漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

統計多重化されている社会とその限界関連

 電気通信には統計多重化という考えがあり、これはざっくり言うと「通信のために据え付けられた伝送路を複数の通信者で共有することでなんだかいい感じになる」というようなことを言います。ざっくりし過ぎました。

 

 例えば同じ家にある100Mbpsの通信ができるパソコンAとパソコンBがあったとします。その両方がインターネットに繋がる100Mbpsの通信サービスに繋がっているのを考えてください。インターネットへの出入り口が100Mbpsなので、パソコンAとBは理想的に譲り合えたとしても50Mbpsずつしか同時に使うことができません。これではせっかく100Mbpsの通信が使えるパソコンなのに半分の力しか出すことができないじゃないですか。もったいない。

 しかし、実際はパソコンAとBは常に全力で通信をし続けているとは限りませんから、Aが通信していないときにはBは100Mbps使え、Bが通信していないときにはAが100Mbps使えます。そんなに極端でなくても、100Mbpsの通信の土管に小分けにされたデータの塊(ご存知!パケット)が上手い具合に詰め込まれることで、実質的にそれぞれに別々の100Mbpsの通信サービスを契約するのとさほど変わらない効率で通信することができたりします。これはパソコンAとBにそれぞれ専用の100Mbpsのサービス契約をする場合と比べて、契約数を2本から1本に減らすことができますからお得ですよね?こういうのを統計多重効果と呼んだりします。

 

 統計多重効果は、同じ通信サービスにぶら下がるパソコンの数が増えれば増えるほど効果的になります。つまり、その通信のピークを賄えるだけの通信の土管があれば、本当は存在しないそれぞれ専用の土管を用意しているのと実質的に同じということになるからです。通信設備は基本的にそのような思想で設計されています。それはいいことばかりではなく、弱点としては、設計時に想定した以上のデータを流そうとしてしまうと、土管の太さがボトルネックとなってしまい、通信が遅くなるということがあります。

 このように、それぞれの利用者に個別で専用の土管が用意されていないため、常に全力で通信できることは保証されておらず、仕方ないので今の土管に流せる範囲で出来るだけ頑張るよというのを、ベストエフォート通信(出来るだけ頑張るよ通信)と呼びます。スペック上出るはずの通信速度がでないとき、インターネットを経由して繋げようとしている場所までのどこかの土管に設計で想定している以上のデータが流れて詰まってしまっている可能性が高いわけですね。

 

 これは具体的に例示すると、格安SIMなどとも呼ばれるMVNO事業者のビジネスがこの作りになっています。通信回線を自前で構築するMNO事業者と異なり、その中から必要な太さの土管を借り受けているMVNO事業者は、ピーク性能さえ上手く設計し凌ぎ切れば、MNO事業者と直接契約しているのと変わらない速度でお客さんに通信サービスを提供することができます。しかし、実際はお昼休みや夜などの、通信が集中してしまう時間帯には、すごく遅くなったりしますね。それはそういう設計になっているからです。遅くなることは原理的に仕方がないことで、MNOと同じぐらいの性能を出せるだけの太さの土管をMVNO事業者が借りようとすると、その分お金も必要になりますから、格安を維持することが困難になります。

 

 さて、話は少し変わって、このような「全員にそれができるかのように謳われているにもかかわらず、実際には全員同時にはできないもの」は電気通信の話だけではなく他にもいろいろあることに気づきます。例えば「権利」の話です。ある権利がその場にいる誰にでも付与されると謳われているものの、実は全員が行使することができるものではないことも多いのではないでしょうか。

 例えば、好きなタイミングで仕事のお休みを取る権利は「ある」と言われていますが、同じ職場の全員が同じ平日に休むことは認められないことも多いと思います。なぜなら、全員が同時に休むとその日の仕事をする人が一人もいなくなるからです。それができるかどうかは職場の業態によりますが、例えばお店ならその日は閉めなければならなくなりますし、サポートの電話窓口なら、その日は契約の履行上繋がらなくてはならないものが繋がらなくなってしまったりします。公共インフラもそうでしょう。全員が休みをとっているから、停電の対応は明日以降になりますで許されればいいですがそうではありません。今日は皆がたまたま同時にお休みをとったので、電車が一日動きませんということも認められません。漫画雑誌もそうですね。全部の連載が同時に休載をすること、雑誌自体を成り立たせるのが難しくなります。このようにたとえ権利があったとしても、その行使には実際は制限があります。

 

 全員が全員同時に休みをとることができないのであるならば、「いつでも休みをとっていい」という話は「嘘」であるということです。ただし、その休みをとるタイミングが統計多重っぽく上手い具合に分散してくれれば、実質的には「いつでも休みをとっていい」ということに限りなく近くはできるはずです。世の中はそのように動いていることが多いのではないでしょうか?

 つまり、世の中の制度や契約条件は、どれだけ同時にその権利を使っても成り立つように設計しているかという話があって、とりわけ同じ条件での運用年数が長くなると、仮に当初は十分余裕がある形で設計していたとしても、状況の変化によってそれを超過しまくってしまうこともあります。それにより、ついには権利を保証する制度自体が成り立たなくなってしまうケースもあるのです。

 

 そのようなときに発生してしまいがちなのが、権利の行使のさりげない制限でしょう。権利はあるが、その行使に負い目を持たせることで、できるだけ行使しないように仕向けるという人間的な状況が発生します。これは、僕が以前いた仕事場でのひとつの事例ですが、独身者が家族持ちに比べて超過勤務状態が常態化するということがあり、なぜかというと、家族を持っている人が家族の行事や病気などで休む頻度が高く、その穴埋めを自分以外の事情にあまり左右されない独身者がしていたからです。家族を持っている人にせよ、独身者にせよ、好きな事情で休んでいいはずですが、家族の病気や一生一度の行事などと比べて、自分の都合というのもはそれほど重大だろうか?と考え、素直に休まなくていいですよと答える感じの人の好い人が多かったので、その労働時間に目に見えて差がついており(なお裁量労働なので給料は変わらず)、バランス的には良くない状態になっていました。

 これは家族持ちの人が悪いのかと言えば、そうでないでしょう。当然の権利だからです。そして、独身者側もそれでも休むとか、代わりに働くのが嫌だと言えばよかった話なのかもしれませんが、そこでごたつくよりも、自分が我慢した方が楽だと思ってしまうわけですよ。なぜそう思うというと、まさしく僕がそれをしていた側だからです。それにより、ある年は夏休みもゼロになり、正月もリモート待機し、年休は20日付与された中の3日だけなんとか使いました。それを他の休みをとりたい人に対して「僕がやっておくので大丈夫ですよ」と良い人面して、自主的な判断でやっていたわけですね。これは正しいことでしょうか?たぶん正しくはないですよね。

 でも、自分以外の人に理不尽があってはいけないという正しい考えから、自分が正しくない行動をしてしまっていたというわけなんですよ。そういうことがあるわけじゃないですか。

 

