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「からくりサーカス」のアニメでジョージ・ラローシュはピアノをまた弾いてねと言ってもらえるのか??

 「からくりサーカス」のアニメは全43巻をたった36話でやりきるという厳しい前提のもとに作られているアニメで、当然その全てをやりきることはできませんから、原作漫画の中から取捨選択をし、爆速で話が進められるという感じになっています。

 これは正直、原作ファンとしては辛いところもあるところはあって、なぜなら気づいてしまうからです。原作を知っているがゆえにその中から「何が省略されているか」ということにです。

 

 人間は期待をしてしまう生き物だと思うのです。そして、その期待が達されなかったときに、がっかりしてしまうのだと思うのです。それは、生理的なレベルの話なので、きっと仕方がないんですよ。だからそうなりそうなときには、期待をしないでおくことが重要です。

 

 しかしながら、そうは簡単にいかない事情もあります。

 僕が思うに、物語を読むのは2回目以降がより感動してしまったりするんですよ。なぜなら、自分からそれを受け止めに行けるからです。この次に何が起こるのか?それを既に知っているがゆえに、笑いたいときは笑う準備をし、泣きたいときは泣く準備をします。全力で。もしここで笑ってしまうと、次悲しくなるんじゃないだろうか?とか、ここで泣いてしまっても肩透かしになってしまうんじゃないだろうか?とか、先の展開への不明の不安から、自分の選択に迷いを残し、おっかなびっくりドキドキ見てしまう…そんな1回目も新鮮な感情で楽しいですが、先が分かっているからこそ思う存分に感情を解放する2回目以降があるわけです。それはそれでめちゃくちゃよくて、だから僕は同じ漫画を何回も何回も読みます。なぜなら、それがめちゃくちゃ気持ちいいからです。

 

 何かが省略されるかもしれないアニメではその2回目以降に作用する気持ちが逆に働く可能性があります。あの言葉や、あの表情や、あの行動が、次に来ると思い、「来るぞ来るぞ…」と思う存分味わう気まんまんでいると、省略されていて来なかったりするわけです。となると、おいおいおい!!この感情どないしたらええんや!!となってしまうじゃないですか。

 

 だから、それを期待はしてはいけないわけですよ。意識的に精神をその状態に持っていかなければなりません。まるで初めて漫画を読んだときのように、自分の中で記憶を切り離して、アニメに集中します。そうしなければ、あれがなかった、これがなかったという話をするしかないじゃないですか。で、それって個人的にはつまらない気持ちなんですよね。だからやりたくない。

 

 そんな気持ちを抱えながらアニメを見ているわけですが、でも、今のところアニメを見ていてよかったなという気持ちは十分あって、特に古川登志夫の演じるキャラがめちゃくちゃいいですね。これが聞けただけで、それだけでももう十分アニメを見てよかったなという気持ちがあります。自分が好きな場面が、映像となり、音や声がつくの、めちゃくちゃ嬉しいじゃないですか。

 そんな感じに楽しく見ているわけなんですよ。

 

 さて、からくりサーカスがアニメ化されると聞いたとき、これはどこかを省略するしかないよなあというのは分かったので、じゃあ、何が削られるのかな?と思うわけです。黒賀村での勝の修行編などは、本編の進行上は削られても仕方ないだろうなと思っていて、いや、でもいいエピソードあるんですよ。シルベストリとかね、最後に日常が崩壊するときの絶望感とかね、パンツとか、ビッグサクセスとか、アンラッキーとかあるわけですけど、でも、削られるならここかな?という感じもしました。そして、案の定、全部省略されていることを確認しました。

 

 でもね、省略されるかされないか、微妙なところにいる人がいるわけですよ。僕は彼のことがめちゃくちゃ好きで、その名前はジョージ・ラローシュと言います。

 

 彼は生命の水を飲んだ不死の超越者ことしろがねになっただけでなく、その身を機械で改造したしろがね-Oとして最初に登場した男です。彼はその身の一部を機械に置き換えたときに、心までそうしたように感情を排除した合理的な男で、それゆえにかつては自分も疾患していたゾナハ病患者の子供にも辛く当たります。彼にとってはその子供から憎き自動人形の情報を得ることこそが重要だからです。

 彼は自分は優れた存在であって、優れているからこそ価値があると思いあがった男ですが、その思い上がりは人間味を人間味のスープに入れて煮込んだような男、鳴海によって否定されてしまいます。

 襲い来る自動人形に無残にも負けてしまったジョージは、その身を悪魔と化し、圧倒的な暴力によって人形破壊者、それそのものの権化となった鳴海の姿を目にします。自分には価値がある、なぜなら強いのだからという考えは、自分が弱き者であることを自覚したときに脆くも崩れ去ってしまいます。

 

 人間とは何か?人形とは何か?人形に敵対するために超越者となったジョージは、人形と戦うために、人間よりも人形に近い存在となり、そうしてまで強くあろうとしたのに、結果は敗北なわけですよ。ジョージは、他のしろがね-Oたちからも戦力外通告されてしまうわけです。悲しいですね。悲しいでしょう?そう思いませんか??

 

 そしてアニメでは、そんなジョージの最初の登場時の役割がギィに取って代わられてしまいます。これを見たときには、ショックがありましたね。ジョージがいなかったことになるのか??と思ったからです。でも、すぐに気を持ち直したのは、ネットで見た声優情報の中にジョージの声の情報があったからですね。よかった、いる、重要な役割はギィにとられてしまったけれど、彼は存在しているんだ!!と希望が持てました。

 

 ジョージはあんまりいいところがないです。自信満々で登場したのに、いいところないんですよ。でもね、彼はひょっとすると、このからくりサーカスという物語そのものを体現しているかのような存在じゃないかと思ったりもするんですよ。

 それは誰かに操られる人形と、自分の意志で生きる人間の狭間で思い悩む男だからです。

 

 子供の頃、ピアノを練習していたジョージは厳しい指導の中で自信を奪われました。お前は譜面を再生するだけの機械でしかないと言われてしまうからです。譜面が運命であるならば、彼の人生もまた、それに翻弄されるしかないか弱い男ですよ。彼はそんな機械であり、機械でありながら精一杯の虚勢と、張りぼての自信とともに生きますが、そんなものは脆くも崩れてしまうわけです。

 

 彼は阿紫花という男に出会います。彼は人形繰りの暗殺者でありながら、幸運にも得た仕事で大金を手にした男です。しかしながら、そんな刺激のない毎日は彼を退屈させました。ジョージは阿紫花の前に現れ、自動人形との戦いへの参加を促します。阿紫花は目に光を戻し、その姿はジョージにも刺激を与えます。

 それは、ただひたすらに合理的であろうとしたジョージが、道の外にある非合理に足を踏み出すための意味ある刺激でした。

 

 自動人形たちが迫りくる中、子供たちは怯えました。自分たちにゾナハ病をもたらした自動人形たちが、再びやってくるのですから。それを紛らわせようと下手くそなサーカスを演じようとしたのが法安というジジイで、その姿を見て、ジョージは気まぐれにピアノの伴奏を買って出ます。

 かつては自分が怯えさせた子供たちの前で、下手くそな綱渡りが終わり、ピアノを弾く手を止めたジョージにもたらされたのは喝采でした。かつて機械でしかないと罵られたジョージのピアノは、子供たちにはとても魅力的に感じられたのです。

