漫画皇国

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作者の名前に敬称をつけるかどうか問題

 インターネットに漫画とか映画とかゲームとかの話を書くとき、その作者の名前に敬称をつけるかどうかに迷ったりします。つまり、知り合いでもないのに呼び捨てしてもいいんだろうか?って思うんですけど、色々考えた結果、僕は基本的には呼び捨てにすることにしています。

 それは作者名を、一個人の名前というよりは、その作品を特定するための識別子として使っているという認識だからです。作品タイトルに敬称をつけないように、作者名にも敬称をつけません。その代わりの条件として、フルネームで記述することを必須とし、また、同作者による何らかの作品に対しての言及のときのみにしか使わないということにしています。

 なので、例えば、その作者の人の作品以外のことに関しては何らかの敬称をつけることになります。例えばSNSの投稿に関することに言及するとしたら、それは作品ではなく個人の話なので敬称付きにします。あと、既に亡くなっていて歴史上の人物に近くなると敬称を外すという傾向もあるかもしれません。つまり、敬称をつけるつけないは、言及先を人として取り扱うか、情報として取り扱うかという差です。

 

 今理屈を提示しましたが、これらの敬称をつけるつけないかの判断はは、実際は「個人的にしっくりくるかこないか」をベースに判断していて、上記の理屈による分類はただの後付けです。後付で感覚と一致する理屈を考えました。つまり、言語における文法みたいなものです。これは「親しい知り合いでもないのに名字で呼び捨てとかありえないだろ」みたいな個人的感覚の集積なので、例外的に上手く切り分けられないものもあります。

 例えばお笑い芸人についてはなぜか呼び捨てにした方がしっくりくるというのがあって、基本的にはコンビ名に名字の組み合わせ例えば「ダウンタウン松本」ならセーフということに自分の中でなっています。そして、それがセーフということになると、ピン芸人だけに敬称をつけることになるという違和感から、ピン芸人も呼び捨てになることが多いです。

 実態に即して理屈を考えると、理屈が筋が通っているように見えて、実は沢山例外があったりする感じになりがちなので、美しくないですね。

 

 これらは自分の感覚なので、自分はそれに則していることを実感しますが、「他人もこれに従え」というような気持ちは特にありません。ただ、自分の感覚では違和感のある呼び方をしている他人を見ると、この人の頭の中ではどのように整理されているのかな?ということは気になったりします。

 

 インターネットを見ていて気になるのは、なぜ冨樫義博氏に関して言及する人は、「冨樫」と名字を呼び捨てにする人が多いのか?ということと、ここ最近の「シン・ゴジラ」に関する言及を見ていると庵野秀明氏に関する言及も「庵野」率が高くて、びっくりしました。一方、鳥山明氏に対する「鳥山」という呼び方はあまり見かけませんし、宮崎駿氏に対する「宮崎」という呼び方はあまり見かけません(「駿」という呼び捨てはあるかもしれません)。

 この辺の呼び捨てる感覚、傍から見ている感じでは、親しみと場合によっては蔑みが入り混じったような感じに見えますが、どうなんでしょうか?僕の感覚としては、そうする人は他人と自分の距離が近いひとなのかな?と思いますが、僕自身は仕事場に来た新卒の新人に対しても敬語で話すような感じの他人との距離感が遠くにあるタイプの人間なので、それがどういう感覚なのかよく分かりません。

 

 そういえば、なかやまきんに君(お笑い芸人なので何故か個人的に呼び捨てがしっくりくる、前述の名字呼び捨てもこれと同じ種類の何かなのかどうなのか…)が何かの舞台で言っていたネタで、学園祭でスタッフに名前を間違えられたあげく敬称をつけられて「なかやまきんにくマン君さん」というわけのわからない名前で呼ばれたみたいなやつがありました。

 そういうことを唐突に思い出したということをもってして、特に結論はなくこのお話は終わりです。