 これはそもそも論としては、その仕事場に十分な人数が足りていないという話になります。ピークの設計が間違っていたということですね。であるために、制度を十分に成り立たせるための土壌が整っていないわけです。ならば、それを解決するのはマネジメントの仕事です。労働者の中だけの上手い辻褄合わせでごまかすこと自体がおかしなことだというのが筋でしょう。

 しかしながら、人をすぐに増やせるかというと、まあ増やせないじゃないですか。採用や訓練が全く必要なく、明日からすぐにというわけにもいかないからです。また、自分が今関わっているビジネスが、裏方の人数が倍になってもその人件費を賄える規模感であるかということについては、まあ分かるわけじゃないですか。固定的な人件費が倍になっては、採算性が低下し、仕事自体が崩壊してしまうかもしれません。なら、顧客数を増やしたり、客単価を上げて収入を増やすべきですが、顧客の数を増やせば労働量も増えますし、単価を上げれば、他所にお客さんをとられて余計に採算性が崩れるかもしれません。

 結局のところ、その場で誰かが我慢してギリギリ辻褄を合わせることが、最もリスクが少なく感じてしまうという辛さがあり、それでもなんとかしようと色んな仕事を自動化したり業務整理をすることで、なんとかしのぎましたが、まあそこを抜けるまでは辛かったですよね。

 どうですか?世の中にはこういうことがよくありませんか?

 

 僕が思うに、色んなところで認められていることになっているはずの権利が、実際のところは規定以外の部分で行使を制限されていることが多々あります。生活保護の申請に行ったときに、なんとかして給付しない方向に話を進めようとする職員とかもそのたぐいです。お金が無限に湧いて出るものでない以上、想定している以上の人数が利用すると成り立たなくなってしまうのでしょう。それは根本的には窓口に立っている人間の悪辣さから来ているのではなく、設計上の不備であり、どうにかして帳尻を合わせるために、本来のルールでは使えるはずのものを使えなくしてしまうということです。

 少人数で回しているバイトで休みがとれないとか、辞めるときには別の誰かを紹介しろと言われたりとかもよくないことですが、そうでないと回らないという追い詰められ方があるんじゃないかと思います。必要な人数を下回った状態で回さなければならなくなったとき、何かしら立場が弱い人や責任をとらされる立場の人ばかりがその役目を背負わされてしまい、集中した応力で心を壊してしまうことだってあります。

 これはマネジメントが悪いって話は、実際そうなんですけど、人事権も仕事のやるやらないの裁量権も限定的なタイプの弱い中間管理職には、あまり選択肢がないこともしばしばです。部下の権利を横暴な言い方や精神論、道徳などを説きながら制限するか、部下の権利を保証するために、そのための全ての業務を自分で肩代わりするぐらいしかできません。悪い人になるか良い人になって自身の過重労働で心をすり減らすかしかないのは悲しい立場です。実際中間管理職の人が過重労働で体を壊す事例も複数目にしました。
 じゃあそもそもどうすればいいのか?ということは常々思っているわけなんですよ。簡単に言うとスケジュールに余裕があって単価が高い仕事以外はやらないことにするって話なんですけど、それが簡単にできりゃ苦労しねえ…。

 

 世の中の制度は統計多重化を想定して設定されていることが多いはずです。ピークさえ賄えれば、本当はないものでさせ、実質あると思い込んでやっていけるので効率がよい話です。そして、想定しているピーク以上に大きな土管を作ることがピークが変動する場合のリスクを減らすやり方ですが、これを世間では何と呼ぶかご存知でしょうか?「無駄」です。過疎地に四車線の道路を作るようなものです。もしどこかの未来にそこを大量の車が走る事態になったとき、一車線の道路しかなければ渋滞してしまいます。そして、道路幅を拡張する工事は一朝一夕ではできません。ならば予め車線を増やしておく必要がありますが、じゃあ、今現在一日何台も車が通らない道に四車線必要ですか?という話で、それを人は無駄な投資と呼ぶでしょう。実際お金の無駄です。さらには作って終わりではなく、維持管理もしなければならないのですから。

 世の中の無駄を省き、効率的な社会を作ろうとする偏向が、その実、許容できるピークを限界ギリギリまで低く保つ力となり、なおかつ、ピークをそれ以上に上昇させないために、本当は必要な権利さえ、主張できないようにする社会的な圧力が生まれたりしているような気がします。そして、それについては、自分自身が権利を主張しようとするタイミングになるまで気づけなかったりするんですよ。普段はなんとなくあるんだろうなと思って生きていて、そしてそれはある種の幸福の在り方じゃないですか。

 銀行通帳に一億円の文字が見えたとき、それが存在するものだと信じて、いざとなったら引き出して使えばいいと思いながら、特段引き出す機会もなく一生を終えることができたとき、その一億円が本当に存在したものなのか、通帳の数字にだけ存在して、実は金庫に一円もなかったのかは同じ結果になります。ないものをあると信じたままで生きられる幸福感みたいなのもあるわけですよ。

 

 でも逆説的に、それが本当はないんだと気づいてしまうことによる不安もあります。引き出さなくてはならなくなった人がまずそれに気が付き、そして、そのことから雪崩を打ったように誰もが皆一度に引き出そうとすれば、銀行自体が破綻してしまうかもしれません。人間はないものをあるかのように信じることで上手く生きていたりもするんじゃないかなと思います。それは、神さまの力で来世の幸福を信じて生きるのと似たようなものかもしれません。

 

 これは、人がもっとずっと豊かになり、土管自体をより太くすること以外には、根本的な解決はできない話なのかもしれません。

 

 さて、最近ネットで目にした権利の行使の理不尽な制限を求めるものといえば著作権の話があります。日本の著作権法では、作者には著作者人格権として同一性保持権に関する規定があり、著作物について勝手な改変をされることを差し止める権利があります。つまり例えば、漫画のコマを勝手に抜き出して絵に修正を加えたり、セリフを改変したりする行為は(インターネットではよく目にするものの)、著作者の権利の侵害行為であり、申し立てがあれば差し止められるものです。

 ただし、商用利用されるなどでない限り、SNSなどで日常的に行われるそれが実際に訴えられたという事例はあまり耳にしません。ただ、それを差し止めるための権利は本当はちゃんとあるわけですよ。

 

 これに関してどうぞ好きに台詞改変して遊んでくださいと寛容な態度をとる作者もいて、それ自体も権利の範疇です。それを認めるか認めないかを判断する権利があるわけです。ただし、ネットのコメントなどを見ていると、そのような寛容な態度をとる作者を引き合いにして、それをしない作者を心が狭いというように表現するものを目にします。漫画なんかはある種の人気商売ですから、お客さんに嫌われるのは得策ではありません。そんな中でお客さん側の一部が言うわけですよね。「自分たちに嫌われたくなければ、お前は権利を行使してはならない」という主旨のことをです。そんなことを言ってしまうことこそが心が狭い話なんじゃないかと思います。

