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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

FF15でプレイヤーの僕が果たした役割について

 FF15は一ヶ月前ぐらいにクリアしたんですが、結構速めにプレイ時間が40時間ぐらいでクリアしてしまいました。なぜなら、その後すぐに龍が如く6も買ってしまったので、このまま無限に遊べそうだけれど、そうすると他のゲームができないから仕方がないと、断腸の思いでクリアせざるを得なかったからです。本当は少なくとも100時間ぐらい遊んでからクリアすれば良かったと思ったのですが、両方やりたかったので仕方がありません。

 ちなみに、龍が如く6をクリアした(これも面白かった)ので、ここのところは人喰いの大鷲トリコとFF15を交互に遊ぶような感じで、今のプレイ時間は56時間という感じです。クエストは結構こなしましたが、まだいくつかのダンジョンが残っています。未配信のDLCなども購入済みなので、まだまだ遊びます。

 

 以下は、ゲームの内容というよりは、ゲームをやっている間の僕自身の心の動きを書いたものですが、何をどう思ったかという点に関連してごりごりにネタバレも含まれているのでご了承ください。

 

 さて、このゲームのエンディングでは、僕はめちゃくちゃ泣いてしまったのですが、FFシリーズを遊んで泣いたことは初めてで、ただ僕自身が30歳を過ぎてからとにかく涙もろくなったということもあって、それがこのゲームの特徴かどうかは判断がつきません。しかし、とにかく非常に感情を揺さぶられたのは事実です。それは、この旅が終わってしまうという寂しさと、今まで楽しかったという思い出が溢れてしまったからです。

 

 この物語の主人公であるノクトくんは、王子様であり、人間関係の中心です。しかしながら、この物語の中で起きていることについて、彼はとにかく蚊帳の外です。重要なことは何一つ教えられず、後から知らされて怒ったり悔しがったりそんなことばかりです。それは彼が皆に大事にされてきたということでしょう。そして、であるがゆえに彼自身が、自分の無力さに傷つけられてしまっているように思いました。僕はその様子を見ては悲しくなってしまいます。

 自分は周囲の人々に守られてばかりいる存在で、頼りにされるほどの強さを持ち得ないということ、弱いということ、弱さとは自分の意志を突き通すことができないことで、それはとても悲しいことです。そして、僕はそのような人間の弱さをとても愛おしく感じます。なぜならば、弱さを嘆くことは、強くありたいことを願うことだと思うからです。僕は人がそうありたいと思い描き、願う姿がとても好きで、そして実際にそうなってしまうことに感情を揺さぶられがちです。

 これは世間知らずのお坊ちゃんが、独り立ちをする物語だと思います。大きな責任を負わなければならないお坊ちゃんにとっての、最後のモラトリアム、この旅はその卒業旅行なのだと思います。

 

 ちなみに、世間の大学生の多くが行くと伝え聞く卒業旅行には僕は行かなかったんですよね。南米にマチュピチュを見に行こうと友達に誘われてはいたのですが、修士論文のあと、別の学会で発表することにしてしまったので断ってしまいました。今思えば卒業要件とは関係ない学会なんて行かなくたってよかったかもしれませんが、ともかくそんなわけで、僕は卒業旅行というものには縁がなかったのです。僕の学生生活はなんとなく終わり、何となく就職のために上京しました。

 そのゲームはそんな僕にとっての卒業旅行の疑似体験です。終わりがあることを知った上で、残された猶予を楽しみ続ける、良くも悪くも夢のような日々です。

 

 さて、FF15の楽しい旅の終わりは、機械仕掛けの神の御業のように残酷で理不尽なものです。ゲームの中でも進んでいいのか?と確認を求められ、ある種の決断を元にその流れに入っていくことになります。

 起こるのは襲いくる沢山の理不尽であり、それはそれまで存在した旅の楽しさを破壊するものです。広く自由だった旅は、急転直下で狭く不自由な行軍に押し込められ、そこから抜け出すためのあがきを求められます。仲間との絆は破壊され、いつも一緒だった仲間たちを失い、たった一人の孤独な戦いを強いられます。仲間の大切さを再確認するためのシーケンスとしては、少々あからさま過ぎる様子ではありました。しかし、いつも一緒に戦ってくれていた仲間たちがいないということ、例えば、FF15ダンジョンは暗くて狭くて、探索するには怖いことも多いのですが、今までそこで仲間たちの軽口が響いていたことが、これまでどれだけ安心感を生み出していたかということを、まんまと確認せざるを得ませんでした。

 仲間と再会した安堵、そして再び一緒に戦ってくれることの力強さ、自分の代わりに、自分と一緒に、喜び怒り悲しんでくれる仲間たちがいるということを噛みしめ、迫りくる世界の終焉と、それに伴うであろう大きな喪失の予感に胸がざわつきます。

 

 「あなたは選ばれた」、これはRPGでは定番の台詞であり、FFの過去シリーズでもこの言葉は使われています。さて、「選ばれる」ことは果たして幸福なことでしょうか?ノクトくんは選ばれた青年です。そこに明確な理由はありません。彼は王子として生まれてしまったがゆえに、選ばれてしまったのです。見方を変えれば、彼は生贄です。この物語は藤子F不二雄の「ミノタウロスの皿」のようでもあります。

 ミノタウロスの皿では、牛の形をした宇宙人が人の形をした宇宙人を食べる星に、人間の主人公が迷い込んでしまいます。そこでは、牛に食べられることは喜びであり、人はそのために飼われています。双方とも知性があり、言葉を交わせる間柄でありながら、喰う者と喰われるものに別れてしまっているのです。そして、牛に食べられる人は、そのために選ばれたことに喜びを感じます。喜んで皿に乗り、牛に食べられようとする女の子に対して、主人公は何もできず見送るしかありませんでした。その女の子は選ばれし者です。彼女は、自ら進んで贄となります。果たして、彼女は幸福だったのでしょうか?

 

 ノクトくんは、自ら決意して力を受け入れ、真の王となります。それは人であることをやめることであり、悪を倒すための犠牲となる道です。引き返すことのできないはずの一本道です。彼のために犠牲になった人々が、彼が引き返すことを阻む理由となります。世界は闇に包まれ、その終焉を回避するには、悪を倒さなければなりません。そのためにノクトくんは真の王とならなければなりません。彼らの旅は、守るべきものを、人々の生活を見てしまいました。彼は自らの意志で皿の上に乗る生贄なのです。その責任を取らされるに値するほどの罪を、彼は何一つ犯してはいないのに。

 

 一方、この物語のラスボスとなる男もまた別の種類の生贄です。彼はかつて、その身に他者の病を取り込むことで人々を救った英雄でした。しかし、悪しきものを取り込み過ぎた彼は、それによって呪いとも言える永遠の命を獲得し、彼自身もまたまた悪しきものとして迫害されることになります。人々のためにその身を犠牲にしたこというのに。彼はその復讐心につけ込まれ、この星にあだなす者としての役割を演じていくこととなりました。

 

 彼らの最後の戦いは、善なるものと悪なるものの代理戦争でしょう?(説明が省略されている部分が多いので確証は持てませんが)代理となる彼らはそれぞれその犠牲者であり、だとすれば、ただただ哀れな存在です。皆に守られた世間知らずのお坊ちゃんは、ついに、自分の意志で犠牲となることを選ぶ大人の男になりました。しかし、それは幸福なことだったのでしょうか?僕には哀れに思えます。その運命から逃げることができなかった、許されなかったノクトくんの存在はとてつもなく悲しい。これはとても悲しいお話です。

 彼はその旅の終焉に一枚の写真を持って行きます。それはプレイヤーに任された選択ですが、僕が思うに、そこで何の一枚を選ぶかは大した問題ではありません。その一枚を選ぶために、今までの旅の中で撮ってきた写真を見返すことこそが、このゲームの一番のポイントではないかと思います。