 

 「ピアノをまた弾いてね」

 

 子供たちからはこんな言葉がでました。それはジョージが今まで何をしても手に入れることができなかった、自分が喝采の中で求められるという体験です。

 ジョージは変わります。変わろうとする意志を持ちます。自動人形とともにやってきた、もはやしろがねですらなくなったOの男を前にして、ジョージは立ちふさがります。Oの男の装備はジョージの上位互換で、正面から戦っても勝ち目はありません。しかし、そんな勝てないはずの相手の前にジョージは立ち、非合理な行動をとるのです。ジョージは、阿紫花からもらった煙草を吸い、合理的に生きることを止めたことを宣言するのです。

 

 合理的とは何でしょうか?それはひょっとして誰かが決めた物差しに従って生きていただけじゃないのでしょうか?いや、それは生きていたとも言えないかもしれません。生きているフリだった、そうは言えないでしょうか?煙草を吸うことに合理的なメリットはありません。ならやらない方がいい。合理的な意見です。でも、その合理は、自分の人生から煙草を吸うという選択肢を奪ってしまいます。

 

 もしかして、その合理性というものは誰かが書いた譜面でしかないのではないでしょうか?

 

 自身が愚かであることも奪われ、誰かが決めた正しいことに寄り添わされて生きるということが、誰かに操られた人形でしかなかったのだとしたら、優れた人間であるために人形に近づいてしまったジョージはまさにそれです。でも、ジョージは人間でしょう?自らの意志を持ち、自分の行き先を自分で決めることができる人間じゃないですか。

 運命という地獄の機械に逆らい、たとえそれが愚かだとしても自分の進むべき道を切り開く人間の姿が、そこにはあるんじゃないでしょうか?

 

 「ピアノをまた弾いてね、と言われたんだ」

 

 ジョージはその言葉を何度も何度も反芻します。これまで自分がどれだけ望んでも手に入れられなかった言葉が、少しの気まぐれで脇道に逸れた場所で、まるで事故のように手に入ってしまったのです。それならば、これまでの合理的であることから一歩も踏み外せずに生きてしまっていた人生は何だったのでしょうか?ジョージは、ジョージの人生は、今この場からやっと始まったのではないでしょうか?

 

 「こんな私にだぞ!!」

 

 ジョージのこの言葉は何よりも悲しい。自分の価値を低く見積もってきたわけですよ。人間を超越したしろがねだと、しろがねをも超越したしろがね-Oだと、自分の外にあった価値を提供してくれる何かにすがって生きてきたのは全てそれを覆い隠すための虚勢だったわけですよ。自分は誰にも求められず、それゆえに、自分の外にある何かにすがって生きるしかなかった弱くて悲しい男の人生が、生まれて初めてやりたいことを見つけることができたかのように、輝き始めるわけですよ。

 

 最古のしろがねであるルシールは言いました。人生はスケッチブックのようだと。やっと描きたいものが決まった時には、それを取り上げられてしまうのだと。ジョージ・ラローシュの人生もまた同じです。彼の人生は、今まさに始まったところで、終焉を迎えます。

 結局死ぬのならば、生きることに意味はなかったのか?いや違うでしょう?鳴海の師匠、梁剣峰は爆薬による自爆を選択しながら、笑って死にました。

 

 「私は本物の人生を生きた」のだと。

 

 死は誰にでも訪れます。しろがねの人生は、それを考えれば長いぐらいです。でも、他人の人生を長く生きながらえるより、短く終わるとしても自分の人生を生きる方がいい。そんな不合理な選択をすることもできるわけですよ。自分の人生なら。ジョージ・ラローシュもやっと自分の人生に辿り着けたわけじゃないですか。

 

 だから、これは悲しい話であると同時に、幸福な話でもあります。

 

 で!!!明日あたりは時系列的に言えば、この話がアニメになるかどうかというところなわけですが、最初に書いたように期待はしてはいけないわけですよ。期待しちゃうとなかったときにがっかりしちゃいますからね。がっかりはしたくないんですよね。なぜならがっかりするからです。だからがっかりはしたくないので、気持ちを無に保ちます。

 

 果たしてアニメのジョージ・ラローシュは自分の人生を掴むことができるのか??できなくてもいいです。だって僕は知っています。原作漫画を読んでいますからね。だからどっちでもいい!どっちでもいいが、ジョージ・ラローシュにはこのような人生があったということを、皆も認識してくれ!!認識してくれよな!!という強い気持ちがあることを、ここに書き残しておくことにします。

「スプリガン」はオリハルコンだ!!関連

 超古代文明の遺産を秘密裏に発掘調査したり、悪い人間に利用されないように封印したりしている組織ことアーカムで活躍するエージェントは、スプリガンと呼ばれています。「スプリガン」はそんなスプリガンの一人であるところの御神苗優くんを主人公にした漫画です。

 

 超古代文明とは、正式な歴史には記載されていない、かつて存在した高度な文明で、現代以上の科学力で栄華を誇ったものの、何らかの理由で滅んでしまったという感じのやつです。その存在は、歴史書としては採用できないあやしげな文献や、当時の科学力では作ることができないような物体(オーパーツ)が存在することから喚起されたりしているものです。

 僕が子供の頃を過ごした90年代はオカルトブームもあり、僕個人の記憶では「三つ目がとおる」や「MMR」や「超頭脳シルバーウルフ」などなどがあって、「ムー」も読んでいて、超古代文明大好きっ子という感じでした。そんな中で読んだのがこのスプリガンで、僕はもう夢中だったわけなんですよね。

 

 スプリガンという漫画の特徴として僕が感じていたのは、その「受け入れる力」の強さです。超古代文明の超科学なオーパーツだけでなく、軍事大国のサイボーグ兵士やサイキック兵士、魔術や精霊や気功のようなものを全てそのまま同じ土俵で受け入れるだけの土壌がありました。

 超古代文明の話で出てきがちな理屈で、僕も当然好きなのは「神話の中に登場する超自然的な現象は、実は科学の文脈で説明できる」というもので、それが疑似科学的なものであったとしても、それによって不思議な現象に説明がつき、僕たちが生きているこの世界と同じ世界観に回収できるという面白みがあります。

 

 しかしながら、このような魔法的なものを疑似科学で回収するという試みは、とても面白い一方で、逆にその体系による制約も受けてしまいます。理屈があればあるほど、その理屈に反するものは存在できず、それが自由を縛ってしまう側面もあると思うからです。

 僕が関連すると思っている話ですが、ゲームの「レイトン教授vs逆転裁判」では、魔法が存在するという世界観の中での裁判(魔女裁判)が行われました。魔法という超自然的な概念が存在したとしても、そこに発動条件や効果における明確な理屈が存在すれば、それはマジックをロジックで取り扱えるということになります。このゲームは魔法の矛盾を追及して真実に至ることができるというとても面白いゲームでした。そしてそれはまた、何でもできそうな魔法なのに理屈で追及されて逃れられないという不自由さもあるということだったと思います。

 

 スプリガンでは、そのような超自然的なものを疑似科学的文脈で解釈すると同時に、魔法を魔法のままで取り扱うことも併存しています。分からないものは分からないままでよく、もし科学がさらに発展すれば、解明もできるかもしれないわね?的なところで受け止めているのです。

 それにより、魔術師や仙人vsサイボーグ兵士みたいな異色な戦いが成立しますし、科学で作られた強化服を着た主人公が、サイボーグ兵士に人間を豹に変える魔術を加えた科学と魔法のキメラのような存在と戦うというようなのも問題なく成立してしまうわけです。そして、その魔術の大本は、古代に地球に飛来した宇宙人だったりもします。それぞれ位相の異なる属性を持つ概念が、同じ土俵の上に乗るということ、それがこの何でも取り込む化け物のような面白い漫画の根底にあるのではないでしょうか?

