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漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

「ガンバ!fly high」を久しぶりに読み直した話

 ガンバ!fly highは、中学生の藤巻駿が、全くの初心者であるにもかかわらず、「オリンピックの金メダルをとりたいんです」などと無茶な宣言して体操部に入部、最終的には金メダルをとるというお話です。リオオリンピックの体操の中継を観ていて、すごく良かったので、思い出して漫画を読み直したりしたんですが、こっちもほんと良かったです。

 

 なんというかこう、僕は時間の流れが感じられる漫画が好きで、最後の方の巻を読んでいるときに、最初の方の巻のことを思い出して、「ああ、あそこからここまでやってきたんだなあ」という道のりのことを思ってしまうと感極まってしまうんですが、丸1日で34巻プラス外伝1巻を読み直して、実時間ではたった1日前に読んだところなのに、その道程を考えると、とてつもなく前だったような気がして、色々あった、色々あったんだよと思い、じんわりとした気持ちが心の中に広がりました。

 

 主人公の藤巻駿は体操の初心者なので、最初はろくな演技もできないんですが、なんと、そんな状態で大会に参加するはめになります。そこではとてもとても恥ずかしいことになってしまいます。なぜなら、ろくな演技もできないのに、沢山の人が見ている中で、何かをしなければならないからです。そんな中、駿は自分にできることをやってみます。でも、それは評価されるために最低限必要な要素も満たしていなかったりして、笑われてしまいます。点数も最低です。そこが駿の原点です。全てはそこから始まりました。

 

 体操、だけには限りませんがこの種の競技の面白いところは、点数がつくというところだと思います。それはつまり、その競技が成り立つためには、演技者だけでなく採点者が必要だということです。

 このような採点競技ではもちろん、感情の入る領域をできるだけ排し、誰が付けても同じような点数になるように採点基準が明確化されているものでしょう。そうでなければ、結果に人間同士の間の好き嫌いが採点結果に強く関わり過ぎてしまうからです。でも、それでも人間がやることです。人間がやるということは、そこからシステマチックに感情を排したとしても、それでも残る感情的な何かがあるはずです。ガンバ!fly highでは、また、その領域についても描かれていると思います。

 

 良いか悪いかが点数によって判断されるということは、面白い状況だと思います。なぜそれを面白いと思うかというと、何かに点数がつけられる際には、しばしばその主従が逆転することがあるように思えるからです。つまり、良いものだから点数が高くなるということが、いつの間にか、点数が高いから良いものであるということになってしまったりします。でも、つけられた点数と良し悪しは本来は別々のことではないでしょうか?点数が高いのは、採点基準に照らし合わせればそうというだけで、その演技を見た人が感動したかどうかとは必ずしも一致しません(もちろん、一致する場合も多々あります)。

 ガンバ!fly highでは、ある技に失敗した人が、同じ技をもう一度やり直すという描写が繰り返し登場します。そして、そのたびに「同じ演技をやり直して成功したからといって、点数評価からは除外されてしまう」という事実と、「だから大会で勝つためには意味がない」という視点が登場します。

 事実そうでしょう。点数を追うだけなら、意味がありません。最後までやったところで、その点数は切り捨てになるだけかもしれません。価値観が点数だけならそうかもしれません。でも、そうじゃないものがあるということが繰り返し描かれます。

 念のため書いておくと点数をつけることが悪いと描いてあるわけでもないと思います。そこに「点数以外の価値観が登場しない」という状態に疑問を呈しているということなのではないでしょうか?なぜなら、体操選手の演技を見たとき、そこには、点数化とは必ずしも繋がっていないある種の感動が存在するからです。それが「ある」ということを描いているのだと思います。

 

 この物語は、素人ながら「金メダルをとる」という大それたことを言った少年が、その時点では誰もそれが叶うことを信じなかったのに、ついに成し遂げてみせるというものです。誰もが笑ったその夢を実現することは、笑った人たちを見返してやる物語とも読めるかもしれません。だとしても、駿の心の中には、そういう要素はなかったのではないでしょうか?

 駿はロシア人コーチのアンドレアノフに体操を教わります。アンドレアノフが説いたのは「楽しい体操」です。その「楽しい体操」というものは、誰かを見返して「ざまあみろ」と思うようなものではなかったからです。体操は他人に見せて評価を受けるものではあるものの、それ以前に自分との戦いであると説かれます。

 

 同じ技をやり直すことはその象徴的なものでしょう。失敗は人の心を縛ります。それまで一度も失敗をしたことがなかった人が、ある印象的な失敗をたった一度してしまっただけで、その後、今までは意識せずともできていたことをできなくなってしまったりします。それを乗り越えなければなりません。それは他人が代わってやってくれるものではありません。自分が乗り越えなければならないものです。誰しもそれを乗り越えて前に進むものなのではないでしょうか?

 

 自分との戦いを乗り越えて、他人を感動させる演技に繋がります。しかし、そこにある他人の目とは、採点基準という他人に決められた価値観に合わせることだけなのでしょうか?点数上は同じでも、よりよく見える演技について物語の中では語られます。誰もやっていない技は、基準がないために個性がありますが、だからといって、誰もやっていないということだけを追い求めても仕方がありません。自分と戦い、他人を魅了する演技、そして、それでいて点数も勝ち取るというなんとも欲張りなものです。

 様々な価値観が絡み合い、舞台が大きくなればなるほどに強烈なプレッシャーが襲ってきます。その中で、プレッシャーと戦いながら演技し、失敗したとしても立ち上がり、克服し続けること、その根本には「楽しい体操」があったように思います。

 チャレンジをし続けた先が金メダルです。これは物語ですから、作り事です。でも、作り事とはいえ、色々あったわけです。それが辿り着いた果てから見れば、金メダルに至る、感慨深くなるほどの道のりがあるわけです。その道のりを思うとき、胸の内に湧く感情があるわけです。

 

 この物語はシドニー五輪で結末を迎えますが、連載終了後に描かれた外伝があります。その外伝の主人公は、岬コーチとアンドレアノフの息子ミハイルです。彼は、伝説的な存在となった藤巻駿の技を、自分もやってみるために、彼の補助であった上野のもとを訪れます。体操選手としての壁にぶちあたっていたミハイルは、そこを抜け出す術を駿の体操に求めたのです。それは、ミハイルが子供の頃、ビデオで見た、彼の原点です。藤巻駿の楽しい体操が、次世代の体操選手の種を蒔いていたということです。それは駿がアンドレアノフに教わったように。駿の偉業は簡単には真似できないことですが、続く人がいるということです。時代はその担い手の手によって先に進んでいるのです。

 さて、この外伝のエピソードの時代設定が2016年なのですが、後書きを読むと15年も先のスゴイ未来世界のことと書かれていて、しかしながら、もうそこに辿り着いてしまいました。この15年のことを思うわけです。物語の中で時間は経過し、現実の日本の体操はオリンピックで金メダルを取りました。

 ちなみに僕は体操は小学生のときでやめてしまいましたが(実はやってたんです)、体操ではないにせよ、連載完結から15年という時間の流れを思い出したら、色々あったなあと思います。15年前にこの漫画をリアルタイムに読んでいて良かったなあと、15年後の今読み返して思いました。

インターネット揉め事関連雑感

 常日頃から他人に対して攻撃的な人もいるにはいると思いますが、だいたいの人は、何もなければおだやかに日々過ごしているものだと思います。でも、そんな人でも場合によっては攻撃的な感じになることがあるんじゃないでしょうか?そのための条件のひとつは、「自分が攻撃されたと感じるとき」なのではないかと思います。

