漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

人間は30年先を考えて生きられるものなのか?

 以前、マンション投資の電話が頻繁にかかってきていた時期があり、電話を繋いだままで適当に話を聞いてみると、大体こういうことだそうです。

  • 僕が銀行から借金をしてワンルームマンションの部屋を買う
  • その部屋に入居する人の家賃をローン返済に割り当てる
  • 30年後にはローンが完済されるので、その部屋が実質無料で自分のものになる

 

 マンション投資の斡旋会社がやってくれるのは、その部屋に入居者が入ることを保証してくれることだそうです。入居者が入ることが確約されているのだから、30年後に無料でワンルームマンションが手に入ってお得でしょう?とのことです。場合によってはそうかもしれません。

 僕の場合は、築30年のマンションが30年後に手に入ることに全く魅力を感じないため、お話ありがとうございます、ではさようなら、と断りました。あと、入居者が常に入るということも信用できません。だって30年ですよ、30年。30年前から今に至るまでにあった出来事と同じような量とバリエーションのことが、ここから30年でも起きるんじゃないかと考えると気が遠くなってしまいます。色々あったのに、まだ色々あるのかよと。個人的にそんな先に、今想像したようなことがずっと続くとは全く思えないので、30年先のことを考えるのは時間の感覚として僕には無理だなあと思います。だって、創業10年を迎えられる企業だって1割以下じゃないですか。

 

 人によってはこの投資をありだと思うかもしれません。でも、僕の中ではなしでした。

 

 思うんですが、豊かさとは時間感覚のことなのかもしれません。人間はなんらか得をしたいと思う人が大半だと思いますが、その中でも、どれぐらいの期間の中でトータルで得をしたいと考えられるかという差があるんじゃないかと思います。30年で得をしたいのか、1年で得をしたいのか、3日なのか、5分なのか、時間が長いほど豊かで、時間が短いほど貧しいと言えるような気もします。

 つまり、30年先に得をすることを考えて、今多少損をしてもいいと考えられるのは豊かということなのではないかということです。そして、5分後に損をすることが分かるのに、今この瞬間だけ得になることをしてしまうのは貧しいというなのではないかということです。

 

 ここで注意しないといけないのは、「30年先を想定した行動をすること」自体が豊かというわけではなく、「30年先まで見通せると思い込めるぐらい今まで安定して生きてこれたこと」が豊かということです。

 現実問題として30年先のことなんて正確に見通せるわけがありませんし、仮に見通しが当たったとしてもきっとたまたまです。その過程で無数の不確定要素があったとしても、それを乗り越えらえれると思える豊かさは、とても豊かなことだと思います。

 

 豊かであれば短期の損を許容し、長期の得をとることができます。貧しければ、短期の損に耐えられないので、短期に得をするような選択肢しかなく、それはもしかすると長期では損かもしれません。

 

 例えば、貧しい人の考え方では、他人との取引は個別に割に合うものでないといけません。なぜなら、一回の取引失敗が致命的だからです。一方、豊かな人の考え方では、ある程度の失敗を見込んで複数回の取引を行える余裕がありますから、ある部分で損をしても、全体で得をしていればいいという選択肢が生まれます。

 これは例えば、他人に親切にしやすいかどうかということと関わるかもしれません。ある人に親切にしたときに相応の感謝や返礼がなければ、人付き合いをやめてしまうのが貧しさで、いずれ得になるだろうと考えて一回一回の親切には見返りを求めなくて済むのが豊かさです。

 

 これらの違いは人間性の問題というよりは、その人が持つリソースと、その人が今までやってきた環境の問題ではないかと思っています。現状、豊かに見える人も、その人の持つリソースを奪い、環境が変われば途端に貧しい考え方になってしまうのではないでしょうか?まず与えることができるという豊かさには、一定損したとしても平気であるというリソースの潤沢さと、そして、長期の取引をしていけば、相応のリターンがあったと思える今までの成功体験がきっと必要です。

 豊かさにかまけて与えすぎてしまったせいで、貧しくなってしまった人もいるでしょう。それは、そういう環境だったという不幸です。そして、まず与えることが当たり前ということを疑わずに生きてこれた人は、そういう人たちが互いに与え合うことで効率よくやってこれたという奇跡的な環境だったはずです。

 

 世の中は基本的にどんぶり勘定で上手くいっていれば、効率がよいわけです。それは喩えるなら、材料を持ち寄る鍋会のようなもので、みんなが同じぐらいの額だけ材料を持ち寄り、同じぐらいだけ場で働くなら、最後精算をする必要がありません。でも、材料を全く持って来なかったり、一切手伝わずに食べるだけだったりする人が出てきたりします。そうなれば、やる人とやらない人の間に不公平が生まれてしまい、それが誤差と無視できないぐらいになってしまうと対策が必要になります。つまり、材料費を割り勘にする手間や、仕事の割り振りやその監督などをする手間が生まれます。公平さのために細かく管理するというめんどくささが生まれ、全体の効率は落ちてしまいます。

 豊かな人がいれば効率のよい鍋会を維持し続けられ、貧しい人だけになれば効率の悪い鍋会になります。そして、世の中はだいたい最終的に効率の悪い貧しい鍋会になりがちだと思います。だって、何かに参加する人々の間で公平さを確保するために、とても沢山の手間をかけているじゃあないですか。

 

 興が乗ったので適当に書き進めていたら話が逸れてしまったのですが、そもそも言いたかったのは、僕は30年先を見通して、今のこのままずっと同じかそれ以上ででやっていけると思い込めるほどの豊かさを持ち合わせていないということです。

 現実問題としては、1年先ぐらいまでしか考えずに生きています。なので、今の状態が続くなら、この先自分の家を買うにしても、30年ローンみたいなものはきっと組まないでしょう。可能な限り一括に近い形で買うと思います。また、その場所に一生住むということを前提にせずに買うでしょうね。

 僕は一年先には今手元にあるものが全部失われて、今とは全然別のことをしてても生きていけるようにしたいと思っていて、その考え方が自分に合っていると思っているのでそうしています。

 

 この考え方には意図的に辿り着いたんですけど、それは、ずっと先のことを考えて行動しても結局思った通りにするのは難しいと感じたことに端を発しています。

 例えば、5年先に最適な結果が出るような動きと、1年先に最適な結果が出るような動きはきっと異なるでしょう。そして、5年先を考えて判断した今の最適な動き方は、1年先の最適と比較して、きっと効率が悪いと思うんですよ。つまり、今我慢して、1年先にまだ損をしていても、5年先になればきっと得をしているはずだ!と思い込めるかという話です。なんせ、そんな先の結果は保証されていないわけです。結局、5年先の結果が思った通りの地点に着地しなければ、最終的に1年後も損をして、5年後にもさらに損をしているかもしれません。そうなると嫌だなあと思うんです。

 

 今まで生きてきた中で、僕が自分に関することをなんとか思った通りにコントロールできると感じたのが1年先ぐらいまでだという実感があったので、1年先に上手い具合になる程度の貧しさを、自分の最適なところだと定めることにしました。