 

 これはさながら作中に登場するオリハルコンのようです。スプリガンにおけるオリハルコンは、遺跡からまれに発掘される賢者の石と呼ばれるものから作り出される鉱物で、様々な別の金属と合金化することで全く異なる性質を発揮する不思議な存在です。例えば、人間の精神に感応したり、ものすごい硬度を発揮したりします。このオーパーツは、現代の科学力では到達できない未知の領域に、人間の手を届かせることができる踏み台となっています。

 スプリガンもまた同じです。失われた古代の超科学から、魔法、呪い、精霊、気、仙人、霊魂、宇宙人、そして現代の科学と、あらゆるものと違和感の壁を溶かして結合し、そこに物語が生まれていきます。

 

 なんかそういうのが似ている感じがしませんか??スプリガンオリハルコンは似ている気がしませんか??これは、なんとなくそういう感じがすると僕が思ったというとても曖昧な話です。

 

 「十分に発達した科学は魔法と区別がつかない」とはアーサー・C・クラークの言葉ですが、既知の科学と、魔法の間に、疑似科学や超科学で説明可能な領域あり、フィクションのリアリティは、その中のどこに点で設定されるかという個性があるように思います。スプリガンはそれを幅をとって、ここからここまで全部オッケーとなっているところが面白くて、この世にあるあらゆる神話は、なんらかの形でスプリガンの世界に取り込める感じがするんですよね。

 

 なんか、そういうところが好きな理由のひとつな感じがしています。

怒りという感情との付き合い方について

 漫画を読んでいて、感情が動く場面があり、その中でも強いものは「怒り」の感情です。僕自身の日常生活の中では少なくとも表面上は怒りが出ないように心掛けていて、そうなるように調整して生きているので、漫画を読んでいると、自分の中にまだまだこんなに強烈な怒の感情があるのか…と思ってびっくりしてしまいます。

 

 例えば「ホーリーランド」で、主人公のユウは、自分に声をかけてくれた唯一の友達であるシンちゃんが、集団リンチを受けたことに怒ります。それは、自分が身に降りかかった危険を迎え撃ってきただけとはいえ、成り行き上「ヤンキー狩り」として有名になったユウが招いたことでした。自分のせいで友達が傷ついたということにショックを受け、狼狽したユウは暗い部屋で一人で膝を抱えながら身に沸き立つ感情に気づきます。それは「怒り」だと。

 ここ、めちゃくちゃ胸に来たんですよね。自分で自分の感情を自覚することは、迷いを減らし、自分の進むべき方向性を明確にします。だからこの後、ユウは自らの意志で能動的なヤンキー狩りを開始するのです。復讐のため、自分が辿り着くべき相手に辿り着くために。ユウが狩る対象は無作為で、そこに正義はありません。

 正誤で言えば、ユウは間違っているのでしょう。でも、僕はこのくだりにものすごく胸を躍らせて読んでいました。

 

 このように怒りを起因にした暴力の描写に、心がざわめくことがよくあります。例えば三国志の時代に現代の少年少女がタイムスリップする「龍狼伝」では、竜が連れてきた子として劉備軍で活躍することになった志狼が、長坂の戦いで、自分が守ろうとしていた人々が曹操軍に虐殺されるのを目にしてしまいます。

 戦争や人殺しは悪いことであるという現代の倫理観を抱えながらも、それでは助けられなかったという悔恨と敵に心に植え付けられた邪悪な種により、怒りに飲まれ、たったひとりで敵軍を全滅させてしまいます。

 そこには薄暗い破壊の快楽を感じる読者としての僕がいました。

 

 怒りに任せた暴力は気持ちよい。それを感じる回路が自分の中にあることを自覚するからです。

 

 もうひとつ例示します。「狂四郎2030」は近未来を舞台にした物語で、人間を遺伝子で判断するゲノム党が日本を牛耳っている世の中を舞台にしています。主人公の狂四郎は、人格に関係する(という説がある)M型遺伝子の異常と診断され、収容所のようなところで子供の頃から兵士としての厳しい訓練を受けて育ち、戦争の中では暗殺者として活躍した人物です。そんな過去があるにもかかわらず、今は馬鹿でスケベな様子を見せるのですが、それでも、時折過去の顔が覗かせるときがあります。

 狂四郎が同じ収容所で育った白鳥と再会するというエピソードがあります。白鳥は優秀な能力を持つもののどうしても人を殺せない軍人として、狂四郎は大戦で活躍した英雄であるもののしがない警官となったのちに、今では反逆者として旅をしているという異なる立場での再会です。そして、2人はそれゆえに対立することになってしまうのです。

 このエピソードの最後では、白鳥と狂四郎は共闘することとなり、彼らたった2人は軍を相手に戦うことになります。幼い頃から差別され、厳しい訓練の中を生き延びてきた二人の戦争の戦闘能力には、凡百の一般兵たちは敵うはずがなく、大勢の軍人を前にしても身じろぐことはありません。そんな中、ひとりの軍人が負け惜しみのように言いました。

 

 「このできそこないが」

 

 これは遺伝子を理由として異常者として差別され、過酷な状況の中を生き延びてきた2人に対しての「正常」な人間が投げかけた言葉です。

 

 「いいなー、おたくらできがよろしくて」

 

 狂四郎はそう返すと、「正常」な軍人たちを殺していきます。異常な遺伝子を持つ人間は、社会にとって害悪であるために、自由を奪われ、いいように扱われても仕方がない、という差別が存在しました。その中で生きてきた狂四郎が、吐き捨てるように口にした言葉の持つ悲しみは、皮肉なことに人を殺すことを楽しんでいるような顔によって曖昧になります。なぜなら、その姿は危惧された異常者そのものであるようにも見えてしまうからです。

 ここも、めちゃくちゃ僕の気持ちに来てしまったんですよ。これもきっと「怒り」です。

 

 さて、そもそも怒りとはなんでしょうか?

 僕のの考えでは、「怒り」とは「自分の頭の外にあるものを、自分の頭の中にあるものに合わせようとする情動」です。つまり、他人や社会やあるいは自然など、「自分ではないもの」が、「自分の思った通りにならないことが我慢ならない」ということだと思っています。なので、たとえ表面上荒げた言葉が出なかったとしても、そしてそれが合法的なプロセスに基づき、理性的に見える行動で実行されたとしても、今ある何かに不満を抱え、それを自分が思った通りに変えようとする感情は「怒り」に分類されるのではないかと僕は思っているのです。

 そういう意味で言うと、僕自身は日々の生活であまり他人に対して強い口調で怒ったりはしていないと思うんですが、怒りという感情自体は抱えているんだと思うんですよ。なぜなら、今が最良で、何も変える必要がないとは思っていないからです。

 自分の怒りに気づいてしまうということは、その解消をしたいと思ってしまうことで、それが解消されるということは、あったはずの差がなくなり、もう怒る必要がなくなるということです。人はそこに快楽を感じてしまうのではないでしょうか?