 なにしろ、攻撃されているとき、黙っていたらそのまま攻撃され続けますから、殴り返してもいいはずだと考えます。緊急避難の考え方ですね。このように、自分が不利益を被るという理由を手に入れてしまうと、人は普段は起こさないような行動を起こしてしまうことがあります。

 

 僕はこの辺の行動を起こすきっかけのことを「心の天秤」というふうに呼んでいます。それはつまり、人がある行動に至るには、心の中にある天秤にそれに釣り合う理由を乗せる必要があるということです。その天秤がどんな塩梅で動くかは人によって異なるので、どの行動を起こすのにどれだけの理由が必要かは人それぞれ異なるものだと思います。しかし、基本的にはそういうものだと思っています。ある行動がなされるとき、天秤の反対側には当人にとってそれに十分釣り合う理由が存在します。

 

 人がそうであるとした場合、悪い部分もあれば良い部分もあります。例えば「〆切が近い」という理由が天秤に乗らなければ行動できない人もいます。「自分はなぜ〆切ぎりぎりにならないと着手できないのか?」という疑問を持つ人は多いと思いますが、何を隠そう僕もそうなので、何で自分はこうなんだろうと思い続けてきました。でもこの「心の天秤に乗せる理由が足りていない」という考え方をするに至って思ったのは、自分の心の天秤はそういうバランスにできているのだという諦めです。その諦めの境地に至ったことで、自分が放っておくと〆切よりも早め早めに行動することができないという事実自体には悩むことはやめてしまいました。

 つまり、いくら心の表面上で焦っていても、「まだ頑張れば間に合う、大丈夫」という気持ちが心の奥底にあるうちは、天秤に乗せる理由の重さが規定量に達していないのです。なので、いくら早めに始めよう、早めに始めようとしても、それは無理なのです。この天秤のバランス自体を作り変えることは、おいそれとできることではないと思っています。変えられないにもかかわらず、行動を起こしたいのであれば、さらに上乗せする理由があればよいということになります。

 極端な話、〆切が1ヶ月後で、まだ頑張る気にならなかったとして、1秒に1cmずつ天井が下に降りてくる部屋に閉じ込められていて、その案件を終わらせないことには潰されて死んでしまうとしたらどうでしょう?仮にあと24時間でぺしゃんこになりますが、そのお仕事の〆切自体は1ヶ月後のままだとした場合、やらないと明日には死ぬけど、でも〆切は1ヶ月後だからまあやらなくていいや…とはならないと思います。このように今やるべき理由が生まれてしまったからには今始めるということになるはずです。

 めちゃくちゃな例え話をしてしまったので、余計に分かりにくくなったかもしれませんが、僕は何かをするときにはそういうことをします。やるための理由が足りなければ、やらないといけない理由を意図的に増やすことで対応します。例えばあえて期日を早めに回答しておくと、それを守らないといけない感じが強まります。趣味であれば、ネットで告知したりすると、告知だけしといて間に合わないと格好悪いなあという理由が生まれたりします。例えばイベントに申し込んでしまえば、間に合わせないと申込料が無駄になるという理由が生まれます。

 ここには色んなやり方があるんですが、自分という人間は本当に怠惰で、やらないで済むならやらないという結論に至ることが分かっているので、もうちょっと上位概念の理性が、状況に応じて適度に理由を積み増し、怠惰な自分をコントロールするということをしています。

 

 物事には両面がありますから、「理由が足りないと行動を起こせない」ということにはもちろん良い側面もあります。例えば犯罪なんかがそうですね。

 僕は犯罪をおかしてはいませんが、それは犯罪をするに足る理由を今十分に持ち合わせていないからだと思っています。でも例えば、飢えて飢えて死にそうになっていて、お金を一円も持っていないとしたら、食い逃げとかをしてしまうかもしれません。なぜならそうしないと死ぬと思っているので、これは大きな理由となります。であれば、食い逃げは犯罪ですが、やるべきことではないですが、天秤のもう一方に「でもやらないと死ぬ」という大きな理由が乗ってしまうので、それぐらいしてもいいだろうという考えになってしまうのではないかと想像してしまいます。

 世の中にはそれでもできない人がいて、その人は規範意識の強いバランスの心の天秤を持っているんだなあと思います。

 

 僕の考えでは、犯罪を実際におかしてしまう人は、2パターンあります。1つ目は行動に至るために必要な理由が、他人よりも少なくても足りてしまうという天秤のバランスであるというパターン。もう1つは、その人が他人よりも沢山の理由を抱えてしまっているというパターンです。

 「太陽がまぶしかったから人を殺した」と言ったとき、もちろんその理由は適当な嘘かもしれませんが、たったそれだけのことでも殺人と言う大きな行動を起こすに足る人なのかもしれません。その天秤のバランスは一般的ではないので、平均的な人から見ればその事実は恐ろしいと感じるでしょう。また一方、天秤のバランスは平均的でも、沢山の理由を乗せてしまえば、行動には足りてしまいます。それは情状酌量の余地とも呼ばれ、多くの人に理解できるものなので、減刑される理由になるかもしれません。

 この場合、罪を許そうとする側にもまた天秤があるのです。その人を許すに足るだけの理由を探すことが出来た人は許せるかもしれません。そして、見つけられなければ許せないかもしれません。

 

 他人について知れば知るほどに許せる理由を見つけてしまうかもしれませんし、もしかすると逆に許せない理由を見つけてしまうこともあるでしょう。ここには、先入観なども関係してきます。つまり、許したいと最初に思えば、許せる理由を積極的に探してしまうかもしれませんし、許せないと最初に思えば、許せない理由を積極的に探してしまうかもしれないからです。

 

 場がインターネットの場合、この人間は、許すにたる人間か、そうではないか、それを埋めるために必要な情報がネットの向こうから勝手に大量に供給されてきます。許すか許せないか、その分水嶺は、その中から何の情報を取捨選択するかによるのだと思います。

 これを僕は「マクスウェルの悪魔」と似ているなと思ったことがあります。マクスウェルの悪魔とは、エントロピー増大則への反例として挙げられた思考実験で、雑に説明すると、温度の異なる2種類の気体を混ぜ合わせればそのうち同じ温度になるのが普通です。ただ、ある種の「悪魔」が存在したとして、温度とは分子の運動のことですから、運動が激しい分子のみを選り分けて通す扉を作ってしまえば、大きなエネルギーなしでも、また気体を温度の異なる2つにわけてしまうことができるということになります。

 全ての分子、つまりここの喩えでは「理由となり得る情報」を同列に扱えば同じ温度になることは自然の流れですが、その中で一部の情報を選り分けで、抽出することで、ある種の温度を高めた箱を作ることができます。これはつまり、怒りたい人が怒るに足る理由を沢山探して怒ること、許したい人が許すに足る理由だけを沢山探して許すことと似ているように思いました。

 

 僕が自分の心の天秤をコントロールして、〆切に余裕をもって仕事をするよう行動を促すように、そのような情報の取捨選択によって、怒ったり悲しんだり許したり許さなかったりする温度を、人間は自分の中で自由闊達に変化させることが可能なのではないかと思いました。

 

 さて、ようやく本題ですが、インターネットは色んな揉め事があるので、それが目に入って色々揉めているなあと思うのですが、そこで気になるのは、この揉めている人たちは、どのような心の天秤を持っていて、そして、その天秤には何の理由がどれだけ乗っているのだろうということです。行動に至るということは、何かしらそれに足る理由を持ち合わせているのだと僕は類推するのですが、揉め事情報を眺めていると、しばしば双方が「最初に攻撃してきたのはあちらの方だ」と考えているらしいことを見て取ることができます。