 このように30年先を考えて、30年先に最適になるように生きられるほどの豊かさを僕は持ち合わせておらず、自分には1年先ぐらいまでの貧しさが最適だと思っているんですけど、おそらく子供がいる人なんかはそうは言ってられない人が多いんだろうなと思います。子供が自分の元から巣立っていくまでのおそらく20年以上、計画的に、育てるために必要なものを確保し続けなければならないからです。

 ちなみに僕も何年か前まではそういう状態で、沢山いる弟妹たちが独り立ちできるようになるまで、学費や生活費を保証してやらなければならないと思っていました。仮に、大黒柱である父が急に亡くなったとしても、彼ら彼女らたちがお金の心配をすることなく世に出られるようになってほしいという願いを持っていたんですよ。だから、僕はそのために安心できるだけのお金を稼がないといけなかったし、そのために、そこそこしんどい状況からも逃げずに、取り組んでしがみついてきたという経緯がありました。豊かでもないのに、豊かに生きようとして無理をしてきたのです。

 

 今の自分の状態はそこから解放された反動という感じで、何年も先まで、お金の心配をしなくていい状態を頑張って無理矢理作ることをしなくてよくなったら、日々生きることが異様に簡単で楽になってしまいました。それが異様に楽な気持ちなので、その状態でずっといたいと思ってしまうんですよ。

 

 前述のように今は1年先ぐらいまでのことを考えて生きているんですけど、本当はそれをもっとどんどん短くして、最終的に5分先ぐらいまでに短くできたら最高だろうなという気持ちがあります。

 ただ、普通は5分先に最適になるように行動したら、10分先には損をしたりするじゃないですか。電車賃として160円だけ持っているときに、10分先に電車が来るものの今のどが渇いているので、そのお金でジュースを買ってしまったら電車に乗れなくなってしまいます。でもじゃあ、のどが渇いたまま電車の来る10分を待たないといけないのか?という話ですよ。電車に乗ったあとものどは乾いたままじゃないですか。

 理想の生き方は、そのときに軽率にジュースを飲んでしまいつつ、10分後の電車も何故か乗れてしまうというようなことです。しかし、何もコントロールせぬままにそうなれるのは神の領域では?という気もします。でもいつかそうなりたい。そうなれば、たぶん毎日どころか、人生の全ての瞬間を楽しく生きられそうだと思うからです。

 

 30年先を見込んで行動できるような豊かさは持ち合わせられないなあという気持ちがあり、自分に合った貧しさの中で生きていければいいなという考えが今はあります。しかし、もしかすると1年先はもうないかもしれません。なぜなら、僕は1年先ぐらいまでのことしか考えていないからです。

カイジの石田さんに見る物言わぬ弱者関連

 「賭博黙示録カイジ」に登場したおっちゃん、石田さんのことをたまに思うけど、石田さんのことを思うと悲しくなる。それは作中で、石田さんの死に接したカイジが思ったことと同じだと思う。

 石田さんはなんでもないおっちゃんで、とにかく人に騙されやすい。帝愛の開催するギャンブルは、無重力空間のようなもので、そこで浮上するにはそれだけの反作用が必要だ。つまり、上に行くには誰かを蹴落とさなければならない。人が善く、騙されやすいのは、そういうギャンブルには向かないと思う。どこかで誰かに騙されて蹴り落とされ、どんどん下に落とされてしまう。下にあるのは強制労働で、さらにその下にあるのは死だ。

 石田さんは死ぬ。死因は人の善さだろう。人の善さが美徳であるのは、人の善さが良い結果を招く限られた場所だけの話で、そうでない場所では、それがむしろ自分の首を絞める。だから、人が善い人は、それが良い結果を招く良い場所から外にでるべきじゃないし、そうでないことになってしまった時点で、破滅的な未来しかなかったのだろう。あるいは、人の善さを捨て、悪になるという方法もあったが、人の善い人はなかなか悪になれないからこそ、人が善いのだ。

 人が善いというのは人を簡単に信じてしまうということだ。海上の船エスポワールで開催されたギャンブル「限定ジャンケン」で、石田さんは仲間を信じてイカサマに手を貸した。しかし、それで勝てた仲間は、自分のために動いてくれた石田さんを簡単に見捨てた。助ける理由がないからだ。

 人と人の信頼関係は、普通はすぐに確立できるものではない。短期的な信頼関係は、実質的に利害関係となりがちだ。助けるだけの利益があるならば助けるけれど、それがないなら見捨てた方がよい。その方が利益があるからだ。石田さんはそれを見誤った。自分をきっと助けてくれるだろうと簡単に信じてしまった。それが人の善さだろう。それが人が奈落に落ちるための、一押しだろう。

 

 カイジはそんな石田さんを身銭を切って助ける。それは人の善さだろうか?きっとそれもある。カイジはどうしようもなく人が善い。ここで言う「人が善い」ということは、悪になりきれないという意味だ。カイジはいつも悪になりきれない。それで、稼いだはずの金を何度も失う。自分を石田さんと同じように利害で見捨てた悪なる仲間に対するあてつけのように、カイジは大金をはたいて石田さんを助けた。自分を見捨てた理屈に、同じく身を任すことが許せなかったのではないだろうか?

 利害だけで動くならば、人の行動は御しやすいはずだ。なぜなら、利害で動く人はきっと、一番利益があり一番害がない選択をするだろうからだ。しかし、経済学でそう考えても、実体的には人間はそうは動かないこともよくある。なぜならば、人間の視界には金銭的利害以外の他にも見えているものがあるからだろう。その意味でカイジはあまりにも人間だ。人間だからこそ、カイジは石田さんを助ける。

 

 そんなことで命が助かった石田さんが、再びギャンブルの地に現れる。のちのちに分かることだが、それは借金を抱えた息子のためだった。金が必要だが、金を作る能力が石田さんにはない。いやあった。それがギャンブルだ。

 

 人間が他人に対して残酷になりやすくなるきっかけがあると思う。それはその他人が自分を傷つけてこようとするときだ。自己防衛のためならば、緊急避難のためならば、人殺しすら情状酌量で理解可能となる。カルネアデスの板だ。

 今度のギャンブルは、ビルの間に渡された鉄骨の上を渡るだけのレースで、そこで重要な勝つためのテクニックがある。それは、前を歩く人間を突き落すことだ。誰かがそれを始めると、一斉にそれが始まってしまう。なぜならば、それをしなければ、追い越し不可能な鉄骨の上では勝つことができないからだ。そして、自分もまた後ろから来る人に突き落されるかもしれないからだ。

 目の前を歩く人間は、既に別の誰かを突き落した人間だったりもする。誰だってやっていることだ。自分もやられるかもしれないことだ。なら、自分が目の前にいる人を突き落すことは果たしてそんなに悪いことだろうか?なぜならば、そうしなければ、自分もそうされてしまうかもしれないのだから。

 

 他人を傷つけるということは、実際結構なストレスがかかることだ。だからそれをするためには、そのために十分な言い訳が必要だ。賞金のために誰かが誰かを突き落す、悲惨な鉄骨渡りレースでは、その条件は満たされているのではないだろうか?そう、目の前にある人間を押してもいい。そこは、それが許された残酷で無慈悲な空間だ。

