルギアサヴァイブは、いい思い出がたくさんできたのでいいゲームだと思ったんですよ。

 

 メタルギアサヴァイブは、その名の通りサバイバルのゲームです。ワームホールに吸い込まれてやってきた謎の土地で、なんとか生き延びながら元の世界に帰るために奮闘するゲームです。このゲームの緊張するところは、装備を選んだり、クラフトをしたり、拠点を開発したりと、ゲームを操作しているあらゆる時間の中で、腹が減り、喉が渇いていくということでしょう。常に落ち着きません。そしてそれはゲームを開始してすぐが一番落ち着きません。

 なぜなら、ゲームを開始してすぐは、安定して食料を調達する方法も、安全な飲み水を用意する方法もまだ持ち得ていないからです。

 拠点の近くで仕留めた羊の肉を加工した数少ない食料を頼りに、飲めば嘔吐を繰り返す汚れた水を飲みながら周辺地域を探索します。そのうち、まともに呼吸できない塵の中を探索する必要があり、そこでは酸素すらも絶えず減少するリソースです。あらゆるものが減っていく中で、目的のものに辿り着き、入手し、加工し、生き延びなければなりません。塵の中では最初は地図も役に立ちません。なので、遠くに見えるわずかな明かりなどを目印に歩き回るしかないのです。留まることはそのままの死を意味します。であれば、先の見えない状況でも待ち続けるわけにはいきません。進むしかありません。これは、明確に設計されたゲームの作りでしょう。生き延びるためには、進み続けなければならないのです。

 

 空腹とのどの渇き、それに伴って落ちる体力、武器も損耗し、道具は消耗し、探索の中で戦う力はどんどんなくなっていきます。方角も分からず、迷ってしまい、なんとかその塵の海を抜け出そうと無作為に歩き回る時間、塵の海の中を徘徊し、見つかれば襲ってくるゾンビのような存在たち。その中で生き延びるということ、それは大変辛い時間でした。でも、なぜか、終わってみるとその時間のことをよく思い出すわけです。あれはとても楽しかったと。

 

 このゲームは最近のゲームにしては不親切です。探索先で死んでしまえば、近隣からすぐにやり直せるわけではなく、旅立つ前の拠点まで戻されてしまいます。これが辛いわけですよ。同じミッションに何度も失敗したときには、またそこに辿り着き、資源を回収しつつ深く潜るまでの同じ行動を何度も繰り返さなくてはいけません。にもかかわらず、初めて探索する場所には未知の仕掛けがあり、うっかり死んでしまうこともしばしばです。

 僕はゲームが下手なので、このゲームの上手い進め方を習得できるまで、何度も何度も死んでしまったりしており、これがかなり辛かったんですけど、これも今思い返せば、あれが面白かったと思っていることに気づきます。

 また、実は救済策はちゃんとあり、その場で復活できる蘇生薬がログインボーナスなどでまれに手に入るので、それに気づいてからはかなり気持ちが楽になりました。

 

 あと資源が足りない系の問題はシングルプレイと並行して、マルチプレイの方にも行くことで報酬として手に入ったりします。

 

 水を浄化する設備や、安定して食料を供給できる設備は、ゲームをそこそこ進めなければ手に入りません。それまでは、ずっと食糧の不安に苛まれ、走り回るネズミを見つけては嬉々として捕まえて焼き、リスクのある水を飲んでしまってトシャトシャしながら、健康不良優良傭兵として元気に探索して、地図を埋め、設備を発見し、資源を集めて拠点を強化していきます。新しい武器レシピを発見し、レベルを上げてスキルを開放して、どんどん効率よくゾンビのような生物を倒していけるようになります。

 進めていけば仲間も見つかります。でも、増えた仲間と生きていくには、さらなる食料や水の確保、医療品の確保なども必要です。

 

 メタルギアサヴァイブの遊びはその繰り返しです。だんだんとできることが増え、ある問題が気にならなくなると新たな問題が発生し、段階的に悩みが変化していきます。新たな武器の入手やスキルの開放で自分のも強くなりますが、敵の種類もだんだん増え、新しい戦い方を考える必要があります。また、強い武器は修繕にレアな資源が必要だったりするので、その考慮も必要です。ゲームの中に仕込まれている全部の要素が開放され、悩みがなくなってくる頃には、ストーリーは終了になります(クリア後にはさらなる能力開放や、強く巨大な敵と戦えるミッションもあります)。

 

 このゲームに何か他のゲームにはない特別な特徴があったか?というと、正直「これだ!」とは結構言いにくいんですが、でも、遊んでいた時間を今思い出すと、面白かったなという思い出がたくさんあるんですよ。

 食料資源を確保して生き延び続けるというループと、少しずつ探索して活動範囲を広げるというループ、スキルやレシピで段々と出来ることが増えるというループに、それに対応した新たな課題が出てくるというループが重なり合って生まれるハーモニーが心地よく、浸っている時間が良かったなと思う感じです。

 色んな失敗をして、からがら生き延びたこともあれば、死んで台無しになったりもしました。何度もチャレンジして前に進み、それを繰り返してエンディングまで辿り着くわけですよ。そこからこれまで歩いた道のりを振り返ったとき、その時の気持ちこそが、ある種のゲームの良さだと思うわけですよ。ゲームは思い出です。

 

 ワームホールに飲み込まれて別の世界に来たというトンデモナイ始まり方の物語も、このトンデモなさと従来のメタルギアシリーズに整合をとる形での終結を見ます。メタルギアソリッドVで登場したマップも廃墟として登場し、あれやそれやも登場し、メタルギアソリッドVを遊んでいたときの思い出もそこに重畳されます。

 

 メインストーリー上の最後の戦いは、結局5回ぐらいチャレンジしてやっと勝つことができました。大量にやってくるゾンビ的な存在を、たったひとりで殲滅しなくてはなりません。

 一体一体の敵はそんなに強くありませんが、大量にやってくると脅威となります。それをワームホール技術で金網を転送して足止めし、停滞させ、ダッシュで後ろから回り込んで槍の回転斬りで一気に攻撃するのが僕は好きで、大量に迫りくる敵を走り回りながら分断し、個別撃破し、大きなうねりになることをさせないようにします。それでも一人では無理な量が来ます。大量の資源を投入して機関銃で掃討したり、グレネードで爆破したりを繰り返し、拠点を防衛するわけです。弾は枯渇し、使えるものは何でも使ってひたすら敵を倒し続けます。

 最後の戦いは時間表示もなく、自分がいつまで戦い続けなければいけないのかもわかりません。これまで蓄えてきた資源と能力を全て使い、ボーナス的に与えられた資源も総動員して、とにかく大量の敵を倒す。一人で倒す。一人で殲滅します。でも、それは孤独ではありません。これまで歩んできた道で様々な人たちの協力を得て、獲得してきた力です。

 

 それを全部総動員するような形で倒し切り、物語も終わりました。かつてビッグボスとともに戦った名も知れぬ一人の兵士が、あるかもしれず、なかったことになった物語を生き延びていくゲーム体験でした。されど、クリア後もゲームはまだ続きます。

 

 とりあえず一旦やめて今は次のゲームを遊んでいる状況ですが、マルチプレイも楽しいので、まだまだちょくちょくやっていこうと思っています。

刃牙シリーズのこれまでのテーマとこれからへの勝手な期待

 板垣恵介刃牙シリーズは、「グラップラー刃牙「バキ」範馬刃牙」「刃牙道」と四シリーズ続いており、昨日第五シリーズの開始が示唆されつつ「刃牙道」が完結しました。

 では次に描かれるものは何であるか?ということの期待をしつつ、これまでのそれぞれのシリーズでは描いているものが明確に違うのではないか?と感じているので、その話をします。

 