 僕の手元には100枚ほどの写真がありました。それは、一枚一枚があの楽しかった旅の毎日の中で、毎夜選んだ写真です。僕が自分の意志で「良い」と思って残した思い出の集積です。だから、一枚一枚に見覚えがあり、そこには何らかの僕の意志と決断があったのです。その一つ一つの決断を思い出したこと、ゲームを始めてわずか40時間ほどでしたが、これまで歩いてきた道を思い出したこと。最初は何を残せばいいか分からずに、適当なものばかり選んでいた自分の決断を思いだし、後半になれば150枚までという縛りを意識して、印象的なものだけに絞ろうとしていた自分の気持ちを思いだし、最初から最後までを吟味しました。

 結局選んだのは、何の変哲もない一枚です。ゲームを適当に進めていれば誰でも手に入るような一枚です。でも、それを選びたかったわけですよ。なぜなら、4人みんなが写っているからです。幽遊白書の仙水編の最後じゃありませんが、この中の誰か一人が欠けても嫌だと思ってしまうわけです。

 

 そんな平凡な写真を手にしてノクトくんは大きな決断の道を選びます。その一枚は僕がしてきた100枚の決断のあとの、最後の決断を乗り越えて成し遂げられます。僕は彼の自己犠牲を思うわけです。かつての弱々しかった青年は、物語の中で強制的な十年の時を経て、大人の顔をして、凛々しく最期の戦いに向かいます。それは誇らしく、寂しく、悲しいことです。

 

 で、ですよ。エンディング見た人は分かると思いますが、あれですよ。やっぱりあれだったわけじゃないですか。人はそんなに簡単に大きくは変われないわけですよ。それを噛み潰して、何でもないような顔をして一歩足を踏み出すわけじゃないですか。色んなことを我慢して、彼は進んで生贄になるわけですよ。彼が体験した最後のモラトリアムは、本当に最期の、最期になってしまった楽しかった思い出になるわけですよ。その楽しかった時間を提供したのは誰ですか?他ならぬ僕自身じゃないですか。

 僕がこのゲームのプレイヤーとしてやったことは、死にゆく運命を背負わされた、哀れで悲しいノクトくんに、最後の楽しい時間を作ってあげられたということではないかと思いました。だから僕は40時間でクリアしてしまったことを少々後悔したわけです。もっともっと楽しい時間を長く続けられれば、もっと色んな沢山の思い出を作っておければよかったのにと。

 

 エンディングの最後の最後のシーンについては、あれが何を意味するのか手がかりがないので、ゲームとしては好きに解釈してくださいということだと思います。僕は、あの光景は「ノクトくんの魂は救済されたよ」ということじゃないかと思っていて、彼は犠牲となったし、彼以外にも多くの人々が犠牲になったが、それは決して悲しいばかりのことではないということであって、やるせない気持ちを癒してくれるこの物語の優しさではないかと思いました。

 

 これは僕がこう思ったということだけで、正しい解釈が何かは分かりませんが、とにかく楽しい旅を続けられたということがこのゲームをやって良かったということです。そして、クリア後に再開すれば、まだまだ新しい思い出を増やせます。DLCも待ってます。

 僕はその後の辛く悲しい運命を受け入れるノクトくんを知ってしまっていますから、今回はまだまだそこに行く必要はないぜ~と思いながら、チョコボに乗って遠くに行き、どうでもいい敵を倒して帰ってくるだけの時間や、一日釣りをするだけで過ぎていく時間、どこにあるんだか分からないものをぐるぐる歩き回りながら探したりする時間、空から降って湧いてくる鬱陶しい帝国兵をしばき上げたり、まだレベル的に倒せない敵に出会ってしまって、命からがら逃げてきたり、そんな日々をまだまだ過ごしたりしています。

 

 それが逃れられない運命を背負った男に対して、僕がしてあげられる唯一のことであるからです。そしてなにより、僕自身も彼らと旅することが楽しくてたまらないからです。

僕の人間関係不得意の話(2017年初頭の状況)

 とにかく対人関係が苦手である。

 

 それでも生きていくためには他人と関わらないといけないので、どうにかこうにか工夫をして沢山の人間の中で暮らしている。そもそも自分はなぜ他人の存在がが苦手なのだろうか?ということを昔からずっと考えているのだけれど、今現在の結論としては、「他人を意識し過ぎてしまっている」ということだと思う。同じ空間に他人がいるとき、その人が何を考えているのかを想像し過ぎてしまうのだ。

 例えば道を歩いているときに、前にいる人が一瞬こちらを振り返ったとして、「なぜこの人は今振り返ったのだろう?」と考え始めてしまう。これがひとりならまだ平気だけれど、人数が増えれば増えるほど、色んな人のことを同時に考え始めてしまう。そうすると自分の頭がパンクしてしまう。つまり、その場にいる全員の所作を確認して、何を考えているのかを想像して、それに合わせて問題が出ないように行動をしようとしてしまうのだけれど、たくさんの人間がその場にいる場合には僕の脳の処理能力が限界になり対応できなくなるのだ。その場にいる人が何を考えているかの想像を十分にできないと、どうすればいいか分からないので(周りが全て地雷原であるかのように思ってしまうので)行動ができなくなる。だから黙り込んでしまう。動けなくなってしまう。そこから抜け出そうと頭をフル回転させるので、とても疲れてしまうし、それでも結局足りないので上手く行動できない。

 このようにして、とてもしんどくなってしまうので、最終的にはその場を去ってしまうか、場の隅っこに移動して存在を消すように心がける。上手く周囲を把握できなくても、自分の行動が周囲を断絶しているならば問題は起こらないからだ。

 

 なぜ、他人の考えていることを想像してしまうかというと「失敗をしたくないから」だと思う。その恐怖がある。目に見えていることだけを頼りに何かの行動をしてしまうと、目に見えていない他人が実は考えていたことを見落としてしまい、結果的に間違った行動をしてしまうことがある。それをとても恐れているのだ。自分が良かれと思ってした行動が、その見落としによって悪い行動になってしまう可能性を考えて、もしそうなったら嫌だと思っている。

 面倒なのでできるだけ行動をしたくないのに、それでも行動した結果がプラスではなく、ゼロですらなく、マイナスになってしまうのならば、最初から何もしなければよかったんじゃないかと思ってしまう。怖い。今でもまだまだ全然怖いので、失敗しないように他人のことを見て、他人が何を思っているかを考える。このように失敗しないためのことを考え過ぎてしまうのでとてもしんどくなる。

 だからこそひとりでいると、とても解放的な気分になる。そのため、ひとりの時間を生活の中にできるだけ作ろうとする。

 

 近年は、他人と一緒にいるときに、目の前の人が何を考えているかを把握したり、把握しなくてもいいことに対しては適切に感覚を鈍化させてなんとかするという技術が多少熟達してきていて、2人や3人程度であればあまり辛さを感じないでいられるようにはなってきた。でも大人数になるとやっぱり限界を迎えて黙ってしまうことも多い。

 困るのは大人数の前で喋る仕事などをしないといけないときで、その場合は、全身の感覚を一生懸命鈍化させて、目の前の人々を感じないように努力し、まるで壁を相手に喋るように徹することになる。そうすれば、やり過ごすことができる。しかし、その帰り道などで感覚をまた鋭敏に戻ったとき、それまで無意識に知覚していた他人を認識する感覚が遅れて津波のように襲ってきたりする。それを一気に引き受けてしまうことで陰鬱な気分になる。あらゆる後悔が始まってしまう。だから、この手の仕事はできるだけしたくないと思う。

 

 ここ1年ちょっとぐらいは、通っている仕事場の立地の関係で満員電車に乗ることも増えた。満員電車はとてもつらい。例えば、電車の加速減速で右の人に押されてしまったとき、その勢いで左の人を押してしまうことがある。それは不可抗力だけれど、左の人からすれば、僕が押したと思うかもしれない。満員電車は毎日のことなので押された方も慣れてはいるだろうけれど、それでもいい気持ちはしないだろう。だから僕は吊り革をぎゅっと掴んで、他の人に体が当たらないように注意するし、吊り革が空いていなければ、なんとかバランスをとって当たらないように頑張ろうとする。それも当然疲れてしまう。

