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「悪魔を憐れむ歌」が売れてほしい話

 梶本レイカの「悪魔を憐れむ歌」の第1巻が発売になりました。僕はこの漫画にすごく売れてほしいと思っているので、普段は漫画について自分の中で内向きの感想文しか書いていませんが、珍しく外向きの紹介文として書こうという気持ちでいます。

 

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 「悪魔を憐れむ歌」は「箱折事件」という、人間の関節という関節が逆向きに折り畳まれ、箱に綺麗に仕舞えるような四角い形にして殺されるという奇っ怪な事件を巡る物語です。

 主人公は事件を追う北海道警察の阿久津、そして、この事件の犯人である医者の四鐘でもあるかもしれません。阿久津は事件を解明しようとする過程で、協力者として四鐘と出会います。阿久津は四鐘が事件の犯人であることをまだ知りません。

 

 さて、まだまだ物語は序盤なので、様々な分からないことが存在します。果たして、四鐘の目的は何なのか?なぜ人間を箱のように折り畳んで殺し続けているのか?殺人モードになった四鐘が口にする言葉は意味ありげで、格好良く、そしてまだまだ上手く意味をとることができません。しかしそれはまだ分からないというだけで沢山の意味を含んだ言葉であるということは感じられます。それらの言葉の意味を上手く分かりたいと思う心が、僕をこの物語に惹きつけています。

 今確かなのは、四鐘が何らかの目的を持って箱折死体を「オペラ(作品)」として作り上げているということ。彼の左手には聖痕のような傷跡があるということ、そして、彼の本名は四鐘ではなく(その身分はおそらく本物の四鐘先生から奪ったもの)、別の名の何処かからきた何かだろうということです。

 

 そんな謎めいた四鐘先生は、阿久津に密かに「私がお前のメフィストーフェレ」と呼びかけます。四鐘が阿久津にとっての悪魔メフィストーフェレならば、阿久津はファウストなのでしょうか?ファウストは、ため込んだ知識を無意味と断じ、再び若い肉体を得ることで、何かを掴もうとした悲しい男です。メフィストーフェレは、契約の代償として、そんなファウストの魂を欲します。

 阿久津もファウストのように何か欠落を抱えているのでしょうか?四鐘は、そんな阿久津に力を貸し、何を成し遂げようとしているのでしょうか?

 

 四鐘はまた、阿久津にギガス写本についても語ります。ギガス写本は狭い部屋に閉じ込められた僧侶が、悪魔と契約して一晩で書き上げたという伝説のある聖書の写本です(ただし、作中では神の御使いとの契約と表現されていました)。神の言葉を記したその聖書には、悪魔の姿もまた記されています。つまり、その存在は聖なるものであり、なおかつ邪悪なものであると言えるかもしれません。

 では、箱折られた犠牲者たちは、閉じ込められた僧侶へのなぞらえでしょうか?四鐘は自身を箱折刑(インクルーサス)と表現します。であるならば、四鐘が犠牲者を箱折る行為は、その過程で神の御使い、あるいは悪魔を呼び出すための行為と考えることができます。箱折事件によって四鐘の前に現れることとなった阿久津は、神の御使いなのでしょうか?あるいはその名にかかる通り、彼もまた悪魔なのでしょうか。

 まだまだ分からないことだらけです。

 

 僕は今のところ、この物語を「正義と悪」を巡るものではないかと思っています(作中にそういう語りがあるので)。では、正義とは何で、悪とは何なのか?もし、正義の存在を証明するために、打ち倒されるべき悪が必要とされるならば、つまりその主体は実は悪の側にあり、正義こそが最も悪に依存する概念であると言えます。

 阿久津と四鐘、どちらが正義でどちらが悪なのか、あるいは、どちらもその両方を兼ね備えている存在なのか。それはこの先のお楽しみです。ともあれ、おそらく、四鐘は箱折事件を起こさなければならなかったし、それを阿久津に追われなければならなかったのだと思っています。なぜならば、それこそがこの物語に、正義と悪の相補な二元を生み出す行為だからです。

 

 今現在、世の中には正義が溢れています。

 

 そしてそれらの正義の中には、悪を糾弾するという方法で主張されているものも多くあります。思い出してみてください。自分の正しさが、自分自身の存在のみで主張し証明されるのではなく、自分とは異なる側に「打ち倒されるべき悪」を見出し、それを批判する形で表現されている光景を目にしないでしょうか?

 そこある正義は果たして本当に正義と呼べるものでしょうか?例えば、他人をバカだと指摘する人は賢い人でしょうか?他人をセンスがないと罵倒する人はセンスがよい人でしょうか?あるいは、他人を愛がないと否定する人は愛溢れる人でしょうか?

 間違っている人を糾弾している人が、また別の意味で間違っている人ではないということを、我々は何をもって確認することができるのでしょうか?

 正義とは実在するものなのでしょうか?

 

 この物語の中には間違いなく悪があります。悪によって人が傷つき、蹂躙され、恐怖で満ちた惨劇が繰り広げられます。それらの全てを吸い込むような悪なる黒は、もしかすると正義なる白をくっきりと浮かび上がらせるために存在しているのかもしれません。

 そして、その黒の存在がなければ、その白は実は大した白ではなく、濁ったグレーであるかもしれないのです。悪なる漆黒はここにあります。では、本当の正義なる純白はどこにあるのでしょう?

 

 同作者による、正常の異常の境を描いた「コオリオニ」や、願いと犠牲の天秤を否定しようとした「高3限定」のように、この物語もまた、お話を通じて何かを描こうとしているように思えます。それが何か、僕にはまだ想像することしかできません。しかしながら、だからこそ、この結末を見届けたいという気持ちが強くあります。

 

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