 グラップラー刃牙は、地下格闘場でチャンピオンとして君臨する少年である範馬刃牙が、様々な格闘家と戦いつつ話が進み、最終的に世界中から様々な種類の格闘家を集めた最大トーナメントに繋がっていきます。このシリーズで描かれているのは、「誰が一番強いのか?」ということではないかと思いました。そしてそれは「勝った奴が強い」ということを裏付けとします。

 様々な勝利があり、様々な敗北があります。そしてトーナメントを勝ち進み、優勝者となった男が一番強いという結末です。ただし、それはトーナメントに参加した男の中では、という条件つきではありますが。

 もちろん優勝者は範馬刃牙、様々な格闘家の様々な強さが、プライドが描かれ、勝者の、そして敗者の美学が描かれました。

 

 これが次のバキになると、新しいテーマに移っていると思います。僕が思うに、そのテーマとは「勝利とは(あるいは敗北とは)何か?」というものです。試合形式で勝ちと負けがはっきりつく戦いと異なり、いつ始まりいつ終わるかも分からない戦いでは、勝利と敗北の条件が曖昧です。その日負けても、次の日に仕返しをして勝てば、それは勝ちでしょうか?あるいは負けや引き分けでしょうか?では、その次の日にまた負けてしまってはどうなるでしょうか?

 ここで、これまであった試合という形式は、格闘家たちにルールと明確な勝利条件という強い制約を与えたことで、物事の捉え方を分かりやすくするという特殊な状況であったことが分かります。本シリーズでは、とにかく勝ちと負けが分かりにくく、あるとき勝ったものも、そのあとで負けたりします。そして、あるとき負けたものも、その後勝ったりもします。強さは単純な不等号で表せるものでもなくなってしまいます。

 ずっと勝ち続けていたように見えたものが、実は負けを認めていなかっただけということが分かったりします。むしろ、負けることの方が勝ちよりも価値があるということが分かることだってあります。勝負で負けても、その際に与えた毒で相手が衰弱してしまえば、それは勝ちでしょうか?勝負に負けても、明らかに死ぬようなシチュエーションで、死なずに生き延びることができればそれは何らか勝ちなのでしょうか?

 勝ちと負けというのは、ある条件から見た判定に過ぎません。ルールが異なれば、勝ち負けの解釈は変わるかもしれません。同じ人々を見ても、誰が見るかによって勝ちと負けの解釈が反転することだってあるでしょう?強さを求め、勝ちを求めますが、ではそもそも勝ちとは何かと真面目に向き合ったとき、その勝ちという概念が意外と曖昧なものであることに気づきます。

 それゆえ、このシリーズは難しいシリーズだなと思いました。

 

 その点、次の範馬刃牙のテーマは、もう少しシンプルです。それはつまり「強さとは何か?」です。このテーマは、刃牙が父親である範馬勇次郎と戦うことを物語の到達地点として設定していることから来ていると思います。範馬勇次郎は本作の中で例外的に強い存在であり、その強さは本作でさらに加速しています。本来縮めなければ勝てないはずの勇次郎と刃牙の差は、むしろ開いているかのように表現され、とてもではありませんが、勝てる道筋が見えないままに最後の戦いに雪崩れ込みました。

 そこで出てくるのは「強さとは何か?」という問いです。何をどうすれば刃牙は勇次郎よりも強くあることができるのか?作中では「強さの最小単位」、つまり強さからできるだけ多くのものを剥ぎ取って、それでも最後に残るもの、それは「我が儘を通す力」であると語られます。相手よりも腕力が弱くてもいい、何度倒されてもいい、それでも自分の我が儘を相手に飲ませることができさえすれば、それは何らかの意味で強いわけです。

 刃牙は勇次郎に我が儘を通して見せ、そして、地上最強の称号を名乗ることを許されました。

 

 さて、ひとまずの終わりを迎えた刃牙シリーズが、さらに刃牙道として再開します。この物語は、クローンの技術と霊媒の技術により、現代に宮本武蔵が甦ったというところから話が始まりました。ある種の史上最強の存在である宮本武蔵が、現代の世の中で何をするのか?この物語のテーマは「強さの先に何があるのか?」ではないかと僕は思いました。

 現代の世の中の価値観に沿わない宮本武蔵がその強さ、つまり、我が儘を通す力を発揮したとき、その先に何があるのか?ということではないかと思います。

 武蔵はその強さゆえに、現代社会に様々な我が儘を通します。それにより人が死にました。そして、人を死なせないために守護(まも)ろうとするものもいました。

 この物語の結末について、僕はまだ整理がついていないのですが、結局のところ、人を殺す力に秀でた宮本武蔵は、現代の平和な日本では生きる場所がないということなのではないかと思いました。なので刃牙は、宮本武蔵をまた現代日本から追放します。

 

 人は強さを求めますが、強いことにどれほどの意味があるのでしょうか?強すぎることで何でも我が儘が通ってしまうということは本当に幸せでしょうか?そして、その周辺にいる人たちはどうでしょうか?刃牙道の宮本武蔵が強かったことには、何か意味があったのでしょうか?ひょっとするとこれは、とても悲しい話だったのかもしれません。

 

 さて、次のシリーズの鍵となるのは二代目野見宿禰だそうです。神話的な存在である野見宿禰を長い世代の果てに襲名できるほどの力を持った存在です。もしかすると、次のシリーズでは、「強くある」ということの意味を野見宿禰が見せてくれるのかもしれません。武蔵のときのような悲劇ではなく、今度は別の結末に辿りつくことを期待してしまいます。

 力があるということが、周囲に悲劇をもたらすのではないのだとしたら、そこには何があるのか?例えば範馬勇次郎は、世界中の強きものたちと戦うことで、ある種の神格化をされていました。勇次郎は弱きものを守ろうとしたわけではありません。しかし、強きものが弱きものを蹂躙しようとするとき、その強きものと戦う勇次郎の背中を弱きものが見ることになります。それはひとつの強さの在り方でしょう。

 しかしながらそれは、力が強いが悪いものたちとの対比でなければ証明できない種類のものでもあります。「ただ強くある」ということがもたらすポジティブな何かがそこに存在しているのならば見てみたい、僕はそういう期待をしてしまったりしていますが、全然そういう話ではないかもしれません…。

内輪ウケは世の中で最も面白いことのひとつという話

 何かの話をするときに内輪ウケの話をするっていうのは、嫌がられることが多い感じがするんですけど、僕が思うに内輪ウケは世の中で最も面白いことのひとつなので、やっちゃうことも多いです。

 

 僕の感覚として、興味を惹かれてしまうものは「ぎりぎり分かるもの」という気がしていて、明らかに分かるものや、全然分からないものはあまり夢中になれません。

 リンゴが目の前にあるときに「これはリンゴです」というのは明らかに分かるものですし、「これはバルモッサ(僕が今考えた意味不明の言葉)です」と言われても何がなんだかわからないというだけですが、「これはアダムとイブが食べたというリンゴと同じ品種なんですよ」とか言われたら、ちょっと興味を持ってしまったりしませんか?なんとなく聞いたことがあるけれど、自分はまだよく知らないぐらいのものがちょうどよく感じてしまったりします。

 

 つまり、興味を惹くためには、知り過ぎずか知らな過ぎずのギリギリの線を攻めることが重要になりますが、何を知っていて、何を知らないかというのは人それぞれなので、この辺りを攻めていくとしたら、必然的に内輪ウケに近くなっていくんじゃないでしょうか?なぜなら、ある集団に属していれば、ちょっとは聞いたことがあるぐらいのものというのを選びやすくなるからです。そのある集団とは、例えばオタクであったり、何らかの漫画やゲームなんかが好きであったり、というようなものです。

 