 ただ、満員電車に乗る時は周囲が知らない人ばかりであることで多少救われる。なぜならその場限りだからだ。その場をやり過ごせばそれで済むからだ。これが知り合いであったとしたら、そこでしたことは、長い付き合いの中に組み込まれてしまう。だからより必死に、他人に不快感を与えないように接しようとしてしまう。それはさらに疲れてしまう。なので、できるだけ時間を調節して満員電車に乗らないようにしているし、乗らざるを得ないときには、上手く自分がストレスを感じないように、それはつまり他人にストレスを与えてしまったという実感を得ないように工夫をすることになる。努力がなんとか緩和してくれる。

 

 「他人にどう思われるかを考え過ぎてしまう」というのは、やめようやめようと思うけれど、自分の性質に深く食い込み過ぎてしまって、どうにも排除することができない。僕にできるのは、自分がそういう人間であるということを受け入れた上で、そのままで社会との間に感じてしまう軋轢をどれだけ減らすことができるかということだ。

 

 基本方針はひとつである。他人と深く関わらないことだ。他人との接点をなるべき希薄にし、その場その場の一瞬をやり過ごせばいいだけに仕向けることで、対応しなければいけない状況を限定的にする。これだけでかなり楽になる。そして、空いた時間は漫画や映画やゲームに耽溺する。これらのいいところは、こちらを見てこないことだ。僕がそれらをどれだけ見たところで、他人の目線を気にしなくていいのはありがたい。

 ただゲームがこちらを評価してくることはある。でも、相手がゲームの場合は低評価だからといって大して気にならない。それは記号的なもので、人間を相手にしたときのように気にしてしまうことはない。ゲーム内の評価が低ければ練習をしたり戦略を考えたりして少しずつ上達していけばいいと思う。自分の能力が別に高くないことは分かっていて、評価が低いこと自体は認識の通りだから全然辛くは感じない。

 困るのは、その低い評価を根拠に他人に何かを言われてしまうことだ。他人が求める結果を出し続けないといけない状況になると辛くなる。それに頑張って応えないといけないんじゃないかと思ってしまうからだ。元来不器用な自分が、ちょっとずと改善を積み増して、できなかったことができるようになる過程自体は楽しいので、それだけなら続けることはできるのだけれど、そこに他人の存在が関わると全然別の話になる。その時その場で、他人に求められているほどの結果を、すぐに出せないことが辛くなる。だから他人と強く関わるネットゲームなんかは続いた試しがない。

 

 承認欲求という概念をいまだに実感をもって理解することができない。褒められるのも貶されるのも僕の中では似たようなもので、その他人が提示した基準に、自分を沿わせることが求められていると感じてしまう。それを見てしまうと、自分がやりたいことを横においておいて、他人により貶されず、より褒められることをしようとしてしまう。それは欲求ではなく、追い立てられるようなものだと感じている。それが怖いので、他人からの承認はできるだけされたくないと思ってしまう。

 趣味で絵を描いたり文章を書いたりするけれど、特に反応は必要ではないし、あってもあえて見ないことが多い。より多くの人に評価されることが、生きていく上で有利になるように繋がっているのなら、それは仕方ないし、仕事ならばそんな感じなのでちゃんと見て反映するけれど、趣味は別だ。趣味はそれをすることが楽しいのであって、他人にどう思われるかを考えたくないと思ってしまう。他人の目を意識してしまうと、趣味が仕事のようになってしまう。しかも、他人の目に則しても代わりにお金はもらえないので、仕事よりしんどい面倒な何かということになってしまう。だから誰からも大した反応がないのがいい。他人の注目が大きく集まってしまったとき、僕はそれを止めることになると思うからだ。

 

 逆説的に言えば、自分が他人に影響を与えてしまうというのも辛い。自分が他人に何かを伝えたことで、その人の行動や考えに影響を与えてしまった場合、その動向を見守ってしまうことになる。上手く行ったときにようやくゼロでほっとする。そして上手くいかなかったときには、そのマイナスの責任を勝手に感じてしまう。

 だから僕が言ったことに誰も影響を受けないで欲しいと思うし、それゆえに、本を読んでも映画を観ても、ゲームをしても、それの批評みたいなことをしたくないと思う。僕の意見は世界で一番ちっぽけで、誰にも何の影響も与えないのであればいいのにと思う。それはとても楽だからだ。

 

 でも、そうばかりも言ってはいられない。社会的な立場も年齢や経験に従って変化するし、僕は他人に指示を出すことも増えてしまった。自分の考えはあるし、理由を積み上げてそれがきっと良いはずだと思ってはいるのだけれど、その内容を他人に伝えるときにとてもしんどくなる。他人に指示を出して作ってもらったものが、僕の考える良さにそぐわないときに、やり直してもらう依頼をするのにとてつもない苦痛を感じてしまう。僕の抱えている正しさには、他の誰も別に寄り添わなくていいと思っているはずなのに、その自分が嫌悪している行為をせざるを得ないことになる。だから、他人に頼まずにできるだけ自分の手でやろうとしてしまったり、やってもらったことはそのまま残しておいて、その間を繋ぐアダプタのようなものを自分で用意して、なんとか辻褄を合わせることに終始してしまいがちになる。

 ただ、それは自分の仕事を無限に増やしてしまう行為で、関わっているものの規模を鑑みた立場上、そればかりをしていては回らないような状況になってしまった。それがこの1年ぐらいの話だ。だからこの弱った状況をなんとかしようとしてとても頑張っている感じです。

 自分の社会生活に向かない心性を、どうにか社会に適応させるための工夫を山のように積み増して、なんとか自分が関わっているものを思い通りの形に組み上げることに全力を傾けている。この前、そのうちのひとつが、外から見れば何の滞りもないように完成を迎えた。僕はほっと胸をなでおろしたのだけれど、その過程で必要に迫られて自分の精神の構造改革をめちゃくちゃにやってしまったので、年末年始は無数のその場しのぎの工事を行ってしまったつぎはぎの精神を立て直さなければならなくて、ひたすらダラダラと過ごした。

 30代も半ばにさしかかると、もっとずっと大人になっていることを10年前は期待していたけれど、確かに精神的な成長は遂げている実感はあるものの、その階段は一歩一歩自分で登らなければならなかったもので、とても疲れるし、まだまだ全然道半ばで、どこまで登らなければいけないのかと気が遠くなる。

 

 ただ、自分が今まで登ってきた階段を振り返って見下ろすと、ここまでは登ってこれたという実感があり、救われる気持ちになる。例えば、20代半ばの頃は、外食店の忙しそうな店員さんに「お会計お願いします」と言いだせず、手が空きそうなタイミングまで黙って待っていて、しかも、店員さんの方を見てしまうと、気にするかな?と思うので目はそちらを向けないように意識し、その状態で外食後無意味に十分ぐらい居座っていた(余計に迷惑だろう)、そんな頃の自分を思えば、今ではだいぶ人間らしくはなったのではないかと思う。

 もう少し色んな工夫を取り入れて、あと5年ぐらいかけて、人の集団の中でものつくりをする中でも平気に振る舞えるようになれればいいなと思っている。

 

 人と接するとき、僕の心の中では色んなことが起こっているのだけれど、他の人からみればそこまで変には見えてはいない場合もあって、本当にそんなに人間が苦手なの?と聞き返されることがある。精神は直接比較できないので、僕がどれだけ人間が苦手かを一般的に語ることは難しいのかもしれない。でも、そのように振る舞うためには上記のように無数の努力をしているのは事実だし、感覚としては、そのようにすることでなんとか人間社会にしがみついているわけなのだ。

 また、人間が苦手という割に、自分から他人を遊びに誘うことも結構あるのだけれど、それだって平気でやっているわけではなく、そのようなことを自分がしてもいいのか、都度ものすごく悩んでいることが多い。なぜ自分から能動的に人に声をかけるかというと、僕の精神の性質上、素直に振る舞い過ぎると、世間から完全に孤立するのが目に見えているからだ。孤立し過ぎると色々難しくなるので、何らかの意味で尊敬している人や、接しても平気だったタイプの人とは出来るだけ自分から仲良くしようとしている。ただ、僕がそうしていることがその人にとって迷惑ではないのかな?とずっと考え続けてしまうのはやめることはできない。