 

 漫画を読んでいると、僕自身の実生活では最小化されていると思っているその感情が、結構出てくるんですよ。それはメディアの特性というか、僕は物語の部外者である読者としてでしか作中に関わることができないからかもしれません。物語に存在する理不尽に対して、僕自身は全くの無力で、怒りの感情を抱くぐらいしかできないからです。そして、その差を埋めるための行動は作中の登場人物に仮託されます。僕の感情は登場人物たちによって何らかの結末を迎えます。

 このように、怒りを自分とその外にある世界の差分を埋めるための情動として捉えたとき、怒りを抱えないようになる方法は4つしかないと思います。つまり、(1)世界に合わせて自分を変えるか、(2)自分に合わせて世界を変えるか、(3)世界と自分を比較することをやめるか、(4)そもそも世界と自分が最初から完全に一致しているか、です。

 これらの方法はどれかひとつが正しいわけではなく、場合によって使い分けることで、自分と世界の差分を減らすことをみんなしているんじゃないでしょうか?

 

 怒りを表明し、他人にぶつける方法は2番に属します。それで世界の在り方を変えることができれば、差は減りますし、怒らなくて済むようになるからです。しかし、その変えられた世界が、今度は別の誰かにとっての差分を増やしているかもしれません。自分の怒りを減らすための行動が、そのような無数の人々によるあくなき闘争を生み出し、維持してしまうかもしれません。

 一方、世の中には怒るということが苦手な人もいます。それは1番に属する傾向が強く、2番のように「自分に合わせて世界を変えよう」として起こるかもしれない様々を想像して、「自分の方を変えて納得した方がいいや」という結論に落ち着くものです。このような1番の傾向の人が2番の人と同じ場所にいると、1番の人はどんどん居心地が悪くなりがちです。自分の内面を2番の人に合わせて変え続けなければならないからです。

 それが耐えきれないならば、3番の方法への道が開かれています。それは自分が属する世界と自分を切り離すことで、もう比較をしなくてよくなるという方法です。社会や人間関係から離れ、ひとりで過ごすようになれば、自分と自分以外を比較する必要は減り、怒りの感情は薄れるはずです。これを突き詰めていけば、自分だけに都合がよい世界を構築し、そこに引きこもるということになり、4番に至ることもできるかもしれません。

 

 僕の考えでは、漫画を読む場合は2番になりがちだと思うわけです。そしてその解決は物語の登場人物たちにお任せするしかありません。そして、物語上のその理不尽が解消されなかった場合、1番としてその展開を受け入れるか、3番として読むのを止めるという方法があります。そもそも物語上の理不尽の起こらない4番みたいな漫画もあるかもしれません。

 こういうことを思うと、僕は漫画を読んでいるときは、漫画を読んでいないときよりも怒っちゃうんだよなあというような認識になります。漫画を読むということを選んだ以上、3番や4番の選択をすることができず、2番を願うことしかできないからです。自分の頭の中にある、あるべき理想と違う物語上の理不尽に怒り、登場人物たちの奮闘によりそれが解消されたとき、自分の中の怒りも解消され、穏やかな心を取り戻します。

 

 一方、実生活では選択肢は無数にあるので、1から4番までを上手い具合に使い分けて、自分が怒らなくても済むような生活環境を構築することもできると思います。そこで重要なのは、3番を目的として人間関係を薄くするということで、これは結構ネガティブな行動なのかもしれませんが、仮に他人と自分の間に決定的な差分が認識できたとき、その人が身近な人であれば、その差を高頻度で認識しなければならず、これは怒りに繋がります。解消するためには相手を変える2にならなければなりません。でも、相手だって変えられたくなければ抵抗がありますし、ここを調整するのは利害関係の調整が必要です。

 しかし、たまにしか会わない程度にとどめておけば、基本的には意識しないで済む3なので、会うときのそのときその瞬間だけ自分を曲げて1になればいいだけで、怒りの感情が発生する可能性を簡単に抑えることができると思うのです。

 理想は4かもしれません。自分と周囲の人たちの間に差がなければ、そもそもの怒りの感情なんて存在しないで済むのですから。

 

 このように僕は怒らないということをテクニックとして捉えているので、上手い具合にそうできるように気を遣っているところがあります。怒りで他人を動かすのは子供のやり方、みたいな話がネットではバズったりしますけど、その警句の行き着く先は1です。

 自分が周りに合わせて我慢し続けるということを選ばされているわけで、これ、逆側の視点からすると2を使われて1であることを強いられているんですよね。それってひょっとして理不尽じゃないですか?そんなの解消したくありませんか?その理不尽を解消したいと願う気持ち、「怒り」なんじゃないですか??

 

 僕は怒ることは悪いことじゃないと思うんですよ。というか、怒りの感情が生まれてしまうのは仕方ないじゃないですか。なぜなら、自分を取り巻く世界は、自分の頭の中と同じ形をしていないからです。しかしながら、それを解消するための行動は、自分の頭の中に世界を合わせたいがために、他人の頭の中を自分に合わせようとする、他人にとっての新たな怒りの種になり得ます。それがままならないと思うわけですよ。

 だから、どれが一番正しい方法というのではなくて、場面場面で色んな選択をしながら、自分と世界の間の差分について、自分だけでなく他人を含めて上手い具合の落としどころを見つけてやっていくしかないなというのが僕の考えです。

 

 それをやっていると怒らなくて済むシチュエーションが増えてくるので、ああ、もしかして自分は怒りから解放された、霊的に高いステージに上がった上等な人間なんじゃ??なんて妄想も抱くわけですが、それはきっと全然勘違いで、今はたまたま怒らなくて済むように折り合いがついている場所にいられているってだけなんだと思うんですよね。

 そういう自分から怒りがなくなったわけではないことを、漫画を読んで怒っているときに、あるじゃん!!怒り!!ここに!!あるじゃん!!って思って確認したりをしています。

ラブコメ漫画は2種類に分かれる関連

 ラブコメ漫画は大きく2種類に分けることができると思います。まず、特定の男女の間に発生する恋愛を主に取り扱う漫画の場合、主人公となる片方から相手への恋愛感情は主人公であるがゆえにその内面描写から確定するものだと思います。しかしながら、相手から主人公への逆側の恋愛感情は最初から確定している場合と、なかなか確定しない場合の2種類があると思うのです。

 

 確定している漫画の場合、読者には安心というか、既にお互いに好き合っていることは分かっているので、彼ら彼女らが何らかのコミュニケーション不足や制約や意地の張り合いで恋愛成就にはなかなか至らなかったとしても、まだそうなっていないだけで、いずれはそうなる…という感じでその様子を眺めることができます。

