漫画皇国

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他人を自分の思った通りに動かす方法関連

 ウチの爺ちゃんは陸軍にいたので、陸軍の話を聞かせてもらったことがあるけれど、終戦が近くなって若年で徴兵された爺ちゃんには直接的な戦闘経験はあまりなく(いや、もしかすると僕にはあまり話したくなかっただけかもしれないけど)、軍隊の話と言えば、主に陸軍のシゴキの話だった。

 

 爺ちゃんが所属していた隊でよく行われていたのは、机をひっくり返してその四つの足に両手と両足を乗せ、バランスをとった上で、背中を棒で叩かれるというもので、落ちてしまうとまたやり直しになるので、必死で耐えたという話を聞いた。なぜ叩かれたのかは、聞いたはずだけどよく覚えていない。でも、若年の兵隊の多くはそのシゴキにあっていて、戦闘もないのに、その怪我からどんどん動けなくなっていったと言っていた。

 軍隊のすごく偉い人が視察に来た時に、怪我人ばかりの状態を見て、シゴキを行っていたことに対する叱責があったそうだ。しかし、それは逆効果だった。なぜなら、その叱責があったという事実が当時の爺ちゃんの上官を激昂させ、お前たちがだらしないせいで怒られたとさらにシゴかれたのだから。

 

 爺ちゃんはその後のシベリア抑留を経て帰国してからは主に農家の仕事をしていたので、組織の中で働いた経験があまりない。唯一の例外は、50歳ぐらいになって婆ちゃんの病気をきっかけに農業を縮小して、生まれて初めて履歴書を書き、警備員の仕事をしていた時期ぐらいだ。

 だから、爺ちゃんにとって組織というもののイメージは陸軍での生活が主だった。なので、僕が就職するときに言ったのは「日本は縦社会だから、上の言うことを聞かなければならないんだぞ…」という話で、爺ちゃんが陸軍で最後に受けた命令は「死んでこい」とう玉砕命令だったよ…という話をし始め、今の世の中はそこまでじゃないと思うよ…と思った。

 玉砕命令後にあった玉音放送のタイミングがもう少し遅かったら、爺ちゃんは死んでたと思うので、昭和天皇、ナイスタイミングだったなと思っています。天さんありがとう。

 

 さて、人がひとりで生きることは非効率的なので、色んな人たちが協力して生きることが多い。協力をする中でも、上手く統率がとれていた方がより効率的で、だから人を組織にとって効率的に動かすための方法が色々考えられているように思う。

 代表的なものは信賞必罰だろう。望ましい行動に利益を与え、望ましくない行動に不利益を与えることで、人が組織にとって望ましい行動をとるように誘導しやすくなる。しかしながら、このやり方にも問題があって、それは、望ましい行動に必ずしも利益を与えることができない場合があるということだ。

 

 例えば会社組織では、望ましい働きをした社員に賞与を与えるとか職位を上げて給料を上げるなどのお金による利益を与えることができるけれど、会社自体の業績が思わしくないときには、いかに良い働きをした社員がいたとしてもお金をあげるための原資が足りなくなることがある。昔の戦争でも、戦争には勝ったものの、勝った相手から大した利益を得ることができなかったために兵士に分配をすることができず、不満が高まったというようなケースを読んだことがある。

 

 そして、そんな風に組織が「信賞」ができるほどの豊かさを持ちえない場合、利益を与えずともできる人を動かす方法、「必罰」に偏ってしまうことがあるんじゃないだろうか。

 

 望ましい行動をとる組織の構成員に利益を与える代わりに、望ましい行動をとらない組織の構成員に不利益を与えることで、同じことを達成しようとする試みについては、皆さんも色んなところで目にする機会があるのではないだろうか?最初に書いた爺ちゃんの陸軍の経験は、まさにそれに該当する。

 「良い行動を褒め悪い行動を叱る」ということは、「良い行動をしないことを叱り悪い行動をしないことを褒める」ことでも達成されそうに思う。しかしながら、褒めるということは行動を促すということ、叱るということは行動を止めさせるという効果があるように思っていて、だとすれば、結果はおそらく同じにはならないのではないだろうか?