 

 他人は僕の思う通りにならなくていいと思う。他人を変えるぐらいなら自分を変えるか、その場を去りたいと思う。でも、それはしんどいからやりたくないだけで、とりわけ仕事上の役割としては、「他人を変える」ということをやった方がいいと思うような状況にもここのところぶちあたっている。技術のなさを運動量でカバーするようなことは、もうこの先続けられないかもしれない。だから、どうにか人と関わって関係性を構築して行くべきだろうと思う。ただ、それは僕にとってとても難しいことだ。

 無人島でひとりで暮らせるぐらいのパワーがあれば、こんなものは悩みではないのかもしれない。他人を意識しなくても生きていけるからだ。でも僕はとても脆弱なので、社会に寄生しなければ生きられない。寄生しなければ生きられないくせに、そこが辛いと思ってしまうのが、とても残念な身の上だと思う。でも、だからといって黙っていても、誰かがうっかり助けてくれるのを待ったとしても、何も解決しないという経験がある。人と会いたくないからといって人と会わなくても十分生活できるのは、何かしら状況に恵まれている人だけだろう。僕のいる状況はそんな風ではないし、何もせずに待っていたら、たぶんこれまでのどこかでのたれ死んでいたに違いない。

 

 この先も社会の中で生きていたいし、そのためには他人と少なからず関わらないといけない。別に誰も嫌いじゃない(ただ嫌いな行為はある)、むしろ好きな人が多い。でも、好きな人にうっかり嫌われたらいやなので、いっそ関わりたくないとか思ってしまうこともしばしばだ。弱ったなあと思いながら生きているわけですが、これはもう仕方がないと思っているんですよ。人間が苦手でも社会の中で生きていくためには技術が必要で、それらを習得するために、日々変化をしていかないといけないと僕は思っていて、だから、おっかなびっくりそうしようとしているわけなのです。

伝統的な漫画表現技法というものについて

 「伝統」という言葉は使い方が難しく、例えば明治時代以後に慣習となったような行事に伝統という言葉を用いてしまうと、「近代以後に作られたものを伝統と呼ぶなどけしからん」と物言いをつける人がいるそうです。ある慣習が100年以上続いていても伝統と呼ぶのが難しいのであれば、200年なら伝統なのでしょうか?それとも1000年は必要なのでしょうか?その辺の塩梅は判断する人によって異なるかもしれませんが、何を満たせば伝統であるかについての一般的な合意はないと考えられるため、気軽に伝統という言葉を使ってしまうと、それが伝統であるか否かの認識齟齬について面倒なことになる可能性があります。

 

 さて、僕個人の考えとしては、伝統かどうかを判断する基準は年数ではなく代替わりの回数だと思っていて、最低三代は続かなければ伝統とは呼びにくいと思っています。三代続くということがどういうことかというと、それが次代に継承された実績があることで、その仕組みが確立されている可能性が高いということです。一代限りで終わってしまったことは伝統とは呼ばないでしょうし、弟子に引き継がれたとしても、孫弟子には引き継がれずに消えてしまったものも伝統とは呼びにくいでしょう。三代続いたものは「自分が始めたことでないものを引き継いだ人が、それを次の世代に引き継げた」という事実を示します。であるならば、四代目以後も続いていく可能性が高いと考えられます。

 つまり、数学的帰納法のようなもので、始まりがあり、N番目が成り立つ場合にN+1番目も成り立つことが保証されているならば、それが無限に続いていく様子を想像することができます。このように、媒介となる人間を次々に変えながら、無限に伝播していける可能性が想起されることであるならば、それを伝統と呼ぶための最低限の条件を満たしているのではないかと僕は考えています。

 さらにもう一つ条件を付け加えるなら、今も続いているということです。既になくなってしまったものを、現在も伝統と呼び続けることはあまり考えられないからです。

 

 さて、伝統というものをこのように捉えた場合、漫画の中に伝統はあるでしょうか?漫画家にもアシスタントという徒弟制度に似た仕組みがあるため、技術の直接的な継承関係にある場合が多いと考えられます。ただ、最近は諸事情によりそうではないケースも多いかもしれませんが。

 ともあれ、漫画は主として記号的な絵を用いて構成されるため、時代的な流行り廃りの存在する中での模倣の文化と捉えることができます。様々な人が新しい表現を考案しては、それを他の人が模倣して作品に取り込んでいきます。その中には長年受け継がれて続いているものもあれば、一時の流行りとして消えてしまうものもあるでしょう。

 

 例えば、福本伸行の漫画には、想像上の出来事を具体的に絵として描くとき、コマの枠線を点線で描くという表現が使われています。これは漫画内での事実と空想を区別するための分かりやすい方法ですが、少なくとも僕が目にしていた90年代以降ではあまり使われない技法です。しかし、例えば前田治郎の「博打流雲ナグモ」には同様の表現が登場します。前田治郎福本伸行のアシスタントをしていたそうなので、これは師匠から弟子に一代受け継がれた表現技法であると捉えることができます。しかしながら、この表現は前田治郎以後の漫画家に受け継がれている様子が僕には確認できておらず、そもそもの福本伸行が最近は使わなくなってきているように思うので、伝統とはならなかった表現と考えることができます。

 

 一方、奥浩哉の「変」は、男性の肉体が奇病によって女性化していく過程をリアリティをもって描いた漫画ですが、この作中に胸が揺れる様子を乳首の残像によって表現するという技法が登場します。この表現技本については「GANTZ」の後書きにおいて、奥浩哉自身が自分が考案したものであり、後に多数の模倣が生まれたという話が記載されています。

 この表現技法は今も残っており、そして、その全てが奥浩哉の「変」を読んだことをきっかけに模倣したとは思い難い状況です。おそらくは孫引き、曾孫引きとなった表現であり、もはや最初の考案者が誰であったかは意識されていないのではないでしょうか?(あるいは、独自に同じ表現に辿り着いた人もいるのかもしれませんが)

 現在も存在しており、次世代に継承されているという条件を満たしていることから、「乳首の残像で動きを表現する技法」は、僕の定義において、日本の漫画における伝統的表現と呼べると考えられます。

 

 例を挙げれば枚挙に暇がありません。大友克洋の漫画における物の壊れ方や、動きを表現する為の時間の切り取り方の技法、鳥山明の描くアクションや放出される気のエネルギーの表現、あるいは井上雄彦の描く顔(特に鼻)のデフォルメ表現は無数のフォロワーを生み出していて、それは既に孫引き以後の段階に至っているために、伝統的漫画表現と呼べるものと成りつつあるのではないでしょうか?手塚治虫に至っては沢山あり過ぎて把握もできないかもしれません。

 その一方、場の緊迫感が「ゴゴゴゴゴ」と擬音で表現する技法は伝統というよりは荒木飛呂彦のものという印象が強く、他の漫画で使われる場合はそのパロディと認識されます(冨樫義博のズズズは、その影響下にありつつも少し違う気もしますが)。

 ただし、時間の経過にしたがって、今はまだ伝統となっていないものでも、それらの直接的な元ネタに関係なく表現のみが受け継がれて行くという段階変化していくかもしれません。昨今「イタコ漫画家」と呼ばれている、特定の漫画家の絵柄の模倣が行われているのはその過渡期だけの特殊な現象なのではないでしょうか?