 そして、そんな空間でカイジは「押さない」と言う。ボロボロ泣きながら、自分はそれでも決して目の前の人間を押さないと言う。だから、他の皆も押すんじゃないと投げかける。それは金銭の利益を考えれば不合理な行動だ。だからこそ、その場において、カイジだけが人間だったと言っていいかもしれない。カイジが人間であることで、他の人たちの中に人間が帰ってきたりもする。

 

 石田さんはそんなカイジをますます信頼してしまう。人を信じやすいおっちゃんなんだから、自分を助けてくれた人をより強く信頼してしまうのは仕方がない。馬鹿なおっちゃんは、馬鹿なりに金を得ようと奮闘する。そして、そんなおっちゃんがやっとのことで手に入れた賞金の引換券はとんでもないところで交換されることが知らされた。その場所は、さきほどとは比べ物にならない高層に渡された鉄骨の先で、落ちれば確実な死である場所にある勇敢な者だけが歩ける道だ。

 いや、それは本当に勇敢だろうか?彼らは金が必要であるがゆえに、そこを歩かざるを得ない。金があったならば歩かなくてよかった危険な道を歩かざるを得ないことに勇敢という言葉はやはり不適当かもしれない。それはただの悲惨だ。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20171108003430j:plain

 

 その鉄骨の上で起きた出来事、石田さんの死の際のことを思うと、いつも泣いてしまう。臆病で人の善い、なんでもないおっちゃんの死に際はまるで無だ。何もない。何もないのが何故かというと、何も言わなかったからだ。何も言えなかったのではなく、意志をもって言わなかったのだ。自分が道半ばにして力尽き、鉄骨から落ちて死んだという事実がカイジに動揺を与えないために。物音ひとつ立てず、少しも悲鳴を漏らさず、石田のおっちゃんはいなくなった。その直前にカイジに賞金の引換券を託し、義務を果たしたように、ただいなくなった。

 何にもできなかったおっちゃんがせめて、自分の信頼した男、カイジにだけは何も迷惑をかけたくないと思って、無言で消える。僕はそのときの石田さんの気持ちを思うと、泣いてしまうけれど、それは果たして美徳だろうか?

 

 これは物語の話だけれど、実際にも似たようなことはよくある。誰にも迷惑をかけたくないという人が、自分の欲求を口にすることすらできなくなるということだ。辛い状況にいるのに誰にも何も言わず、全て自分の中に飲み込んでしまったり、自分だけで解決しようとしてしまう人を目にするし、それで上手く行けばいいけれど、上手く行かないと悲惨なことになる。

 「助けを求めればいい」という言葉が出てくるのは、助けを求めることができなくて悲惨なことになってしまったあとのことが多いと思う。まだ頑張れる余地があるときには、簡単に助けを求めずに自分で頑張れ!とか言われてしまうんじゃないだろうか?少なくともそう追い込まれてしまう人の中では、そう言われるに違いないと思い込んでいることもしばしばだと思う。

 

 弱者には助けを求める権利があるだろう?と問われれば、その通りだと答えるかもしれない。でも、助けを求めないままに何も言わずに消えてしまった弱者を良い人だったと思ったりしないだろうか?といつもひっかかってしまう。

 「あなたには権利があるが、権利を行使しない状態を一番評価してあげよう」という態度は、それをきっと助長するだろう。それが誰かに迷惑がかかる行為だとしても、それで自分がどうにかなってしまうのであれば、きっと声をあげるべきだと思うんだよな。

 

 石田さんはダメだけどいいおっちゃんだ。でも、そんなダメなおっちゃんがせめて迷惑をかけないようにと無言で消えてしまったことはたぶんいい話ではない。それは、きっと悲しい話だ。石田さんは理屈が通らず無様に泣きわめいて、自分が生きたいと主張したってよかったはずだ。その方がきっといいと僕は思う。

 

 そして、ワンポーカー編の最後の和也はそうだった。あんなにもあまりにも傲岸不遜で自信満々だった和也ぼっちゃんが、ギャンブルの負けの結果の死の際で、あまりにも無様であまりにも格好悪く泣きわめき、助けを求め、理不尽に怒り狂う様子を見て、少しほっとした。そうだ、人間はこうでなければならない。無様に生きることを求めたっていいじゃないかと思った。

 あのとき、何もできぬまま気づかぬままに石田さんを失ったカイジは、今度は同じく落ちようとする和也を助けることができるわけでしょう?それはもしかすると、和也の命だけでなく、あのとき無力だった何もできなかったカイジの心をも救ったのかもしれないじゃないですか。

 なんかそういうことを思ったわけですよ。

「甘い水」におけるエントロピー増大に抗う力関連

 僕は、全ての人間は与えれた環境にその能力の範囲で順応して生きていると思っています。人間がその環境に対して能力が足りなかったり、能力があるのに環境がそれを許さなかったりする状況においては齟齬が発生し、その結果、悩み苦しんだりするものではないかと思っているのです。

 僕が思うに、自由意思というものは、もしあったとしてもとても小さいもので、多くの場合は環境に選ばされているのだと思います。医者の家の息子は、子供の頃から「将来は医者になる」と言うかもしれませんが、それはその子の選択というよりは、周囲の家業を継いで医者になって欲しいという期待に応えているだけであることも多いのではないでしょうか?

 一方、「せっかくだから俺はこの赤い扉を選ぶぜ」というような、他の何かの根拠があるようには全く思えない選択もあって、もしかすると、そういうのは自由意思なのかもしれません。

 

 「物語」という概念を定義するには色んな方法があるでしょうが。僕の持っている印象のひとつは、「環境」と「能力」と「自由意志」に齟齬が生じた状態から、徐々にそれが解消していく過程を描いたものというものです。不安定な状態が安定した状態に移行するということです。自然現象と同じです。エントロピーは増大します。

 

 悩みや苦しみは、「こうありたい」と思うことと、しかしながら、「そうはなれない」ということの差から生まれるものだと思いますが、そういった不安定な状態は、時間が経てばそれは大体解消されるものです。たとえ、それが最良の形ではなかったとしても。というか現実には最良の形ではないことの方が多いでしょう。多くの人は、自分の意志と能力と環境に折り合いをつけてそれなりに生きているのだと思います。齟齬に反発をし続けられるほどのエネルギーを持った人もときにはいるのかもしれませんが、諦めたり考え方を変えて受け入れたりする人の方が多いのではないでしょうか。

 

 思春期というのは、その意味で物語に満ちています。なぜならば、その時期には誰しも能力が変化し、環境も変わることが多いからです。それゆえに周囲との軋轢が生まれやすく不安定になります。そしてそれは多くの衝突を経つつ、自然の流れに沿って安定した状態に解消されていきます。

 