 なぜなら、良い行動をしないことを叱ることは、良い行動をしてないように周囲に見える行動を「止める」ことはできても、積極的に良い行動を能動的にすることには繋がらないように思うからだ。悪い行動をしないことを褒めることも同様で、褒めることが行動を促す効果があるのだとすれば、悪い行動を自分がいかにしていないかというアピールをする行動を促して、それを止めさせることとは直接は繋がらないのではないかという危惧がある。

 

 これが本当に一般的に言えることなのかどうかは分からない。でも、僕はこのように考えていて「行動を促すために叱る」みたいなことは、意味がないと思っている。だから、しないようにしている。行動を促したいなら、その人に利益が行くような体制にするべきだと思っているし、それが不十分にしかできない辛い状況でも、少なくとも感謝の気持ちは伝えるようにしなければ、色々とちぐはぐになってしまうんじゃないかと思うからだ。

 

 罰を受けたくないために、皆が「正しいとされている道」を踏み外さないかに怯えながら成り立っている組織は、行動を促す要素がないために、何かが変わることもどんどん停滞して、悪い空気が出ていくこともなく、どんどん息苦しくなっていくように思う。そういうところにいないといけないのが、僕はめちゃくちゃ嫌なわけなんですよ。

 

 停滞してしまう組織には罰による人のコントロールが発生していることが多いように思えて、停滞していることを解消するためにさらに大きな罰を与えようとしてしまうことでいつか破綻してしまうような雰囲気を感じたりする。ただ、その背後にあるものは、分配できるほどの賞の原資が存在しないという貧しさであったりするんじゃないかと思っている。だから、豊かにならなければ根本的には解消しないのではないかという気持ちがある。

 これは誰か悪い奴を倒せば解決するというものじゃなくて、組織自体が利益を生み出すための構造の問題や、その中の様々な流れの澱みを解消するためにひたすら調整し続けるようなことだと思うので、ああ、もう、大変だなと思う。でも、やらないと居心地が悪い状態が続くのでやらないといけないけど、これも罰に駆動されているので、やりたい気持ちは自前で調達しないといけないし、誰か褒めてほしい。

 

 さて、人の行動を組織が束縛する代表的な方法としてまずは「賞罰」を挙げてみたけれど、もっと不可解なものが世の中にはある。それは「身分」だ。

 

 色んな組織に属して生きてきた中で、人が別の人に自分の言うことを聞かせる理由が「身分」にしかないことがある。分かりやすい例で言えば、「年上」も身分のひとつだ。年上を敬うべきという観念は、別に悪いとは思わないし、自分が今生きている社会は、先達のおかげでなりたっているというぼんやりとした感謝はあるけれど、ある人が自分より年上というだけで、その人から何の利益も得られないのに敬うべきか?というところには説明をつけづらいものがある。

 「年上年下関わらず、全ての他人を敬うべきだろう」というのなら全然分かるけれど、年上だからというのはよく分からない。歳をとって体を動かすのがしんどくなってくるのだから手助けをするといいだろうとか、年齢的に最新のものに疎くて困っているから助けてあげるといいだろうとか、そういう自分が今得意なことでそれが不得手な人と助け合うことはいいと思うし、全然やることに抵抗はないけれど、その理由がが「年上だから」となってしまったときに、「なぜ??」とすごく思ってしまうところがある。だって年齢なんてどうでもいいじゃん(個人の価値観です)。

 

 この身分の概念は例えば「お客さんだから」とか「上司だから」とか「あなたのファンだから」とかに置き換えてもいいと思う。

 

 お店とお客さんの場合、商品を介した等価交換の取引だし、どちらが立場が上ということも本来はないと思うんだけど、「店員たるものお客さんが失礼だと感じる態度をとってはならない」とか、「真摯に話を聞かなければならない」とか、自分がお客さんであることを根拠に店員の行動について縛りをかけてくることがある。

 需要と供給の話があるので、もしかすると店側の立場が弱く、お客さんがどれだけ気持ちよく物を買えるかということを追究しなければならないこともあるだろうけれど、それはあくまでも店側がその意志をもってやるかやらないかを決めることで、お客さん側がこうあるべきと強制する話をしてしまうのは説明がつかないのではないかと思う。