 

 新しい漫画表現は今も多数生まれています。その中には、継承され続けて生き残り伝統となるもの、一時の流行りとして消えてなくなってしまうもの、誰にも継承されないままの唯一無二のものなど様々なものがあります。面白いのは、青木雄二の絵のように個性の塊のようなものが、そのアシスタントの系譜によって、多数の模倣と継承が行われているということでしょう。その表現の一般性が強く利用しやすいために継承されていくとは限らないということです。不思議ですね。

 最後に、僕が好きな「決して伝統にならないだろう唯一無二の表現」を紹介しますが、トニーたけざきの「岸和田博士の科学的愛情」11巻102ページにある「陰毛バブル」です。これはお風呂に入ったときなどに、陰毛に細かな気泡がついてしまう様子の絵ですが、漫画の中でこれが表現されているのを僕はこの1コマしか知りません(もしかしたらエロマンガを探せばあるのかもしれませんが)。この表現はおもしろいだけで、特に役に立つわけではないので今後も模倣者が出てこないのではないでしょうか?なぜなら、おもしろさの模倣はパクりと呼ばれてしまいがちだからです。

 ということで、陰毛バブルは恥じだが役にも立たない(でもおもしろい)、と特に上手くもないことを書いて終わりにします。

「BILLY BAT」における白と黒の違いについて

 以前、最終巻発売後にざっくりとした感想を書きましたが、もうちょっと細かい解釈の話を書きます。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 「BILLY BAT」は浦沢直樹の漫画で、ビリーバットという謎にキャラクター急かされるように漫画を描く漫画家たちを主軸にした物語です。この漫画の特徴としては、彼ら漫画家に描かれた物語が、その後、現実で実際に起こってしまうという、ある種の預言書のように機能するという点が挙げられます。それら預言書のような漫画を描くためのインスピレーションの源泉こそが、ビリーバットという存在なのです。

 

 普通の人には見えないビリーバットを見ることができる登場人物は、彼ら漫画家以外にも、歴史上の有名人物や、漫画内に登場する悪役たちなどの中にも存在し、彼らもビリーバットに導かれるようにして物語は二転三転を繰り返します。さて、彼らの言動の中で気になるポイントがあります。それはビリーバットには、白のビリーバットと黒のビリーバットの2種類が存在するというのです。

 彼らの話を聞く限り、白のビリーバットは善良なる登場人物に見えるもので、黒のビリーバットは悪辣なる登場人物に見えるようものに思えます。これら白黒の違いについては、最後に至るまで明確には描写されませんが、さらに月に存在していた第3のビリーバットを含めて、もしかしたらこうなんじゃないかと考える解釈を思いつきました。

 

それはつまり、

ではないかということです。

 

 前回の感想で、「BILLY BAT」とは漫画を描くという行為そのものを漫画化したものという解釈を書きましたが、その行為を大きく分割すると上記3種類のビリーバットになると思います。白と黒が、善と悪になぞらえられるのは、その意味でミスリードであり、しかしながら、結果的にはそれらはかなり近しいものとなってしまうという側面もあるのではないでしょうか?

 つまり、ストーリーを紡ぐことにおいては、悪こそがそれを牽引する役割を持っており、善が善であることを示すには、悪の作り上げたその道の上で反発を示すという方法が使われがちであるということです。悪が描こうとするストーリーに対して、作中で唯一反発できる存在こそが善なるものであり、それは主人公とされることが多いと考えられます。

 

 最終巻における第3のビリーバットの月からの降臨のシーンにおいて、白と黒はそもそもひとつであるという説明が成されます。これはつまり、物語を形作るためにはどちらか一方では不足するということでしょう。

 例えば「MONSTER」ではヨハン・リーベルトが、「20世紀少年」ではともだちが担っていたのが悪であり黒の役割です。そして白の善なるものとは、Dr.テンマやケンヂたちでしょう。物語の基本構造を創る黒と、その枠組みの中に収まらない白の争いこそが、物語を躍動されるために必要不可欠な行為であり、「BILLY BAT」では、おそらくそれらの経験を踏まえた上で、より具体的に象徴的に直接的に意図的にそれを行ったということではないかと僕は解釈しました。

 この物語は、実在の事件や実在の人物、およびそれに類する何かが多数登場していますが、それらはあくまで物語の構成要素として名前や立場や構造を借りてきているだけで、これはあくまで漫画であり、また漫画でなくてはならないのだと思います。

 

 これらの白と黒の狭間にある葛藤を、見下ろすように存在するのが月が象徴しているのが「テーマ」ではないかと思います。白黒の争いが物語を当初の予定から脱線させ、あらぬ方向に向かわせようとしたとしても、それらを大きく包み込み、見守る役目がテーマだと思います。月のビリーバットは、「最初に地球に隕石が衝突したことで、生まれたもの」が月であり、同時にそこに飛ばされたものが自分であると表現します。つまり、この物語の生まれる最初から存在していたものということです。

 そして、この物語のテーマとは、言葉で表現するならば、漫画家ケヴィン・グッドマンの口から語られる「なぜ相手と許しあうことができないのか」というものではないでしょうか?2つに分かれて争っていたものが手を取り合い、1つの結論に向かうこと、それは作中の最後のエピソードで描かれるものであり、そして、白黒のビリーバットが協力して物語の終結に向かわせることにもなぞらえられていると解釈できます。

 この物語の要所要所では、空に輝く月が物語を見守るように登場する場面があります。そして、実際にロケットで月に到達した男は、この物語のテーマに干渉して、変更し、自分のための物語に描き替えようとするというエピソードもありました。

 

 他の漫画において通じるところがあるものとして思い出すのは藤田和日郎の「月光条例」です。「月光条例」は、おとぎ話の登場人物が、青い月から降り注ぐ光を浴びてしまうことによって変貌し、物語の筋を破壊して、自分の欲望を満たすために動き始めるという物語です。

 上記の「BILLY BAT」の解釈に当てはめれば、青き月の光とは、白のビリーバットのことであり、物語という牢獄に閉じ込められていた登場人物に対して、それを自由に無視する権利を与えられたということです。そして、主人公の月光が執行する月光条例は、彼ら彼女らを再び物語の中に押し戻すための黒のビリーバットと同じ力となります。

 

mgkkk.hatenablog.com

 

 あるいは、「ダイの大冒険」におけるヒュンケルの存在もあります。ヒュンケルとは人間でありながら魔物に育てられ、そして勇者アバンに助けられて弟子となった男です。彼は人間でありながら、人間に対する憎悪を抱いており、しかしながら、勇者アバンに対する尊敬の念もまた隠し持つという葛藤を抱えた男です。

 ヒュンケルはダイに敗れて仲間となり、人間の側の光の力を強く発揮していくことになりますが、物語の終盤において再び悪の力を受け入れることになるのです。ヒュンケルの闇の力の師匠であるミストバーンは、ヒュンケルの力の源泉は「葛藤」、つまり光と闇の力の決して相容れぬものをその身に抱えた状態であると表現し、光の力のみを頼った今のヒュンケルにはかつてほどの力がないと断じます。ヒュンケル自身もそれに気づき、あえて闇の力を受け入れたという展開になるのでした。

 これは、作中では戦闘能力のことを直接的には意味していますが、同時に物語の登場人物としての強度の話でもあったかもしれません。内面に葛藤を抱えないキャラクターは明瞭な存在となり、ある状況があれば、当然その役割に応じた反応を返すことになってしまうはずです。それは分かりやす過ぎると感じてしまう部分があると思います。

 善悪の2択を迫られたとき、躊躇なく善を選ぶキャラクターよりも、悪を選ぶだけの十分な理由を抱えてしまったキャラクターの方が魅力的とは思えないでしょうか?物語の中で「正しいこと」を主張する役割は、実は善よりも悪の方が多いのではないかと僕は思っています。ともすれば正しい悪と間違った善、ヒュンケルという存在はそんな黒と白の葛藤を一人で表現できるキャラクターであり、そこが魅力であるという話なのではないかと思いました。

 

 「BILLY BAT」の物語は、作中の根幹を示してくれる月のビリーバットの降臨のシーンで、実は全てを描ききっているのではないかと思います。そこから先は、白と黒と月を、そもそもひとつであるという解釈を与えた上で、これまでの経緯を元に、アドリブ的に、ジャムセッションのように、自由に描かれたものであったのではないでしょうか?