 さて、本題ですが、松本剛の「甘い水」はそんな思春期の物語だと思いました。この物語の中で少年は少女に出会います。少年には夢がありました。狭く閉塞的な田舎町を出て、遠い世界(タンザニアの自然保護)に行きたいというものです。しかし、少年にはその能力がありませんし、環境が許しません。なので、少年の心には不満がありました。一方、少女には諦めがありました。親に強要されて体を売らされていた少女は、そのどうしようもない環境と、そこから逃れる能力がないために、そこを飛び出るということを諦めてしまっていたのです。そんな少年と少女が出会うことで、新しい環境が生まれます。少女は自分の閉塞感を打破する手がかりを少年に求め、少年は叶うあてのない夢を少女に打ち明けます。

 

 少年と少女の関係性は完璧です。欠けたものを補い合うような関係だからです。しかしながら、そこには不安要素がひとつありました。それは、少年は少女の境遇を知らないということです。そして、それがバレてしまえば、その補い合うような関係性は破壊されてしまうであろうと予想されることです。少女の期待を全て受けとめるには少年は幼すぎ、そして少女はそれを察するがゆえに隠そうとします。砂で出来たお城は美しくとも、外からの波で容易に壊されてしまうのです。

 

 この物語では秘密が最悪の形でバレ、その砂のお城が崩壊してからが本番だと思います。少年の意志は混乱しますし、少年には大した能力もありません。そして、取り巻く環境はそれらでは手に負えないほどに強固に立ちふさがります。世の中は大体どうしようもありません。僕の経験では、大きな流れに抗っても疲弊が進み、力尽きたところで再び流されます。それはどうしようもありませんが、ならば抗うことに意味はないのかということです。流れに一石を投じたとしても、上流から下流へ流れるということは変わりません。でも、少しはその軌跡が変わるかもしれません。

 時間とともに収束するであろう物語を、少しでも自分の思ったとおりに変えようとすることは、仕方のないもので溢れている世の中であるからこそ、強く求めてしまうのかもしれません。

 

 少年と少女のボーイミーツガールのお話は一般的に綺麗な物語です。しかし、甘い水の物語の中では他人の幸福に配慮しない、無思慮な他人たちのせいで、その綺麗なものが傷つけられてしまいます。綺麗な場所に汚れたものを置くと、そこは汚れた場所に変わってしまいますが、汚れた場所に綺麗なものを置いても、そこは汚れた場所のままです。つまり、綺麗なものを綺麗なままにしておくためには、そこから汚いものを徹底的に排除する必要があります。

 それは言うなれば暴力であり、綺麗な物語というものは、それを邪魔する汚いものを排除する暴力をもってしてしか成立しないのではないでしょうか?綺麗なものを守るためには、そこに暴力的に抗うしかなく、戦わなければなりません。

 

 松本剛の漫画を読んでいてとても良いと思うのは、その過程のそれぞれの登場人物の感情の解像度です。微細な心の動きが、言葉と絵でさりげなく、しかしくっきりと綴られます。甘い水の主人公である少年と少女の繊細な心の動きが、ままならない環境の中で、思い通りに動かないもどかしさと、喜びと悲しみと、期待と不安と衝撃と絶望とが、ただただ描かれ、読者の僕はそれを咀嚼することになります。

 なぜ人間は物語を読むのだろうかということは前々から考えているのですが、これだ!という答えにはまだ辿り着いていません。しかし、確かなのは読みたいから読んでいるということです。それが、嬉しく楽しい話だけでなく、悲しく辛い話であったとしてもです。物語を読むということは、とても個人的な行為だと思っています。作者にはその作品を通じて、何かしら伝えたいことがあるのかもしれませんが、あらゆるコミュニケーションがそうであるように、それが100%伝わることはとても難しいです。

 なので、読者はある種の勘違いをしながらその物語を読んでいて、それは、もはや作者の手を離れた個人的な体験です。漫画で言えば、あるコマとあるコマの間には差分がありますが、そのコマ間に込められたものは、描かれてはいないので自分で埋めるしかありません。最近の考えでは、その隙間を自分で埋める行為こそが、物語を読み進める原動力ではないかと思っていて、物語を読むという状況に合わせて必要なピースが自分の中に沢山の生まれてくるという状態に快楽を得ているのかもしれません。

 

 甘い水は、語り出しの時点から、その結末が別れであることが示唆された物語です。それは猥雑に安定してしまった大人になってから振り返られる青春のひとときです。様々な大人たちの事情によって汚されてしまうものの中から、ほんの僅かな時間だけでも、暴力的にでもそれらを排除して生まれた、つかの間の綺麗な場所の記憶であるように思います。

 気を抜けばすぐに猥雑になってしまう世の中において、少年と少女が作り出した、一瞬の綺麗な場所がそこにあり、そして、それが永遠に続くわけではないという儚さを思うわけです。誰しもがどうしようもなく埋もれてしまうような増大するエントロピーに、その一瞬抗う力が存在したということを感じるために、この物語を読んだような気がしました。

個々人が持つ情報量は絶対値をとれば大差ないんじゃないか関連

 人間の認知には限界があるんじゃないかと思います。

 目にするもの耳にするもの、その他色々な方法で体験するもの、ひとそれぞれあるでしょうけれど、時間は誰にでも平等ですし(重力に極端な変化がない限り)、様々な感覚器から得た情報を処理できる量も大差はないのではないでしょうか?つまり何が言いたいかというと、何かを詳しく知っている人は、それを知る代償として他の何かを知らない可能性が高いですし、あらゆることについて全て詳しい人なんて存在し得ないのではないかということです。

 人間は「自分が知っていることを他人が知らないこと」には敏感ですけど、「自分が知らないことを他人が知っていること」には鈍感というか、そもそも知らないんだからその人が詳しいことにも気づきにくいんじゃないかと思います。そう考えると、「自分は知っているのに相手は知らない」ということにばかり気づいてしまい、周りにいる人たちは自分より何も知らない人ばかりだ!!と思ったりしてしまう可能性が高い。

 あるいは、情報について自分の都合で重みづけをしてしまうこともあります。つまり、「自分が知っていることは重要だけれど、相手が知っていることは重要ではない」と考えるやり方です。ある人は、「漫画に詳しくても何も役に立たないので意味がない」と考えるかもしれませんし、またある人は「野球に詳しくても何も役に立たないじゃないか」と考えるかもしれません。学問的な情報であれば、重要と考える人が多いかもしれませんが、学校の勉強なんて社会では役に立たないと言ってのける人もいます。

 相手がよく知っていることについては大した価値のないこと、自分がよく知っていることについては非常に重要なことというような重みづけをすることで、総体としての情報量は実は同じぐらいだったとしても、物知りと物知りでないということに実際以上に大きな差を感じることができるようになります。

 

 このようにして、本当はそれぞれの人が持っている情報量の総体には大差がないのに、自分は普通の人よりも物知りだと思い込んでしまうということはよくあることなのではないでしょうか?その逆に、自分が知っていることなど大した価値がないと思い込み、他の人たちはなんて役に立つことばかり知っているのだろうか…と自信を無くしてしまうなんてタイプの人もいるでしょう。

 実際に、それらの情報が、仕事上の稼ぎに繋がりやすいかという指標ももちろんあります。お金に変換しやすい情報もあるでしょうし、まったくそれには向かない情報もあるでしょう。だとしても、それがお金として評価しづらいものであったとしても、あるいは、他人の注目を集めるような面白いものではなかったとしても、それでも、その人の持つその情報がユニークで、そこにしかないものであったりするということも事実だと思っています。