 その商品に対して支払う価格に、そういったサービスの料金がちゃんと入っていれば納得できる線もあるけれど、実際はそのための十分なお金は貰っていないことの方が多いと思うので。だから、そこには「店員」と「お客さん」という身分しか存在しなくて、その身分が存在するということを根拠に要求をしているのではないか?と思ってしまう。

 

 「上司だから」でもそうで、あくまで会社とは契約のもとに有限の責任のもとに、労働と報酬を交換していると思うのだけれど、例えば会社の幹部にはめちゃくちゃ恐縮しなければいけないみたいな雰囲気があったりする。出世とか、環境とかを気にして、上に気に入られるためにそういう行動を自発的にとること自体は利益があることだから、全然いいと思うけれど、僕は仕事は都合がいいぶんには続けるし、嫌になったらやめようとしか思っていないので、人間的な部分で言うと、その辺の道で知らないおっさんと接するぐらいの敬意の払い方しかしていない。

 だから、部下に対して払う敬意も、社長に対して払う敬意も同じだけの他人に対する敬意だと思う。新入社員に対しても敬語で話すし。同じ。

 上司という身分に対して支払われている敬意が強い場合、その上司という立場を失ったときには、それまで感じられていた敬意が消えてしまうみたいなことがあるんじゃないかと思う。それだって別に良いとか悪いとかはないけれど、そこに自覚的でなければ、身分があるときには払って貰えていた敬意がいきなり減ってしまうので、びっくりしてしまうこともあるのかもしれない。

 

 「あなたのファンだから」というのは、めちゃくちゃ不思議だなと前から思っていて、人気商売の人たちは、行動にめちゃくちゃ縛りを入れられてしまう。もちろん、ファンの人たちはお金を払ってくれてはいると思うけれど、例えば、漫画家だとして、漫画一冊買ってもらっても百円にも満たない印税しかその人からは貰っていないので、いかに何十冊買って貰えていたとしても、せいぜい数千円程度で、数千円で言うことを聞かせられるとか考えると、めちゃくちゃ割に合わないなと思う。

 いや、何万円貰っても、嫌なときは嫌だろう。私はあなたのファンなのだから、あなたはファンのために、ファンをがっかりさせるような行動をとってはならないというようなことを言われている人をネットで目にすることが結構あって、人気商売は、こういう自由を売ることで成り立っているんじゃないかなと思ってしまう。

 となると、ファンと1対1で接するとしたら途端にその人から貰っているお金と、課せられる縛りのバランスが破綻してしまうよなと思う。そういう意味では、それもまた貧しさなのかもしれない。めちゃくちゃ沢山の人のために縛りを入れるのなら我慢はできるけれど、その規模が縮小すればするほどに、辛い縛りだけが発生してしまい、そこに納得できるだけの利益が発生しないからだ。

 

 例示しようと思えば、まだまだ色々あるけれど、とにかく社会には人間が他の人間に、自分の言うことを聞かせるための方法というのが色々あって、でも、自分が他人に言うことを聞かせられる立場で考えると、なんで、そんなことで言うことを聞かなければならないの??とびっくりしてしまうことがある。

 お爺ちゃんは戦力的に勝てるわけでもないことがもう分かっていた戦争の中で、最終的に爆薬の袋と銃剣だけを持たされて、ひとつでも戦車を潰して来いと言われていて、玉音放送がちょっと遅かったらやるつもりだったとか、やるしかなかったとか言っていたので、マジやべえなと思うし、でも嫌だなと思って逃げられる状況でもなかったことだけは伝わった。

 

 人の心は自由であって欲しいと思うけれど、何らかの意味で何かに服従しなければ、何かの組織に属するのは難しいのだろうなと思うところがある。そして、ひとりで生きられるほどの強さも持ち合わせてはいないんだ。

 社会で生きる以上、他人の言うことを聞くのはある程度仕方ない。でも、本当にそれに従うほどの理由ってある??と思ってみた方がいいんじゃないかと思うし、そうは思っても、そうは思ってもさ…従わざるを得ないこともあるよね…と寂しそうな顔で僕はつぶやいたのであった。