 しかしながら、確定しない漫画の場合、仮に相手から主人公への好意の描写は何度もされたとしても、それが恋愛的な意味を持つものなのかはちっとも分からないために、これまで描かれてきたものを繋ぎ合わせて類推して、頭の中での証拠固めをしつつ、これは好かれているのでは?好かれているということは、こちらから好きと言ってもいいのでは?いやでも、自分の勘違いだった場合、辛いからここは慎重に…とほんのり匂わせながらも証拠固めとなるエピソードを徐々に重ねていくという感じのお話になります。

 後者の厄介なところは、最終的に主人公の頭の中でどれだけ証拠を固めたとしても、それはあくまで主人公の主観でしかなく、やっとこさぐいっと行ってみたらフラれてしまったりもするということです。それはダメージのある展開なので、読みたくない人もいるかもしれないなという想像があります。

 

 「ネタバレを見てからじゃないと安心して物語の細部を見られない」という人の話を聞いたことがあって、それは例えば、次がどうなるんだ?という引っ張りに心を囚われてしまい、今その場をじっくり読むことに集中できないという理由であったり、あるいは、最終的などんでん返しで読んでいる自分の心が傷つけられるという可能性を排除してからじゃないと読むというリソースを全力で投入できないという理由であったりと聞いています。

 これと似たことは「ジョジョの奇妙な冒険 第六部」のプッチ神父も言っていて、彼は、世界でこの先起こることの全てを、全ての人に予め体験させておくことで、自分の身にいずれ起こることの全てに対して覚悟を与えようとします。自分の行く先が分からなくて不安になるのではなく、それがどんな不幸だったとしても、起こることが覚悟できているからこそ受け止める準備ができ、その出来事そのものにダメージを受けずにいられるということだと思います。

 これは実際、身の回りの人からも聞いたことがある感覚なんですよ。歳をとった人が言うには「自分が死ぬタイミングが分かっていれば、それに最適化して生きることができるけれど、自分が意外と長生きしてしまう可能性を考えて、もしそのときにお金がなかったら…という不安から貯金を十分残しておかなければいけない」なんて話もあるからです。この考え方ではおそらく、本当に死ぬタイミングにはせっかく稼いだお金を使わないままに終わってしまうということも多いでしょう。

 

 だから、先を知っておくことは不安を減らし、効率良くやっていくためには効果のあるやり方なのかもしれません。

 

 さて、「相手から主人公への好意を確信できている物語」も、そこには一方通行の感情なのでは??という読者的な不安がないので効率が良い物語であるとも言えるでしょう。一方、僕個人的としては「相手から主人公への好意は確信できない物語」も好んだりもします。

 それはどちらの方が良いとかそういう話ではなく、僕は2人の恋愛の成就の行方そのものよりも、1人の頭の中で妄想を膨らませて、不安定な中でどうなのかなあと右往左往してしまうというような様子が好きなんですよね。その認識はともすればどえらい妄想でしかなく、ストーカー的な心理にも肉薄するかもしれませんが、人間は想像の中では無限で、そういう「可能性を感じちゃってる様子」そのものに何かしら自由さのような魅力を感じてしまうからかなという気がします。

 

 最近の漫画では「僕の心のヤバいやつ」がすごく好きで、陰キャの市川くんが、陽キャでモデルなんかもやってる山田さんに対する恋心を自覚する瞬間もよかったですし、自分が憎からず思われていることを日々確認しながらも、その発露を自分で勝手に抑え込もうとして、箱の周りをぐるぐる回っては中身は確かめようとはしない、できない様子がめちゃくちゃいいですね。

 

 ちょっと前の漫画なら「まねこい」なんかも好きでした。皆の注目を集める性格もよい美少女である本田さんと、地味で冴えない薗田くんが、まねきワールドから来た猫太郎さんの助力もあり、秘密を共有することとなって薗田くんはどきどきするわけなんですよ。色んな出来事があり、自分が特別に好かれているのでは??と徐々に証拠を集めていくわけですが、この物語はそんな中で食い気味に勢いつけて行ったものの、結局は上手くはいかない話なんですよ。それは決して悲しいだけの話ではなくて、それもよかったですね。人生はそういうこともあるわけじゃないですか。

 

 昔で言えば「さくらの唄」なんかもそうかもしれません。地味で冴えない市ノ瀬くんは、お金持ちの美少女である仲村さんに恋心を抱きますし、それは釣り合わないけれど、でも相手の心証は悪くないんじゃないの?みたいに思ってしまうタイミングだって何度もあるわけです。でも、フタを開けてみれば全然好かれてなんていなくて、むしろ市ノ瀬くんがやらかしたことに対して軽蔑の目を向けてきたりもします。終盤の怒涛の展開で、その関係性はさらに不思議なねじれを生み、これは結局恋の話ではないように思うんですが、これもめちゃくちゃ良い漫画なんですよ。過激な描写を途中で挟みつつも、あの終わり方をするということが。

 

 書いていたら、僕が結局上手く行かない話みたいなのを好んでいるような気がしてきましたけど、「I''s」とかは上手く行ってますからね。これも伊織ちゃんが一貴くんのことを本当のところどう思っていたのかが、全然確定しないままに進んでいくところが好きに思います。

 

 なんでこういうのが好きな気持ちになるかというと、だって、とりわけ陰気な少年少女の十代の恋愛事情なんで、妄想だけで8割9割終わるわけじゃないですか(決めつけてしまいました)。でもそれってそれはそれでいい時間だと思うんですよね。そういうのを!そういうのを大事にしていきましょうよ!!みたいな気持ちがあるんですよ。

 大人になってもそんなことをしていたら、もう完全に取り返しのつかない痛い人になってしまいますし、ともすれば事件になってしまいますが、十代の少年少女だけにはまだギリギリ許された特別な時間じゃないですか。

 

 もう自分自身はとっくにそれが許されないおじさんなので、おうおう!若いもんはいいねえ!!という気持ちで、漫画での中でもはやし立てる通りすがりのおじさんみたいな気持ちで、そういう漫画を喜んで読んでいるふしがあります。

 いや、あるいは、自分自身の少年時代を思い返して反芻しているのかもしれません。

制限がないことは表現の多様性を育むのか?関連

 世の中は不自由だなと思うところがあって、自由な表現というものはどこにあるんだろうな?と思ったりします。とりわけ、経済活動としての側面を求められる本については、不自由な要素が多いように思えていて、なぜならば、売れなければ続けることができないので、その中の表現については「それを発表することによって読者を獲得し続けることができなければいけない」という要求が大前提として存在してしまうからです。

 

 「読者に求められているものを提供しなければならない」ということは自由でしょうか?これはもっと小規模な同人活動や、Webで無料公開する小説などからも排除が難しい課題です。「より多くの人に読んでもらう」ということが前提になったとき、その舵取りの主体は読者側に委ねられてしまうことも多いと思われるからです。

 そこから完全に抜け出すには、「誰にも読まれなくてもいい!」というところに芯を持ってこなければなりません。でも、誰にも読まれなくていいなら、そもそも表現とは何か?ということでもありますよね。

 

 ただ、読者が何を求めているか?ということを正確に掴めるなら、その時点で偉業を達成しているように思います。そんなの、勝利条件をひとつを満たせているような状態じゃないですか。普通はそれが分からないから色々試してしまったりするんじゃないかと思います。ただ、これにある程度合わせられる方法もあって、それはつまり、既に売れているものを模倣するというものです。