 この文章の最初の方に書いたように、「攻撃された」ということは大き目の理由となり得ると思うので、行動に足るためには重要な役割を果たしているのではないでしょうか?そして、双方が相手側が攻撃してきたと判断しているということはどういうことかというと、攻撃の意図はなくとも相手を攻撃していることがあるという事実です。そして、それはしばしばやっている本人には自覚されていません。

 

 自分が誰かに攻撃されたと思ったとき、その攻撃してきた誰かに、自分がその行動に足るだけの理由を与えてしまったのではないかと思うことがあります。それはつまり、無自覚にその人を傷つける言葉を自分が発していた可能性です。

 もちろん天秤のバランスがユニークな人がいて、思いもよらない種類と程度の理由だけで、その行動に足りてしまっているのかもしれません。でも、そうではないのだとしたら、例えば自分がその人が大切に思う何かをうっかり否定的に語ってしまったなどがあったのだとしたら、そんな理由を相手に与えてしまいさえしなければ、この事態は回避できたのになと思います。

 

 持ち合わせている天秤のバランスを作り直すことはなかなか困難なことです。例えば〆切ギリギリまで何かをできない人がそれを修正するということは、学生時代の8月31日にあわてて宿題をしていた人が、次の年には見事7月中に完璧に宿題を終わらせてのけるようになるぐらいの困難さはあるはずです。やろうと思えばできる!と思う人もいるかもしれません。でも、実際にそれをやった経験がある人はどれほどいるでしょうか?

 相手の天秤のバランスを変えることは困難であるなら、相手に理由を与えてしまったことに自覚的になることが、それを回避するために有効な手段ではないかと思います。ただし、それを考慮して行動することは窮屈であると思えるかもしれませんが。

 

 一方、自分がある種の行動をしたくないと思ったら、それに足るだけの理由を自分が持ってしまわないように心がけることだと思います。簡単な方法のひとつは、ヤバそうな情報は最初から見ないことだと思ったので、それを実践しています。つまり、情報の量が増えなければ、行動に足る量の理由を抱えてしまう可能性は低まります。これを読んだら怒ってしまうかもしれないなと思うような文章があったなら、最初から読まなければ怒る可能性は低いです。

 しかし、自分が「読んだら怒りそうな文章を自分から積極的に読みに行くような人」であることを自覚するとどうでしょう?それはつまり、マクスウェルの悪魔のようなものです。だとすると自分は「怒りたい人」なんだろうなと思います。そして、その行動はつまり、怒るに足る理由を自ら取捨選択して得ようとしているということです。僕の中にもそういう性質はあると思うんですが、それを自覚すると嫌な気持ちになります。

 

 僕は近年、怒りたくないなあという気持ちが強まっているので、上記のように見ないようにするための努力をしています。幸いなことに、インターネットの文章は、タイトルの時点で自分が不快に思いそうなものをある程度見分けることができるので、非常に便利ですね。あとはこのサイトは見ないということをしたり、何かに怒りたいタイプの人が怒るための材料をSNSで大量に供給してくる様を非表示にしたりします。

 おかげで嫌な気持ちになることが減りましたが、必然的に人の集まる場所を避けるような形になっているので、人とは疎遠の傾向も強まっている気がします。ただ、そもそも人付き合いが得意ではない方なので、こちらの方が性に合っているなあと思います。

 

 つまり、「怒りたくないなあ」「嫌な気持ちになるなあ」とか「こちらの方が性に合っているなあ」というのは、僕がそのように行動するための重要な理由となっていて、僕の今の心の天秤はそのようにできているのだと思います。

 それを今の所は上手い具合にコントロールしていて、自分が良い感じになる方向に誘導しており、なんとなく意図通りに動けているような気がしますが、何かのバランスが崩れたりするとまた考え直さないといけないかもしれませんね。これからも良い感じにしていこうと思います。

作者の名前に敬称をつけるかどうか問題

 インターネットに漫画とか映画とかゲームとかの話を書くとき、その作者の名前に敬称をつけるかどうかに迷ったりします。つまり、知り合いでもないのに呼び捨てしてもいいんだろうか?って思うんですけど、色々考えた結果、僕は基本的には呼び捨てにすることにしています。

 それは作者名を、一個人の名前というよりは、その作品を特定するための識別子として使っているという認識だからです。作品タイトルに敬称をつけないように、作者名にも敬称をつけません。その代わりの条件として、フルネームで記述することを必須とし、また、同作者による何らかの作品に対しての言及のときのみにしか使わないということにしています。

 なので、例えば、その作者の人の作品以外のことに関しては何らかの敬称をつけることになります。例えばSNSの投稿に関することに言及するとしたら、それは作品ではなく個人の話なので敬称付きにします。あと、既に亡くなっていて歴史上の人物に近くなると敬称を外すという傾向もあるかもしれません。つまり、敬称をつけるつけないは、言及先を人として取り扱うか、情報として取り扱うかという差です。

 

 今理屈を提示しましたが、これらの敬称をつけるつけないかの判断はは、実際は「個人的にしっくりくるかこないか」をベースに判断していて、上記の理屈による分類はただの後付けです。後付で感覚と一致する理屈を考えました。つまり、言語における文法みたいなものです。これは「親しい知り合いでもないのに名字で呼び捨てとかありえないだろ」みたいな個人的感覚の集積なので、例外的に上手く切り分けられないものもあります。

 例えばお笑い芸人についてはなぜか呼び捨てにした方がしっくりくるというのがあって、基本的にはコンビ名に名字の組み合わせ例えば「ダウンタウン松本」ならセーフということに自分の中でなっています。そして、それがセーフということになると、ピン芸人だけに敬称をつけることになるという違和感から、ピン芸人も呼び捨てになることが多いです。

 実態に即して理屈を考えると、理屈が筋が通っているように見えて、実は沢山例外があったりする感じになりがちなので、美しくないですね。

 

 これらは自分の感覚なので、自分はそれに則していることを実感しますが、「他人もこれに従え」というような気持ちは特にありません。ただ、自分の感覚では違和感のある呼び方をしている他人を見ると、この人の頭の中ではどのように整理されているのかな?ということは気になったりします。

 

 インターネットを見ていて気になるのは、なぜ冨樫義博氏に関して言及する人は、「冨樫」と名字を呼び捨てにする人が多いのか?ということと、ここ最近の「シン・ゴジラ」に関する言及を見ていると庵野秀明氏に関する言及も「庵野」率が高くて、びっくりしました。一方、鳥山明氏に対する「鳥山」という呼び方はあまり見かけませんし、宮崎駿氏に対する「宮崎」という呼び方はあまり見かけません(「駿」という呼び捨てはあるかもしれません)。

 この辺の呼び捨てる感覚、傍から見ている感じでは、親しみと場合によっては蔑みが入り混じったような感じに見えますが、どうなんでしょうか?僕の感覚としては、そうする人は他人と自分の距離が近いひとなのかな?と思いますが、僕自身は仕事場に来た新卒の新人に対しても敬語で話すような感じの他人との距離感が遠くにあるタイプの人間なので、それがどういう感覚なのかよく分かりません。

 

 そういえば、なかやまきんに君(お笑い芸人なので何故か個人的に呼び捨てがしっくりくる、前述の名字呼び捨てもこれと同じ種類の何かなのかどうなのか…)が何かの舞台で言っていたネタで、学園祭でスタッフに名前を間違えられたあげく敬称をつけられて「なかやまきんにくマン君さん」というわけのわからない名前で呼ばれたみたいなやつがありました。

 そういうことを唐突に思い出したということをもってして、特に結論はなくこのお話は終わりです。

漫画を描いたのでコミティア117に出ます

 なんとなくコミティアに出たいと思ったので漫画を描きました。なぜコミティアに出たいと思ったかというとなんとなくです。僕が思うに「なんとなく」というのは、人生をいい感じにやっていくためには絶対に無視してはいけない種類の感情だと思います。なぜそう思うかというとなんとなくです。