 内輪ウケはその内輪が狭くなればなるほど、ピンポイントでそのラインを突くことができるので、おもしろくなっていくと思います。しかしながら、内輪が小さくなれば、逆に内輪の外にいる人の割合もどんどん増えていきます。内輪の外の人が内輪ウケを見ると、ちっとも聞いたことないことなので、理解できないし、わけが分からないし、おもしろさはまるで伝わらないと思うんですよ。つまりバルモッサ(意味不明の言葉)ということです。

 

 内輪ウケがつまらないと思うのは、つまり内輪の外にいるときで、それは当たり前です。なぜなら意味が分からないのですから。意味が分からないのに、内輪の中にいる人達だけが面白がっているので、それは奇妙に思えるでしょう。こんな面白くないものを喜んでいる人たちはどこかおかしいとさえ思ってしまうかもしれません。

 

 では、そんな内輪ウケのものを楽しめるようになるとしたら、どのような方法があるかというと、これはもう内輪の中に入るしかありません。内輪の中で、その内輪の中だけで通用することを知っていけば、それまで意味不明だったものの意味が分かりますし、意味が分かれば面白くなってくるかもしれません。

 例えば、パロディにはそういう部分があると思っていて、分かる人には分かるんですけど、分からない人には分からないわけじゃないですか。それは知っているか知っていないかというだけの話なので、知っているから偉いとか、そんなものを知る必要があるのか?とかそういう話ではないと思うんですよ。ただ、たまたま知っていれば面白いし、知らなければ面白くないものだったりするというだけです。もちろん、別にそれを面白いと感じる必要もないわけですから、内輪の外にいてもいいはずです。その辺は人それぞれ好きな内輪に入ったり入らなかったりすればいいと思うんですよね。

 で、そういうことを考えると、世の中には入りたい内輪と入りたくない内輪というものがあると思います。その内輪の中にいる人たちが楽しそうで、自分も同じように楽しくなりたいと思えば入っていくでしょうし、その内輪が非常に排他的で、外から入ってくる人に冷たければ入りたくないと思ってしまうかもしれません。

 

 例えば最近では「ポプテピピック」なんかはすごく内輪ウケなものだなと思っていて、作中に登場するパロディにせよ、特に説明なくいきなり分かっているものとして出てきたりするわけじゃないですか。漫画やゲームならまだしも、インターネットで一瞬だけ流行ったもののパロディなんかは、同じ時期に同じものを見ていなければ、何年か経てば、何が元ネタであったかも分からなくなってしまうかもしれません。

 これも、内輪に入れば楽しいけれど、内輪に入らなければ意味不明、そういうものだと思っていて、それが楽しめるのは内輪にいるからだと思うわけです。なので、内輪の外にいる人たちが面白くないといってもそりゃそうだな、バルモッサだなと思う感じです。

 

 バルモッサ、適当に出した適当な言葉を繰り返し使っているものの、別に皆さんは面白くもないと思いますが、同じ文章の中で繰り返し見ていると、僕が適当な言葉に何かの意味を固着させて繰り返したら面白いと思っているんじゃないかということぐらいは伝わりますよね?これも小さな内輪です。

 そういえば、西原理恵子の「できるかな」シリーズのどれかで(鳥頭紀行の間違いでした)、「くそげろでばっこし」というギャグを漫画に入れたら、編集者から「意味不明」という校正コメントが入ったということがありましたね。でも、実際、ここだけ見たら誰にとっても意味不明ではあると思います。つまりそれは内輪の外にいるからで、内輪の中に入りさえすれば楽しかったりするんですよ。これが内輪ウケだと思います。

 

 内輪ウケの話、しちゃいけないみたいな雰囲気もあるとは思いますが、それはもちろん内輪の外から見たら明確につまらないからじゃないかなと思います。でも、一方、皆が入りたいと思える内輪を作れるなら勝利だなと思えるところもあり、どうにかコミュニケーションをとっている相手を共犯関係に持ち込んで内輪に引き込み、内輪ウケの話ばっかりしてやりたいなというような気持ちがあったりします。

いちご狩りと人生、あと若干の漫画関連

 人生をそこそこ生きて中年男性となり、自分の欲求と自分の外にある社会を上手く軋轢ないように適合させることも割とできるようになった昨今、どうしてもいちご狩りに行きたいという内発的衝動を社会と齟齬なく解消するために、この前いちご狩りツアーに行ってきました。なぜいちご狩りに行きたかったかというと、いちごが好きなんです。いちごをもいで食べたかったんです。

 

 

 いちご狩り自体はおなか一杯いちごを食べられたのですごく満足しました。ただ、ツアーに参加する中で、はぁー、いちご狩りはビジネスなんだなーと思い、そしていちご狩りは人生なのでは??とも思ったので、それも面白かったです。

 

 いちご狩りをビジネスとして継続するためには、いちごを食べ放題にするということにかかる費用が、参加費を下回る必要があります。また、毎日のように行われているいちご狩りに対して、いちごを供給可能な状態を保ち続けるという設備的な制約もあります。これらのことについてまず感じたのは、バスの中で行われた「いちごはヘタの付け根の部分が一番おいしい」というレクチャーでした。これは不思議に思ったのですが、根元の部分は赤くなるのも遅いですし、自分の実感としては先の部分と比べてそんなにおいしいということはないと思うんですよ。

 であれば、これは嘘です。無意味な嘘をつくとは思えませんから、これはきっとヘタの付け根の部分をちゃんと食べさせようとする戦略ではないかと思いました。つまり、甘みの強いいちごの先っぽの部分だけを食べて、残りを捨てるというようなことをさせないようにするための方便です。食べ放題を謳いつつも一人当たりが食べられる量をさりげなく制限することが重要なんだなと思ったということです。

 

 僕が参加したいちご狩りツアーでは、30分の時間制限とともに、場所もビニールハウスの半分だけに区切られていました。なので、今回の参加者がどれだけ食べたとしても、その範囲にあるものがゼロになるまで食べ尽くされるだけということになります。これはリソース管理上、重要なポイントでしょう。いちごの成長速度を考え、どれだけのいちごをどれだけ食べていいかということを上手くコントロールする必要があります。とはいえ、そこを重視しすぎて、時間がまだ残っていて参加者の腹もまだ膨れていないのに、いちごがゼロになってしまえば参加者に不満が残ります。となれば今後の集客に影響があるでしょう。なので、継続するためには、参加者に満足してもらわなければいけません。つまり、いちごの量と参加者の満足につり合いが取れるように調整しなければいけません。

 

 僕が参加したツアーには、いちご狩りの前に昼食の時間があり、そこである程度お腹を膨らませてからの参加となりました。これは重要なポイントで、僕が大学生のときの先輩のFさんも同じ技の使い手でした。居酒屋で何でもおごってやる!という太っ腹な話をしたあと、いったん松屋に寄って、まず牛めしを一杯食べさせられたのです。このように、あらかじめ参加者のお腹をある程度満たすことによって、少量のいちごでも満足し、自分から食べるのをやめさせるようにするというテクニックがあります。

 

 また、僕が言ったいちごのビニールハウスでは、畝にいちごが生えており、畝と畝の隙間が通路のようになっていて、そこを移動するという作りになっていました。これはどこまで意図したことかはわかりませんが、食い気の強い人が縦横無尽に移動していちごを先に食い散らかしてしまうということを避ける効果があったように思います。移動が多少不自由な分、自分が今立っている回りで食べるしかありませんし、移動するときには他の人が動いてくれるのを待ったりする必要もあります。とはいえ、畝を跨ぐように移動する人もちらほらいましたが。

 時間は30分ありましたが、25分ぐらいの時点で、大体の食べられそうないちごは食べ尽くされ、だいたいみんな満足して外に出ていたように思います。食べられなかったまだ青いいちごは残され、成長したのちにまた別の人たちに食べられるのでしょう。

 

