漫画皇国

Yes!!漫画皇国!!!

伝統的な漫画表現技法というものについて

 「伝統」という言葉は使い方が難しく、例えば明治時代以後に慣習となったような行事に伝統という言葉を用いてしまうと、「近代以後に作られたものを伝統と呼ぶなどけしからん」と物言いをつける人がいるそうです。ある慣習が100年以上続いていても伝統と呼ぶのが難しいのであれば、200年なら伝統なのでしょうか?それとも1000年は必要なのでしょうか?その辺の塩梅は判断する人によって異なるかもしれませんが、何を満たせば伝統であるかについての一般的な合意はないと考えられるため、気軽に伝統という言葉を使ってしまうと、それが伝統であるか否かの認識齟齬について面倒なことになる可能性があります。

 

 さて、僕個人の考えとしては、伝統かどうかを判断する基準は年数ではなく代替わりの回数だと思っていて、最低三代は続かなければ伝統とは呼びにくいと思っています。三代続くということがどういうことかというと、それが次代に継承された実績があることで、その仕組みが確立されている可能性が高いということです。一代限りで終わってしまったことは伝統とは呼ばないでしょうし、弟子に引き継がれたとしても、孫弟子には引き継がれずに消えてしまったものも伝統とは呼びにくいでしょう。三代続いたものは「自分が始めたことでないものを引き継いだ人が、それを次の世代に引き継げた」という事実を示します。であるならば、四代目以後も続いていく可能性が高いと考えられます。

 つまり、数学的帰納法のようなもので、始まりがあり、N番目が成り立つ場合にN+1番目も成り立つことが保証されているならば、それが無限に続いていく様子を想像することができます。このように、媒介となる人間を次々に変えながら、無限に伝播していける可能性が想起されることであるならば、それを伝統と呼ぶための最低限の条件を満たしているのではないかと僕は考えています。

 さらにもう一つ条件を付け加えるなら、今も続いているということです。既になくなってしまったものを、現在も伝統と呼び続けることはあまり考えられないからです。

 

 さて、伝統というものをこのように捉えた場合、漫画の中に伝統はあるでしょうか?漫画家にもアシスタントという徒弟制度に似た仕組みがあるため、技術の直接的な継承関係にある場合が多いと考えられます。ただ、最近は諸事情によりそうではないケースも多いかもしれませんが。

 ともあれ、漫画は主として記号的な絵を用いて構成されるため、時代的な流行り廃りの存在する中での模倣の文化と捉えることができます。様々な人が新しい表現を考案しては、それを他の人が模倣して作品に取り込んでいきます。その中には長年受け継がれて続いているものもあれば、一時の流行りとして消えてしまうものもあるでしょう。

 

 例えば、福本伸行の漫画には、想像上の出来事を具体的に絵として描くとき、コマの枠線を点線で描くという表現が使われています。これは漫画内での事実と空想を区別するための分かりやすい方法ですが、少なくとも僕が目にしていた90年代以降ではあまり使われない技法です。しかし、例えば前田治郎の「博打流雲ナグモ」には同様の表現が登場します。前田治郎福本伸行のアシスタントをしていたそうなので、これは師匠から弟子に一代受け継がれた表現技法であると捉えることができます。しかしながら、この表現は前田治郎以後の漫画家に受け継がれている様子が僕には確認できておらず、そもそもの福本伸行が最近は使わなくなってきているように思うので、伝統とはならなかった表現と考えることができます。

 

 一方、奥浩哉の「変」は、男性の肉体が奇病によって女性化していく過程をリアリティをもって描いた漫画ですが、この作中に胸が揺れる様子を乳首の残像によって表現するという技法が登場します。この表現技本については「GANTZ」の後書きにおいて、奥浩哉自身が自分が考案したものであり、後に多数の模倣が生まれたという話が記載されています。

 この表現技法は今も残っており、そして、その全てが奥浩哉の「変」を読んだことをきっかけに模倣したとは思い難い状況です。おそらくは孫引き、曾孫引きとなった表現であり、もはや最初の考案者が誰であったかは意識されていないのではないでしょうか?(あるいは、独自に同じ表現に辿り着いた人もいるのかもしれませんが)

 現在も存在しており、次世代に継承されているという条件を満たしていることから、「乳首の残像で動きを表現する技法」は、僕の定義において、日本の漫画における伝統的表現と呼べると考えられます。

 

 例を挙げれば枚挙に暇がありません。大友克洋の漫画における物の壊れ方や、動きを表現する為の時間の切り取り方の技法、鳥山明の描くアクションや放出される気のエネルギーの表現、あるいは井上雄彦の描く顔(特に鼻)のデフォルメ表現は無数のフォロワーを生み出していて、それは既に孫引き以後の段階に至っているために、伝統的漫画表現と呼べるものと成りつつあるのではないでしょうか?手塚治虫に至っては沢山あり過ぎて把握もできないかもしれません。

 その一方、場の緊迫感が「ゴゴゴゴゴ」と擬音で表現する技法は伝統というよりは荒木飛呂彦のものという印象が強く、他の漫画で使われる場合はそのパロディと認識されます(冨樫義博のズズズは、その影響下にありつつも少し違う気もしますが)。

 ただし、時間の経過にしたがって、今はまだ伝統となっていないものでも、それらの直接的な元ネタに関係なく表現のみが受け継がれて行くという段階変化していくかもしれません。昨今「イタコ漫画家」と呼ばれている、特定の漫画家の絵柄の模倣が行われているのはその過渡期だけの特殊な現象なのではないでしょうか?

 

 新しい漫画表現は今も多数生まれています。その中には、継承され続けて生き残り伝統となるもの、一時の流行りとして消えてなくなってしまうもの、誰にも継承されないままの唯一無二のものなど様々なものがあります。面白いのは、青木雄二の絵のように個性の塊のようなものが、そのアシスタントの系譜によって、多数の模倣と継承が行われているということでしょう。その表現の一般性が強く利用しやすいために継承されていくとは限らないということです。不思議ですね。

 最後に、僕が好きな「決して伝統にならないだろう唯一無二の表現」を紹介しますが、トニーたけざきの「岸和田博士の科学的愛情」11巻102ページにある「陰毛バブル」です。これはお風呂に入ったときなどに、陰毛に細かな気泡がついてしまう様子の絵ですが、漫画の中でこれが表現されているのを僕はこの1コマしか知りません(もしかしたらエロマンガを探せばあるのかもしれませんが)。この表現はおもしろいだけで、特に役に立つわけではないので今後も模倣者が出てこないのではないでしょうか?なぜなら、おもしろさの模倣はパクりと呼ばれてしまいがちだからです。

 ということで、陰毛バブルは恥じだが役にも立たない(でもおもしろい)、と特に上手くもないことを書いて終わりにします。