 

日時と場所は、

8/21(日) 東京ビッグサイト スペース:U02b サークル名:七妖会

です。宜しくお願いします。

 

 

 さて、漫画を描こうと思うといくつかの問題にぶちあたりました。なぜなら、漫画をろくすっぽ描き上げたことがないからです。しかし、それらの問題を乗り越えないと漫画を描けないのでそれらを解決する必要がありました。代表的なの問題は以下の3つです。

 

1.描きたいことがない

2.描き方がわからない

3.描くのがめんどい

 

 かなり本質的な問題が眼前に横たわっていたので、頑張って乗り越えていかなければなりませんでした。描き上がったということは、乗り越えられたということなので、それぞれの問題についてどのように取り組んだかをシェアさせて頂きます。

 

1.描きたいことがない問題

 描きたいこと、ほんとないです。他人に対して何かを主張したいということもないので、うわー、何も描きたくない!って思ったのですが、今回は目標を描くことに設定してしまったので、なんとなくお話の始まりと終わりと、描きたいことを絞り出すことにしました。とはいえ描きたいものが、自分の中にはなかったので、自分が好きな本にあった、自分が好きな部分を、自分なりに再現してみようというのを当初の目標として設定してみることにしました。しかし、これは結果的に失敗に終わります。なぜならプロの人が作ったものの中にある良いものを、十分に再現できるスキルが僕にはないからです。

 しかし、こういう感じに、無理矢理方向性と手段を決めたので、描き始めることには成功しました。僕が思うにこれは普通なんじゃないかなあと思っていて、普通に何不自由なく暮らしておいて、何かを強烈に主張したいということは生まれにくいのではないでしょうか?でも、何も思っていないわけではないんだと思います。何かを描き始めたら、ようやく明文化されていない自分の中の何かがにじみ出てくるような感じかなあと思ったりしました。

 

2.描き方がわからない問題

 描き方は全然わかりません。ぼんやりと考えている話の流れを、どのようにシーンに分割して、ページ分割して、コマに分割すればいいのかが分かりません。最初はネームで最後まで描き終わってから本チャンの原稿を描こうとしていたのですが、半分ぐらい描いたところで頓挫しました。なぜなら、当初思っていた結末に、どうしても辿り着かないからです。起承転結というものがあるとすると、起承承承みたいな感じになっていって、話として辻褄は合っているのですが、どこにも辿りつかないままページだけが進んでいくというような感じになってしまっていました。

 そこで仕切り直して、描き方を変えてまた最初から描きなおしました。どういう描き方に変えたかというと、基本的に見開きの2ページずつ、ネームと下描きとペン入れまで同時にしてしまうことで退路を断ち、基本的にはそれでそこまでの内容を確定させてから先に進んでいくという方式です。

 これは、一人でやるリレー漫画のような感じで、ここからどうするの?みたいなことを都度、それまでの流れを読み返しながら描きました。するとどうでしょう。話は一回目よりもずっと展開するようになりました。しかし、イマイチ辻褄が合いません。なので、ちょっとずと前の台詞を描きなおしたりしながら、全体としての整合性をできるだけとりつつ、なんとかじりじりと進んで行く感じになりました。

 ただ、ラスト数ページの段階で、またもや「これ、今まで描いてきた流れに乗ると、ちゃんと思っていたページ数で収束する感じに終わらせられないな」と困ってしまいました。しかし、その困ったところに、なんとなく常日頃から自分が思っていることが当てはまるような気がしたので、それを当てはめて終わらせてみました。とりあえず終わったのでよかったということにします。

 

 あと、コマ割りができないという問題があったんですが、これは去年、文学フリマに出した妖怪本のときにちらっとだけ描いた漫画のときの方法を使っています。どういうことかというと、そのページに何をどのように描くかを決める前に、まず適当にコマ割りをしてしまうということです。

 人に話したら、「そんなやり方聞いたことがない」というようなリアクションを貰ったのですが、僕は結構これを合理的と思っていて、なぜなら、漫画を描く経験は全然足りないですが、漫画を読む経験はそれなりに蓄積があるからです。

 つまり、「描いていておかしい」ということには今のところなかなか気づけませんが、「読んでおかしい」ということには気づくことができます。気づいてしまえば、今のコマ割りをどのように変化させればいいかを考えることになりますから、説明が足りないようなら、追加でコマを分割してみますし、それで小さくなるようなら大きく配置しなおしてみます。このような試行錯誤ができる段階になるようにまず非常に適当でもいいので叩き台があることが重要と考えました。

 

 僕が最近考えていることに、「頭の中の解像度」というものがあります。それはつまり、自分を取り巻く世界は高解像度なのに、自分の頭の中は低解像度でしかないように感じているということです。

 この解像度の差を仮定した場合、世界を頭に取り込むときは、情報を単純化してしまえばいいですが、頭の中のものを外の世界に出すときには、解像度が足りないため、何らかの超解像処理(低解像度⇒高解像度への変換)が必要になります。でなければ、ドットの荒いガクガクの絵になってしまうからです。この超解像処理こそを上手くやることこそが技術力だと思います。

 

 頭の中にある設計図を、思った通りに出力するには、ぼんやりとしたものをはっきりとしたものに変換する能力が必要です。その能力がない場合は、出力が安定せず、出力を試行するごとに偶然性が強く出てしまいます。つまり、やってみなければわからないことが多いということです。

 高い技術力がある人は、作ってみる前の段階から、完成形がある程度見えていて、それに合うように出力できるかもしれませんが、僕のような低い技術力しかない人間は、一旦出力されてみるまで、それが良いのか悪いのかを判断することすらできません。そこで、とりあえず試行錯誤をできる状況に持っていくことの重要性を考え、そのようにしてやってみました。

 

 これは作り手と受け手の間で一般的にある話で、受け手の人は作り手が完成させたものを見て、「ここを直した方がよい」などと思うことがあります。しかし、多くの場合、作り手より超解像の技術力の劣る受け手は、完成品を見なければ良し悪しが判定できず、であるからこそ、自分の頭の中の理想通りに、世の中にそれを出力するという能力も持ちません。なので、「自分は観る目があって良いものが分かっている」と吹聴するような人でも、いざ実際に作ってみると全然ダメなものしか作れないとか、ちゃんと完成しないみたいなことになってしまうんじゃないかと思います。

 僕もそんな感じなので、色んなものを読んで、「こういうものが面白い」というようなぼんやりとした考えはあるのですが、では、いざそれを形にしてみようとすると大体上手くいきません。ただ、今回はやってみようと思ったので、できる範囲でやってみました。

 

3.描くのがめんどい問題

 パソコンの力がすごいですね。パソコンがあると、めんどい作業をかなり削減することができます。僕は枠線を引くのが面倒で面倒でしかたないので、できるだけやりたくありませんが、パソコンでやるとものの数十秒ぐらいで引けてしまいます。前、たいへん尊敬している漫画家さん(アナログでひとりで描いている)に「枠線引くのめんどくないですか?」って聞いたら「めんどいよ」って返ってきたので、めんどいのにやれるなんて、なんて実行力があるんだ!と、ちょっとめんどいとやれなくなってしまう自分のダメさを実感してしまったことがあります。しかし、人間の性質は簡単には変わりません。だから、めんどくなくてもよい方法を探すのが重要です。それがパソコンで描くことでした。

