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大友克洋全集で「童夢」を読み返した関連

 大友克洋全集の刊行が始まり、第一弾として「童夢」が出たので、買って久々に読み返しました。どう思ったかというと、めちゃくちゃすごくて面白い漫画だなあということです。

 

 僕は大友克洋世代ではなく、その影響を受けた漫画で育った二次世代だと思います。童夢が雑誌に掲載されたのも、僕が生まれる前です。なので、その登場に直接的な衝撃を受けたということはなく、童夢は、中学生のときに読んだAKIRAから遡って、高校ぐらいのときにようやく読んだおぼえがあります。

 

 当時読んだときから面白かったですが、今読むとより良い感じがしていて、全然古びない漫画だなと思いました。そして、そこから影響を受けた漫画を沢山読んだあとですら、その価値が失われているとは特に思いません。むしろ「新しい」とさえ感じてしまいます。実際の時系列を考えるとそんなことはないのですが、自分の理解が大人になってからやっと追いついた部分があるのかもしれません。

 

 僕が感じた童夢の凄さは、「無いものを描かずに描く」ということを徹底していることだと思います。在るものを精緻に描くことで、無いものを描かずに描いているように感じました。つまり例えば、よく話題になるチョウさんが超能力で壁に押し込まれるシーンや、その前段の、手が壁にビタッと貼り付けられるシーンでは、そこに存在する力そのものは描かないのに、それによって動かされたものをリアリティをもって描くことで、読者の頭の中で「無いものを想像させて描く」ということを徹底しているように感じました。

 原因と結果だけを描くことで、その間にある過程を描かずとも、読者の頭の中にだけ生み出すことができるという手法です。

 

 他の例も挙げれば、例えば冒頭の屋上の扉に手を掛けるシーンをめくると、見開きの団地に「どさっ」という音だけが描かれ、人が落ちたことを認識できます。落ちる瞬間の絵も、落ちたあとの絵も描かずに、落ちたということが表現されました。このように構成としても、描かずに描くことを目指しているように思います。

 

 超能力による破壊表現は、「ドラゴンボール」のようなエネルギーそのものを描くものや、「ジョジョの奇妙な冒険」のスタンドのように力に特定のビジョンを与えて壊すものなど、在るものとして表現する手法もあり、それは表現手法の選択の問題であって単純な優劣はないと思いますが、どのような表現を選択するかという部分には、何かしらの思想があると思います。

 

 つまり、童夢で描かれた表現のフォロワーは沢山いると思いますが、その表現そのものに影響を受けたとしても、その背後に感じられる「描くことで描かずに描く」という思想性にまで徹底して再現した作品は比較的少なく、それゆえに、その後似たような表現を沢山見たとしても、そこにある凄みそのものは、今なお真似できないものとして存在しているのではないかと思いました。

 表現そのものは氷山の一角で、その下に眠っている、その表現を生み出した大きな部分があるように感じられるからです。

 

 大友克洋漫画は、あれだけ「描ける」人でありながら、だからこそ「描かないこと」を表現としてしまえるところに、達人的な凄さがあるように感じます(刀を極めて無刀に至るというような)。

 

 そう考えていくと、童夢は積極的にセオリー外しのようなことをしているようにも思えます。舞台を日本的な団地とすること、そこで起こる戦いに他の誰も気づかないこと、戦う2人を老人となんの変哲もない少女とすること、戦う理由を過度にドラマチックに盛り上げないことなどです。

 これを、誰もが注目する世界の存亡をかけた戦いとし、印象的な場所を舞台として、古くからの因縁を断ち切るように美男美女が戦うお話に装飾することで、盛り上げることもできるはずです。それによって何巻も続く大作にすることもできると思います。

 でもそうはならないことが童夢の凄さというか、そういった盛り上げるための装飾を可能な限り取っ払うことで、必要なものだけで構成された、素材としてのシンプルな強さが見えてきているのではないかと思いました。

 

 ここにおいても何を描かないかの部分に思想性があると解釈があると言えるのではないかと思います。

 

 まとめると僕が童夢に感じた凄さは、物事のディテールを強く描くということと、重要な部分を描かずに描くという、「描く」と「描かない」の両極端が同時に存在しつつ、それが破綻ではなく同じ目的に使われている強さが徹底されている部分なのではないかと思いました。

 ほんと凄いし、買って良かったです。