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「うしおととら」のキリオ編について

 僕は「うしおととら」が大好きなので、隙あらばうしおととらの話をしてやりたいと思っているのですが、今ちょうどアニメでキリオの話が始まったので、キリオ編について書きたいと思います。

 

(既に読んでいる人向けの感想共有目的なので、ネタバレをガンガン書いてしまいます)

 

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 キリオ編は、うしおが「自分の母」と「日本を脅かす強大な妖怪である、白面の者」、そして「その白面の者を唯一打ち倒せる武器である、獣の槍」の、因縁を巡る長い長い旅を終えて、帰ってきてから、ほどなくして始まるエピソードです。そこで登場する少年、キリオは、うしおよりも年下にも関わらず、強大な法力を持つ、獣の槍伝承候補の最後のひとりです。うしおが獣の槍を持ち、とらという妖怪とコンビを組んでいるのと対比されるように、エレザールの鎌という武器を持ち、九印という有機合成された人造生命とコンビを組んでいます。

 

 キリオの活躍は、そう、白面の者の分身のひとつである「くらぎ」の来襲から始まります。あらゆる力を反射するその能力の前に、光覇明宗の法力僧たちはなすすべがなく、獣の槍を持ったうしおすらも歯が立ちません。そして、その戦いの中で、光覇明宗の長である日崎御角は命を落としてしまいます。その「くらぎ」に止めを刺すのがキリオです(実際には日崎御角の力で「くらぎ」はほぼ倒されていたわけですが)。キリオは勝ち誇ります。うしおは、そして、法力僧たちは、日崎御角を失ったことで、自分たちの弱さ、その無力さを存分に味合わされることになるのです。

 キリオの強さに魅せられた法力僧たちは、「うしおにしか使えず、無力な獣の槍」を捨て、「誰にでも使える、強力なエレザールの鎌」を欲するようになるのです。そして、獣の槍を葬り去ろうとさえしてしまいます。

 

 このキリオ編には、うしおととらという物語の構造における様々な機能的な要素があると思います。

 

 まず書いておきたいことが、光覇明宗の名もなき法力僧たちの存在です。彼らは妖怪と戦う力を持ちながらも、獣の槍の伝承候補になるほどの能力はありません。つまり、彼らは弱い存在です。そして、そんな弱い存在であるということの悲しみと、強くなりたいという願いが、最近読み返していると特に胸に来るポイントでした。

 

 初登場したキリオは、アリジゴクに食べられようとしているアリを眺めています。そして、車に轢かれそうになったところをうしおに助けられます。その際、キリオを助けようとしたうしおは、アリもアリジゴクも踏みつけて殺してしまうのです。キリオはうしおに指摘します。これが「うしおが今までしてきたこと」だと。うしおは無意識に多くのものを踏みにじってしまっているということです。

 獣の槍は、光覇明宗が長い間使い手の候補を養成しつつ見守ってきたものです。伝承候補に選ばれた4人は、光覇明宗の法力僧の中から選ばれた、特別な才覚を表した存在です。しかし、獣の槍を実際に手にしたのは、彼ら伝承候補ではなく、実家の蔵にあった槍をたまたま抜いてしまったうしおでした。法力僧たちには不満があります。なぜ、辛い修行に耐えてきた我々の中からではなく、普通の少年であるうしおが槍を使うのかと。

 

 法力僧たちは、北海道に向けて旅立つ前のうしおの前に現れ、そしてまた、くらぎを倒し、日崎御角が亡くなったあとのうしおの前にも現れます。目的は同じ、獣の槍の奪取です。しかし、その意図は全く異なります。最初のときは獣の槍を取り戻すため、2回目は獣の槍をこの世から消すためでした。白面の者と戦うための力、その象徴であった獣の槍は、エレザールの鎌の前に、目障りな武器として捉えられるように変化してしまいました。それは何故でしょうか?それはエレザールの鎌は誰にでも使え、獣の槍は槍に選ばれた人にしか使えないからです。エレザールの鎌であれば、彼ら弱き法力僧にも使えるのです。自分たちでも戦えるからです。獣の槍は彼らを排除し、エレザールの鎌は彼らを受け入れたのです。