 

 さて、時間は平等と言いましたが、不平等な場合もあります。例えば、単純に年齢差がある場合です。早く生まれた人は、遅く生まれた人よりも人生が長いので、そのぶん多くの情報を持つことができます。

 小さな子供と接すれば、その子が知っているようなことは自分は全部知っていると感じることもできるかもしれません。ただ、子供が知っているようなことを自分が知らないことも多々あり、「大人なのにそんなことも知らんの?」と子供にバカにされたりもします(かわいい)。昔、妹にポケモンの名前を全然知らないことで馬鹿にされたことがあったので、くやしくて「ポケモン言えるかな?」の歌詞を覚えました。

 これはまさに前述の効果で、その子が知っているその子にとって重要なことを僕が知らないことで、僕が物を知らない人と判断されてしまったケースです。その子が知らないで、僕が知っていることについては、その場において考慮されることはありません。

 

 人間は自分に価値があると思いたいわけじゃないですか。というか自分に価値がないと思いながら生きるのは辛いってことですよ。だから、自分に価値があると思える理由を探すわけなんですけど、その理由の分かりやすいもののひとつが「自分は他人より優れている」ってことなんじゃないかと思います。優れている自分には価値があるぞ!って思いたいわけですけど、これを物知りかどうかの分野でするとして、僕が思うようにあらゆる人がもつ情報量には実は大差がないとすると、そう思うことは難しいということになってしまいます。

 だから、自分より時間的に不利な若者を見て、このような若者はあれも知らないこれも知らないと、自分が知っていて若者が知らない話をしようとしたりしてしまう人がいるんじゃないでしょうか?そして、相手が自分と歳が近かったり自分より年上の人である場合は、自分が得意な分野を意味があるものとして、自分が得意ではない分野を意味がないものとして、自分が有利になるように都合の良い重みづけをすることでそれを達成しようとしてしまうんじゃないでしょうか?

 

 それをすることが良いか悪いかは分かりませんけど、自分に自信を持つためにそうしてしまうのだとしたら、それはある程度仕方のないことなのかもしれません。

 僕も少なからずそういうことをして生きているんだと思うんですけど、仮にある分野で自分が他人より何かをよく知っていたとしても、その他人はきっと自分が知らない何かを知っていて、それはその人にとって重要な重みづけをする何かだったりするんだろうなというお互い様的な考えを持つことは意識しています。

 

 僕は漫画は結構読んでいる方なんじゃないかと思うので、すごく詳しいと思われたりすることもたまにあるんですけど、実際はちっともそうではないなあと思っていて、僕が読んでいなくて、他の人が読んでいる漫画の方がずっと多いと思います。でも、実際会話をしていると、僕が読んでいて他の人が読んでいない漫画の話になることが多かったりするんですよね。それはきっとそういうとき、話題の選択の主導権を僕が持っているだけってことだと思います。

 主導権があるならば、必然的に僕は僕が知っている漫画の話ばかりをしますし、それは僕が知っていることは確実なのに、相手が知っているとは限りませんから、結果的に僕が実態以上に沢山の漫画を網羅的に知っている人というような雰囲気になってしまったりします。そういう空気にしばらくいると勘違いして、僕はすごく詳しい人だぞ!!みたいな気分になってしまったりしてた時期もあるのですが(二十代前半ぐらいのとき)、年齢を重ねて冷静に自分を見るようになってくると、全然そんなことはないことが分かるわけですし、沢山知っていて詳しいから価値がある人であるぞよ~みたいな感じに自分を見るのは実態として間違っているし、そういうところに自分の大事なものを置くのは危う過ぎるなと思ってやめてしまいました。

 

 この関連、自分を省みるとほんとよくないと思っていて、自分はその分野で詳しい人であるぞよ~みたいな認識を維持しようとし続けると、場合によっては自分が知らないものを「読む価値がない」などと貶めることが最適解になったりします。自分が読んでいる漫画は価値がある漫画、自分が読んでいない漫画は価値がない漫画ということにすれば、自分は常に価値がある漫画に詳しい人でいることができます。こういうのはもちろん漫画に限った話ではないです。

 僕も既に若者ではなくおじさんなので、オタクの老い方みたいなのをたまに考えるようになってきたんですけど、なんでも貪欲に読む元気やそのための空き時間がなくなってきたにも関わらず、自分が一番詳しいんだ!と思おうとするのは、やっぱり辛いですよ。そう思い続けられるようにするなら都合よく認識を歪めていくしかないですし、歪めていけばいくほどに、他人にケチをつけるばかりの人になってしまいそうです。そうなると、相手がたまたまケチをつけられて喜ぶタイプの人でないならば、きっと会話を積極的にしてくれなくなってしまうでしょう?なぜなら自分の趣味にケチをつけてばっかりくる嫌な人だと思われるだろうからです。

 

 そのような考えによって、僕は自分がオタクとして良い感じに老いていくには、その分野にすごく詳しい人であるということに価値を見出すようなことはすべきではないなと思うようになっていて、自分が知っているのはすごく広い全体のごくごく一部であって、でも、そこがすごく好きなんだなあという気持ちを大切にしていくことだなあと思っています。

 そして同時に、他の人にもその領域があるわけじゃないですか。それが仮に自分の領域とは全く交わらなかったとしても。自分のその領域が素晴らしいと思うように、他の人のその領域も同様に素晴らしいものだと思うわけですよ。

 少なくとも今現在はそういう気分なので、そういうことを忘れずにいたいですね。

 

 ※この文章は、僕という人間が「すごく感じのよい人だな」と思われたいというような気持ちによって書かれました。できればそう読んでください。

映画「ドリーム」をダシにした価値あるものを価値があると言い続ける話関連

 「ドリーム(原題はHidden Figures)」は、アメリカのNASAの宇宙開発計画の中にいた3人の非白人女性を描いた物語です。原作はノンフィクションで、それは、コンピュータという言葉の主たる意味が、現在のように計算機械のみではなく、まだ数値計算を行う人間のことも意味していた時代のお話です。彼女たち3人はそれぞれの立場で、NASAにおける宇宙ロケット計画に貢献しました。そんなノンフィクションを元にして、描かれた物語がこの映画です。

 

 この映画、すごくよかったですが、よかったところのひとつは、「価値があるものに価値があるということを認めさせるには、それに価値があると言い続けなければならない」ということを思ったことでした。これがなかなかできないわけですよ。これには価値があると認めるべきだと主張しても、こつこつ壁にあたって、気持ちが萎えていくものじゃないですか。少なくとも僕はすぐに諦めてしまうので、これは僕にとってはすごく価値のあるもので、僕は価値があるとすごく思うけれど…でも、世間ではそうでなくても別にいいやと諦めてしまったりしています。

 彼女たち3人は計画を遂行する上で価値のある女性でした。ロケットの軌道計算を行う上で力を発揮するキャサリン、エンジニアとして関わったメアリー、非白人の計算士たち(コンピュータ)を取りまとめIBMの計算機械(コンピュータ)を使えるようにしたドロシー、それぞれが非凡な役割を果たし、マーキュリー計画を成功に導くために尽力しました(もちろんその後も活躍するでしょう)。