 時間と場所が限られ、食べなきゃ損という状態で提示されると、食べられそうないちごは食べ尽くされてしまうということが人間の業のようなものを感じてしまってよかったです。絶滅動物の情報を図鑑などで読んでいて、人間が食べ尽くすってどうよ?って思っていましたけど、目の前でいちごがあっという間に食べ尽くされるのを見て、そして、自分自身が、食べられそうないちごはないかをうろうろ探して、ちょっとでも食べられそうであったなら食べてしまっていたのを思い出し、人間、マジやべえなという気持ちになりました。

 今回食べられていたいちごの中には、店頭にあったら食べられないようないちごも含まれていたと思います。きっと出荷する際には、見栄えのよいものだけが選ばれて、他は加工品などのような別の用途に使われたりするのではないでしょうか?でも、こと食べ放題のいちご狩りということになると、そんないちごも問題なく食べられていました。だって形がよくなかろうが、おいしいし、食べられるんだものという理由ですが、じゃあ、なんで店頭では選ばれにくいかって話ですよ。

 人間の心理は難しいなと思いました。

 

 また、綺麗に赤くなっていて一見おいしそうないちごがいつまでも残っていることがあります。それを手に取って確認してみると、裏側に虫食いのような穴があったりして、ああ、なるほどと思いました。一見よさそうなので、きっと何人もの人が一度手に取ってみて、それを確認し、食べるのをやめたということが推察されます。

 あと、状態がよさそうなのに、ちぎるだけちぎってそのまま置かれているいちごがあって、全然食べられそうなのですが、なぜか食べる気になりませんでした。誰かがちぎったのに、食べなかったということが、理由は分からないが自分も食べない方がいいのではないかという想像力を喚起するからです。

 

 いちごと「食べる」「食べない」という価値判断には、色々な要素があり、環境や状態や情報によって、結構食べる食べないに差が出てくるんだなという感じがしました。これって割と人生じゃないですか??

 人間が別の人間に対して、何らかの評価を下すとき、いちご狩りっぽいことになってしまったりしてるんじゃないかと連想してしまったりします。

 

 あるいは、これは漫画だったりもしませんか?出荷され、店頭で売られているいちごを、商業誌の漫画とすれば、いちご狩りのいちごは同人誌即売会の漫画かもしれません。商業誌と同人誌を比べれば、平均的な完成度は、様々な人の目を潜り抜けて出てくる商業誌の方が高いように思いますが、商業のシーンには出てこないようなタイプの漫画が同人誌即売会にはあったりします。それは劣っているというわけではなく、商業的なルールに合致しないだけの特別な漫画かもしれません。

 店頭にならんでいるのに人の目に留まらない漫画もあるでしょうし、店頭に並ぶことはないですが、即売会ではたくさん手に取られる漫画もあるでしょう。

 

 人が何かを選ぶということには、様々な条件があり、それぞれの特性に合致する適切な条件を成立されないと選ばれないということは一般的にあるんじゃないかと思います。実際いちご狩りツアーに参加するのと同じお金で、もっと赤くて大きい、立派ないちごをスーパーで大量に買えたりもします。でも、狩りたかったんですよ。その場でもいで食べたかったんですよ。そして、おいしかったし、満足してしまったわけじゃないですか。

 

 人生ですが、食べればおいしいいちごを、何らかの条件で手に取らなかったりすることも多々あります。でも、手に取るときもあるんですよ。それはそういう状況だったということで、手に取ったものが良いもので、手に取らなかったものが悪いものとも限りません。僕はそれを縁あったと思うことにしていて、おもしろいけど買ってない漫画とか、なんとなく買ってしまった漫画とかありますが、買ったのはただ縁があっただけ、そして縁があることは素晴らしいことだなと思っていて、この世にはまだ縁がないので手にとってはいないけれど、良い漫画がたくさんあるんだろうなと思ったりします。

 

 適当にいい話っぽくまとめましたが、いちご狩り楽しかったのでまた行きたいですね。中年男性がうきうきいちご狩りに行くの、世間的にはアレかもしれませんが、僕は一度経験したので、次からはさらに気楽に行けます。

 人生というものは何をするでも2回目が楽という傾向があり、そのためにも1回目を早めに経験しておくといいよなという知見がありますね。みなさんもまだ経験してない人は一回行ってみたらいいんじゃないですか?いちご狩り。

ミスターサタンと嘘つきの発信力関連

 ドラゴンボールミスターサタンについてですが、歳をとるにつれていい役回りだなと思うようになりました。なぜなら、ミスターサタンは、ドラゴンボールの作中において主人公の悟空たちとは異なる世界観から登場した特異な人物だからです。

 

 ミスターサタンの初登場は、人造人間セルの主催する格闘大会、セルゲームへの参加者としてです。セルは放送局をジャックすることで世界に向けてその恐ろしい力を見せつけました。軍隊も歯が立たないほどの強さです。そして、ミスターサタンはそんなセルと戦うために登場しました。人類最強の救世主としての期待を背負って。しかし、もちろんその強さは普通の人間を逸脱しないレベルであり、セルに勝てるはずはありません。しかしながら、レベルが離れすぎているがゆえに、ミスターサタンやそれを支持する人たちにはその事実すら分からないのです。

 

 それはつまり、これまでのお話の中で悟空たちがやってきた戦いが、それがどれだけ世界の存亡を賭けた戦いであったとしても、世間からするとほとんど知られていないことであったということを意味します。例えばナッパが都市をひとつ戯れに破壊してしまったことなども、戦闘民族サイヤ人が地球に襲来したということを知らない普通の人々からすれば、ある日突然、謎の大爆発で都市がひとつ消え、そして、その原因は何も分からないということであったということです。世間でその理不尽で悲惨な出来事がどのように受容されたかが気になるところではあります。

 作中の世間で比較的知られていることと言えば、かつて世界を恐怖に陥れたピッコロ大魔王を倒した謎の少年がいたということぐらいでしょう。それにしたって、その少年の名前が孫悟空であったということは知られていません。

 

 ミスターサタンは、そんな普通の世界と悟空たちの戦う特殊な世界の橋渡しをするような存在です。

 

 ミスターサタンは虚栄心が強く、臆病で、都合が悪いことはセコくごまかすような格好の悪い男です。しかしながら、根は善良で正義感も強く、だから憎めない存在でもあります。

 ミスターサタンは、悟空と悟飯の親子が成し遂げたセルを倒したという功績を、虚栄心とお調子者感から奪ってしまい、そのため、世界の救世主と崇められるようになってしまいました。それはよくないことかもしれません。なぜなら嘘だからです。でも、悟空たちは世界の救世主として崇められるというようなことに価値を感じていないので、大した問題視もされず、なんとなく世の中的にはそういうことになってしまいました。

 

 魔人ブウ編では、このあたりの要素がより色濃く出てくることになります。つまり、ミスターサタンが普通の世界と悟空たちの世界の橋渡しをする存在であるということが物語の中で強く意味を持ち始めます。そして、ミスターサタンの虚栄心が生み出したものが、なんと世界を救う最後の一押しになってしまうということに皮肉と痛快さがあるように思いました。

 

 これはある種の「長靴を履いた猫」のお話です。最初は嘘であったことが、いつの間にか本当のことになってしまい、その本当になってしまったことによって、最初のただの嘘が不問にされてしまいます。これは嘘を推奨するよくない寓話でしょうか?でも実際の世の中にもそういうことがよくあります。

 例えば僕が仕事で何かを作るために他人にお金を出してもらうとき、金主に「何を作るか」と「それがどのような利益をもたらすか」という説明をします。それは乱暴に言えば嘘の話です。どんなに自信のある企画でも、その時点ではある程度嘘なんですよ。なぜなら、その時、まだ作っていないものが既にできているものであるかのように語るからです。その先、作る上でその時点では想定できていない未知の問題もあるかもしれません。なので、ちゃんとできあがるかもわかりません。そして、それが本当に利益を生み出すかどうかだってわかりません。でも、まだ作っていないそれがまるで事実存在しているかのように語られますし、そんな嘘を、予算と納期の範囲で本当にしてみせることがある種の仕事というものです。これは悪いことでしょうか?