 

 法力僧たちは何故強くなりたかったのか?そして戦いたかったのか?それは、自分たちが弱いことが許せなかったからでしょう。彼らが強ければ、「くらぎ」に負けることはありませんでした。彼らが「くらぎ」に負けなければ、彼らの尊敬すべき存在である年老いた日崎御角が、老体に鞭打って戦うこともなかったのです。そして、その戦いの中で力を使い果たし、死ぬこともなかったのです。少なくとも彼らはそう思ったのではないでしょうか?

 力さえあれば、自分たちが守りたかった存在を守ることができたはずなのに、なぜ守れなかったのか?それは弱かったからでしょう。彼らの弱さを、破戒僧の凶羅は辛辣に指摘します。「弱いやつはいつも助けを待ってるからな!」と。そして、凶羅の言葉はそれを放った自分自身を焚き付ける言葉でもあったはずです。彼もまた日崎御角に恩があり、そして、「くらぎ」に歯が立たず、守れなかったひとりなのですから。

 弱いのは悲しいことです。みじめなことです。自分が守りたかった存在すら守ることができないのです。自分たちが守りたかった存在に、逆に守られてしまい、そして命を落とされてしまうのです。彼らには力を欲する理由があります。誰かに守られるのではなく、誰かに託すのでもない、自分たちが自分たちの力で戦うのです。そして、今度こそは守るべきものを守るのです。選ばれた者でなくとも使える魅力的な武器、エレザールの鎌…それが仇である白面の者の用意した罠だとも知らずに。

 彼らはその弱さゆえにつけ込まれ、再び騙され、利用され、裏切られ、どん底に突き落とされることになります。なんと悲しいことでしょう。特別な存在ではない彼らが、自分たちの無力を痛感し、自分たちも戦いたいと願ったこと、その気持ちに強く共感するからこそ、その弱き心につけ込まれ、利用されてしまい、最悪の事態を招き、そして、無惨に犠牲になってしまうことに強い悲しみを感じます。

 

 ある若き僧は最期にこう言い残しました。

「私らが愚かでしたァ…むざむざ獣の槍をォ…封じ手しまいましたァ…すみません…すみません…でも…我々も…白面の者と…戦いたかった…」

 

 この悲劇の一端は、うしおが獣の槍に選ばれてしまったということにあるのだと思います。そして、このエピソードは槍に選ばれたうしおが、今度は槍を選ぶというものでもあるのだと思います。

 このときうしおは、たまたま巻き込まれたからではなく、自分の意志で槍を持ち、そして戦うことを決断するのです。槍の力を頼り、槍の戦いの記憶を得ることで強くなった、普通の少年であったうしおは、敗北を経験することで、槍の力がなくとも戦える力を得ようとします。これまで、最強の槍の力に頼り、多くの妖怪を蹴散らしてきたうしおが、槍のない自分の無力さに気づき、そして、自らの意志で強くなろうと決断するのです。

 槍のないうしおは法力僧たちよりも弱かったのです。しかし、練習したうしおはそんな法力僧たちを一気に追い抜いていきます。法力僧たちは鎌という外部の武器に力を求めた一方、うしおは槍の超常的な力のみを頼らずとも強くなるため、槍の声を聞き、ともに強くなろうと努めたからです。日崎御角を守れなかった無力さはうしおも同じです。うしおもまた自分の力の無さを嘆き、さらには槍を奪われながらも戦いました。

 赤い布によって力を封じられ、どろどろに溶けた鉛と水銀が冷えて固まった中に封印されてしまった獣の槍…失われたかと思ったその槍を、うしおは再び求めます。槍の名を呼びます。一度は槍の持つ憎しみに飲まれ、その身を獣と化してしまったうしおが、今度は槍と再び契約し、白面の者と戦うことを誓います。それはうしお自らの意志です。

