同人活動、やり始めて2年半ぐらい経ったんですが、僕のイベント参加の収支の話をすると、売れた本の収益で、印刷費とイベント参加費がざっくり回収できているみたいな感じです。
僕は70冊ぐらい本を刷っているんですけど、早く入稿しての割引を使ったりすると、ページ数にもよりますが2万円強ぐらいで印刷できます。そんでもって、1回のイベントで売れる冊数もだいたい70冊(新刊既刊合わせて)で1冊400円の値付けなので、2万8000円の収益という感じです。印刷費とイベント参加費が賄えましたね。会場への電車賃もですかね。よかったですね。
こぢんまりとした同人活動としてはこのような規模でやっています。
本1冊をなんで400円にしたかというと、そもそも想定しているぐらいの冊数(全体の7~8割)が売れれば印刷費が回収できるぐらいというような気持ちがあって、それ以上のことではありません。なお、2/17(日)のコミティアで出す本では、ページ数が思ったより増えてしまったのと、色々忙しくて早期入稿の割引を逃したので1冊500円になります。なぜなら、1冊の原価が400円を超えてしまったから。
同人活動、趣味でやるにしては、かかってる費用が一部でも回収できるのって不思議な感じだなあと思っていて、普通は趣味なんてお金が出ていく一方じゃないですか。その辺が不思議な立ち位置だなと思ってしまいます。僕はとにかく家に置く本の在庫が増えていかないでほしいという気持ちがあって、なので、前回売れた数ぐらいを刷るのはそういう理由なんですよ。そこから、必要な費用が決まり、それに合わせて価格が決定されます。一応理屈があります。
とはいえ1冊400円ですよ。これって商業流通している少年誌の漫画に近い金額じゃないですか。単純に数字だけ比較するとおかしな話ではあるんですよね。僕が趣味で描いているようなものより、クオリティが段違いに高く、ページ数も多い商業漫画と、近い金額を払ってもらっているわけです。損得勘定を客観的なレベルから見たら僕の本を買うのはきっと損でしょう?商業の漫画を買った方がきっと得ですよ。
でも、僕の本を買ってくれる人がいるということは、そういう感じの単純な損得勘定じゃない感じがしていいんですよね。それはきっと、ひとりひとりの主観の話です。個別の人と人との間にある話ですよ。
同人活動、お金は全く儲からなくていいんですけど(赤字でもいい)、じゃあゼロ円で配布するか?というと、それは絶対になくて、なぜなら「無料なら貰ってやるか」みたいな感じの人に読まれるって嫌じゃないですか?少なくとも僕は嫌ですね。自分が一生懸命描いたものを別に興味も持ってなかった人に粗雑に扱われる可能性は避けたいと思ってしまいます(そもそも無料だからと持って行って貰えると思うのも傲慢かもしれない)。だから、お金を出してでも読みたいって思ってくれた人が買ってくれるといいなって思ってしまうわけです。
このように同人誌に主観的に見て価値を感じるかって話、結構重要な感じがしています。本を欲しいと思ったなら、数百円は大したお金じゃないので出ると思うんですけど、一方、そもそも欲しいと思わなければお金は出ないじゃないですか。欲しいと思わないのは、その本に価値を感じていないということです。価値を感じていなければ、中身が虚ろで、表面に金額が書いてあるだけのものになってしまいます。
190円って書かれているものと、160円って書かれているものがあって、どっちを買いますか?って聞かれても分からないですよね?なぜならそれの中身が何か分からないからです。どっちかを買わないといけないというなら安い方を選ぶかもしれません。でも、190円が目的地までの電車の切符で、160円がコーラのペットボトルだったらでどうですか?
電車に乗る権利がなくて、コーラを渡されて歩いて移動する羽目になるのはしんどいわけですよ。なら、190円の方をとるわけじゃないですか。その中身が自分にとってどういう役割を果たすものであるかということは、金額以前に存在していなければ、そこについている金額の意味を上手く評価することもできません。
今日、ネットで同人誌の値段をどのようにすべきかというような話が話題になっていて、そこについている色んな意見を流し見たんですけど、作った人が好きな値段をつければいいし、それを買う人がいるのだから、それで成立しているのでは?それでいいのでは?というような話が主流になっている感じがしました。僕自身もそう思うわけですけど、ちょっと立ち止まってしまったのは、これが同人誌じゃなく、聞いたこともない宗教の売っているありがたい壺だったらどう思うかって話なんですよね。
例えば、その宗教にハマった身内が大金をそれに払おうとしているとき、壺を作った人たちは好きな値段をつけていいし、それを買う人がいるのだから成立しているって同じように言えるか?という問題があります。外野がごちゃごちゃ言うことではないということは、同人誌のときには納得してしまったかもしれませんが、こっちの方でも言えますか?