 他にめんどうなことと言えば、紙に描いてスキャンして取り込むのもめんどうなので、ネーム兼下描きも、ペン入れや仕上げも、最初からタブレットでやりました。あと、ひと手間かければコマから絵がはみ出さないように描くこともできます。トーンもアナログならめんどいですがパソコンならまだやれます。背景と人を別々のレイヤで描けば気を遣わないで描けますし、フキダシの位置を後から変えてみたりするのも簡単ですし、ホワイトをいくら使っても紙に盛り上がることがないので、無限に試行錯誤ができます。

 前述のように、ある程度作ってみないと良し悪しが分からないようなレベルの技術力しかない僕にはパソコンというやり直しをしやすい手段があることが、完成させるには必要不可欠ということが分かりました。

 

 上手い人はパソコンを使わなくても大丈夫ですが、僕のような上手くない人は絶対パソコンを使った方がいいんじゃないかと思います。

 

 

まとめ

 このように、ちょっとめんどうな問題にぶちあたると何もやれなくなってしまうような人間も、目の前にある問題のそれぞれに適切に対策をとり、めんどうさを可能な限り排除してやれば、漫画を描いてみることができます。

 僕の考えでは基本的にあらゆることは、それを自分ができない理由をリストアップして、それらを全部解消した段階で出来てしまうので、そういう風にやってみるといいんじゃないかと思っています。ともかく、今回の目標は完成させることなので、完成させた時点で100点満点だと自分で思っていて、よかったよかった満点でよかったと思いました。

 

 ほんとうによかったなあと僕は思いました。もし、当日ご来場の方がいらっしゃいましたらどうぞ宜しくお願い申し上げます。

シン・ゴジラのシン(秦)について

はじめに

 「シン・ゴジラ」を公開の次の日に一回観たんですけど、そのあと4DXでももう一回観たりしました。面白かったからです。その内容に関しては面白かったなあということ以外に特に言いたいことはないんですが、「シン」って何かね?っていうことが気になります。みなさんもどうせ気になるでしょう?

 英語版のタイトルが「GODZILLA RESURGENCE」らしいので、ゴジラの再誕というか、また初めてゴジラが日本に現れるところからやってみましょうという感じで、「新」なのかな?っていう感じかもしれませんが、わざわざカタカナにしているのは、他の文字も当てはめていいですよ?みたいな感じかもしれません。「真」とか「神」とか、色んなシンが世の中にはありますけど、僕が思うに「秦」じゃないかなあと思ったりします。

 

秦の始皇帝

 「秦」とはかつて存在した中国の王朝です。ご存じ、始皇帝の秦です。なぜ秦だと思うかというと、この映画は秦の始皇帝の話を下敷きにして構築しているのではないかと思うからです。結論から書くと、「東の海より現れる不死の龍」という存在が始皇帝の目指したものそのものです。

 

 始皇帝といえば、中国を統一し、「皇帝」という称号を最初に名乗った人物であり、不老不死を求めた人物でもあります。彼は徐福という男に、東の海の向こう蓬莱にある不死の霊薬を探しに行くように命じます。徐福は数多くの童男童女や職人を連れ、東の海に船を漕ぎ出し、結局帰ってこなかったと言い伝えられています(実際は海に出ずに始皇帝から金をせしめて逃げたという話もありますね)。とにかく、始皇帝といえば不老不死です。

 

 そしてまた、始皇帝は「龍」に喩えられます。代表的な伝説では、諸国を回っていた始皇帝がひとつの噂を耳にします。それは「祖龍が今年死ぬ」というものです。「祖龍」とは人の祖先を示すものだと始皇帝は言いますが、その一年後、始皇帝は死んでしまいます。つまり、始皇帝こそが祖龍であったということです。

 中国の皇帝には龍のイメージがつきがちです。そもそも皇帝という言葉自体が、中国の神話の時代の三皇五帝という存在に由来します。三皇と呼ばれるのは神のような存在で、何を三皇とするかは文献によって異なりますが、「史記」によれば「伏義」「女」「神農」がそれにあたります。このうち、「伏義」と「女」は夫婦とも兄妹とも言われる、人類の始祖であり、その姿は人面蛇身の姿をしています。中国神話の思想では、人類の祖には蛇がいるということです。これは龍と置き換えて認識してもいいでしょう。

 五帝とは、神話の時代に活躍した帝王のことですが、その最初の人物である黄帝もまた龍と関連の深い人物です。龍の姿を持つとも言われ、神農の末裔である蚩尤との戦いでは翼の生えた龍である応龍の力を借りてこれを打ち倒します。始皇帝の行動は黄帝に倣ったと解釈できる部分が多々あります。中国を統一した黄帝は、ついに不老不死の仙人となり、龍の背に乗って天へと消えていったという伝説が存在します。始皇帝もまた中国を統一し、不老不死を求めました。ちなみに始皇帝が目指した永遠なる存在は「真人」とも呼ばれます。ここにもシン(真)が登場しましたね。

 さて、三皇にも五帝にも龍の要素はあります。そこから名前をとった皇帝が当然龍を象徴するものであるのは自明です。事実、五本の爪を持つ龍は皇帝の象徴として色々な場所にその姿が残されています。

 

ゴジラ=徐福説

 始皇帝が目指した姿が不老不死の龍であったのだとしたら、そして、その姿を得る道がはるか東に眠っていると考えられていたとしたら、もしかするとゴジラこそが始皇帝の目指した姿であったのかもしれません。しかし、始皇帝はそこに至ることなく命を落としてしまいました。ではあのゴジラはいったい何か?それはおそらく徐福の成れの果てでしょう。始皇帝の叶えられなかった夢を叶えた男こそが徐福なのです。

 

 シン・ゴジラの劇中では、ゴジラの生命のメカニズムを解明しようとする過程で、人類がいまだ知らない未知の物質を発見され、それは人類にとっての「福音」でもあると主張されます。東の海より徐に立ち現れる福音、それはつまり「徐福」ということではないでしょうか?そして、福音にはもうひとつの解釈のしかたがありますね。そう「エヴァンゲリオン」です。ここで、徐福=ゴジラエヴァンゲリオンという図式が成立します。

 本筋ではありませんが、エヴァンゲリオンが徐福であることは、これまでの学説からして自明だと思います。念のため根拠を書いておくと、新劇場版の「序破急(Q)」は、「徐福」が長い歴史の中でなまったものであるという理解が識者の中では定説です。徐福が引き連れたのは童男童女、そして百工と呼ばれる技術者たちであることも、チルドレンとNERVというふうにエヴァンゲリオンと符合しますね。

 

 話を戻して、つまり上記の仮説が正しいとすると、秦・ゴジラとは、始皇帝の命により、蓬莱へ不老不死の霊薬を探しに行った徐福が、日本を越えて東の海の果てで藻屑となり、2200年以上の長い年月を過ぎて、ついには始皇帝の追い求めた不老不死の龍の姿を獲得し、日本に上陸する物語であると言えます。

 

なぜゴジラ(徐福)は日本にやってきたのか?

 ここに残る主な疑問は以下3点でしょう。

1)なぜその姿を獲得するに至ったのか?

2)なぜ今だったのか?

3)なぜ中国ではなく日本にやってきたのか?

 

 これらの疑問に関してひとつひとつ僕の解釈を書いていきます。

1)なぜその姿を獲得するに至ったのか?

 多少ネタバレとなりますが、秦・ゴジラは最初から龍のような姿であったわけではありません。元は深海に棲息する海洋生物が、海に投棄された放射性物質の影響で突然変異を起こしたものであったと考えられています。

 ここで思い出すのは大鮫魚のことでしょう。これは徐福が始皇帝に申し立てた、蓬莱への船旅を邪魔する存在です。これはまた、「太平記」では龍神が変化した姿と記述されています。そして、始皇帝はこれの中の一魚を殺し、ほどなく病で亡くなったと伝えられます。

  もしかすると徐福は大鮫魚に取り込まれてしまったのではないでしょうか?その正体が龍であることからその存在は不死であり、蓬莱にある不死とは、行く手を妨げるかに思えたこの魚そのものを意味していたのかもしれません。このような海洋生物として、水底で穏やかに暮らしていたはずの徐福は、前述の放射性廃棄物による影響で一変します。生来の不死の力は暴走し、以上変化を遂げることとなります。その姿が元の龍神の要素を色濃く見せるものであったとしても不思議ではないでしょう。

 つまり、かくの如くして、徐福は不死の龍へと変態を遂げたのです。

 

2)なぜ今だったのか?