 嘘が嘘のままになってしまうのが失敗したプロジェクトです。嘘が本当になってしまうのが成功したプロジェクトです。でも最初は同じレベルの嘘の話なんだと思うんですよ。結果が出たことが遡ってそれらの見方を変えてしまうというだけで。ただ、もちろん最初から騙す気まんまんの詐欺も存在し、それは確実に悪いですね。

 

 このように、世の中は意外と嘘で駆動していて、それがうっかり本当になってしまうことで大きく先に進んじゃったりします。ミスターサタンの嘘は人を騙す気まんまんの詐欺のような嘘ですが、それも最後に何故だか本当になってしまいます。それはたまたまとも言えますが、それでもその背後にはミスターサタンが積み上げてきたものがあるはずです。

 

 悟空たちの世界では、悪い敵をより強い力で撃退するということが当たり前です。それはそれで正しいことかもしれません。しかしそこには、少々の視野狭窄もあるでしょう。事実、ミスターサタン魔人ブウと友達になることに成功しました。誰もが力で撃退し、調伏しなければいけないと思っていた魔人ブウと、友達になることでもう人を殺さないという約束までさせてしまいます。

 これは悟空たちとは違う世界に生きてきた住人だったからこそ辿り着けた場所ではないでしょうか?ミスターサタンは弱いからこそ、強さで勝つ以外の選択肢に手をかけることができます。ただ、これも最初は嘘だったわけですよ。魔人ブウに嘘をついて取り入って、毒を食べさせ、爆弾で攻撃したりしたわけです。でも、そのどれも魔人ブウにダメージを与えることはできず、笑って流されてしまいます。でも、その交流の中で、魔人ブウミスターサタンは本当に仲良くなってしまい、これは結果的に役に立ってしまいました。正しくないことがうっかり役に立ってしまうのは面白い話です。

 その後、ミスターサタンが悪い人間に傷つけられてしまうことで、魔人ブウの中の憎悪が育ってしまうというのは皮肉な話ですが。

 

 世の正しさは、正しくあることを推奨しがちです。正しさを守り切れるなら、負けてもやむなしという価値観に至ったりしてしまうことだってあるでしょう?しかし、その考え方は、間違ったやり方で勝ってしまうということを許容してくれません。それは勝ったとしても悪いことということになります。

 でも、実際はあるじゃないですか、その間違ったやり方でも勝ってしまうということが。それについては、よい捉え方も悪い捉え方もあると思うんですけど、徹頭徹尾正しさに拘らなければいけないと思うことは、もしかして人の選択肢を狭めてしまうのではないでしょうか?

 そう、それは悟空たちが魔人ブウを力で倒すしかないと思ったようにです。

 

 ミスターサタンは、ことの善し悪しは別として、他人に自分の言葉が伝わる状況というのを作り、拡張し、維持してきました。これは悟空たちがあまりやってこなかったことです。やってる方が偉くて、やってない方が偉くないって話ではないんですよ。ただ、それをやっていなかった悟空たちに、やっていたミスターサタンがパズルのピースのようにがっちりハマってしまったことが面白いと思うわけです。

 魔人ブウを倒すために、地球人全体の力を借りる必要が生じたとき、悟空たちによる「地球を守るためにお前らが力を貸せ」という一方的な物言いは、むしろ反発を招いてしまいました。それも当然です。なぜなら、今まで伝えようとしてこなかったんですから。急には無理な話です。世の中でもよくあるじゃないですか。緊急時に必要なシステムが、緊急時以外に使われてこなかったことによって、いざ必要なときに使い方が分からないとか、上手く動かないとか、そういうことが。

 さらには悟空たちは正しいことをしているわけです。正しいことをしているとき、人は傲慢になってしまうことがあります。自分たちは正しいことをしているのだから、少々無礼な物言いをしても他の人は受け入れるべきだと。でも、正しさは無礼の免罪符ではないんですよ。

 そういう意味で、ミスターサタンは自分の言葉が伝わるように積み上げてきていたわけです。地域の防災無線が謎の音楽を定期的に流すように、それを日頃から使うことで動くことを確かめてきていたわけですよ。それは必要なときに安心して使えることを意味します。

 

 ミスターサタンの言葉によって、人々は悟空たちに力を貸す決断をし、その大きな力を得た元気玉魔人ブウを倒せるほどになりました。その栄誉はまたしても必死で戦った悟空たちではなくミスターサタンが得てしまいますが、今回は悟空もミスターサタンを本当に救世主かもしれないと表現しました。なぜなら、ミスターサタンの力によって、悟空たちだけでは成し遂げられなかったことを成し遂げられたからです。

 

 さて、これはよい話でしょうか?ミスターサタンがやってきたことはよいことでしょうか?僕が思うに、そうではないです。これがよく感じるのは、最終的によい結果に繋がったからであって、それがなければただのホラ吹き野郎の話じゃないですか。ただの名誉の簒奪者じゃないですか。これは悪いことですよ。でも、そんな悪いことが役に立ってしまう、世界を救ってしまうというところに個人的にある種の痛快なものを感じます。

 

 正しい考えのもとに、正しいやり方で、正しいことを積み上げてきても、それでも上手く行かないことが世の中には多々あります。そして、それをお世辞にも正しいとは言えない考えのもとに、正しくないやり方で、正しくないことを積み上げてきた結果が、そこになぜだかうっかり綺麗にハマりこんで上手くいってしまうなんてこともあり得るのが、世の中の多様さじゃないかと思います。

 世の中は多様で、それゆえにいい加減です。そして、そのいい加減な隙間にようやっと生きられる場所を確保できる人もいます。

 

 ミスターサタンというホラ吹きの積み上げてきた嘘が、たまたまの最高のタイミングで役に立ったということが、これまでの悟空たちが積み上げてきたことでハマりこんでしまった狭窄さから開放し、もっと自由でいい加減で大らかなものをドラゴンボールの物語にもたらしたように思いました。そこがなんだかいいなと思ったわけなんです。

 

 さて、なんでミスターサタンのことを考えていたかというと、「これからの漫画家は個人としての発信力も持つべき」というようなインターネットの話を見ていて、「漫画を描く」ということを極めるのは悟空の領域で、「個人としての発信力」というのはミスターサタンの領域だなと思ったからです。

 そして、そこで、作中に登場した悟空とミスターサタンポタラで合体した姿を思いだしました。作中では想像だけで終わりましたが、あれが実際に合体していたらどうなっていたんでしょうかね?どちらの能力も中途半端になってしまうのか、もしかすると両方を兼ね備えた存在が出来上がってしまうのか。

 

 合体して上手くいってもいいですが、人間は分業ができますから、そこを上手く連携できるといいのかもしれません。

 でも例えば、この場合の発信の担い手とはどんな人でしょうか?例えば、インターネットの人気者には、嘘情報ばかり流している人もいます。嘘はよくないことですが、そのような嘘がある種の面白さを持っているがゆえに、それを熱心に読んでいる人たちがたくさんいたりします。もし、その嘘ゆえの発信力が役に立ったとしたら、それを皆さんはどのように評価するでしょうか?