 この物語が至った結末は、作中の漫画や絵として予め表現された象徴的なシーンと、最初から存在していたテーマ、そして、そこに至るまでの白黒の葛藤によって形作られたものだと思います。それは、この膨張した物語を綺麗に収束させつつ、そしてまた、その先にも開かれているものであるかのように思いました。

 

 と、いうふうに僕は解釈して読みましたが、そうであるという証拠はないので、勝手な妄想です。本年もどうぞ宜しくお願い致します。

2016年、漫画関連個人的振り返り

 2016年は個人的にめちゃくちゃ忙しく、また、社会的立場にも色々な変化が発生したので、なんだか昼間っからダラダラと漫画雑誌などを読みつつ、自分の仕事を期日までに仕上げてればいいでしょ?的な、しばらく続いていた穏やかな状況が壊れつつある感じです。他人の面倒をみたり、指導をしたり、仕事の進みを管理したりしなければならず、いい加減な人だと思われると宜しくないという感じになってしまいました。

 とはいえ分量的には今まで通りに漫画雑誌を読み、単行本になっては買って再読し、気が向けば感想として文章に残しておくというようなことは習慣として継続してやってはいました。

 

 主要な漫画雑誌をは今まで通り読んでいるものの、書店の新刊棚を見てみれば、既にとっくに知らない漫画の方が多いような状況です。それは、読んでいない雑誌のものもありますが、Webの連載であったり、アプリで配信されているものであったり、はたまた、pixivやTwitterで話題になったものがリライトされて紙の単行本になったりしたもので、今までの自分の行動を継続しているだけでは知ることができない漫画が増えたのが大きな要因だと思います。

 特に、主要な漫画雑誌がWeb媒体も運営することが当たり前のようになっており、一部の連載が、途中からWeb掲載となったり、はたまたWeb連載がの漫画が紙の雑誌に出張してきたりと複雑な状況になっており、その全容を把握するのは今の僕の置かれている状況では不可能だなと思い始めています。

 僕はネットで知り合う人には、なんとなく「漫画を大量に読んでいて詳しい人」だという認識を持たれていることが多いのですが、実際、僕が知っている範囲は全体からしてどんどんごく一部のとなってきていて、とてもじゃないですがもはや「詳しい」と言い切れるような状況ではなくなってしまいました。

 ここで、大量に読むことだけを目標のようにしてしまえば、「一冊一冊をじっくり読んで、できるだけ丁寧に感想を書きながら、自分にとってどのように響いたかを整理しておきたい」というような自分の気持ちにも反してしまうので、そうするのは難しそうです。

 

 なので、「詳しい人」みたいなのは、その筋のもっと読んでいるすごい人におまかせして、僕はそういうところからは関係なく、好きな本を好きなタイミングで好きなように読んでは、その時々で感じたことを言うだけでありたいというか、「話題の本だから読んでみようと思う」とか、そういうのからも基本的に距離をとって、一人で片隅でゴキゲンに暮らしたほうがよいというような感じに思っています。

 なので、SNSにはいるのに精神的には引きこもっているような状態に拍車がかかっています(そして、それを心地よく感じてしまいます)。

 

 漫画の出版される量はすごく増えているように思えて、にもかかわらず、今までの読んだことのないようなお話がまだまだ沢山生まれているように思うので、その懐の深さにびっくりしてしまいます。

 今年一年で何度も読み返した漫画といえば、池辺葵の漫画です。「プリンセスメゾン」の中で描かれる人の生活と心のあり方も良かったですし、フィールヤングにたまにのっていた「雑草たちよ大志を抱け」(2月に単行本化されるそうです)では、なにも特別ではない子供の心が、他人と触れ合うことによって変化する微細な揺れ動きがとても心に響きました。また、エレガンスイブに載っていた母と娘をテーマにした連作(単行本化してほしい)では、人間のなんという表情を描くのか、この心の在り方はなんと言葉で表現すればいいのか、心の隙間にポテンヒットのように落ちてきて、その先で真芯に当たってしまうというような読書体験でした。

 全然知らなかった方面から人に薦められて読んだものでは梶本レイカの「コオリオニ」もすごく良かったです。自分とは関わりのないような属性の人々の、関わりのないような出来事を描いた物語の中に、ここで描かれているのは、まさに自分の抱えている問題そのものではないか?と思えるようなものがあることを発見して、その問題の扱われ方に救われたような気持ちにもなったりしました。

 歳を重ねてよかったのは、色んなことが自分自身の体験をとっかかりにして分かるようになったような気がすることでしょう。おそらく、今の方が10年20年前よりも、同じ本をより楽しく読める自信があります。本に込められた感情の上手い再生の仕方を獲得したからです。なので、今も毎日新しい漫画を読むのが楽しくてしかたないですし、昔の漫画も毎日別の何かを読み返しています。

 

 他に今年といえば、漫画を描いてコミティアに出てみたというのも刺激的な体験でした。大学時代は漫研にいたので、描こうと思えばいくらでも機会はあったはずなのですが、なんとなく描き切ることができず、色々中途半端になっていたものを、お仕事で培ったプロジェクトマネジメント力を自分に適用したら、なんとか最後まで描き上げられたので、もう何回かやってみて、自分の思いついたことを漫画という形式で思った通りに表現できるようになれたらいいなと思っています。

 来年2月のコミティアにも申し込んでみましたが、まだ何も描いていないので、どんな感じになるか分かりません。

 

 さて、この前、雑誌の売上が書籍を下回ったというニュースを目にしましたが、漫画雑誌もどんどん衰退しているというか、「読んでいる」と言っている人を目にすることが減っているように思います。漫画家さんと話しても、「この雑誌を毎号ちゃんと読んでいる人はあなた以外に見かけたことがない」というようにコメントされたことが複数回ありました。そもそも本屋が減っているとか、立ち読みができないとか、色んな理由はあるでしょうが、僕が最近は感じているのは、時間を貴重だと強く思っているような人がいることと、楽しむということが他人によっておもてなしされることと感じているような人がいることです。

 つまり、分かりやすく外れない漫画を読むことが効率がよく素晴らしいことで、面白くないと感じた漫画を読んでしまったことを時間の無駄と感じてしまうということではないかと思います。なので、雑誌(の時点で編集部というフィルタリングがありますが)ではなく、その後に、色々な人のオススメという形で残ってきたものを読むという行動になってしまうのではないでしょうか?雑誌という形態は、その時流に乗れていないのかもしれません。そして、一方僕は依然として乗ったままどんぶらこっこと流れています。ただ、どちらが正しいとかは別にないと思います。僕はこっちが合っていて、それが沈むなら一緒に沈むだけです。

 

 総括すると、今年も漫画を沢山読んで面白かったのですが、自分を取り巻く環境的に色々とやらないといけないことも増えてきたので、何かを削らないといけなくなってしまっていて、僕は「好きな漫画についてネットで他人と共有する」ということをかなりざっくり削ってしまっていて、十代の頃、地元にいたときのように、特に話題を共有できる相手もおらず、ひとりで何かを思ってはひとりで記録するという原点に帰ってきたような感じになっています。

 おかげで、好きなものについては不特定多数の他人と共有するしない方が、自分とその作品だけに集中できるので、むしろ楽しいという感覚に気づいたりもしています。

 

 インターネットは大好きですが、何でもかんでもネットというのはやめにして、要不要を考えて脱インターネットを進めたりもし始めたのが今年という感じでした。

 今年はそうでしたが、来年はどうかはまだ分かりません。来年のことを言えば鬼が笑うといいます。56億7000万年後のことを言えば弥勒菩薩も笑う(拈華微笑)と言います。いや、言いませんね。

2016年に買って(今ちょうど)役に立っているもの

 今実家に帰省中なのですが(道中色々寄り道の旅をしてやっと帰りついた)、スマホ2つとタブレットとゲーム機とモバイルバッテリーとなどなど、USBで充電できる機械をたくさん持ち歩いて帰ってきていて、移動中や調べ物や暇つぶしにがっつり使いまくっているので、バッテリーがなくなるのが怖くてしかたありませんでした。

 なので充電できるタイミングにはがっつり充電をしたいという気持ちがあります。そのためにはUSBの充電のポートが1つや2つの充電器では、何度も差し替えつつ時間をかけて充電しなければなりませんから不便です。

 なので、こういう充電用USBのポートが5つついているやつを持ち歩くことにしました。


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8A USB急速充電器 AUTO POWER SELECT機能搭載 5ポートタイプ|株式会社バッファロー BUFFALO

