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黒田硫黄の絵のすごさ関連

 黒田硫黄の絵がめちゃくちゃ好きで(もちろん漫画としても好きです)、真似をしたいと常々思っていますが、上手く真似をできないという状況です。そのすごさを説明するための切り口は色々あると思うんですけど、その中で僕が好きなものの一つはベタの使い方です。ベタの使い方により、光と影を明確に描くところです。

 

 人間は反射した光を目で見て、その物体を認識しています。人間の目はその中でも明度の違いに敏感にできているそうで、例えば上手くない写真のコラージュや、昔の映画などにおける上手くない合成映像に見て取れる違和感は、合成されるもの同士の光の当たり方が異なるところにあったりします。なので、上手く合成するためには、最初から光の情報を合わせたり、追加で足したりするようなことをします。人間はそのように、どのように光が当たっているかに敏感に物を見ていて、それにより、物体の形状や距離感を仔細に判断しているように思います。

 一方、それを逆手にとることで簡単に騙されてしまったりします。例えばトリックアートなんかがそうですね。絵に平面で描かれたものが、まるで立体物であるかのように見えたりしてしまうとき、絵筆で描かれた影の描写が重要な部分を担っています。トリックアートには、現場で見るよりも写真で見る方がより騙されやすいでしょう。なぜなら、現場で見るなら視点を変更してその変化を見ることができますが、写真の場合は視点が固定されてしまうので、視点の差から追加情報を読み取ることができないからです。

 つまり、人間の目は物体への光の当たり方を見ることで多大な情報を読み取っていますが、一方、それを利用すれば、平面でしかないものに立体であるかのような情報を付与することができるのです。

 

 この応用は絵を描く上で非常に重要なテクニックのひとつです。

 

 僕が好きなデイリーポータルZでやっていた実験があります。それは、座禅を組んだ人の前に黒くて丸い布を置くと、それを影と誤認して、人が浮いているように見えるというものです。

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 絵を描くときもこれと同じ原理のことをするわけです。物の形を線として正確に捉えることができなくとも、その物体が存在する場合に、当然生じるはずの影をしっかり描きさえすれば、簡便に立体感を演出することができます。紙面という平面の中に立体を取り込むためには、影の描写が重要な意味を持つというわけです。

 

 黒田硫黄の絵は、その影の置き方が全くもってすごい。

 

 線とベタだけでスクリーントーンを貼らず、白黒ぱっきり分かれた絵でも、置くべき場所に黒ベタを置くことで空間に存在する数々の物体を位置が分かるように描くことができます。仮に同じ風景が実在したとしたら、その写真と同等の立体物としての情報量を、筆の線とベタだけのより少ない情報だけの絵で再現してしまうというすごさがここにあります。そこにはどれだけの情報を間引いても、空間の中にある物体を把握する上では十分な情報を残し続けられるかというテクニックであり、その情報を残しさえすれば、定規を使わず筆で引いた揺らぎのある線でも空間把握をする上で問題がなくなります。むしろ、直線に囚われすぎない自由な表現が可能になるとも言えるでしょう。

 つまり、黒田硫黄の絵は、光の表現が白黒の使い分けで非常に現実的であり、そうであるがゆえにむしろ線の在り方を解放できることによって、現実以上の自由な描写が可能になっているということです。これは、言葉にすれば簡単にですが、なかなかできないことというか、僕には全くできていません。

 

 この点において共通する部分がある絵として、僕は生賴範義の絵があるのではないかと思っています。先日、生賴範義展で原画をまじまじと見て来ましたが、あんなに精緻な描き込みがされていると思っていた絵が、間近で見ると意外と筆が太く、細かく描き重ねているわけではないことが分かりました。しかし、それでいて情報量は十分に大きいわけですよ。例えるなら、レンズによりボケた絵です。対象にピントを合わさずボケた絵は、物体の詳細に関する情報が失われてしまいますが、そのぼんやりとした先に、精緻なものがあったはずということを読み取ることができます。生賴範義の絵もそのように思っていて、この筆は太く大きく雑然と置かれたように見えて、その先に情報があることを十分に想像することができます。それはないのではなく、たまたまピントが合っていないだけであるのです。描かずして描いているのです。

 つまりそれは、絵単体ではなく、見る人間の想像力とのコラボレーションにより、ないはずの情報を読み取れるような形で描かれているということです。あるべきところに大胆に置かれた筆が、ないはずのものを生み出し、それを見る者の頭の中で展開されて大きな情報として受け止められます。これは、最初から精緻に描かれたものを見る場合と、同じ作用でありつつも、中間にある情報自体は少ないため、ものすごく直接的に脳に来る感じがします。いやもう、ほんと良かったんですよ。生賴範義展。

 

 さて、黒田硫黄の絵の話に戻りますが、そういった現実から間引かれた情報量でありながら、見る者にとっては現実と同等の情報量を持ち、さらに絵であることの自由さをも持っていることに憧れるわけですよ。ざっくりと描いているようでそこに空間があることがありありと読み取れるわけですよ。その方法は、黒くあるところを黒く描き、白くあるところを白く描くというだけです。なんと素晴らしい。どこを黒く描き、どこを白く描くべきかが正解です。それを正しく選ぶことが、普通はできないわけです。それがとても良く感じます。

 

 黒田硫黄の漫画で特にこのすごさが見て取れるのは逆光の表現です。僕なんかはそういうのを描くのが恐ろしいわけですよ。例えば、人間の顔を逆光の影で黒く描くのが怖いです。なぜならば、顔の部品について描き込めるならば盛り込むことができる情報量を、逆光で黒く塗りつぶしてしまう場合には失ってしまうからです。

 黒田硫黄の漫画では、それをいともたやすくやってのける。なぜならば、その場面のその光源ではその顔の絵は黒くあるべきだからでしょう。僕には分かっていてもなかなかできないわけですよ。憧れるわけですよ。筆を何度も重ねることでようやく成り立っている絵を、塗りつぶしたとして同じものをできるようになりたいわけですよ。

 

 これに加えて構図や時間の切り取り方もすごいですからね。複数の要素を同じ枠の中に収める大胆な構図をこともなげに選択し、その中で前と後の両方を想像できる必要な1フレームを切り取って見せてくれます。この辺りにあるのは、おそらく必要に応じた正しい選択を都度都度するということで、これも当たり前のように見えてそれを適切に選択するのは難しい。

 なぜならば、例えば僕なら、その拙さゆえに最適な選択ではなく、手元にある選びやすい選択をしてしまうからです。自分に安心して描ける絵というものは、あらゆる絵の可能性からすると、その中の非常に限定的なものでしかなく、安心して描くならその組み合わせだけで全てを再現しなければなりません。つまり、狭くて縛られているんですよ。そこをやるべきことをするために、広くて自由な選択を行うことができているのが黒田硫黄の漫画ということです。

 

 このようにとにかく黒田硫黄の絵はすごい。僕はそれを言いたいわけです。