 つまり、嘘情報の継続発信によってたくさんのフォロワーを集め、強力な発信力を持ったインターネットの人がいたとして、もしそれが個人としての発信力は持たないがよい漫画を描いている人にスポットライトを当てたとき、それによって、その漫画がブレイクしてしまったとき、それを正しいと言っていいのか悪いと言っていいのか…それは判断が難しい話ですね。

 ある人は、役に立ったということを根拠に、その発信者を擁護するでしょうし、ある人は、普段の言動が嘘ばかりということを根拠に役に立っていたとしても非難するでしょう。でも、それが正しいゆえに人の目に触れず、間違っていたことによって人の目に触れるようになったとき、じゃあ、正しく人の目に触れない方がよかったと言っていいのでしょうか?僕にはここの捉え方に迷いがあります。

 

 ただ、現時点の僕がどうするだろうかというと、どちらかと言えば非難する側です。実際には具体的に非難はしなくても、よくないと心の中で思っているでしょうね。でも同時に、自分にその人たちを上回る発信力を持っていないということの無力さも感じてしまいます。この面白い漫画を色んな人に教えたいと思っても、僕が考える正しいやり方で発信してもそんなにたくさんの人に届いたりはしません。

 

 なので、僕は悟空ではないけれど、ミスターサタンにもなれないなと思います。別にどちらかになる必要なんてないわけですが、どちらにもなれないよなということを思ったりしたわけです。

 よいものが放っておいても見つけられて売れるなんていうのは、たまたま見つけられて売れたよいものしか見ていない人の感覚だと思います。僕がめちゃくちゃ好きで、めちゃくちゃよいと思っていても、大して注目されずになくなってしまったもののことを思ったりするわけです。

「辺獄のシュヴェスタ」に見る誠実さ関連

 辺獄のシュヴェスタ、めちゃくちゃよい漫画なんですけど、何がよいと感じるかというと、主人公エラの生き方です。

 

 彼女は幼い頃から、自分で考えた自分の正義に基づいて行動する子供でした。一方、世間では世間で共有された正義こそが正義であり、それに基づいて行動することが一般的です。であるがゆえに、自分たちとは異なる正義の原理に基づいて生きる人のことを、世間は狂人として扱ったりします。

 エラはその意味で狂っていたとも言えます。しかしながら、そのように自分の正義を執行するということ、その上でその正義にそぐわない他人をぞんざいに扱うということの暴力性を、義理の母親アンゲーリカが真剣に教えてくれ、社会との接点を獲得していきます。エラが義理の母に出会えたことは幸運です。実の母は、そんなエラの抱えるものを恐れるがゆえに、子を売りに出してしまいました。

 

 自分の目から見てどんなに憎むべき存在でも、その人の生を望む人が他にいるということ、それをないがしろにするということは、自分の大切にしているものを、他人に破壊されてしまう痛さと同じだということを学びます。粗末にしてよい命などない。それがエラが母から教わったことです。

 エラはそんな母を、人の命を粗末に扱う人々によって奪われてしまいます。

 

 魔女狩り、それは根拠がないものを根拠に仕立て上げるための正当化の手続きです。告発を受けた人は、どんなに弁明しようと、逃れられない手続きで魔女に仕立て上げられてしまいます。彼女は魔女である、なぜなら魔女であるから。バカバカしい同語反復によって、人間が魔女として殺されてしまいます。なぜ彼女たちは殺されてしまうことになったのか?それは彼女たちが何らかの意味で殺された方が都合がよいと考える人々がいたからでしょう。

 そしてそれは彼女たちが魔女だったからではありません。本当の理由は、もっともらしい理由に糊塗されて隠蔽されています。このように自分の都合を正義にすり替えることに躊躇がない、誠実ではない人々が優先的に利益を得ているのです。

 

 エラの母もまたその不誠実な流れに飲み込まれてしまいます。彼女は自分が魔女であると認めるのです。なぜなら、そうしなければエラが危険にさらされてしまうからです。彼女はまた、別の人物を魔女であると告発します。なぜなら、そうしなければエラが危険にさらされてしまうからです。彼女は魔女ではなかったし、別の人物も魔女ではありませんでした。それは嘘の話です。母にとっての本当の話は、エラに生きて欲しかったということでしょう?そのために彼女は嘘をつきました。自らを魔女と認め、罪なき他人を告発せざるを得なかった。

 この世は嘘にまみれ、自分の本心を丸裸で見せることがなかなかできません。それは悪いことでしょうか?そうせざるを得ないことは弱いことでしょうか?

 

 通称、「分水嶺」と呼ばれるその修道院には、親を魔女として殺された子供たちが集められ、過酷な生活を強いられます。エラもその中のひとりとなります。

 彼女の母を理不尽に殺した修道会の人々は、その少女たちを利用して、また別の人々を不幸に追い込もうとしています。それらは全て彼らの偉大で遠大なる目的のためです。彼らと同じ神への信仰によってこの世に安寧をもたらすため、一度人々に疫病という災厄をもたらし、そこからの自作自演の救済を演出しようとしているのです。

 

 その中で生きるエラの目的はただひとつ。修道会の実権をを握る総長、エーデルガルトを殺すこと。その目的のために彼女は様々な犠牲を払い、困難を乗り越えて行くのがこの物語です。

 

 辺獄のシュヴェスタが何を描いた物語かというと、僕の解釈では、「誠実であること」だと思っています。それはつまり、自分が成すことの意味を正しく捉え、ごまかさず、そのままに抱えて生きるということです。

 これは大変特異なことです。なぜなら、僕自身を含め、普通の人は自分の欲望をそのまま表には出さず、何かしら他人が受け入れやすくするための包み紙を用意した上で外に出すものだと思うからです。

 

 人と人との争いは、その大部分が「利害」の話だと思うのですが、語られるときはそれらがなぜか「正義」の話として表面上を塗り固められていると感じることが多々あります。それは誠実ではない話だと思うんですよ。ごまかしている話だと思うんですよ。そして、世の中は基本的にそういう感じなんだと思うんですよ。

 自分が利益を得るために主張していることを、社会的に正しい行為であるとすり替えて主張されるのは、その方が得だからだと思います。なぜなら、その正義が通るならば、他人に堂々と不利益を押し付けることが可能になるからです。

 ここで言う「正義」はとても狭い意味で、つまりは当人の中での辻褄です。どんなに客観的にわかる悪事をしている人でも、当人の中ではそれなりにそれを正当化する理屈が存在しているということです。つまり、多くの悪事は、正義の名のもとに行われます。例えば、それは法律違反かもしれない、例えばそれは、誰かを傷つけることかもしれない、だとしても、それをして十分と思える正しい理屈が当人の中にあるからするわけです。正しさは、行為を駆動するために焚きつける免罪符として機能します。

 注意しておくべきなのは、これは「だから正義が悪い」という話ではないんですよ。なぜなら、皆に利益をもたらす多くの善行だって、正義の名のもとに行われたりするからです。正義があるということは、ただの自己肯定であり、特にその行為の客観的な評価を意味しないということです。

 

 辺獄とは、洗礼を受けずに死んだ者が辿り着く場所です。洗礼を受けないということは人が原罪を抱えたままということです。エラは辺獄のシュヴェスタです。シュヴェスタ(女性修道士)でありながら、辺獄に辿り着く者です。それはつまり、神の御名のもとで罪を洗い流さず、そのまま罪として抱え続けているということではないでしょうか?そこにあるのは、自身が抱えた罪を、どのように取り扱うべきかを探求し続ける姿です。

 

 エラは総長エーデルガルトを殺すことを、何の正当化もしません。それは、ただの自分自身の「暴力」でしかないと結論します。その暴力は罪であり、彼女には自分自身が罪人であるということを受け入れる覚悟があります。エラはその場所に辿り着くまでに、いくつもの罪を犯します。それは、上手く理屈をつければ十分に正当化だってできるはずのものなのに、彼女は、それらを悪いことだと捉えます。それによって他人から憎まれ、恨まれても当然のことであると。

 その行為がたまたま価値あるものとして解釈できたとしても、それは自分の栄光ではなく、そのために犠牲になった人にせめてもの償いとして与えられてほしいと。

 

 この物語が洗い出しているのは、罪を犯さずに生きていくことなどほとんどできようがないということではないかと思います。生きている限り少なからず、誰かを傷つけ、誰かをないがしろにし、誰かを犠牲にしてしまうものではないでしょうか?果たして、それを完全に避けて生きることできるでしょうか?普通はそれを適当にごまかして生きているんじゃないでしょうか?