 僕自身、漫画のコラージュなどで好きなものも沢山あり(「幕末トランスフォーム」「ナンノブマイビジネス(夜に影を探すようなもの)」など)、それが面白いということも分かりますし、それを自由に楽しめなくなることが面倒くさい事態だなと思う気持ちもあります。でも、作者側がそれを嫌だなという権利もあると思うので、そうなったら、あちらの権利を尊重するのが筋だろいうという気持ちも僕にはあります。

 

 権利を認めるという話は自分に全く関係ないところであれば、全て認めてしかるべきだと簡単に言えますが、その他人が権利を主張することが自分にとって損になるとき、つまり他人の権利と自分の自由が衝突するときにどういう態度をとるかという話があると思います。

 そういうとき、概ねなんらか適当な理屈をつけて相手の権利の行使をできるだけしないようにするようなことを言ってしまったりしませんか?僕はそういうことを気にしているわけですよ。なぜ気にしているかというと、僕が他人にうっかりそういうことを言ってしまう可能性が十分あるからです。

 このように誰かの利が誰かの害になるというような矛盾してしまう権利同士は、そもそも統計多重することも難しくなります。立場上弱い側の権利の行使がただただ制限されて終わることもしばしばです。

 

 人間はそのような沢山の制約がある中でなんとかやっていて、技術や社会制度、規範意識の進歩により、昔に比べれば土管は太くなってきてはいるんじゃないかなと僕は思っています。しかしながら、それがあくまでまだまだ全員に同時に行使できるものではないということに気づいてしまっているきらいもあって、気づいてしまっているからこそ、自分がいざその権利を行使したいときには既にリソースが尽きてしまっているんじゃないか?という恐怖も付きまとってしまいます。

 そして、だからこそ、他人の権利行使を遮るようなローカルルールの押し付け合いもやってしまったりするじゃないですか。それだってある程度は仕方なくですよ。でも、そのあたりが、まだまだ豊かさが十分じゃないんだなと思います。

 

 気分のままに書いてたら、統計多重の話は最終的に全然関係なくなってしまったような気がしますが、本当は全員分ないものを、なんとなくあるような気になることで表面上は上手く回っているということが社会にはよくあると思います。でも、それを信じられているうちは上手く回っても、信じることができなくなった瞬間に、銀行の取り付け騒ぎのように瓦解してしまう気もします。

 ギリギリでやってることも多いんだよなあという気持ちがあって、それでもなんでか上手く行ってたり、上手く行かないところでは何かしら悲しいことが起こったりしつつ、根本的には、豊かさの土管を太くしていかにゃあならないよなあというような気持ちが生じたので、今日はその気持ちが生じたということを書き記しておくことにします。

「フラジャイル」の宮崎先生の独り立ちエピソードがめちゃくちゃ心にきた話

 アフタヌーンで連載中のフラジャイルはめちゃくちゃ好きな漫画なのですが、前回と今回の2ヶ月で描かれた宮崎先生の独り立ちエピソードが読んでいてめちゃくちゃ心にきてしまい、朝の電車で読みながらほろりほろりと泣いてしまいました。

 

 フラジャイルは病理医の漫画です。病理医とはドクターズドクターとも呼ばれる病理診断を行う専門医で、例えば患者の体組織や細胞片のサンプルを使った診断を行ったり、患者の死亡後に解剖してその診断が正しかったかの答え合わせを行ったり(剖検)します。患者と直接相対することは少なく、裏方のような役回りです。この物語の主人公は岸先生、独善的で傲慢に見える男で、十割の確定診断を行うと豪語する変わり者です。彼は正しいがゆえに他の臨床医を打ち負かし、正しいがゆえに疎まれます。

 なぜならば、臨床医や救急医にとって、正しさは常に正しくはないからです。それは例えばリソースの不足で、患者や緊急性に対して、十分な人数や時間がない場合、その正しさを正しく履行するための余力がない場合があります。あるいは、責任の問題です。病理医の診断はあくまで病理医の診断であって、最終的に患者への対応を決め、その責任があるのは臨床医や救急医です。その責任を抱えた医者は、他人の判断よりも、自分の判断をしたいこともあるでしょう。なぜなら、その責任は自分に返ってくるからです。

 

 この物語は「責任」の物語であるかもしれません。誰かの判断が、患者の生死を決定づけてしまうかもしれないからです。この物語は「覚悟」の物語であるかもしれません。その判断が常に成功するわけではなく、失敗してしまう場合もあるからです。その失敗を乗り越えて先に進まなければならないからです。

 

 (ここから先は未単行本化部分のネタバレが含まれますのでご注意)

 

 宮崎先生は、ある出来事から岸先生のもとで病理医になることを志すようになった女性です。彼女は、自分の正しさを背景に他人に強く当たる岸先生とは異なり、人の和を大切にしようとする人物です。彼女は岸先生を反面教師とし、臨床医ともスムーズに連携していこうとします。相手を立てるように、摩擦を減らすように、その中にさりげなく自分の意見を混ぜ込み、誰も否定しないように、伝え、共有し、自分が初めて独りで任された診断をやりとげようとします。

 あらゆる可能性を疑い、仮説を立て、検査し、エビデンスを元に診断し、寝る間も惜しんでの没頭の末に、誰も原因が分からなかった患者の病気の根本原因を探し当て、主張します。

 

 しかしながら、患者は死亡します。その最終的な診断が出るよりも前に生きる力が弱り果ててしまっていたからです。自分なりのベストを尽くし、自分の中でこれ以上ない正解だけを引き当てて辿り着いた結果が、遅すぎたということです。それを宮崎先生は自分の力不足だと思いました。そして、剖検によって自分の判断を答え合わせをすることになります。自分は本当に正しかったのか?それを自分自身で採点することになるのです。次のより良い診断のために、次の次のより良い診断のために。

 

 その結果、彼女が至った結論は自分の判断の間違いでした。継続を提案した投薬の効果は一切見られず、そのために患者は弱っていったのです。診断が出るまで耐えることもできずに。自分の持てる限りの精一杯の正解を出し続けて辿り着いた先が力不足です。自分のせいです。助けることができなかったのです。それは医者を続けていく以上、これから先に何度も遭遇するものかもしれません。しかし、彼女はそれに耐えられないかもしれない心持になりました。自分の判断が人を死なせてしまう。そんな自分の情けなさを、これから先もずっと経験し続けなければならないのかと。

 

 これはとても辛い話なわけですよ。因果関係には保存則はありません。過程を頑張ったという事実は、その結果が良いものであることを一切保証しないのです。でも、人の心は違うでしょう。求めますよ。人間なんだから。じゃなければ、どうやって次を頑張ればいいんですか??自分の頑張りが実を結ばない環境に居続けるには、その無力感に耐え続けるか、心を殺してひとつひとつに責任を感じることをやめてしまうぐらいしかないじゃないですか。それはとても悲しい話ですよ。病理専門医になろうとした彼女の心に、その決意を揺るがせるぐらいには重く苦しい出来事です。

 

 岸先生だけが気づいていました。患者の検体の様子のおかしさにです。宮崎先生が指示した投薬の継続をしていれば、こんなことになるはずがないということに。そう、彼女の提案を、臨床医は無視したのです。自分の判断で投薬を中止していたのです。それが継続されていれば、間に合ったかもしれないのに。

