漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

たくさんの漫画が知られる前に終わる

 1巻が100万部売れた漫画は、日本人の99%以上が買わなかった漫画であるとも言える。しかしながら、ほとんどの漫画は100万部も売れないし、10万部売れるのも大変な話だ。単価の安い漫画の場合、1万部ぐらいは売れないことには商売にしにくいと聞くけれど、それでも実売が数千部ぐらいにとどまってしまう漫画も沢山ある。そして、そのような漫画は商売にならないから打ち切られてしまう。だけど、それらの漫画が面白くないわけでは決してないと思う。なぜなら、それらの打ち切られてしまった漫画の中に、僕が夢中になって読んでいた漫画も沢山あったからだ。

 

 僕が生まれ育った徳島県の人口は、僕が住んでいた当時80万人ぐらいで、徳島市となると27万人ぐらいだったと思う。日本の人口を1億2千万人とすると、徳島市にはその0.225%ぐらいの人間が住んでいて、もし8000部の漫画があったときに、人口で均等に分かれて売れるとするならば、徳島市では18部売れるという計算になる。僕はそのような漫画を買うために、徳島市内を本屋を巡り、時には市外まで足を伸ばし走り回った。その少ない冊数がどの本屋に入荷されるか分からないからだ。そのうちの1冊を僕が買い、僕が友達に薦めて何冊か買わせていたので、つまりは、8000部ぐらい売れる漫画の、徳島市における需要の4分の1ぐらいは僕が窓口になっていたというすんぽうだ(もちろんこれは適当な想定であり、事実の話をしているわけではない)。

 それぐらいの規模でしか売れない漫画を買うということは、それぐらい狭い話なんじゃないかという話です。

 

 市内で18人しか買ってない漫画だとすると、当時の僕が自由になるお金でなんとか行けた一杯100円のうどん屋の店主も、幼少期からの馴染であるためタダで食わしてくれることもあったお好み焼き屋おばちゃんたちも、友達の親がやっているので裏口から入ればただでもらえたパン屋も焼き鳥屋も、話し相手になってくれた図書館の司書さんも、ゲーセンで会うと遊ぶ金のない僕に200円恵んでくれた違う学校の女の子も、たまに会うとファミレスでご飯を食わしてくれた塗装工の兄ちゃんも、地元で当時世話になっていたあらゆる人々のほとんどが、それらの漫画を買ってはいなかっただろうという事実が浮かび上がってくる(僕がタダ飯食わしてくれる人を慕っていたという事実も浮かび上がってくる)。

 

 彼ら彼女らは、そのような漫画を買わなかったし、そもそも存在も知らなかっただろう。だから買う理由がないし、買う理由がないものを買う人はいないだろうから、それが当たり前だ。それが普通だとすると、じゃあなぜ僕には買う理由があったんだろうか?それは漫画雑誌を読んでいたからです。

 

 漫画雑誌を読む中で、目当てであった好きな漫画とは別に、新しく始まった漫画も読むことになる。そして、その漫画を好きになって買うようになる。そのサイクルがずっと続いている。だから、僕には漫画を買う理由があるし、そうでない人にはないのだろうと思う。ただ、僕が薦めた数人の人には買う理由があって、それは僕が薦めたからだと思う。もし、彼ら彼女らがさらに別の人に薦めれば、買う人はどんどん増えていくはずだ。これを知る人ぞ知る専門用語で「口コミ」といいます。

 

 インターネットの普及によって口コミはよりしやすい環境になった。誰かが何かの漫画を面白いと発言し、それが人を伝わって広がっていく。漫画雑誌に載っている漫画を全部読まなくても、その中から面白いとよく言われているものだけをピックアップして知ることもできるようになる。面白い漫画を特集した本や、面白い漫画に与えられる賞もある。面白いものだけを読みたい人というのは、裏返せば、面白くないものを読みたくない人だと思う。そういう人は、自分が選んだ漫画が面白くないと嫌な気持ちになるようなので、面白い漫画だけに辿り着ける方法を選ぶのだろう。つまりは、漫画雑誌離れである。

 