 しかし、そんな非凡な彼女たちの前に立ちはだかるのが非白人であるという差別的障害です。その部署においてたった一人の非白人であるキャサリンは、重要な会議に出席させてもらえず、飲むコーヒーもトイレの場所も別。その能力を十分に発揮する環境をなかなか整えて貰えません。メアリーもエンジニアとしての資格を得るためには、白人専用の学校に通う必要があると突っぱねられます。ドロシーは管理職相当の仕事をしていながらも、管理職としてのの立場も報酬も得ることができません。

 彼女たちの前には白人か白人でないかということが立ちはだかってきます。それは彼女たちの仕事について関係のあることでしょうか?彼女たちが発揮した数学的、工学的、計算機科学的な能力に人種が関係したでしょうか?それらの区別は非人道的であり、意味がないということが理解され、共有されていく過程が物語の中で描かれます。そしてプロジェクトが成功したとき、その影に彼女たちの姿が不可欠であったということが示されます。

 それは彼女たちに価値があることを認めた人々がいたからこそ成し得たことでしょう。この映画が反人種差別の物語かと言えば、それを言い切るのはなかなか難しいところです。なぜなら、彼女たちが非凡な存在だからです。差別をなくすということは、たとえその人の能力が求められるものに対して低かったとしても、その人の人格が悪辣に見えるものであったとしても、それでもなくすということだと思うからです。被差別者であったとしても、有能ならば例外として扱われるということは、差別構造の撤廃という遠大な目標にはまだ遠いことです。

 その意味で、この映画ではまだ差別が解消された情景が描かれたわけではないでしょう。しかしながら、作中でも言及されているように、その最初の1人になったということの意義があるはずです。例えばメアリーは白人の学校に入学した初めての非白人となることを勝ち取りました。先例は次の例を、そしてさらに次の例を生み出し続けるための重要な一歩です。

 非白人に対する差別というものは、未だなくなったものであるとは言い難いでしょう。作中の舞台になった自体から半世紀以上が経っても、人間と人間が、同じ人間であるということだけで完全に平等になるということは難しい。「差別はいけないことだ」、そのお題目を誰しもが認識していたとしても、実際はそうはならなかったりするわけじゃないですか。

 

 結局いつの時代もどんな場所でも、何かに価値があるということになるためには、誰かがその何かに価値があるということを主張し続けなければならないのではないでしょうか?それをやり続ける人がいなければ、その価値は容易に世間から忘れられ、消え去ってしまったりするのではないかと思います。

 

 さて、話は変わりますが、ここしばらく劇画狼さんの動向を尊敬しながら見ているということがあります。僕はここ1年ぐらいで梶本レイカの漫画がすごく好きになったので今も連載を追いかけているのですが、梶本レイカは「コオリオニ」の出版後、一度漫画家を廃業しており、そこから復活したわけですよ。その裏に劇画狼さんの活動があったわけですよ。なぜ廃業したかというと単行本が売れなかったからだそうですが、僕が「コオリオニ」の単行本を手に取ったときには既に廃業宣言が出ており、それを知ってとてつもなく悲しくなったわけです。

 それはきっと面白いとか面白くないとか、それを判断される前に、十分な数の人に読まれる前に決着してしまったことです。僕は連載時には、単行本が出てからも、その存在すら知らなかったのですから。

 僕がその単行本を手に取ったのは、知り合いのおすすめからなのですが、おそらく劇画狼さんによる「コオリオニ」激プッシュの結果が巡り巡ったことだと思っていて、そして、そこからの梶本レイカの復帰と新連載の開始ですよ。「悪魔を憐れむ歌」ですよ。単行本も出るわけです(12月には2巻も出ます)。

 

 その漫画に価値があると、それが手遅れのようなタイミングであったとしても言い続けた人がいるわけでしょう。それがどれほどの価値がある行為かって話ですよ。なんせその結果、新しい漫画が読めるんですから。単行本も出るんですから。

 

 僕は物分りのいい人間で、それは裏返すとどうかというと、すぐ諦めてしまうような人間なんですよ。好きな漫画の単行本が途中でなくなっても、そもそも単行本化されなくても、悲しいなあと思いながら我慢してしまいます。

 例えば、3巻以降単行本が出なかった「69デナシ」や、そもそも単行本が出なかった「博打流雲ナグモ」です。これらはのちのちコンビニ本で出て、買って、嬉しくなってしまったりしましたが、その前に、そうなる前に、もっとこの漫画は面白いと価値があると言うべきだったし、それをもっと共有すべきだったんじゃないですか???って思うわけじゃないですか。

 

 劇画狼さんは現在、谷口トモオの「サイコ工場」を復刻中です。谷口トモオもまた漫画家を既に廃業しており、元原稿も処分されてしまっていたものを、掲載誌の方からスキャンして復刻されているそうです。

 梶本レイカ漫画と谷口トモオ漫画には劇画狼さん以外にも共通点があると思っていて、それぞれに強いファンがいたということです。梶本レイカにはコオリオニbotさんが、谷口トモオには山本ニューさんがいます。梶本レイカファンブック(同人誌)や、サイコ工場のあとがきにおける作品解説を読むと、まあ詳しい。ほんと詳しく網羅的にこれまでの作品を追っていることが分かります。これまであまり人知れなかったとしても、ずっと追ってきていた人がいるという事実があるわけじゃないですか。

 

 ものは残らないし、ことも残らない方が普通です。技術の分野でも会社は存続しているのにその中で失われた技術があったりします。その詳細がもう誰にも分からないものなんてのもあったりするんですよ。それは伝わらなかったわけです。それに価値があることを認め、引き継ぐということを誰もしなかったということです。

 世の中のほとんどのものはきっと残らないわけですよ。今残っているものはきっと、どこかの誰かがそれに価値があり、残すべきだと思った結果です。良いものだから残ったわけじゃないでしょう。それを良いものだと認めて、後世に残すべきだと思った人たちが、残すための活動をしたからこそかろうじて残っているに過ぎないのではないかと僕は感じています。

 それがなければ、仮に世の中のどこかに物理的には残っている本でも、ないことと同じじゃないでしょうか。

 

 僕が日々、何かを買った、読んだ、面白かったと言い続けているのは、そのための微力です。微力でも、それが面白かったということ、自分にとって価値があったという事実を、残しておくべきじゃないかと感じているがゆえのことですよ。もし、自分がこんなにも面白いと思っているものが、大して知られないままになくなってしまったりしたら、とても悲しいじゃないですか。

 僕が今している話は、「価値あるものを見つける目がない大衆どもが…」みたいな話ではないんですよ。漫画ひとつとっても世の中に無数にあり、毎日たくさんの新刊が出ています。僕が知らない漫画も無数にあって、それらが知られすらしないままに消えていくことだってきっとあるでしょう。