もっと直接的に言えば、「そんな価値のないものに、お金を払うのは騙されている」と思ったりしてしまったりはしませんか?
それはつまり、同人誌そのものに興味がなかったり、悪感情を持っている人たちによる同人誌への目線とも重なるはずです。同人誌を買いたいと思うひとからすれば、意味があり価値があるお金を払うという行動が、そこに何の意味も見いだしていない人からすれば、馬鹿げた行為に見えてしまうかもしれません。
そんな薄い上に素人が描いた本を買うより、何十万部も売れている本を買った方がずっと得じゃないかと思ったり、そもそも無料で楽しめる娯楽が溢れているときにお金を払うことそのものが馬鹿げていると思ってしまうかもしれません。
そのように思う気持ちと同じ種類のものは、きっと自分にもあるんですよ。自分がその対象に価値を感じているか感じていないかによって、調子よく使い分けているだけではないか?とも思うわけです。
家族が趣味で集めている大切なものを捨てたり売ってしまったという話には、同情が集まったりします。しかし、その集めている対象が自分が全く価値を感じていないもの、例えばゴミ捨て場で拾ってきたガラクタだった場合でも、その家族が価値を感じていたなら、その事実を尊重してあげられるでしょうか?
これはすごく難しい話だと思っています。難しいというのはひとつの考え方で一刀両断できるものではないということです。相手がそれに感じている価値を尊重してあげられることは素晴らしいことかもしれません。しかし同時に、自分の目からすればどう見ても明らかなゴミが生活領域を侵していくとき、自分はその不快を我慢しなければならなくなったりします。
不快に思ったことを盾に何かを要求することは嫌がられるかもしれませんが、じゃあ、不快に思ったままで自分が我慢し続けるのが正しいのか?という疑問も同時にあって、価値観の違う人が近くにいる以上は、その共有部分において、何をどれだけ認めて、どれを認めないかを、お互いに譲る部分と譲らない部分を話し合って納得できる形に収める必要があるはずです。
自分の価値観だけを尊重して、相手の価値観を全部突っぱねるというのは、気持ちいい部分もあるかもしれませんが、それはやっぱり不平等です。自分の価値観を大事にするあまりに、他人の価値観をないがしろにしているからです。互いの歩み寄りのない場所では、相手の居場所をなくすことが最も効率がよいことになってしまいます。それはやっぱり辛い話だと思うんですよね。
世の中には人それぞれに様々な目線があって、人が何かに感じる価値は、その目線に従って人それぞれに違うものではないかと思います。でも、つけられる値段って基本的にひとつじゃないですか。なので、自分の中に感じている価値と、実際についている値段のギャップで、高いとか安いとかは絶対発生しちゃうんだと思うんですよね。
自分が自分の本に理由を持ってつけた値段について、他人の目線から高いとか安いとか言われたとして、その人の価値観ではそうなんだなあ、ギャップがあるんだなあと思うだけな感じなんですけど、そういう齟齬って無数に存在していて、周りに目を向けてみれば、皆それぞれの中では納得ずくで、他人から見たら以上に見えるお金の使い方をしてたりするんじゃないかと思います。
それを一刀両断に正しいとか間違っているということは本当にできるのかな?というのはすごく思っていて、僕は自分が好きな本なら高くても買ってしまう一方で、身内が壺を買おうとしていたら、いや、より具体的な体験ベースで言うと、母方の祖父が庭に置くのにちょうどいいと思った石をよく分からない業者から50万円で買っていたことには、やっぱり少々の疑問というか、高過ぎでは?と思ってしまった経験もあって、でも、結局爺ちゃんが自分の貯金で買いたいのだから、これはもう仕方ないと思ったみたいなのがあるわけです。
でもここ、自分の中でまだ全然綺麗に整理ついていないんですよね。お金のやり取りって難しいですね。
今後も考えていきましょうね。