 おそらく、きっかけは、東京湾で謎の失踪を遂げた牧悟郎博士でしょう。まず、彼が何者であったかを解き明かす必要があります。

 「牧」と言えば、牧場のことです。古代日本においては天皇の命により開発された勅旨牧が多数存在し、例えば、信濃十六牧の大野牧は秦氏が牧長でした。古代の日本には始皇帝の末裔を称する秦氏という渡来系の人々が存在しており、彼らは天皇家と深い付き合いがあったと記されています。中でも、厩戸王(聖徳太子)と秦氏秦河勝の関係は深く、ここにも牧(馬)が関係しています。

 つまり、牧悟郎博士は、秦氏縁の人物であったのではないでしょうか?彼こそが始皇帝の末裔であり、祖先の果たせなかった夢を果たそうとした人物であると考えられるのです。

 

3)なぜ中国ではなく日本にやってきたのか?

  ゴジラが日本に最初に現れたのは東京湾の羽田沖、羽田は秦に通じます。つまり、始皇帝の末裔たる牧悟郎が、秦氏の縁の土地である羽田沖において、始皇帝に恨みを持つ徐福を呼び寄せたとは考えられないでしょうか?

 姿を消した牧悟郎博士はどこへ行ったのでしょう?それは明確には描かれませんが、ひょっとしたらゴジラに取り込まれてしまったのかもしれません。それはつまり、不死の龍となることを求めた秦の始皇帝が、ついにその悲願を達成したことを意味するのです。

 

まとめ

 このように、「シン・ゴジラ」が「秦・ゴジラ」であるということの非常に確度が高い論考が僕によって発表されたことになりましたが、いかがでしょうか?どこまで信じられますでしょうか?僕が思うに、最初の段落で大半が脱落していると思うんですが、この文章は最後まで読まれるんでしょうか?

 ともかく、みなさんもシンの意味について考えてみるといいですね。

電子書籍で漫画雑誌を買いはじめてから何年か経ちました

 日常的に漫画雑誌を電子書籍で買いはじめてから多分2年半ぐらいが経ちます。アフタヌーンの電子版が配信され始めたときあたりから、雑誌は徐々に電子版で買うことが増えました。それによって色々感覚が変わったところがあるので、それについて書きます。

 

 僕は月に漫画雑誌を80冊ぐらい読んでいる(週刊漫画雑誌は複数回カウントしてます)のですが、漫画喫茶で読んだり立ち読みも全然するので、買っているのは大体30から40冊ぐらいです。買ったり買わなかったりしています。1日2冊までというルールにしていて、休日は漫画喫茶に行ったりするので、だいたい毎月これぐらいだと思います。その一部が電子雑誌になっています。でも、まだ電子で買っているのは5冊から10冊ぐらいです。

 

紙と電子の違い

 紙で買うのと電子で買うのはどう違うかというと、全然違いますが、どちらかが一方的に良いということはないです。長所短所があります。

 単純に読むということを考えるなら紙の方がいいです。大きいし、読みやすいし、手触りや匂いや温かみがあります(実際あります)。何より重要なのは、他人と回し読みできたりするところです。知り合いが集まるところに置いておけば、僕が買った雑誌を誰かが読みます。僕も誰かが買ってきた雑誌を読みます。これはとてもいいことだと僕は思うのですが、電子書籍にはこれがないか、あっても非常に限定的なので、実用的に使うことは現時点では難しいです。

 平日は週刊漫画雑誌を紙で買って、仕事場の人とシェアしたりしているんですが、そうでなければ電子版でも変わりませんね。

 

 電子版のメリットには、いつでも買えることと、ゴミが出ないことがあります。

 ゴミが出ないのは重要で、大量の雑誌を縛って捨てるのも億劫ですが、何よりの大敵は、捨てる前にもう一回読んでおこうと思ってしまう僕の心です。そして、その最期の一回をなかなか読まないので、どんどん雑誌が蓄積してきます。どこかのタイミングで腰を据えて読み直しては縛るということをするのですが、そこまではどんどんたまってしまっていました。

 これを避けるために、一回目でもういいやと思うまで読むという対策をしていたりもします。週刊漫画雑誌がそうで、仕事場への行き帰りで読み終わり、駅のごみ箱などに捨てて帰ります。雑誌を読む最良のタイミングは出た瞬間です。出た瞬間に読みさえすれば、捨てることは躊躇がありません。半端に持ってしまい、あとで読み返すかもしれないなどと思うから、いつまでも家にあるのです。

 こういったことが電子版ではほとんどありません。なぜなら、買ったものは全部ずっとスマホの中に入っているからです。機種変などをすると再ダウンロードする必要がありますが、それも読もうと思えばいつでも読めるので特に気になりません。

 本を裁断してスキャンするということが、一時流行りましたが、それはもしかすると読書術ではなく整理術なのではないか?と思っています。なぜなら、前述のように本を捨てるときの大敵は、「また読むかもしれない」とか「もう一回読んでから」という気持ちではないかと思うからです。手元にスキャンした画像を残すという方法で、その大敵を解消できれば、紙をなかなか捨てられなかった自分のような人も容易に捨てられるようになります。一方、電子版では、そういったストレスも無縁です。全部手元にあり続けます。

 今僕のスマホには128GBのmicroSDカードが挿さっているのですが、漫画一冊を50MBぐらいとすると、2500冊ぐらい持ち運べます。これだけあれば何年かは持ちますし、何年か後にはさらに大容量のストレージがあるでしょうから、原理的に無限では??という気持ちになります。

 

 電子版の問題としては、先ほどどこでも買えると書いたものの、電子雑誌は数百MBぐらいあるものもあり、スマホのモバイル回線で直接ダウンロードすると容量制限による問題が発生する可能性があります。以前は転送容量無制限のWiMAXを使って、気が狂ったかのように出先で百冊とかの漫画をダウンロードしたこともあったのですが、今では、WiMAXを解約してしまったので、原則Wi-Fiがある場所でしかダウンロードしていません。結局ダウンロードできる場所を限定して運用しているので少し不便になっています。これは、この先、容量制限が緩和されたりすると気にならなくなるのかもしれませんが、おそらく先の話なので、当面は不便と思いながら使うことになると思います。

 

 あと、紙の本が重たいという事実も見過ごせません。コンビニで大体手に入るとはいっても分厚い月刊少年マガジンなどを一日中持ち運ぶ気には最近とんとならないですし、それでも買ったときは、自分ルール的には2冊買っていいものの、運ぶのがしんどいので月刊少年マガジンのみにしてことが多いです(アホなことに、なぜか出かけに買ってしまったりします)。こんなときにも電子書籍なら重くないので楽で素晴らしいですね。

 

漫画雑誌と電子書籍の相性

 電子書籍と雑誌の相性は良いと思います。なぜなら、電子書籍は少なくとも今後しばらくは勝手にコピーされないためのDRMと無縁ではいられないと思うからです。それは、自分が買った本を永続的に所有できるかどうかが保証されていないということです。しかし、雑誌はもともと捨てていたので、仮にサービスの都合でもう読めなくなったとしても、もともとの状態に戻るだけですから、まあいいかという気持ちになります。とは言ったものの、雑誌を何年分も所有できるという便利さによって感覚が変わってきているので、いざそうなったら文句をいうかもしれませんが。