 僕もまた見る目がなく探す力もない人間のひとりなわけです。でも、せめて自分が面白いと思った漫画についてぐらい、これには価値があると言うしかないじゃないですか。それにどれほどの力があるか、いや、きっとほとんどないんでしょうけど、それでもやらなければ確実にゼロなんですから。

 

 価値があると自分が感じたものについては、価値があると言い続けていきたいなと、それをそうしている人を見て思ったし、自分もできるだけそうしていきたいと思っているという話でした。

幽遊白書に隠された予言

 幽遊白書魔界の扉編において、主人公の幽助たちは、人間界と魔界を繋ぐ界境トンネルを開けようと目論む、仙水たちと戦うことになります。仙水たちは7人組で、それぞれにコードネームがついています。

 

 

 これらのコードネームは彼らの領域(テリトリー)という能力を示唆するものですが、妖怪である門番(ゲートキーパー)の樹と、暗黒天使(ダークエンジェル)の仙水は例外的に領域能力者ではありません。ただし、樹は闇撫という妖怪で、界境トンネルを開くのは彼の妖怪としての能力なので、門番という名前もふさわしいと思います。しかし、では仙水の暗黒天使とは、一体全体どういう意味なのでしょうか?

 

 仙水は聖光気という特別な気を操り、それによって自然と一体化するような力を発揮する、時代が時代なら天使と呼ばれたであろう存在です。なので、暗黒天使という名前はその能力を示していると解釈できますが、だからといって、自分で自分に暗黒天使というコードネームをつけますかね?もし自分で進んでつけたのなら、これはいよいよアレだなという感じになります。この仙水という男はきっとアレなヤツだぞ!ということになります。

 

 何を思ってこんな名前を付けたのかと、先日、識者と討議をしましたが、結論としては、樹が悪ふざけでつけたのでは?という推定となりました。

f:id:oskdgkmgkkk:20171017002708j:plain

 幼き頃から、その霊能力により妖怪に付け狙われ、当たり前のように襲いくる妖怪たちを殺し続けてきた仙水は、妖怪である樹がある種の人間臭さを見せたことにビックリしてしまいます。そして仙水がそんな樹に見せたのは、あまりに無垢な素顔でした。仙水は、意味も分からず命を狙ってくる妖怪と戦いながら、自分は正義の戦士で、人間を守るのが自分使命と考えてしまったような純粋な少年でした。樹は、そんな仙水が人間の汚い部分を見続けることで、次第に傷ついていく様子をただ見守ったそうです。

 樹はそういう男です。自分にとって大切な存在である無垢な仙水が、ただ傷ついていくことに下卑た快感を感じてしまうような男です。そんな樹は、暗黒天使というコードネームを自ら名乗るようになった仙水を見て、どう思ったのでしょうか?

 ひょっとしたらそれは、インターネットを使い始めたばかりの中学生が、きっといつかは後悔するであろうイキッた言動をしているのを、見守ってしまうおっさん(例えば僕たちのような)の気持ちと同じなのではないでしょうか?

 将来きっと後悔するから、と止めることだけが愛ではないでしょう?いつか気づいて後悔し、それでも生きていくことを含めて、その人の人生じゃあないですか。転ばないように手助けするのではなく、自分の足で立ちあがるまでを見守る姿勢だってあるはずです。あるいは、立ち上がれなかったとしても、そうであったということを悪とせず、ただ見守ることだっていいはずです。それらを含めて全てを愛するという立場だってあるはずです。

 

樹「オレは彼が傷つき汚れ堕ちていく様をただ見ていたかった」

 

 さて、以上は完全な想像ですが、識者との討議の中で、また別の完全な新説にも行き当たりました。それは幽遊白書という漫画がある種の予言書なのではないか?ということです。聖書に暗号として隠された予言があるという話のように、幽遊白書にも現代の「あるもの」が密かに予言されていた可能性があります。

 

 では、それは何か?

 

 暗黒天使とはすなわち、芸人の暗黒天使(東京NSC10期生)のことでしょう。芸人の暗黒天使といえば、ハンマミーヤの一木(東京NSC11期生)とともに、工藤静香石橋貴明による「A.S.A.P.」のモノマネをするネタでお馴染みです。ハンマミーヤの一木(いちき)、これはひょっとするとゲートキーパーの樹が暗示していた人物なのではないでしょうか?

 さらに、仙水が魔界と人間界の間に穴をあけようとしたのは、人間が嫌いな仙水は、魔界を訪れ、魔界で死にたかったからです。病魔に侵され、老いさき短いことが分かった仙水の中で、この欲望は爆発してしまいました。もはや時間がなかったのです。可能な限り早く、彼は魔界への穴をあけなければなりませんでした。可能な限り早く、つまりAs Soon As Possible⇒A.S.A.P.です。

 

 つまり、暗黒天使(ダークエンジェル)の仙水と、門番(ゲートキーパー)の樹が、可能な限り早く魔界への穴を開けようとすること自体が、暗黒天使とハンマミーヤの一木が「A.S.A.P」を歌うネタを暗示していた可能性があるということです。

 

 さあ、どうでしょうか???(なんとこれでおわりです)

ジョジョの奇妙な麻雀の思い出関連

 数日前になんとなくした思い出話がうっかり軽くバズってびっくりしてしまいましたが、ほとぼりも冷めたようなので、安心してもうちょっと細かい話を書きます。

 

 

 ジョジョの奇妙な麻雀というのは、学生の頃にたまにやっていた特殊なルールの麻雀です。一局始まる前にタロットカードを引き、そこに暗示されているスタンド能力を1回使うことができます。念のため書いておくと、スタンド能力とはジョジョの奇妙な冒険に登場する超能力のようなものですが、ここから先に書くことはジョジョの奇妙な冒険の第三部を読んでいないと意味が理解できないことが多々あると思います(免責)。

 

f:id:oskdgkmgkkk:20171015160615p:plain

 ルールは本当に単純に「一局始まる前にタロットカードを引いてスタンドを決める」と「スタンド能力と称したものを1回だけ使っていい」だけです。そして、各スタンド能力をどのように解釈して使うかは使用者の自由です。ただし、使い方に対しては場にいる人たちの合意を得る必要があり、あまりにも理解しがたい使い方をしようとするとチョンボ(罰符8000点)扱いになります。

 能力の使用前にどように使うか確認すればチョンボにならずに却下されるので安全ですが、いきなりやった方が笑えることも多々あるので難しいところです。

 

 このゲームの基本原則は「楽しいこと」です。楽しければ他はだいたいよいということをモットーにしているので、仮にめちゃくちゃな解釈をした使い方だとしても、面白いからオッケーとなったり、場合によっては適当な理由でダメになったりもします。

 そこにあるのはコミュニケーションで、勝ち負けよりも、どれだけ笑いながら遊び続けられるかが重要とされていました。この遊びに限らず、学生時分はどれだけ面白いかが最重要だったので、他のこと(例えば勝ち負けとか)は二の次三の次という感じでしたね。なので、各スタンド能力の使い方については厳密にルールで規定せず、その場その場にいる人の中でアリかナシかを都度判定しながら遊びました。

 