 患者をみすみす死なせたのは誰か?その臨床医は、目の前で自分の力不足に苛まれる宮崎先生を見ながら、諦めのような笑みを浮かべています。

 

 助けられたかもしれない命を、助けるためにマイナスの判断をその臨床医はしました。果たして彼は悪者でしょうか?どこかしら悪い部分はあるでしょう。しかし、その患者は、彼にとっての恩人でした。誰より助けたかったのは彼自身のはずです。そして自分の判断は副作用を恐れた投薬の中止です。それに反対したのは、宮崎先生です。北風と太陽などと言いながら、にこやかに接してきた、まだ専門医の資格も持っていない病理一年目のペーペーの女性です。彼はそれを信じることができなかったわけですよ。そこに賭けることができなかったわけですよ。患者は恩人なのだから。目の前の小娘の判断で恩人を死なせてしまう後悔よりも、自分が判断したという事実を得たかったわけですよ。そこには一切のエビデンスはありません。そこにあったのは、想いです。あまりに人間的な彼の判断は、宮崎先生を無視し、患者をみすみす死なせてしまいました。

 

 「仕方ない、わかるだろ」、吐き捨てるように言う臨床医の言葉に「わかるわけないだろ」と宮崎先生は答えます。

 

 それは岸先生のような北風ではなく太陽になろうと志していたはずの人間から出た言葉です。わかるわけがない。わかってはいけない。仕方がないと諦めることから何よりも遠かったのが、宮崎先生がこの診断にかけた姿だったわけじゃないですか。それは無駄になりました。次は無駄にしてはいけません。もし投薬継続の指示が彼女でなく、岸先生から出た言葉であったなら、その臨床医は投薬を再開したかもしれません。自分の言葉が、自分の言葉だったからこそ相手に届かなかったという事実に直面したわけです。だからこそ彼女はこう言い切ります。

 

 「今後、私の病理診断は絶対です」

 

 悔しさに涙を浮かべながら辿り着いた言葉がこれです。「絶対」、それは岸先生と同じ言葉じゃないですか。自分は岸先生とは違う道を歩もうとした結果、同じ場所に辿り着いてしまったわけです。ただ闇雲に自分の正義を押し付けるような岸先生の過去にも、同じようなことがあったのではないかということを示唆させたりもするわけですよ。

 人間の体にはメカニズムがあります。何かが起こっているということには、必ず原因があり、そこに辿り着くのが病理医の仕事です。診断は丁半博打をやっているわけではないわけですよ。確率の話ではなく、根拠を持った話をしなければなりません。それを調べてエビデンスのもとに辿り着くのが病理医の仕事であって、それが岸先生の言う十割の診断です。たまたま間違わないわけではなく、間違わないためにできる全てを行った背景があるから出てくるのが「十割」「絶対」という言葉じゃないですか。
彼女はこれから先、それをやることにしたわけじゃないですか。

 

 彼女がこの失敗で足を止めずに前に進むことを決意したことは救いですよ。躓いた一歩目の先に、二歩三歩と進んでいくことが見えたのが、読者である僕にとって救いのように感じました。仕方がないという言葉で諦めてしまう誘惑にかられるのが仕事です。お金や時間や人手から、実際に諦めざるを得ないこともありますよ。でも、それでいいのかという燻りがあるわけですよ。

 北風と太陽の作戦には失敗しても、宮崎先生の姿はそれはやはり太陽なんじゃないかと思っていて、僕はそこに、挫折と悲しさの先に、なんて強さと希望に満ち溢れたお話なんだろうと思いました。

 いやもう、ほんと好きな漫画なので、世の中でもめちゃくちゃ読まれてほしい~という気持ちです。

自分の子供に直接それを言えますか?への適切な回答とは何か?

 ツイッターを見てたらインターネットで盛り上がっている話題みたいなものが断片的に流れてきており、自分の子供に対してひどい感じの表現をした人がいて、その人に対して「その発言、自分の子供に対して直接言えますか?」という感じの詰め寄りが発生しているのを今さっき目にしました。

 問題になっている話の主題自体についてはちゃんと読んでもいないし特に興味がないのですが、この聞かれ方が気になります。つまりこのような聞かれ方をしたときには、人間はいったいどのように答えるのが正しいんだろうな?ということです。

 

 この問いに単純に答えることは難しくて、なぜなら、「はい」と答えたら、自分の子供になんてことを言うんだ!と叩かれ、「いいえ」と答えたら、なぜ言えないような発言をするんだ!と叩かれると思うからです。どっちにしても叩かれます。

 

 しかしながら、「HUNTER×HUNTER」を読んでいる僕らには正しい答えが分かります。細かいことは前書いた以下を参照してください。

mgkkk.hatenablog.com

 「沈黙」、クラピカさんが言うように、答えようのない質問には沈黙を守るということができるのです。ただし、現実はHUNTER×HUNTERではないので、沈黙すればするで、なんで質問に答えないんだ!と叩かれてしまうでしょう。そしてゴンのように、単純な答えの出ない問題だが、それでもいつか答えを出さないといけないときのために考え続けることはできる…と言っても今がその時だから答えろ!を叩かれる気がします。

 

 結局この問いを出された時点で、何を言っても叩かれるのだから、何を言っても同じなんじゃないの?みたいな気持ちがあり、質問に答えてほしいわけではなく、「今の発言はよくない発言だったので撤回します、ごめんなさい」と謝ることを求められていて、それ以外の行動は、全部相手に対するさらなる攻撃をする口実を与えるだけにしかならないんじゃないでしょうか?

 聞かれた時点で詰んでいるわけですよ。つまり、相手は貧者の薔薇(ミニチュアローズ)を携えたネテロですよ。

 

 しかし、HUNTER×HUNTERをよく思い返してみれば人間にはまだ可能性があり、レオリオだなと思うわけですよ。単純に答えを出せないドキドキ2択クイズを出されたときに、レオリオは何をしましたか?そう、クラピカに制止されはしたものの、そんなどちらか選べない質問に答えさせようとしたババアを殴ろうとしましたね。そんな問いを立てること自体に対する怒りがあるわけですよ。

 叩かれ続けたくもなく、謝りたくない人間には、もはやそんな問いを立てる相手を殴るしかありません。ああ、なんということでしょう。選ぶべき答えが限定された問いを投げかけられた人間には、虐げられるか、服従するか、争うかしか選択肢がないのです。

 

 さて、ここまで書いたのは冗談ですが、人間と付き合っていると相手に「はい」か「Yes」以外の答えを求められていない問いというものが時折発生し、ああ、しんどいなあと思うことがあります。結局のところ、自分の自由意志など認められておらず、相手の意志に従って動くだけの便利な道具と思われているんじゃないかと勘繰ってしまいます。それでいて、相手からすれば、選択肢を与えてやったみたいなツラをしてたりするわけですよ?