 流行りのスタイルに便乗するとか、あるいは、流行りの本のスピンオフとして公開するなんて方法もあります。これが多く目に入るというのは、つまり、結構追い詰められてるってことなんじゃないかと思うんですよ。色んな方法を試すことよりも、少しでも確度の高い方法を選ばざるを得ないからです。それは失敗する余裕がないってことだと思うわけなんですよ。

 

 雑誌をより売ろうとすると、エロに特化した連載の割合が増えるという現象を何度か観測したことがあります。その過渡期に好きだった連載が次々に終わっていったり、人気があって連載が継続した作品が、他のエロ連載の中に埋もれて余計に異才を放ったりしていました(具体的に言うと一時期のアクションにおける「軍鶏」など)。

 

 ここに僕が見て取ったのは、何の制限もない状態で、その人が考える一番売れる確度の高い方法を選ぼうとすると、実は参加者皆が同じような結論に至ってしまうということもあるんじゃないかということです。スポーツのルールなんかもそうで、それをやったら有利になるという強い方法が現れると、それを制限するルールが追加されることもあります。

 エロを描けることは自由かもしれませんが、そのためにエロ以外の連載が減ってしまうという経験を踏まえると、エロばかりを載せざるを得ないという逆説的な不自由さもあるんじゃないかと思ってしまうんですよね。

 自由であるがゆえに、皆が最も効率のよい同じ方法に辿りついてしまうことは自然界にもあって、異なる進化の過程を経た別の動物が、同じような形質を獲得する収斂進化なんかもその範疇かもしれません。スマホだって、結局皆同じような形になってしまいました。

 

 不自由であることが多様性を育むかというと、別にそんなことは言えないかもしれません。ただ一方、多様性を育むために自由であろうとしたことが、結果的に見た目上同じようなものばかりを生み出してしまうというジレンマもあるように思っていて、なんだか難しいなと思ったりすることもあるという話です。

 

 ここからちょっと話が変わるんですが、エロい描写のある漫画は僕も好きで読みますが、分野としては特殊な領域のように思います。そのひとつがタグ付けだと思っています。

 ダウンロードサイトなんかを見れば、エロ描写の特徴がタグ付けされて整理されていたりなんかして、読者が好きな対応のタグを渡って別の作品を読んだりもするようです。でも、これって面白い現象で、好きな属性がタグ付けされていれば、作者については何も知らなくても読むきっかけになったりするっぽいんですよね。

 こういうのは、無料で読めるネット小説のサイトなんかでも当たり前になっているように思います。誰が書いているかだけでなく、何を書いているかを手掛かりにして読むきっかけになっているのは面白い話です。

 

 このような現象は、例えば初音ミクなんかでも感じたことがあって、音楽のジャンルではなく、ボーカロイド初音ミクを使っているということを接点として、本来なら全然違う色んなジャンルの音楽を聴く切っ掛けになったりもするわけじゃないですか。

 

 それを言うと、多くの漫画では内容の属性よりも「作者の名前」が依然としてタグとして強い力を持っているように思います。かつては「連載雑誌の名前」も大きな力を持っていたように思いますが、最近ではジャンプを除いては衰退傾向にも思えます。なぜなら、単行本を買っていても、それが何の雑誌で連載されているかを把握していないという人が結構いるのを見るからです。これって、今まで接点のなかった新しい漫画に辿り着くための経路がどんどん貧弱になっているとも思えるわけなんですよね。

 

 一方で、属性による多様なタグ付けありきの中で勢力を伸ばしているように思える「エロ」とか「異世界転生」とかが強いことにはそういう背景があるんじゃないでしょうか?強いタグに紐づけられることで、それまで無名の作者だったとしても、読者が到達してくれる可能性が上がるからです。

 SNSで流行っている「○○が××する話」みたいなタイトルでの漫画の公開も、タグ付けをすることで、前提を共有されていない人の目にも届くようにするというような意味があるんじゃないかと僕は思っています。

 

 そして、また話が戻ってきますが、強いタグを背景に持つか持たないかで、読まれる力が大きく変わるなら、結局のところ自由に見える選択肢の中でも、より強いタグを選ばざるを得ないという不自由さもあるんじゃないですかね?そういうことを思うと、やっぱり難しいなあと思うわけなんですよ。

 自由が存在することで、見えている勝ちパターンを選べてしまうことから、皆がそれを選ぼうとしてしまうということは、逆に多様性を減じ、同質化を促進してしまう恐れもあると思います。そういうことを思うと、あれ、多様性のための自由なんじゃなかったっけ?というような疑問が生まれてしまうんですよね。

 眼前には、似たジャンルの作品や、既に売れている漫画のスピンオフが多く目に入ってしまったりもするわけじゃないですか。

 

 漫画を商売として続けたいなら読まれなければいけないし、多くの漫画は、人の目に触れて面白いとか面白くないとか言われる前に書店の店頭から消えてしまったりもします。

 それが悲しいなと思うことがあって、だから、タグでもなんでもいいので、より多くの人の目に触れる道筋が必要なんじゃないかと思いますし、そしてそれが何でも描いて良いはずの自由の中に、一面的には同じような漫画ばっかりに見えてしまったりもする根源があるような気がしていたりするのです。

 それが良いことなのかは僕にはまだ整理がついていません。

「世界は寒い」と塵芥のような自分関連

 この前「世界は寒い」の2巻(完結)が出たんですけど、昨日のコミティアでその補完本も出て、それも読んだので感想を書きます。

 

 世界は寒いは、フードコートでバイトする6人の女子高生が、客の忘れ物の拳銃をうっかり手に入れてしまうというお話です。彼女たちは弾丸をひとつずつ持ち、それを使って自分が殺したい相手を考えることになります。「殺したい奴が居ない人間なんか居ねえだろ?」、それは言葉の上のことでしかなかったかもしれません。拳銃さえ手にいれなければ。だって殺したいと思ったとしても実際殺してなんかいないじゃないですか。

 ジョジョ5部のプロシュートの兄貴も、ギャングは「ぶっ殺すと心の中で思ったなら、そのとき既に行動は終わっている」べきだと言いますし、多くの場合、行動は言葉よりもずっと正直なんですよ。やりたい理由があっても、それ以上にやりたくない理由があるからやらないわけでしょう?