 

 充電用USBポートが5つついていると、5つの機械を同時に充電できます。これは2つのときと比べて完全に便利です。2つのときは同時に2つしか充電できませんが、5つのときは同時に5つも充電できるからです。

 このように完全に便利ですが、今さっき僕が喜びいさんで沢山の機械の充電を始めたら、「充電しすぎ!」と12歳年下の妹ちゃんに笑われてしまったので、恥だと思いました。しかし、恥だが役に立つ!と思いました。

 

 上で挙げた製品はたまたまお店にあったのを買っただけなので、同等機能のの別のやつでもいいかもしれませんが、とにかくこれが今すごく役にたっています。バッテリーに不安があったら、電子書籍もおちおち読んでいられませんからね。今年完結したBILLY BATの最後の方でもそんな話がありましたね。

 サンキュー電気、サンキュー機械と思いました。それではみなさんもよい充電を。

物やサービスの適正価格関連、雑多な話

 物やサービスの価格を提示されたとき、それを高いと思ってしまったり安いと思ってしまったりすることがあります。それは多くの場合、「このあたりのものは大体これぐらいの価格だろう」という事前の認識を持ち合わせていて、それと比較して高いとか安いとか言っているのだと思います。

 

 どのような事前の認識はを持つかは、それを感じる主体がどのような環境にいるかによって大きく異なるでしょう。例えば、日本の感覚で東アジアの国々を訪問したとき、その差を感じてしまうのではないでしょうか?例えば、意外と物価が安くないこと、そしてインフラがやけに安いと感じることなどです。

 僕が米国と欧州、中国韓国台湾あたりを散策した印象では、世界的に同じようなものは、同じような値段で売られています。例えば日本で売ってるiPhoneが、中国であれば半額というようなことはありません。あるとしたら、iPhoneのガワを被せた別の何かでしょう。税金の兼ね合いがあるので、欧州などなら、日本で買う方が安いことも沢山あります。

 一方、インフラの価格は意外と土地によって違います。ここでいうインフラとは、例えば電車の料金ですが、このような公共的な側面を持つインフラはその土地に住む大半の人々が利用するものです。つまり、貧富の格差がある場合、貧の側に合わせて価格が決定されるはずです。でなければ、裕福な人しか利用することができず、インフラとしての側面を果たすことができないからです。そのような観点で見れば、日本の電車の料金は他国と比較して高いことが多く、そこに住む人々が比較的裕福な状態(日本全体の収入が右肩上がりに向上した時代の名残)で価格が設定されたのかもしれないと思います。

 ただ、理由は他にも探すことができて、例えばスイスのジュネーブで乗った路面電車では切符をチェックする仕組みがありませんでした。切符は販売しているものの、それをチェックする機械もなければ人もいないのです。ちなみに僕は訪問者だったので、滞在中は無料で乗りまわせるというチケットをホテルで貰った覚えがあります。この仕組みは基本的にそれでも不正をする人が少数であることを前提に構築されているものだと思っていて、たまにあるチェックで無賃乗車が見つかると高い罰金を払わされることで成り立っているそうです。

 このような仕組みで運用される場合、切符をチェックする機械も常駐する人も、それを維持するコストも不要ですから、サービスを低コストで維持することが可能になります。それも一つの方法です。ただ、日本的なやり方で言えば、不正をできるだけ許さず、それを防ぐことに十分なコストを支払うことが適切だという考えになりがちな印象があります。

 余談ですが、僕のジュネーブ滞在時には、路面電車の中にアコーディオンを持った人が演奏をしながら乗ってきて、おひねりを要求しながら練り歩き、去っていくということがありました。おそらくあの人たちは切符を買ってはいなかったでしょう。無料でも乗れるとなると、そういう人も出てきます。

 

 電力インフラなどでもそのような側面があって、以前災害によって電力が途絶した場合にいかに復旧すべきか?電力の途絶は人命にかかわるというような話を東南アジアの方面の人としていたときに、向こうの方では電力の供給が途絶して数日復旧しないというようなことが割とあることなので、なんで一瞬でも切れることが許されないのかがちっとも分からないというような反応がありました。

 このように最悪数日間の途絶を許容するだけで、送電のための冗長経路の確保や、復旧用の人材を待機させておく費用、無駄のないスケジューリングなどにかかる大きなコストを削減することができます。その代わり、電気がこないことによる被害だっておきるかもしれません。どの程度のサービス品質を保ち、それにどの程度の費用を払うかということに対する認識は、環境によって様々です。

 

 そういえば、以前京都の水道局で「社会に節水が普及することによる需要減に伴い値上げをする」というリリースが出たことがあって、それに対して「意味が分からない」という反応があったのを目にしました。

 設備を長期にわたって維持管理し、故障が起これば修繕し、耐用年数を迎える前に更改するということには当然ですが一定の費用がかかります。つまり、そのようなインフラ設備を持つ以上、最低限必要な費用というものがあって、それを今まではより多く使っている人からとることで賄っていましたが、そうはできないぐらいに需要が抑えられる世の中になったということでしょう。なので、利用者からすれば意味が分からないかもしれませんが、理屈は通っているので、仕方ないことだと思います。

 その維持管理コストを低減することもできるでしょうが、サービス品質を落とさずにそれを実現することは困難なことです。故障により、水道がしばらく使えなくなることを許容することや、配管の老朽化による事故などを許容するならば、ぐっと下げることもできるかもしれません。

 

 反面、「日本が他国より安い」というイメージで言えば外食です。少なくとも僕が行った範囲で日本は700円ぐらいで食べられる外食の豊富さと品質については、世界有数だと思っていて、諸外国では同じようなものを食べようとするとチップも含めて平気で2000円や3000円ぐらいかかる印象があります。僕が上手くお店を見つけられなかった可能性もありますが、1000円以下のファーストフードと、3000円ぐらいのレストランというような2択になりがちで(中国ならさらにぐっと安い屋台などもありますが)、日本の安さが、何によって支えられているのか不思議なぐらいです(とぼけて書きましたが、人間の過重労働がその一因のように思いますが。チップもないですし)。

 

 ここまでで言いたかったことは、何を適正価格と感じるかは環境によってそれぞれ異なるものであって、また、安いものには安いだけの、「高い物にはある何かを省いた」という理由がある場合が多いということです。

 

 コンテンツの世界では、値下げが横行しているように思います。アニメやゲームがそうですが、漫画でも近年そうなりつつあります。そのきっかけのひとつは電子化でしょう。電子書籍は、物理媒体を介さないため、増刷の費用が掛からないし、その時間もかかりません。そして、在庫を抱えるリスクがとても低いという特徴があります。

 つまり、物理的な本にあった諸々の制約が取り払われたとき、キャンペーンとして大幅な値引きや無料で配ることが容易になったということです。既に紙で新品の本を買うのと比較して(もう既に紙では新品が流通していないものも多くありますが)、タイミングさえ合えば大幅に安い価格でそれらを入手できる状況となっています。現状、物理的な本という比較対象が存在しているため、電子本の価格の妥当性はそれとの比較によって可能かもしれませんが、もし、電子版のみであったとき、自分はどの程度の価格をそれに払うのが適正と考えるだろうか?ということに思い至ります。

 

 「○○に払えるお金」というものの適正さは、基本的に前述の「常識」と、あるいは「比較」によって判断されがちなものではないでしょうか?つまり、異なる常識を元に価格設定されたものを見れば、「ぼったくり価格」とか「不当に安い」とか思いがちということ、そして、比較として「○○に××円払うのと、△△に××円払う方のではどちらが得か?」と考えることでも同様のことが起こり得ます。

 自分の中に何らかの適正な価格と思っている数字を見出したとき、それがどのような理路で導き出されているものなのかを考えてみるのもよいかもしれません。漫画の単行本の場合、1冊が少年誌で500円前後、青年誌で700円前後、判型の大きなもので1000円前後というものが多少のばらつきはあるにせよ一般的な感覚でしょう。実際の本もこの辺りに価格設定されているものが大半です。

 