 何かあったときには「自分でちゃんと選んだだろ」と選択肢もなかったのに、自らの意志でそれをすることにしたみたいに言われたりして、ひでえ話だなあと思ったりします。やれ!と単純に命令されたほうがよっぽど筋が通っているじゃあないですか。

 

 そういう態度の人に対してウギャーって思う気持ちがあるので、誰かが揉めてるやつにそんな感じを感じとってしまって、フラッシュバックしてウギャーってなったので書きましたが、皆さんも他人を自分と同じ権利を持った人間だと尊重するなら、「Yes」と「No」を適切に選べる問いの立て方をできればしてやってくれよな!おいちゃんとの約束だぞ!!(Yes)でも別にしたくなかったらしなくてもいいぞ!(No)

黒田硫黄の絵のすごさ関連

 黒田硫黄の絵がめちゃくちゃ好きで(もちろん漫画としても好きです)、真似をしたいと常々思っていますが、上手く真似をできないという状況です。そのすごさを説明するための切り口は色々あると思うんですけど、その中で僕が好きなものの一つはベタの使い方です。ベタの使い方により、光と影を明確に描くところです。

 

 人間は反射した光を目で見て、その物体を認識しています。人間の目はその中でも明度の違いに敏感にできているそうで、例えば上手くない写真のコラージュや、昔の映画などにおける上手くない合成映像に見て取れる違和感は、合成されるもの同士の光の当たり方が異なるところにあったりします。なので、上手く合成するためには、最初から光の情報を合わせたり、追加で足したりするようなことをします。人間はそのように、どのように光が当たっているかに敏感に物を見ていて、それにより、物体の形状や距離感を仔細に判断しているように思います。

 一方、それを逆手にとることで簡単に騙されてしまったりします。例えばトリックアートなんかがそうですね。絵に平面で描かれたものが、まるで立体物であるかのように見えたりしてしまうとき、絵筆で描かれた影の描写が重要な部分を担っています。トリックアートには、現場で見るよりも写真で見る方がより騙されやすいでしょう。なぜなら、現場で見るなら視点を変更してその変化を見ることができますが、写真の場合は視点が固定されてしまうので、視点の差から追加情報を読み取ることができないからです。

 つまり、人間の目は物体への光の当たり方を見ることで多大な情報を読み取っていますが、一方、それを利用すれば、平面でしかないものに立体であるかのような情報を付与することができるのです。

 

 この応用は絵を描く上で非常に重要なテクニックのひとつです。

 

 僕が好きなデイリーポータルZでやっていた実験があります。それは、座禅を組んだ人の前に黒くて丸い布を置くと、それを影と誤認して、人が浮いているように見えるというものです。

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 絵を描くときもこれと同じ原理のことをするわけです。物の形を線として正確に捉えることができなくとも、その物体が存在する場合に、当然生じるはずの影をしっかり描きさえすれば、簡便に立体感を演出することができます。紙面という平面の中に立体を取り込むためには、影の描写が重要な意味を持つというわけです。

 

 黒田硫黄の絵は、その影の置き方が全くもってすごい。

 

 線とベタだけでスクリーントーンを貼らず、白黒ぱっきり分かれた絵でも、置くべき場所に黒ベタを置くことで空間に存在する数々の物体を位置が分かるように描くことができます。仮に同じ風景が実在したとしたら、その写真と同等の立体物としての情報量を、筆の線とベタだけのより少ない情報だけの絵で再現してしまうというすごさがここにあります。そこにはどれだけの情報を間引いても、空間の中にある物体を把握する上では十分な情報を残し続けられるかというテクニックであり、その情報を残しさえすれば、定規を使わず筆で引いた揺らぎのある線でも空間把握をする上で問題がなくなります。むしろ、直線に囚われすぎない自由な表現が可能になるとも言えるでしょう。

 つまり、黒田硫黄の絵は、光の表現が白黒の使い分けで非常に現実的であり、そうであるがゆえにむしろ線の在り方を解放できることによって、現実以上の自由な描写が可能になっているということです。これは、言葉にすれば簡単にですが、なかなかできないことというか、僕には全くできていません。

 

 この点において共通する部分がある絵として、僕は生賴範義の絵があるのではないかと思っています。先日、生賴範義展で原画をまじまじと見て来ましたが、あんなに精緻な描き込みがされていると思っていた絵が、間近で見ると意外と筆が太く、細かく描き重ねているわけではないことが分かりました。しかし、それでいて情報量は十分に大きいわけですよ。例えるなら、レンズによりボケた絵です。対象にピントを合わさずボケた絵は、物体の詳細に関する情報が失われてしまいますが、そのぼんやりとした先に、精緻なものがあったはずということを読み取ることができます。生賴範義の絵もそのように思っていて、この筆は太く大きく雑然と置かれたように見えて、その先に情報があることを十分に想像することができます。それはないのではなく、たまたまピントが合っていないだけであるのです。描かずして描いているのです。

 つまりそれは、絵単体ではなく、見る人間の想像力とのコラボレーションにより、ないはずの情報を読み取れるような形で描かれているということです。あるべきところに大胆に置かれた筆が、ないはずのものを生み出し、それを見る者の頭の中で展開されて大きな情報として受け止められます。これは、最初から精緻に描かれたものを見る場合と、同じ作用でありつつも、中間にある情報自体は少ないため、ものすごく直接的に脳に来る感じがします。いやもう、ほんと良かったんですよ。生賴範義展。

 

 さて、黒田硫黄の絵の話に戻りますが、そういった現実から間引かれた情報量でありながら、見る者にとっては現実と同等の情報量を持ち、さらに絵であることの自由さをも持っていることに憧れるわけですよ。ざっくりと描いているようでそこに空間があることがありありと読み取れるわけですよ。その方法は、黒くあるところを黒く描き、白くあるところを白く描くというだけです。なんと素晴らしい。どこを黒く描き、どこを白く描くべきかが正解です。それを正しく選ぶことが、普通はできないわけです。それがとても良く感じます。

 

 黒田硫黄の漫画で特にこのすごさが見て取れるのは逆光の表現です。僕なんかはそういうのを描くのが恐ろしいわけですよ。例えば、人間の顔を逆光の影で黒く描くのが怖いです。なぜならば、顔の部品について描き込めるならば盛り込むことができる情報量を、逆光で黒く塗りつぶしてしまう場合には失ってしまうからです。

 黒田硫黄の漫画では、それをいともたやすくやってのける。なぜならば、その場面のその光源ではその顔の絵は黒くあるべきだからでしょう。僕には分かっていてもなかなかできないわけですよ。憧れるわけですよ。筆を何度も重ねることでようやく成り立っている絵を、塗りつぶしたとして同じものをできるようになりたいわけですよ。

 

 これに加えて構図や時間の切り取り方もすごいですからね。複数の要素を同じ枠の中に収める大胆な構図をこともなげに選択し、その中で前と後の両方を想像できる必要な1フレームを切り取って見せてくれます。この辺りにあるのは、おそらく必要に応じた正しい選択を都度都度するということで、これも当たり前のように見えてそれを適切に選択するのは難しい。