 殺したいけれど、実際に殺すほどじゃない、もっと言うなら、実際には「殺したい」わけじゃなくて、「その人が自分の人生の範囲からいなくなってくれればいい」というだけのことかもしれません。

 

 でも、拳銃を手にした瞬間、その乖離は少し埋まってしまいます。自分の「殺す」という言葉を「表現できる手段」を手に入れてしまうからです。「RED -living on the edge-」という漫画では、部族を白人に皆殺しにされたインディアンのレッドが、ある男から巨大な拳銃を手渡されます。今までいかなる怒りを抱えていても、その巨大すぎる感情を表現する手段を持ち合わせなかったレッドが、ヘイトソング(憎しみの歌)と名付けられた拳銃を手にすることで十全に表現できるようになってしまいます。歌を初めて覚えた小鳥のように、レッドは何度も何度も拳銃を撃ち続けてしまうのです。ついにはその大きな反動で自分の腕が折れてしまうまで。その様子は、ついに訪れた解放感と同時に、哀れにも見えました。

 

 銃は暴力であると同時に、平等の象徴という意見があります。それはどんなに体格の立派な強い男であっても、銃さえあれば子供にも殺されてしまう可能性があるからです。肉体や立場の格差を一手で埋められる存在が銃だと言われれば、確かにそうなのかもしれません。

 でも、それを使うことを選んでしまうことそれ自体が幸福なことだとはとても思えないわけですが。

 

 さて、彼女たちは拳銃を手に入れたことで、自分の人生に向き合うことになります。手渡された一発の弾丸を誰に使うべきかを考えなければならないからです。今まで抱えていたぼんやりとしていたかもしれない悩みを、誰かのひとりの存在を対象に結実させて、それを殺すことで解消できるという権利をうっかり手に入れてしまいました。

 それによって、今まではどれだけ憎んだとしても行動にまでは至らなかった感情が、今ではその気になれば容易に表現できるようにもなってしまいました。

 

 そこには6人の6人なりの人生があり、それぞれを何らか自分を束縛する対象、あるいはしっぺ返しを食らわせたい対象が存在します。

 

 世界から見ればひとりひとりの人間の人生はきっとちっぽけなものでしょう。人間という単位で見ても70億人の中におけるひとりひとりの人生は、70億分の1に希釈されてしまいます。広い宇宙から見ればもっとそうでしょう。吹けば飛ぶような塵芥(以下、ちりあくたと読んで下さい)です。だから、当人にとっては人生を変えるほどの大きな悩みは、少し視野を広げるだけでも、ちっぽけでしょうもない悩みと理解されてしまったりするんですよ。

 それは実際しょうもないのかもしれません。しかしながら、世界からみればちっぽけな塵芥のようなものだとしても、塵芥自身にとってはやっぱり重大なものであったりするでしょう?ならば、広い視野を持ち抱えた世界の視点は、その塵芥からの視点と比べて本当に正しいのでしょうか?

 僕にはその疑問があります。自分自身もまた同じ塵芥のひとつでしかないのですから。

 

 この考えには僕個人の私怨的な根っこがあって、自分がすごく悩んでいることについて、関係ない人から世界レベルとは言わずとももっと広い話と比較されて、だからそんな悩みには価値がないし気にするべきではないという感じのことを言われたことが昔ありました。それが、すごく嫌だったんですよね。

 当人からすれば、僕の悩みを軽くしてあげようという親切心的な意図があったのかもしれませんが、それがいかに他の人にしょうもなく見えても、自分にとっては天地がひっくり返るほどのことであったことは確信的であって、その感じ方がおかしい、比較対象は君の外に広がっている世界と言われても、はいそうですね!気にしません!と素直に思えたりはしないわけじゃないですか。はあ?世界でございますか??その世界って誰なんだよ!!と。

 でも、だからどうすればいいのかは全然分からないわけですよ。中年になっても!全然!!

 

 漫画の話に戻ります。

 

 彼女たちは、同じバイトをしているという以外にはあまり共通点がなく、置かれた環境も様々で、抱えた悩みもそれぞれです。だから、誰かの悩みには自分とは違う前提があり、理解はできたとしても共感はしにくいんじゃないかと思います。共有する秘密で繋がっても、そこには相互無理解ゆえの軋轢も存在します。

 でも、置かれた異常な環境の中で、彼女たち人と人との間にあった壁がなんらか融解していくわけです。それが一部であろうとも、確実に。それは、自分のことだけで手一杯だった子供が、自分の外側にある世界を知り始めるということかもしれません。自分以外の環境や立場や感情があるということを知り、彼女たちの世界は6人ぶんだけ広がったように見えました。

 

 最後の話で、古賀ちゃんが細野様に代わって自転車を漕ぐところ、めちゃくちゃ好きなんですよね。人間は同じスペックの代替可能な部品なんじゃないんですよ。ひとりひとりに個性があって、それぞれが抱えたものも得手不得手もあります。それがそれぞれ補い合うようになって、彼女たち6人で作り上げた少し広がった世界は、きっとたったひとりであったときよりも強いものでしょう?

 それはきっと彼女たちがもう拳銃を必要としなくなったってことなんじゃないかと思うんですよね。

 

 だって、その手にはもう、殺す以外にも手段があるってことじゃないですか。

 

 世界は広くて、一生かかってもその一部しか理解できないかもしれません。僕も自分が歩いてきた轍ぐらいしか分かっていません。そこをひとつなぎに接続しても、感じるのは寒さだけかもしれませんよ。だって世界からすれば、自分なんてどうでもいい塵芥なんですから。世界に人格があるなら、きっと自分個人には興味がないでしょう。

 でも、自分を世界と対立させ、それを破壊するようなことを望むこともまた、虚しいような気もしていて、我々はきっとそんな中でも人生を世界と接続してやっていくしかないんじゃないかなと僕は中年になって思いましたが、若者は?若者はどうなんでしょうかね?いまどきの。

 

 彼女たちの未来に閉塞感がないものが広がっていればいいなとすごく思っていて、それは閉塞的な状況と無縁であることではなく、そんな状況があったとしても人は笑えるようになるってことなんじゃないかと思うんですよね。

 「未来は明るい」、それは彼女たちがまだ若いからじゃなくて、中年になっても、老人になっても、そう思えないと世界はずっと寒いままなんじゃないかなと思いました。

 

 幸あれ!

 

 そういえば、彼女たちのバイト先、ヨーカドーのポッポのような雰囲気だなと思うんですが、ヨーカドーのポッポ、最近は結構閉店しているところがあって寂しいですね。以前の仕事場の近くにあったときには、お好み焼きと黄金焼きをよく食べていました。

同人誌の適正価格関連

 同人活動、やり始めて2年半ぐらい経ったんですが、僕のイベント参加の収支の話をすると、売れた本の収益で、印刷費とイベント参加費がざっくり回収できているみたいな感じです。

 

 僕は70冊ぐらい本を刷っているんですけど、早く入稿しての割引を使ったりすると、ページ数にもよりますが2万円強ぐらいで印刷できます。そんでもって、1回のイベントで売れる冊数もだいたい70冊(新刊既刊合わせて)で1冊400円の値付けなので、2万8000円の収益という感じです。印刷費とイベント参加費が賄えましたね。会場への電車賃もですかね。よかったですね。

 

 こぢんまりとした同人活動としてはこのような規模でやっています。

 

 本1冊をなんで400円にしたかというと、そもそも想定しているぐらいの冊数(全体の7~8割)が売れれば印刷費が回収できるぐらいというような気持ちがあって、それ以上のことではありません。なお、2/17(日)のコミティアで出す本では、ページ数が思ったより増えてしまったのと、色々忙しくて早期入稿の割引を逃したので1冊500円になります。なぜなら、1冊の原価が400円を超えてしまったから。

 

 同人活動、趣味でやるにしては、かかってる費用が一部でも回収できるのって不思議な感じだなあと思っていて、普通は趣味なんてお金が出ていく一方じゃないですか。その辺が不思議な立ち位置だなと思ってしまいます。僕はとにかく家に置く本の在庫が増えていかないでほしいという気持ちがあって、なので、前回売れた数ぐらいを刷るのはそういう理由なんですよ。そこから、必要な費用が決まり、それに合わせて価格が決定されます。一応理屈があります。