 僕が感じているところでは、商業出版されている漫画のほとんどは面白い漫画だ。ちゃんと読みさえすれば大体面白いと思う。だけど、多くの人はちゃんと読まないんじゃないかと思う。漫画の作り方でも、じっくり読まないと良さが分からないものより、引きが強くて初見でもぐいぐい引っ張り込まれるものみたいなのが推奨されがちだ。最後まで読んで、ようやく全てのよさが理解できるものよりも、第一話の最初の時点でのとっかかりが求められる。それは分かるけど、そればっかりになるとなんだか広い世界が狭い部屋に押し込められているような気持ちになる。

 そういうお話の作り方は、新人よりもベテランの漫画家さんなら許されるかもしれない。過去作のファンの人たちが、新作でも先を期待して待ってくれるかもしれないからだ。ただし、そういう漫画は、連載作の中ではあまり人気が出ないことも多い。それは単純な数の問題で、これまでの話をじっくり読んでいないと分からないようなお話や、あるいは、これから先に起こるだろうことを前借して期待して読むようなお話は、それをじっくり読み、最終的に収穫されるまで待ってくれる人が絶対数として少なくなってしまうという弱点がある。

 このような漫画は口コミも発生しづらい。例えば5巻からぐいぐい面白くなってくる漫画は、1巻からぐいぐい面白い漫画よりも、面白いと感じるまでにかかる冊数が多いから薦めづらい(1巻だけ読んだ時点で「あんまり面白くなかったので続きはもういい」などと言われると、薦めた側が精神的にダメージを受けるからです)。

 

 ともあれ、このようにして、漫画雑誌を読む人が減っていると思う。そもそも本屋は減っているし、月刊誌なんかは紙で買うのは一苦労だ(電子版で買えることも増えたけれど)。そして、買ったり立ち読みしたりしたとしても、隅から隅まで読む人も少ないかもしれない。偏見ですが、楽しみにしている何作かだけを読んで、残りは読み飛ばしたりしてるんじゃないだろうか?

 みんな忙しいんだと思う。働いたり勉強したりするのにも忙しいかもしれないけれど、山ほど存在する他の様々な娯楽を体験することに忙しそうだ。そして、インターネットに存在する色んなコミュニティの中で、自分の存在価値を高めるように行動している人も多いようにも思う。

 つまり、何かを面白いと言ったり、何かを面白くないと言ったりすることが、彼ら彼女らの属するコミュニティ内における立場に何らか作用するものとしての力を持っているように見える。そうであれば言及対象は、みんなの注目を集めているものの方が効率的で、そうであることがまた口コミとして相乗効果で作用しているんじゃないだろうか。

 注目されるものは注目されるがゆえにより注目され、そうでないものは人の目にもろくに触れやしない。

 

 僕はずっとひとりで漫画雑誌を読んでいるし、インターネットでもめったに他人と交流していない。ただ、他人に薦めたい気持ちも実はあまりない。人目に触れずなくなってしまう漫画があるのは寂しいけれど、読者が少ないものは続けられないし、それが自然な流れだと思うので、その自然には抗わないようにしていることが大半だ。

 それはきっと、頑張って抗っても無くなってしまったり、どうにか繋がっても抗いをやめたら無くなってしまうことを想像したら、悲しいからじゃないかなと思う。頑張るより前に諦めちゃっているので、もうちょっと抗えよと思うような気持ちもないではないけれど、その気持ちは、継続的に行動するほどには強くない。なんせほら、それが終わってもまた新しい漫画が始まったりして、それも面白かったりするから。

 

 たくさんの漫画が終わります。それは、たくさんの人に十分知られて、面白いとか面白くないとかそれぞれに判断される前に終わります。

 

 しょうがねえよなあという気持ちがずっとありますが、それでも、終わったはずの漫画が、筆を折ったはずの漫画家が、熱心なファンの人の支えによってその続きが生まれたりすることもあって、それに感じ入ることがあって、ああ良かった…ああ素晴らしいと思いつつ、そこには自分は何も貢献しておらず、ただ、その人たちの頑張りの果実をむさぼるだけだなあと思い、ありがてえありがてえと思ったりしています。