 なぜならば、例えば僕なら、その拙さゆえに最適な選択ではなく、手元にある選びやすい選択をしてしまうからです。自分に安心して描ける絵というものは、あらゆる絵の可能性からすると、その中の非常に限定的なものでしかなく、安心して描くならその組み合わせだけで全てを再現しなければなりません。つまり、狭くて縛られているんですよ。そこをやるべきことをするために、広くて自由な選択を行うことができているのが黒田硫黄の漫画ということです。

 

 このようにとにかく黒田硫黄の絵はすごい。僕はそれを言いたいわけです。

漫画を読むパワーの全盛期について

 高校生ぐらいのときにBSマンガ夜話を見ていて、僕が思ったのは「ここで喋っている人たち、大して漫画読んでないなー」という気持ちでした。これは大きく間違っていて、多少合っていると思うんですけど、何が間違っているかというと、僕はまだ知識も少なく視野の狭い子供であったため、自分が知っていることを知らない人を、不遜にも「物を知らない」と評価し、同時に、その人が自分が知らないことを知っているという当たり前のことにも考えが至らなかったのです。

 BSマンガ夜話に出ていた人たちはきっと当時の僕が読んでいなかった漫画を沢山読んでいたことでしょう。そして一方、当時90年代後半頃に雑誌連載されていた漫画については、絶対に僕の方が沢山読んでいたと思っています。なぜなら、当時の僕は学生の暇に任せて、本屋にあって目に入った少年・青年漫画雑誌を軒並み毎号読んでいたからです。

 

 現在では、僕自身も漫画を網羅的に読めなくなっています。これは老でしょう。漫画雑誌自体はずっと読んでいるんですけど、漫画というものの進出するエリアがネットを使って広がっており、Web連載やスマホアプリで連載しているもの、Webで個人が描いていたものの書籍化などについてはまるで網羅的には読めていません。おかげで、書店の新刊コーナーを見ても、初めて見る漫画が沢山あるようになりました。中高生の頃はそうではなかったんですよ。少年誌青年誌の新刊コーナーになる単行本はほぼすべて雑誌で読んだことのあるもので、そうでないものがあると逆にどこで連載されているんだろう?と驚いて手に取ったものでした。

 

 さて、漫画を読むことについての人の全盛期についてですが、不完全ではあるものの簡単に調べる方法があります。それはジャンプで連載されていた1巻~3巻程度で打ち切られて終わってしまった漫画の内容を説明できる時期がいつかということです。それが漫画を読むことの全盛期である可能性が高い。それ以後は老です。これはつまり、読む漫画を最初から絞っているか絞っていないかということで、絞ってしまうということは、何らかの理由で読む数を減らそうとしているということだと思うからです。

 そこにあるものをあるだけ読みたいと思って、それを自然にそうしてしまっていた時期が「読む」ということについては最もパワーのある全盛期でしょう。単行本派になるにはその発売までの空白の時間に耐えられず、一秒でも早く続きを読みたくて雑誌を読むしかない時期です。漫画のみでは飽き足らず、作者コメントや読者投稿まで隅々読んでいた時期です。僕にとっては90年代から2000年代初頭あたりがそれにあたり、それ以後は老になってしまったので、雑誌を読んでも、ちゃんと読む連載と読まない連載が分かれてしまいました。タイミングとしては就職と重なりますが、しかしその裏には老による衰えがあるでしょう。忙しかろうが、それでも読みたいという気持ちがないからそうなるわけです。

 

 こういう話をすると、いやいや、目が肥えてきたので、読むべき連載と読む必要のない連載を分けるようになったのだという説明をされたりしますが、それは現状追認にもっともらしい理屈を選んでいるに過ぎないんじゃないかと僕は思います。漫画は大体ちゃんと読めば面白いんですよ。面白くないのはちゃんと読んでないからです。ちゃんと読んでないのは、ちゃんと読めないからです。ちゃんと読めないのは、読むための気力のようなものがないからでしょう。それは老であり衰です。「漫画を読む」という行為の全盛期を過ぎてしまったということです。

 あればあるだけ読むような時期を過ぎてしまったことに対して、今の漫画は昔の漫画より面白くないとか、適当なことをうそぶくようになるのが老のサインです。でも、それは悪いことじゃないですよ。人生の中で限られた全盛期はそれに気づくか気づかないかは別にして誰にでもあり、それを過ぎれば、もうそうではいられません。きっとそういうものです。そして、人間は適当に理屈をつけて自分を正当化するものじゃないですか。それは仕方ありません。

 聞いている側がそういうもの(老のたわごと)だと思って無視すればいいだけの話です。

 

 今の僕だって完全に老です。昔は買えばその日のうちに3回は読んでいた単行本を、今では1回読んで、その後しばらく読み返さないということだってざらです。読む力が衰えているからです。

 集中力も完全に衰えましたから、昔なら、我を忘れて本をめくって読むことだけに集中し、気が付けば5,6時間ぐらい経っていることがざらだったのに、今ではそういうことが最後にできた記憶すらもう遠くなってしまいました。今では一冊読むとスマホを見たりします。

 自我を失って漫画だけを何時間も読んでいられるとどうなるかわかりますか?自分が自分であることに現実感がなくなってしまうんです。そうだったそうだった自分は自分だったと受験を控えた高校生だったなどと確認しながら、ブックオフからの帰り道で自転車のペダルを漕いだりします。あの頃の充実感を今の肉体で再現することはもう難しいように思います。

 

 老は誰にでも訪れるものでしょう。あらゆる分野に対して時期はズレてもどこかで起こるはずです。それは仕方ないですし、全盛期が特別だっただけで、それ以外の特別でない時間の方が基本でしょう。なので、老によって対象との付き合い方が変化してしまうのも構わないと思っています。

 今は今で、今こそが全盛期の若者がいるのだろうなと思いますし、そういう子が僕なんかよりもずっと今の漫画には詳しいのだろうと思います。それはいいことだなと思いますし、僕は僕で自分が全盛期だった頃の記憶を古老のように急に語り出したりしていこうと思ったりもします。

 なんせ、そのときの自分はきっと世界でもトップクラスにその時期の漫画について一生懸命読んでいたと思うからです。

僕が思う人間の脆弱性関連

 僕が人間の脆弱性と感じているものがあります。そして、これは認識していたとしても自分でもどうにもならないので、なかなか辛いことだと感じています。これとはつまり、「人間は主観的に判断して一番得をする選択肢しか選ぶことができない」ということです。

 

 例えば同じ商品が100円で売っているお店と、1000円で売っているお店があったとき、100円の方のお店で買うはずです。なぜなら安いからです。これが得をする選択肢しか選べないということです。しかしながら、1000円のお店で買う例外だってあるだろうと皆様お思いでしょう。当然あります。

 例えば100円で売っているお店がここから100km離れた場所にあり、1000円で売っているお店がすぐそばにあったとき、往復の手間を考えれば1000円で買うこともあるでしょう。それはその往復の手間が差額の900円以上の意味があると思うからすることです。得だからです。

 他には例えば、その商品は本来100円で売れるようなものではないので、値付けが安すぎて怪しいと感じるようなケースもあるかもしれません。そのときも怪しい商品を買うというリスクが差額の900円以上の意味があると考えたから1000円の方を買うのであって、これも得をするためです。