 それらはある種の洗礼と言えるかもしれません。誰しも、自分の抱えるはずの罪を洗い流してくれる便利な理屈を、生きてきた中でいくつも身に着けてきたているんじゃないでしょうか?

 

 便利な理屈の代表的なもので言えば「自業自得」という概念です。この言葉は自責の言葉に見えて、他人に対して使われるときには真逆に機能し、他責を強調する言葉になります。あなたが困難に陥るはめになったのは、あなたのこれまでの行いが原因であるという説明です。つまりそれは、「だから自分には全く責任がない」という意味になるのではないでしょうか?これにより、自業自得という言葉は、困難に直面する他人を助けないことを正当化する理屈として機能するようになりました。

 差別は悪いことだ、イジメは悪いことだ、当たり前です。みんな知っているでしょう?でも、差別やイジメに当たるかもしれない行為を全くせずに生きて来られた人がいるでしょうか?自分は全くしてこなかったという人は、別の人から見れば差別やイジメに見える行為に何らかの解釈を適用し、「だからこれは差別でもイジメでもない」と例外として正当化しているだけだったりしないでしょうか?

 

 自分が決定的な間違いを抱えた悪者として生きていくことは辛いことです。だからせめて、何らかの理屈をまとうことで、自分たちの行う行為をなんらか正当化し、罪を抱えることを避けるのが、気楽に人生をやっていくコツです。

 

 そしてそれは作中の修道会側の理屈でもあります。自分たちの崇高な目的が、そのために犯した罪を正当化してくれるという話です。そして、エラはそれをしようとしません。自分の正義のために犯した罪でも、罪は罪です。それは決して許されるものではないと抱えて生きる選択をします。これはそういう価値観の闘争だと思いました。

 この物語はエラの勝利で閉じますが、それは別にエラの考えが全てにおいて正しかったということは意味しないのではないかと思います。修道会の野望は潰えましたが、似たようなものは今後も生まれてくるでしょう。そして、誰しもがエラになれるわけではないのですから。

 

 この物語の救いは、罪を抱えるからといって、エラがその罪に相応なものとして自分の命を差し出すというようなことは全く考えないということでしょう。誰しも多かれ少なかれ罪を抱えているものだと思います。しかし、それを抱えたまま生きています(中には死を選ぶ人もいます)。ここにあるのは自分の抱えた罪をごまかして生きるか、認識して生きるかという違いです。

 死ぬか生きるかという選択では、僕は生きる以外が選べません。僕もたくさんの間違いを抱えて今までやってきたと思います。それでもやっていくわけじゃないですか。ただ、自分が何かを決断するとき、それを後押しする理屈は、自分の罪をごまかすものではないのか?を考えて、辺獄に片足だけでも踏み入れておくのもいいのではないかと思います。

 それがエラの生き方に感じ入ることがあった僕の心への誠実さだと思うからです。

人間は他人の仕事を適切に評価できるのか関連

 仕事をしていると人間の評価をどのようにするかという課題に突き当たります。なぜなら、その人の報酬はその人の仕事の評価に連動する形で決められた方がよいのではないかと思うからです。適切な報酬を支払うためには、適切な評価が必要ですが、果たして適切な評価とはどのようなものでしょうか?

 

 僕は人間から人間への評価というのは、ある種の意志表示だと思っていて、つまり、良い評価はその評価対象となることをもっとやってほしいということ、悪い評価はその評価対象となることをやってはいけないと表明していることと同じだと思います。でも、実際の評価ってそうなっているでしょうか?そうなっていないことも多いんじゃないでしょうか。

 仕事で人間の評価をする場合の辛いところは、全員が頑張ったからといって全員を高評価にできないということです。これがそもそもおかしいんじゃないか?と思うことがあるんですが、しかしながら基本的に人に報酬として払えるお金には限界があります。全員が頑張ったことで、事業収入もまた大きく増える種類の仕事なら別でしょうが、僕が関わってきた多くの仕事は、最初に予算がほぼ決まっており、その中でやりくりして利益を出す仕組みのことが大半でした。つまり、どれだけ頑張っても事業収入自体は固定的であり、その中から人に払えるお金の総額が決まってしまっています。赤字で続けるわけにはいかないからです。

 なので、同じ事業に関わった人の中でも、重要なことをした人に高い評価を、そうでもない人には高くない評価を付けざるを得ません。すごくよい仕事をしてくれた人がいたとしても、それ以上によい仕事をしてくれた人がいると、相対的には評価が低くなってしまいます。これはほんと良くないと常々思っているんですけど、全員に高い報酬を支払うことはお金の流れ的ににできないので、そこをなんとかしたいなら、そもそも事業でより大きく儲けることを考えなければいけません。

 

 やってほしいことは褒める、やってほしくないことは叱るというのは、他人に指示をする際の原理原則だと思うんですけど、世の中でたまに目にしてよく分からないと思うのは、やってほしいことをやってもらうために叱るというシチュエーションがあることです。叱るというのは基本的に行動を抑止する効果が強いと思うので、叱られたくないからやるというのは、つまり、「やる」ということよりも「やらなくて叱られるということを避ける」という目標設定ということになります。なので、「やってないことはないですよ?」というレベルのことしか結果は期待できないんじゃないかと感じてしまいます。

 

 やってほしいことをやってもらうためには、それをやってくれたことへの感謝を伝えるとか、褒めるとか、報酬を支払うとか、何かしら自分がそれを好ましく思っていて、もっとやってほしいと思っているということを当人に対して意志表明をする必要があるでしょう。また、それ以前のそもそもの問題として、相手がまずこちらにより高く評価されたいと思ってくれていることが重要です。

 これもたまに勘違いしている人を目にするんですけど、例えばインターネットでよく知らない人から「あなたがもっとこうしたら私は高く評価するのにな?」みたいなメッセージを貰ったとして、僕がだいたい思うのは、別にあなたに高く評価されたいとはちっとも思っていないですけど?ということです。だってよく知らない人だからです。もしそれが、僕が大好きな人であったとしたなら、ウワーッ!評価されたい!!この人にもっと好かれたい!!って思ってそうしてしまうかもしれません。でもそうでなければ、知らねえよ、お前誰だよって思うだけじゃないですか。

 

 報酬を支払うというのはそういう意味で分かりやすいです。人間関係的な下地がなかったとしても、より多くのお金を貰えることは、嬉しいと思ってくれる人は多いからです。なので、よい仕事をしてくれる人には、僕の裁量の範囲で多くのお金を支払えるように調整をしたいと思いますし、そこをちゃんとすることが次もまたいい仕事をしてくれることに繋がってくれるはずだという信仰を僕は持ち合わせています。

 

 余談ですが、事業が儲かっていないときには本当に精神的に辛くなることをしないといけなくなることがあって、例えば、その事業を継続するために、費用を削減することで採算性をアップしなければならない状況になります。そういう指示が経営層から来ます。そんなときに、すごくよい仕事をしてくれている人たちに対しても、何らか条件を従来から変更するなどして報酬額を少なくしてもよいか?という交渉をするはめになり、その窓口として立つはめになります。やりたくないです。でも、そんなやりたくないことを立場上やらざるを得ないので、その矛盾から精神的に負荷がかかります。でもやるし、やってきました。最悪だなと自分でも思うことがあります。

 