 また、このゲームをやるときに最低限必要な条件があります。それは、参加者全員がジョジョの奇妙な冒険が好きだということです。でなければ、楽しくはならないような気がします。あと、麻雀卓の近くにジョジョの単行本(ルールブック)が全巻あるとよいです。

 

 さて、僕がすごく好きだったスタンド能力は、最初のツイートにもあったように、「星」のカード、空条承太郎の「スタープラチナ」です。この能力では「スターフィンガー!!」と言いながら、盤面の好きなところから牌を引いてくるものが流行りました。

 これはある先輩がやり始めたやつで、僕らもやっていましたが、勢いがある無茶苦茶な動作かつ、解釈もめちゃくちゃなので、毎回笑ってしまいました。文字で読むだけだとあんまりかもしれませんが、実際に仲の良い友達とやってみたらいいと思います。僕はめっちゃ面白かったです。

 

 他に分かりやすく使えるのは「世界」のカードです。ディオの「ザ・ワールド」の能力によって時を止めることができます。この能力を使うときには、「今から時間を9秒止めます」などと宣言したりするのですが、場合によっては「まだ、君とジョナサンの肉体がそんなになじんでいるとは思えないからダメ」という主観的な言いがかりがついて5秒に短縮されたりしました。

 このように何秒止められるかはその場で適当に決められますが、この止まった時間の中では、相手の手牌を見たり、自分の手牌をすり変えたりできるようになります。強いです。でも、数秒レベルの時止めだと、できることはせいぜいひとつかふたつぐらいでしょう。

 なお、相手の手牌を確認したいときは例えば「隠者」のカード、ハーミットパープルを使うことで、相手の手牌を携帯のカメラで撮ったりすることの方が確実性が高かったです。

 

 スタンド能力には、麻雀の中で使いやすいものもあれば、使いにくいものもあります。それらをどのように麻雀に有利になるかを解釈して使うかに、ジョジョの奇妙な麻雀の一番楽しいところだと思います。

 ある人は「戦車」のカードを引いたことで、ポルナレフの「シルバーチャリオッツ」が使えることになり、椅子で反り返って「ブラボー!おお…ブラボー!!」と漫画の再現をしたということがありました。麻雀的には全く意味がありませんでしたが、面白かったのでアリとし、その人はその局でのスタンド能力を使用済みとして失ってしまいました。

 

 「法皇」のカード、ハイエロファントグリーンは使い勝手がよかったおぼえがあります。エメラルドスプラッシュと言えば、牌を色んなところに動かすことができるので、捨て牌を他家の河に流したり、次のツモ牌として送り込んだりすることが認められてたと思います。ただ、目の前の山をエメラルドスプラッシュと言いながらぐちゃぐちゃにして流局にしようとしたやつはチョンボになりました(楽しくないので)。

 麻雀として使いにくいスタンド能力も色々あります。しかし、それこそ、どのように使うかが試されるので、チャンスかもしれません。

 

 この遊びを実際にやってみる場合は、その場その場で自由に発想した方が面白いと思っていますが(使い方を提案して、協議されることも遊びの一部なので)、参考までに各カードをどのように使ったことがあるかを列挙しておきます。なお、使われ方をおぼえていないカードもいくつかあったので、今適当に足したりもしました。

 

■愚者(ザ・フール)

 ・ロンをされたときに牌を空を飛ばせて回避、手牌に戻す

 ・砂の鎧に身を隠し、手を1回飛ばす

■魔術師(マジシャンズレッド
 ・「モハメド・アブドゥル」と呼ばれると「Yes, I am」と答えてよい(麻雀的に意味なし)
 ・探知機の能力で、ダマテンを自己申告させることができる(無申告であがるとチョンボ

■女教皇(ハイプリエステス)
 ・変身能力で、白をオールマイティ牌扱いする

■女帝(エンプレス)
 ・食欲旺盛で、下家や対面からでもチーできる

■皇帝(エンペラー)
 ・ポルナレフの鼻の穴に指を突っ込むと1飜アップ

教皇ハイエロファントグリーン
 ・エメラルドスプラッシュと言いながら自分の捨て牌を他人の河などに置く

 ・「きさまこのゲームやりこんでいるなッ」にうっかり「答える必要はない」と返事をすると、タロット使用権を失う

■恋人(ラバーズ)
 ・自分が切った牌と同じ牌を残りの3人に切らせる

■戦車(シルバーチャリオッツ
 ・反り返って「おお、ブラボー」と言う(麻雀的に意味なし)
 ・鎧を脱いで素早くなり、2回連続でツモれる

■正義(ジャスティス)
 ・他家を操作し、何番目の牌を切るかを指定できる

■隠者(ハーミットパープル)
 ・念写として携帯で相手の手牌や裏ドラなどの写真を撮れる

■運命の輪(ホウイールオブフォーチュン)
 ・四筒を自動車(四輪)に見立ててドラ扱い
 ・大車輪(ローカル役)を鳴きありでも成立とする

■力(ストレングス)
 ・雀卓そのものが自分のスタンドと主張し、席順を変更させる

■吊るされた男(ハングドマン)
 ・誰か一人に目を瞑らせ、盲牌でのツモと牌を切らせることができる

 ・鏡で他家の手牌を覗き込む

■死神(デスサーティーン)
 ・捨て牌を鳴かれたりロンされたとき、夢だったことにして、一回やり直せる

■節制(イエローテンパランス
 ・捨て牌を鳴かれたりロンされたとき、別の牌に交換できる

■悪魔(エボニーデビル
 ・恨みを力にすることで点数の順位によって飜数を上乗せできる(1位ならなにもなし)
 ・他を切り刻まれてもキンタマだけは傷つけられることがない(麻雀的に意味なし)

■塔(タワーオブグレー
 ・舌を攻撃して、他家の鳴きを禁じることができる

■星(スタープラチナ
 ・スターフィンガーと言いながら卓の上のどの牌でもとれる
 ・時間を止めたことにして好きなことができる(秒数は要相談最大5秒)
 ・場に法皇のカードを持つ人がいる場合、「花京院の魂をかける」と言いリーチ棒を出させることができる

■月(ダークブルームーン
 ・「シブいねェ まったくおたくシブいぜ」と言う(麻雀的に意味なし)(でも言いたい)

 ・力を吸い取って特定の役を無効化できる

■太陽(ザ・サン
 ・一筒を太陽に見立ててドラ扱い
 ・本体が鏡を利用して隠れていたことに見立て、捨て牌を伏せて出せる
 ・懐中電灯を他家に向けて煽る(麻雀的に意味なし)(人間関係的に問題のおそれ)

■審判(ジャッジメント
 ・三つの願いを叶えてやることから、目の前の三人から当たり牌を聞き出せる

■世界(ザ・ワールド)
 ・時間を止めたことにして好きなことができる(秒数は要相談最大9秒)
 ・星あるいは隠者のカードを持つ人から鳴くと、ジョナサンの肉体が馴染んで1飜上がる

 

 妥当っぽい使われ方も、むちゃくちゃな使われ方もしていると思います。楽しかった思い出の断片です。みなさんも、仲の良いジョジョ好きの友達と、楽しく遊んでみるといいかもしれませんね。