 結局のところ、たくさんの価値基準の中から総合的に判断し、自分が一番得をする選択をしているわけです。ただし、どの価値基準に寄り添う判断をするかは人それぞれというところはあります。

 

 この人間の特性は、仮に自覚していたとしてもどうしようもなく、場合によっては、自分の人生の価値観と立場と現在地によって、自動的に選ぶべき選択肢が確定してしまうことだってあります。そういうとき、自分で全てを判断したように見えて、実は誰かがお膳立てした選択肢を選ばされているだけのことだってあるわけです。

 条件を提示する側は、それを見越して、その選択肢を選ぶことこそが一番利益があるように見せます。ただし、それは本当に利益があって選んだ人も得をするものかもしれません。ここでは、結果的にその人が得をするか損をするかを考えることはしません。ただ、その場その時その人に、他の選択肢を選ぶ余地があったのかどうかという話です。それ以外に選べなかったのだとすれば、人間の生き方は不自由です。

 その不自由さは、いつの日にか、自分が破滅してしまうような選択肢を、一番得をするからという理由で選ばざるを得なくなる状況をもたらすかもしれません。

 

 人は自分が一番得をする選択をせざるを得ないと考えると、例えば、僕が先週に前々から入れていたお休みの予定をキャンセルし、働くことにしたのも僕が一番得をするための決断です。その理由としては、その日に急に入ってしまった打合せを、自分の休みのために延期するには、調整がめちゃくちゃめんどくさいタイプの複数人の予定がたまたま合致する日を再度選ばなければなかったことにあります。その日がすぐにあるのか、数週間先になるのかという問題があり、それを調整するのが非常に面倒くさいわけです。その日にやらなければ、ただ面倒くさいだけでなく、限りあるスケジュールを調整だけで食いつぶしてしまったりもするわけですよ。そうなると後々しんどくなるのは結局自分です。

 つまり、休む予定をキャンセルして働くことこそが、自分にとって一番得な選択肢であることがわかります。そうして、僕は自ら進んで、自分がとれるはずだったお休みをなくしてしまいました。しかし、果たしてこれは僕自身の意志でしょうか?それは、そうせざるを得なかっただけであり、自分で選べたわけじゃないんですよ。このようにして、権利を付与された休みを取らない(取れない)労働者が生まれます。

 

 世の中には往々にしてそういうことがあります。自分で選ぶことができない状況になります。なので、僕は他人の選択に対してなぜそれを選んだのかと怒ったりすることがあまりありません。なぜなら、その選択をした人は、その状況であればそうせざるを得なかっただけなのではないかとまず考えるからです。

 自分が同じ立場なら同じことをするだろうと思うこともありますし、自分が同じ立場だったとしても同じことはしないが、それでもその人の主観では、それが一番得な選択肢だったんだろうと想像したりもします。それはある程度仕方ないことだと思うんですよ。それを防ぎたければ、その人がそれをすることが一番得をしてしまうというような状況自体を解体する必要があると思っています。つまり、人間個人持つ意志や人間性のようなものに、何かを変える力があるというような期待を最初からしていないんです。自分に対しても他人に対しても。

 世の中の大半は、状況に合わせてあるべきようにあると思っていて、そこに生じる不幸とは、そのような状況となってしまったということそれ自体です。

 

 さて、この考え方によれば、誰かの選択を変えたい場合には、その選択がその人にとって一番得をするものでなくすことが必要です。そのための一番簡単で分かりやすい方法は、「それを選べば強い罰を与える」と脅すことだと思います。こちらに都合が悪い選択肢を選べば不利益があると相手に提示することで、自分が好まない選択を相手から奪うことができます。そのようにして、人間は人間の持ちうる選択肢を削り込もうとします。これは世の中のそこかしこにあることです。日常的にそこかしこで起こっていることです。僕はそれを悲しいことだと思っていますが、それにしたって、他人の選択肢を奪う人にはその選択しかできなかったのかもしれません。

 そして、それによって世の中が上手く回ることもあるでしょう。あるいは、それによって悲劇が起こることもあるでしょう。

 

 これは、人間の脆弱性だと思っています。それも決して修正することができないものです。客観的に見ればそうすべきではないことも、当事者としてそうすることが一番特になるという条件を揃えられてしまえばやってしまいます。それはつまり、自分自身をコントロールするすべを奪われてしまうということです。

 

 このようなことを常々思っており、自分自身の判断も、状況によっては信用なんてできないぞ!!と思いながら生活しています。それは冷静に判断しているように自己認識しながら、実際はその状況において、そうせざるを得ないということをただ現状追認しているだけかもしれないからです。

 それによって自分の生活が詰んでしまうことを危惧しているので、どのような状態でも、自分が取り得る選択肢にバリエーションが生まれやすいような条件を整えることにしています。そのため、僕はたまに怒ったりもしているわけです。それは自分の選択肢を減らすような力学が発生しているときにその反発として怒っている感じです。それは僕が危機管理のために自分自身に導入した価値基準のひとつであるわけですよ。それを選ぶことで、自分の次の選択肢が減らないかどうかは重要な基準です。

 何があっても、自分の取り得る選択肢がひとつに絞り込まれることを避けるため、ひとつに絞り込まれそうな状況になったら、反射で怒ってでもその状況を脱することが生存上有利と考えているのです。

 

 もうひとつやっていることは、あえて偶然に身を任せることです。サイコロを振って決めるというように、本当にただの偶然に身を任せて決断をすることもままあります。サイコロを振って決めたことについては、僕自身の意志の介在する余地がありませんから、何物にも制約を受けない結論を出せるかもしれません。この辺の気まぐれに自分の人生に混ぜ込んでいくことで、人生のバリエーションを確保し、決して、誰かの思う通りに動かされ過ぎないようにしていくみたいなのが、最近の考え方ですね。

 

 このように考えるようになって、最近は、子供がワガママ言って泣いたりするのは完璧に正しいなと思ったりします。そこに存在するのは非常にプリミティブな利害関係なわけですよ。自分が求めていることが、実際には起こらないことに対する拒絶を、泣くことで表現しているわけです。

 一方、大人は色んなことに縛られているので、泣いて拒絶するというようなことがどんどんできなくなります。ここで我慢しておけば、この先楽になるというようなことを思って、思い込まされて、貧乏くじを進んで引き受けたりもするわけですが、結局先は先で新たな何かが発生して、楽には全然ならなかったりして、延々同じような貧乏くじを引かされ続けたりもします。しかも、それを自分は正しく価値判断した結果だと思い込んでしまったりもするわけです。

 

 人は一番得だと感じる選択肢しか選べない。自分がそうであることも、他人がそうであることも、それが最適となる状況が整っているからそうせざるを得ないのであって、それを自分の意志の力でなんとかしようと思うことは、大火事を目の前にして、洗面器一杯の水をやっと汲んでこれたような状態ですよ。消すことは無理だと思います。自分がその水を被ってその中を突っ切ることぐらいしかできやしないじゃないですか。