 とはいえ1冊400円ですよ。これって商業流通している少年誌の漫画に近い金額じゃないですか。単純に数字だけ比較するとおかしな話ではあるんですよね。僕が趣味で描いているようなものより、クオリティが段違いに高く、ページ数も多い商業漫画と、近い金額を払ってもらっているわけです。損得勘定を客観的なレベルから見たら僕の本を買うのはきっと損でしょう?商業の漫画を買った方がきっと得ですよ。

 

 でも、僕の本を買ってくれる人がいるということは、そういう感じの単純な損得勘定じゃない感じがしていいんですよね。それはきっと、ひとりひとりの主観の話です。個別の人と人との間にある話ですよ。

 

 同人活動、お金は全く儲からなくていいんですけど(赤字でもいい)、じゃあゼロ円で配布するか?というと、それは絶対になくて、なぜなら「無料なら貰ってやるか」みたいな感じの人に読まれるって嫌じゃないですか?少なくとも僕は嫌ですね。自分が一生懸命描いたものを別に興味も持ってなかった人に粗雑に扱われる可能性は避けたいと思ってしまいます(そもそも無料だからと持って行って貰えると思うのも傲慢かもしれない)。だから、お金を出してでも読みたいって思ってくれた人が買ってくれるといいなって思ってしまうわけです。

 

 このように同人誌に主観的に見て価値を感じるかって話、結構重要な感じがしています。本を欲しいと思ったなら、数百円は大したお金じゃないので出ると思うんですけど、一方、そもそも欲しいと思わなければお金は出ないじゃないですか。欲しいと思わないのは、その本に価値を感じていないということです。価値を感じていなければ、中身が虚ろで、表面に金額が書いてあるだけのものになってしまいます。

 

 190円って書かれているものと、160円って書かれているものがあって、どっちを買いますか?って聞かれても分からないですよね?なぜならそれの中身が何か分からないからです。どっちかを買わないといけないというなら安い方を選ぶかもしれません。でも、190円が目的地までの電車の切符で、160円がコーラのペットボトルだったらでどうですか?

 電車に乗る権利がなくて、コーラを渡されて歩いて移動する羽目になるのはしんどいわけですよ。なら、190円の方をとるわけじゃないですか。その中身が自分にとってどういう役割を果たすものであるかということは、金額以前に存在していなければ、そこについている金額の意味を上手く評価することもできません。

 

 今日、ネットで同人誌の値段をどのようにすべきかというような話が話題になっていて、そこについている色んな意見を流し見たんですけど、作った人が好きな値段をつければいいし、それを買う人がいるのだから、それで成立しているのでは?それでいいのでは?というような話が主流になっている感じがしました。僕自身もそう思うわけですけど、ちょっと立ち止まってしまったのは、これが同人誌じゃなく、聞いたこともない宗教の売っているありがたい壺だったらどう思うかって話なんですよね。

 例えば、その宗教にハマった身内が大金をそれに払おうとしているとき、壺を作った人たちは好きな値段をつけていいし、それを買う人がいるのだから成立しているって同じように言えるか?という問題があります。外野がごちゃごちゃ言うことではないということは、同人誌のときには納得してしまったかもしれませんが、こっちの方でも言えますか?

 もっと直接的に言えば、「そんな価値のないものに、お金を払うのは騙されている」と思ったりしてしまったりはしませんか?

 

 それはつまり、同人誌そのものに興味がなかったり、悪感情を持っている人たちによる同人誌への目線とも重なるはずです。同人誌を買いたいと思うひとからすれば、意味があり価値があるお金を払うという行動が、そこに何の意味も見いだしていない人からすれば、馬鹿げた行為に見えてしまうかもしれません。

 

 そんな薄い上に素人が描いた本を買うより、何十万部も売れている本を買った方がずっと得じゃないかと思ったり、そもそも無料で楽しめる娯楽が溢れているときにお金を払うことそのものが馬鹿げていると思ってしまうかもしれません。

 そのように思う気持ちと同じ種類のものは、きっと自分にもあるんですよ。自分がその対象に価値を感じているか感じていないかによって、調子よく使い分けているだけではないか?とも思うわけです。

 

 家族が趣味で集めている大切なものを捨てたり売ってしまったという話には、同情が集まったりします。しかし、その集めている対象が自分が全く価値を感じていないもの、例えばゴミ捨て場で拾ってきたガラクタだった場合でも、その家族が価値を感じていたなら、その事実を尊重してあげられるでしょうか?

 これはすごく難しい話だと思っています。難しいというのはひとつの考え方で一刀両断できるものではないということです。相手がそれに感じている価値を尊重してあげられることは素晴らしいことかもしれません。しかし同時に、自分の目からすればどう見ても明らかなゴミが生活領域を侵していくとき、自分はその不快を我慢しなければならなくなったりします。

 

 不快に思ったことを盾に何かを要求することは嫌がられるかもしれませんが、じゃあ、不快に思ったままで自分が我慢し続けるのが正しいのか?という疑問も同時にあって、価値観の違う人が近くにいる以上は、その共有部分において、何をどれだけ認めて、どれを認めないかを、お互いに譲る部分と譲らない部分を話し合って納得できる形に収める必要があるはずです。

 自分の価値観だけを尊重して、相手の価値観を全部突っぱねるというのは、気持ちいい部分もあるかもしれませんが、それはやっぱり不平等です。自分の価値観を大事にするあまりに、他人の価値観をないがしろにしているからです。互いの歩み寄りのない場所では、相手の居場所をなくすことが最も効率がよいことになってしまいます。それはやっぱり辛い話だと思うんですよね。

 

 世の中には人それぞれに様々な目線があって、人が何かに感じる価値は、その目線に従って人それぞれに違うものではないかと思います。でも、つけられる値段って基本的にひとつじゃないですか。なので、自分の中に感じている価値と、実際についている値段のギャップで、高いとか安いとかは絶対発生しちゃうんだと思うんですよね。

 自分が自分の本に理由を持ってつけた値段について、他人の目線から高いとか安いとか言われたとして、その人の価値観ではそうなんだなあ、ギャップがあるんだなあと思うだけな感じなんですけど、そういう齟齬って無数に存在していて、周りに目を向けてみれば、皆それぞれの中では納得ずくで、他人から見たら以上に見えるお金の使い方をしてたりするんじゃないかと思います。

 それを一刀両断に正しいとか間違っているということは本当にできるのかな?というのはすごく思っていて、僕は自分が好きな本なら高くても買ってしまう一方で、身内が壺を買おうとしていたら、いや、より具体的な体験ベースで言うと、母方の祖父が庭に置くのにちょうどいいと思った石をよく分からない業者から50万円で買っていたことには、やっぱり少々の疑問というか、高過ぎでは?と思ってしまった経験もあって、でも、結局爺ちゃんが自分の貯金で買いたいのだから、これはもう仕方ないと思ったみたいなのがあるわけです。

 

 でもここ、自分の中でまだ全然綺麗に整理ついていないんですよね。お金のやり取りって難しいですね。

 今後も考えていきましょうね。