 思えば、これまでのうしおの戦いは、受動的なものとも言えました。人を襲う妖怪がいるから退治する。誰かを助けるために、自分が助かるために。それは完全なる自分の意志とは言い難いかもしれません。仕方がないから戦うのです。降りかかった火の粉を払っているのです。そして槍に、その戦う力を与えられたから勝てたのです。しかし、今度のうしおは違います。自分の意志で戦うことを決断します。槍に操られているわけではありません。運命に操られているわけでもありません。獣の槍とうしおは、同じ目的を共有するパートナーとなります。

 

 キリオ編は、これまでのある意味で受動的であったうしおが、自分の意志で白面の者という強大な敵と戦うことを決断する転換点であるのだと思います。そして、獣の槍をなぜうしおが使うのか、他の伝承候補でもなく、法力僧たちでもなく、なぜうしおなのかが明確に物語られます。このエピソードを通じて、うしおは光覇明宗という存在を味方につけることができるのです。

 

 うしおが運命の子であるならば、キリオもまた別の立場の運命の子です。

 うしおは、白面の者を封じるお役目の母を持ち、かつてとらを獣の槍で縛りつけた者の子孫の父を持ち、時を遡って獣の槍が誕生するきっかけに立ち会いました。うしおは自分の意志とは関係なく、外堀から、獣の槍を使い、白面の者と戦う運命を背負わされていました。そこだけ見たとき、そこにうしおの意志はあるでしょうか?うしおを除いた外堀は、全て彼が白面の者と戦うように仕向けられています。しかし、このエピソードを通じて、その中心にあるうしおもまた、戦う意志を持つのです。周りに言われたからではなく、自分のこととして。

 一方、キリオは、強力な武法具を取り扱うためのマテリア(素材)として攫われてきました。人工的に作られた法力の強い子として実験台にされ、エレザールの鎌を渡され、九印とともに、その才覚を法力僧たちに見せつける役目を背負わされています。それは、獣の槍がもはや不要であるという考えを人々に植え付けるためです。人間の願いと恨みから生まれ、自分に初めて恐怖を与えて獣の槍を、彼ら人間の手によって葬り去ろうとする白面の者の策略です。キリオにも選択肢があったようには思えませんでした。彼は母と慕う白面の者の分身を喜ばせるため、その自覚もなしに白面の者の手先として、便利な道具として使われてしまいます。その意味でキリオもまた外堀だけ埋まった、中心の空白です。運命の奴隷です。

 そして、全てが嘘であったことが露呈したあとでは、キリオはその外堀を全て失ってしまいました。目的を失い、からっぽになったキリオもまた、自分の人生を生きなくてはなりません。うしおが自分のことを自分で決めたように、キリオも、この先、自分の生き方を自分で決めなければならないのです。誰に望まれたからではなく、自分自身の意志で。

 

 このように、キリオ編は物語の転換点となるとても重要なエピソードです。うしおが白面の者との本格的な戦いを開始し、目的を見直し、決意を固めるエピソードです。そして、白面の者がいかに強く凶悪で、それに大して人間がいかに無力かを見せつけられます。

 子供の頃の僕は人間の弱さのようなものに嫌悪感があったように記憶していますが、大人になるとその弱さこそが誰もが持つ部分であり、それは愛すべき部分ではないかと感じています。そして強くありたいと願うことに共感し、それが簡単なことではないことに胸を痛めます。彼ら弱き法力僧たちは、後に白面の者との最後の戦いに参加します。凶羅も、日崎御角の言葉を思い出し、誰ともつるまず、ひとり戦います。キリオもまた戦う理由を見つけ、そこにいます。そこまでの道程に思いを馳せ、あー、アニメでこれからまた見るのが楽しみだなあと思いました。

 

 ただ、凶羅は尺の問題でカットされてしまいましたが(凶羅大好きですのに)。