 

 なので、お仕事などで何か問題が発生している場合には、人、それ自体にはあまり目を向けず、なぜその判断をしてしまうような状況が整っているのか?それを変えるにはどのようなことをすればいいのかということの方に優先的に手を加えるようにしている感じですね。

 今のところ、身の回りでは結構上手く行っている感じもするんですけど、状況に対するアプローチは大掛かりになることも多く、できることとできないことがあるので、何かが起こったときに、そこに変化を促すためにどれだけのことが自分にできるのかと不透明な状況を想像し、不安な状態で日々歩いています。

 

 そのように歩くことが、僕が今考える、人間の脆弱性に影響されにくい数少ない方法ではないかと思うからです。

怖いゲームがやりたいが怖いからできない問題

 バイオハザード7をやりたいなあと思い続けて随分と時間が経ちました。

 思ってないで買って遊べばいいじゃないかと皆さんおっしゃるでしょうが、できないんです。怖いんです。怖いから遊びたくないんです。でも遊びたいんです。

 

 このように「遊びたい」と「遊びたくない」の間をマンボNo.5に合わせて行ったり来たりしている時間が続いています。

 

 バイオハザードシリーズは結構やっている方だと思っているのですが、6と7はまだやってません。

 4までは大学の部室でやっていたんですよ。GCのリメイク版とかも部室でやりました。部室でやっていたのがありがたかったのは周囲に他の人がいるわけです。これは他の人がいると安心というわけではなく、他の人がいると、怖がってばかりもいられないぞという精神のスイッチが入るので、その気持ちによって少しは耐えることができます。怖がっているのが恥ずかしいという気持ちによって、怖い気持ちを鈍化させているわけです。

 そしてまた、僕がそれでも怖がっている様子をみんなが笑ってくれるので、皆が楽しんでくれるならいいかなとか思ったり、本当にどうしてもできないところは代わってもらえるとか、そういうことがありました。部室のおかげで怖いゲームができてよかったです。

 

 うちは家系的に皆怖がりな気がするんですが、怖がりを恥ずかしいと思う性質も共通するようで、妹が小学生のときに一緒にお化け屋敷に行ったんですが、列に並んでいる間、妹が「私はこんなもの全然怖くない」という話をするんですよ。友達の○○ちゃんは怖がるけど、自分は全然怖くないんだ!って僕にすごくアピールするんですけど、それを聞いていて、ああ、怖いんだなと思いました。それを否定するための言葉をわざわざ出しているからです。

 僕はお兄ちゃんとして、こんな子供だまし全然怖くないですよみたいな顔をしていましたが、実際はめちゃめちゃ怖かったので(当時二十代半ばぐらい)、なんでこんなアトラクションに入るはめに!!とめちゃくちゃ弱っていました。しかし、そこは妹の手前、表面上は全く怖がっていないふりをしていました。なんでこの怖がり兄妹が、入りたくねえと思いながらも、それをお互いに言い出せないために列に並んでいるのか…。大変理不尽でしたが、そうなってしまったのだから仕方がありません。

 お化け屋敷の入り口には、カメラがあり、列を並んでいる人にその映像が中継されています。色んな人が怖がる様子が中継され、それを見て妹は「○○は全然怖くないよ!」と繰り返しますが、兄はめちゃくちゃ怖がっているし、扉が開いたあと、妹は僕に「先に行って」と言ってきました。怖がっていました。その後も大変怖かったです。

 

 怖いんですよ。闇の中に何かを想像してしまうわけです。想定していないものが急に目の前に出てきたら驚いて失神してしまいそうになります。妹とのお化け屋敷は、最後まで平静を装いきれたと自分では思っていますが、もう絶対行きたくないという気持ちでいっぱいになりました。それはそうと、そのときの思い出を、今嬉々として書いている自分もいます。面白かったんですよ。その体験が。

 

 以前、友達から夜に電話がかかってきて、「夜道を一人で歩いていて怖いから、このまま通話させて」という内容だったのですが、僕はてっきりお化けが怖いのだと思い、「そうだね…お化けは怖いものね…」と言ったら「お化けが怖いからなわけがないでしょ!!」ってすごい言われてしまい、え…僕はめちゃくちゃお化けが怖いが…と思ったということがありました(防犯的な意味合いだそうです)。

 子供の頃は、シャンプーのときに目をつぶるのも怖かったです。その瞬間に後ろに何かがいるかもしれないじゃないですか。部屋を真っ暗にして寝るのも怖かったです。明け方にカーテンの裏に見える影が怖くて、震えていたこともありました(洗濯物の影でした)。

 こんなに怖がりなのに、なぜ怖いゲームをやりたいと思ってしまうのか。世の中には永遠の謎があります。

 

 バイオハザード5も怖かったです。ただ、怖かったものの、未知の恐怖というよりは、自分を襲ってくる大量の敵が怖いみたいな感じだったので、多少ましでした。あと、CO-OPによってネットの向こうの知らない人が手伝ってくれたこともあり、クリアできたように思います。しかし僕は部屋にひとりです。怖がっても誰もそれを笑ってくれる人がいませんし、誰かを気にして怖くないふりをする必要もありません。5はなんとかクリアしたものの、6はまごまごしていたら、遊び機会を逸してしまいました。

 

 そして、7です。絶対怖いじゃないですか。PSVRも買ったので、それでやってみようかなとは思ってみるわけですよ。きっと今まで体験したことのないような恐怖がそこにあるのは確実じゃないですか。体験してみたい気持ちもあるじゃないですか。でも、できないんですよ。なぜなら怖いからです。怖いから絶対やりたくないんですよ。でもやりたいんですよ!!!

 

 怖いゲームの怖さには未知の恐怖というか、常に何が起こるか分からないという緊張状態を保つことによる疲弊のようなものがあります。なので、同じゲームでも、何度もプレイしていると恐怖は減ってきます。事実、バイオハザード4なんかでは、最初の村を体験版でプレイしまくったおかげで、だんだんと敵を淡々と殲滅していくことができるようになり、そこからは恐怖は失われました。

 「知る」ということは恐怖を減少させる効果があります。であれば、ゲーム実況動画なんかを見て、あらかじめある程度備えていれば、ネタバレはしてしまいますが、怖い気持ちは抑えられるかもしれません。あらかじめ何が起こるかわかることは、それに適切に備えておけばいいという話になるからです。

 

 そう思って昨日、バイオハザード7を買う気持ちを高めるためにとゲーム序盤の実況動画の見てみたのですが、意図とは逆に完全に買えない気持ちになりました。…怖すぎる。他人がプレイして、自分は見ているだけで済み映像だけなのに、怖すぎて辛いので、これをPSVRでやった日にはショック死するのでは???という気持ちになったので、無理です。むーりー。ぜったいにむーりー…。

 

 絶対やりたくないです、でもやっぱりやりたいんです(BGM:マンボNo.5)。だから、どうにか恐怖を克服する方法が必要ですね。人間の恐怖心を抑える薬品とかないですか?病院で処方してもらえる感じの…。