 

 ちなみに、僕はDRMがあること自体は、今現在しょうがないと思うので、しょうがないなと思っています。なぜなら、漫画のタイトルで検索すると、違法アップロードされた漫画のダウンロードURLが一番上にくるとかいうような状態続いていたことを憂いていたからです(今も一部ではまだまだそうでしょう)。この状況でコピー制限なしのものを売れという気持ちにはなれませんでした。カジュアルにコピーされまくると想像しうるからです。ただ、実際、権利関係の識者によると、電子配信されたもののDRMが外されて高画質の漫画が違法アップロードされているケースも増えているらしいので、いたちごっこだなと思います。

 もう何年かすれば、音楽のようにDRMフリーにするべきかどうかの議論が現実味を帯びるのかもしれませんが、それが漫画出版にとって良いかどうかはわかりません(音楽業界が苦しんでいるように)。

 

電子書籍で漫画雑誌を買って変わったこと

 新しい単行本が出て、買って読んだあと、その続きのまだ単行本化されていない分を電子版の雑誌で読み直すようになりました(雑誌が全部残っているので)。便利だなあと思うのですが、紙の単行本と電子の雑誌という棲み分けならともかく、ここで単行本の方も電子書籍で買っていた場合、不思議な気持ちになります。なぜなら、雑誌で持っている漫画は電子版をいつでも読み返せる状態で所有しており、それと同じ漫画が単行本でも電子版であるとなると、スマホの中に同じ漫画が二重にあることになるからです。

 なので、単行本を買わなくても雑誌を読み返せばいいのでは?という気持ちになり、描き足しやおまけページなどがないことには、単行本を買う理由がかなり消失してしまいます。利点と言えば、雑誌の該当ページを探すのが面倒なので、一気に読めると言うことぐらいですが、順番を並べ替えて読みやすくするのにお金を払っているのか…という気持ちになります。とはいえ買っているわけですが。

 これを考えると、雑誌に連載されている漫画は、ある雑誌に載っている漫画を一定種類以上買うとき、単行本を買わずに雑誌だけ所有する方が金銭的には安いと言えるでしょう。となれば、単行本で利益を上げるモデルの雑誌と単行本の関係性がおかしくなるかもしれません。

 

 棲み分けのひとつとしては、漫画雑誌と電子書籍の読み放題サービスの組み合わせです。僕はauのブックパスというサービスを利用しているのですが、例えばFEEL YOUNGコミックゼノンなどは、読み放題サービス内で読むことができます。これらの雑誌を買っていたことを考えると、月額600円ぐらいはすぐに元がとれてしまいます。さらには、一昔前の漫画やキャンペーンが中心ですが、全巻読める読み放題漫画も沢山あるので、浴びるように漫画を読みたい人間にとっては読み放題サービスはとても便利です。

 読み放題サービスにおける漫画雑誌は、ダウンロード期間が一定で区切られているため、しばらくすると追加料金なしでは読めなくなります。この読める期間の限定という方式が、雑誌と単行本の棲み分けということになるのかもしれません。

 

まとめ

 このように、紙の雑誌が好きは好きなままですが、利便性という意味で電子版に移行しつつあるというのが現状です。それは仕方ないなあと思いつつも、一部、問題も起こりつつあります。何かと言うと、今まである雑誌を継続的に入荷していた近所の本屋が、僕が買わないことも多くなった(とか、仕事場の近くで買うことも増えた)ことによって、いつのまにか一部の雑誌を入荷しなくなっていたりしたことに気づいたからです。

 多分、僕が買い続けていれば、「買う人がいるんだから」と入荷し続けてくれていたのではないか?と思うのですが、僕はそこで買えなくなると、隣駅の本屋まで行かないといけないので、よりいっそう電子版を買った方がいいのではないかという気持ちになってきています(特に仕事場に行かない土日に出る場合)。

 

 なんとなくの予想として、今噂されているAmazonの読み放題サービスなどが始まると、漫画雑誌の一部、特に一部の書店にしか置かれないような月刊漫画誌は、そちらにシフトしていくのではないか?と思っていて、なぜなら、既に読み放題サービスで漫画雑誌を読んでいる僕が便利!便利!!って思っているからです。そうなるとある程度雑誌と単行本、紙と電子の棲み分けが収まりよくなるので、良さそうなのですが、色んな要素を考慮していないので、そうなると思う!と言うよりは、そうなったら僕が便利なのになあと思うぐらいのことです。

 

 あと、僕は雑誌を買うと、一通りの漫画に目は通しますが、世の中の大勢は「目当ての漫画を2、3個読むと、もう読まない」という感じなんじゃないかと思うので、どんなに環境が変わってもみんなが雑誌を隅から隅まで一生懸命読むようなことはないだろうなと思っています。

 実は一番重要なのは、紙や電子、売り切りと読み放題のような環境の違いではなく、沢山の漫画を読む気になる人がどれぐらいいるかということなのかもしれません。

 ともかく、個人的にはどんどん便利になっているので良いですし、これからもっと便利になってくれ!!と思います(読むので)。

ポケモンの自己同一性問題(またはスワンプポケモンの話)

 スマートフォン用の位置ゲーム、「ポケモンGO」が日本でも配信されたので、流行に波乗りしてやり始めました。しかし、遊んでいるうちに哲学っぽい感じの問題に行き当たったのでシェアさせて頂きます。

 

 ポケモンGOは位置情報をベースに、色んな場所にいるポケモンを捕まえて育成し、バトルするというようなゲームですが、僕はまだまだぼちぼちしかやっていないので、気が向いたときにアプリを起動して、近くにいるポケモンを集めたりしているだけの感じです。このゲームでは、ポケモンを集めたり、ポケストップと呼ばれる各地に点在する目印となるオブジェを訪れたりすることで、経験値を得てレベルを上げていくことになるのですが、ある程度レベルが上がってくると、より強いポケモンが登場しやすくなってきます。そこで行き当たる問題こそが「ポケモンの自己同一性問題」です。

 

 「花の慶次」で主人公の前田慶次が、獰猛な巨馬と親交を深め、「松風」と名をつけた故事にならい、僕はポケモンGOで捕まえたポケモンに次々と「松風」という名前を付けていました。そんな適当な動機でも名前をつけてみると愛着が湧いてきます。

 にもかかわらず、前述のように、初期に手に入れたポケモンよりも、レベルが上がってから手に入れたポケモンの方が強く、育成するにしても、既にある程度強いものをベースにした方が楽なのです。おかげで、ゲームを始めたばかりに手に入れ、名づけ、育てていた愛着と思い出のあるポケモンを「より強いポケモンを手に入れたので」という理由で手放すという決断を迫られてしまいました。

 

 本作では、余剰なポケモンは博士に送りつけることで代わりに育成に使える飴と交換してもらえるという仕組みです。つまり、あるポケモンを育てたければ、同種のポケモンをガンガン捕まえて交換し、より多くの飴を手に入れることが重要です。しかし、新しく手に入れたポケモンよりも、最初の方に手に入れたポケモンの方が愛着があり、手放したくないという気持ちと、手放した方が効率よく遊べるという気持ちの狭間で、僕は揺れ動くはめになってしまいました。

 この板挟みの中で僕が至った結論は、愛着のあるポケモンを博士に送る前に、名前をデフォルトの種族名に戻し、新しく手に入れた強めのポケモンの方にその名前を襲名させるという儀式を行うということです。これにより、僕の気持ちとしては、同じ名前で同じ姿なのだから、こちらは最初からいる僕のポケモンだという気持ちになりつつ、効率よく遊べるようになりました。これは、複数の問題を一度に解決する「アイデア」だと思ったわけです。

 しかし、気づいてはいけないのは、あくまで名前を勝手に襲名させただけで、最初のポケモンとは別れてしまっているということ、そして、彼らとは二度と出会うことができないだろうということです。これはよく考えるととても恐ろしいことです。つまり、ポケモンにおける自己同一性とは一体何だと考えるべきなのでしょうか?彼らは何をもってして、別のポケモンと区別され得るのでしょうか?