 ここで気になるのは判型が大きいと価格が高くても妥当に感じるという僕の感覚です。少年誌と青年誌で価格設定が違うというのは、おそらく顧客層の違いと連動していると推測していて、少年誌の場合購買層に子供が多いため、より入手しやすい価格に設定する必要があります。一方、青年誌ではより購買力のある大人を対象としているため、高めに設定しても大丈夫なはずです。しかしながら、同じ判型で同じようなページ数であった場合、買う側にその価格差に納得できる理由が見つけられるでしょうか?そこを埋める方法が、本を一回り大きくする方法なんじゃないかと思っています。

 その、より分かりやすい例が、四コマ漫画誌の単行本が主に大きな判型(A5版)で売られているということです。四コマ漫画はその性質上ページ数を稼ぎにくく、その割にエピソードが詰め込まれやすいので、単行本化するならば、一般的なストーリー漫画よりもページ数が薄くなりがちだと思います。つまり、漫画の性質上、薄くて(ページ数が稼ぎにくい)高い(出せる頻度が低いの採算分岐点を低くしたい)ということにならざるを得ないということです。

 これを少年誌の漫画と比較して倍の値段で売る妥当性を見出すためには、本を大きくするということが有効なのではないかと思いました。そうすれば体積が大きくなるからです。なんと、自分は本の内容は関係なく、体積の大小によって価格の妥当性を見出しているのではないか?ということに思い至りました(もちろんこれだけが理由ではないと思います)。

 

 これは質量の側面による比較ですが、電子版の場合、その差が読者の使う端末に依存するため、そのような比較ができません。しかも最近では、紙で1冊だった単行本を電子では複数冊に分け、1冊あたりを安くして分売するという試みも見られます。これまであった、価格の妥当性は、今後紙媒体が衰退してしまった場合、より曖昧になり、曖昧になると多くの場合は価格が低い方が妥当と思う人が増えてしまうのではないでしょうか?

 実際、紙では絶版になった本が電子書籍で廉売されているケースも散見されますし、広告を付けて無料で読めるようにする試みや、読み放題サービスに取り込まれるということも起こっています。この状況は、これまで各々が漫画に持っていた「適正価格」を変化させる可能性があるのではないかと思います。

 

 価格は安い方が絶対いいとか、高い方が絶対いいとかいうものではなく、状況によってケースバイケースだと思いますが、その市場を維持するために最低限必要な額を稼げなければいけないので、あまりに安くなると分野が衰退してしまうということはあると思います。

 ただ、その際に「安くて当たり前」と思ってしまう人が悪いわけではないと思うんですよ。それはそういう環境に生きていて、培われた適正価格の妥当性が、そのようになっているというだけで、それは僕らが700円のちゃんとした定食が食べれるのが当たり前と思っている状況が、世界的に見れば不当廉売のように見えたとしても、それは当たり前じゃないかと思うようなものです。そういう環境にいれば、そういう風に思うのは、個人の意思とはあまり関係ない部分で知らず知らずのうちに食い込んでいるものです。

 例えば「日々最新の情報に更新される地図アプリを無料で使えている」という状況を異常には感じないでしょうか?それは、本来無料では維持できないものが何故か無料で提供されているという辻褄が合わない状況です。

 それを提供している会社は、別に収入源があるために利用者には無料で提供できるのであって、それはとても便利なことですが、その市場には別に収入源のない会社はもはや食い込むことができなくなります。なぜなら、「地図アプリは無料が適正価格であり、有料で提供するのはぼったくり」と思ってしまう感覚が根付いているからです。

 

 このような、「人々が考える適正価格」と「それを維持するために必要なコスト」にどうしても乖離がある現象は、色んな分野に存在します。ある製品やサービスを届けるには当然一定のコストがかかりますが、それを妥当と思ってくれる人々がお客さんでない場合、見かけ上の価格を下げる必要があります。

 それはゲームで言えばアイテム課金と呼ばれたり、ガチャであったりするかもしれません。あるいは、本であれば、売れている本がはじき出している売り上げが、売れていない本の赤字分を補てんしていたりもします。

 コストで考えれば、売れる本は売れるために安く価格設定することが可能で、売れない本は高く設定しなければならないはずです。そうでなければ採算が合わないからです。でも、こと漫画に置いては、基本的に同じ価格帯で販売されています。それは、ある種の価格統制ですが、売れるものが売れるゆえにより売れて、売れないものが売れないゆえにより売れないという、市場の一極集中を防ぐ効果もあると思います。それは、多様性を担保するために有効に機能しているのではないでしょうか。でなければ、売れるか売れないかの予測がつきづらい新人の単行本を出すことはできなくなります。

 実際問題として、この容易ではない状況にもはや負けてきている側面があると思っていて、近年では、ネットである程度人々の注目を集めることが認知されたものを優先的に単行本化しようとする動きも見られますし、動きが悪い単行本を早めに損切りしてしまったり、過去の実績を参照されて売れない単行本は売ってもらえないこともあるようです。

 完全に世知辛い感じですが、なるべくしてなっているのであって、その動きに自分が荷担していないと言い切ることができないため、吹く風の流れに自分が介入できないように、ただただ眺めているような状況です。

 

 物が安いことが当たり前になり過ぎることで、買っている側は嬉しいようでして、もうこれ以上生活の中で読めない漫画や遊べないゲームが山のようにあり、そして、それらが十分な利益が生み出せない場合があることで、十分な生活費が稼げない人も多くいるような状況を目にします。

 価格が高くなれば、それが改善するかと言えば、それも言い切れません。収入が高くなる可能性がある(少なくとも物の価格が下がり続ける状況のままでは所得が高くなる可能性がとても低い)としても、結局物やサービスの価格も高くなるのでは、生活の余裕は生まれないかもしれないからです。世の中は循環しているので、何かを変えてもそれに連動して別の何かも変わってしまいます。

 なので、僕はこうすれば良くなるという正しい解を持ち合わせてはいないのですが、昨今どんどん物を作っている人の厳しい採算の話が流れてきていて、それでいて、手間暇をかけて作られたものの多くが、溢れる情報の中で、その内容の良し悪し以前にさほど注目されぬままに流され過ぎ去ってしまうというような状況を見てはいます。なんかこのしんどい状態はずっと続くものなのだろうか?と思ったりします。

 

 だらだら書いていたら長くなったのでそろそろ終わりにしますが、最後に、最近コミックビームが提供する月額1980円のサービスに加入しました。さて、この価格は皆さん妥当と感じるでしょうか?僕はそれぐらいの元はとれると思ったので加入しましたが、知人と話をする感じでは、多くの人は高いと感じるそうです。

 サービスの内容としてはコミックビームの電子版(500円相当)と、毎月ある編集部の開催する生放送や漫画家の動画、過去作からピックアップした単行本読み放題、そして、当月に出たの新刊の期間限定の読み放題という感じです。僕はそもそも毎月雑誌を買っていたのでそれが500円ぶんあり、あと1480円の元をとればいい話ですが、生放送で500円、動画で200円、残りの単行本読み放題で780円ぐらいの感覚で捉えています(漫画喫茶に数時間行く場合との比較)。ただ、フルで楽しんでようやく元が取れるという印象なので、そもそも結構読んでいた人なら元がとれるという感じの価格設定で、そうではない他の人にお得だから是非とも加入したまえとまでは思いません。

 加入した最後の一押しは、コミックビームという雑誌が好きだからです。他の雑誌なら載らなかっただろうと思う連載が沢山あったので、なくなって欲しくないと思っているよという意思表明です。ただ、たかだか月額1980円ぽっちでは、収益的には何の支えにもならないでしょうから、なくなるとすればなくなるのでしょう。この事例だけでなく、そういうのはもはやどうしようもないなあと思っています。

 

 それはおそらくある漫画やゲームやアニメなんかが、存在し続けることに必要な最低限の価格と、その享受者であるところの僕たちの持つ適正価格感が折り合わなくなったということなのでしょう。僕は誰かが悪いとかは思いませんが、そうなったとしたら、なくなるものはなくなりますし、それは仕方ないと思います。そして、もし何らかの理由でそうならなければ、続いてくれるのでしょう。