 人を評価するとき、その人の何を評価するか?ということが重要な部分です。それはよく人を見ておかなければならないことですが、ずっと監視しているわけにもいかないので、基本的には、与えた仕事をちゃんとやってくれているかということと、与えてないことでもやってくれたことを申告してくれたことの2本立てになります。申告してくれてないけど、やってくれていることというのも世の中には無数にあるんですけど、そこをよく見るのは結構難しくて、なぜなら、その人だけをじっくり見ているわけにはいかないからです。たくさんの人を見なければならないので、どうしても見落としも発生しますし、僕の場合は、やってくれたことは箇条書きでもいいのでできるだけ申告してほしいと伝えることにしています。もちろん、自主的にやってくれていることも見ようとはしています(でも、全部見れているとは言えない…)。

 できればやめてほしいのは、やってくれたことを一言も言ってくれないのに、その部分を評価してほしいとその人が思っていることなんです。僕自身もそういうところがあると思うのですが、自分がやったことをアピールすることが苦手だったりするケースもあると思うんですよね。でも、それはやっていかなければいけないし、その代わり、アピールしてもらったものは、ちゃんと考慮しなければいけないと思います。

 

 僕自身が評価される立場のときの話で言えば、僕が最初いた仕事場では、期末にする自己評価をベースにして賞与査定が行われる仕組みだったのですが、若い頃は自己評価の低さから、色々やっているのに平均ぐらいの点数しか自分につけていなくて、「おれは自分のよくないところも見えてしまうから、よい点はつけられないけれど、もし上の人がよいところも見つけてくれるなら、そこで加点してくれ~」というようなことを思っていたような気がします。でも、それはよくないわけですよ。そういうことをしてくれる上司もいますが、そうでない上司もいます。なんせ相対評価ですから、最初から低い自己評価をつけてくる人は、心理的な問題で低いままに据え置かれる可能性が高まるのです。高くつけてきた人を低くして、低くつけてきた人を高くするよりも、高くつけてきた人を高くして、低くつけた人を低くする方が気楽でしょう?

 結構一生懸命働いているのに、お給料があんまり上がって行かないな~と思っていましたが、それはそもそも自分が悪くて、まず自分が自分を低く評価してたらダメだ!!至らないところはあるにせよ、色々役に立つことをやってるやんけ!!とあるときやっと気づいたので、自分にバンバン良い点をつけるようにしたら、そこから年収がぐんぐん上がりました。馬鹿みたいな話ですね。仕事に取り組む姿勢はずっと変わらないんですよ?ただ他人に伝える自己評価の方法を変えただけです。

 

 黙って真面目にやっているから誰かが見ていて評価してほしいというのは、その環境ではあまり意味がないことであったと言えます。これがよくないのは、自分だけの問題ではなく、本当は重要な仕事をいくつもやっているのに、自己評価の低さから、その重要な仕事を大したことでないこととして申告しないので、それらの仕事が評価すべき重要なものとして仕事場の中で目に留まらない可能性があることです。

 全体の工程の中で、何が重要で、自分はいかにそれをやったかを明示するということは大切なことです。人が永遠に同じ場所にとどまることがない以上、人から人に仕事が引き継がれなければなりませんし、それらの仕事を大したことないことだ思って言わずに勝手にやっていたら、上手く引き継がれないですし、その後にやる人の評価まで落としてしまうかもしれません。

 評価される側は、評価する側に対して、自分はこれだけ重要なことをやっているのだから評価してくださいよ?されないならやりませんと明確に主張するぐらいでなければ、それが問題の火種に成りうるのではないでしょうか?そして、評価する側は、それを重要な評価対象項目として認識すべきだと思います(実は重要ではない場合もあるのかもしれませんが)。

 

 仕事は探せば無限に生まれますが、予算も人の稼働も有限しかありません。上手く仕事を進めるためには、取捨選択が必要です。つまり、その中でどの仕事が重要でどの仕事が重要でないかを考えなければなりません。そしてそれは、重要な仕事を評価し、重要でない仕事は評価しないということで達成すべきだと僕は思っています。でも、なかなかそうはならないですね。なぜなら、あらゆる仕事を全て把握して俯瞰して全工程を見るということは、プロジェクトが大きくなればなるほど人間の認知の限界を超えてしまったりするからです。

 

 仕事に従事している人をいかに評価するかということは、経営戦略や技術戦略そのものと言ってもいいぐらいに重要なことだと思いますが、それを上手くやることはとても手間がかかる上に難しいので、現実では、楽をしたいために適当な数値化しやすいKPIを定めて、それが達成されたかされてないかだけで評価してしまったりします。それもある程度はしかたないことです。評価する行為それ自体が大きなコストになる可能性もあるためです。なので、それ自体はそこまで悪いことであるとは思いませんが、では、数値化しにくいが重要な仕事というものはどのように評価すればよいのでしょう?そんな仕事だって沢山あるんです。

 多くの現場では、それらを責任感が強い人が評価もされないのに真面目にやっていたりするんじゃないでしょうか?あるいは、評価されないがゆえにおざなりになってしまい、それが原因で様々なトラブルが頻発したりすることもあるんじゃないかと思います。

 

 他人の仕事を適切に評価するということはとてつもなく重要なことで、そして、それを正しくやろうとするのはものすごく手間暇のかかることで、だからちゃんとやられていないような現場もよく目にします。でも、ここをちゃんとやらないと、どんどんおかしくなっていくと思うんですよ。特に昨今は働き方改革を求められている状況です。限られた時間で結果を出さなければなりません。そのためには、仕事の方針として、何をやるべきで、何をやらないで済ますかを決めることは、最も重要なことのひとつのはずです。それを規定する評価尺度が必要です。

 労働者はみんな賢いので、統計的に見れば、評価されないことを一生懸命やることはやめていきます。では、評価されることだけを一生懸命やったとき、そこから零れ落ちてしまう、本当は実際はとても重要だったことというのはないのでしょうか?

 

 それを最小限に留めるためにも適切な評価が必要です。そして、それをちゃんとやることはとても困難なことです。

 

 例えば、漫画や映画やゲームなんかでも同じ問題はあるのではないでしょうか?それらには良い要素と悪い要素があるはずで、それを体験した人たち個々人の価値観によってそれぞれ評価尺度があるはずです。全体だけを見て、おおざっぱな点数をつけて、神とかクソとか言われても分からないですよね?どの部分がその人の感性において良いと感じて、どの部分がその人の感性において悪いと感じたのか。それが精緻に表現されて初めて、それにどう対応するかということを考えることができます。

 その評価者により評価されたいと思えば、それをその人の感覚に合わせて直すでしょうし、その人に別に評価されたいと思わないと思えば無視してもよいでしょう。

 

 そういう思想があるので、僕は何かを読んだとき、観たとき、遊んだときなんかは、総じてのよいとかわるいとかいう話はあまりせず、この部分がこのように自分によく感じたとか、この部分がこのように自分には受け入れがたかったとかいう話をするようにしています。もちろんそれらは僕の感性でしかないので、それらの作品を作った人たちがその文を仮に読んだとしても、その僕の感性に合わせて直せばよいというものではないと思います。

 なぜなら。それは僕がそう感じたという話でしかなく、僕に合わせることで、他の人の感性から離れてしまうことだってあるからです。

 

 合わせてくれても嬉しいし、合わせてくれなくてもかまわないんですけど、それがどのように僕に響いたかということはできるだけ正確に表現したいということがあって、それが僕がやる評価ということになります。それを仕事でもやるんですよ。でも、それが本当に仕事を上手くやる上で正しい評価かどうかはいつもおっかなびっくりです。自分の評価尺度があまりにおかしくて、全てを破綻させてしまう可能性だってあるじゃないですか。

 

 できているかは分からない。でも、必要なのでやろうとはしているわけなんですよ。