 

 スワンプマンという思考実験があります。ある男性が雷に打たれて死ぬと同時に、その雷によって近くの沼に化学変化が起こり、今死んだ男性と原子レベルで全く同じ物理構成の存在が生まれたとします。同じ物理構成なので、沼の男(スワンプマン)は、自分と同じ構成の存在が今ちょうど死んだこともしらず、家に帰って家族団欒を過ごすでしょう。しかし、元の男性は死んでしまっているのです。その事実には彼の家族の誰一人として気づきません。そして、彼自身も気づかないのです。果たして、死んだ男性とは何なのでしょうか?そしてスワンプマンとは何なのでしょうか?

 

 これと同じような問題をポケモンGOポケモンは持っています。今僕の手元にいる松風という名のコラッタは、多分七代目ぐらいです。松風(コラッタ)の前には6体の松風(コラッタ)がいます(飴と引き換えにされて、もういません)。しかし、姿かたちからは新旧個体の区別がつきません。パラメータは異なりますが、そこはあまり気になりません。特に強さに関わるパラメータが向上していることは喜ばしいこととさえ思います。名前は同じ松風です。この松風と、消えていったかつての松風たちは何が違うのでしょう?そして、僕は、消えていった松風たちのことを忘れてもいいのでしょうか?

 

 このような問題は漫画の中にも時折登場します。ある重要な登場人物が死んでしまったあと、同じ顔をした別の存在が登場するということです。そして、おそろしいことに新しい存在が登場したことをきっかけに、いなくなった古い存在の記憶は徐々に薄れていってしまいます。例えば「はだしのゲン」では、物語の序盤、ゲンと弟の進次のコンビが活躍します。しかし、悲しいことに原子爆弾の投下の日、進次は死んでしまうのです。その後に現れたのが、進次と全く同じ顔をした少年、隆太です。隆太がいることは、進次が亡くなった悲しみを和らげてくれます。無論隆太は隆太であり、進次ではありません。でも似たポジションに、似た存在がいることが、喪失を忘れ去れてしまうということはあるのではないでしょうか?

 「幽遊白書」の飛影は、母親の形見の氷泪石を探す旅を続けていました。その中で彼は、自分の石を見つける前に、妹の雪菜が持っていた石を受け取ってしまいます。それは自分の石ではないということは分かっています、しかし、分かってはいるもののそれによって、「かつて自分の未熟さにより失ってしまった石を探し当てる」という目的は薄まってしまいます。目的を見失った飛影は死に場所を求めるようになってしまいました(それはまた別のお話ですが)。

 

 世の中に完全に同じものは2つないにもかかわらず、同じようなものを手に入れてしまうと、失われたもののことを忘れそうになります。「3×3 EYES」では、死んだと思われたハーンの遺伝子情報を元に生まれたクローン、リバースハーンが登場します。ハーンは死にましたが、リバースハーンがいるということが人々の喪失の痛みを和らげます。しかし物語の終盤、体はほとんど崩壊しつつも、実はハーンはまだ死んではいなかったことが分かります。それは残酷な話です。リバースハーンは、自分にはオリジナルの代替であり、まがいものであるという事実が突き付けられ、そして、周囲の人々はハーンかリバースハーンかのどちらかを選ばなければならないという選択をつきつけられます。このお話は、サンハーラの力で両者が融合するという形で、解決が見られます。都合がいい話ですが、それによって心のざわめきは止まります。

 そういえば「岸和田博士の科学的愛情」における長官も同じような話ですね。へまをおかした長官は孤島の牢獄に幽閉されてしまい、その代わりに、遺伝子操作で頭を大きくして面白い感じにしたコピーの長官が、物語に登場し続けます。読者が、投獄されたオリジナルの長官のことを忘れたころに、その事実をつきつける話をする意地悪さがすごいですが、彼らも最終的には科学の力で融合することで問題の解決をみます。
 ちなみに逆のバージョンでは、2人の女性に求められる主人公の玄野が、コピーされて2人になって三角関係を回避するという「GANTZ」のお話もありますね。

 

 例を挙げればきりがありませんが、このような喪失と代替の物語は、ポケモンのスワンプマン、つまりスワンプポケモン問題に対する、気に病まない接し方を示唆してくれているのではないでしょうか?つまり、古いポケモンが消え去り、新しいポケモンが何食わぬ顔で、同じ名前と同じ姿で居続けていることに僕が感じるストレスには、いやいや、そうではなく彼らは別のように見えて実はひとつの存在であるのだよ?というような理屈をぶつけることで耐性を身につけることができます。

 生物としてのポケモンには、まだまだ分からない部分が沢山残っています。その分からない部分に秘密が眠っているのかもしれません。彼らはデータ化され、デジタル情報として転送されることができます。そう、彼らは既にスワンプマン的な特性を持っているのです。もしかすると、あるポケモンがあるポケモンであるという同一性を裏付けるものは、ポケモンという存在における余剰次元領域において集合的無意識のように繋がっており、個にして全、全にして個であるという…(妄言が続くので割愛します)。要は「いちいち区別して気にすんな」ということです。

 

 スワンプマンの問題についてはSF小説などを読みながら、子供の頃に色々と考えたことがあります。自分の体をデータとして分解して転送するという仕組みがあったとして、当の自分は転送時点で存在が消えてしまい、転送先では自分ではない存在がデータとして再生されて、その自分と全く同じ他人が、自分として周囲に受け入れられているというようなことを想像したりします。それによって背筋がうすら寒くなったりしました。

 それは怖いので、そういう転送装置がもしあっても使いたくないなあと思いながらも、そのときしばらく考えて至ったことは、そもそも自分の同一性は本当に確保されているのか?ということです。例えば、自分が自分であるという意識は、意識の連続性が失われた瞬間に曖昧になります。昨晩寝たときの自分は、現在起きている自分と、本当に同じ人間なのでしょうか?例えば脳みそをデータストレージとして、起きている頭のメモリ上で展開されている自分の意識は、意識をシャットダウンした時点でプロセスがキルされてしまっているのかもしれません。次の日の朝、目覚めとともに立ち上がったものは、また別の新しい自分であるとは考えられないかと。自分が自分であるということを裏付けているのは肉体と記憶ですから、同じ肉体上で同じ記憶を持っているだけで、自分は昨日と同じ人間だと思い込んでいるだけなのかもしれません。

 もしかすると、人間は毎日寝るときに死んでいて、毎日起きたときに新しく生まれているのかもしれません。となれば、一般的に言われている死は、死を迎えたあと、新しく目覚めないということと解釈できます。生きているようでも、毎日死んでいるのかもしれないのであれば、自分がスワンプマンとなったとしても、同じことなのかもしれません。どうせ寝たら死ぬのですから。つまり、それは特別なことではなく、常にあり、既に毎日経験していることかもしれないので、「いちいち区別して気にすんな」ということです。

 

 というようなことをポケモンGOを遊びながら考えていたんですよ…と人に話していたところ、「またわけのわからないことを考えてしまって袋小路に入ってしまっているね。もっと素直に遊んだらどうだい?」というような主旨のコメントをもらったので、ああ、そうだ、まったくその通りだと思ったりしました。